かれその伊耶那美の命に号(なず)けて黄泉津大神といふ。またその追ひ及きしをもちて道敷(ちしき)の大神ともいへり。
伊耶那岐の命と伊耶那美の命が千引きの石を挟んで離婚をしました。その事によって伊耶那美の命は黄泉国の物質科学文明創造を分担する総覧者であり、主宰神であることがはっきりと決まりました。その主宰神としての名前を黄泉津大神といいます。また伊耶那美の命が伊耶那岐の命を追いかけて黄泉津比良坂の坂本まで行った事によって、その黄泉国と高天原との間に越す事が出来ない道理の境界線が決定いたしましたから、道敷(ちしき)の大神とも呼ぶのであります。 (島田正路著 「古事記と言霊」講座 より)
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1。よもつ。よみ。予母都。四方津。黄泉。
「よもつ」用例
〔乱泉竿喫〕よもつへぐひ。
ここに、その妹伊邪那美命を相見まく欲して、黄泉国に追ひ往でましき
於レ是、欲レ相二│見其妹伊邪那美命、追二│往乱泉國。爾、
〔乱泉國〕よもつくに。よみのくに。死者の魂の行く国。「黄泉」は、シナの用字。冥界。冥土。
「吾に辱見せたまひつ。」と言して、予母都志許売【この六字、音を以ふ。】を遣はして追はしめき
竹内古文書によれば須佐鳴は「須佐鳴月読」と固有の一人称であり、「天照坐皇命」に別れを告げ、四方津国の再構築に赴くとしるされる。
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よもつの表記例。
乱泉竿喫。乱泉國。予母都志許売。四方津国。黄泉国。
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以下引用です。
この文章に黄泉国(よみのくに、よもつくに)の言葉が出て来ました。古事記の中にも上記の二つの読み方が出て来ます。特にその欄外の訳注に「地下にありとされる空想上の世界」(角川書店)とか、「地下にある死者の住む国で穢れた所とされている」(岩波書店)と書かれています。また「黄泉の文字は漢文からくる」ともあります。すべては古事記神話の真意を知らない人の誤った解釈であります。
黄泉(こうせん)の言葉は仏教の死後の国の事で、古神道布斗麻邇が隠没した後に、仏教の影響でその様な解釈になったものと思われます。また「よもつくに」を予母都国、または四方津国と書くこともあります。
予母都国と書けば予(あらかじ)めの母なる都の国と読めます。人類一切の諸文化は日本以外の国で起り、その諸文化を摂取して、言霊原理の鏡に照し合わせて人類全体の文明として取り入れ、所を得しめるのが昔の高天原日本の使命でありました。
四方津国と書けば、その日本から四方に広がっている外国という事となります。また外国は人類文明に摂取される前の、予めなる文化の生れる母なる都、という訳であります。
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純粋な心と概念的思考の境目と言ったらいいでしょうか、五十音の言霊以外はすべて黄泉国のもの、イザナギの命がイザナミの命を追いかけて黄泉国に行って、後ろ手に振って逃げ帰ってくる、これはどういうことか。
目で見える物事はすべて黄泉国のこと、渦中にいたら複雑になって見えなくなっている。
今の国文学は仏教の説を取り入れて「あの世」というものを想定して黄泉国としております。ですが、あの世って何処にあるのでしょう、霊的現象から分るかもしれません。言霊の学問のあの世は近からず遠からず、というよりも遠くなくとてつも近い、あの、って言う前より近い。主体的なのはこの世です。客観的なのがあの世です
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安万侶さんに上手に誤魔化されているようです。
黄泉の国の読み方が二つあります。「よみ」と「よもつ」で、そこにシナの用字と意味が混ぜ合わされ一杯喰わされていたというわけです。
よもつ国は死者の魂の行く国どころか、われわれ生者の生きている魂の動きの無くなった国のことでした。
昨日造った言霊の鏡はよもつ国での産物でした。
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『 「ここにその妹伊耶那美の命を相見まくおもほして、黄泉国(よもつくに)に追ひ往(い)でましき。」
文章をそのまま解釈しますと「伊耶那岐の命は、先に高天原の仕事を終え、本来の自らの領域である客観世界の国である黄泉国(よもつくに)に去って行った伊耶那美の命に会いたいと思い、高天原から黄泉国に伊耶那美の命を追って出て行きました」という事になります。けれど事の内容はそう簡単なものではありません。伊耶那岐・美の二神は共同で言霊子音を生み、生み終えた伊耶那美の命は客観的文明世界建設のため黄泉国に去って行きます。』
ここは心理的に言えば執着で、自分の所有物の確認、自己知識の有効性の了解とかにもなるでしょう。
と同時に自分で造ったものに対しての優越性の追求確認でもあります。
ものを造るのはものが出来て終わりということはありません。常に造ったものに対して自己の優位をどこかに刻印しておきたい思いがあります。。
子供に上手に出来たねと褒める言葉を送ると、怒ったように自作を破壊していきます。ちょうどそんな心理を私たちは持っているのでしょう。
大思想なり論文なりものの創出についても、称賛を受け取る本人の心の中には「へん、こんなもので満足かい、へなちょこどもが」という気持ちがあります。
妹伊耶那美の命は伊耶那岐の命の片割れです。愛情において自分が相手に対して何かをして相手がそれに答えているときには、自分は相手を創造しているような気持ちを持ち易い。だがそこに所有感や成果という記憶に縛られると真理の主体者、確立した者、主催者意識という崩壊の芽が芽生え始めます。
伊耶那岐の命が追って行く先にはそのような危険が待ち伏せています。。
わたしを含めすべてのブログの書き手も同様です。(犬が全ての柱に小便をひっかけて廻るようなものでしょう)。
では伊耶那岐の命の意図はなんでしょう。。
『伊耶那岐の命語らひて詔りたまひしく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、吾と我と作れる国、いまだ作り竟(を)へずあれば、還りまさね」と詔りたまひき。』
建御雷(たけみかづち)の男の神は子供の火の迦具土の神を切り、主体を確立しています。伊耶那美とは何もすることはないはずです。
いまだ作り竟(を)へずとは何でしょう。
2。よもつ。よみ。予母都。四方津。黄泉。
『ここにその妹伊耶那美の命を相見まくおもほして、黄泉国(よもつくに)に追ひ往(い)でましき。』
○『 ここに殿の縢戸(くみど)より出で向へたまふ時に、
縢戸をくみど、とざしど、さしどなどとの読み方があります。また殿の騰戸とする写本もあります。この場合はあげど、あがりどと読むこととなります。縢戸と読めば閉った戸の意であり、高天原と黄泉国とを隔てる戸の意となります。騰戸と読めば、風呂に入り、終って上って来る時に浴びる湯を「上り湯」という事から、別の意味が出て来ます。
殿とは「との」または「あらか」とも読みます。御殿(みあらか)または神殿の事で、言霊学から言えば五十音図表を示します。五十音図では向って右の母音から事は始まり、八つの父韻を経て、最左側の半母音で結論となります。すると、事が「上る」というのは半母音に於てという事となり、騰戸(あがりど)とは五十音図の半母音よりという事と解釈されます。高天原より客体である黄泉に出て行くには、半母音ワ行より、という事が出来ます。騰戸(あがりど)と読むのが適当という事となりましょう。』
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「高天原より客体である黄泉に出て行くには、半母音ワ行より、という事が出来ます。」
伊耶那岐の伊耶那美に会う方法は半母音ワ行から出て向かうとあります。それは客体、結果、子を生むことと同じでそこから出会いをしようということになる。
伊耶那美は客体結果側に居るから同じ土俵に立つことになる。こうして既に危険は回避された。
われわれは伊耶那岐ではないのでどんないい加減な事を仕出かすか分からない。ワ行から出ていかないとどうなるか。
そもそもわれわれにとってのくみ戸、上がり戸とはその時その場で書きしゃべりつくったものとなる。せいぜいそれらに自分に課した原理原則を当てはめることになると思う。そこで原理原則を着た個人的な主張を通そうとすることになる。
