精神元素「イ」の言霊と古事記。その1 。
古事記神代の巻冒頭百神によって与えられた「イ」の神名・
妹須比智邇(いもすひぢに)の神。 言霊イ
・神名の解。
須比智邇とは「須(すべからく)智に比ぶるに邇(ちか)かるべし」
・神名全体の意味。
一度決意して身を捨てて飛び込んだ後(言霊チ)は、その身を捨てた無我の境地が持続し(言霊イ)、その人の人格とは日頃の練習の智恵そのものとなって働く(須(すべからく)智に比ぶるに邇(ちか)かるべし)、と言った意味を持つでありましょう。
・言霊「イ」の意味。
霊イの父韻は、瞬間的に身を捨て全身全霊で事に当ろうと飛び込んだ後は、その無我の気持の持続となり、その無我の中に自らの日頃培った智恵・力量が自然に発揮されます。
「父韻チの瞬間力動がそのまま持続して行く力動韻」
❷言霊イ。妹須比智邇(いもすひぢに)の神。
言霊イ。上の言霊イは母音のイではなく、ヤの行のイであります。
活動のエネルギーとなるのがイの父韻
須比智邇の神の頭に妹(いも)が付きますので、この父韻は宇比地邇の神と陰陽、作用・反作用の関係にあります。この父韻イのイはアイウエオのイではなく、ヤイユエヨのイであります。神名須比智邇は須(すべから)らく智に比べ邇(ちか)し、と読めます。宇比地邇同様漢字を読んだだけでは意味は分かりません。そこで宇比地邇の神の物語を例にとりましょう。
若い社員は、あれこれと考え、心配するのを止め、先入観をなくし、全霊をぶつけて行く事で活路をみつけようとしました。そして御得意の会社に白紙となって出て行きました。「自分はこれだけの人間なんですよ」と観念し、運良く相手の会社の社員の中に溶け込んで行く事が出来たのです。一度溶け込んでしまえば、後は何が必要となるでしょう。それは売り込むための物についての知識、またその知識をどの様に相手に伝えるかの智恵です。
こう考えますと、神名の漢字の意味が理解に近づいて来ます。須比智邇とは「すべからく智に比べて近(ち)かるべし」と読めます。体当たりで飛び込んで中に溶け込むことが出来たら、次は「その製品についての知識を相手の需要にとってどの様に必要なものであるか、を伝える智恵が当然云々されるでしょ。それしかありませんね。」と言っているのです。「飛び込んだら、後は日頃のテクニックだよ」ということです。
父韻イとは飛び込んだら(父韻チ)、後は何かすること(父韻イ)だ、となります。重大な事に当たったなら先ず心を「空」にすること、それは仏教の諸法空相です。空となって飛び込んだら、次は何か形に表わせ、即ち「諸法実相」となります。仕事をする時、如何にテクニックが上手でも、心構えが出来ていなければ、世の中には通用しません。けれど心構えだけでは話になりません。テクニックも必要です。両方が備わっていて、初めて社会の仕事は成立します。父韻チ・イは色即是空・空即是色とも表現される関係にあります。御理解頂けたでありましょうか。
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妹須比智邇の神が宇比地邇の神と作用反作用の関係、対の関係にあるということです。
宇比地邇の起動に対して、その持続ということでしょうか。主体側がガバァッと立ち上がり、イァーッと客体目指して突進していくようにみえます。
妹須比智邇の神も分けの分からないへんてこな名前です。土砂の神格化としてありますが、こんなところに土砂が出てくるものでしょうか。その辺のことは置いときます。
宇比地邇と須比智邇では頭にウとスが来ています。これは主体側のウと客体側のウ(ス)の象徴で、創造主神伊耶那岐の命の仕事は言霊ウで始まり、言霊スに終ることを示しています。タカマハラナヤサ太祝詞音図はウ段はウからスへいく。(臼の語源)
(宇)比地邇・ウヒヂニ・(宇ウ)は家、宇宙、心の家宇宙、主体、主観、精神、心全体人格全体がそのまま現象となって現れ出てくるもの。
(須)比智邇・スヒヂニ・(須ス)は出来たもの(ウの成ったもの)、相手、客体、対象、そこから一切の物が生れ出るエネルギーで充満していながら、静かに澄んで動かない状態。
宇(比)地邇・(比)はウに比べて、ウに対して。
須(比)智邇・(比)はスに比べて、スに対して。
宇比(地)邇・(地)は見えるもの、現実的な物、客体、客観、相手、対象、智に対するもの。
須比(智)邇・(智)は知識、智恵、主観、精神、心、地に対するもの。
宇比地(邇)・(邇)は似ている、近い、同じ。
須比智(邇)・(邇)は似ている、近い、同じ。
