ブログ010
ふもとの目-- 欲の目--見の目--観の目--山頂の目--光の目
敷かれた道は歩いて行けば終点に達し、山も昇れば頂上に達します。しかし、武芸では稽古をしても上達して観の目を持つことになりません。知識等は勉強すれば知識量は増えますがどれだけ増えても観の目の足元にも達しません。
古事記は最高の人間規範の天照す大神に達するまでの過程がダダーーッとでてきます。このブログでも五十の過程だ、百の過程だといっていますが、この一連の流れはこころの無自覚な経過を見ればそうなりますが、無自覚というのは無意識みたいなものですから、自らが上位次元を通過しているなどと知ることがありません。
自覚しなければしないままで構わないのですが、自覚したところで上位次元に行けるということもないのです。ここでは見の目次元から、観の目次元に自覚的に行くことです。
しかしそういった経験のないわたしが書くことですから、原理教科書である古事記の流れを利用せざるを得ません。岩戸の天照らすはチラッと戸をあけるだけですが、その後は引っ張りだされるのです。
武蔵は観の目だといいますが、観の目が引っ張り出される構造を上手に利用しているのだと思います。これは悟りというものと同じで、悟ろうとしている間は悟れないというのと同じ構造でしょう。古事記は悟りのあんちょこにもなっているのですが、なかなかその箇所が見つかりません。
見から観への上昇視点と思われるところは、こころの動きの単位要素が変化する(変態上昇する)以下の場面と、
・ こころの動きの単位要素として、
『 この大山津見の神、野槌(のづち)の神の二柱(ふたはしら)、山野によりて持ち別けて生みたまふ神の名は、
【 言霊 ラ】天の狭土(さづち)の神。次に
【 言霊 サ】国の狭土の神。次に
【 言霊 ロ】天の狭霧(さぎり)の神。次に
【 言霊 レ】国の狭霧の神。次に
【 言霊 ノ】天の闇戸(くらど)の神。次に
【 言霊 ネ】国の闇戸の神。次に
【 言霊 カ】大戸惑子(おおとまどひこ)の神。次に
【 言霊 マ】大戸惑女(め)の神。』
『次に生みたまふ神の名は、
【 言霊 ナ】鳥の石楠船(いわくすふね)の神、またの名は天(あめ)の鳥船(とりふね)といふ。
次に
【 言霊 コ】大宜都比売(おほげつひめ)の神を生みたまひ、
・ こころの運用要素として、
黄泉の国全体から、三貴子の産まれる前までの段落に相当するでしょう。
悟りのあんちょこだなんて気楽なことをいってしまいましたが、これは自分でも、相当下手ないい加減な解説しかできないという思いがあります。------という、観の目を持った。
見の目は、大山(オホヤマ、大いなる八つ(や)の間(ま)、大いなるこころの動きの八種のマグマ溜まりの間に心が入りますと山が動き、心が付いてあられる(津見)ことによります。
その現れは物象につくことですから、その物象の動きと物象の中に潜むこころの動きの両者があり、それが上記の対、霊と体、の神名で示されています。
・ 切っ先の向こうにいる相手の物理情報(五感感覚情報)がやってきます。狭土(さづち)は狭い領域に有効なツチ(槌、叩く槌で五感情報を与えるもの)のこと、また、その情報に乗った知識のこと。場所取りを目指す、ラ、サ。
・ 受け取られた五感情報は、受動感応できる範囲でしか分かりません。本来ある全体は霧としてその中の反応できる部分だけがでてきます。
狭い範囲内の自分に都合のよいものだけ(狭い霧)を得るということです。またその情報にのった知識のこと。ぐるぐる探し回る、ロ、レ。
・ それらの情報は向こうからきたものか、自分が選んだものか、納得しているものかの判別をしないと、自分の五感、知識となりません。そこであるにはあるが何だか分からない情報を暗闇にあるものとして、一つ一つどの戸を開けて自分のものにするかのこころの行為があり、その働きを闇戸(くらど)の神といいます。またその情報にのった知識のこと。自分の心につぶやくわけです。自分に宣る・乗る、ノ、ネ。
・ ここまで来て情報はハタと戸惑います。「あやつ、出来る。北風が強い。」等を自分の情報としてしまっていいものか、相手から得たもの、相手に与えるものとしていいものか、自分はそれに則っていいのか、五感情報とその知識がやってきた、全部ではないが感じ知るところは得た、自分に選択できるものを確かめたい、ということで、材料を釜に入れて混ぜ合わせ抽出していきます。そこででてきたものはこういうものだと言わなくてはなりません。また、その情報に乗った知識のこと。混ぜ抽出する、カ、マ。
・ 抽出して出てきた丸薬に名前を付け、指し示すことが出来るようにしないと、あるのかない分かりません。そこで名が付きます。「あやつの切っ先の流れはこちらより早く可動範囲が大きい。燕返し。」
・ 「こりゃいかん。」という事実を了解します。
ここまでが単位要素としての見の目です。「分析的に知的に合点する目」と小林秀雄いいます。その他解説はいろいろ出てきますが、上記の範囲を出るものはありません。
・ ここから先が観の目です。相手と同じ土俵上にいる限り、相手の刀の方が長く動きが速いのですから武蔵は負けます。
そこで武蔵は閃いたということです。世界的な発明も、ノーベル賞も何ということはない思い付き、夢、寝ていて閃いたことから出発したとよく言われます。要するに、理性知性を有らん限り使ってうんうん唸っても何にもならず、涎を垂らして寝ている方がよいということです。
リキムのは、「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国に到りてありけり。」 ということで、
ポカーンと、「かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ とのりたまひて、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。」 しよう、ということです。
アワギ原は今までに各人が作り上げた先天的に所有している創造原理です。それに預けちゃおうということになります。
それにはもちろん知的な情報も加わりますから、長い刀の扱いを巡って考えます。そこで鼻くそをほじりながら考えたでしょう(武蔵は風呂に入らなかったといいます)。
あやつをおちょくってやろう、気を散らしてやろう。遅れていき怒らそう、神経を高ぶらして緊張させれば身が縮み切っ先は数ミリ短くなるだろう、(映画では陽を背にする)、とここまでは見の目の経験があります。
それにしても、相手の刀は長いのです。避けることはできません。そこで、避けずに受け取ってやろう、そのための長刀なんだから、自分だってその長さを利用する、となったと思います。
ここからは今までにないことです。相手の長刀を受け取って自分を切らせて、それでも死なないで済むには、どうするかが問題になったでしょう。
短い刀を持った方が、相手の届く範囲外にいては勝負はつかない。自分を切らす位置にいて切らせない、そうだ、木刀に食い込ませればいい、引き抜けないほど思い切り噛み合わせればいい。と閃いて武蔵は三本目の櫂の木刀を用意したのです。
刀の長さ、太陽の位置、相手の性格等全部の条件を研究したことでしょう。見の目です。その研究中に全てが櫂の木刀になりました。観の目が付きました。
とこんなことを書きましたが決闘はあったかどうかも不明です。
また、決闘中の観の目とも別のです。
今回の駄作はここまで。
以下引用。
「アという感覚はですね感情の感覚でありますと同時に純粋感情と申しまして、いわゆる宇宙そのもの、人間の本体である宇宙に目の視点を置いて見ますと、人間の実相が一番明らかに見えます。
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「山に登る前の景色、一合目から上に登るごとの景色、目線によって違ってまいりましょう、言霊の学問は頂上に具わっている目へ導くためのもの、その頂に立つまでは天の御柱が立ったとは言えません。」
