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・こころの宇宙 『 天地 』 (何もないけど在るこころ)
第一部 前半五十神
一、先天性。天地初発の時(先天十七言霊)
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1・ こころの宇宙 『 天地 』 (何もないけど在るこころ)
○ 古事記『初発(はじめ)の時、』『高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。』『次に高御産巣日(たかみむすび)の神。次に神産巣日(かみむすび)の神。 この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。 』
物凄い記事を読みました。以下その引用です。
①『 今・此処(中今)
人間の思考と申しますのは、過去からこう来て、いまを通って、未来へ行くと思ってます。だれもが常識的にそう思ってます。「そうじゃないんだよ」って言うと、「あいつは頭がどうかしてるんじゃないか」と言うと思います。だけど、人間こうなってないのです。本当のことを言うと。「いま」でもって、ただ動いているだけにすぎないんです。いまで。
「じゃあ、昔って何なんだ」っていうと、いまにあるすべてのもの。いまここにあるすべての人類の体験したもの。これをですね、ある順序に従ってスーッと書き連ねると、過去が出てくるんです。ある順序に従ってズーッと伸ばすと、未来が出てくるんです。
「過去と未来は同じだよ」って言ってるんです、この歌が。
( なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな
「 長い眠りから人類が覚めて、それで地球号という船に乗って、幸福な人類文明が果てしなく、弥栄に栄えていく、いい音を立てて」と、こういう意味でございます。」)
「なぜ同じなんだ」って。ここのところで(この歌は上から読んでも下から読んでも同じ)ですな、さっきも申しましたな。「ありがたい」ととると、算盤じゃないですけれど、ここで「ご破算に願いましては」になっちゃうんです。この並び方が。そうすると、自由自在に組めるんです。
昔のスメラミコトが三千年もあとのことを計画して、ちょうど太安万呂さんは1300年頃に、この古事記が明らかになることを計算して、このなぞなぞを説いたんですから。驚くなかれでしょ。天皇の命令でなぞを書いたんですから。いまそんなこと学者さんに言ったら、怒りだしますよ。「そんなバカなことあるか」って。だけど、ばかなことがあるから不思議なんです。
これを過去のほうに延ばしてやる記述を赤玉音図っていいます。未来に延ばす法則を天津太祝詞音図というのです。それだけなんです。ですから、三千年前のスメラミコトは、「三千年後にこうなるよ」っていうのは、これをヒューッと覗いたら、サラサラと出てきちゃう。みなさんもこれをマスターして、「一千年後にはこうなるよ」って。一月や二月じゃないんですから。「百年後、千年後はこうなるよ」って。
言霊の学問のすごいところは、こういうことが可能だということです。よく、こういう席に霊能者がいて「あ、そういう時代は何年後に来ますよ」って言ってくれれば便利だなとは思いますけれど、しかしその必要はなさそうなんです。言霊の学問がわかってきますと、そういうことはそのときの状況がまとまると、スーッと出てくるものなんです。頭の中に。「だから、いらないんだな」と思います。 』
②『 宇宙はひとつ
それと同時にですね、……これ、難しい話になっちゃいますね。世界中のお偉い数学者が考えてることをいまわたしが申し上げてるんですから。「それじゃ」といって、「内に入って考えたらどうだ」って。みなさんがこれでもって何十人いらっしゃる、「その見てる宇宙はひとつ」だって。どなたが見てる宇宙もひとつなんだから、これしかないはずだ。
それじゃあ、「内にある心の宇宙もひとつなんですよ」というと、どうでしょう。「本当なのかな」って。証明できないでしょ。「わたしの心の宇宙と、あなたの心の宇宙と、同じでしょうかね」って。「たぶん同じでしょう」っていうことになっちゃうかもしれない。「たぶん」じゃ、困るんです。
実は実際にひとつなんです。ひとつじゃないと、ものごとこんがらがってきちゃうんです。そこのところが一体になってませんとね。