簡単に全体を通していうと、
宇比地邇は心、主体は対象、客体に比べて同じように近い。主観とは客観のこと。
須比智邇は対象、客体は、心、主体に比べて同じように近い。客観とは主観のこと。
父韻の動きとしていうと、
宇比地邇は家、宇宙、心の家宇宙、主体、主観、精神、心全体人格全体がそのまま現象となって現れ出てくるもので、地の見えるもの、現実的な物、客体、客観、相手、対象、智に対するものに比べて同じように近い物になっていく働き。言霊チ。
主体が客体に向かう動き。
須比智邇は出来たもの(ウの成ったもの)、相手、客体、対象、等がそこから一切の物が生れ出るエネルギーで充満していながら、静かに澄んで動かない状態で、知識、智恵、主観、精神、心、主体等、地に対するものに比べて同じように近いものになっていく働き。言霊イ。
客体が主体を受け入れる動き。
妹須比智邇は客体が主体に比べて近いものになっていく働きですが、客体が動くのではなく、主体の起動した働きによって、それがそのまま持続していく働きとみえるものです。言霊イ。
例えば、須比智邇の神 の「須」は砂で「比智」は泥土ですから、「砂と泥土」の神のこととしています。学術知識上のことならばその通りなのでしょうが、古事記の言霊学上の解としては成り立ちません。学術上の解説の場合は、いままでの研究の積み重ねの上で形成されてきた意見です。ということは今後の研究は排除されていませんし、新発見され訂正されることもあり、言霊学上の見解が正当となる可能性も秘めています。しかし今のところは研究の成果として泥土が大勢を占め、そこから今後の成果を見てくことになります。(キチミヒの展開)そこで言霊学上の見解を検討ことになれば過去の研究成果が基準になります。
一方ここでの見解は過去研究の成果は参考になりますが、寄って立つ立場が自分の心の経験内となっていて、まずは自証による納得から始まります。須比智邇を読んでいくと知識経験としての泥土はなるほどと思いますが、精神と心の問題としていくと脇に置かざるを得ません。あの人は私のことをどう思っているのだろうかという場合、あの人の考えとは私の考えたもの以上にでません。言霊チ、イです。ここではそのようにして始まります。お寺の鐘は無音の振動を出すだけですが、遠くにいて聞こえなくても集音器や電波に載せれば地球の裏側でも聞くことができます。
以下引用です。
進化しますけれども、進化しなくたって、勉強しなくたって、この五性能は同じように心の中で動いて、その人によかれと思って大奮闘している性能なのです。ですから、勉強なさらなくたってこの性能がなくなっちゃうわけでも、加わるわけでもございません。
そのことをよく知った禅宗のお坊さんは、これがわかったっていうと「急いで川に飛んでいって耳を洗った」と。「汚らわしい」と。……耳を洗ったって、汚らわしいのがとれるわけじゃありませんけれども。よくそういうことが禅の本に書いてあります。本来あるものを、それがわかったからといったってご利益でも何でもありゃあしない。それを強調するために、そういう言葉が載っているわけです。
というわけで、わたくしは「このじいさんにわかることなら、わたしだってわからないはずはない」といって、死にものぐるいでお経とか、また聖書とかマホメット教の教典とか、儒教の本とか論語とかなんかを、一生懸命読んで勉強させていただきました。
ですから、素人学問ですけれども、儒教とかなんかのことをちょこちょこっとわたしも知識をひけらかすようにおしゃべりをさせていただくこともございますが、みんなわたしの先生が「わたしは坊主じゃないよ」って言ってくださったおかげだと思っているんですけれども。
そういうわけで、この学問は理論的におわかりくださったらそれで終わりの学問ではございません。理論的に書かれたことが真実であるかどうか。わたくしのことを信用くださって、聞いたことを真実だと思ってくださるとしたら、それは光栄ではございますけれども、こんなへなちょこが言うことを信じていただかないほうがよろしいのであって、何を信じるかと申しますと、書いてあることや言ったことのその通りに自分の心が動いているかどうか。そうなっているかどうか。これを確かめていただきたいのです。
言霊の学問というのは、どういうようにしたら勉強できるのかということを、はっきり具体的に申し上げます。
それは、古事記の「天地の初発の時」に始まって「建速須佐男命」で切っている文章までで、言霊の学問は終わりますから。この終わりまでに、神様の物語がどういう順序で結論まで持ってきているかということを、そのまま自分の心で実現すればわかっちゃうんです。
