神産巣日(かみむすび)の神。
2011/4/27(水)
前号の布斗麻邇講座で「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天の御中主の神(あめつちのはじめのとき、たかまはらになりませるかみのみなは、あめのみなかぬしのかみ)」の文章を、「何も起こらない心の広い広い宇宙の中に、何か分からないけれど、人の意識の芽とも言った現象の兆しが起ころうとした時」と解説しました。そしてそれは広い宇宙の中のことでありますから何処をとっても、それは宇宙の中心であり、何かが起ろうとするのは、まぎれもなく「今」であり、「此処」である、と説明しました。天の御中主の神(言霊ウ)は何か分からぬが、人間の意識の芽のようなものであり、やがては「我」という意識の始まりでもあります。
心の先天構造である、人間の意識では捕捉することが出来ない宇宙に、初めて何かが起ころうとする天の御中主の神(言霊ウ)を踏まえて、古事記の文章の次に進むことにしましょう。
「次に高御産巣日(たかみむすび)の神。次に神産巣日(かみむすび)の神。この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。」
「次に」
次に、とありますのは、何も起こっていない心の宇宙の中に、何か知らないが、意識の芽とも言える何かが起ころうとしている(その宇宙を言霊ウと名付けるのですが)、「その意識で捕捉できない心の動きが、更に進展して行くならば次に」ということであります。心の中で何かが起ころうとしている気配がある。けれどそれが気配を感じるだけで、何も起こらず、そのうちにその気配も消えてしまうということはまゝあることです。それはそれで言霊ウまでで終わってしまいます。けれど、更に先天の活動が進展して行けば、「次に」ということになります。こんな話は言わずもがなの話のようでありますが、この後に出て参ります、先天宇宙の「宇宙剖判」という出来事を説明するために必要なことでありますので、前もってお話申上げました。
「高御産巣日の神・言霊ア。神産巣日の神・言霊ワ」
広い心の宇宙の中に天の御中主の神と神名で呼ばれる言霊ウの宇宙が活動を開始し、更にその活動が進展しますと、言霊ウの宇宙から高御産巣日の神と呼ばれる言霊アの宇宙と、神産巣日の神と呼ばれる言霊ワの宇宙が現出します。
事は心の先天構造という五官感覚では把握できない領域の話でありますから、手に取って見るような説明は難しいのですが、出来るだけ平易に説明してみましょう。高御産巣日・神産巣日とう二つの神名の指月の指から、その神名が心の何を指し示してくれているのか、を考えてみましょう。高御産巣日(たかみむすび)、神産巣日(かみむすび)という漢字を仮名に置き換えて書いてみます。すると「タカミムスビ」「カミムスビ」となって、高御産巣日の方が頭にタの一字が多いだけの事が分かります。後程お分かりになることですが、日本語の中に使われるタの一音は物事・人格の全体または主体として使われることが多い音です。そのタの一音以外では二神名は「カミムスビ」と同音に読めます。「カミムスビ」は「噛み結び」となります。噛み結ぶ、即ち緊密に結び合って何かを生み出すもの、更に一方は主体で、他方は客体であるもの、と言えば、それが何であるか、は想像がつきます。そうです。高御産巣日・言霊アは主体宇宙、神産巣日・言霊ワは客体宇宙であることを示しています。言霊アは心の先天構造内の主体宇宙のことであり、言霊ワは客体宇宙のことであります。
初発(はじめ)の心の働きの芽であり、兆(きざし)である言霊ウが始まろうとして、そこで止まってしまえば、次の段階のアとワ(主体と客体)への変化は起こりません。それが頭脳内に起こるということは、先天構造を構成している心の宇宙の内部で次の活動が起こったことになります。高御産巣日と神産巣日の二神が生まれ出たということ、即ち言霊アとワが現れ出たということは、言霊ウの宇宙が言霊アとワの二つの宇宙に分かれた、ということになります。この宇宙の活動はこの後も次々と他の宇宙を現出させることとなるのですが、この様な心の宇宙の中で次々とその宇宙が分かれて他の宇宙を生むことを言霊学は宇宙剖判(ぼうはん)と呼んでいます。剖判の剖は「分ける」です。そして判は「分かる」であります。
この宇宙剖判を図で示してみましょう。
