アタカラハサナヤマ・九拳剣
ここにその御刀(みはかし)の前(さき)に著(つ)ける血、湯津石村に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、石柝(いはさく)の神。
御刀(みはかし)とは縦に五つの言霊が並んでいて順序良く心の構造が並んでいることがハッキリ分かった、自証できた。
次に次に根柝(ねさく)の神。
根の方には父韻が並んでいた、並び方は分からないけれど、これが原動力となって物事を作っていくんだなと分かった。
次に石筒(いはつつ)の男(を)の神。
斬っていくと一連の繋がりがあり意味があることが分かった。一つ穴の狢の筒になって繋がっていると。どういうことか、あの野郎嫌な野郎だなと思ったらアの心が自分の心の中でどう繋がっているか。アタカラハサナヤマと並んでいるなと分かった。
憎しみの感情は相手に気付かれないような心の働き、最期のマは父韻ミ、相手を「あいつは俺を批判してやがる」と突っつく、アの働きは芸術もありますが、素晴らしいですが、万人がそれを受け容れるか受け容れないかは分かりません。
何故ならばアを宇宙の自分の心として創作して最後にミ、感じるか、感じないか、押す。けれど、どんな名画でもムシャクシャしている人が観たら感動の一つも起こさせません。
そして結果が分からない。押して迫ってくるけれど結果としてどうなのか分からない、宇宙の心で絵を描けば最後に行き着くところは観客、その観客に圧力はかけるけれど、その人が本当に「いい絵だと」感じてくれるかどうかは分からない。
不特定で不確定、アタカラハサナヤマは、九つは決定しているけれど、最後は分からないので九拳の剣。一度スメラミコトが命令した十拳の剣は、相手にとって一番良いことを言ってくれるのですから、アタカマハラナヤサワと十音が完結します。
そのようなことから石筒(いはつつ)の男(を)の神はある程度お分かりいただけると思います。
アの並び
「ここにその御刀(みはかし)の前(さき)に著(つ)ける血、湯津石村に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、石柝(いはさく)の神」。縦に五つの言霊が並んでいて順序良く心の構造を表わしているのだな、とはっきり分った、自証できた、ということです。
「次に根柝(ねさく)の神」。根の方を見ますと父韻が並んでいた、これが原動力となって物事を作っていくものなんだなと分った。「次に石筒(いはつつ)の男(を)の神」。一連のつながりで意味を成しているということが分った。音図は縦も横も筒になっておりますでしょ、一つ一つ筒の中に入るものは一つの穴の狢の如くに繋がっているということが分った、これもご自分の心で以って行ってみてください。
「あの野郎、嫌な野郎だな」って思ったらアの心がどのように繋がっているか、ア・カサタナハマヤラ・ワということが分ってまいります。自分が相手を憎みますと相手に通じるものです。ラの父韻は「リ」、どこまでも螺旋状に思いが拡がっていく父韻・八拳剣でございます。
アの心は分っている。自分の心を宇宙の心にして絵を描く、最後には観てくれる側の判断です。観ている人に迫るものはあるけれど「あぁ、素晴らしい絵だな」と思ってくれるかどうかは分らない。それはア・タカラハサナヤマ・ワという九拳剣の並び。
「ア」という心で自分が創作を続けて行って、「ミ」で対象の心をつっつく、感じろよ、感じろよ、どんな名画でもむしゃくしゃしている人が鑑賞しても感動の一つも起こさせません。今、ダビンチが公開されています。ダビンチの「モナリザの微笑」を鑑賞する人が感動してくれたか感動してくれなかったのかの結果はダビンチには分らない、観ている側に押して迫ってはくるけれど。
あの世
自分の生い立ちというもの、生い立ちの以前の叡智、どういう場面に現れて出てくるのか、それによって過去の歴史において、自分がどのような関係があったか、なかったか、その場にじーっと坐っておりますとよーく分ります。成る程なぁーって、生まれた時からあんなこともあった、こんなこともあったことが、こういう原因で起こったならば納得できるなぁとわからせてもらいました。