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ブログ 009
「事実」と「内容」
内容というのは、事実じゃないのです。事実っていうのは「オギャー」って生まれた子供のこと。子供の内容じゃありません。「子供が生まれた」という事実。その内容は「ナ」です。生まれた事実は「コ」です。何だかわかんなくなっちゃいますか。
「わたし」というのが事実です。ここにいるわたしなんです。名というのは、わたしは島田正路と申しますから、名は体を表す。姓名学の先生だったら、想像するでしょう。だけど姓名学じゃなくとも、名前を見たり、または見て、「あ、この人はこういう人かな。ああいう人かな」とみなさんが想像する、それは名でございます。わたくしの内容。
「内容を持ったひとりの人間」っていうのが、事実です。この事実が大宣都比売(オホゲツヒメ)の神、内容が天の鳥船というわけでございます。その区別を、よく覚えておいてくださいませ。日本語は、「内容即事実」ではないのです。「内容を持った事実」なのです。「ヒフミヨイムナヤコト」と言ったら、コという事実は十の和じゃないのです。そういう事実を持った結論は、また別なのです。
これは理屈でいうと難しいですけれど、実際の話のやりとりでいけば明瞭にわかってくる。「内容はこうなんですよ。おわかりになりましたか」っていうと、「わかった」って言う。「それじゃあ事実をこうやって認めなさい」っていうと、「認めない」って言う。よく言ってるじゃないですか、議会で。喧々囂々(ゴウゴウ)とやってて、「事実はこうでしょ」っていうと「そうです」。「じゃ、認めなさい」っていうと、認めない。「わたしはこう思う」。
「内容」と「事実」?¬
国連行ったって何だって、みんなやってますよ。事実なら認めるかって。「事実だ」って言ってるのに認めない。このあいだ国連の科学委員会でもって、「2080年には地球の表面温度が6度上がる」って。一番少なくて2.4度かな。高く計算すると6度上がるって。これ、事実です。でもみなさんみんな認めないでしょ。「そうなの」って。
「そうなの」っていうのは、認めたことじゃないですよ。「そりゃ大変だ。どうしよう」っていってはじめて事実を認めることになる。「事実でしょ」っていうと「そうだ」って。「じゃあ認めるか」っていうと「NO」っていう。人間っていうのは、事実と、内容と、それを認めるというのとはみんな別なんです。おもしろいんですよ、これが。
そういうことを、古代の言霊の学問はすべてそれをピタッと分けて考えて、「こういうことがあるんですよ」ということを知らせてくださっているわけです。
それがどういう結果になってくるかというと、いまの世相を見ればよくわかりますな。どこがどうでどう間違っちゃってるのかということも、その次に考えてくると、よくわかってまいります。
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ブログ008 子事記=子の事を記す=古事記
古事記を「ふることふみ」というふりがなを読んでいた時、「記」を「つけ」と読むことがあると知り、古事記とは「こじ・つけ」で、世界最高の言霊による人間精神こじつけ本と思っていました。昨日まではそう思っていたので、軽い気持ちでこじ・つけをしてきたようです。
ところが、今日からは古事記は「こじつけ」ではあるが、何の「こじつけ」かというと、神話による天皇権威とか歴史の「こじつけ」ではなく、実に何でもないこと、子の事、計画して産んで育てることに関する「こじつけ」であることに気付きました。
子というのは自分の分身のことで、自分の産んだ結果、自分の意図した現象、あめつち、アの芽という自分の意図が付いて地に実現したこと、「国土(くに・組んで似せる)を生み成さむ(自分の意図に組んで似せて産む)こと、から始まって上巻を通じて最後まで子を産む話の子のことです。
古事記とは 『子事記』 のこと、子という後天現象創造、精神による文化創造の、平たく言えば、思い考えた意図意思を実行実現する、それらを表明する言葉を発する普通のことであることに気付きました。
古事記神代の巻きは、神の名を語った、自分の欲し考え感じ選択していく、自分を実現していく何でもない普通の事のことです。この自分の位置が長であるか、国家であるか、世界であるかの違いがあるだけのことで、人の行なうことの原理となっている精神の動きを解明したものです。
全ての人に該当し、心の動きの精神原理として解明記されているので、人のどんな形態、地位、知識があろうと無かろうと、限りなく人の心の行いの真実を知らすものです。
精神は自分を表すこと、自分を自分で納得していく、自分を自分という子現象として自己表現しようとするのが特徴です。それは、他の人でも、集団となり、国家となっても、主体の心を持ったものが動く時には誰であろうと同じことです。主体の持つ精神内容を表現しようと、その精神宇宙に表面化しようとすることです。自分の思うことを実現し、つまり、自分という子を産むことです。
現代風に言えば、創造されるものを言語とすれば、神代の巻きは言語論となり、生き方にすれば人生論となり、政治統治とすれば権力治世論になり、子育てなら子育て論、産業運用なら経済論、要するに、人は創造するという性質を持つ者ですから、創造論=自分の子作り論となります。
そういった超超スーパー原理が神の名を語って述べられているわけです。
ことに古代の歴史主体である古代大和人たちは、自らを歴史の中にいる個人主体からから、大和民族を歴史主体にするというコペルニクス的大転回思想に到達しました。
これは個人が個人行為の主体であるという日常主体個人から、村落共同体を越え、足と思いの届く限りの世界全体を視野に入れた、大転換点を得たということです。何もない古代において、大和民族という主体を世界創造の主体として設定したのです。
学校で教わるのは単なる出来ごとの世界史でしかありませんが、古代大和は自らを主体とした歴史展開を意図しました。その原理が神代の上巻です。人の成そうとすることの原理ですから、個人を主体としても、世界歴史の主体を大和としても、同じ原理に沿って行なわれていきます。
大和民族を主体とするのなら、その中に留まって大和を強力にすればいいように思うでしょう。全世界の民族、歴史はそうなっています。相手がいることに気付いたならば、相手に負けないように倒せばいいだけの歴史です。現代もその原理は続いています。
しかし、大和の考えたことは全く別のことです。古代においても他民族、他国、視界の向こう側にも何かあるというのは知っていました。すでに、地球なり、世界なり、全体なり、自分を取り巻く他の世界があることが分かっていたのです。
大和の長たちは(スメラミコト達)、このわけの分からないけどある世界のことも視野に入れて、この地球世界全体を強力にしようという思いを抱いたのです。
これは現代人には思い付きのアイデアという範疇のものですが、古代大和では、そこで創造された言語規範の自動的で当然の行き着く先、誰もが思うアイデアでした。
全く人工的に創造された大和言葉の自然な結果です。大和言葉の創造の結果、その言葉を所持している民族が主体と成った時には、世界を相手にせざるを得ないという、強制といえば強制、自然の成り行きと成り行きなのです。これは五十音を使う現代の日本人においても深く無自覚的に修得されています。ここに他の民族と比較にできないものがあるのです。
いろいろ反論もある中で、簡単な反論を言えば、世界歴史は大和が主体なら、日本の出番が見えないじゃないかというのがあります。世界史というのは大和の聖人が古代において決めておいたものですから、そんなものがあるなら示せということです。
ここが、五千から八千年前に創造した五十音図に則った世界歴史を創造し始めた古代大和の凄いところです。示せるものがなく、反論を撃沈するものもなく、大和日本の出番など無いということ、それ自体が世界史の展開通りのことなのです。
