訓読:すなわちタカマノハラみなくらく、アシハラのなかつくにコトゴトにくらし。これによりてトコヨゆく。ここにヨロズのカミのおとないはサバエナスみなわき、ヨロズのわざわいコトゴトにおこりき。ここをもてヤオヨロズのカミあめのやすのかわらにカムツドイツドイて、タカミムスビノカミのこオモイカネのカミにおもわしめて、とこよのナガナキドリをつどえてなかしめて、あめのやすのかわのカワラのあめのかたしわをとり、あめのかなやまのカネをとりて、カヌチあまつまうらをまぎて、イシコリドメのミコトにおおせてカガミをつくらしめ、タマノヤのミコトにおおせてヤサカのまがたまのイオツのミスマルのたまをつくらしめて、アメノコヤネのミコト・フトタマのミコトをよびて、あめのかぐやまのマオシカのカタをうつぬきにぬきて、あめのかぐやまのアメノハワカをとりて、ウラエまかなわしめて、あめのかぐやまのイオツマサカキをネコジにコジて、ホツエにヤサカのまがたまのイオツのミスマルのたまをとりつけ、ナカツエにヤタカガミをとりかけ、シズエにしらにぎて・あおにぎてをとりしでて、このクサグサのものは、フトタマのミコト、フトみてぐらととりもたして、アメノコヤネのミコト、フトのりごとネギもうして、アメノタヂカラオのカミみとのワキにかくりたたして、アメノウズメのミコトあめのかぐやまのアメノヒカゲをたすきにかけて、アメノマサキをカヅラとして、あめのかぐやまのササバをタグサにゆいて、あめのイワヤドにうけふせて、ふみトドロコシ、かむがかりして、ムナヂをかきいでモヒモをホトにおしたれき。かれタカマノハラゆすりてヤオヨロズのカミともにわらいき。
自分の意識である天照す(吾の間を照らす)大御神がまだ活動を開始していないので、何の判断も下されていないというところから始まります。
訓読:意訳。
-------
・すなわちタカアマノハラみなくらく、アシハラのなかつくにコトゴトにくらし
=心の運用規範を失ったので判断ができない。先天世界も後天世界も心が開いていく方策が何も無い。心が働く以前のことを暗いといった。
・これによりてトコヨゆく
=それでも生きていく動因は闇夜に働いている。トコヨは床(巣)の世。巣(床)は何も無いようでいて親鳥が子を育みそこから新しい一切が生まれるエネルギーで充満していながら静かに澄んで動かない状態です。
・ここにヨロズのカミのおとないはサバエナスみなわき、ヨロズのわざわいコトゴトにおこりき
=闇夜の動因の作用は思惟規範が無いので支離滅裂である。(世界単位で言語状況を見れば丁度そんな感じ)しかし、光が当たればそこにあるものが直ぐ現われるようによろずの響が既にある。響きは音以前のもので韻としてある。
・ここをもてヤオヨロズのカミあめのやすのかわらにカムツドイツドイて
=ここでまず、先天の実在する諸条件諸世界の韻となるものは、動因の相手対象として、働きかけによってあるものがあると単に確認されるものとして集められる。(鏡の裏面の記載文字の内容である意識の立ち上がりによって実在してくるものの客観対象側が集まる。)
・タカミムスビノカミのこ、オモイカネのカミにおもわしめて
=タカミムスビは主体意識一般、オモイカネは思いを神音に寄せるで、主体意識の働きの主である、主体が思うという働きを動かして、(鏡の裏面の記載文字の主体主観側。裏面の文字はこの両者を表現したもの)
・とこよのナガナキドリをつどえてなかしめて
=トコヨは先天の実在世界が集まってはいるが寝ている床(巣)、その実在と働きがそろったので、まず先天母音世界(ウオアエ)の実在を思い確認し次元世界を一つ一つ分別し(四次元ある)、
・あめのやすのかわのカワラのあめのかたしわをとり
=各先天の音図の片側の四つの言霊(片四葉・母音行)を主体の発する位置と定めて、次元世界に始めの働き掛ける主体側の働きに立ち、その次元世界の先天枠を定め、(ア行に立ち)
・あめのかなやまのカネをとりて
=主体側の母音行と主体側にある客体側の母音行(半母音行)の両者を用意して、その両者を繋げるため(オとヲ、エとヱ等)、その各次元での先天の判断要素となる仮名(言霊)を集め、(意識の対象を集め)
