まえがき。
思考の原理である 『あめつち・吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)と成す』 は、生命を構成している根源内容を模写したものです。
古事記の冒頭は生命の根源内容を精神生命として神の名前の表記を借りて説明表現しました。
生命の根源内容と精神生命の対応は神名で表現されましたが、それを人による表現行為で示したのが言霊です。
言霊は神秘な力が有る無しとかではなく、人間精神の根源構造を言語表徴したものです。
言霊は、人の生命活動そのものになり、力動であり、人の霊(たま)となって、言葉と霊(表現と精神の内容)が一致しているものです。よく言われる言葉の魂とか言の霊とかではありません。
古事記の書かれるはるか以前に古代スメラミコト達の分析によって、人間の生命の根源内容に百の相違があることが発見されました。近代において物質元素を発見してきたようなものです。例えば人が「あ」と言おうとして「あ」と言って「あ」と聞いて「あ」と了解するほんの一瞬間に百の精神生命の動きを見つけました。この古代の超人的な発見によってスメラミコトの権威が打ち立てられ後々の天皇へと受け継がれてきたのです。これによって日本と日本人が形成され世界が領導され、ここに世界史が始まりました。
生命の百の動きは神名を借りた説明法という安万侶の手法によって、現代にまで古事記の名の元に残されてきたと同時に隠されてきました。物質文明が豊かになり、物質元素の秘密が明かされる数千年後の頃、精神生命・心の元素の秘密も明かされるように仕組んだのでしょう。古代において精神原理が解明されたからといって、赤子幼児に精神文明を解くわけにはいかず、その成長を待たねばならないように、物質文明の成熟を待ちました。そしてそれが現代です。
既に手に余る物質文明の暴走が始まっています。ところが宗教は何の力もなく、各国政府はうろたえるばかりで、意見を出し合う国連はなにも決めることが出来ず、戦争を止めることは出来ず餓鬼の取り合い喧嘩状態と変わりません。
近代に明治天皇によって始まったあめつちの原理(フトマニ言霊学)は、前大戦後天皇による古事記神話の放棄で古事記の原本という形で秘密に閉じ込められたまま残りました。そのかわり研究の流れは民間に流出し研究され、とうとう安万侶の真意である古事記を心の原理論として読み明かすことに成功しました。
その全貌は
島田正路氏のサイト (故人)
http://www.futomani.jp/kototama_ver.1/
にあり、古代大和のスメラミコトと対話することができます。
今回の論考は私なりの粗末な一端を示すものです。(誤解してはならないのは粗末なのはわたしのほうで、古事記はフトマニ原理学は現代の哲学者が何人かかろうと相手にならない完璧な心の原理論ですので、安万侶さんのせいにしてはなりません。粗末な者が完璧を知っているような言い方は奇怪しいのですが、これは私の2チャンネル掲示板での参加の感想からきています。哲学版で語彙も知識もないのに、フトマニの原理をあんちょこ代わりに使うと専門家気取りの人たちとお話が出来てしまい引けをとらないのです。変な例でした。)
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前文。(まえがきの後に前文が来るなんておかしなことですが。)
始めとは何か、いつどこで始まるのか、と言う問題です。
人の生は、人の世界は、イマココにしかないとよく言われます。イマココしかなければ始めもイマココにしかないことになります。
ハイデガーの実存論的時間論では次のように言うらしい。
「過去/現在/未来」といった通常の時間概念は廃棄され、
「過去 → 既在」、「現在 → 現在(現成化)」、「未来 → 到来」
と呼び換えられる。
「既在」は自分が何であったかという表象であり、自分の「責めあり」としての存在を深く了解し、引き受ける可能性があることを示している。
「現在(現成化)」は自己と世界の意味連関が生成される現場であり、人間の「現」が諸事物を配視的、配慮的に「出会わせる」こと、自己を了解しつつ新たな可能性をめがけて「いま、ここ」に存在することを示しているのだ。
「到来」とは、自分が何であり得るかという可能性の表象であり、自分の最も固有な存在(本来的なあり方)の可能性を示している。(以上引用)
これは翻訳文の引用ではなく誰かの解説文ですが、イマココが三つの指標で表されています。