大したページじゃないですよ。本当に数ページですよ。この本(古事記)はこれだけ厚いですけれど、そのなかのこれだけ(上つ巻の須佐男命の登場まで)でいいんです。
これだけを心の中で、イメージでスーッと通すほどわかってしまったら、あとはそれに従って自分の心を見ればいいのです。
繰り返し繰り返しこの古事記の文章でも結構ですし、それを解釈したこの『古事記と言霊』の本でも結構ですから、お読みください。そして、わからないところをお訊きくださりながら、古事記の神様の順序を、自分の心でもってひとつのイメージとして、頭の上に作り上げていただければよろしいのです。
知識とは積み重ねること。コトタマノマナビは逆。内へ内へと帰る。
外から開けようとすると頑として開門を拒まれる。‘
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精神元素「イ」の言霊と古事記。その2。
❷言霊イ。妹須比智邇(いもすひぢに)の神。
妹須比智邇は客体が主体に比べて同じように近いものになっていく働きですが、客体が動くのではなく、主体の起動した働きによって、それがそのまま持続していく働きとみえるものです。。言霊イ。
行く、射る、言う、等主体の発出した行為は、目的地においてもそのままの形で、対象が主体となって存続するような形をとる。
そこから主客の逆転転倒のような現象が起きる。客観とは主観のことで、客体が主体を受け入れる動きを持っているとしてしまう。
自分が欲しいから相手も欲しいだろう、自分は知っているから相手も知っているはずだ、自分は相手を好きだから相手は自分を好きだろうというような主客の交代は日常よく起こることです。どのような構造になっているのか見てみましょう。
ウ(欲望)次元父韻の動きはキシチニヒミイリです。欲望は生命、五感から発生する欲望とその展開されたもの全部です。産業経済金儲け、購買意欲を刺激することなども含まれます。
自分が欲しいから相手も欲しいだろうという時、私の欲するもの(キ)を固め決めます(シ)。それはその人の過去経験の知識と推測出来る概念(チ)で説明されます。わたしはこうだから(ニ)と自分の主張に都合を合わせた言葉が集められ(ヒ)、相手に向かって煮詰められ自分の意見(ミ)を相手のこととして(イ)表現されていきます(リ)。
オ(経験)次元の父韻の動きはキチミヒシニイリです。量子物理学でも宇宙論でも精神科学でも脳内科学論でも全ては概念思考によります。自分は知っているから相手も知っているはずだとういう時、その疑問(キ)を今までの蓄積された概念知識の総体に照らし合わせます(チ)。疑問と今までの知識とは統合されて(ミ)新しい言葉による表現を待ちます(ヒ)。そこで疑問を持ったことが正しいと決まれば(シ)、疑問を持つことの名目が立ち(ニ)それを相手に与えることになり(イ)次の自体を待ちます(リ)。
ア(情感)次元の父韻の動きはチキリヒシニイミです。自分は相手を好きだから相手は自分を好きだろうという時、あるいは自分は感謝しているのだから相手もそうだろうと、自分は好きな曲だから相手もそうだろうと大音響を出すような時、その人は自分には自分のしていることの自覚があります。そこで心地よさなりを得ているわけです。その人は自分なりの仕方で事を始めます(チ)が、その人にとってのある関心テーマ心地よさだけが集まってきます(キ)。それに集中していき(リ)、そのことの自分なりのお気に入りの表現を得ます(ヒ)。その表現は心一杯に拡大拡散して自分の目的となって固定していきます(シ)。こんどはそこから自分の行動が規定され名目が決まり(ニ)、それが行動となって相手を同化した者として扱い(イ)、その自分の提示した方向に現実があるとします(ミ)。
それはその人の基本的な要求となって達成する目標に過ぎません。結論は相手に任せられるか時の経過を待つことになります。
このように「須」の客体は「智」の主体に「比」べて「邇」近い、ということになります。
以上のことは悪い例として挙げたのではなく普遍的な意識作用上のことです。単純に山を見、木を見ても、その見えた山なり木なりは自分の主張に沿った山となり木となってしまいます。どのような認識対象であれ、一旦意識されば自分の範囲内でしか喋れないのに、自分の範囲が宇宙全体となるようなものです。この普遍的な誤謬を脱するのが、禊ぎといわれるもので、言霊エ次元での思考法となります。仏教で言う悟りを得るのがまず必要な条件となっているようです。
