精神元素「キ」の言霊と古事記。 その1 。
古事記神代の巻冒頭百神によって与えられた神名・ 「角杙(つのぐひ)の神。」言霊キ。
・神名の解。
角杙の角とは昆虫の触覚の働きに似た動きを持つ韻と言ったらよいでしょうか。
・神名全体の意味。
神話や宗教書では人間が生来授かっている天与の判断力の事を剣、杖とか、または柱、杙などの器物で表徴しました。角杙・活杙の杙も同様です。
・言霊「キ」の意味。
この父韻の働きは「心の宇宙の中の過去の経験、または経験知を掻き寄せようとする韻」。
言霊キの韻は掻き繰る動作を示します。何を掻き繰る(かきくる)か、と言うと、自らの精神宇宙の中にあるもの(経験知、記憶等)を自分の手許に引寄せる力動韻のことです。
人は何かを見た時、それが何であるかを確かめようとして過去に経験した同じように見える物に瞬間的に思いを馳せます。この動きの力動韻が父韻ミです。
③角杙(つのぐひ)の神・ 父韻キ
宇比地邇の神・妹須比智邇の神(父韻チ・イ)に続く角杙の神・妹生杙の神(父韻キ・ミ)の一組・二神は八父韻の中で文字の上では最も理解し易い父韻ではないか、と思われます。
角杙の神から解説しましょう。角杙の角とは昆虫の触覚の働きに似た動きを持つ韻と言ったらよいでしょうか。「古事記と言霊」の父韻の項で、この父韻の働きを「心の宇宙の中の過去の経験、または経験知を掻き寄せようとする韻」と説明してあります。
目の前に出されたもの、それを「時計だ」と認識します。いとも簡単な認識のように思えます。若し、この人が時計を見たことが一度もない人だとしたらどうなるでしょうか。その人は目の前で如何にその物を動かされたとしても、唯黙って見ているより他ないでしょう。「時計だ」と認識するためには、それを見た人が自分が以前に見た物の中から眼前に出された物に最も似ている物を心の宇宙の中から思い出し、それが時計と呼ばれていた記憶に照らして、「あゝ、これは時計だ」と認識する事となります。人間の頭脳はこの働きを非常な速さでこなす能力が備わっているから出来ることなのです。
この様に、心の宇宙の中から必要な記憶を掻き繰って来る原動力、これが父韻キの働きであります。
以上のように説明しますと、「あゝ、父韻キとはそういう働きなんだ」と理解することは出来ます。けれどその父韻が実際に働いた瞬間、自分の心がどんなニュアンスを感じるか(これを直感というのですが)、を心に留めることは出来ません。そこには“自覚”というものが生れません。そこで一つの話を持ち出すことにしましょう。
ある日、会社の中で同じ会社の社員と言葉を交わす機会がありました。日頃から人の良さそうな人だな、と遠くから見ての感じでしたが、言葉を交わしてみると、何となく無作法で、高慢な人だな、という印象を受けました。それ以来、会社の中で会うと、向うから頭を下げて来るのですが、自分からは「嫌な奴」という気持から抜け出られません。顔を合わせた瞬間、「嫌な奴」の感じが頭脳を横切ります。自分には利害関係が全く無い人なのに、どうしてこうも第一印象に執らわれてしまうのだろうか、と反省するのですが、「嫌な奴」という感情を克服することが出来ません。
或る日、ふと「そういえば、自分も同じように相手に無作法なのではないか」と思われる言葉を言うことのあるのに気付きました。「なーんだ、自分も同じ穴の狢だったんだ」と思うとおかしくなって笑ってしまいました。「あの人に嫌な奴と思うことがなかったら、今、私に同じ癖があるのに気づかなかったろう。嫌な奴、ではなく、むしろ感謝すべき人なんだ」と気付いたのでした。そんなことに気付いてから、会社でその人にあっても笑顔で挨拶が出来るようになりました。
この日常茶飯に起こる物語は、父韻キについて主として二つの事を教えてくれます。その一つは、人がある経験をし、それが感情性能と結びついてしまいますと、それ以後その人は同様の条件下では条件反射的に同じ心理状態に陥ってしまい、その癖から脱却することが中々難しくなる、ということです。同じ条件下に於ては、反射的に何時も同じ状況にはまってしまうこと、そして反省によってその体験と自分の心理との因果に気付く時、自分の心の深奥に働く父韻キの火花の発動を身に沁みて自覚することが出来ます。因果の柵(しがらみ)のとりことなり、反省も出来ず、一生をその因果のとりことなって暮らすこと、これを輪廻(りんね)と言います。そこに精神的自由はありません。