ハイデガーも古事記も同じ生命の根源内容を見ていますが、古事記では上記三つの指標をそれぞれ主客から見てさらに実体世界に後二つの主客の世界を付け加えます。またハイデガーは事物・現象がそのまま所与となっているようですが、実体をそれぞれ実体足らしめるイマを出現させる働き作用因として十の能動因を見ています。
それによって事物・現象が出来る前と後があり、出来た現象が要素となると五十になり、その要素の運用に五十があって、計百のイマココの指標が立てられています。
古事記の冒頭百神のことです。
現在最高の知性といわれるハイデガーでさえこれだけですが、古事記の元となる一万年前に完成していたフトマニ学では百に分析していました。
さてそれを実際に示さねばなりませんが、すみませんがここから先はお粗末になります。なるべく古事記の通りに話を進めていきたい。
思考の手順を示すように説明を抜いて原理部分だけを連ねてみたい。つまり用語を変えればそのまま他のことにも通用するあんちょこみたいのが作りたいと思っています。うまくいけば「始めとは何か」もそのまま当てはめていけばいいものにしたい。
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時の流れるように思考の原理も時の流れに沿うようにしたいが、書き止められていく文章は過去へ溜められていくことになる。文章表現はこの矛盾を超えて行かなくては今これからの創造的な表現とはならない。
そこで少なくとも文章や論考の発端で主題が時の流れと同様に動いていることを示さなければならないでしょう。
時の流れは大雑把に言えば、
今動いている時と、
過去から現在に来た時と、
現在から未来に行こうとしている時と、
全体を示す時と、
それらの時を動かそうしている時との、
五つの区別される時の統一統合されたものです。
ここに区別された上記の時を動かそうとする時があるので、時が流れていきます。時を今と言い換えれば今には五つの種類の今があるということです。
これはそのまま思考の原理として受け継がれ表現されなくてはなりません。
心が時を語るときには時の流れのように真似ていくことです。
心は時を真似ろと言いましたが、ところが心には心の言い分があって、
心が時の流れを真似ていき作らされる時と、
心が時の流れを自覚的に創造していく時とが
あります。
本来上記二者は同時進行です。他者からさせられていながら自分からしているという二つのことが自己内では統一されて進行していきます。
原理として述べていくとこの両者の区別は消えてしまいますが、消えたままでは都合が悪いので、前承する上昇循環の進歩した方向に登場することになります。
また、時の流れではなくその内容を見ていくと、例えば、人が「こんにちは」と言おうとして「こんにちは」と言って「こんにちは」と聞いて「こんにちは」と了解する時間の流れの中に「こんにちは」という内容は不変にあり続けます。そうしないと喋っていることが伝わらず会話になりません。つまり内容からすれば時間は無いといってもいいのです。
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<< あめつちの原理。>>
【天地(アメツチ・吾の眼を付けて智と成す)の初発(ハジメ・端始芽)の時、高天(タカアマ・タの間とカの間のアの間)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、高御産巣日(たかみむすび)の神、次に 神産巣日(かみむすび)の神。 この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。】
【天地】は、アメツチと読み、吾(ア・私)の眼(メ・意識)を付(ツ・相手対象を認識了解して)けて智(チ・実践智恵)と成す、を縮め呪示したものです。
アメツチは無限に拡がる物的な外界宇宙世界のことではなく、しかし同様に無限の拡がりをもつ内に返り見た心の精神宇宙のことです。心に感じ思い来ては去り、作られ作る無限に続く心の世界も物質世界同様に否定し去ることはできず、この心の世界を古事記は描いています。
注意しなくてはならないのは、物質同様に心の世界を描いているのではありません。そういうことならば、心の科学が出来れば十分です。古事記の目指すところはそういうことではありません。
アメツチとは、 「内に返り見た心の世界」「心の中の出来事、心の中に起こる出来事」 「心の宇宙」そのもののことです。
古事記の冒頭神代の巻きは秘密裏に暗喩をもって書かれていますので、歴史や人物史、天皇家の成立史ではありませんが、神話の歴史のような形をとったことは、世界歴史に係わることでそちらで明かされることでしょう。
銀河や宇宙開闢、地球の天と地の始まりとしてしまうと、古代スメラミコトの努力が水泡に帰し、大和日本と日本人と日本語の本性が見失われます。