物質としての文字をや仮名を集めるのではなく、主体内での共通した主客となっているもの、母音の音韻をまず集めて、両者間を渡る(津見)準備をする。
・カヌチあまつまらをまぎて
=言霊要素材料があるだけでは何にもなりません。言霊要素を融解して連結させ関係づける方策を持ち寄り探らねばなりません。溶解したものは型という間の羅列に流します。(例えば言霊要素の単音、単語へ、文へというように)(実は単音の中にも十四の領域を経る間がある)
・イシコリドメのミコトにおおせてカガミをつくらしめ
=主客の要素がそこにあるだけでは動きませんので、動かす規範を作ります。
主体意識側の意志を凝り留め明かに示すための規範となる鏡の五十音の判断規範を作ります。
アマテラスという規範・鏡をこれから創ろうとしているのに、規範を作る規範をまず作る、つまり、脱皮変態する前規範のことになります。(脱皮状態に応じて鏡が変わる)
天照すは既に規範鏡ですが、現象の鏡を産むには、イメージの鏡が必要で、イメージの鏡を産むには先天の鏡が必要です。ここではまず意図意識を凝り固めた先天の鏡のことです。
この鏡は床世(床四)の世界にタカミムスビの意志を加えた五次元の構成です。
二重三重に同じことが繰り返されますが、規範の中心に意志の言霊イがあるためです。
・タマノオヤのミコトにおおせてヤサカのまがたまのイオツのミスマルのたまをつくらしめて
=言霊要素とその連結と連結した姿を準備します。タマノオヤにいって、ヤサカ(八つの性質・さか)を既に持っている勾玉型の、イホツ(五穂津、五つの次元言霊に分けられる、五を基準として実在言霊要素五十とその運用言霊五十の百、五百ではない)の、この先天後天の世を統制している数珠を作らして。
言語規範となっている鏡に沿って、言霊要素の五十の勾玉を作ります。言葉となるのに必要な言霊要素の連鎖を作らせて、要素と運用の五を基準とした、要素五十、運用五十の百音図にして意識を統率する数珠(ミスマル)にします。
オヤは全部を統括しているということ。五(イ)百(ホ)津(ツ)之御統之珠。
・アメノコヤネのミコト・フトタマのミコトをよびて
=コヤネのコは半分ということ。主体側の母音行と客体側の半母音行の両者で全体。従って言霊要素の主体側半分だけ(二十タマ)を呼び寄せる。後に現象が現れるときの前現象となる。
まずア次元の感情世界の言葉の一般主体性を流布させ、主体側に運用させるものを与えることで客観性を得る。フトタマは二十霊のことで、五十の言霊の内、主体性によって濁点を付けて自らを過去に置くことができる言霊のこと。記憶を呼ぶ。
あめのかぐやまのマオシカのカタをうつぬきにぬきて
=あめのかぐやまは先天の書く山で、客体側に現象表記として現われてくるもので、ここではまだ現象以前の現象の段階となっている。
マオシカは一般主体性(オスという能動性)の象徴で、表記(上記フトを代表させカタといった)の客観性を得るため共通のものとさせ、通用させ(ぬき通す)ること。主体の意図とその表記の同一性をカタ(型で肩ではない)といった。(ここでは主体側からの働きかけのみに応じてカタができる。)
・あめのかぐやまのアメノハハカをとりて、ウラエまかなわしめて
=今度は半母音側の準備に移る。ハハカ。
残りの二十の一般性の表記の客体側に立ち、主体側の次元と同じであることを確認すること。書く山、表記されたものや記憶概念の主体の働きかけを受け取る受動客体側(ハハカ)が、主体側の内容意味を了解するように(裏合え)すること。二十と二十の主客の一致する関係のことで、占いとは関係ない。
・あめのかぐやまのイオツマサカキをネコジにコジて
=主客の応対の判定に進む。
一般性表記の五十音言霊要素(五を基準とした真坂の気・真正の言霊図)全体を用いて、こうして主客の交流流通が全体的に確認され。主客の確認できる五十音図を用いてということ。
・ホツエにヤサカのまがたまのイオツのミスマルのたまをとりつけ
=まず最初に、八つの性質(ヤサカ)の言霊要素の五を基準とした主客の意識を統率する言霊によって、つまり言霊を統る、スメル、言霊である父韻を取り付けて。
判断要素となる言霊のそのときの判断となる全言霊要素を準備してその連絡連鎖を選択していく。ヤサカの働きを用いて(八父韻を用いて)。