第二の教えが登場します。物語の人は、嫌な奴と思った人と同様の欠点を自分も持っていたことを知って、「嫌な奴」の心がむしろ感謝の心に変わります。因果のとりこであった心が感謝の心を持つことによって、容易に因果から脱却出来ました。この心理の変化を敷衍して考えますと、八父韻全般を理解しようとするには、言霊ウ・オの柵にガンジガラメになっている身から言霊アの自由な境地に進むことが大切だ、という事に気付くこととなります。言霊父韻とは正しく心の宇宙の深奥の生命の活動なのですから。
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関係ないようですが、書いていくうちに何とかなるかもしれません。
人の細胞は億とか兆の単位で出来ているそうです。新陳代謝というのがあって、一秒間に何万個という細胞が生死を繰り返しているということです。臓器は、年齢によって代謝の周期は違うそうで皮膚は28日くらいだそうで骨細胞は90日で入れ替わるらしいです。そうは言われても信じられないですが、耳垢やふけがしょっちゅう出るのは28日周期とどういう関係なのでしょうか。癌細胞などは代謝が無いのか、鍛えた筋肉などはどうして同じ状態であるのか疑問はあるところですが、ここでは認識されたものが、記憶となって貯蔵されていく不思議を見ていきたい。
生理学や心理学とかの大げさなものではなく、言霊の機能に関するものですので、脳の解剖とかは全然別の話です。
何でこんなことに話を持っていくのかというと、上の引用の中に『時計を見た人が自分が以前に見た物の中から眼前に出された物に最も似ている物を心の宇宙の中から思い出し、それが時計と呼ばれていた記憶に照らして、「あゝ、これは時計だ」と認識する事となります。この様に、心の宇宙の中から必要な記憶を掻き繰って来る原動力、これが父韻キの働きであります。』とありますが、ここがよくわからないからです。
『自分が以前に見た物の中から』『心の宇宙の中から』とあって、以前にあるものとは何かです。人の成長を見た場合、赤ちゃんは経験と記憶をどんどん蓄積していきますが、その始めは体内の暗黒世界でした。引用文を理解する限りこの暗黒世界が「心の宇宙の中の過去の経験、または経験知」ということになりそうです。赤ちゃんはどのように目前の物から時計という判断を出せるまでになるのでしょうか。始まりが常に自分の心の宇宙ならその暗黒の宇宙はどのように太り大きくなって行くのでしょうか。筋肉細胞の新陳代謝で言えば新しい細胞は何故前回の鍛えられた筋肉と同じようになるのでしょうか。
赤ん坊の暗黒世界が記憶の世界となり、蓄積増大する構造を知りたいわけです。現在のわれわれに該当させれば他人の文章を読んで何故自分の頭に入ってしまうかです。記憶していくからと一言いえばそれでおわるものですが、それなりの言霊学上の構造をみたいものです。
そこで種本として、古事記のオノゴロ島の登場をみてみたいと思います。オノゴロ島とは「おのれの心の島=領域」ということで、実在の島探しを目指すのではなくおのれの心を追ってみようと思います。『自分が以前に見た物の中から』『心の宇宙の中から』の内容をここに求めようということです。
とりあえず引用だけ。
『ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき。
かれ二柱の神、天の浮橋(うきはし)に立たして、その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、引き上げたまひし時に、その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、これ淤能碁呂島(おのろご)なり。
その島に天降(あも)りまして、天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。 』
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精神元素「キ」の言霊と古事記。 その2 。
古事記にはおのれの心の島「オノゴロ島」の成立が載っています。
-ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、=冒頭の十七神を指す。先天意識を構成していてその神々が活動を開始すること。
-伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、=おのれの心の力動因は次のような仕事をする。
-「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、=現象を創出する準備をし、秩序正しく、形を与えていく。
-天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき。=言葉を発して物を指し示し。(矛とは舌のこと)
-かれ二柱の神、天の浮橋(うきはし)に立たして、=主体と客体を結ぶ両端にたって。
-その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、=父韻でもって。
-塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、=塩は四つの穂、四つの母音エアオウを掻き回し発音する。
-引き上げたまひし時に、その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、=調音父韻と母音とによって一つ一つの異なった子音ができる。現象ができる。
-これ淤能碁呂島(おのろご)なり。=この一つ一つが心の単位となっておのれの心を構成していく。現象のオノゴロ島に先天の構造が展開している。
-その島に天降(あも)りまして、=この心の島には先天的に。
-天の御柱を見立て、 =人間性能の五次元の柱が立っていて。
-八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。 =オノゴロ島の先天構造はそのまま現象世界の構造となって展開している。
これ淤能碁呂島(おのろご)なり、と心の領域が成立しましたが、ほとんどの研究者にあっさり見逃されているようです。作者がそのように仕向けたのだから大成功というところでしょう。それに科学的学問はおのれの心をみることは大の苦手だし、等閑にしていれば楽だし、わたし個人としても敵陣に乗り込むようなもので身が縮むところです。こんな態度で古事記を読んでいるのだからいくらブログを書いたところで本来の内容はたいしてありません。白状しておきます。
おのれの心の成り立ちは、古事記からの引用では、
1)天津神たちの働きが二神に伝えられ、二神に矛(言葉という判断力)を与える、が、天地の始まりの状態である。
2)二神が「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と思う時、今度は二神のはたらきが開始される。伊耶那岐は自らの主体次元の位置を確定しようと、塩(四つの穂、人間性能の次元の潮時)を求める。求めたものが伊耶那美に見つかれば「こおろこおろ」と鳴いて同調する。
3)そこに現象である子(こ+を、ワ行の客体となったもの)が生ずるの、三段階となっている。
それを構造から見ていくと、
1)十七神の統合体、御中主の神の出現。
2)高御産巣日の主体、神産巣日の客体。
3)現象は1)および2)を「見立て」ている。(同じ構造をしている)
となる。
二神が三回でてきます。
一回目は、天津神のはたらきを受ける受動側、二神は先天構造内の、
二回目は、主体客体のはたらき、二神がおのれとなった先天構造内の、
三回目は、天津世界が自己世界であることの確認、最後の二神は現象として二番目を見ている、となっている。
現象化を目指して同じ構造が繰り返されつつ具体化複雑化していきます。その一切の原理は、心は自分が思えば勝手に出来上がっていくものでは無く、「梅で開いて松でおさめる」システム通りに動いているわけです。
説明が悪くて分かりづらいでしょうが、何分にも「独神と成りまして、身を隠したまひき」という、もともと分かるような領域の話ではありませんので致し方ないことです。理解知解を超えて感じるものがあれば万々歳です。いつも繰り返しますが本物は一言メッセージから入ってもらえれば、宝物に触れることができます。