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「い」にあ行、や行、わ行、それぞれに「い」があります。昔は発音が違ったんだよと教えられました。表記と発音はもっと多かったようです。この「い」の違いの研究では発音と表記を問題としています。日本語研究ではさらに意味の相違関連を見ていくのもあります。世界の民族まで拡がった研究になっています。大体は比較検討をして日本語の起源を設定するようです。
しかし誰一人としてうまく説明出来た人はいません。
なぜでしょうか。ウィキでは「日本語は系統関係の不明な孤立言語のひとつであり、系統はいまだ明らかになってはいない。」と、まずギブアップ宣言があります。
しかし、答えは簡単です。日本語とは完璧な人造語だからです。なにも比較するものは無く、系統を想定する必要もありません。
古代人たちは幼稚で自然発生的に事物に名前を付けて言っただろうという、現代人の古代人達への侮りがあるから、どうしても古代人に現代の学者個人を超えた能力があるとは認めたくないだけのことです。
物質とは何かという問いは古代の元素の思想から近代の原子分子の発見、元素の周期律完成へそしてLHCによる最終的な回答を得るところまできています。ここまで二千年以上かかりました。
それ以前に精神、心とは何かの解明を目指した古代人たちは、数千年をかけて心の内容を解明してしまいました。心は言葉となる法則も発見され、心は心の元素として五十の周期律表にまとめられることも発見しました。それが五十音図です。一万年近く前のことです。
父韻の言霊イと命、いのち
いのちという言葉と父韻イは通じています。父韻イ「父韻チの瞬間力動がそのまま持続して行く力動韻」
いのちとは何でしょう。
【意味】 命とは、生物が生きていくための源となる力。生命。生涯。一生。寿命。
【命の語源・由来】諸説あるが、語源は未詳である。
辞書にある命、いのちの解説はこうなっています。
生物的にも医学的にも社会学的にも宗教的にも哲学的にも回答は、「諸説あるが」というところです。
しかしいのちとは誰でも感じているし、知っていることです。ところが感じ知っていても自覚してはいません。特別な事情がない限り大抵は隠れています。ではどのように隠れているのでしょうか。
いのちとは、人間性能の五次元段階の五つ(い)の道(ち)ということです。五つの道とは、ウ欲望、オ知識、ア感情、エ選択、イ創造意志の五重の構造を指しています。(五重はいえ、そして家、心の家、心は五重の家)イの創造意志は現象として眼には見えませんが、ウオアエ次元を通して現れます。その現れをいのちと言います。
いのちにはウオアエ次元の違いがありますが、いのちを感じる時にはアの情感次元で感じます。ウの欲望次元の株で儲かれば喜びのいのちを感じ、大損すれば絶望のいのちを得ます。オ次元なら、このブログを読んでなるほどそんなものかと終わるなら単に記憶の過去資料となるだけですが、なんらかの反撥、関心を呼ぶならばそれなりの感情次元のいのちが発動します。最もはっきり分かるのはアの感情次元でのいのちで、なんらかの共感感応を得ます。
火の玉、霊魂をいのちと思う人もいるでしょう。でもそれはある条件の下での一過性のものでしょう。いのちのように、いつでもどこでも働きを見せてくれるものではないでしょう。
そこでいのちとはなんでしょう。五つの道となった現象として捉えられることはできますが、いのちそのものは見えませんし、測ることもできません。おそらく考えることはできるでしょう。何故ならいのちについての経験と知識の記憶があるからです。ところでその考えとはなんですか。過去のことです。起きてしまっていることです。いのちの特徴は今此処から始まるとっさの判断にあります。欲得成しで、自分を省みることなく実践していくことです。
「い」がターっと発動します(タ)。自分にカッカと燃える(カ)ものに結びつき(マ)、そのまま居ても立ってもいられない自分に火の手が燃え広がり(ハ)、そのまま突進する(ラ)ことを、自分の使命(名目)とし(ナ)て、それに心を動かされ(ヤ)目的に向かって集約して行きます(サ)。そのことで「い」の発動は完成し安心立命を得ます。いのちとはこれらタカマハラナヤサの総体です。
こうして書いていきますと主体的な動きを見せないといのちが無いような感じがしてきます。しかしそんなことでいいはずはありません。ただここにいるもの、あるものにだっていのちはあるはずです。