相手が客体であることのハンディにつけ込む。客体は動けない動きが鈍い融通性がない、あるいは自分の方にそれを当てはめる。
ア行を混ぜて混乱する。客体結果に到達する前に主張が始まり、話の次元をまぜこぜにする。
あるいは父韻のみで話す。易占いの話しかたに象徴的なように次元を無視してどのように解釈ができるように話す。
というようなことが起こる。いずれも自己の成果を自己主張=本人の真理=客体に対しても真理として通そうとする。
では何故自分の主張が他人に通ると考えてしまうようになるのか。私自身を含め全ての人がそんな感じです。
上がり戸から出ていかないで途中からとんでもない方向へ行くことについて、通常のわれわれの意識行為、について父韻を使って解説出来るかやってみましょう。つまり何故わたしの駄目な駄文ブログが平気で書かれるかを検証してみよう。
○、まず始めは、ブログの内容に関して意図内容に関する自覚が無いことです。確かに経験知識をくすぐられ自分のものにしたい知りたい思いがありました。しかしそれは自分の自覚から出たものではない。
キ、知的好奇心関心が集まって始まっているので、その持続が終わったらばそれまで。
チ、基礎知識蓄積が無いため血肉となっていくものの基礎体力が無い。
ミ、余りにも少ない知識のため新しい知識の照合のしようがない。
ヒ、表現しようにも出来ないので引用だけですましてしまう。
シ、理解そっちのけで引用のための引用に陥る。
ニ、そのため知識習得と引用するだけという名目になりがち。
イ、それだけがブログを書く目標になりがちで。
リ、毎回同じ事を繰り返している。
○、結局ブログを書く繰り返しがまた興味を産んでいく。
3。よもつ。よみ。予母都。四方津。黄泉。
『 伊耶那岐の命語らひて詔りたまひしく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、
吾と我と作れる国、いまだ作り竟(を)へずあれば、還りまさね」と詔りたまひき。』
伊耶那岐の命は伊耶那美の命に語りかけました。
「愛する妻神よ、私と貴方が力を合わせて作って来た国がまだ作りおえたわけではありません。これからも一緒に仕事をするために帰って来てはくれませんか。」
岐美の二命は共同で言霊子音を生み、次に岐の命は一人で五十音言霊の整理・運用法を検討し、建御雷の男の神という文明創造の主観原理を確認しました。この主観内原理が客観的にも真理である事が確認された暁には、また岐美二神は力を合わせて人類文明を創造して行く事が出来る筈です。ですから帰ってきて下さい、という訳であります。』
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『吾と我と作れる国、いまだ作り竟(を)へずあれば、還りまさね」
ブログを書いて送信すればそれで終わりと思っています。
ところが伊耶那岐はそうじゃないよといいます。
まだ終わっていない。何がでしょうか。
そうです。あなたにもし、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、」という思いがあるならボタンを押して送信したら終わりということではないのです。もし、「愛(うつく)し」という思いがないならそれだけのことです。全ては書き散らかされたゴミとなるでしょう。
ではわたしは。
「愛(うつく)し」という思いは無いにしても知的な興味は持続しています。
これは決定的な違いでしょう。つまりわたしのは決定的に駄目な部類のものでしょう。
知的な関心事はそれが満足され満足されたところからまた関心事が芽生えます。終わりが無く、事についてのて真相に達した完結性がありません。
愛に関しては、自分の方に自覚と完結性を持ってはいますが相手は不明です。自分を提出して自分を目標にしてもらおうと思っても相手次第となります。
愛をわたしのブログはと主語を入れ換えてみれば直ぐ分かります。。
ここでの主語は伊耶那岐はとしなくてはなりません。。
伊耶那岐はこのブログを愛し伊耶那岐自身が書いているとするとどうなるでしょうか。
○、伊耶那岐は好きで書いているブログの送信ボタンを押しました。ブログは伊耶那岐自身です。画面に出てきたのは自分の思いです。手を抜いたとこ気に入ったとこ等皆分かっています。
チ、今回は「いまだ作り竟(を)へずあれば、」に関して書いていて、書いたとしても終わっていない感覚を掴んでいます。
キ、そこで終わっていないことにつてのテーマが心中から浮かび上がってきます。
リ、テーマに関しては自覚があるのでそれ自身を拡大し変相する事が出来ます。
ヒ、それらの中で見事に表現されているというものが取り上げられ、
シ、これで行けると行動の目標が立ち、
ニ、表題を掲げることができ、
イ、その線に沿って行動していき
ミ、観察整理思考の彼方に目標の実現があるだろうことを示せます。
○、しかし、自身は納得し、目標と結論は出せても他人からの証明は未来の目標であるに留まります。
そこで、伊耶那岐は「吾と我と作れる国、いまだ作り竟(を)へずあれば、還りまさね」と詔りたまひき」となる。
4。よもつ。よみ。予母都。四方津。黄泉。
『 ここに伊耶那美の命の答へたまはく、「悔(くや)しかも、速(と)く来まさず。吾は黄泉戸喫(へぐひ)しつ。然れども愛しき我が汝兄(なせ)の命、入り来ませること恐(かしこ)し。かれ還りなむを。しまらく黄泉神(よもつかみ)と 論(あげつら)はむ。我をな視たまひそ」と、
伊耶那美の命は答えました。「残念な事です。お別れして直ぐに尋ねて来て下さいませんでした。その間に私は自分の責任領域である外国の客観世界の学問や言葉を覚えてしまいました。
けれど愛する貴方様がわざわざ来て下さった事は恐れ多い事ではあります。ですから帰ることにしましょう。しかし、その前に外国の学問や文字の神々と将来の事を相談しなければなりません。その間私の姿を見ないで下さいね」と。黄泉国の学問・文化はまだその頃は研究が始まったばかりで、はっきりした成果があがっていない事を伊耶那美の命は恥ずかしく思い、姿を見ないで下さい、と言ったのであります。
かく白(もお)して、その殿内(とのぬち)に還り入りませるほど、いと久しくて待ちかねたまひき。
そう言って伊耶那美の命はその責任領域である客観世界に還って行きましたが中々出て来ません。伊耶那岐の命は待ち草臥(くたび)れてしまいました。客観的物質文明はこの揺籃時代より今日まで、その建設に四・五千年を要した事を考えますと、岐の命が待ち草臥れた、という事も頷かれます。』
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伊耶那美が答えていることになっていますが、客体結果である彼女は答えることは出来ません。同様に黄泉神と議論をしに行くと言いますが彼女は議論をしません。出て来るのを待っても無駄なことです。動きはありません。実際は伊耶那岐の潜在性に忍び込み巣くったものを指しています。経験理性で抽象概念を語ること等です。従って伊耶那岐の方から行動にでます。
伊耶那岐は創造する主体を自覚し制作しましたが、表現されたもの創造されたものが他の者から働きかけられた場合に彼と同様の創造主体性を与えられるかどうかについては、経験されていません。そこではやはり「あげつらい」の論理理性経験がものを言っています。
経験理性同士の話は終わりがありません。声のでかい方が勝ちです。論理は自己の経験を説明するだけで、自分の入場退出も議論が必要です。自分とは違う経験をしている相手に議論をするわけですから終わりようがありません。
自分の創造物を愛するが故に創造物が何も動かず他証が出来ないことは非常に「悔し」いことでしょう。伊耶那岐は自分の不備を感じ申し訳ない思いがあることでしょう。
わたしの文章ブログが心のこもった物でありそのように作られているならば、他人に何の影響も無いというのは自分にとっては悔しいことです。しかし、それを助長するように、ブログには訪問人数や履歴などが残るようになっていますが、これはブログを愛する為の物ではなく、無用な競争心を煽るもので、悔しさや愛情を持たせようとする物ではありません。
自分の創造物をして自分に「恐しこし」と言わせるには相当な物というか、次元の相違を感じます。前回に書いたようにわたしのは単なる関心から来ていることでここの文章に当てはまりません。しかし、伊耶那岐という人は凄い人ですね。
伊耶那岐の反省が始まります。
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『 かれ左の御髻(みみづら)に刺させる湯津爪櫛(ゆつつまくし)の男柱一箇(をはしらひとつ)取り闕(か)きて、一(ひと)つ火燭(びとも)して入り見たまふ時に、』