五官感覚(眼耳鼻舌身=げんにびぜつしん)でとらえられることが出来ない先天構造の中の内容の説明ですから、何とも心もとない、難しいことを言うようになりますが、ない能のあらましは御理解頂けることと思います。この宇宙のまだ分かれない未剖の言霊ウから言霊アとワの主体と客体に分かれること、この剖判が欠く事の出来ないに人間頭脳の働きの特徴であることに御留意下さい。この不可欠の特徴が人間の認識の作用上、重要な意義をもたらすこととなります。そのことについてお話することにしましょう。
先に「剖判」の剖は「分ける」、判は「分かる」と説明しました。人は何物か、または何事かに遭遇した時、これは何かと思うと同時に、その事物を頭の中で分析します。そして分けた部分々々を調べ、内容が「分かった」と納得します。分けなければ分かりません。分けるから分かるのです。この当り前と思える法則が人間に与えられた認識法則の最重要法則の一つなのであります。広い何もない宇宙の中に何か分からない意識の芽が芽生え始めました。言霊ウであります。意識が更に進展すると、言霊ウから言霊アとワ(主体と客体、私と貴方、僕と君、心と物、…)に分かれます。宇宙剖判です。ウからアとワに分かれました。初めのウとア・ワと数えて三つの言霊、神名でいう天の御中主の神、高御産巣日の神、神産巣日の神の三神を神道で造化三神と呼びます。物事の始まり、未剖のウからアとワの二言霊に分かれた事、この事は人間の心の営みのすべての始まりであります。
言霊の内容や働きを数(かず)で表わすと、これを数霊(かずたま)と呼びます。二千年以上昔に書かれました中国の「老子」という書物にはこの造化三神の法則のことを「一、二を生じ、二、三を生じ、三、万物を生ず」と言っております。造化三神の法則をお分かり頂けたでありましょうか。
造化三神の法則について、もう一つの重要な事をお話しておきましょう。近代の人々、特に現代人はこの造化三神の法則について、アとワ、すなわち主体と客体に分かれる以前に、主体未剖の言霊ウがあることを知らないで生きています。ですから、「私が彼に会った時」、「僕があの物を見た時」その時が物事の初めだと思い込んでいます。既に主体と客体に剖判した「私」と「貴方」から思考が始まります。言霊学的に見れば、ウ∧ワアの三者から始まる思考が、現代人はアとワ、主体と客体、の偶然の出会いからの思考と変わります。どちらでも同じなのでは、と思われるかも知れませんが、実際には天と地程の思考の差が生じて来るのです。この認識の違いが結果として人間の心の持ち方の上でどの様な事になるか、今の所では、読者の皆様の研究課題とさせて頂くことにしましょう。心の宇宙剖判が更に進んだ所で詳細な解説を予定しております。
言霊ウの宇宙が剖判して言霊アとワの宇宙か現われます。主体と客体です。主体アである私のことを昔は「あれ」(吾)といい、客体ワである貴方のことを「われ」と呼んだ時代がありました。今でも地方によって年寄りが「お前」のことを「われ」と呼ぶのを聞くことがありましょう。言霊アの内容として、漢字で書きますと、吾(あ)、明(あ)、灯(あ)等々が考えられます。また言霊ワには我(わ)、和(わ)、輪(わ)、枠(わ)等々が考えられます。
「この三柱(みはしら)の神は、みな独神(ひとりがみ)に成(な)りまして、身(み)を隠(かく)したまひき」
天の御中主の神、高御産巣日の神、神産巣日の神の三神は独神で、身体を現わすことのない神だ、ということです。独神とはうまい表現であります。意味を説明すると難しくなります。哲学用語を使いますと、「それ自体で存在していて、ほかに依存しないこと」の意となります。言霊ウ、ア、ワの宇宙はそれぞれ一個で厳然と実在していて、他に何々があるから、これもある、という依存なく、それ自体が実在体である、の意であります。また「身を隠したまひき」とは、それ等の宇宙はすべて先天構造を構成しているものであり、人間の五官感覚で捕捉することが出来ない領域のもので、現象として姿を現わすことがない、の意であります。
これも中国の「老子」の中の文章ですが、「谷神(こくしん)は死なず」とあります。アイウエオの母音は声に出してみると、どれも息の続く限り「アーーー…」と声が続いて変わることがありません。山の深い谷は木々に覆われて上から見ることが出来ないので、「身を隠したまひき」の母音宇宙の喩えに使われ、発音して変化のなく永遠に続くことから「死なず」と表現されました。山中の深い谷に水が流れ、宇宙空間の無音の音の如く響く母音は、宇宙であるから消え絶えることがない、と母音を説明した文章であります。二千年以上昔に、わが国の言霊学の影響を受けた老子がかくの如き言葉を遺した事から考えて、精神的に古代に於ける言霊学の他国に及ぼした影響の大きかった事が偲ばれます。