ところがこんな話が無門関にあります。
東西の堂の僧達が一匹の猫について争っているのを南泉和尚が見て「お前達、猫のことで何を言っているのか、何か言えればこの猫を助けてやろう。言えなければ斬る」と言ったが、誰も何も言えず、南泉和尚は猫を斬った。夜、帰ってきた一番弟子の趙州にこの話をするとその弟子は草鞋を脱いで頭に載せて出ていった。和尚は「お前がいたら猫は助かったのだが」と言った。
無門和尚の解説:さあ言ってみよ。一番弟子が草鞋を頭に載せたて出て行ったのはどういう意味か。これに対して適切な言葉があるならこの南泉和尚が猫を斬るぞ、なんて間違っても言うことはなかったろう。もしそれが出来ないのなら危ういぞ
という南泉和尚が猫を惨殺した話です。
わけの分からない話ですがいのちを書いていてふと思いついたもので載せました。
禅は即出し即答でないと禅にならないのですが、わたしは小僧以下の分際ですので、次回までにアンチョコを漁るつもりです。勿論、続くかどうかも保障などしていませんよ。
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精神元素「イ」の言霊と古事記。その3。
猫のいのちを巡って、南泉和尚、修業僧、趙州そして無門和尚と登場人物が結構多い。そこに猫も含まなければならない。
禅寺での話ですから、そこに共通するものは悟りとか修業とかに関するものでしょうが、猫はどうなんだというと、議論の対象になるものです。ところが簡単に切り殺されてしまうのですから、とばっちりもいいところです。修業僧と南泉和尚の悟りのつまに殺されたわけです。ある解説には、和尚のやったことは無駄ではなかったことがわかるであろうと、無門和尚が言ったという訳文が載っていました。原文を知らないから何ともいえませんが。
とばっちりというのはとばっちりでいつどこから来るのか分かりません。事故、戦争に限らず生活上いつでも起こるものです。自分自身に降りかかるのは恐ろしいことです。この話では、修業僧達が猫へのとばっちりを用意して、和尚さんが殺しの実行をします。いつ猫が俺、お前に入れ替わるか分かったものではありません。南泉和尚は「お前達、猫のこと(○○こと)で何を言っているのか、何か言えればこの猫(○○)を助けてやろう。言えなければ(○○を)斬る」となります。そこで、「和尚のやったことは無駄ではなかった」と殺されたあとで誰がいえるでしょうか。
精神元素「イ」の言霊の項目ですので何とかそこに結びつけたい。猫のいのちはもうありませんが、南泉和尚の行為とそれを自分に導いた言葉のいのちは残っています。南泉和尚が小僧たちに、猫の廻りで何を話しているのだ、言って見ろ、さもなくば殺すというのは、和尚にもともと小僧たちを見る眼がないものを示しています。一番弟子の趙州は馬鹿馬鹿しい話だ本末転倒だと態度で示して行ってしまいます。
この場面は草履を頭に載せてますが、猫を斬るという言葉に置き換えられるものです。殺生を公言していました。坊さんにはあってはならないことです。
南泉和尚は自分で言った手前、小僧を前にして引けません。既に過去となっている言葉に取りつかれています。和尚自身が心底助けて欲しかったことでしょう。誰でもいいから答えて欲しかったでしょう。殺生を公言することなどあってはならないのは分かりきったことでした。そこで南泉和尚のすることは猫を下に置くか殺すかどちらかです。自分の言った言葉に捕らわれている自分を処理するには、訂正するか実行するかで、実行を決断しました。これは過去を斬ることを象徴するどんな態度でもよかったのですが、そこに猫がいた為、猫を斬ることによって自分の過去を斬ることも示しました。
南泉和尚の行為は後からきた趙州によって了解され過去が切れたことを二人は共有しました。
父韻イは「父韻チの瞬間力動がそのまま持続して行く力動韻」ですから、ここでいういのちとは何でしょう。南泉和尚が自分で言った言葉に憑かれたことです。既にない言葉をいのちと取り違えたことです。それは記憶の持続でしかないのに、言霊イの持続からでられないことでした。だから小僧は馬鹿と言って南泉和尚をひっぱたけばよかったのです。馬鹿とか叩くとかは感心しないので、猫ふんじゃった猫ふんじゃったでも歌いましょうか。
喋った言葉はすぐその場で過去となり、それに捕らわれるなとなれば、後は何にも知ったことではないとなりそうです。一方では言い出したことには責任を持てとも言われています。