すべてのものから解放されて、いままでこうやってお話していることからも解放されて、大きな息をついている所、太安万侶さんのお話は初めからやらしていただきます。取り合えずは四月号会報の末尾に記しました古事記の文章の解説をいたします。
かれここに伊耶那岐の命の詔りたまはく、「愛(うつく)しき我(あ)が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易へつるかも」とのりたまひて、御枕方(みまくらへ)に匍匐(はらば)ひ御足方(みあとへ)に匍匐ひて哭(な)きたまふ時に、御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神。かれその神避(かむさ)りたまひし伊耶那美の神は、出雲の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき。ここに伊耶那岐の命、御佩(みは)せる十拳(とつか)の剣を抜きて、その子迦具土の神の頸(くび)を斬りたまひき。
ここにその御刀(みはかし)の前に着ける血、湯津石村(ゆついはむら)に走りつきて成りませる神の名は、石柝(いはさく)の神。次に根柝(ねさく)の神。次に石筒(いはつつ)の男(を)の神。次に御刀の本(もと)に着ける血も、湯津石村に走(たばし)りつきて成りませる神の名は甕速日(みかはやひ)の神。次に樋(ひ)速日の神。次に建御雷(たけみかづち)の男(を)の神。またの名は建布都(たけふつ)の神、またの名は豊(とよ)布都の神。次に御刀の手上(たがみ)に集まる血、手俣(たなまた)より漏(く)き出(いで)て成りませる神の名は、闇淤加美(くらおかみ)の神。次に闇御津羽(くらみつは)の神。
古事記の十七先天神の母音と半母音と父韻の活動によって32の子音が生れる、33番目の子音として言霊ンも生れます。火之夜芸速男の神といって神代文字のことです。ここで伊耶那岐と伊耶那美の子供は生み終わりました。子種が絶えて伊耶那美の神は黄泉国へ行って亡くなったとあります。
今の国文学は仏教の説を取り入れて「あの世」というものを想定して黄泉国としております。ですが、あの世って何処にあるのでしょう、霊的現象から分るかもしれません。言霊の学問のあの世は近からず遠からず、というよりも遠くなくとてつも近い、あの、って言う前より近い。主体的なのはこの世です。客観的なのがあの世です。
石柝(いはさく)の神。古事記の言霊学による「はじめ」論。
ここにその御刀(みはかし)の前(さき)に著(つ)ける血、湯津石村に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、石柝(いはさく)の神。次に根柝(ねさく)の神。次に石筒(いはつつ)の男(を)の神。
御刀の前に著ける血、とは迦具土の頚(くび)である言霊五十音図を十拳の剣で分析・検討して人の心の構造がどの様になっているか、を調べて行き、御刀の前(さき)によって斬ったことにより判明した道理(血(ち))ということ。ここで御刀の「前」と殊更に言いましたのは、次の文章に御刀の「本(もと)」、御刀の「手上(たがみ)」と分析・検討の作業が進展して行く様子を示したものであります。
湯津石村の湯津(ゆず)とは五百個(いはつ)の謎です。
五百個(いはつ)とはどういう事かと申しますと、五母音の配列である菅曽音図の意味を基調として五十音図を作り、この五十音図を上下にとった百音図の事を五百個と申します。
石村(いはむら)とは五十葉叢(いはむら)の意。湯津石村の全部で五百個の上半分の五十音図の意となります。湯津石村に走(たばし)りつきての
走りつきてとは「……と結ばれて」または「……と関連し、参照されて」の意となります。
五十音図を分析して先ず分ったのは石柝(いはさく)の神ということです。
石柝とは五葉裂(いはさ)くの意。五十音図が縦にアオウエイの五段階の界層に分かれていることが分った、という事であります。即ち人間の心が住む精神宇宙は五つの次元が畳(たたな)わっている状態の構造であることを確認したのでした。
人間の精神に関係する一切のものはこの五つの次元宇宙から表れ出て来ます。これ以外のものは存在しません。「五葉裂く」の道理は人類の宗教・哲学の基本です。
