握手と起手
自分の心で相手を理解しようとする時には立てる。相手を説得するために尻手に振ったわけではないのです。驚くほど乱雑な文化だけれど、文明創造のためにはかならず意味のある文化なのだろうから、その時所位を決めなくてはならない。
そのために調べたわけです。調べるのは自分の心中に納得させるために調べるのですから、自分が把握するための応用ですから、それで尻手というわけです。哲学的な用語がない時代ですから尻手とかの表現をしているわけです。
物事の道理を掴むことを握手という。それを一般法則とする時には起手(掟)とする。論争の余地がないんですよ。「神ながら言挙げせぬ国」と日本のことをいいます。高天原の言葉には玉虫色がない。玉虫色は煩累の大人(わずらひのうし)の神というのが祓ってしまいますから。言葉にする前に。
どっちともつかない言葉は切ってしまう。そのあとに飽昨の大人(あきぐひのうし)の神というのが整理する。実際そういう名前の人がいたわけですから。その人が一生かかってした仕事の名前を付けたわけですから。だから有り得るんです。名前がその人の実績を表わす。
---------------
古事記のクライマックス・禊祓
ここを以ちて伊耶那岐の大神の詔りたまひしく、「吾はいな醜(しこ)め醜めき穢(きたな)き国に到りてありけり。かれ吾は御身の祓せむ」とのりたまひて、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原(ツクシのヒムカのタチバナのヲドのアワギハラ)に到りまして、禊ぎ祓ひたまひき。
古事記「身禊」の章は右の文章の如く説き起す。禊祓については幾度も説明して来たことで、今回は後に続く文章に関連する所を簡単に触れることとする(詳しくは「古事記と言霊」身禊の章参照)。
伊耶那岐の大神
諸々の文化を生産する黄泉国=よもつくに(高天原日本以外の国)の主宰神である伊耶那美の命をも自らの責任として取り込んだ主体プラス客体である宇宙神の立場。
衝立つ船戸(つきたつふなど)の神
禊祓の行為の方針として掲げた建御雷の男の神の音図。
道の長乳歯(みちながちは)の神、時置師(ときおかし)の神、煩累の大人(わずらひのうし)の神、道俣(みちまた)の神、飽昨の大人(あきぐひのうし)の神。
上の五神は禊祓をするに当り、摂取する黄泉国の文化の内容を予め調べるための五つの観点。
次に御刀の手上(たがみ)に集まる血、手俣(たなまた)より漏(く)き出(いで)て成りませる神の名は、闇淤加美(くらおかみ)の神。次に闇御津羽(くらみつは)の神。
伊耶那岐・美の二神は共同で三十二の子音を生み、次に父母子音言霊四十九個を粘土板上に神代表音文字として刻み、素焼にして五十番目の言霊ンを得ました。
子種がなくなった伊耶那美の命はここで高天原での役目を終え、客観世界である予母津(よもつ)国に去って行きます。
主観である伊耶那岐の命はこれより言霊五十音を刻んだ埴土(はに)を整理する作業を進め、先ず最初に和久産巣日(わくむすび)の神なる五十音図(菅曽[すがそ]音図)にまとめました。
次に岐の命は和久産巣日の神とまとまった五十音図で示される人間の精神構造を十拳剣で分析・総合することによって社会を創造するための理想の精神構造を主体的に自覚いたしました。
この主体内にて自覚された理想の精神構造を建御雷(たけみかつち)の男(を)の神と言います。次に岐の命はこの建御雷の男の神の活用法の検討に入ることとなります。
伊耶那岐の命の人間精神構造の検討の仕事が、初めに剣の「前(さき)」から「本」となり、此処では「御刀の手上(たがみ)」となり、検討の作業が進展して来た事を物語ります。
ただ「前」と「本」とが「湯津石村に走りつきて」とありますのが、「手俣より漏き出て成りませる」と変わっているのは何故でしょうか。その理由は成り出でます神名闇淤加美の神、闇御津羽の神に関係しております。これについて説明いたします。
伊耶那岐の命は菅曽音図の頚(くび)を斬り、人間の精神構造を検討するのに十拳剣を用いました。それはア・タカマハラナヤサ・ワの十数による分析・検討であります。