先天構造内の宇宙剖判が更に進展しますと、次に何が起こるでしょうか。古事記の文章を先に進めて行きましょう。
神産巣日(かみむすび)の神。見られる相手。
2010/8/21(土) 神産巣日(かみむすび)の神。見られる相手。
1-意訳
■≪見られる相手対象、主体の働きかけに答えるだけの客体に分かれます。≫
2-古事記
●『神産巣日(かみむすび)の神。』
3-テーマ
結果。過去。対象。相手。あなた。客体。永遠。
4-言葉解説・指し月の指
「広い心の宇宙の中に天の御中主の神と神名で呼ばれる言霊ウの宇宙が活動を開始し、更にその活動が進展しますと、言霊ウの宇宙から高御産巣日の神と呼ばれる言霊アの宇宙と、神産巣日の神と呼ばれる言霊ワの宇宙が現出します。
事は心の先天構造という五官感覚では把握できない領域の話でありますから、手に取って見るような説明は難しいのですが、出来るだけ平易に説明してみましょう。高御産巣日・神産巣日とう二つの神名の指月の指から、その神名が心の何を指し示してくれているのか、を考えてみましょう。高御産巣日(たかみむすび)、神産巣日(かみむすび)という漢字を仮名に置き換えて書いてみます。すると「タカミムスビ」「カミムスビ」となって、高御産巣日の方が頭にタの一字が多いだけの事が分かります。後程お分かりになることですが、日本語の中に使われるタの一音は物事・人格の全体または主体として使われることが多い音です。そのタの一音以外では二神名は「カミムスビ」と同音に読めます。
「カミムスビ」は「噛み結び」となります。
産は生み・生産するの意。
産霊(ムスビ)の霊は言霊特に現象の単位を表わす言霊三十二の子音である。
噛み結ぶ、即ち緊密に結び合って何かを生み出すもの、更に一方は主体で、他方は客体であるもの、と言えば、それが何であるか、は想像がつきます。そうです。
高御産巣日・言霊アは主体宇宙、
神産巣日・言霊ワは客体宇宙
であることを示しています。
言霊アは心の先天構造内の主体宇宙のことであり、言霊ワは客体宇宙のことであります。」
瞬間的に分かれるのを宇宙剖判と申します。どうして分かれるのか、というか、分かれる力は何処から出ているのか、これがアオウエイの一番上の‘イ’という宇宙の中にある八つの父韻。
分かれた瞬間にこれはどうなるのかを判断するにこの八つの父韻が回転して‘ウ’という宇宙を‘ア’と‘ワ’の宇宙に分ける働きをする。それで‘ア’という宇宙と‘ワ’という宇宙が相対することになる。
でも何も起こらない。宇宙は何もしてくれません。ただ分けたりだけの話しですから。それでもこの人とどんな話しをしたらいいのだろうかというと‘オ’という宇宙に分かれたり、‘エ’という宇宙に分かれたりしながら、ではこういう話し合いをしましょうということになる。
永遠の女性
人間が物を見た瞬間には、そこに何かあるというだけであるが、一度これは何だろう、という心が生まれると同時に、その見た或る物が見る主体(ア)と見られる客体(ワ)とに分かれる。そして吾は汝に働きかけ問いかけることによってアとワの交流(感応同交)が起き、終にその或る物は実はこれこれの物なのだと結論が出る。
客体である言霊ワは、主体である言霊アの働きかけがなければ永久に暗黒であり、混沌である。そして主体の働きかけの分だけ自分の内容を現して来る。詩人ゲーテはこの言霊学でワと呼ぶ純粋客体を「永遠の女性」と言った。
何故なら自分の問いかけにだけ回答されたとしても、全てが理解出来たわけではない。「分かった」と思われた瞬間から客体は、相変わらず主体に対する未知数の部分は暗黒の未知である。主体に対する永遠の未知の客体として存在する。
それでいてこちらの問いかけた分だけは答えてくれる客体は正しく「永遠なる女性」と呼ぶにふさわしい。
Alles Vergaengliche Ist nur ein Gleichnis;
Das Unzulaengliche, Hier wird's Ereignis;
Das Unbeschreibliche, Hier ist's getan;
Das Ewig-Weibliche Zieht uns hinan.