この五つの次元の道理を世間の人々の会話の中で観察すると、そこに顕著な相違があることに気付きます。先ず
言霊ウの次元に住む人同士の会話は、その各々の人がある物事について語り合う場合、各自の経験した事柄をその起った時から終るまで順序通りに羅列するように、一つの省略もなく喋(しゃべ)ります。従って会話は長くなります。若い者同士の電話の会話はその典型です。
言霊オの次元に住む人の会話には抽象的概念の用語がやたらと飛び出します。所謂「〇〇的」という言葉です。社会主義新聞の論説はその良い例であります。次に
言霊アの次元に於ては詩や歌が、
言霊エの次元では「何々すべし」の至上命令が典型となります。
言霊イの次元に住む人の口からは、言霊が、または他の四次元ウオアエの次元に住む人々それぞれの心に合わせた自由自在の言葉が出て来ます。以上、人間の心の進化の順序に従ってそれぞれの次元の会話の特徴についてお話しました。その人の会話を聞いていると、その人の心が住む次元が良く分って来ます。
但し自分の心が住む次元より高い次元の話の識別は出来ません。識別出来るのは自らの心の次元以下の人についてのみであることを知らねばなりません。
メモ-------------------------------
湯津石村の湯津(ゆず)とは五百個(いはつ)の謎です。
五百個(いはつ)とはどういう事かと申しますと、五母音の配列である菅曽音図の意味を基調として五十音図を作り、この五十音図を上下にとった百音図の事を五百個と申します。
石村(いはむら)とは五十葉叢(いはむら)の意。湯津石村の全部で五百個の上半分の五十音図の意となります。(五百個=500のことではなく、五を基調とした100のこと。トータルは100)
湯津石村に走(たばし)りつきての
走りつきてとは「……と結ばれて」または「……と関連し、参照されて」の意となります。
たばしりつきて・
「た」と「は」が「し--り」となって「つきて」の意味で、
全体タの構造と個別ハの言霊が共に裏表の関係(言霊シ。意富斗能地(おほとのぢ)の神、言霊リ。妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。の収束と拡大)となって結びつき。
言霊シ。意富斗能地(おほとのぢ)の神。
調和。透刺力。人の心の動きが心の中心に向かって静まり納まる働きの韻。
自己主張を守り固めようとする大いなる能力の内に在ろうとする働き。
決まった方向へ結論を収束するように選択肢がこれしかない状態を生み出し、今現在を静め修めようとする律動。
言霊リ。妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。
浸透。螺旋力。人間の識別の力(斗)が心の宇宙の広がりに向かってどこまでも活用されるよう発展伸張していく力動韻。
自己主張を拡げようと大いなる弁別を述べようとする働き。
自己を取り巻く大量に提供された選択しの花弁の中から自分の種の保存と伸張に都合よく述べられているものを選択する律動。
今はイザナギの主体的な意図が結びつく相手の原理原則を調べているところです。イザナギの全体的なまたそこから出てくる個別的な意図が相手の性能の五段階のどの次元と結ばれるか見ようとしています。
「はじめ」は「天地の初発の時高天原に成りませる神の名は御中主の神」の冒頭の句から来ていますが、
古事記作者の「はじめ」とわたしの「はじめ」あるいは食事の「はじめ」と祈りの「はじめ」等どのような次元の話をしているのか見ようとするわけです。
各次元で「はじめ」という言葉が通用するのはそれぞれ共通の基盤があるからで、それが数千年以上前に完成されていた五十音図です。私たちはこの五十音図の上に載っていなければお互いの会話はありません。
古代から人間性能を少数の元素に還元してきたことは世界のどこの国、民族にも共通しています。人間の精神性能はそのようにできていると気ずいていたわけです。ではそのような精神性を起こさせるのは何でしょうか。これは精神の内奥の領域、昔の言葉で言えば神の領域に関するものです。