父韻勾玉の取り付けでまだ働きはない。続いて規範によって、実践が来る。三種の神器の勾玉。
・ナカツエにヤタカガミをとりかけ
=次いで、父韻の動きを見る八咫の鏡、言霊要素を用いて運用規範、判断規範とするための鏡を準備し。三種の神器の鏡。
・シズエにしらにぎて・あおにぎてをとりしでて
=最後に、ニギテは指を一つ一つ曲げていき全部曲げ終わったときに事の判断を握りしめること。
帰納演繹の判断を用意して。三種の神器の剣。
以上は主体側が用意しながら主体側に与えられる。
こうして判断する上での、玉とかがみと剣の三種の神器、判断言霊要素と判断規範と判断運用が揃いました。
・このクサグサのものは、フトタマのミコト、フトみてぐらととりもたして
=勾玉。
そこでこれらの判断三要素は、受動的に受け取りながら主体活動の全体の動因として扱われ、それが思惟運用の主体となっていきます。
ミテグラは運用するということ、二十を運用する、主体を運用するということになります。
運用の初めは主体側が動くことですので、主体の全体を示すフト(二十)タマがまず判断を主導します。
・アメノコヤネのミコト、フトのりごとネギもうして
=鏡。
アメノコヤネは運用意識の全体のことで、主体意識の主体側二十に宣(の)ります。
言霊アで全体、カキクケコサシスセソタチツテトハヒフヘホ、を代表させたときの名前がアメノコヤネです。コヤネのコはヤネの半分主体側。
この主体性の意識を用いて、残り半分の対応している二十を求めます。(オスがメスを求めるように)
・アメノタヂカラオのカミみとのワキにかくりたたして
=剣。
三種の判断要素がそろいました。今度はそれを実際に動かす役の神(動因)が要ります。応じる客体側で受ける役割の主観意識(フト)を置いておき、ここにもう半分の受け取り専用の陰性のフトと合体させるために探します。その合体を見つける隠れた力持ちの出番となります。(ある対象を見る場合、対象を見られたという受動するような主体が働かないと対象は確認できない)
チカラはそれ自体は見えません。それで隠れているといいます。
みとのワキは御戸のワ行(半母音行)の気(言霊)のことで、音図のわ行の戸を開けることで主客の合体が現われます。
外国語にはわ行の気の体系がありませんから、主張だけはしますが相手受動側を慈しむ意識が希薄となります。
ここまでが最初の意識が出てくるときの準備手順です。
現象となる意識はまだイワトの中にいます。
・アメノウズメのミコトあめのかぐやまのアメノヒカゲをたすきにかけて
=言霊ウ次元のウズメを借りて手順が執行されていきます。他の次元世界も同様な構成です。
まずは始めの意識である欲望の表現であるウ次元の客体側の持続する実在を得ようと準備し、
タスキは田を鋤く、規範の運用配分を助ける。
ヒカゲは霊陰、主体内での確認する受動側言霊。わ行から合体して出てくるウ次元世界の残り半分のフトをどのようにどのように手助けするか(タスキ)考慮して自ら背負い。
・アメノマサキをカヅラとして
=カヅラは鬘で頭に被るもの。まず目指す意識の行動規範の目標象徴として、マサキ、正しい気を設定して。
・あめのかぐやまのササバをタグサにゆいて
=欲望表現表記の手順と言葉の要素を、予め玉と鏡と剣の判断規範を用いて了解可能な束となって連結していて(先天において欲望表現が既に準備できている)、
・あめのイワヤドにうけふせて、ふみトドロコシ
=ウズメ独自の五感感覚による欲望充足世界を得ようとします。
ウズメの次元世界は欲望からする実在世界を指しますが、ウズメには実在世界そのものには働き掛ける機能はありません。そこにあるのは物質の作用反作用の世界ですので、ここでのウズメの意識であるイワヤドに直接はたらきかけることはできません。そこで物理世界をかき回して五感に訴える反作用を生じさせることをします。
それが桶をひっくり返して太鼓のように叩き騒ぎを起こすことです。桶は箍(タガ)で絞められていて、ウズメはウ段のタガに向って騒ぎます。
例えば腹減ったと騒ぐ時を見てみれば、その時のタガは腹減ったという欲望のタガを揺るがしていくので、他次元のタガ(父韻のこと)を叩いても欲望次元は目覚めません。