すべて過ぎ去るものは 永遠なるものの喩えにすぎぬ。
不十分なものも、ここでは実を結ぶ。
書かれざることが、ここではなされる。
永遠に女性的なるものが われらを高みへ引きゆく。
Das Ewig-Weibliche Zieht uns hinan.
「永遠に女性なるもの、我を率いて行かしむ。」
(ファウスト第2部末尾「神秘の合唱」より)
5- 省略部
138億光年先の天体は客体のワ。アとワを頭のリズムが結びつけた、とするとこれは宇宙ということになる。頭の中にあるものは外にも求められるけれど、頭の中に全然意識の外のものは求めても見えない。
6- 解説△○□
関心のある部分だけを答えます
「こうだから、ああだ、ああだから、こうだ」というのは歴史でも何でもない。それは想像で、歴史とは一回しか起こりませんから、過去を述べるのも、未来を述べるのもたった一つの答えしかない。
その一つの答えが書けるか、書けないか、言霊の学問がある程度立ちませんと歴史が自分のものにならない。自分の責任としての歴史にならない。そうすると恣意の歴史になってしまって、予想の歴史にしかならない。
想像ではなくて創造の歴史、創造する立場、つまり責任者でならなければ、「こう言ったけど、こうにはならなかった」というのは本当の歴史じゃない。現代の歴史を説く人は全部が全部ウオアの次元で説いている。
歴史を創造するということは言霊エの次元に一歩足を踏み込みませんと出来ません。責任者として立っているか立っていないかが、つまり天の御柱が立っているか、どうか。
7- 凡例
高御産巣日・言霊アは主体宇宙、
神産巣日・言霊ワは客体宇宙
で、主体と客体を示す神名には「タ」があるか無いかだけの違いです。
た・かみむすび
・・かみむすび
主体はその感覚、知識、智恵、感情、意思の各次元の全体を含んでいます。ですので「タ」というのはその全体のことですが、主体の現れてくる時は、その底辺で全体に接触しているだけで、全体が現象となるわけではではありません。
その人の関心のある次元で現象があることになります。ところが山にいた狩人がはじめて海を見ても、哲学思想家がはじめて海を見ても、あるいはまた山野を専門に描いていた画家がはじめて海を見ても、目前を青い海を見て、「う」と言います。
この三者が海を三者とも「う」というには三者共に同じ意識を共有していないと言語の発生としては不可能です。つまり古事記でいえば三者共に神産巣日は同じで不変で永遠で成り続けます。
ここで三者が海を語り合えば、
「すべて過ぎ去るものは 永遠なるものの喩えにすぎぬ。
不十分なものも、ここでは実を結ぶ。」
これは各自勝手な「タ」を主張するからで、その主張の根拠は意識されていないひとの先天構造にあります。
「書かれざることが、ここではなされる。」
この先天構造は三者の、全人類の、先天性ですから永遠永劫で、しかも問いかけるどのような次元のことでも受け入れることのできるスーバーウーマンです。
「永遠に女性的なるものが われらを高みへ引きゆく。」
他の訳では
Das Ewig-Weibliche Zieht uns hinan.
「永遠に女性なるもの、我を率いて行かしむ。」で、高みへ行く行かないは取り敢えず置いておかれます。(感傷的には上の訳が気に入るでしょうけど、「タ」の主体性が消失していきます。)
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精神元素「ワ」の言霊と古事記。その1。
2010/3/5(金)
精神元素「ワ」の言霊と古事記。その1。
●0)古事記神代の巻冒頭百神によって与えられた「ワ」の神名・
神産巣日(かみむすび)の神。 言霊ワ
・神名の解。
「カミムスビ」は「噛み結び」となります。噛み結ぶ、即ち緊密に結び合って何かを生み出すもの、更に一方は主体で、他方は客体であるもの、と言えば、それが何であるか、は想像がつきます。そうです。高御産巣日・言霊アは主体宇宙、神産巣日・言霊ワは客体宇宙であることを示しています。言霊アは心の先天構造内の主体宇宙のことであり、言霊ワは客体宇宙のことであります。
カミは「噛み」です。産巣は産む、生じる事、日は言霊特にその中の子音を指します。カミの噛みは二つのものが出会う事で、心理学的に言えば感応同交という意。
・神名全体の意味。
そこでカミムスビ全部で(主体と客体が)感応同交して言霊子音を生む、となります
・言霊「ワ」の意味。
---以下全部引用---