髻(みづら)とは古代の男の髪の形の一種で、頭髪を左右に分けて耳の辺りで輪にします。湯津爪櫛とは前出の湯津石村と同じで、湯津とは五百箇(いはつ)の意であります。五数を基調とした百箇の意。爪櫛(つまぐし)とは髪(かみ)(神・五十音言霊)を櫛(くし)けずる道具です。五十音図は櫛の形をしています。そこで湯津爪櫛の全体で五十音言霊図の意となります。
男柱とは櫛を言霊図に喩えた時の向って一番右側の五母音の並び、言霊アオウエイの事であります。その一箇(ひとつ)ですから五つの母音の中の一つの事を指します。妻神伊耶那美の命恋(こい)し、と思う心なら言霊アであり、黄泉国の様子に好奇心を持ってなら言霊オとなりましょう。その一つの心でもって黄泉国の中に入って行って、その国の客観的世界の有様をのぞき見たのであります。
『 蛆たかれころろぎて、』
伊耶那岐の命が黄泉国の中をのぞいて見ると、伊耶那美の命の身体には蛆(うじ)が沢山たかっていた、という事です。蛆(うじ)とは言霊ウの字の事を指します。言霊ウの性能である人間の五官感覚に基づく欲望の所産である種々の文化の事を謂います。この頃の客観世界の物質文化はまだそれ程発達しておらず、高天原の精神文化程整然としたものではなかったのです。その雑多の物質科学の研究の自己主張が伊耶那美の命にたかり附いて、音をたてていた、という事であります。「ころろきて」とは辞書に「喉(のど)がコロコロと鳴る様」とあります。
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待っても動きの無いことを悟った伊耶那岐は行動を開始します。そこで伊耶那岐は自分の片割れ、自分の表現、自分の創造物の有り様にびっくりします。
何を見たかといえば論議とか理性判断とかの内実は『 蛆たかれころろぎて、』いることと見抜きます。それは自分自身のことでした。
どのように見たかと言えばそれも簡単な方法です。五母音行の一つを取ってただけです。
その後高天原に戻るときに、父韻の使っての反省、半母音の使用、十拳の判断力、エヲウ半母音の言霊の使用等があります。
何故一つなのでしょうか。二つ三つ同時にというわけには行かないのでしょうか。伊耶那岐は所有している櫛の一つだけを使用しました。火を灯すのは暗いからです。明るくするにはまとめて灯すほうがいい筈です。でも一つだけです。
一つでなければならない理由があるはずです。伊耶那美が黄泉国に引っ込んだということはそこにその存在の痕跡がないということです。伊耶那岐の精神の働きにとってわざわざ追ってきた伊耶那美の存在が無いということはありません。先程まで居たのに居ないという矛盾を解決するのが光りです。
ひ・霊、
と・十、
つ・津
ひ・火
一つ、ひとつ、というのは言霊が母音から半母音へ八つの父韻を全部渡って子音現象となる最小の単位のことです。
一つ火はそういった実相を持った火ということ。
ある子音現象とは既に十の言霊の橋を渡っているからでその実相を持った火であるなら一つでいいわけです。というのも影は単なる光りの欠如でしかなく実相を持った光りがわずかでも射せば黄泉の影は存在しないからです。
もしここに二つ三つの火を灯したとなればそれは概念としての火となるだけです。
母音の五つはそれぞれ独立した世界ですからそれに応じて一つ灯せばよいことになります。
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『頭(かしら)には 大雷(おほいかづち)居り、胸には火(ほ)の雷居り、腹には黒雷居り、陰(ほと)には柝(さく)雷居り、左の手には若(わき)雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴(なる)雷居り、右の足には伏(ふし)雷居り、并せて八くさの雷神成り居りき。』
雷神(いかづちかみ)とは、五十神である五十音言霊を粘土板に刻んで素焼にしたもの、と前に説明した事がありましたが、ここに出る雷神は八種の神代表音文字である山津見の神のことではなく、黄泉国外国の種々雑多な言葉・文字の事であります。高天原から黄泉国に来て暫く日が経ちましたので、伊耶那美の命の心身には外国の物の考え方、言葉や文字の文化が浸みこんでしまって、そのそれぞれの統制のない自己主張の声が轟(とどろ)き渡っていた、という事であります。ここに出ます黒雷より伏雷までの八雷神は黄泉国の言葉と文字の作成の方法のことで、言霊百神の数には入りません。
5。よもつ。よみ。予母都。四方津。黄泉。
他、客体、相手、結論、あなた、被創造物、等々への対し方。(古事記の教えを元にして)
黄泉の国にいる伊耶那美に対することはすべからく他者、他物、、客体、相手、結論、あなた、自分であれ誰かであれその被創造物、そして死に関すること等々へ対することと同じ。
『 ここにその妹伊耶那美の命を相見まくおもほして、黄泉国(よもつくに)に追ひ往(い)でましき。ここに殿の縢戸(くみど)より出で向へたまふ時に、伊耶那岐の命語らひて詔りたまひしく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、吾と我と作れる国、いまだ作り竟(を)へずあれば、還りまさね」と詔りたまひき。ここに伊耶那美の命の答へたまはく、「悔(くや)しかも、速(と)く来まさず。吾は黄泉戸喫(へぐひ)しつ。然れども愛しき我が汝兄(なせ)の命、入り来ませること恐(かしこ)し。かれ還りなむを。しまらく黄泉神(よもつかみ)と論(あげつら)はむ。我をな視たまひそ」と、かく白(もお)して、その殿内(とのぬち)に還り入りませるほど、いと久しくて待ちかねたまひき。かれ左の御髻(みみづら)に刺させる湯津爪櫛(ゆつつまくし)の男柱一箇(をはしらひとつ)取り闕(か)きて、一(ひと)つ火燭(びとも)して入り見たまふ時に、蛆(うじ)たかれころろぎて』
①-ギ、ここにその妹伊耶那美の命を相見まくおもほして、黄泉国(よもつくに)に追ひ往(い)でましき。
②-ギ、ここに殿の縢戸(くみど)より出で向へたまふ時に、
③-ギ、伊耶那岐の命語らひて詔りたまひしく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、
④-ギ、吾と我と作れる国、いまだ作り竟(を)へずあれば、還りまさね」と詔りたまひき。
-ミ、ここに伊耶那美の命の答へたまはく、「悔(くや)しかも、速(と)く来まさず。吾は黄泉戸喫(へぐひ)しつ。然れども愛しき我が汝兄(なせ)の命、入り来ませること恐(かしこ)し。かれ還りなむを。しまらく黄泉神(よもつかみ)と論(あげつら)はむ。我をな視たまひそ」と、かく白(もお)して、その殿内(とのぬち)に還り入りませるほど、
⑤-ギ、いと久しくて待ちかねたまひき。
⑥-ギ、、かれ左の御髻(みみづら)に刺させる湯津爪櫛(ゆつつまくし)の男柱一箇(をはしらひとつ)取り闕(か)きて、
⑦-ギ、一(ひと)つ火燭(びとも)して入り見たまふ時に、
⑧-ミ、蛆(うじ)たかれころろぎて、
-ミ、頭(かしら)には大雷(おほいかづち)居り、胸には火(ほ)の雷居り、腹には黒雷居り、陰(ほと)には柝(さく)雷居り、左の手には若(わき)雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴(なる)雷居り、右の足には伏(ふし)雷居り、并せて八くさの雷神成り居りき。
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①-ギ、まず逢いたい、追いかけて行ってでも一目見たいと強い思いを持つこと。これから行為を起こす主体の意志の強さがなければその後のことはおぼつかない。ただ何となく、少しだけ、興味関心覗きたいだけではたかが知れている。
②-ギ、多少の主体的な意志を持ったのはいいとしても、相手と同じ土俵に立てず、自己の興味関心からのみ、自己の欲望からのみ、相手の立場を理解せず、他、他者他物の方向性を無視したのでは駄目。自分も同じくみど、あがりどから出てきたことを示す。
③-ギ、対するときにはそのもの、そのことに愛しみを持っていること。主体側の心持ちはそのものごとの全てを決していく。
④-ギ、大満足が得られ謎が解け今後の方針が立ったとしても自分一人内でのと。自証他証の検証はまだ終わっていない。またそれが相手側の意思決定なら自証他証は未だ明らかでないことを示す。
-ミ、しかし「他」は本性の内に自分を見せたくないものを含むようだ。自分の所有物を保護するため、表現された物が次の自分の始まる第一歩となるためまだ人にはみせられないと思うようになる。