古事記の記載によればその問題は既に解決されてしまっています。記述は千数百年前のものですが、頭脳内では古代日本人達によって八千年前ぐらいには解決されていたようです。精神行為の原則が解決されていてそれによってまつりごとが行われ、世界の多くの古代の偉人たちが日本を訪ねてきました。
話が脇へ逸れていきました。そんなことよりお前の言う「はじめ」を解決してみせろというところでしょうか。はっきりいって実際には難しく追思考するのは大変です。それができて実行している方がスメラミコトですが、現実には朝廷内での官僚たちが参与していました。そうでなければ安万侶さんたちの存在はありません。
さて、天地のはじめのときの「はじめ」を理解するのに五段階があります。
ウの五感感覚欲望から出てくるのは欲しいしたいやりたいの「はじめ」で産業経済活動を発展させていくでしょう。
オの経験知識悟性抽象概念から出てくるのは理性判断、知性による選択の「はじめ」で、疑問と好奇心を悟性的に判断するようになるでしょう。
アの感情情緒の世界から出てくるのは芸術宗教等の「はじめ」で自己本人内の自覚だけで解決されていく世界が展開されるでしょう。
エの実践智恵による理性的道徳的な選択から出てくるのは完結した終了を指示する「はじめ」で菩薩の下す命令のようなものでしょう。
イの生命意志。
アエイ以上の段階はわたしにはまだ手が届きません。私的な経験で若干覗き見たかもしれないという程度です。要するにそんな経験でしか話せないということです。
つまりわたしは精々経験を寄せ集めて悟性的にまとめるだけになるかもしれません。
少なくとアの次元に行こうとするのに、じっと頭脳内を凝らして静かにしてみるがアの「はじめ」は真っ暗なイメージしかでてきません。
ふとBeethovenのダダダダーンを思い出し聞いています。冒頭では一瞬の静寂の中から音楽がはじまります。二回目のダダダダーンでは一瞬力んだ沈黙があります。ここのところを二つに分けてみました。
音楽はあくまで過去に鳴った音を追いかけて聞いていきます。そうすると大小強弱等がそのまま伝わってくる感じです。一方、これから出る音を聞くのに意識でもって自分を音の出る前に置き直すようにしていくと音の大小強弱が不思議と均一なものになっきて音色も消え単色の音楽のようになり感動が無くなります。なぜでしょうか。今のところは分かりません。。
(その行為はある程度緊張を強要されほんの短時間だけ成功します。そうするとそこにあるのは後ろに音楽を従えた意志の緊張です。音は常になっているので邪魔され気を抜けば五番の素晴らしい楽曲の中に浸るというような、いつもとは違う雰囲気になっています。でもわざわざ素晴らしさ楽しみを消してしまうのはなぜでしょう。)
石柝(いはさく)の神
ここに伊耶那岐の命、御佩(みはか)せる十拳の剣を抜きて、その子迦具土の神の頚(くび)を斬りたまひき。ここにその御刀(みはかし)の前(さき)に著(つ)ける血、湯津石村に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、石柝(いはさく)の神。次に根柝(ねさく)の神。次に石筒(いはつつ)の男(を)の神。次に御刀の本に著ける血も、湯津石村(ゆずいはむら)に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、甕速日(みかはやひ)の神。次に樋速日(ひはやひ)の神。次に建御雷(たけみかづち)の男の神。またの名は建布都(たけふつ)の神、またの名は豊(とよ)布都の神。次に御刀の手上に集まる血、手俣(たなまた)より漏(く)き出(いで)て成りませる神の名は、闇淤加美(くらおかみ)の神。次に闇御津羽(くらみつは)の神。
菅曽音図に基づいた五十音言霊の検討の作業は更に続きます。
ここに伊耶那岐の命、御佩(みはか)せる十拳の剣を抜きて、その子迦具土の神の頚(くび)を斬りたまひき。
ここに初めて古事記の文章に剣という言葉が出て来ました。古事記のみならず、各神話や宗教書の中に出る剣とは物を斬るための道具の事ではなく、頭の中で物事の道理・性質等を検討する人間天与の判断力の事を言います。
形のある剣はその表徴物であります。この判断力に三種類があり、八拳、九拳、十拳(やつか、ここのつか、とつか)の剣です。
十拳の剣の判断とはどんな判断かと申しますと次の様であります。