天地・あめつちは心の宇宙そのものを言いますが、物質世界の動きを反映しています。そうでなければ物質世界を科学的に語れません。
そこで心の世界には、心を内に返り見て反映する主体を主体として扱う精神世界と、主体を客観物の反映として扱う精神世界があることになります。心の主体側の世界と心の客観側の世界です。
そこで、次に【初発・はじめの時】という表現が出てきます。
【天地の初発(はじめ)の時、】、初発はハジメと読むようになっています。当て漢字を配当して見ると、端始芽・はしめ、となるでしょう。端っこの始めの芽(眼)です。
全部で、吾の眼を付けて智と成すはじめの時、私の意識か相手対象に付いて智恵となる始めの時、です。
端と始とがダブっているように感じるでしょうが、ここが肝心なことです。
これは単に心の始めということではなく、「心の内に現れ出ようとする」始めのことです。
どこがどう違うのかといえば、単に心の始めという事ならば心として現れている何かの現象事実の初めです。古事記でいう端始芽(眼)は心の出だしのそのまた始めの萌芽で、現象を導くもののことです。
そこで 【天地(アメツチ)の初発(端始芽)の時、】には、
吾の眼(アメ)という私の意識の実体構造の、初発(端始芽)の時、と
付けて智(ツチ)と成す行動実践の、初発(端始芽)の時、があることになります。
つまり、吾の眼を付けて智と成す、あめつち、には実体と働き、あり方と生き方、の両者が当面は統一された姿で端にあり、その端を指してそれぞれの始めがあるということです。
○ まずアメツチという統一体、次いで、
○ 人間の精神構造(アメ) と 原理に基づく行動実践 (ツチ)、言い換えれば
○ 大自然である言霊母音の存在から考える立場(天・アメ) と 人間の創造意志から出発する立場(地・ツチ)の両者がそれぞれ活動を開始することになります。
この造化三態は後の百神を通じて貫徹していきます。
古事記ではこの造化三態の統一した姿を天の御中主といいますが、これはまず実体があるという見方からする記述です。御中主はミナカヌシで内容を意味する漢字を当てはめれば実中主・ミ・ナカヌシとなり、実体世界である統合体を示しています。
ですので、同様に働き世界から記述を始めれば、言霊イの神名があるのですが、ウアオエの実体神についでチイキミシリヒニのイの神で示されるはずと思われます。たとえば他の文献には、天譲日天狭霧国禅日国狭霧尊(あまゆずるひあまのさぎりくにゆずるひくにのさぎりのみこと)と出てきます。この神名は揺すり揺すられる働きを主にした名前です。古事記はゆするがいざなうになっています。
また他の文献には【中今】と言葉があり現在の神道に受け継がれています。この場合は働きの統一された名前として用いれば今中主、イの間の中心となる主になるかもしれません。今中主の神が展開して、次いで実体神がくるでしょう。
しかしそんなことをしていると、複雑化してしまいますので、御中・ミナカの「ミ」を中心に敬語尊称を付けるようにそのまま「御」として、「御」を実体側の「ミ」と働き側の「ミ」を統一したものとします。(安万侶は最初からそのように読めと言っているのかもしれませんが。)
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-- ◆ 今回の追加、ここから----------------
吾の眼・私の意識がつく仕方とあり方には、一つは実体側の「実」の付き方、一つには働き側の「実」の付き方があることになりますが、実体側は言霊ウオアエの世界でひとことで言い表せば「あめ・吾の眼」で私の意識の実体「実」です。それは物理現象の作用反作用で意思の加わらない無自覚な連続相互作用の意識上の反映となります。
働き側は意思の介入による自覚的な創造の連続となります。父韻チイキミシリヒニとして現れますが、その「実」は言霊イ(イザナギの)で言霊イの働きで言霊ウオアエの世界を選択る事から始めます。「つち」で相手対象に付いて実践行為の智恵となります。
次いで、これら二つの違いの原理上の現れが、【高天(たかあま・タとカのアの間)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、高御産巣日(たかみむすび)の神、次に 神産巣日(かみむすび)の神。 】です。
この二神を漢字表記を読み表記にしますと「タ+カミムスビ」で「カミムスビ」という共通項が現れてきます。
二神の統一統合されている姿が御中主(みなかぬし)で両者がそれぞれ内包されている不即不離の主です。