この様に言霊によって示される構造を数の概念を以て検討する時、この数を数霊と言います。この十の数霊(かずたま)による検討は左右の手の指の操作で行う事が出来、その操作を御手繰(みてぐり)と呼びます。
指を一本づつ「一、二、三、四……」と握ったり、「十、九、八、七……」と起したりする方法です。「御刀の手上(たがみ)に集まる血、手俣より漏き出て……」とありますのは、以上の御手繰りによる数霊の操作を表わしたものなのであります。太安万侶の機智の素晴らしさが窺える所であります。
闇淤加美(くらおかみ)
御手繰りの操作に二通りがあります。開いた十本の指を一つ二つと次々に折り、握って行く事、それによって宇宙に於ける一切の現象の道理を一つ二つと理解して行き、指十本を握り終った時、その現象の法則をすべて把握した事になります。この道理の把握の操作を闇淤加美(くらおかみ)と言います。
十本の指を順に繰って(暗[くら])噛(か)み合わせる(淤加美[おかみ])の意です。そして十本の指全部を握った姿を昔幣(にぎて)と呼びました。握手(にぎて)の意です。また物事の道理一切を掌握した形、即ち調和の姿でありますので、和幣(にぎて)とも書きました。
紙に印刷した金のことを紙幣と言います。金は世の中の物の価値の一切を掌握したものであるからであります。また昔、子供はお金の事を「握々(にぎにぎ)」と呼んだ時代がありました。
闇御津羽(くらみづは)
御手繰のもう一つの操作の仕方を闇御津羽(くらみづは)と言います。闇淤加美とは反対に、握った十本の指を順に一本ずつ「十、九、八、七……」と順に起して行く操作です。
指十本を闇淤加美として掌握した物事の道理を、今度は指を一本々々順に起して行き、現実世界に適用・活用して、第一条……、第二条……と規律として、また法律として社会の掟(おきて)を制定する事であります。掟とは起手の意味です。
闇御津羽とは言霊を指を一本々々起して行く様に繰って(闇)鳥の尾羽が広がるように(羽)、その把握した道理の自覚の力(御津・御稜威[みいず])を活用・発展させて行く事の意であります。
伊耶那岐の命は人間の精神構造を表わす埴土(はに)に刻んだ五十音言霊図を十拳剣で分析・検討することによって、主体内自覚としての理想の精神構造である建御雷の男の神を得ました。
その構造原理を更に数霊を以て操作して、その誤りない活用法、闇淤加美、闇御津羽の方法を発見しました。五十音言霊による人間精神構造と数霊によるその原理の活用法を完成し、人間の精神宇宙内の一切の事物の構造とその動きを掌握し、更にその活用法を自覚することが出来たのであります。
言霊と数霊による現象の道理の把握に優る物事の掌握の方法はありません。伊耶那岐の命の心中に於ける物事の一切の道理の主体的自覚は此処に於て完成した事となります。
奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮に伝わる言葉に「一二三四五六七八九十(ひふみよいむなやこと)と唱えて、これに玉を結べ」とあります。玉とは言霊のこと。言霊を数霊を以て活用することが、この世の一切の現象の把握の最良の理法であることを教えております。
大島またの名は大多麻流別(おおたまるわけ)
以上、石柝の神、根柝の神、石筒の男の神、甕速日の神、桶速日の神、建御雷の男の神、闇淤加美の神、闇御津羽の神の八神の宇宙に占める区分を大島と呼びます。
大いなる価値のある区分と言った意味です。
人間の心を示す五十音言霊図を分析・検討して、終に自己主観内に於てではありますが、建御雷の男の神という理想構造に到達することが出来、その理想構造を活用する方法である闇淤加美・闇御津羽という真実の把握とその応用発揚の手順をも発見・自覚することが出来ました。
言霊学上の大いなる価値を手にした区分と言えましょう。またの名は大いなる(大)言霊(多麻[たま])の力を発揚する(流[る])区分(別[わけ])という事になります。