そこで、さっき言いましたように、日常茶飯では「あ、外界だ」「内界だ」っていって区別してるのにもかかわらず、さて、深い意味でとろうとすると何が何だかわからなくなっちゃう。そういう瀬戸際のところを、昔の日本人の祖先は奇妙にちゃーんと乗り越えてる。 』 以上。
「過去と未来は同じだよ」、「わたしの心の宇宙と、あなたの心の宇宙と、同じ」
「三千年後にこうなるよ」「一千年後にはこうなるよ」
「みなさんもこれをマスターして、」「サラサラと出てきちゃう。」
「言霊の学問のすごいところは、こういうことが可能だということです。」
非常に簡明に語られているので、こちら側の読む方はスラスラと読めてスラスラと読み流してしまう。ざるみたいな頭のわれわれのことだから仕方ないことです。それはそれでいいので、それでも何か「すごい」ことを言っていると感じられるだけありがたいことだと思う。ああそうかでスイスイと次の文章なり記事に移っていくことなく、ここで気に留め停滞していることが出来る。
嘘八百と感じる方も、ホホーと言う方も、まさか、馬鹿な、無知だ、不敬罪だ、等々八百万の意見があることでしょう。『 だけど、ばかなことがあるから不思議なんです。』と本人が語っているのですから、こちらとしては打つ手が無い。自分の意見など言い出せばばかなことになってしまう。無視して通り過ぎるか、真面目に読むなら追体験なり、自分のこころで読み直すしかない。
異端として無視されれば双方ともに楽です。ところがガリレオの例でもあるように、科学知識の内部から発展してくるものには一時的にしか逆らえないのです。政治統治分野でも、思想分野でも同じです。
古代大和では心の問題、言葉とは人間とは何かについては既に全貌が解明されていました。物理的物質的文明が伴わないので、物質文明の興隆のため心の学問はそれに釣り合うときがくるまで隠されるように工夫されました。そしてその時が到来して、こころの原理論である言霊学が発掘され解読されました。
物質文明は心を圧し殺すまでに発達し遂げました。物質的富の物象物神であるお金も紙から信用の形にまでなりました。それだけの商品物質の裏付けがあるからです。要するにもう金銭は不要なのです。紙の金銭を儲ける以上の信用という金銭の世界が出現しています。数多くのチケットもあります。ここでこころが一転して金銭を求めることがなくとも、人々は豊に暮らして行けると納得出来れば新しい世界がでてきます。そしてこの社会は言霊原理と結ばれていきます。
そこでこれからは、この方のおっしゃる通り、つまり古事記の通りになっている、つまり安万侶さんの通り、つまり命令を下した天皇の通り、つまり古代大和朝廷の通り、つまり古代から受け継いだ通りに、つまりフトマニ言霊の大和言葉を使う自分のこころがそうなっているかどうか見てみればいいことになる。
例えば中心を確定して、まず支那を見てみると、その位置付けは何に対する誰に対する枝葉の支那という名前になっているかといえば、当然中心にいる古代大和のスメラミコトになります。シナの由来を中国自身でも確定出来ないのはこのためです。また大和の地(中心)に居て「クシフル岳」(両児島の百音図)に立ってみると、朝日の照る方向は太平洋です。この先は海だけで何も無い空、カラ(韓)国というわけです。反対側はいろいろの土地はあっても全部枝葉の支那の国ということです。(ニニギの章)
中心を見据えた時には後ろ側は支那(枝葉)、目前は空(カラ、韓の国)というだけのことで、問題は「御先ミサキ)です。「御先ミサキ」は三貴子の直前に出てくる三筒之男の命の「三前ミマエ」に対応しています。それが「大神」と名付けられているように決定的な働きをして、三つ先の三貴子に「真来を通して」というように、「真の気(霊)を通して」朝日(アマテラス)、夕日(月読み)、よき地(建速)を得る、建設するということです。
それを成しうるには宇宙とこころをを回文歌のように、見なければなりません。
引用された言葉を直接にとらえるならば、わたしと引用主、ブログを読む人、仏陀もキリストも天皇も同じということになり、少々くすぐったいことになる。同様にお前は嘘つき泥棒殺人者と同じだよ、と言われるとそんな馬鹿なと自分をかばう。しかし、そんな態度ではだめで、過去は枝葉の支那(名)、枝葉になっている名前概念に過ぎないと了解し、未来は、支那が全部ひっくるめて向かうことの出来るまだ空っぽの国に関わるとと了解しなくてはなりません。