さて、『自分が以前に見た物の中から』『心の宇宙の中から』の内容をここに求めようということで、心を見てきたわけですが、心こころと言ってこころからは始まらないらしいことが発見されました。心の始まりはまず、「ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて」というように天津先天の働きを受けなければなりません。
心が動き始まるのは心以前の先天の二神(伊耶那岐、伊耶那美の創造意志の働きということで、この先天の二神が心の中の二神(同じ名前)の創造意志に働きかける(誘う)からのようです。この働きかけが成立しますと島(心の領域)が出来るというわけです。さらに、その出来た島は先天の構造を引き継いでいないと、天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたることができないとなります。
八尋殿(やひろどの)とは八つを尋ねる神殿ですが、いままでにチとイの言霊神殿を尋ね、キの言霊神殿に達しているところです。ここで見立てることが出来なくなる、つまり心が動かなく例として言霊チから言霊イへ行く場合を探してみましょう。イは持続に関するものですから、このブログ読んでなんだこいつのはという全体的な印象の後、興味関心が沸いてこなければそのまま閉じるというようなものです。
持続する力動が見出せないため次の言霊神殿であるキへの浮き橋を渡らないことになります。言霊キは、心の宇宙の中の過去の経験、または経験知を掻き寄せようとする韻ですから、読む人の心の中にこのブログ内容が掻き寄せられないことになり、自分とブログとが結ばれないことになります。あるいは読む人の過去経験知にこのブログの内容が引き寄せられる場所が無ければ、詰まらんことを書いているとなります。言霊チの段階なら、表題を見て起動してターと起き上がるものが無いのでそのまま読まないことになるでしょう。
読む読まないは人の勝手ですが心の始まりを見てみると、読もうとする人の主体側に、ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき、という心の動きがあります。
これは読もうとする人の先天構造(天津神)が自分の創造意志(伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神)に促さして働きを始めるのに(諸の命もちて)、自分に不明な現象の組み合わせ(この漂(ただよ)へる国)を、自分の関心ある次元に沿って主張しよう(修理(おさ)め固め成せ)とする、と読め、その時までに保持している判断の力(あるいは感じ方、選び方)を使用して、心を現していくとなります。
その実行は、主体側の伊耶那岐が浮き橋の一方に立ち、客体側の伊耶那美が橋の向こうに立ちます。沼矛の沼は縫う行為つまり言葉の橋を渡ることを指し、矛は舌の形をしていますから発音をしてみるということです。主体がその意識に沿ってあれこれ発音してみて的確な客体を言い当てていくことになります。対象客体を言い当てることが出来れば塩の塊ができます。塩は四つの次元のことです。主体側の態度意識介入の次元を指していて、その次元に応じてそれぞれの塩ができるという分けです。
読み手とこのブログが結ばれないことを例としてあげましたが、実際は読み手の次元の相違に結ばれないということになります。古事記には塩ができることとして記述がありますが、当然塩とならない場合のオノコロ島も含まれています。宗教に知的な関心を示しても、仏教だけに関心をもっているとか、同じ仏教でも哲学的にとか、ご利益追求とかにしか関心を示さない場合もあります。それは各々が持つ先天的な関心ありの対象から規定されているからです。
そこでオノコロのオとは意識内に成立したオ-ヲであることが分かります。神名をもって現せば、ウマシアシカビヒコヂと天の常立の神のコンビです。
意識活動に先立って先天構造が存在し、そこには先天オ-ヲも当然あって、意識活動によって新たなオ-ヲが定立されていくことになります。
『自分が以前に見た物の中から』『心の宇宙の中から』必要な記憶を掻き繰って来るというのは先天の八つのオ-ヲと後天の八つのオ-ヲのどこかでの一致をいうのですね。きっと。
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10。角杙(つのぐひ)の神。11。妹活杙(いくぐひ)の神。