-ミ、そこで相手が再考しよう反省しようとなればよいが。
⑤-ギ、自分の行為思惟行為を客観化しようというのは、ただただ時間を消費するのみ。その多くは堂々巡りのみ。反省の原理が無い。
⑥-ギ、問題があるならそれの主体意志はどの次元でのものか、どの時制でのものか、どの場所でのものか、見極めなくてはならない。
⑦-ギ、そして自分の時処位が相手と同様であり、共感交流に何も差し障りが起きていないことを確かめる。一つの原理原則をかざすだけでよい。
⑧ギ、-ミ、そこで相手に他物に「蛆、うじ、ウの時処位の字、」を見たのなら速やかに手を引く。(今の処まででは。この後禊ぎが来る)欲望次元の話し相手を納得させるのは容易なことではありません。(禊ぎはそれを解決する筈です。楽しみになってきた。)
6。よもつ。よみ。予母都。四方津。黄泉。
相手の反応。他者への対応。今度は他者のため、相手を救うための対応になっていきます。相手を理解し一つ一つ手を取り教えてくれます。(理解して運用するわたしがいればいいのですが)
○ギ、ここに伊耶那岐の命、見畏(みかしこ)みて逃げ還りたまふ時に
蛆の人達とその意識に対するのは大変です。うんざりします。でも、他、客体、相手、結論、あなた、被創造物、等々は全て伊耶那岐の片割れです。自分の愛でた子達です。例え蛆の人であろうとも潰し抹殺してしまうことはなりません。蛆の人にはそれなりの思いと方法があり、それをもって関係したいと願っています。そこでそれらを一つ一つ諭し解きほどいていくことになります。
伊耶那岐は自分の創造物をよもつ国で見て畏(みかしこ)む態度となりました。それらに染まってしまうのは恐ろしいことです。しかしそれらも自分の意識であり自分の創造物です。伊耶那美の「辱(はじ)」という言葉に率直に反応します。自分の愛の結晶です、敬って慎み承るがそれには染まらないことを誓います。
❶ミ、その妹伊耶那美の命、「吾に辱(はじ)見せつ」と言ひて、すなはち黄泉醜女(よもつしこめ)を遺(つかわ)して追はしめき。
まず伊耶那美は醜さという嫌悪を仕向けます。わたしなどは一端相手を嫌悪したらそれでお終いです。何にも関係を持ちたくありません。それでもくれば罵詈雑言喧嘩です。でも感情のもつれはどうすればいいのでしょうか。
①ギ、ここに伊耶那岐の命、黒御縵(くろみかづら)を投げ棄(う)てたまひしかば、すなはち蒲子生(えびかづらな)りき。
❶ミ、こを?(ひり)ひ食(は)む間に逃げ行でますを、
ここは難しいのでまず解説の引用です。
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『 縵(かづら)は鬘(かづら)とも書き、鬘(かつら)とは書き連ねるの意であり、また頭にかぶせる事から、五十音図の上段であるア段の横の列の事を指します。
黒御縵の黒は白に対する色で、白は陽で、主体側の父韻タカサハを表わし、黒は陰で、客体側のヤマラナの事となります。
主体側は問いかけ、客体側はその問に答える事でありますから、黒御縵全体で、五十音図の上段の客体側の列のこと、即ち物事や現象を精神である主体から見た時の結論という事となります。
伊耶那岐の命は黄泉醜女の誘惑に対して、精神から物事を見た時の結論を投げ与えてやった、という訳であります。
すると蒲子(えびかづら)が生(は)えた、といいます。蒲子(えぴかづら)とはエ(智恵)の霊(ひ)(言霊)を書き連ねたもの、の意であります。
現象を観察・研究するのに有用な精神原理の事であります。
(尚、蒲子とは山葡萄(やまぶどう)の事です。)』
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わたしはここは理解出来ません。
どなたかに援助を頼みたいところです。
伊耶那美が醜女の代わりに黄泉美人を遣わしたら伊耶那岐の心は変わったでしょうか。問題は既によもつ国の物となって現象している物への判断です。よもつ国にある動かないものたち死物に対する意識と思考です。黄泉美人に哀願されれば振り返ったことでしょう。がしかし元はうじの人達物達です。伊耶那岐は魂の無い物に関心はありません。いたく歓ぶ精神の探求者です。
しこめ。
し・言霊シ・意富斗能地(おほとのぢ)の神。
人の心の動きが心の中心に向かって静まり納まる働きの韻。
自己主張を守り固めようとする大いなる能力の内に在ろうとする働き。
決まった方向へ結論を収束するように選択肢がこれしかない状態を生み出し、今現在を静め修めようとする律動。
こ・言霊コ・大宜都比売(おほげつひめ)の神
大いに宜しき言霊を秘めている言葉、という意であります。都(みやこ)とは宮の子、五十音図の子で言霊、特にその子音のことです。実相子音といい、現象の単位であります。発声された言葉が耳孔に入り、その中で復誦、検討されて「聞かれた言葉の内容はこのようなものだな」と確認され、鳥の石楠船の神として言葉の内容が確定されます。それが言葉の内容です。するとそこで事実として成立します。「こういう現象という事実が起こったな」という事実確認です。
め・言霊メ。妹(いも)速秋津比売(ひめ)の神
速秋津とは速くすみやかに、あきらかに渡す、という意味です。頭脳内の細い川のような所を通って先天の意図が一つのイメージにまとまって来て、終に川から海のように広い口腔に達し、そこが港、それから向うは海となります。言霊ケ、メはイメージが言葉に組まれる直前の集約された姿のことです。この明らかにイメージとしてまとまったものも霊と体、主体と客体を分け持っております。言霊メは芽、目で客体であり、体であります。
出来上がったもの、動きの無いもの、物事を出来上がった物として考える思考、等、よもつ国全体の存在がしこめです。この段落では存在そのものがわたしが居るではないか、わたしの存在をどう解するのかと答えを迫ってきたところです。
そこで伊耶那岐は答えます。
存在とは、光りのように自ら輝く物ではなく頭の中の黒い影で、表現創造されたものの全てであり、感覚器官によって感じるもの全てです。お前がそこに居るのは主体タカサハの呼びかけに感応同交した父韻ヤマラナが客体と結び合った姿です。意識主体から見ればお前という物事や現象は精神主体によって主張されたものの影である。椅子や机の硬さはそこに居るお前にとっのみ存在し、家具屋に置いてある机椅子はお前の記憶と推理の抽象概念である。
お前の役割は常に「追はしめる、追う」ことである。記憶として保存された概念が理性の形をとって今現在の主体を追うに過ぎないのだ。物質とは物事とは追われたものを受容器官で捉えられた物で、受容器官の記憶保存の長さに依存しているだけの物である。
その証拠に黒御縵(くろみかづら)を投げ棄(う)てたまひしかば、すなはち蒲子生(えびかづらな)り、お前はそれを喰うであろう。何故目前の机椅子の硬さが現象し続けるのか。それは記憶とお前に感応同交を求めるタカサハの父韻のためだ。この父韻の活動が止めばお前の影としての存在も消える。
例えばタという父韻があるお陰で机全体の存在が確認し続けられる。しかしだからといってタの父韻が机全体を保証しているわけではない。机の上にはいろいろな物が載っているがそのものの下にあるのは腐った木か、埃か、たばこの焼け跡か、穴が開いているか角が欠けているか、それらはお前の記憶だけが確かめることができるだろう。
お前は自己の存在というが、このようにお前は常に後を追うだけの存在なのだ。もしお前が現在の存在を主張したければ蒲子(えぴかづら)を喰うことだ。蒲子(えぴかづら)とはエ(智恵)の霊(ひ)(言霊)を書き連ねたもの、の意である。
お前の成すべきことはこのエを喰うことである。
言霊エ、国の常立(とこたち)の神。
『言霊オから発現する経験知が過ぎ去った現象を想起して、それ等現象間の関連する法則を探究する経験知識であるのに対し、言霊エから発現する実践智とは一つの出来事に遭遇した時、その出来事に対して今までに剖判して来た言霊ウ(五官感覚意識に基づく欲望)・言霊オ(経験知識)・言霊ア(感情)の各人間性能をどの様に選(えら)んで採用し、物事の処理に当るか、の実践的智恵の事を謂います。経験知と実践智とはその次元を異にする全く別なる人間性能であります。』
エとは実践選択を司る智恵のことで、経験的に知っている知識のことではない。現在の存在を主張したしたければ、例えば自分の向かっている机の硬さを言うのならばどの感覚五感によって硬さを得るのか確かめ、その記憶を探り、実際の選択された実践行動で硬さを得なければならない。そこで得られたものが現実の存在となる。
その時の実践行為においてのみお前はわたしと同じ現在の存在となっている。』