なかきよの とおのねふりの みなめ・さ・め なみのりふねの おとのよきかな 。
確かに「さ」に立ってどちらを見てもおなじことです。よく時間的なことから、過去と未来は頭の中での出来事で、現在に集中して今だけを生きなさいということをききます。そう簡単に過去を捨てられちゃうのではもったいないと思うし、選ぶことの無い未来に落胆しそうです。この歌のように目を覚ますことができれば、いい湯だなってことにならないでしょうか。
天・高天原・地、このように高天原を中心に天と地を配分すると、上記と同様な構造が出来ます。高天原を考えなり意識なり自分なり自分の命とします。それは後には主体主観天の御柱・浮橋・客体客観国の御柱になっていき、形をとればしめ縄、鳥居、夫婦岩、三種の神器となっていきます。さらに大々的になれば唯一神明造りの伊勢神宮そのものになっていきます。
2・ こころのエネルギー
天譲日天狭霧国禅月国狭霧の尊。 (心の問題の出所)
○ 古事記『初発(はじめ)の時、』
(こころの島。一)、淡路の穂の狭別の島
3・ こころの発生
(1)天の御中主の神 言霊ウ (こころの発生、問題の提示)
(こころの島。二)、伊豫の二名島
4・ こころの自覚 主体と客体。
(2)高御産巣日の神 言霊ア (心の自覚、主体)
(3)神産巣日の神 言霊ワ (心の自覚、客体)
未完。
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布斗麻邇御璽(ふとまにのみたま)
2010/2/27(土) 午前
布斗麻邇御璽(ふとまにのみたま)
この図は布斗麻邇御璽、一名〈火凝靈(かごたま)〉とも言う。
太安万侶は『古事記』三巻を完成し、時の御門・文武天皇に献上したのが和銅五年正月二十八日であることが、その序文によって知られる。
『古事記』は稗田阿礼への勅命によって成れるものであるが、此の『古事記』完成に先立ち、和銅四年二月、伏見稲荷御示現の際、稗田阿礼によって此の御璽が同祀内に奉奠されたもので、後年、同社務・親友卿の家傳として伝わって居たものが荷田春満によって発見され、世に明らかにされたものである。
---以上 http://www.misogi.org/jingihaku.htm より引用------
古事記に則してこの図を解したい。
人間の先天構造を○で示す。
1)まるチョン
古事記には神名の記載は無いが、他の文書から借りれば『天譲日天狭霧国禅月国狭霧の尊』
古事記では「天地の初発の時」
言霊スの状態。
2)まるチョンの外周部に点々点
「高天原に成りませる神の御名は天の御中主の神 言霊ウ」
淡路の穂の狭別の島。周辺の点々は今後に稲穂の実りが出現する前兆。(点々は潜在的な稲穂を示しているとと思う)
言霊ウ。
3)まるを上下に二分した線(注意。他の図と比べて区切りの線が太い)
「伊耶那岐神 言霊イ 伊耶那美神 言霊ヰ」(古事記と記載の順位が違うことに注意。)
上下を分ける線がわざと太くなっているのは宇宙実在の原動力として決定的な創造力としての二神の働きを示している。中央のチョンがイの言霊によって始動することを現す。
伊岐の島。
4)まるに縦線で二分
「高御産巣日の神 言霊ア 神産巣日の神 言霊ワ」
伊豫の二名島。主体と客体へ分かれることと同時に予め次にくる四神の表象を孕んでいることを示す。
ワ-ア。
5)まるに十文字で四分
「天の常立の神 言霊オ 宇摩志阿斯訶備比古遅の神 言霊ヲ
国の常立の神 言霊エ 豊雲野の神 言霊ヱ 」
隠岐の三子島またの名は天の忍許呂別(おしころわけ)。客体に働きかける重要な性能である経験知識概念構成機能と将来の実践の為の智恵、未来創造の選択智を現す
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上記○四つの人間の自然先天性(ス-ウ-イ・ヰ-ア・ワ-オ・ヲ-エ・ヱのア行ワ行)から、後天現象が出て来る。それを産み出す人間行動で一番重要な智恵のあり方が□で示される。
ここでは、後天現象を産み出す父韻の働きのこと。○は母音、□は父韻。
6)四角に十文字で四分
□は人間の実践智恵を表象する。○の先天五次元(ウ-ア-オ-エ-イ、五重、いえ、家)を以下の八父韻を持って活用せよ。本来は正反合の上下逆の△▽を合わせたもの、籠目紋、古代にユダヤに与えたマークのこと。