御中主(みなかぬし)は、単に二者の統一体ではなく、それぞれ相手を包含内包した不即不離な原始的な元の姿です。
◆ ここまで今回の追加。---------------
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・以下工事中---------------
・心の始めは二つあり、どちらか側が優先される。
意識が相手対象に付いて智恵となる初めの時に、心の精神世界にわき出てくる二つものがある。
一つは過去が今に燃え上がり加わるもので、一つは今を組み合わせて未来に似せようとするものである。
精神・心の世界はこのどちらかを源泉として、心の意識宇宙の中心の主人公とする。
この原理表現は古事記の冒頭となっている。
【天地(アメツチ・吾の眼が付いて智恵と成る)の初発(はじめ・端始芽)の時、高天(たかあま・タとカのアの間)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、 高御産巣日(たかみむすび)の神、次に 神産巣日(かみむすび)の神。 この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。】
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(0) あめ・つち(天・地)。こころの世界の始まる前。、こころ以前の宇宙。
天・あめ・という自然宇宙の中に天・あめ・吾の眼、という意識の活動が始まる。
吾の芽(眼)は相手対象に付(つ)いて智恵(地)(ち)と成る。
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【天地の初発(はじめ)の時、高天(たかあま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、
心の裡に具体的な事柄として、言葉として表現される以前の意識されない頭脳内の先天構造の中での話です。何もない広い心の宇宙の中に何かが動き出します。天・アメ・吾の眼(芽)というのは、私の眼か相手の眼か何かは分からないけれど、広い宇宙の一点に動き出したものがあります。そして、やがて「私」という意識に発展していく、もっとも原始的な意識の姿です。その吾の芽(アメ)が付いて智恵(地・ツチ)に成る心の
意識の上で捉らえたりすることは出来ないものですが、その働く場所領域となっているのが、たかあま(高天)の原という心です。
・ ここから心の先天原理構造、「中今」 の 「いとなみ」 と 「ありさま」 への剖判がはじまります。
候補 1。
あめつちの原理
わたしの意識が活動を始めると、頭脳内に成るものがある。
心の精神世界に先天世界が出てくる。
先天先天世界は、その構造は、前承しながら進む螺旋上昇循環となっている。
先天世界の構造は、
<働きかける実体と働きかけられる実体>、これを言霊母音と言霊半母音で示し、
<働きの内容>、これを言霊父韻で示し、
<はたらきかけの誘導因>、これを言霊親韻で示す、ことからなる。
ウ。の全体像。
先天構造にある、実体構造-働きの内容-働きかけ行為
心の始めには始められるだけの先天の実体構造がある。
心の始めには始められるだけの先天の働きの内容がある
上記の両者は先天の両者を結ぶ働きかけによって噛み合わされる。
ア。前承しながら一歩進める上昇循環の活動開始。
先天構造の活動予兆の開始。
ワ。前承しながら一歩進める上昇循環の実体形成。
候補 2。
あめつちの原理
始めの現象以前に始めの先天実在がある。(先天のありさま)
始めの先天は、前承しながら一歩進める上昇循環の構造を持つ。
始めの現象以前に始めの先天の働きがある。(先天のいきさま)
始めの先天の働きは、前承しながら一歩進める上昇循環の活動をする。
先天のありさまといきさまは兆しとしてある。
先天の兆しは自らの力動因を励起する。
十七とオノコロの交差。。。
候補 3。
これらの先天の活動が開始されたときに、始めという現象の出だしが出現する。
先天の活動が初めて動くとき。
先天の構造があり、
あり方---いきかた--なり方
口と心と行と
先天。実体。そして後天。
始めの現象以前に始めの先天実在がある。(先天のありさま)
始めの先天は、前承しながら一歩進める上昇循環の構造を持つ。
始めの現象以前に始めの先天の働きがある。(先天のいきさま)
始めの先
天の働きは、前承しながら一歩進める上昇循環の活動をする。
先天のありさまといきさまは兆しとしてある。
先天の兆しは自らの力動因を励起する。
先天。働き。そして後天。
先天。客体。そして後天。
先天。主体。そして後天。
働き
後天。