「オレはここのところだけはできる」ということをもう持っていらっしゃる方は、それが邪魔するんです。そこのところでものごとを量ると得意なんですから。十中十とはいわないまでも十中六七はお当てになるでしょうから、そうするとほかの判断力はいらないことになります。
自我意識というのは厚い。自分はこうだと思い込んでいる。思い込んでいるから揺ぎ無い。もし、着ている物に染みがついていますよ、と注意されれば、礼を言ってクリーニングしなければと思う。だが、心の中のことを指摘されると憤慨してしまう。それは人格が否定されたように受け取るからだ。
私という私。自我意識というのは自分のプライドや因縁事などが絡まって自分の中に棲みついている。今まで生きてきて、これが自分だって思いつづけているもの。それは何だろう。
そんなに着込んじゃって重たくないの?って言われても、本人は暑い最中でもそんなもんじゃないかって、脱ごうとはしない。それは自分に対する枷のようなもので、ズルズルと引きずりながら人生とやらを歩いているような気がする。
「このオレが本当のわたしか」って。どこまでも突き詰めてみると、そうじゃないんですな。「あいつは黒いセーターを着てるやつだ」って。「そうかい」っていって会いに行ったら、水色のセーター着てた。けれど「あいつじゃない」とは言えません。
わたくしというものの真実は何かっていえば、そういう現象にあるのじゃなくて、そういう現象をする本体。そういう現象が出てくる本体が実は本当のわたくしでございます。で、その本体って何だ。こうなるとわかんなくなっちゃう。
意識で捉えられるものに全部こだわっちゃうから「あんちきしょう、こんちきしょう」ということになります。意識で捉えられない「空」。この天名(アナ)の先天構造は六十何億人いますけれどみんな構造は同じです。
自我意識。この自分の体が自分でないとしたら、さて、その実体は何処にあるのか。体は空田。最終結論、結果である。それ以上はどうやっても行かない。ここが限度の器。
「私って何者」っていうのが今まではこの体だと思っているから、実体がないとすると、何者なんだということになりますよ。自分の意識で捉えられないものが本体なのであって、捉えられないもののほうに視点が移ったとしたら、これが本体だったということが確実に分かって来る。この肉体は本体じゃないんだ。ウオアエイのウの意識で見ると体だけども、何者なんだ、ということに視点が移れば、本体ですから、実在ですから。
じゃ、実在って何だというと、アオウエイという天の御柱です。宇宙を言葉にしたのが日本語ですから。だから、日本語の根源が分かった人が書いたり、言ったりすれば、そのまま注釈を必要としない。言葉どおりが実現していく。喋りはしないけど動植物だって一緒のことです。大自然のものはその通りに生きているんですよ。そうじゃないのは人間だけ。
何故かって言えば、人間は頭脳で考え出した経験知というものを、見たり聞いたりしたことから作り上げた経験知識というものを土台に生きていますから。と思っていますから。だから分からないということになります。
心と体を一緒にしたものが自分ではないのですよ。心と体とを分ける以前の生命そのもの。これが実在。
無字。お前(自我を形成している理念・信念)は本当の私ではない。今までお前は私が生きることを助けて来てくれた。ご苦労さまでした。有難う。しかし今からはお前を私だと思い込んでいたのでは生きていけなくなって来た。だから私が改めてお前を必要として呼ぶまでお前のあるべき座に収まっていてくれ。
自分の自分への説得を根気良く繰返して行くことである。この方法を座禅という。そして説得する本体が生まれたままの自我、宇宙に当るわけである。
では、どうすれば人間が自分の生命の本性を知ることが出来るのか、自分の意識、考え、感じ方の本体が自我であると思うことは幻なのであって、宇宙そのものなのだ、と知る。それが言霊ア次元である。
進化の過程。人間が生まれもって出て来るときは「アオウエイ」。だから横のつながり(父韻)がない。文化活動をしていないまっさらな人間ですから。「ウオアエイ」のエとイの位置は変わらなく、アオウとウオアの変化には意味はないのですが、ただ進化の努力する時にアオウからウオアには意味がある。
ウオは自我なんです。
自我と申しますのは、自分が集めていいと思う・悪いと思う知識の総量なのです。オからアに行くには、それを否定するもんですから、自我がなくなっちゃいます。自我がなくなっちゃうから宇宙に飛び出す。飛び出したままでは、この上のエ・イには行けないのです。