もし南泉和尚が繁殖期でうるさい猫を殺したいというのなら、殺した後さらにうるさくなる原因が見つかり同じことを繰り返すでしょう。もし猫の習性を知った上で騒ぎ駆けずり回る猫がめざわりとなっているのなら猫の真理を見抜き理解した習性を利用して、やはり猫を選別無くすようにするでしょう。もし猫の騒ぎに共感し理解を示しても、自分と対立するものとするのなら、猫の自然の習性と自分の態度の間に衝突がおきるでしょう。
それぞれの次元ではそれ相応の対応があり、うるさいやかましいというという態度で接したなら、そこから起きる結果に責任は持たないでしょう。次々迫る問題に過去は知ったことではないということになるでしょう。あるいは自分に対立して来るものとなるでしょう。南泉和尚とて猫を殺すなどと言うつもりは無かったのです。
やはり草履を頭に載せてとっととその場を離れることがよさそうです。
では、殺生を公言した代わりに「言えなければわたしが請け負ってこの猫をかわいがるぞ」と南泉和尚が言ったとしたらどうなるでしょうか。趙州は同様に草履を頭に載せてその場を去ります。
わたしはポケットからハンカチを取り出して差し出すイメージが浮かびました。
やはり、趙州の勝ちですね。
この話まだ続きがあったのですね。他のHP にありました。
「 趙州若し在らば、倒しまにこの令を行ぜん。刀子を奪却して、南泉も命を乞はん。」
南泉和尚のナイフを奪取して、突きつけたら和尚は命乞いをするだろうというのです。
質疑応答、発せられた言葉発した言葉に関して、真剣にやっていると殺しの世界にも入っていきそうです。精神の世界が物理世界に入れ変わるのは普通のことですがぶっそうなことです。言ったことに係わる時も係わらない時も、責任を持つ持たないを別にしても大変なことですね。先手を打ってこのブログはいい加減ですよと公言しておかないとどうなるか分からないくらいですね。この言ったことと、物質現象とが結ばれている不思議を解明していくのが古事記の神代の巻で、私の関心はまだ続いているのでこの後もこんな調子でいくでしょう。
ところで、子供の頃から比べてくと大人になるに連れて一度言ったことは元に戻さないようになる感じがします。単なる強情から正当化する頑固になって、自分の言うことに人格、価値観、有効性、地位、保守性などが加わっていきますから面子を保つ為にもそうなっていきます。行為を導く決定者や、指導者などはとくにそうでしょう。将来の為の方針を決定した後では滅多やたらと変更はしたくないでしょう。その最たるものが天皇で、昭和天皇は敗戦後古事記の神話とは関係ないと宣言しました。「単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。」一旦発した事はもう戻せません。
地位とか神性とかの由来ならばそれでいいでしょうが、そのまま古事記を否定されるのでは太安万侶さんが浮かばれません。このブログの主題である心とは何かの寄って立つ瀬が無くなります。世界唯一つまり人類の為の至宝が泣きます。(そんなこともないかな。二千年間も隠された後予言通りに復活していますから何も心配はしなくて良いのかもね。取りようによっては古事記の話は神という名が付いているだけで、内容は言霊学の教科書ですから、全然否定の対象になっていないのを御存じかもしれませんけど。)
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宇比地邇(うひぢに)の神。9。妹須比智邇(いもすひぢに)の神。
言霊チ、イ。上の言霊イは母音のイではなく、ヤイユエヨの行のイであります。言霊チを示す神名、宇比地邇の神は「宇は地に比べて邇(ちか)し」と読めます。宇とは宇宙、いえ等の意味があります。人間の心の家は宇宙です。言霊アの自覚によって見る時、人の心の本体は宇宙であると明らかに分ります。するとこの神名は人の心の本体である宇宙は地と比べて近い、と読めます。即ち心の本体である宇宙と地と同じ、の意となります。宇宙は先天の構造、地とは現象として現われた姿と受取ることが出来ます。そこで宇比地邇の神とは心の宇宙がそのまま現象として姿を現す動き、となります。
太刀を上段に振りかぶり、敵に向かって「振り下ろす剣の下は地獄なり、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」と、まっしぐらに突進する時の気持と言えばお分り頂けるでありましょうか。結果は運を天にまかせ、全身全霊で事に当る瞬間の気持、この心の原動力を言霊チの父韻と言います。それに対し言霊イの父韻は、瞬間的に身を捨て全身全霊で事に当ろうと飛び込んだ後は、その無我の気持の持続となり、その無我の中に自らの日頃培った智恵・力量が自然に発揮されます。須比智邇とは「須(すべからく)智に比べて邇かるべし」と読まれ、一度決意して身を捨てて飛び込んだ後は、その身を捨てた無我の境地が持続し、その人の人格とは日頃の練習の智恵そのものとなって働く、と言った意味を持つでありましょう。