言霊キ、ミ。昔、神話や宗教書では人間が生来授かっている天与の判断力の事を剣、杖とか、または柱、杙などの器物で表徴しました。角杙・活杙の杙も同様です。言霊キの韻は掻き繰る動作を示します。何を掻き繰る(かきくる)か、と言うと、自らの精神宇宙の中にあるもの(経験知、記憶等)を自分の手許に引寄せる力動韻のことです。これと作用・反作用の関係にある父韻ミは自らの精神宇宙内にあるものに結び附こうとする力動韻という事が出来ます。
人は何かを見た時、それが何であるかを確かめようとして過去に経験した同じように見える物に瞬間的に思いを馳せます。この動きの力動韻が父韻ミです。またその見たものが他人の行為であり、その行為を批判しようとする場合、自分が先に経験し、しかもそういう行為は為すべきではないと思った事が瞬間的に自分の心を占領して、相手を非難してしまう事が往々にして起ります。心に留めてあったものが自分の冷静な判断を飛び越して非難の言葉を口走ってしまう事もあります。これは無意識にその経験知を掻き繰って心の中心に入り込まれた例であります。
人は世の中で生きて行く時、この父韻キミの働きを最もしばしば経験します。そしてこの働きは最も容易に認識する事が出来るのではないでしょうか。
10。角杙(つのぐひ)の神・父韻キ
宇比地邇の神・妹須比智邇の神(父韻チ・イ)に続く角杙の神・妹生杙の神(父韻キ・ミ)の一組・二神は八父韻の中で文字の上では最も理解し易い父韻ではないか、と思われます。角杙の神から解説しましょう。角杙の角とは昆虫の触覚の働きに似た動きを持つ韻と言ったらよいでしょうか。「古事記と言霊」の父韻の項で、この父韻の働きを「心の宇宙の中の過去の経験、または経験知を掻き寄せようとする韻」と説明してあります。目の前に出されたもの、それを「時計だ」と認識します。いとも簡単な認識のように思えます。若し、この人が時計を見たことが一度もない人だとしたらどうなるでしょうか。その人は目の前で如何にその物を動かされたとしても、唯黙って見ているより他ないでしょう。「時計だ」と認識するためには、それを見た人が自分が以前に見た物の中から眼前に出された物に最も似ている物を心の宇宙の中から思い出し、それが時計と呼ばれていた記憶に照らして、「あゝ、これは時計だ」と認識する事となります。人間の頭脳はこの働きを非常な速さでこなす能力が備わっているから出来ることなのです。この様に、心の宇宙の中から必要な記憶を掻き繰って来る原動力、これが父韻キの働きであります。
以上のように説明しますと、「あゝ、父韻キとはそういう働きなんだ」と理解することは出来ます。けれどその父韻が実際に働いた瞬間、自分の心がどんなニュアンスを感じるか(これを直感というのですが)、を心に留めることは出来ません。そこには“自覚”というものが生れません。そこで一つの話を持ち出すことにしましょう。
ある日、会社の中で同じ会社の社員と言葉を交わす機会がありました。日頃から人の良さそうな人だな、と遠くから見ての感じでしたが、言葉を交わしてみると、何となく無作法で、高慢な人だな、という印象を受けました。それ以来、会社の中で会うと、向うから頭を下げて来るのですが、自分からは「嫌な奴」という気持から抜け出られません。顔を合わせた瞬間、「嫌な奴」の感じが頭脳を横切ります。自分には利害関係が全く無い人なのに、どうしてこうも第一印象に執らわれてしまうのだろうか、と反省するのですが、「嫌な奴」という感情を克服することが出来ません。或る日、ふと「そういえば、自分も同じように相手に無作法なのではないか」と思われる言葉を言うことのあるのに気付きました。「なーんだ、自分も同じ穴の狢だったんだ」と思うとおかしくなって笑ってしまいました。「あの人に嫌な奴と思うことがなかったら、今、私に同じ癖があるのに気づかなかったろう。嫌な奴、ではなく、むしろ感謝すべき人なんだ」と気付いたのでした。そんなことに気付いてから、会社でその人にあっても笑顔で挨拶が出来るようになりました。