「身一つにして面四つ」(古事記では「妹」で現された対になっている)
7)四角を縦横斜めに八分
宇比地邇神 言霊チ ・妹須比智邇神 言霊イ
角杙神 言霊キ ・妹生杙神 言霊ミ
意富斗能地神 言霊シ ・妹大斗乃弁神 言霊リ
於母陀流神 言霊ヒ ・妹阿夜訶志古泥神 言霊ニ
竺紫の島
父韻八つの働きで精神行為を成せ、ということ。
○と□で前方後円となり、人の性能の五次元を八父韻を使用して、人類統治ができた人(スメラミコト)の象徴となる。(前方後円墳墓の由来)
山の神名は大山津見(おおやまつみ)の神 言霊ハ を参照して。
言霊ハ 山の神、また大山津見の山とは八間(やま)の意です。言霊八父韻チイキミシリヒニが発現する姿を図示しますと(7)となります。この図の八つの間に一つずつ父韻が入ります。またその図の平面の中央を面より直角に引き上げますと山の形となります。先天の意図が津島でイメージ化され、佐渡の島で音声と結ばれ、そして渡(わた)され現われ(津見)たものが言霊ハの言葉だという訳です。父韻ヒは「物事の表現が心の宇宙の表面に完成する韻」と説明されます。その実現の姿が言葉です。
古事記冒頭の人間の精神の先天構造を示す十七神のこと。伊耶那岐、伊耶那美の順位(3)が言霊ウ(2)の次にきている違いがある。
図は稗田阿礼が発明したものではなく、それ以前のおそらく数千年にわたってスメラミコトの使用していたもの。
七つの図で人類の秘宝の成り立ちを示す。生きるとは何か、考えるとはなにか、言葉はどう発生するか、
言葉を使ってどう生きるのか、言葉を使ってどう考えるのか、等々の人間の先天の精神構造の基準を示したものとなっている。
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太陽の男根と父韻
2010/1/26(火)
太陽の男根と父韻
「患者は、勃起した男根のような『直立した尾』が太陽にあるのを見る。患者が頭を前後に動かすと、太陽の男根も同じように前後に振れ、そこから風が起る。」
ユングは、ミトラ教の儀礼書にきわめて似通ったイメ-ジを発見する。それには以下のように書かれてあった。「かくして、西方の地方へ向かって、あたかも無限の東風のごとく。しかし、東方の地方に向かう他の風がはたらくとすれば、同じくその側の地方に向かって、見られたるものの逆転が見られるであろう」
「同じようにして、奉仕する風の源である、いわゆる筒が見えるようになるのであろう。なぜなら、それは太陽からぶらさがっている筒のように見えるからである。」
--------------太陽の男根 渡辺学著 ユングにおける心と体験世界 p103 春秋社
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精神病は先天意識内での言語構築不全です。意識と思考と行為は言語によって物を名付けるという形で自身を現します。直接の言語構築不全もあり、意識、思考に係わるものもあり、行為に係わるものもあるでしょう。
言語構築の内実は父韻の働きです。父韻が意識内で主体から客体への通過に支障をきたすと古事記でいう蛭子、淡島現象となってきます。それは「しかれどもくみどに起こして子蛭子を生みき。この子は葦船に入れて流し去てき」とありますから、人間の普通の行為として流通させられていきます。
ユングはここに元型を、「 民族の枠組を超えた普遍人間的な原像の存在を解明しよう、との立場から集合的無意識を考え出し、」たとのことですが、幻覚と太古の教義との共通性から集合意識を導いたというのは置いといてそれを人間先天意識内の本性としてみましょう。古事記に従って人間そのものの潜在機能である父韻としてみます。
潜在部位を顕在意識で説こうというのはできない相談で、反復と検証しか語れない科学的思考には手がでるものではないので、ユング同様内観をもって象表で語ることになる。患者の幻覚まで行き着くには患者側だけが語ってもこちら側だけが語っても両者を結び合わすものがない。そこでユングは集合意識といいこのブログでは父韻を持ち出すことになります。
さて、患者の話しに欠落したものを患者の疾患とするとこの幻覚に欠けているのは何でしょう。風とその源である筒、男根とはなんでしょう。