以上の事から言霊父韻チとは「人格宇宙全体がそのまま現象として姿を現わす端緒の力動韻」であり、父韻イとは「父韻チの瞬間力動がそのまま持続して行く力動韻」という事が出来ましょう。ここに力動韻と書きましたのは、心の奥の奥、先天構造の中で、現象を生む人間生命の根本智性の火花がピカっと光る閃光の如き動きの意であります。
宇比地邇(うひぢに)の神・父韻チ
宇比地邇の神とは一つ一つの漢字をたどりますと宇は地に比べて邇(ちか)し、と読めます。けれどそれだけではまだ何のことだか分かりません。宇を辞書で調べると「宇(う)はのき、やねのこと。転じていえ」とあります。いえは五重(いえ)で人の心は五重構造の宇宙を住家としていますから、宇は心の宇宙とも取れます。天が先天とすると、地は現実とみることが出来ます。すると宇比地邇で「人の心の本体である宇宙が現実と比べて同様となる」と解釈されます。以上が神名の解釈です。とすると、その指示する言霊チとは如何なる動きなのでしょうか。
ここで一つの物語をしましょう。ある製造会社に務める若い社員が新製品を売り込むために御得意先の会社に課長のお供をして出張するよう命じられました。自分はお供なんだから気が楽だと思っていました。ところが、出張する日の前夜、課長から電話があり、「今日、会社から帰って来たら急に高熱が出て明日はとても行けなくなった。君、済まないが一人で手筈通りに行って来てくれ。急なことでこれしか方法がない。頑張ってくれ」というのです。さあ、大変です。お供だから気が楽だ、と思っていたのが、大役を負わされることとなりました。一人で売り込みに行った経験がありません。さあ、どうしよう。向うの会社に行って、しどろもどろに大勢の人の前で製品の説明をする光景が頭の中を去来します。夜は更けて行きます。妙案が浮かぶ筈もありません。寝床に入っても頭の中を心配が駆けずり廻っています。疲れ切ったのでしょうか、その内に眠ってしまいました。……朝、目を覚ますとよい天気です。顔を洗った時、初めて決心がつきました。「当たって砕けろ。ただただ全身をぶっつけて、後は運を天に任せよう。」あれ、これの心配の心が消え、すがすがしい気持で出掛けることが出来たのでした。
向うの会社に着いてからは、想像した以上に事がうまく運びました。大勢の前で、自分でも驚く程大きな声で製品の説明が出来、相手の質問に答えることが出来たのでした。未熟者でも、誠心誠意事に当たれば何とか出来るものだ、という自信を得たのでした。
話が少々長くなりました。この若者のように、自分の未熟を心配し、何とかよい手段はないか、と考えても見つからず、絶望したあげく、未熟者なら未熟者らしく、ただ誠意で事に当たろうとする決心がついた時、人は何の先入観も消えて、広い、明るい心で事に当たる事が出来ます。生まれて今までの自分の経験を超えて、この世に生を受けた生命全体を傾けた誠意で事に臨もうとする心、この心を起こす原動力となる心の深奥の“火花”、これが父韻チであります。神名宇比地邇の宇(う)はすべての先入観を取り払った心の宇宙そのもの、そしてその働きが発現されて、現象界、即ち地(ち)に天と同様の動きを捲き起こすような結果を発生させる働き、それが父韻チだ、と太安万呂氏は教えているのです。当会発行の本では、父韻チとは「宇宙がそのまま姿をこの地上現象に現わす韻(ひびき)」と書いてあります。ご了解を頂けたでありましょうか。
この父韻を型(かた)の上で表現した剣術の流儀があります。昔から薩摩に伝わる示源流または自源流という流派の剣で、如何なる剣に対しても、体の右側に剣を立てて構え(八双の構え)、「チェストー」と叫んで敵に突進し、近づいたら剣を真直ぐ上にあげ、敵に向って斬りおろす剣法です。この剣の気合の掛声は「チェストー」タチツテトのタ行を使います。その極意は「振り下ろす剣の下は地獄なり、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」ということだそうです。