文句を言われ突つかれる、そこにまさに、神代の巻きの展開に沿っていて、大和が顔を出さない理由があるのが分かります。
例えば以上のことを読んできて、お前のは詭弁にもなっていないと思う人もいます。賛否どちらでも構わないことなのですが、ではあなた方の考えを示してくださいというと、どうなりますか。誰もが文字か日本語かで示すでしょう。ある人は阿呆らしいという態度を示します。
では同じことを文字とか言葉とか態度で、アメリカ人アフリカ人に示してみれば、何も理解されません。当たり前だ、考えたことは頭の中心の中にあるのだというでしょう。ではその頭を示してください、その心の中を開いてくださいというと、お手上げのはずです。
アメリカ、アフリカ人に見せてどうするといったところで、日本人を廻りに集めても、頭の中心の中は理解されないのです。心は必ずその表明の為の物象物質を必要とするのです。頭の中心の表現において、物質的にしか表明されない構造を説明したのが、神代の巻きなのです。
その物質物象というのはまさに、主体の「子」なのです。この子は主体側見れば、主体の意図そのものではなく、内容を、言葉で表現した、物質化したものです。内容の次の次、二の次、二の二、ニニギということです。
この例は、大和の決めた世界歴史の主体側の内容は、大和の頭、大和の心の中にあって、その現象表現はこの五千年間の実際の歴史ということです。この五千年の世界歴史は大和の「子の事を記した=子事記」ということです。安万侶さんは隠語で「古事記」といったのです。
主体の頭の中を表すもので、最も主体に近く似ているものは、言葉です。(これを、マニといいます。現代語では真似ということです) しかし、旧約聖書でいうごとく言葉は乱されていますから、現在は日本語の中に半分だけは、古代大和の主体の意図を表明したと同じ言葉が残っているだけです。
それでも現代において言霊学を修得していきますと、古代大和が主体的に創造しようとしてきた数千年を見据えた世界歴史の元とつながり合えるのです。
これは単なるアイデアとして考え出されたものではなく、大和言葉ができた上での必然なのです。古代大和の聖人達は、大和言葉を作ったと同時にその言葉を使用するものを主体とする世界歴史も用意していました。
その途中での物象化段階では、心の意図はそこにある物質を介してしか解されない第三者になってしまうのです。この第三者に拘泥することが黄泉の国にいくということです。黄泉国という「子」を創造しないことには自分を創造できず、それに拘泥すれば自分でなくなることを穢れといいます。
冒頭の言葉「あめつち」の「アの芽が付いて地になる」「アの目指す意図が付いて地という形に成ることです。アの芽という子供が根付いて地に芽生え繁栄していくこととなります。
神代の巻きでは前半が言霊の誕生を扱っていますが、ギミの二人で子供を産もうから始まって、その最後が、まさに子の誕生、【 言霊 コ】大宜都比売(おほげつひめ)の神を生みたまひ、となっています。
ついで、精神の発現創造行為の運用の話になり、百番目の神を産む時に、 「吾は子を生み生みて、生みの終(はて)に、三はしらの貴子(うずみこ)を得たり」と宣言します。
途中は子供の健康診断や、子供に囚われて自分を忘れることや、子供から強制されること等の日常の事柄が挿入されていきます。
ですので、古事記で子というのは自分の生産現象を言います。
例えば、 人として何が大事なことなのか、と問えばその答は、「心の物差し、つながり、礼儀、理性、誠実、罪悪感、助け合い、言動、生きていること、等々、」 百人それぞれですが、一言で纏めれば、自分のしている結果現象のことになります。
それを場面場面に応じて、好みに応じてこうだと言っていくわけですが、その言うという全体が自分のしている現象結果を産むということです。
こうして、そこで古事記は問うわけです。百人それぞれの意見が出ることは子という現象結果を作る上でまともなことですか、と。どうして別々になってしまうのですか、と。
一つ一つの回答を見ていけば一見まともです。しかし、まとまりがありません。各人それぞれですから、それでいいのではとなり、個人主義、相手は相手、やりたければどうぞとなってしまいます。
古事記は特にこういった場面を想定したものではありませんが、精神の言論ですので、どのような場面にも該当するのです。これが世界運用で、政治で、宗教で等々となっていくと、百人十色で済まなくなり、個人の主張を通すだけの関係は険悪なものとなるでしょう。
「子」の事を記すには、整理分析では充分でありません。全体を見据えた自覚的な運用が必要です。
古事記にはそれは「三貴子」として実現されていくと記され、われわれをそこへ向かわせます。
古事記は『子事記』である。
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ブログ 007。 尖閣
日本は尖閣を所有していたい。
日本側の尖閣所有の歴史的背景は十分に説明できる。
しかし、現在の中国の主張は日本側を全面否定です。が、中国側の主張にも歴史的に変化があります。とはいっても過去の中国側の主張の主は現在の政府にとっては仮の主張者の形にされ、あるいは誤りや個人、団体組織の主張であって現在の政府の主張ではないということで、自ら反故にしてあります。
こういった都合のいい主張に文句を言っても、相手は聞く耳を持ちません。それでも日本側に対抗して歴史的な史実となるものを清朝時代に設定してあります。もちろんそんなことは現在所有しているかいないかになんの影響も無いものは双方とも分かっています。 実力で島の取りっこになれば、領海領空が侵犯されたなどといっても始まりません。
さて、世界を統治するスメラミコトはどのように采配するのでしょうか。
将来は世界は一つでスメラミコトによって指導されますから、現在の世界のあり方、平和な世界への導き方、l領土問題その他はスメラミコトの実力判定テストみたいなものになるでしょう。
将来の姿からみれば、どこかの国が領地領域を主張することはありません。名勝景勝地に名前を付けるように国の名前が付くことはあるでしょうが、所有を主張するための名前ではありません。
スメラはまず所有次元の話から外へ出なければなりません。所有をあれこれしているかぎり、歴史も事実も史実も感情も知識も概念も所有のために使用されるだけです。納得しても所有感は得られません。
おもちゃを欲しがる子供に製造の歴史、材質など関心はありません。それでも一応は所有を主張する双方の知識概念の歴史を整理して、そこから出てくる主張できる規範を見届ける必要があります。
その規範に沿って手持ちの材料集められていくでしょう。材料は有効にされなければならず、有効とされるものだけが探され欲しい欲しいが強化され取捨選択されていきます。
それは理性的な史実事実を欲しい欲しいに合うように扱うだけですので、事実と称するものの相違対立は幾らでもでてきます。つまり事実など持ち出しても解決はしません。双方が理解しても欲しい欲しいは収まりません。
そこで欲しい欲しいを消滅させるか、生かすか、が探られます。一つは生かす方向へと一方では生かされた方向からの両方向が検討されるでしょう。消滅させる場合も同様。
更に史実事実とかが検討されるでしょう。これは欲しい取っておきたいの主張の上に乗せたものなら事実の解釈が所有するための解釈となるので、その上に乗らないことです。
以上のウオ次元で折り合いが付かなければ、例えば油田が隠されていても採掘される条件、アホウドリたちの繁殖場にするか、便所の垂れ流しホテルを造るか、軍事上、地図上、領空域、漁場などの使用法が検討されるでしょう。
そのようなものが出てくれば、あるいは出させれば、欲しい欲しいの次元ではなくなり選択按配の次元に行かざるを得なくなります。
今のところ日本側も中国側も何の将来像もありません。まずは欲しいの主張を繰り返しているだけです。世界朝廷になったときからみて、小島の取り合いに国と人命をかけることは、おかしな事と思えます。ただし世界朝廷に導くために今まで戦争や産業の発展がさせられたように、尖閣の取り合いで非常な不幸か歓喜をもたらしそれによって、人々が目覚めるように計らっているならまた別の事です。