十拳の剣とは人の握り拳(こぶし)を十個並べた長さの剣という事ですが、これは勿論比喩であります。実は物事を十数を以て分割し、検討する判断力のことです。
実際にはどういう判断かと言いますと、十数とは音図の横の列がア・タカマハラナヤサ・ワの十言霊が並ぶ天津太祝詞音図(後章登場)と呼ばれる五十音図の内容である人間の精神構造を鏡として行なわれる判断の事を言います。
この判断力は主として伊耶那岐の神または天照大神が用いる判断力であります。後程詳しく説明されます。
迦具土の神とは前に出ました火(ほ)の夜芸速男(やぎきやを)の神・言霊ンの別名であります。古代表音神名(かな)文字のことです。
頚(くび)を斬る、という頚とは組霊(くび)の意で、霊は言霊でありますから、組霊(くび)とは五十音図、ここでは菅曽音図の事となります。十拳の剣で迦具土の頚を斬ったという事は、表音神名文字を組んで作った菅曽音図を十拳の剣という人間天与の判断力で分析・検討を始めたという事になります。
という事は、今までは言霊の個々について検討し、これからは菅曽音図という人間精神の全構造について、即ち人間の全人格の構造についての分析・検討が行なわれる事になるという訳であります。
ここにその御刀(みはかし)の前(さき)に著(つ)ける血、湯津石村に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、石柝(いはさく)の神。次に根柝(ねさく)の神。次に石筒(いはつつ)の男(を)の神。
御刀の前に著ける血、とは迦具土の頚(くび)である言霊五十音図を十拳の剣で分析・検討して人の心の構造がどの様になっているか、を調べて行き、
御刀の前(さき)によって斬ったことにより判明した道理(血(ち))ということ。ここで御刀の「前」と殊更に言いましたのは、次の文章に御刀の「本(もと)」、御刀の「手上(たがみ)」と分析・検討の作業が進展して行く様子を示したものであります。
湯津石村の湯津(ゆず)とは五百個(いはつ)の謎です。
五百個(いはつ)とはどういう事かと申しますと、五母音の配列である菅曽音図の意味を基調として五十音図を作り、この五十音図を上下にとった百音図の事を五百個と申します。
石村(いはむら)とは五十葉叢(いはむら)の意。湯津石村の全部で五百個の上半分の五十音図の意となります。湯津石村に走(たばし)りつきての走りつきてとは「……と結ばれて」または「……と関連し、参照されて」の意となります。
成りませる神の名は、石柝(いはさく)の神
五十音図を分析して先ず分ったのは石柝(いはさく)の神ということです。
石柝とは五葉裂(いはさ)くの意。五十音図が縦にアオウエイの五段階の界層に分かれていることが分った、という事であります。
即ち人間の心が住む精神宇宙は五つの次元が畳(たたな)わっている状態の構造であることを確認したのでした。人間の精神に関係する一切のものはこの五つの次元宇宙から表れ出て来ます。
これ以外のものは存在しません。「五葉裂く」の道理は人類の宗教・哲学の基本です。
この五つの次元の道理を世間の人々の会話の中で観察すると、そこに顕著な相違があることに気付きます。
先ず言霊ウの次元に住む人同士の会話は、その各々の人がある物事について語り合う場合、各自の経験した事柄をその起った時から終るまで順序通りに羅列するように、一つの省略もなく喋(しゃべ)ります。従って会話は長くなります。若い者同士の電話の会話はその典型です。
言霊オの次元に住む人の会話には抽象的概念の用語がやたらと飛び出します。所謂「〇〇的」という言葉です。社会主義新聞の論説はその良い例であります。
次に言霊アの次元に於ては詩や歌が、言霊エの次元では「何々すべし」の至上命令が典型となります。
言霊イの次元に住む人の口からは、言霊が、または他の四次元ウオアエの次元に住む人々それぞれの心に合わせた自由自在の言葉が出て来ます。
以上、人間の心の進化の順序に従ってそれぞれの次元の会話の特徴についてお話しました。
その人の会話を聞いていると、その人の心が住む次元が良く分って来ます。但し自分の心が住む次元より高い次元の話の識別は出来ません。識別出来るのは自らの心の次元以下の人についてのみであることを知らねばなりません。