このように実践選択の智恵に依らねば進行はないのですが、醜女には理解されません。
その代わり伊耶那岐は、存在という言葉の有効性の範囲を明らかにすることができました。存在は父韻タカサハが働いて実践選択行為をしているときをいい、後は影となります。しかしこの影も実践行為の言霊エを与えれば昇華甦ることを知ります。
❷なほ追ひしかば、
ところが、そう簡単に解決しません、あるいは分かっていても心が動きません。更に問い詰められ、今度は存在の仕方ではなく、存在していることそのものとは何かを問われます。
7。よもつ。よみ。予母都。四方津。黄泉。
伊耶那岐は存在していることそのものとは何かを問われます。
②またその右の御髻(みみづら)に刺させる湯津爪櫛を引き闕(か)きて投げ棄(う)てたまへば、すなはち笋(たかむな)生りき。
❷ミ、こを抜き食(は)む間に、逃げ行でましき。
『 「これはよい物がある」と、黄泉醜女が拾って自分のものにしようとしている間に伊耶那岐の命は高天原への帰還の道を急ぎました。醜女は尚追って来ましたので、
岐の命は右の御髻(みみづら)に刺した湯津爪櫛を投げ棄(す)てましたところ、筍(たけのこ)が生えました。
御髻とは以前にも出ましたが、頭髪を左右に分け、耳の所で輪に巻いたものです。
顔を五十音言霊図に喩えますと、右の御髻は五十音図の向って左の五半母音の並びとなります。
そこに刺している湯津爪櫛と言えば、湯津とは五百箇(いはつ)の意で、五を基調とした百音図のことで、
また爪櫛とは髪(かみ)(神・言霊)を櫛(くしけずる)もので、湯津爪櫛全部で五十音言霊の原理となります。
左の御髻は五母音であり、主体であり、物事の始めです。反対に右の御髻は五半母音であり、客体であり、物事の終りであり、結果・結論を意味します。
そこで右の御髻に刺した湯津爪櫛を投げたという事は、伊耶那岐の命は醜女に言霊原理から見た時の客観世界の現象の結論を投げ与えた、という事になります。
すると筍が生えました。笋(たかむな)とは田の神(か)(言霊)によって結(むす)ばれた現象の名という事で言霊より見た物事の現象の原理と同意義となります。筍(たけのこ)と読んでも同様であります。
実際に人類史上、物質科学研究が起こった初期の頃は、精神の原理を物質研究に当てはめた方法が用いられました。今に遺る天文学・幾何学・東洋医学等を見れば了解出来ましょう。また日本の一部で伝えられているカタカムナの学問も同様の事であります。伊耶那岐の命が「右の御髻に刺させる湯津爪櫛を引き闕きて投げ棄てた」という精神原理から見た物質現象の結論を黄泉醜女が取り入れて研究した、と解釈しますと、その消息が理解されます。 』
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右の御髻(みみづら)・五半母音の並び、ワ行。
湯津・湯津とは五百箇(いはつ)の意で、五を基調とした百音図のことで、
爪櫛・髪(かみ)(神・言霊)を櫛(くしけずる)もの
湯津爪櫛全部で五十音言霊の原理となります。
笋(たかむな)・田の神(か)(言霊)によって結(むす)ばれた現象の名、言霊より見た物事の現象の原理と同意義となります。筍(たけのこ、田気の子、言霊からでた結論)と読んでも同様であります。
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ここも難しいところです。存在とは何かについての人間の意識が始まって以来の問題です。
古事記の元になる思想ははるか数千年の前に完成しているものですが、記録の仕方は残念ながら直接的ではありません。それでもわざと物証だけは無数に残されています。裁判とは違って物証だらけでもそれを考えることが無いのでただただあるというだけの物証です。日々の生活、目前の事柄、習慣習俗として、そして何よりも日常言葉として使用していながら、いまだに秘密は明かされていません。物証なんて何にもならないものですね。
真実を隠された存在とか、幻想が真実とされる存在とか、無いものを真実にする存在とか、いろいろあるものです。
それぞれに数千年の歴史が絡むのですからその元を作った古代人というのはとんでもない頭脳集団だったわけです。
醜女に存在の仕方を説明したが、今度は存在そのものについて追求されます。答えは上記ですが、千年単位で誤魔化されてきた人類にはそう簡単な問題ではない。しかし誤魔化しの仕掛けを作ったのも同じ人ですからどこかに突破口はあるでしょう。わたしはこの段落を存在そのものは何かという問いが仕掛けられていると見ましたがうまくいっていません。
ここは禊ぎに行く前段つまり本当の答えは禊ぎによって出て来るさわりとなっているだけです。全く古代の朝廷人と安万侶さんにはかなわないという感じです。解が出てこないものだから関係ない話になっています。
さて、、、、うまい具合に、
右の御髻(みみづら)に刺させる・→みづら
黒御縵(くろみかづら)を投げ・→かづら
というヒントが見つかりました。何か隠されていればの話ですが。はたして。
縵(かづら)は鬘(かづら)とも書き、鬘(かつら)とは書(か)き連(つら)ねるの意であり、また頭にかぶせる事から、五十音図の上段であるア段の横の列の事を指します、とあります。これをもらいましょう。
みづらは輪の形で耳の両側に垂れた髪で、み(実、身、存在の実相実体)の連(つら)なりで、ワ行からでてきたものとする。
伊耶那岐の言いたい事はこうなるでしょう。あなたのよもつ国は未完成、不調和が原理となっていてその上で勝手な経験知識の抽象概念が支配しています。あなたの国には結果、現象を結論とすることを知らず、それを事実として確認する手続きが欠如しています。
あなたのよもつ国では存在とは何かと問われれば各人の経験理性の抽象概念が答えとなって答えた人の数と同じだけの答えがあるでしょう。わたしの国では実相の連なりがワ行から出てきたものが存在となります。実相が事実と確認されたものが存在というわけです。
わたしはあなたに笋(たかむな)、又の名を筍(たけのこ)と言いますがそれを見せましょう。
笋(たかむな)とは田(た)の神(か)(言霊)によって結(むす)ばれた現象の名(な)という事で言霊より見た物事の現象の原理と同意義となります。筍(たけのこ、たは田で言霊五十音図状の田、けは気、の、現象としての子)と読んでも同様であります。
あなたは自らを存在と主張しますがわたしから見れば存在の影に過ぎないのです。そこであなたはわたしを後から「追う」ことしかできないのです。
そこで右の御髻に刺した湯津爪櫛を投げたという事は、伊耶那岐の命は醜女に言霊原理から見た時の客観世界の現象の結論を投げ与えた、という事になります。
わたしはあなたに後を向いて与える事しかできない。あなたという存在を前にして正面から与える事ができません。
❸ミ、また後にはかの八くさの雷神に、千五百(ちいほ)の黄泉軍(よもついくさ)を副(たぐ)へて追はしめき。
それでも醜女は理解を拒みます。影を影足らしめる援軍を連れてきます。
後段をちらっと見て、その次は、原理によって存在するものについて、ついで最後に意志において存在するときについて、1000と1500の違いとはと、ノートだけしておきました。
8。よもつ。よみ。予母都。四方津。黄泉。
❸ミ、また後にはかの八くさの雷神に、千五百(ちいほ)の黄泉軍(よもついくさ)を副(たぐ)へて追はしめき。
③ギ、ここに御佩(みはかし)の十拳の剣を抜きて、後手(しりで)に振(ふ)きつつ逃げませるを、
『 笋を抜いて食べている間に伊耶那岐の命は高天原への道を急ぎました。すると伊耶那美の命は黄泉国の文字を作る八種の原理に千五百の黄泉国の軍隊を加えて伊耶那岐の命を追わせました。八くさの雷神とは黄泉国の言葉を文字に表わす八種類の文字の作成法のことです。千五百の黄泉軍(よもついくさ)とは、先に千五百人の黄泉国の軍隊と書きましたが、それは古事記の文章の直訳で、実際では全く違ったものであります。
三千を「みち」即ち道と取りますと、千五百はその半分です。三千の道の中で、その半分は精神の道、残りの半分は物質の現象を研究する道の事となります。また千五百(ちいほ)の五百(いほ)は五数を基調とする百の道理の意でもあります。五数を基調とする道理となりますと、主として東洋の物の考え方が考えられます。
例えば、儒教の五行、印度哲学の五大もそうです。としますと、八くさの雷神と千五百の黄泉軍という事は西洋と東洋の物の考え方、即ち高天原日本以外の世界の思想のすべてという事となりましょう。その世界中の物の考え方が伊耶那岐の命を虜(とりこ)にしようとして追いかけて来たというわけであります。 』