いずれも国があることの上での主張ですが、日本は世界朝廷を導く立場ですので、いつまでも国を主張しての取り合いの立場はとるときではありません。国の立場を放棄するというとおかしなことのように聞こえますが、現代産業経済社会には国境はなく企業あるいは生産者名が国境みたいなものとなりました。
隣村、隣の部族、山川の向うにある種族との二千年の戦いは済んで、今は国境を持った国と国の対立にまでなりました。その内実である産業経済、通貨支払い、通信交通、情報知識技術、宇宙空間の世界には国境などなく国を主張することも無くなっていました。そしてスポーツ、冒険や人命救助には国境はなく、国は後からくっつけられます。
軍隊を持っているがために、あるいは企業支援のためにそれぞれに国名が後から付いてくるようなものです。隣の村と戦っていた当時には何万という国がありました。それが徐々に淘汰され現在にいわれる国にまでなってきました。国は固定していません。いつまでも同じではありません。クニは組(ク)んで似(ニ)せるで、組んで似せるその仕方が時代によって変化し、それに応じてクニのとらえ方、領域のとらえ方が違います。
将来は世界朝廷という一国しかありません。ですので争う領地がありませんし、決着を付けるための軍隊がありません。そんなことは夢物語というまえに、戦争の歴史を見直してみても、ようやく現代に国といわれるものにまでまとまってきた経過があります。村人から民族をへて人類までは後一歩のところです。
もちろん現実には問題が無数にあり尖閣の取り合いもそのひとつですが、人類の全体次元から見ることのできる権威を持った見解はまだ出てこられません。
何故なら、理想や未来の目標や努力の方向としてしか話されていないからです。到達すべき基本憲章みたいなもので、お伽話と変わりがないととらえられるものです。スメラミコトはそういった努力目標を提示する役目を持ってるわけではありません。
彼方の理想へ一歩一歩近付くのでもありません。理想の一歩一歩の実現を積み重ねるのです。
平和な人類世界のお話は既に多くの宗教家によって実践され、そのどれもが無力無効となっていることは既に人類に知れ渡っています。
政治家による実現の過程も彼らの保身と名声の下に一般的な掛け声と共に行われるので陰謀渦めくものになります。
それでも戦争するよりは仲よくした方が良いというのは、戦争必然論者にさえも浸透しています。領土の取り合いは二千年来あっちでもこっちでも続けてきたのですから、当然人の本姓必然のように見えます。
ここで注意してその本性必然なるものを見てください。そこには国家、領土はありますか ?
本性必然であるなら全ての人に当てはまるということですから、そこには領土国家はなく、領土国家として現れる裏の仕組みの主があります。裏の仕組みの主と言えばいろいろなものに当てはまるでしょう。欲望を満足させたい、それには金を得たい、そういった思いにも国家領土はなく、裏の仕組みに踊らされられる国家、金融組織、個人があるだけでしょう。
日本はいつまでも尖閣が欲しい欲しい取っておきたいの次元にいるわけにはいきません。世界朝廷形成の寄り道みたいなものですから、そんなところで暇つぶしなどしていられません。古事記の百神が出終わったところで伊耶那岐の命は【御頸珠】を天照すにしか与えていません。頸珠(クビタマ)は、組む(ク)霊(ヒ)で、言葉を組んで創造したものに名前を付ける事です。スサノオを操っているのが天照すなのですから、天照すに学びましょう。
世界朝廷のスメラミコトによる統治運用は欲しい欲しいを禊ぎ祓えしたものです。
理想社会のあり方を対比させたり、一般意思スローガンを放つことではなく、実践的な和の遂行です。
では尖閣はどうするか。
将来は世界朝廷内の一つの島です。所有を争うことはありません。双方で計画を立てて、
入園禁止のアホウドリの海鳥公園にしましょう。
手順を踏んで世界の人が「なるほど」と思うやり方で対処をするでしょう。
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ブログ 006。7古事記の秘密。
秘密だなどと言うと、新発見の秘密か、秘密の秘密かなどと、結局はなんでもないことを書き知らすだけのことになってしまうことが多い。知ってしまえば、「ああそうなの」で終わってしまうものしか出て来ない。
フトマニ言霊学で言うときにはそれとは全く違うものです。つまり役立てるための秘密ですので、これからいつまでも使用するための秘密です。その秘密の中核は自覚にあるので、知ることだけではすみません。知っても自覚的に操作運用が出来なければ豚に真珠です。知ることが現象として成就し、成就していくことが知ることになるような智恵と知識の子を生んでく事が子(古)事記の秘密です。
世界は動き心はころころ変わり相手対象は無数にあるのですからそれに対応する秘密の操作法を常に所持しなければならないというわけです。
このブログでは知っているような素振りで書いていますが、白状すれば何も運用操作できないばかりか知りもしないのです。今のところは真似事の出だしの状態です。
この秘密というのは先天の地位を占めていますから、知り解明されても働かなければ何でもないし、働くときには見えないところにいます。
例えば、秘密があるなどといってブログを書けば読者は興味関心をそそられ何らかの思いが出て来るものです。そこで出てきた思い何らかの感想が述べれることになりますが、実はそういった現象には秘密は無いのです。どんな感想を述べようと現象してしまっているものは秘密ではありません。理解できないということはあるでしょうが、それは単なる知識概念上のことで秘密そのものではありません。理解するしないに関係なくあるのが秘密で、古事記の秘密はそういった類の秘密のことで、明かされたものの中にはありません。
それでは無駄な努力をしているのかといえば、人の立つ性能次元により、多次元には違和感が伴います。ことにウオ次元の人には顕著にあらわれますが自ら知るというより知らせられた違和感となるでしょう。ア次元、宗教芸術の次元を得ている時にはウオ次元がよく見えますが、それを導く方法を知りません。神とかあっちの世界とか祈りとか悟りとかしか言えません。
そこでそれらを統合領導出来るエ次元が出てきますが、ここから上の世界が世界の至宝たる古事記となります。エとイ次元への道筋が示されてます。これが秘密です。
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ブログ 005。先天の今 - 心の土俵に乗った《イマ現在のアイウエオ》
先天の今 - 心の土俵に乗った《イマ現在》
頭脳活動、心の動きがあって初めて人はイマと言うことができます。
人がイマと言う時にはその人なりのイマの表出になり、その人なりに色が着いてしまっています。そのようなイマはイマの説明ではなく、着いた色の説明をしているだけになります。問題はイマそのものを説明することで、イマの色付けや色の分析をすることではありません。
イマを語りだすだけの先天の環境が明らかでなければ、イマは心の土俵に乗れません。
イマの先天は次のようになります。
注意。主体とか客体とか相手とか出てきますが、全て頭の中(高天原)での事です。
・アメツチ。
吾の眼を付けて智恵と成す、あめつち。今の意識を付けて智恵と成す。
イマに関する心の動きが始まります。イマという吾の眼を付けて智恵と成す時になりました。天地の初発の時です。心が動くとその動き出した心に出てきたものがあります。心の世界宇宙です。この心の宇宙は無限無辺の宇宙ですがこれからイマになろうとする精神宇宙です。
・・言霊ウ。
精神、心は自分の心の宇宙世界に誘われます。