自分がいて太陽があってそこ立っている筒男根から風が吹いてくる。男根といわれると性的なイメージが強くなりますが現象、結果である「風」に注意を移動しておけば、性的なイメージは必要ないでしょう。恐らくこの患者は風が吹いているのは分かり、向きをコントロールできるがその風は患者に向かって吹いてこないということではないかと思えます。あるいは風が患者まで到達したとしても彼の意図とは違いそれに反したものとなっているのではないかとおもわれます。
患者の主体性行為はあるのに自分にはねかえって実になるものが無いことのようです。古事記の例では蛭子に相当するでしょう。蛭はふにゃふにゃですががっちりと食らい付きます。蛭はヒルで漢字のルビを付けると霊(ひ)流(る)です。言葉の霊が流れさって現象を産まないことです。言葉のための言葉、虚しい言葉、原則しかいわない言葉、宗教、政治の言葉等、蛭子はどこにでもいます。
風が吹くというのは言葉がでることと取れます
が、客体の太陽の上で左右に揺れているだけで自分にまで届きません。意識を表明するのは主体側ですので自分の意識に応じて幻覚上では風の向きをコントロールはできるのです。同様に幻覚上では風とその向きという現象を産んでいけるし、産めなければ主体の喪失となります。
患者の幻覚上での現象創造行為はまずあるものを選択しているようです。どの次元での選択かは分かりません。心の中の欲望か、疑問や経験記憶を呼びたいのか、喜怒哀楽の関心事があるのか分かりませんが、それらのいずれかであるにしろ何にしろ見た対象を「男根のような」として選択しました。
この男根は性的なものではなく、作用力動の象徴ですが運動が固定されそれ自身は自由が無く動き廻ることができません。作用力動働きがある男性ならば動き廻ることになるし、男根ならばその挿入運動や相手を探すことが起こる筈です。ところがそうはいかずに風が起こるというだけです。
風が吹いて言葉が流通するには相手がいります。あるいは自分自身が聞き手にならなくてはなりません。その行き来はちょうど風に相当するでしょう。ところで風は男根状のものから吹き始めるようです。これは父韻の力動作用が相手を求めて吹く事にも似ています。
本来言葉の風が結果現象を生むのは相手の耳に届いて了解され記憶になる事までの行程が必要です。言葉は相手に聞かれても了解されなければ、また、了解されても記憶され他との循環の用意ができていなければ言葉にはなりません。
そこでこの患者は幻覚の中でいろいろでてきたものがあるでしょうが男根状のものを心に掻き寄せ付け集めたようです。ひとたびそれが心の中に立ち上がりますと今度はそれは何かと理解しようとします。男根のような『直立した尾』と表現されているようです。
その理解は太陽の上立つものとして見ています。太陽は光り輝く意識を映し出す鏡です。男性の意識機能、知性活動、父韻の働きが対象とする相手です。しかし太陽は強すぎまぶしすぎ直接見るわけにはいきません。そこで迂回反射しいわば月が自分で輝いているというような錯覚をも許すような仕方で男性活動の相手になっていきます。
つまりここは対象を直接自分に取り入れてしまっているような感じになっています。本来鏡としての太陽は男性活動(意識活動)の次元を映しそれに応じてしか輝きを見せず、またそのように受け取らなければ強すぎ眼が焼けただれてしまいます。
この患者の幻覚上では直接の行為が実行されていて、大怪我をしないばかりかその結果を「風」として産んでいます。この「風」は患者の意志行為に反応します。
というよりも、患者は風しか生み出せません。男性活動の結果は「風」というわけです。風は五大元素の風です。世界の各地域によって違いがあるでしょうが、より先天世界に近づいた理解としては心の表面に物事の内容表現が明らかに現される力動、自己主張の表面だけを見せて幽玄をてらおうとする力動、ということでしょう。
患者の潜在意志行為の意図は精神の男性行為の自在性を太陽という鏡を手本にして作り出していくことでした。それが「風」でしかないというのはやはり精神行為の行程の障害があるからでしょう。
太陽と男根はこの患者の個人的な幻覚ですが、集合意識とみることもさることながら、人間の先天意識行為の一つとみることもできるでしょう。古事記では十七の先天世界が提出されていますので、この話はさらに続けることができるかもしれません。その場合はユングのいう民族、時代を超えた集合意識ということではなく現在のいまここに存する人間の意識に係わる問題となるでしょう。
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