なぜかというと、アというのは母音ですから、お母様の考え方。お母様の考え方というのは愛の最高ですから、お子さんがどんないやなことを言っても、まずは「よしよし」と言います。はじめからガンとは言わないです。
自我意識。自我を形成している主なものは、いまの時代はウとオなんです。「こうしたい、ああしたい」という欲望の生活がうまくいかなくなる。これがまずイライラする原因。「こうすればこうなるだろう。ああすればああなるだろう」という理屈がうまくいかなくなる。
だいたい自我と申しますのは、主にこれ(ウ)とこれ(オ)。ウとオが思うようにいかなくなりますと、イライライライラしてくる。「こんなはずじゃなかったんだ。こんなはずじゃなかったんだが」っていうときは、自分っていうものがまだ自我が大きい。
「自分というものはもっとうまくやれるはずだ」という日頃の自信がございますから、うまくいかないと「こんなはずじゃなかった」と、自分自身にイライラしてくる。イライラしていてもひとつも直らないとき、そうするともうどうしようもありません。どうしようもないと「おまえっていう人間は、うまくいかないのがおまえだ」と。
「こんなはずじゃない」ということは、「こんなはず」なんです、実のところ。だから「うまくいかないのが自分だ」ということに収まります。そうしますと、「そんな自分なのにどうして生きていられるんだ」というと、ウとオというものを子供みたいにしてアというお母様がちゃんと包んでくれている。
ありがたいという心は、このウとオが「ありがたい」と思うんじゃないんですよ。おわかりになりますか。阿弥陀様はここ(ア)に住んでるんです。その阿弥陀様が「ありがたい」と思われるんです。
自我というものが自分の心の中に生きていて、それは幻だけれども自分以上に自分のことを主張する、ということをお分かりになればよろしいです。本当の自分じゃない。自分の頭の中に入り込んでいる幻の自分です。本当は無いものですから。これの本性が金毛九尾っていいます。
自我という殻。人間っていいますのはね、何か嫌なこと言われると「自我が傷つけられる」と思う。他人に家の中に踏み込まれると、「プライバシーが侵された」と思う。自分っていうものの殻を作っちゃいますな。生まれたときからある程度の年齢になると作っちゃうんです。もう5、6才で作りますよ。「あんちゃん、これはわたしの!」って言いますよ。もうすでに作られちゃってるんです。言わないのは赤ん坊のときだけ。みんな自我。
ところが、よくよくこうやって見てきますと、自我なんてものはないんですよ。あると思い込んでるだけの話なんです。
実際に自分というものの本体は何であるかということも、よくよくよくよく見つめていって、「あ、自我っていうものは虚妄に過ぎなかったんだ」と。「その虚妄に過ぎない自我っていうものが、どうして起こるんだろう」。いまの時代は、世界中が自我に捕われてますな。「どうして起こるんだ」ということは、その原因をお話ししてきますと、面白いことになってまいります。
先天構造っていうのは、こうなってるんです。はじめに何にもない宇宙の何かここに意識が出てきて(ウ)、これが宇宙剖判をして広がってきますと、アとワに分かれて、アとワに分かれたものが「これは何だ」ということになるとオとヲになって、「これをどう扱ったらいいかな」って将来のことになるとエとヱに分かれます。そうして八父韻が動くと、子音という現象が出てまいります。
これでは、自我が起こり得る余地がないのです。どこを自我と言ってるのか。宇宙がやってることなんですから。自我のある人で「オレは自我という宇宙だ」っていう人はまずいらっしゃらない。ここから自我という意識は絶対に出てこない。その出てくるはずがない自我という意識が、どこから出てくるんだというと、ここ(アとワ)です。わたしとあなた。主体と客体。
ずーっとこうやって(切らずに)考えてくると、これはいわゆる東洋思想ということになります。東洋思想、特に日本の思想は、「わたしは」という言葉を言わないです。「わたしはまんじゅうが食べたい」とは言わないのです。ただ「まんじゅう食いたい」って言います。「Will eat manju.」って言ったら、西洋の人なら笑われますよ。「I」がつくんです。「I will eat manju.」とこう言わないと。
なぜかといいますと、向こうの人の意識はこれ(ウーア・ワ)がないんです。これを全然意識しない。昔から意識しない。どのぐらい昔ですかね。イエス・キリストが生まれるもっと昔。アダムとイブがいて、イブが蛇にだまされて、エデンの園の知恵の実を食べた。そうしたら自分が裸であるということを知った。「何にも持ってないということがわかった」と。何かほしい。「自分を隠す何かがほしい」といって、イチジクの葉っぱをつけた。そこから自我が始まった、としてる。