欲望充足の対象がまだ得られず、何が出るかまだ分からないが、主体側の主張だけはでき、受け取るものはまだ無いということで桶がひっくりがえっています。
知識概念のオ次元でも、知識は過去世界に既にあったもので騒いで勉強して得ますが、自分で創造したものではありません。
・かむがかりして、ムナヂをかきいでモヒモをホトにおしたれき
=がむしゃらな動きをしても欲望が欲望の充足を産むことはありません。欲望は欲望として一つの世界を作っているので、充足とは別の世界です。あたかも何も無い地(ムナヂ)の上で踊るようなものです。 それでも実在と実在を連結すれば何かが生まれると思い、子を産むホト(陰部)に逆方向から実在を持ち込もうとします。
知識知識と叫んでも知識が増えるわけでもないのです。
・かれタカマノハラゆすりてヤオヨロズのカミともにわらいき
=こうした精神意識界での心の原理を無視した行いを全実在世界から笑われます。しかし物質同士の作用による騒音、五感を覚醒することは残ります。
主体側の働きかけはここまでです。
後は働きかけを受け取る側がうごきます。人は主体的に事を動かしているようですが、実はここまでです。
訓読:ここにアマテラスオオミカミあやしとおもおして、アメのイワヤドをほそめにひらきて、うちよりのりたまえるは、アがこもりますによりてアマノハラおのずからくらく、アシハラのナカツクニもみなくらけんとおもうを、などてアメノウズメはあそびし、またヤオヨロスのカミもろもろワラウゾとのりたまいき。すなわちアメノウズメ、ナがミコトにまさりてとうときカミいますがゆえにエラギあそぶともうしき。かくもうすあいだに、アメノコヤネのミコト・フトタマのミコトかのカガミをさしいでて、アマテラスオオミカミにみせまつるときに、アマテラスオオミカミいよいよアヤシとおもおして、ややトよりいでてノゾミますときに、かのカクリたちたるアメノタヂカラオのカミそのミテをとりヒキいだしまつりき。すなわちフトタマのミコト、シリクメナワをそのミシリエにひきわたして、ここよりウチにナかえりましソともうしき。かれアマテラスオオミカミいでませるときに、タカマノハラもアシハラのナカツくにもオノズカラてりあかりき。
・ここにアマテラスオオミカミあやしとおもおして、アメのイワヤドをほそめにひらきて
=ここにアマテラスが出てきますがウズメの他にアマテラスがいるのではなく、古事記の神というものは自分という人間の各次元での現れの表徴的な分身を最も適切な名付けによって示したものです。ですので五十神がいようが百いようが全て自分の分身のその時処位の特徴的な名を与えられたものです。
ここでウズメは逆行した行為を笑われていて、アマテラスも聞きつけたということですが、実はウズメ自身の隠れた心の精神規範が自分の行為と合わないことに関心を示したことになります。アマテラスと言うのはいまここの時点ではウズメに隠されている正当な思惟規範ということで、自己反省気付きの始まるところです。誰にでも備わっている自己確認の機能が働いたということになります。
自分が了解する直前に必ずポッと顔を出す困惑疑惑の類です。
・うちよりのりたまえるは、アがこもりますによりてアマノハラおのずからくらく、アシハラのナカツクニもみなくらけんとおもうを
=それでも直前の困惑をいつも乗り越えていくのは、誰でもが先天の規範を使用しているからです。
アマテラスというのは潜在的な完璧な思惟規範ですが、まだ自己に所有していないばかりか、自己規範の正当性を外部(イワトの前に用意されている)との摺り合わせ確認もできていません。
そこで自己の精神世界も暗く外部も暗いと思っています。ということはこの暗さに対して光の照りを対比させていることで、その光の出所が自身の持つ先天の思惟規範というわけです。
・などてアメノウズメはあそびし、またヤオヨロスのカミもろもろワラウゾとのりたまいき
=何故かどうしてかという興味関心意図などは結局は暗いながらに持っている自分の判断軌範によるものです。(ここではウズメの隠れた正当な規範の代弁者としてのアマテラスですから、アマテラスに借りた自問自答です。不法犯罪非道反人格的な行為を犯すときに最後の瞬間に訪れる犯罪者への光です。)