この日常茶飯に起こる物語は、父韻キについて主として二つの事を教えてくれます。その一つは、人がある経験をし、それが感情性能と結びついてしまいますと、それ以後その人は同様の条件下では条件反射的に同じ心理状態に陥ってしまい、その癖から脱却することが中々難しくなる、ということです。同じ条件下に於ては、反射的に何時も同じ状況にはまってしまうこと、そして反省によってその体験と自分の心理との因果に気付く時、自分の心の深奥に働く父韻キの火花の発動を身に沁みて自覚することが出来ます。因果の柵(しがらみ)のとりことなり、反省も出来ず、一生をその因果のとりことなって暮らすこと、これを輪廻(りんね)と言います。そこに精神的自由はありません。第二の教えが登場します。物語の人は、嫌な奴と思った人と同様の欠点を自分も持っていたことを知って、「嫌な奴」の心がむしろ感謝の心に変わります。因果のとりこであった心が感謝の心を持つことによって、容易に因果から脱却出来ました。この心理の変化を敷衍して考えますと、八父韻全般を理解しようとするには、言霊ウ・オの柵にガンジガラメになっている身から言霊アの自由な境地に進むことが大切だ、という事に気付くこととなります。言霊父韻とは正しく心の宇宙の深奥の生命の活動なのですから。
11。 妹生杙(いくぐひ)の神・父韻ミ
角杙の神の父韻キと陰陽、作用・反作用の関係にある父韻ミを指示する神名です。この生杙の神という神名ぐらい実際の父韻ミにピッタリの謎となる神名は他にはないでしょう。角杙の神の時、杙というものを昆虫の触覚に譬えました。人が生きるための触覚と譬えられる働き、とはどんな働きでありましょうか。変な例を引く事をお許し下さい。日本の種々の議会の議員さんが選挙で当選するのに必要な三つのもの、といえば地バン、看バン、カバンです。言い換えると、地バンとは選挙区の人々とのつながりのこと、看バンとは知名度、そしてカバンとは勿論豊富な選挙費用を持つことです。議員さんにとって選挙で当選したから一息、という訳にはいきません。当選したその日から、自らの三つのバンを更に大きく強く育てて行き、次の選挙への準備をすることです。地バンである選挙区の人々、今までに顔見知りになった人々へ、議員自身の影響力を更に売り込んで行かねばなりません。どんな人にどの様に自分を売り込んだら良いか、その働きの最重要なものが言霊ミであります。言霊父韻ミとは、自分の心の中にある幾多の人々と、如何なる関係を結んで関心を高めて行くか、相手の心と結び付こうとする原動韻即ち父韻ミが重要となります。どんな小さい縁も見逃してはなりません。縁をたよって自分の関心を売り込む力です。これは正(まさ)しく生きるための触覚であります。政治家にあってはこの生きるための触覚を手蔓(てづる)と言います。その他物蔓・金蔓・人蔓、手当たり次第に関係の網(あみ)を広げて行きます。
政治家ばかりではありません。この生杙という父韻ミは、人が社会の中で生き、活躍して行くためにはなくてはならぬ必要な働きであります。社会に於てではなく、人間の心の中との関係についてもこの触覚は重要な働きを示すでありましょう。自分の心の中の種々の体験とその時々のニュアンスに結び付き(生杙)、またそれを掻き取って来て(角杙)、小説を書き、印象画や抽象画を描き、また既知の物質の種々の法則の中から微妙な矛盾を発見して、新しい物質の法則に結びつけて行く才能の原動力もこの言霊キ・ミの働きに拠っています。
反省する時に父韻を自覚するには、何故人を批判する心が起こってしまったのか、起こしてはいけないと思っているに起こって、自分の意思と関係なく宇宙と結びついてしまったキ(角杙神)・ミ(生杙神)であることがわかる。
よく人の名前を思い出せない時、なんかの拍子にひょいと思い出す“ヒ”の於母陀流神、思い出すまで心の中で誰だったっけ、もやもやしている妹阿夜訶志古泥神の“ニ”、それ以上は捉えることが出来ないのですから。
分からないのは八つの父韻の並び方で次元が違ってきますでしょ、俳句や和歌を捻った時に自分の心の並びがアの父韻の並びア・タカラハサナヤマ・ワと並んでいるか、それぞれの次元の現象の父韻の並びを観れば、それに対してどのように答えればいいかが自ずと分かってくる。
高天原へとどのような言葉をかければ引き上げることが出来るか、それが大直毘、神直毘、伊豆能売である言葉が分かってくる。必ず反省でもって、アとワの前にはウがあって、その前には宇宙があるんだよ、を言い聞かせておけばいい。
分かれていることを意識できないのですから、でも実際は分かれている、でも分かれていないということを知っておればいい。
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