イチジクの葉っぱをつけたから自我が始まったんじゃなくて、実はこれ(ウ―ア・ワ)を意識しなくなった。それで、自分が「○○をほしい」というように、これ(ア)が主人公になっちゃった。だから、必ず「I」をつける。ですから、相手に立つものは「偶然自分の前に立ったものだ」という意識がありますから。本当はそうじゃなくて、これ(ウ)が二つに分かれたんですから。
それ以外にこの殻というものはどこにもないのです。みなさん自分の体に殻を見てごらんなさい。「プライバシー」っていう殻があるかどうか。絶対にあり得ない。なのに、いまは地球上に63億人ぐらいいるそうですが、その人がみんな自我を持ってる。「オレが」「オレが」って。
精神元素「ワ」の言霊と古事記。その2。
2010/3/6(土)
精神元素「ワ」の言霊と古事記。その2。
言霊ワはどのように出来てきたのでしょうか。ワを輪とし、また和として解説されていますがいずれも現象を分析するだけのもののようです。
言霊ワの神名、「カミムスビ」は「噛み結び」となります。噛み結ぶ、即ち緊密に結び合って何かを生み出すもの、客体であるもの、客体宇宙であることを示しています。
カミは「噛み」です。産巣は産む、生じる事、日は言霊特にその中の子音を指します。カミの噛みは二つのものが出会う事で、心理学的に言えば感応同交という意。
○であれ□であれ▽であれ、お互いに和を結んで感応して行ければワとなるものです。形にはこだわりません。分かれ、別れのように別々になるものにもワを付けて表現されているものもあります。
もちろん別れの場合にはワカレ、和(ワ)が枯れ(カレ)て朽ちるからで、もともとワの状態はありました。
ここでは少しでもワのでてきた様子を探りたい。ワが神産巣日と結びつけられたのは古事記の表記される以前、数千年前のことと思われます。ひとつ太古の大和の昔に戻ってみましょう。といっても数千年の研究の成果を数分間頭を捻ってでっち上げるだけのものですから期待しても無駄だと前もって言っておきます。
○が輪であり、和を想起していくというのは既に述べた通り、現象への適応次元のものでしょう。
ここでは見方を変えて意識の動きを見てみたい。
太古の大和の人達は、われわれの青少年期も同じと思いますが、自分が考えることに、何故考えることが出来るのか、そもそも考えるとは何かとかいう、根本的な問題に思い悩んでいました。
自我に関してなら、「自我はそれ自体、意識されない」「我思う,故に我あり」「自我は自己意識」「知的直観の自己定立作用」「自我とは、自分を認識する心の働き」「無知の知」等々言われていることは既に古代人も考えたことと思われます。
彼らは、自分の考え思うことをそのこととしなかったところが、後世のわれわれの知っている偉人たちとは違うところです。世界の偉人にしろ、われわれにしろ、考え思うところをそうであるものとして主張します。そしてその主張されたところから当然のように話が拡がっていきます。
古代人、古事記、スメラミコト朝廷の考え方(それを禊ぎ祓いと言いいます)はそういった現代では当たり前と思われている思考から出発しませんでした。
ではどのようにワが発見されたのでしょうか。
考えるとは何か人生とは何かで最初の問題は、ここに自分がいること。物が、対象が、客体があることです。一方それを感じ見て考える主体もあることです。この始まりの部分を古事記では天地の初発の時といっています。
現代式の思考では在るものを天と地があるとしてしまいます。宇宙とこの地上とが在るとするわけです。天地を象徴と取らえる場合には思惟意識活動とその客観対象とします。ところが現代式では意識とその客観対象という見方をしますので、意識はここにあって対象は別にあそこにあると区別していきます。客観対象はそれはそれであそこにあり、主観意識は意識でここにある、と別々の二つの設定を設けるのが普通の思考です。
ワを見つけた思考はそうはなりませんでした。
小鳥がさえずりながら飛んで行くのを見たとします。ピピピーという声が聞こえました。
では小鳥はピピピーとさえずったのでしょうか。違います。人間にピピピーと聞こえる音波をだしていただけで、耳の無い動物には何も聞こえていません。しかし音波の圧力とか波動を感じたかもしれません。あるいは音は聞こえないが熱源の移動を察したかも知れず、臭覚を刺激させられたのかもしれません。人間にはピピピーでしたが他の動物にはどのように聞こえていたのか分からないし、同時に超音波とか低周波とかも感じていたかもしれない。要は単に人間にはピピピーだっただけで、その音が存在したわけではない。