イマを話したり聞いたり思ったり考えたり感じたりしたい心の働きが自分の心の世界を現したくなります。これを言霊ウといいます。天の御中主(みなかぬし)の神が生まれました。
心の主です。イマという意識の原点となります。イマという意識の出てくる元の宇宙となります。人間の性能からすればまずイマという意識を五感で感じるその元の宇宙です。イマを五感で感じる元となり、それを元として展開される五感による事実関係の大本を形成していきます。
自分であり相手宇宙であり、自分と・相手との区別がありません。
今聞いた音、見た物の鼓膜を叩いたこと視覚に映像となっているものには、その初発には自分と相手との区別はありません。そこではまだ主客の別はできていません。
・・生れた心が働きます。言霊ア。
言霊ウ次元の主の働きがある時、そこには働いている主体側と働きかけられる客体側の両者が直ちにでてきます。その働きが動き回る精神の主体側の活動場があります。これを言霊アといいます。それを名付けて高御産巣日(たかみむすび)の神としました。タカミは高見の見物というように高所から全体を見ることです。意識の初めに自他を見渡す働きがでてきます。
ウの五感感覚は生理肉体上の性能から受けるものですが、それは直ちに精神に反応反映して感情世界を形成します。ウ次元が生理物理上の主になるのに対して、言霊アは感情精神上の主となります。ここで気をつけることは、五感感覚で獲ることは自分の感覚性能に訴えて自分を獲ることで主客の別がありませんが、感情を持つことになると相手対象を意識します。
この相手対象側が言霊ワです。
・・働きを受ける相手側世界があります。言霊ワ。
精神の活動場にはイマの働きを示す精神側領域と噛み(神)合う働きの相手となるイマの実体の実在場ができます。これを言霊ワといいます。神産巣日(かみむすび)の神が生まれました。
握手でもお辞儀でも、そうしたのかそうされたのか一瞬迷いますが相手対象を意識するときには全て同じです。それにもかかわらず自他との相違が一瞬で現れ了解されます。この高い所から見渡して一瞬で了解する心の性能を主体側は高御(タカミ・タカミ見物)の神といい、その相手対象が間髪を入れず結ばれるカミムスビとなります。
ここで結ばれるのは個々の詳細の事ではなく、高所から見渡す全体事で、感情意識で現されるものです。そこで自他の別々意識(剖判)が形成されますと、相手側実体が現れてきます。相手があることと相手を識別することの二つの世界が出てきます。
・・相手側世界に実在実体としてあるものがあります。言霊ヲ。
イマの実体の精神の実在場にはイマに関する記憶が次々と沸き上がってきます。これを言霊ヲといいます。宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神が生まれました。
言霊ウが自他のアワに剖判すると同時に、働く主体と働きかけられる客体という剖判が起きます。
働きかける主体側は働きかける主体という実在実体を以て、働きかけられる客体という実在実体に働きかけます。ここでは主客はそれぞれ働き・いきさまと実体・ありさまに剖判しています。
べつの言葉で言えば、主客側はそれぞれ、働きと働きかける実体の主体側、とその受動と働きかけられる実体の客体側にやはり剖判していきます。
・浮上する記憶と結ぶ力動があります。言霊オ。
沸き上がるイマの記憶の実体をイマとしてぞくぞくと取り入れる精神の働きがあります。これを言霊オといいます。天の常立(とこたち)の神が生れました。
夢の中で記憶が関連なく次々と出てくるように、出てくるものはそのまま受け取り、受け取れば受け取ったでそのままくっつけ連結させてしまう働きがあります。
ややこしい言い方と繰り返しの多い記述ですが、これは、それぞれが次段へ往く時には前段を受けて上昇循環をしていくからです。前承して上昇循環して元の位置にくると次元が変わり名前が変わります。
ウはどこまでもウですが、自他の剖判を得るとアワになり、アが剖判するとオエになり、ワはヲヱになるといった具合で、それぞれは前者を含むと同時に独立しています。
後者は前者を含みますが、その逆は含みません。含んでいるように見えるのは、つまり温故知新のように後者を知っているからそこから後者の種を前者に見つけようとするものです。
・現前する記憶を選択することになります。言霊エ。
すると集まる記憶を過去の経験知識経験概念と比較選択して選り分ける機能が働きます。これを言霊エといいます。国の常立(とこたち)の神が生れました。
夢の中では関連づけ連絡が不十分で記憶イメージが出てくるままに夢が進行していきますが、エ次元では過去からくる記憶を扱うのではなく、イマある記憶をどうするかの選択になります。
それぞれの次元に働きと実体が出来てきて、別々の次元となってきますが何故そのような違いが出来るのでしょうか。ウがアワに剖判するといっても自動的にエスカレーターのように上るわけではありません。生物と同じ成長概念でとらえればエスカレーターとなるでしょうが、無自覚無意識的な成長を指すことになるでしょう。人には至る所に逸脱飛躍決定選択があり、按配に迷うことがあります。
・選択按配の心の成果ができます。言霊ヱ。
選択が働きますと選択の実践智恵の成果結果が分類されて現れます。これを言霊ヱといいます。豊雲野(とよくも)の神が生れました。
エ-ヱがここに出てくるということは、前承する上昇循環からすると、ウアワヲオが全て含まれているということです。日本語は五十音の単音を要素として構成されています。ここで五十音図を思い出してもらうと豊雲野の意味が分かります。
漢語式では豊かな雲、原野の形成される様子という解釈ですが、大和の古事記では、トヨは十と四、クモは組む、ノは音図を野原に見立てたものです。
ウアオエの四段各十音の組み合わせで十(と)四(よ)組むことで音図が出来ていて、次に出てくるイザナギのイ段を入れて五十となります。そこから全ての事柄が言葉によって名付けられものの実在が知らされていきます。そのむくむく湧き出でる雲の様子を心の働きとして表現したものです。
つまり、イマの様子の表現は誰のどんな表現であってもこの十行四段を組んで表現されていくことになります。
ここまでが心の土俵に乗ったイマの実在・客体方面です。
次に、物があることを意識しなければそのものはありませんから、その意識の仕方がでてきます。
古事記ではあちこちに「八・や」が出てきますが、これが心の働きを示しています。冒頭で対になっている八神たちです。そしてものが無ければ働きはありませんが、働きが無ければものも無いという、相互の循環を止揚するのが有名なイザナギ・イザナミの命なのです。
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ブログ 004。今(イのマ)をどうする
今(イのマ)をどうする
今とはイの間(マ)のことで、人の心にあるイの間の全体、実在世界でのアイウエオ側と働き世界のチイキミシリヒニ側全体を指す言葉です。
今は心の全体ですからどのような角度から説明しようと説明しきれるものではありません。時間と比較したり光速と較べたり瞬間だといったり、意識の長さといったり、今に見ろ今に見ていろと過ごした二十年間もまだ来ない今だといったり、要するに一億の意見が集まっても今の説明に足りません。
しかし、イマココしかないからといって、イマココの瞬間に一億の意見が凝縮されているのか、これから出てくるのか既に出来てしまっているのか、どう考えたらいいのでしょうか。一億などと言わなくとも、今とは何かと考える端から過去になるのか、今とは何かを創造していくのか知らず、自分の考える今は相変わらず不定形で不明なままです。
何故そんなことになってしまうのか。それは「今とは何か、何々とは何か」という形式で始めてしまうからです。「何か」と問う前に「今」という言葉があり、問われるものが既に用意されています。用意されたものは過去の概念知識の多少でそれを「今とは?」という形で示しただけですから、もともと持っているものを確かめるだけです。その途中で他から入ってくる新知識を元々持ってる自分のベースの上に加える事を期待するわけです。