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ここに文字のことが出ています。もちろん日本には太古より文字があり、その表現法を八つに分類していました。
シナの古典に易経がありますが、そこには『上古は結繩して治まる。後世の聖人これを易うるに書契をもってし、百官もって治め、万民もって察かなるは、蓋しこれを(沢天)夬にとる。(易経繁辞下伝 )
』とあって、縄文字から文字への移行は易卦の沢天夬によるとあります。
易経は太古に伏義が日本に留学して教わったものから起こしたものですので、漢字の元々の起こりは日本にあるとも読めます。シナの古典での記述に日本に文字は無いとありますがそれだけが信じられているようです。いずれ世界歴史の中で明らかになるでしょう。
文字の八種類の作成法というのは、同様に八種の表現法という事です。八種は八つの父韻に由来し、易も当然この八種から出発しそれ以上には出ません。
醜女はわたしには八種の存在がある、これをどうすると実物をもって迫ってきます。
八種の存在はそれぞれの時処位を持っていて、一見して欲望次元は欲望、経験次元は経験と自らをあらわしています。客観世界にも次元階層があると見せつけてきます。
伊耶那岐は今度も喋りません。『ここに御佩(みはかし)の十拳の剣を抜きて、後手(しりで)に振(ふ)きつつ逃げませる』と行為で示します。
『 世界中の客観的現象の研究の考え方が誘惑しようとして追って来ましたので、伊耶那岐の命は十拳の剣を抜いて後向きに振りながら逃げて来ました。十拳の剣とは、前にも出ましたが、物事を十数を基調として分析・総合する天与の判断力の事であります。この判断力を前手(まえで)に振ると、一つの原理から推論の分野を広げて行き「一二三四五……」と次々に関連する現象の法則を発見して行く、所謂哲学でいう演繹的(えんえき)思考の事です。
伊耶那岐の命は十拳の剣を後手(しりへで)に振ったのですから、その反対に、物事の幾多の現象を観察し、そこに働く法則を見極め、それ等の法則が最終的に如何なる大法則から生み出されて行ったものであるか、演繹法とは逆に「十九八七六五……」と大元の法則に還元して行く、哲学で謂う帰納法の思考のことであります。伊耶那岐の命は十拳の剣を後手に振る思考作業によって、黄泉国の客観的に物事を見る種々の文化・主義・主張を観察し、その実相と法則を五十音言霊で示されるどの部分を担当すべき研究であるか、を見定め、それによって黄泉国の文化のそれぞれを人類文明創造のための糧(かて)として生かす事が出来るか、を検討し、その事によって自らの主観内に自覚されている建御雷の男の神という五十音図の原理が、黄泉国の文化全般に適用しても誤りない客観的・絶対的真理であるか、を確認しながら高天原に急いだのであります。』
難しいところです。
後手(しりで)は、一つは、よもつ国の主張は影となって後から追う事しか出来ないのでそれらに対して後手で振りはらうようにする、実利的な行為。これがおまじないとかに結びついて現代的な一つの解となっている。追うもの達の前から光りを浴びせれば影は消えていく事になる。
もう一つの正解はよもつ国で通用している大本の法則を見せてあげるためです。影達は自分の実体を知って霧消していくでしょう。その法則とは始めの現象に実体がなく、結論の現象にも実体がない事です。易占いに特徴的なことです。
さらに後手(しりで)を分解してみると、
しりで・シをリへ持っていくテ、と読めます。伊耶那岐からすればシの結論は事実として確認され、心に完成されたものと事実との一致が確定しているという意味で、シを終わりに持っていく事ですが、伊耶那美のよもつ国では、シを途中にあるリに持ってきてしまう、あるいはシとリを入れ換えることにもなります。
例えば欲望次元ウ次元でのシを欲望の目的が心に固定され、目的がリの発端に転化されていきます。
さらに経験次元オ次元でのシを経験事項としてそれは正しいと決められ、その経験事項が次の疑問になってしまいます。
情緒宗教次元ア次元でのシは既に自己の本性での自覚があるので、それがまずリの心の中で一杯に拡充され、シでもって行動の目的に固定していきます。
このようにまるで次元の違う思惟方法となる事を理想的な判断力である十拳の剣を見せながら醜女に示しました。八の判断力では十の判断力にはかなわないはずですが、八の判断力には自覚がありません。いくら言っても分からない、どうしようもない、とはこのことです。受け入れる受け皿を持っていないので、自分の不備を始めの疑問にしてさらに追ってきます。
❹ミ、なほ追ひて黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に到る時に、
④ギ、その坂本なる桃の子(み)三つをとりて持ち撃ちたまひしかば、ことごとに引き返りき。
9。よもつ。よみ。予母都。四方津。黄泉。
なほ追ひて黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に到る時に、
④ギ、その坂本なる桃の子(み)三つをとりて持ち撃ちたまひしかば、悉に引き返りき。
なほ追ひて黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に到る時に、
八くさの雷神と千五百の黄泉軍(いくさ)はなお追って来て、黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に来ました。黄泉比良坂とは、比良は霊顕(ひら)で文字の事で、比良坂の坂とは性(さが)の意です。黄泉比良坂で黄泉国の文字の性質・内容という事となります。その坂本とありますから、黄泉国の文字の根本原理という事です。伊耶那岐の命は十拳の剣を後手に振りて、黄泉国すべての文化を高天原の言霊原理に還元してその夫々を人類文明創造の糧として生かす事が出来るかを検討し、その結果、黄泉国の文字作成の根本法則(坂本)に至りました。という事は、伊耶那岐の命が黄泉国の文化の根元を隅々まで知り尽くし、それを吸収し、揚棄して、人類文明に役立てる事が出来るという自覚に立ち至ったという事を意味するでありましょう。即ち伊耶那岐の命は自らの心の中に自覚した建御雷の男の神の音図構造が、如何なる外国の文化に適用しても誤りない客観的真理であること、そこで主観的真理であると同時に客観的真理でもある絶対的真理である事の證明を確立した事になります。
その坂本なる桃の子(み)三つをとりて持ち撃ちたまひしかば、悉に引き返りき。
高天原日本以外の国々のすべての文化を十拳の剣で分析・総合し、黄泉国の文字の根本原理の内容を悉く知り尽くしました。黄泉国の文化の内容の全部の検討が終り、黄泉比良坂の坂本に到着したという事は、坂本が黄泉国と高天原との境界線になっているという事が出来ます。言い換えますと、此処までが黄泉国、ここから先は高天原となるという地点であります。となりますと、坂本に至ったという事は高天原への入口に到着した事ともなります。先に伊耶那岐の命は妻神を追って高天原より殿の騰戸(あがりど)から黄泉国に出て行きました。騰戸とは高天原の言霊構成図で半母音のワヰヱヲウの事と説明しました。殿の騰戸と言えば、高天原から黄泉国への出口であり、黄泉比良坂の坂本と言えば、黄泉国から高天原への入口という事になります。
黄泉比良坂まで逃げ帰った伊耶那岐の命は、坂本と境をなす高天原の五半母音の列の中のヱヲウの三言霊を手にとって、黄泉軍を撃ったのであります。言霊五十、その運用法五十、計百個の原理を桃(百[も])と言います。その子三つとは半母音ヱヲウの三言霊です。伊耶那岐の命は黄泉国より逃げ帰りながら、十拳の剣を後手に振って、黄泉国の文化の一切を人類文明に吸収処理する方法を確立する事が出来ました。その処理法には主として三つがあります。一つは黄泉国の五官感覚に基づく欲望性能より現出する産業・経済活動を処理する方策の結論である言霊ウ、次に経験知よりの主張を処理する結論である言霊ヲ、また、その次の総合運用法の処理法である言霊ヱの三つを「桃の子(み)三つ」と呼びます。この三つを持って八くさの雷神と千五百の黄泉軍を撃ちますと、「我々黄泉国の文化の客観的研究法からでは到底これ等の処理法を手にすることは不可能だ」と恐れ入って逃げ帰ってしまったのであります。
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客観世界の存在が自己主張をするとどこまで高天原へ近づけるかというのが問題と思います。