・すなわちアメノウズメ、ナがミコトにまさりてとうときカミいますがゆえによろこびあそぶともうしき
=先天の中での主客の規範の二重性を各人が、私もあなたもウズメもアマテラスもそれぞれの時点で、持っています。
ここで言う二重性というのは人格の二重性というようなものではなく、自他・主客共に同じ規範を持ちつつ、自分の働きを自分の受動側で受け、自分で受けた受動側を自分の主体側で確認するというようなことで、ウズメの起こした騒ぎのアマテラスの名を借りたウズメの自己発見自己反省独り言解釈です。
また、先天の規範が表徴の規範となってあらわれでることで、ついで現実の行動規範となって了解確認されるところです。
・かくもうすあいだに、アメノコヤネのミコト・フトタマのミコトかのカガミをさしいでて
=客体側の鏡規範を見せてアマテラスに自己確認を求めます。この客体側の鏡は主体側の働き掛け様式に反応するだけで、鏡に向って仕掛けた通りの事を返してきます。ここではアメノコヤネが鏡を介して行き交うアマテラスとウズメの全体を代表し、フトタマがウズメとアマテラスの主体側の働き掛けを代表しています。
・アマテラスオオミカミにみせまつるときに、アマテラスオオミカミいよいよアヤシとおもおして
=主体側であるアマテラスのする通りに鏡は返答します。
普通にはものを見てこれは見えているものだといって簡単に済ましますが、見るものが見られたものと同一だということは大変な出来事です。 五円玉が一万円札に見えたら驚くでしょう。アマテラスはイワトにいて騒ぎに五感を起こされて、起こされた五感通りのことが展開されていることをアヤシと思います。確認直前の惑いです。普通に経験しています。
・ややトよりいでてノゾミますときに
=そこで更に身を乗り出します。ということはやってきた五感の物理・生理作用に自然な反作用を、アマテラスの受容可能な範囲内で反応可能な物理生理の反作用を起こします。と同時にアマテラスには先天の判断規範が備わっていますから、それが働きます。つまりアマテラスの物理生理の反作用が判断規範の言葉となって現われ出ることです。
その一連の動きの元となっているのはウズメの騒ぎです。その騒ぎの内容は、実在で実在を産もうとすることですが、アマテラスはタカアマハラという精神意識界の総覧者で、一方ウズメは騒ぎの意識界での表現者なので、実在物質世界とは直接に関係していません。
そこで騒ぎという物理的作用を仲介してアマテラスの意識界に反映するものが、アマテラス側の生理的な反作用に続いて必要です。そうしないと意識界に騒ぎが反映されません。
・かのカクリたちたるアメノタヂカラオのカミそのミテをとりヒキいだしまつりき
=こうして、物質界の騒ぎと精神界の騒ぎとの交流点が物象・半分物質半分精神というイメージ、に見つかります。ここで物質側はこれ以上変身できませんが、精神側は半分半分になれるという性質を利用して、物理反応を物象の反応として物象の反応を物理反応としていきます。ここには物質世界の介在、表現表記の介在たる言葉が出てきます。
その為には働き、チカラ、動因、意志等の意識への働きかけが物象となった形で必要となります。
タヂカラオは父韻の総体を代表させた名前で、実在に働き掛けて実在を現前させます。タヂカラオは例えば物を見るとき、見させられた物を見させるようにする力動を主体側に伝えるために、主体側の見る力動を受け入れる隠れた力動です。簡単に言えば意識上の主客の連結を取り結ぶ役割にあります。
その現れが物を選択する手(テ)と表徴されています。ここではウ次元のウズメの騒ぎ(テ)を受け取ったということで、確認して、了解して、ウズメに返したということになります。
・すなわちフトタマのミコト、シリクメナワをそのミシリエにひきわたして、ここよりウチにナかえりましソともうしき
=ここで自分の中にある主客の一体性が客観世界の主客の反映として統一されます。(客観世界の主客というのは、残り半分のフト、二十、が主体側に渡るという主。)