一件通常のことに見えます。温故知新ともいわれています。ところが注意して自分を見ると、新しく入ってくるものを自分なりに元々あるベース上で調理しているだけなのに気づきます。それが当たり前なのにどこが悪いのか反論がくるかと思います。当たり前に普通な思惟の行程であっても、それが正しいかどうかは保証されていません。というのはその人、各人の基礎なるものはその人の自覚においてつくられたものではないからです。自分の考えは何時の間にか知らず知らずのうちにこうなってしまったものだらけです。
誰も自分で自分の考え意見を作った人はいません。冗談じゃないみんな一生懸命自分の頭で考えているじゃないかと怒られそうです。しかしそのような言葉のどれ一つをとっても自分で作ったものはないのです。縁あって日本に生まれ育って誰が作ったかもしれない日本語を受け入れているだけです。ですので「今」というのも同じことです。どれほど豊かな概念で精密で論理的であろうと、元の知れない無知の上に花開いたものです。これが現代の産業、文化、知識の元となってここまでの社会を築いてきました。
元が無自覚暗いものですから、出てきた成果の運用をするのに得意ではありません。今について話し合えば論争が始まり罵倒です。その物質的な成果は金のためでしか還元させられず、戦争を起こしてまでして再生産されます。主張主義が違えば殺人でかたを付けようとさえします。宗教も同じでそのように利用してきました。
このように書いても既成の歴史上の者たちでは問題が解決されない方面を強調しているので、これまでの歴史的な成果を無にしているわけではありません。
今を話すのにあっちこっち飛びすぎ不定です。飛びすぎたついでに大元のイマにまで飛んでしまいましょう。イマの原理と称するものへです。原理というのですから日本人であろうとアメリカ人であろうと原理です。ただし、大和日本以外にも今を説明することの出来る言語体系を持っているかどうかはまた別な事です。どの国にも個人にもそれぞれの説明はあるし、できます。しかし、どの国の人たちが今を原理的に提出したでしょうか。一億のノーベル賞が集まっても出来ないものは出来ないので、外国にはそれだけの言語構造が無いということなのです。
イマのおお元というのはイマと言ってそのイマを乗せる土俵を与えることです。イマそのものではありません。土俵そのものでもありません。ブルトーザーを乗せたら土俵は壊れます。イマが乗って現れるイマの先天、先天構造のその働きと実体(イキサマとアリサマ)の先天、を乗せます。
先天というのは前提とか条件とかでもありません。それらはイマとは別のものです。外国語では先天を潜在とか前提条件とかにします。そうではなく、イマそのものではないが、イマそのものとなるイマの先天です。それを古事記のフトマニ言霊学では「天・アメ」といい、「吾(あ)の眼(め)・私の意識」のことです。「イマ」の私の吾の眼の意識は、後に今現在論なり今についての主張になりますが、大本の吾の眼として出てきた先天の私の意識が出てくる以上のことはありません。先天に持っていたもの以上のものは出てきません。考えが進化し熟慮して豊かになったように思えるのは後から付け足されたものたちです。
先天のイマが乗る場がなければならないといいました。それを土俵といいましたがそこが心です。
心にイマの先天構造があるので、イマの思いが全面的に乗ることができます。
この心はどのような思いの今でも何でもかんでも全部乗せてしまいます。宇宙がどれほど広くても過去がどれほど遠くても全てが心に乗ります。水素原子の極微の今も、銀河宇宙ビッグバン以前の今も、心の広がりの今に乗ります。宇宙とは心のことになります。、
そこに他の概念や言葉を持ってくると既に過去概念知識による色付け変形が付加されていますから、イマの説明された形が乗るだけです。ですのでまずはイマを説明するのにイマの説明を排除しておくことが必要となります。
それでは心にあるイマの先天がどういうものか示してみましょう。
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ブログ 003。神と神?、または、「かみ」
神と神?、または、「かみ」
古事記には神だ神だと言って多くの名前が出てきますが、八百万のそういった神々がいるという話をしているのではなく心の現れを神で表徴しているので、そういった神がいるわけでも、もちろんその子孫がいるわけでもありません。我々の心が神の名前を用いて解明表徴されているということです。
その場合、精神運用の奥義を秘めた古事記で用いられている神名は象徴や比喩譬えではなく、心の実体内容を示すように使用されています。これが世界中の神さんたちとは本質的に違うところです。例えば天照す大御神はアマテラスで、各人の吾の間(アのマ)を照らし運用する自覚した心を示していて、天高くあまねく照らし渡す自分の心にある実体を指したものです。
大和日本においても理解されているわけではありません。というか千年間は理解されないように工夫されていたのです。自然界をあまねく照らすのが太陽なら、人間社会を照らすのは皇祖であったし、自覚された意志創造による行為ならその人がアマテラスです。
既に物質方面からは神の居場所は無くなり、雷様におへそを取られることも無くなりましたが、精神的な方面からは放逐されてはいません。放逐だなんていうと怒る方もいるでしょう。未だに宗教がありますが、その中においても様々な疑問が神と結ばれているというより、神の実在の疑問に取って代わっていますし、神の名の元において行っていたことが、より人の名の元において行為するという感情、しかも個人単位の感情、が現在では多くを占めています。
古事記には毘古とか毘売とかが神名に含まれていて男女のはっきりしたものや、神と思っていたら命となっていたりあるいは神が大神になったりします。伊耶那岐など神として出てきたのが次のページでは命になり、後に大神になります。すそ野にいる人間が山頂より高い神世界を語ることになれば、よくあるように当然でまかせといい加減な思い付きが混じってきます。そんな個人の感情でしか証明できないどこにいるか分からない山の彼方のはるか遠くのあっち側の神など置いておいて、神を人間の心の現れと見直してみましょう。
もちろん個人的な見神、神秘体験、修行による体験を否定しているのではなく、あったところでそれだけのものでしかないようです。古事記のようにあったところのものを心とは何かとして神という言葉で語ればいいのですが、神が物質世界から放逐されても精神界にまだいられる理由がどこかにあります。実際に神との神秘経験、見神交流があるからです。ただ個人の実際例となっているだけで他者に示すことも証明することも出来ません。見たぞ会ったぞ聞いたぞ話したぞというだけです。日本は神の国ということで相変わらず見た聞いたというのがしょっちゅう名乗りを上げています。
人の性はそう簡単に変わらないのですが、山頂のあっち側の喜びを得たいという思いがそこでいいように扱われます。善意善良な心持ちで数パーセントの神の言葉が語られてきます。わざわざ神の名を出さずとも、あっち側からの声だとしなくても理解できることだらけですが、教祖の経験と称するものと未来の目標とがまっとうな理解をさえぎります。
山頂から飛び出すようなことに何故引かれるのかは分かりません。わたしもそういった話に引っかかりそうです。人類の生物としての長い歴史上で起きた変態進化の沈潜している願望が、わけの分からない未来に投影されるからでしょうか。地球を飛び回る渡り鳥の習性が目覚めるからでしょうか。いずれにしても自覚されない未来のあっち側の神に支配されていることになるでしょう。
古事記でいう神はそんな無自覚状態を脱して、今ここにいる神と手を結ぼうではないかというものです。いまここにいる神と一緒になるには自分が同じく今ここにいなければなりません。そうしないと過去概念でできた神ではなく未来に会えるかどうかも分からない神でもなく、今の神と会いません。