目前には雑多な存在があります。パソコン、帳面、マウス、ボールペン等があってそれらが自己の存在を主張するわけです。その第一は欲望(ウ)からの自己主張、第二は経験概念(オ)、第三は実践選択智恵(エ)のそれぞれの世界から自己の存在を主張します。精神世界の境界面まで来ています。
醜女達は言います。私たちはここにあなたの目前にいるではないですか、香も形も記憶も用途も全部ひっくるめて存在しているではないですか。嗅いでごらんなさい、触ってごらんなさい、好きなように使ってみてください、私たちに欠けているものは何も無いのと違いますか。伊耶那岐さん、あなたは何故私たちの存在を了解しないのですか。
普通ならばその通りと頷くところです。今叩いているキーだって俺がいるから文章が書けてるじゃないかといっています。そこで伊耶那岐は危うく奈落へ堕ちかけるところから持ち直して、そこにある桃の実を三つ静かにいただきました。そして言いました。
今わたしは三つの桃をいただきました。ウとオとエと名付けられています。その事実結果を示すと、「ウ」「ヲ」「ヱ」になってしまいました。わたしが食べている間は「ウ」「オ」「エ」だったのに今は渡り終えた橋の対岸で「ウ」「ヲ」「ヱ」となっています。これを知った醜女達はとうとう「追う」のをやめました。
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『ここに伊耶那岐の命、桃の子に告(の)りたまはく、「汝(いまし)、吾を助けしがごと、葦原の中つ国にあらゆる現しき青人草の、苦(う)き瀬に落ちて、患惚(たしな)まむ時に助けてよ」とのりたまひて、意富加牟豆美(おほかむづみ)の命といふ名を賜ひき。
伊耶那岐の命は桃の実に申しました。「お前が私を助けたように、この日本の国に住むすべての人々が、困難な場面に陥って苦しい目にあう時には、助けてやって呉れよ」と言って意富加牟豆美の命という名を授けました。意富加牟豆美とは大いなる(意富[おほ])神(加牟[かむ])の御稜威[みいづ](豆美[づみ])の意であります。御稜威とは権威とか力とかいう意味です。
余談を申しますと、梅若の狂言にある「桃太郎」では、仕手[しで](主役)の桃太郎は自らを意富加牟豆美の命と名乗ります。おとぎ話の桃太郎は川に流れてきた桃の実から生まれ、お爺さんとお婆さん(伊耶那岐の命・伊耶那美の命)が育てる。桃とは言霊百神の事であり、百神の原理より生まれた太郎(長男)と言えば、三貴子(みはしらのうづみこ)天照大神、月読命、須佐之男命の一番上の子、即ち天照大神のこととなります。古事記神話の桃の子三つとは五十音言霊図の一番終わりの列(五半母音)の結論を表わします。そのヱヲウの三音が桃の子(み)三つという事になりますから、意富加牟豆美の命と天照大神とは同じ内容であることが分ります。』
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ところが、、、、
『最後(いやはて)にその妹伊耶那美の命、身みづから追ひ来ましき。
⑤ギ、ここに千引(ちびき)の石(いは)をその黄泉比良坂に引き塞(さ)へて、その石を中に置きて、おのもおのも対(む)き立たして、事戸(ことど)を度(わた)す時に、
❻ミ、伊耶那美の命のりたまはく、「愛(うつく)しき我が汝兄(なせ)の命、かくしたまはば、汝の国の人草、一日(ひとひ)に千頭絞(ちかしらくび)り殺さむ」とのりたまひき。
⑥ギ、ここに伊耶那岐の命、詔りたまはく、「愛しき我が汝妹の命、汝(みまし)然したまはば、吾(あ)は一日に千五百の産屋を立てむ」とのりたまひき。
ここを以(も)ちて一日にかならず千人(ちたり)死に、一日にかならず千五百人(ちいほたり)なも生まるる。
かれその伊耶那美の命に号(なづ)けて黄泉津(よもつ)大神といふ。またその追ひ及(し)きしをもちて、道敷(ちしき)の大神といへり。またその黄泉の坂に塞れる石は、道反(ちかへし)の大神ともいひ、塞へます黄泉戸(よみど)の大神ともいふ。かれそのいはゆる黄泉比良坂(よもつひらさか)は、今、出雲の国の伊織夜(いふや)坂といふ。』
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ここでの問題は1000と1500はどう違うのかを解く事です。
前段で既に、物量的な違いや、科学的、時処位の人間の頭で考えられる違いは全て既に解が与えられています。従ってここで言われている数量には計量された1000とか1500ではありません。数量を使った指し月の指ですのでその先にあるものを探す必要があります。最後の切り札ともいうべき伊耶那美のお出ましです。
伊耶那岐と伊耶那美は創造意志の裏表です。そうです、ここでは意志に於ける存在が問題になっています。
それぞれの意志は伊耶那美のほうは「殺さむ」、伊耶那岐のほうは「産屋を立てむ」と表現されていて、『千引(ちびき)の石(いは)をその黄泉比良坂に引き塞(さ)へて、その石を中に置きて』となっている。
千引きの石は、「い、は、意志(い)の言葉(は)」と読み、次のその石を中には、「その意志(いし)を心の中に」と読む。
千引きは、道(ち、生きる存在する考える道、道理)を引くで明らかにする、道理を明かす、明らかな道理に基づいた等。
比良坂は、比は比較の比、良は自分の精神内容を螺旋状に拡大する動き、坂は性(さが)で心の性向。
そこで、道理を持った意志の言葉の性向が向かう方向を並べ置いて比較してみて、それぞれの意志は心の中に存在させて、と読んでいく。
そうなるとその意志の方向は一方は殺すであり、方や産むである。
こうなれば事戸(ことど)を度(わた)さざるを得ない。
よもつ国の最後の問題が意志に係わるものである事が分かった。そして比良坂「比較してその性の赴く処」において決することになる。
ではよもつ国での意志の存在は、例えば「殺さむ」と「産屋を立てむ」ではどう違うのか。どの基準において事戸を渡すことになるのか。伊耶那岐と伊耶那美が逆の事を言う事もありえる。よもつ国での意志(石)というという存在は何故事戸を渡されるのか。
ここでは殺すというぶっそうな言葉になっていますが、もっと柔らかいもので伊耶那美に言われたらどうするのか、両者とも同じ言葉で言い出したらどうなるのか、等が明らかにされねばならない。
千もの道理をもってしても超えられない一線とはどういうものか。
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かれその伊耶那美の命に号(なづ)けて黄泉津(よもつ)大神といふ。またその追ひ及(し)きしをもちて、道敷(ちしき)の大神といへり。またその黄泉の坂に塞れる石は、道反(ちかへし)の大神ともいひ、塞へます黄泉戸(よみど)の大神ともいふ。かれそのいはゆる黄泉比良坂(よもつひらさか)は、今、出雲の国の伊織夜(いふや)坂といふ。
10。よもつ。よみ。予母都。四方津。黄泉。
引用です。
かれその伊耶那美の命に号(なず)けて黄泉津大神といふ。またその追ひ及きしをもちて道敷(ちしき)の大神ともいへり。
伊耶那岐の命と伊耶那美の命が千引きの石を挟んで離婚をしました。その事によって伊耶那美の命は黄泉国の物質科学文明創造を分担する総覧者であり、主宰神であることがはっきりと決まりました。その主宰神としての名前を黄泉津大神といいます。また伊耶那美の命が伊耶那岐の命を追いかけて黄泉津比良坂の坂本まで行った事によって、その黄泉国と高天原との間に越す事が出来ない道理の境界線が決定いたしましたから、道敷(ちしき)の大神とも呼ぶのであります。
またその黄泉(よみ)の坂に塞(さは)れる石(いは)は、道反(ちかへ)しの大神ともいひ、塞(さ)へます黄泉戸(よみど)の大神ともいふ。
黄泉(よみ)の坂とは黄泉比良坂の事であります。その坂に置かれ「此処より先は来るな」と言って遮ぎる千引の石は、道反(ちかへ)しの大神と言います。道反しとは、高天原から見れば「ここまでは高天原、ここから先は黄泉国」という事であり、反対に黄泉国から見れば、「ここまでが黄泉国、ここより先は高天原」と、人が自由には越す事が出来ない印(しるし)となる石でありますから、道反し、即ちここまでで人が引き返す印の石という訳であります。またその石は塞へます黄泉戸の大神ともいいます。黄泉国から来て、高天原に入る口に置かれ、人が高天原に入れないように遮(さえぎ)っている戸、の意であります。