小鳥の出した音波は人間界と音感の感受性を持つ動物界の総体で現され、さらには音波に付随する感受性の総体のことだろう。それは過去にも未来にも拡がるだろうから、非常な拡がりを持つことになる。人の感受性などほんのささやかなものに過ぎない一面を持っていることになる。限られた周波数帯の感受性しかない。
ところでもし人がこの経験を決めつけず無理に拡張もしないでそのまま受け入れ表現したとする。そうするとその人の意識にあるのはちょっきりそのままのピピピーがあることになる。彼の感受性の全体であり全てである。そこにあるのは、ピピピーと聞いた耳側のピピピーとさえずった側のピピピーしかない。この宇宙しかなくその全体は主体と客体の二つの部分しかない。
この二つの聞いた音と聞かれた音波はちょうど噛み合って結ばれた神産巣日の神となっている。これの主体側が高御産巣日であり、客体側が神産巣日となる。
この過程は次のようになる
・宇比地邇神・ チ・精神宇宙がそのまま現象となって姿を現す力動韻。耳に到達した小鳥の音波があった。その人にはちょうど受容感覚器官である耳が機能していた。
・妹須比智恵邇神 ・イ ・心の全体が現象となって現れ出てその現象の形がそのまま持続する力動。音波は弱まることなく鼓膜を叩く力があり、鼓膜は衰弱することなく振動を受けることができた。
・角杙神 キ ・何か起こった瞬間に自分の精神宇宙の一部に位置している体験的知識、信念、希望等々を自らの意識に掻き寄せようとする力動。鼓膜の振動は脳に伝わり脳は角を出してそれを感知しようとする。
・妹生杙神 ・ミ・ミ、心の宇宙に結び着こうとする意志の力動。経験内容が整理され、主体側の行為の有用性が生きている事を確認しようと反作用する律動。
・意富斗能地神・ シ・ 音波の振動数が受容範囲にあれことが判れば、それを受け取る注意力が働きだす。そして決まった方向へ結論を収縮するように選択肢がこれしかない状態を生み出していこうとする。
・妹大斗乃弁神 ・リ・音波を聞くことが承認されると、その思いが知らず知らずの内にどんどんと拡がっていき、心の中に今体験したこと、印象を持ったもの等に結びつきながら発展していく。
・於母陀流神・ ヒ・そこで記憶が心の表面にパッと鮮やかに浮かび上がってくる心の働きと結ばれ、精神内容が自己の表層へ上昇して自己の表面結界を超えて表面で見つかったものと結び着こうとする。
妹阿夜訶志古泥神 ・ニ・こうして聞こえた振動音波に結び付いた名が与えられ、ピピピーと表現されることになると同時にピピピーを聞く。あれはピピピーと鳴いているその存在を知る。
つまりここではピピピーは主観であり客観となっている。
今度はワを見つける為に抽象度を上げて対象全般にまで拡大します。
聞き手のその時のピピピーはその場の状況全体を示していました。そこで聞き手があの鳥は何ていうのかなと思うと、過去経験の知識を求める概念記憶の次元を呼ぶことになります。あるいは空を飛べたらいいなとか、あんなふうにさえずってみたいとか、絵を描きたいとか俳句をものにしたいとか、思うかもしれません。そうすると小鳥の声は次から次へと思いの対象に応じて分かれ変化していきます。
俳句の題になったり、物真似の対象になったり、作文に取り入れられたりしていきます。では何がそのように変化していくのでしょうか。ピピピーの声は同じなのにその声に関心を寄せた人はそれぞれ別々の思いになります。ここに言霊ワが登場しそうです。
当初声は声そのものが全ての状況を現していました。そこに何らかの関心事や思いが加わるとたちまちいろいろな方面へ分かれ変化していきます。この時の分かれ分岐していく地点にいるのがワの言霊です。それには二方向あり、その地点に向かう方向とそこから分かれる方向とがある。
角に隠れていて突然姿を現すときにはワッといいます。同じ地点に合流統一される方向です。誰かと一緒にいたが時間がだいぶ過ぎ去りワッ大変遅刻だというときには、その時点から分かれる方向です。輪と和等は合流していく方からの見方です。
ワの言霊はその地点状況の中にいるので、動きを指していません。ワが動くときには何かの力動因が必要です。割れる、割る、分かれる、等主体客体が統一体であったものが変化した動きを示します。
ワはその地点の中にいるのですから、この世のもの、天のもの、意識の対象となるものの全ての元々のものです。
余計な力が加わらなければ、動かず平和そのもの、座った姿となるでしょう。