普通は自分は今ここにいると思っています。ここに身体があってここで喋っているからです。しかしそれは生物面物質面であって、精神的心的にいまここにいるというわけではありません。例えばこうして書いていること喋っていることなど全てが過去知識と過去概念を組み合わせているだけです。現在にあるように見えているのは、画面の光点、視覚の光波、音声の音波空気振動、客観物質等が現在にあるというだけで、精神と心が現在にあることではありません。
私たちは過去現在未来を貫く神とは概念でしか会えないのです。つまりそのような考えをもたらした過去知識の各人なりの多少の記憶を内容としています。今書いていることも過去知識の届く範囲の過去を知ったかぶりしているわけです。概念となった共通の知識ですから記憶のあるなし、知識量の多少が量り売りされます。自分で考えたものなどありません。
それではどうするのかといえば、過去知識概念を語っていながら現在であると主張するのを止めること、今ここにいる神を手に入れるため、吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智恵(ち)と成すのアメツチを実行することです。
神と言うこと喋ることが過去知識なのにそれをどのように今に生かすかです。(神に限らず何でも喋ることはそうですが。)それが神で、神の秘密です。いつでもどこでも今ここにいられる神がいます。「カ・ミ」のことです。「神」となってしまうと余計な知識がまといついていますから、神ではなく、「かみ」を見ます。「か・み」というのはカッと明らかに見ること見たこと、カッと明らかな実となったことです。そこから得られた後の「神」のことはまた別です。神として語ると無数の話となっていますからそれらに紛れ込んでしまう以前の「か・み」をみます。
過去知識でありながら「か・み」である知識は、自分の知っている範囲から出ないことです。その範囲内ならば今現在常にいる神と話ができます。知識は正しいことも間違っていることもあり、間違っていようと自分の範囲内にあるときは自分の所有している正しいと主張する見解として出てきます。それをそのまま今いる神さんと対話させればいいわけです。例えば十二次元の世界を支配している神さんだとか、おへそをとる雷さんだとかいうならば、その人に今出かけてもらって神さんと話し合ってもらえばいいわけです。
カッと明らかに見るといっても、そのように見るものはいくらでもあります。かえって神を見るなんていうことは全然明らかではありません。それでも神といわれるわけです。感覚的にカッと見えたでも、知識的にカッと分かったでもいいですが、カッと頭に閃く時を細分化しますと、ピカッという光にまぶしさを覚えそれを、遠ざける心持ちを得ます。もう少し砕きますとカッと来るものを受け入れる瞬間に逡巡迷いを得ます。本当だろうかそれでいいのだろかと自分を無条件で開く以前に、瞬時の迷いにこころがかき回されます。
カッと明らかなものを得るにはまず迷いにかき回されるわけです。これは私の個人的な経験ではなく誰でもあることのはずです。カッと明らかなものへの迷いなんて神さんを指すのにぴったりじゃないですか。
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ブログ 002。「あめつち」と「てんち」
「あめつち」と「てんち」
例えば、古事記は次のように始まります。
【天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。】
ここに謎を仕掛けられた言葉を見いだしこれを解いていくと、心の規範、考え方の人類最高の理想的な規範が現れてきます。 (見つけてもそれが使えるかどうかは別のことです。)
まずは【天地】です。これは「アメツチ」と読み、漢語式にテンチと読むと、一切が台無しになってしまい心の規範たる意味が出てきません。天(テン)では空とか宇宙とかそれに関連する概念の指示できる延長で知識情報が広がっていきますが、古事記でいう心の広がり、心の宇宙を「テン」とは言えないでしょう。それにも関わらず思いや心の宇宙は存在しています。思いやこころ宇宙は天とは別のことだからそれぞれの漢字があるということになってしまいます。つまり、「テン」と読む限り心に関することは何もでてきません。古事記を心の問題と見る見方は間違いということになります。
ところが面白いことに古事記はところどころに、読み方を特別に指定したりしています。古事記が通して読めるようになったのは宣長お蔭です。では、天地を「あめつち」と読むとどういうことになるのでしょうか。注意することは仮名を単音単語にして読む事です。漢字で二語だから、読みもあめ・つちの二語にするのではなく、単音の四語とします。ア・メ・ツ・チです。単音の解題がうまくいき、二語の組み合わせにしても漢語の意味が出てくれば成功です。
そうするとそこから別の話が出てきます。例えば天地を四語で解題して二語のてん・ちも説明できるという事は、漢語でてんちといっているのは、四語で説明できる事を漢語式に読み直したか、共通の人間意識現れかという事になり、漢字に天地とあるものをわざわざ「アメツチ」の四語にしたのではないという事になります。漢字の訓読みがありますが、訓読みに漢字を当てはめたので、漢字の意味が訓読みの意味に取って代わっているのではありません。訓読みの意味の中に、漢字で表現出来る意味も納めたのです。ですので同じ訓読みで別々の複数の漢字を使用していることもあります。漢字の語彙が限定的でそれぞれの概念が狭いためです。
それは訓読みの意味には漢字で示す意味も含める事の出来る概念の広さと、本質を示した読みがあることからきています。後で検討されますが、易経という陰陽五行を元に出来上がったとされる占いで使用される書物があります。これは象徴的な概念の組み立てとその数的構成に言葉を配当したものですが、その原理となっている河図、洛書はお伽話のように出てきて、数や概念でしか現されていません。その構成は古事記の冒頭と全く同じですが、古事記はその働きと実体を示してるのに対して、易経では概念だけです。
これの示すことは明らかで、易経の原理は古事記の冒頭の思想を真似て概念で説明しているということです。まず古事記の思想があって、それを写したと言うことで、古文献にも易経の作者(フッギ)が来朝して教えを請うている記録があります。古代大和のフトマニ思想は既に世界中に伝わってはいても、その実行の時ではないので、来朝者たちにも実際の内容は伝えられていないということになり、そのために概念だけの易経となったのでした。
それでは「あめつち」とはどういうことか見てみましょう。
ア・一人称あたしの吾で、私の全体のことです。あたしのアの全体感があることによってすべての始まりがここにあります。
メ・見る眼で、意識のこと、アメで、私の意識です。メは私の先天がイメージとなり意識が集約されるところです。
ツ・ツーと相手対象に付くこと、元の場所から離れて現れ出ることで、私の意識が対象に向かうと同時に相手対象において出てくることになります。
チ・チは地であり蒔く種が実となり成果を生むところ、相手対象の全体宇宙がそのまま発現に向かう力動を持っていて、心に生まれてくる智恵と智恵の行為となるものです。
全体で、【アメツチ】は吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智恵(ち)と成す、と読み、
私の意識を相手対象に付けて知恵のある整理運用をもたらす、ということです。
この観点から「天地」の解釈を見てください。世界中にある誰のどのような解釈も、吾の眼を付けて智恵と成すになっていることが分かるでしょう。いちいち天地とはこういうものだと各人の説明を記さなくとも、アメツチ・吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智恵(ち)と成すは、誰にでも適応されている意識運用の原理の言葉となっています。このように古事記は意識の原理次元で語っています。