ここで言霊学を勉強しようとなさる方々に一言申上げ度い事があります。言霊の学問の初心者の方の中に「言霊学は難しくてよく分からない」と言われる方がいらっしゃいます。何故「難しい」と言われるのか、と申しますと、右に述べました道反しの大神、またの名、塞へます黄泉戸の大神に引掛(ひっかか)ってしまうからであります。どういう事かと言いますと、高天原と申します処は言霊五十音で構成されている心の領域です。それ以外のものは存在しません。言霊といいますのは、人間の心を構成する究極の要素であると同時に言葉の要素でもあるものです。この五十個の言霊を結ぶ事によって高天原日本の言葉は作られました。ですからその言葉は物事の実相(真実の姿)をそのまま表わします。それに対して現代の人々の言葉は、人それぞれの経験に基づいて構成された智識を表現した言葉なのです。それは謂わば高天原の言葉に対する黄泉国の言葉でもあります。経験知識によって作られた言葉で生きている人が言霊学を学ぼうとする時、必ずぶつかってしまうのが、黄泉国と高天原との間に置かれた千引きの石、即ち道反しの大神、または塞へます黄泉戸の大神という事になります。言霊学という高天原の学問の門を入ろうとするならば、道反しの大神またの名、塞へます黄泉戸の大神の許可を貰わなければならぬ、という訳であります。以上、御参考にして頂ければ幸甚であります。
かれそのいはゆる黄泉比良坂は、今、出雲(いずも)の国の伊賦夜坂(いぶやさか)といふ。
黄泉比良坂とは黄泉国の文字の性質・内容という意であります。現実の上り下りの坂の事ではありません。でありますから、伊織夜坂と言いますのも現実の地図上の場所の事ではありません。精神世界の中の或る場所を示す謎です。角川版古事記の訳註に「島根県八束郡東出雲町揖屋。揖屋神社がある」と記され、岩波版には「所在不明」とあります。共に古事記神話の真義を知らぬ為の見当違いの訳註です。
では出雲の国の伊賦夜坂とは如何なる意味でありましょうか。出雲の国とは地名である島根県のことではありません。出る雲の意です。大空に雲がムクムクと湧き出て来るように、物質界の研究によって頭脳から発現して来る種々のアイデアで満ちている領域、という事です。伊賦夜坂とは、母音イの次元の言葉(賦)、即ち言霊の意味が暗くて(夜[や])よく見えなくなっている性質(坂)、それは取りも直さず黄泉国の文字の性質という事となります。出雲の国の伊賦夜坂の全体では、雲が湧き出るが如く発明されて来る経験知によるアイデアの世界の、高天原の言霊で作られた言葉の内容が薄ボンヤリとしか見えない字の性質、という事であります。黄泉比良坂とはそういう内容の黄泉国の文字の性質だ、という事であります。古事記神話の編者太安万侶が高天原と黄泉国との言葉と文字の決定的な相違について繰返し示した老婆心とも受取る事が出来ましょう。
ここで道反(ちかへ)しの大神または塞(さ)へます黄泉戸(よみど)の大神という神名について附け加えて置き度い一つの話があります。「古事記と言霊」の二○一頁に詳しく書いてありますが、念のため一言申上げておきます。旧約聖書のヨブ記に次のような文章があります。「海の水流れ出て、胎内より湧き出でし時、誰が戸を以(も)て之を閉じこめたりしや、かの時われ雲をもて之が衣服(ころも)となし、黒暗(くらやみ)をもて之が襁褓(むつぎ)となし、之に我が法度(のり)を定め、関および門を設けて、曰く、此(ここ)までは来るべし、此を越ゆるべからず、汝の高波ここに止(とど)まるべしと」(旧約聖書ヨブ記三十八章八~十一)。ヨブはキリスト以前のキリストと呼ばれる聖者であり、そのヨブ記に古事記の道反しの大神・塞へます黄泉戸の大神の記述と全く同じ内容の文章が見られる事は誠に興味深い事であります。伊耶那美の命の精神的後継者である須佐之男命は、古事記神話に「汝は海原を治(し)らせ」と言霊ウの名(な)の原(領域)、即ち五官感覚に基づく欲望の次元の主宰者であり、その「海」がヨブ記の「海の水流れ出て…」と記されているのです。詳細な解説は「古事記と言霊」を見て頂く事として、人類文明創造上の重要な法則に関して、地球上の時も処も違う日本の古事記、イスラエルのヨブ記に全く同様の内容の記述が見られる事は、単なる偶然とは考え難く、人類文明創造の歴史を考えるに当り、大きな示唆を与えるものとして、簡単ながら一言挿入いたしました。内容の詳細は「古事記と言霊」を御参照下さい。
以上にて、伊耶那岐の命が自己精神内に確立した建御雷の男の神という人類文明創造の原理が、高天原以外の国々の文化に適用しても通用するか、どうか、を證明する為に妻神伊耶那美の命が主宰する黄泉国へ出て行き、そこで黄泉国の整理されていない、種々雑多な発明・発見が我勝ちの主張をする様子を体験し、高天原に逃げて帰る「黄泉国」と題する文章の解説を終る事といたします。この物語の中の岐・美二神の言行によって、この章の文章が単なる伊耶那岐の命の黄泉国見聞記なのではなく、その中の岐・美二神の言葉のやり取りによって、伊耶那岐の命が自らの主観的自覚の建御雷の男の神なる原理を、どの様にして人類文明創造の大真理にまで高めて行ったか、の経緯が物語的に述べられたのであります。
この「黄泉国」の章に続く「身禊」(みそぎ)の章では、物語的に綴られた伊耶那岐の命の心の進化過程を、今度は厳密な言霊の学問上の理論として、言霊学の最高峰であり、総結論である「三貴子誕生」まで一気に駆け登って行く心の過程が述べられます。今までの章で述べられて来ました五十音の言霊が、何一つ取り残される事なく、すべての言霊が生命の躍動となって、最後に天照大神、月読の命、須佐之男の命の三貴子を中核として、八咫の鏡に象徴される人間の全生命の構造とその動きの全貌が読者の前に明らかにされて行きます。今から始まる「身禊」の章は読者御自身の生命が読者にその全体像を明らかにする章なのであります。
------------------ここまで。
伊賦夜坂(いぶやさか)。
出雲の国とは出る雲の意です。大空に雲がムクムクと湧き出て来るように、物質界の研究によって頭脳から発現して来る種々のアイデアで満ちている領域、という事です。
伊賦夜坂とは、母音イの次元の言葉(賦)、即ち言霊の意味が暗くて(夜[や])よく見えなくなっている性質(坂)、それは取りも直さず黄泉国の文字の性質という事となります。
出雲の国の伊賦夜坂の全体では、雲が湧き出るが如く発明されて来る経験知によるアイデアの世界の、高天原の言霊で作られた言葉の内容が薄ボンヤリとしか見えない字の性質、という事であります。
とうとう人間意識の根本領域での決着を迫っていました。意志です。
伊耶那岐も伊耶那美も意志の湧き出る出雲の国という状態にあるのは変わりません。決定的に違うのは伊賦夜坂(いぶやさか)と言うことになります。
賦夜坂は、いぶやさか→いふやさか→いうやさか→いうやさが、で漢字を当てはめれば、言うや性、となります。言い出すや否や性となることです。
言うこと、表現すること、行為すること、思惟すること等、人の活動の全てが記憶されそれに捕らわれる時に性に陥り黄泉の国に入るということで、いわばわれわれ凡人の日常です。言い(いふ)出す(や)や否や性(さか)となり執着するわけです。
そしてこの捕らわれ執着した領域にいるのが伊耶那美です。全生産物の領域です。そこで伊耶那美は黄泉津大神、性となった世(よ)を持った(もつ)大神と呼ばれます。
その大神は出来たものを背負って後から追いかけるしか自分の生きかたを見出せません。(道敷の大神)
現にいまここで進行している世界には入れず遮断された戸(塞へます黄泉戸)を超えることはできません。(塞へます黄泉戸の大神)
黄泉の国は記憶という性を持った不明瞭な国となります(出雲の国の伊賦夜坂)。
ところが、それらの全ての仕掛は伊耶那岐自身に根ざしています。
醜女、黄泉軍、伊耶那美が追うのは伊耶那岐自身が仕掛けたことです。さらに彼には力量が無く桃の子に助けられたので、自分より偉大な桃の正体を知ることを自分に課しました。
このよもつ国の性の仕掛けを振り払うことと桃の正体を知る二つのことを目標にして禊ぎに入ります。
伊耶那岐の自覚は次のように始まります。
ここを以ちて伊耶那岐の大神の詔りたまひしく、「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国に到りてありけり。かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」
いな醜め醜めき穢なき国とは黄泉国の事であります。そこでは人各自の経験知による客観世界の研究の成果を自分勝手に自己主張して、乱雑で整理されていない大層みにくい、汚(きた)ない国だ、という事です。穢なきとは生田無(きたな)いの意。生々した整理された五十音図表の如き整然さを欠いている文化の国といった意味であります。
醜めき穢(きた)なき国は、しこめは、死固芽、死んだように固定してしまった芽と、きたなき、生田無き、気田無き、言葉の気、魂が無く生き生きとしていない国を自分が作ってしまった、その禊ぎへの自覚です。