以上、父韻チを説明して来ました。父韻チは心の宇宙全体を動かす力動韻でありますので、人間の生活の中で際立(きわだ)った現象を例に引きました。けれど父韻チは全部この様な特殊な場面でのみ働く韻なのではありません。私達は日常茶飯にこの力動韻のお蔭を蒙っています。仕事をして疲れたので少々腰掛けて休み、「さて、また始めようか」と腰を浮かす時、この父韻が動くでしょう。また長い人生に一日として同じ日はありません。サラリーマンが朝起きて、顔を洗い、朝飯を済ませ、「行って来ます」と言って我が家を出る時、この父韻は働いています。気分転換に「お茶にしようか」と思う時、駅に入ってきた電車の扉が開き、足を一歩踏み入れようとした時、同様にこの父韻は働きます。日常は限りなく平凡でありますが、同時に見方を変えて見るなら、日常こそ限りなく非凡なのだ、ということが出来ます。ただ、その人がそう思わないだけで、心の深奥では殆ど間断なくこの父韻は活動しているのです。この父韻チを一生かかって把握しようと修行するのが、禅坊主の坐禅ということが出来ましょう。禅のお坊さんにとっては生活の一瞬々々が「一期一会」と言われる所以であります。と同時にこの言霊父韻チを日常の中に把握することは、禅坊主ばかりでなく、私たち言霊布斗麻邇を学ぶ者にとっても、大切な宿題でありましょう。
9。 妹須比智邇(すひぢに)の神・父韻イ
須比智邇の神の頭に妹(いも)が付きますので、この父韻は宇比地邇の神と陰陽、作用・反作用の関係にあります。この父韻イのイはアイウエオのイではなく、ヤイユエヨのイであります。神名須比智邇は須(すべから)らく智に比べ邇(ちか)し、と読めます。宇比地邇同様漢字を読んだだけでは意味は分かりません。そこで宇比地邇の神の物語を例にとりましょう。若い社員は、あれこれと考え、心配するのを止め、先入観をなくし、全霊をぶつけて行く事で活路をみつけようとしました。そして御得意の会社に白紙となって出て行きました。「自分はこれだけの人間なんですよ」と観念し、運良く相手の会社の社員の中に溶け込んで行く事が出来たのです。一度溶け込んでしまえば、後は何が必要となるでしょう。それは売り込むための物についての知識、またその知識をどの様に相手に伝えるかの智恵です。こう考えますと、神名の漢字の意味が理解に近づいて来ます。須比智邇とは「すべからく智に比べて近(ち)かるべし」と読めます。体当たりで飛び込んで中に溶け込むことが出来たら、次は「その製品についての知識を相手の需要にとってどの様に必要なものであるか、を伝える智恵が当然云々されるでしょ。それしかありませんね。」と言っているのです。「飛び込んだら、後は日頃のテクニックだよ」ということです。父韻イとは飛び込んだら(父韻チ)、後は何かすること(父韻イ)だ、となります。重大な事に当たったなら先ず心を「空」にすること、それは仏教の諸法空相です。空となって飛び込んだら、次は何か形に表わせ、即ち「諸法実相」となります。仕事をする時、如何にテクニックが上手でも、心構えが出来ていなければ、世の中には通用しません。けれど心構えだけでは話になりません。テクニックも必要です。両方が備わっていて、初めて社会の仕事は成立します。父韻チ・イは色即是空・空即是色とも表現される関係にあります。御理解頂けたでありましょうか。
古事記はチという父韻に対して、宇比地邇神(ウヒヂニノカミ)という名前を当てております。少なくともチということに対して宇比地邇という神様の名前を、太安万呂さんは指月の指として当てたのです。宇比地邇の神様なんて神様いないんですからね。どこにもいないんです。それをよくご承知になっていただきたいと思います。
宇比地邇というのはですね、日本の古代の邇々芸(ニニギ)王朝の天皇の名前なんです。その名前をこうやって引っぱってきちゃった。「チに対しての説明に、この名前が誠に都合がいいから」っていって引っぱってきちゃった。縦横無尽に引っぱってくるんですから。島田正路って名前を太安万呂さんがもしこの世にいたら、「あ、この野郎トンマだから、使ってやろう」って、当て字にして使ってくれたかもしれない(笑)。
伊耶那岐の神様・伊耶那美の神様も、実際にいるわけではございません。実際に生きていた古代天皇の名前なのでございます。ほとんどの名前は、古代の天皇ないし皇后から引っぱった。
一切の神社神道でお祭りしてある神様は、そういう神様がいるわけではないのです。世が明けるまで、人間の心の拠り所として、そういう神社信仰としての神様をお祭りしたのであって、人間の命の本体としては、そういう神様はいらっしゃらないのだということをよくご承知になっていただきたいと思います。