しかし、注意しなければならないのは、実在世界は四つの次元世界としてありますから、意識界もそのようにならねばなりません。その為には意識界におけるウオアエ次元の混同を避けるための結界がフトタマによって引かれます。
フトタマが引くというのは、各次元世界の主体側を引き受けているからです。
その意味は、ウ次元のウズメが投げたボールはウズメに返さなければ理解交流ができないということで、アマテラスが選択させられた次元から出たならば、その後には他のオアエの世界があってもそこへ戻ることは混乱を呼びます。主のフトが客のフトに答えるということです。
・かれアマテラスオオミカミいでませるときに
=こうして例えばウ次元の思いがあったときには、そのウ次元の思いを得なければなりませんから、アマテラスもウ次元の姿を取って出てくるわけです。
アマテラスは自分の意識、ウズメの場合はウズメの意識ですが、いずれにしてもアマテラスが主体的に出てくるように見えるのは、引っ張り出し役のタヂカラが働きであって実在ではないからです。
・タカマノハラもアシハラのナカツくにもオノズカラてりあかりき
=こうして最初意識が出てきて、また元に戻りました。最初の意識の話をしているのにまた元に戻るというと矛盾しているようですが、これは言霊循環の一瞬間のスナップ写真だからです。
-------------------------------
タカミムスビノカミのこ(子)
・・・オモイカネのカミにおもわしめて、
・・とこよのナガナキドリをつどえてなかしめて、
・・あめのやすのかわのカワラのあめのかたしわをとり、
・・あめのかなやまのカネをとりて、カヌチあまつまうらをまぎて、
・・イシコリドメのミコトにおおせてカガミをつくらしめ、
・・タマノヤのミコトにおおせてヤサカのまがたまのイオツのミスマルのたまをつくらしめて、
・・アメノコヤネのミコト・
・・フトタマのミコトをよびて、
・・あめのかぐやまのマオシカのカタをうつぬきにぬきて、
・・あめのかぐやまのアメノハワカをとりて、ウラエまかなわしめて、
・・あめのかぐやまのイオツマサカキをネコジにコジて、
・・ホツエにヤサカのまがたまのイオツのミスマルのたまをとりつけ、
・・ナカツエにヤタカガミをとりかけ、
・・シズエにしらにぎて・あおにぎてをとりしでて、
このクサグサのものは、
・・フトタマのミコト、フトみてぐらととりもたして、
・・アメノコヤネのミコト、フトのりごとネギもうして、
・・アメノタヂカラオのカミみとのワキにかくりたたして、
アメノウズメのミコト
・・あめのかぐやまのアメノヒカゲをたすきにかけて、
・・アメノマサキをカヅラとして、
・・あめのかぐやまのササバをタグサにゆいて、
・・あめのイワヤドにうけふせて、ふみトドロコシ、かむがかりして、ムナヂをかきいでモヒモをホトにおしたれき。
かれタカマノハラゆすりてヤオヨロズのカミともにわらいき。
アマテラスオオミカミ
・・あやしとおもおして、
・・アメのイワヤドをほそめにひらきて、うちよりのりたまえるは、
・・アがこもりますによりてアマノハラおのずからくらく、アシハラのナカツクニもみなくらけんとおもうを、などてアメノウズメはあそびし、またヤオヨロスのカミもろもろワラウゾとのりたまいき。
すなわちアメノウズメ、ナがミコトにまさりてとうときカミいますがゆえにエラギあそぶともうしき。かくもうすあいだに、
アメノコヤネのミコト・
フトタマのミコト
・・かのカガミをさしいでて、アマテラスオオミカミにみせまつるときに、
アマテラスオオミカミ
・・いよいよアヤシとおもおして、
・・ややトよりいでてノゾミますときに、
かのカクリたちたるアメノタヂカラオのカミ
・・そのミテをとりヒキいだしまつりき。
すなわちフトタマのミコト、
・・シリクメナワをそのミシリエにひきわたして、ここよりウチにナかえりましソともうしき。
かれアマテラスオオミカミいでませるときに、
・・タカマノハラも
・・アシハラのナカツくにもオノズカラてりあかりき。
・アメノコヤネのミコト・フトタマのミコトをよびて
・アメノコヤネのミコト、フトのりごとネギもうして
・かくもうすあいだに、アメノコヤネのミコト・フトタマのミコトかのカガミをさしいでて