ですので、古事記は古いことを記しただけの神話とか歴史書とかではなく、智恵による創造現象(子)を記した子(こ)事記であり、心の子現象の創造を解き導き明かす書となっています。
そこからアメが天空や宇宙となるには、私の意識が大空や夜空を見つめてたりして、星空などに私の意識が集約されることになりますが、漢語式で行くと星空宇宙などに私の意識が集約されてることをテンということになります。具体化されているもの現象しているものを直接名付けたものです。
あるいは、本質原理を省みることなく気付いた現象の羅列やそこから来る概念の発達展開されたものとなっています。ですのでそれらがいくら展開され豊かになっても、その出所をたどれば単なる思い付き気づきに過ぎない事は、ノーベル賞取得者の話を聞いてもよくあることです。
「天」が銀河宇宙だとなるのは、現象とその概念を「天」に配当しただけで、要するに配当の仕方、概念のくっつけ方の相違になり本質原理を考慮したものではありません。漢語も含めた世界の言語はそういったものですが、大和の日本語、スメラミコトたちが創造した大和語だけは唯一の意図的に創造された本質を投射して発音現象とした言語です。
私の意識が集約されるところは大は宇宙から小は机上の埃まで、見るもの全部何でも聞くもの等事の大小場所を問いません。イメージ、考え、思いがあればそれらが私の意識の集約されていくところです。その行き着く先はありません。百光年先の宇宙でもあり、五十億年前の地球でもあり、昨日食べたカレーでもあり気なるあの人のことでもあります。集約されるものは私の意識に限らず、小さいものにも大きなものにも何にでも集約していきます。それらを一言でいえば吾(ア)の眼(メ)で、漢字を示せば天が用いられますが、天は本質原理を示しているのではなく、単なる象徴概念表示となっているだけです。指し月の指です。
ところが、天を「あめ」と読んで吾(あ)の眼(め)、私の意識、の心持ちにしますと、私の全体と世界の全体が「あ」において対応しているのが分かります。そこで「め」の取り方を感情でも思いでも自由に何でも「あ」の相手にしますと、それがそのまま私の世界宇宙となっていきます。これが「あめ(天)」です。表現は天を使用していますが、天が私の世界宇宙ではなく単なる指し月の指で、「あめ」と読むときに私の世界宇宙が現前してきます。
「つち」も同様です。
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ブログ 001 【古事記の神代の巻】
古事記はを心の運用原理、思惟規範の創造原理として、(あるいは通常の理解では歴史書として、)千三百年前に記されましたが、その思想内容の完成はおよそ八千年前に遡ると思われます。このギャップの意味を探ります。
表題の神代の巻とは【天照す大御神】の登場する三貴子までをこころの運用原理とします。次々と神々が生まれそこでちょうど百神になります。古事記はこの百神を用いて心の発生構造整理運用、間違えの起こり方、理想的な思惟規範による心の現象の創造を説いています。
別の言葉で言えば、「今現在とはなにか」「心とは何か」「生きるとは何か」等々の問題を起こしたときに、百の神の名を借りた精神運用によって対処する原理が述べられています。
古事記とは心の運用原理、思惟の創造規範を謎々の形で示したものですので読み方にちょっとした工夫が要ります。つまり既に当時漢語の影響を受けていたのですが、それを受け入れつつ元の大和の日本語に直して読むことになります。
例えば、こじきは漢語で古事記と記載されますが、漢語の意味を取るとふること文ですが、この「こじき」の謎々は大和の日本語に直したときに明らかになります。
記は記帳の記で「きちょう」の読みの他に「つけちょう」とも読みます。そうすると古事記に「こじつけ」という読みが出てきます。そうです、数千年のギャップを隠し、人類の秘宝である姿を隠没しておくための「こじつけ」の様相をとる必要があったのです。
何を隠したのかといえば「こ・じ・き」つまり、子の事を記す、心の事を記す、心の生む生んだ生んでいく現象、心の運用法、思惟規範の創造法です。人の精神世界において「大(いた)く歓喜(よろこ)ばして詔りたま」うことのできる、心の成果現象を生みだし創造して自他ともに豊かな社会にする、理想的な思考運用法です。
これが数千年前に隠されたものですが、何故かといえば、実に簡単なことです。
子を持つ母親を見てください。赤子幼児はしたい放題、後片付け無し、他人にお構いなし、自分で創造することも知らず欲望に任して手に入れ消費していきます。両親は子供を理解していますから、成すがままにしますが、つねに手本を示し規範を与えることをしていきます。しかしその与え方は直接に大人間に通用している事を与えているのではありません。ワンクッション置いた見本を自分で示して「こじつけ」を与えているのです。
古代大和のスメラミコトは人類の心の動きを知ってしまったが為に、その秘宝を母親の立場として隠すようにしたのです。人間は生物の成長発展と違って精神、心の発展して行く生き物です。古代はどこの地域世界においても精神の時代といわれるように、欲望のまにまに駆けずり回ることが精神次元にも起きていました。精神界に驚くような想像が花開き、素晴らしい想話物語が出来ていました。
それは古代の民話、想話、太陽や星や世界の発生や、存在するものの物語等々、それらが二三千年以前にできた世界の大宗教発生以前に地球の各所で既に起きていたのです。不思議なことに子供が駆けずり回るように、それらが世界で共有されてさえいたのです。どのような世界交通路があったのか分かりませんが世界は一つであったのです。
古事記の理想的な思惟規範はそのような、大宗教創成以前に出来ていたのです。そうすると驚くことに世界の大宗教といわれるものは、古事記の秘宝を隠すための、そして来るべき時がきた時の明かすべき秘宝の内容を「こじつけ」をもって示したものではないのかという思いが出てきます。古事記の思想が世界の大宗教を用意したのですこれは今後事実となるでしょう。
古代大和のスメラミコトにはそれほどまでに隠さねばならないものがあり、いつくしむ未来の子供たち我々に真の物事を与えるため数千年の歴史を見据えていました。
ワンクッションこじつけは直接内容を話し与えても理解できないことが分かっているときに用いられます。お釈迦様の話も、聖書の話も、これは譬えだ、私の話は譬えこじつけだと至る所で示しています。わざと与えないにはそれだけの理由があるからですが、真の内容を話さない者たち、釈迦やキリスト、孔子その他も真を知っていたかどうかは、教祖開祖であってもまた別のことです。
世界の教祖たちは真実を知らないまま、知らされないまま、ワンクッションこじつけを流布する役目があったのです。では誰がそんなことをしたのか、させたのか、です。それは古事記の思想の発見創造者である古代のスメラミコト以外であるはずはありません。
古文献には釈迦、キリスト、モーゼ、孔子等がスメラミコトに教えを請いに来朝していたことが記されています。またかれらの記載した文物には多くの共通性がありますが、すべて譬えと象徴と数字で語られています。それらの元々を探ることが数世紀来続けられていますが、答えはこれまたすべて譬えと象徴と数の解釈に過ぎません。実体実像に迫るものがありません。
つまり譬え、こじつけをひっくり返して実体実像に変換する方策が世界の思考法には無いということです。方法を持たないのですから、解釈が解釈を生み、せいぜい新しくなるだけで、それに情報量がつけ加わるだけです。このような悪循環を断ち切るには全く別の思惟規範が必要です。
古事記の神名や用語を象徴譬えとしてだけ見ていても、実像実体は見えません。言葉の使用がそのまま実在を示している方向へ見ていくようにします。古事記は象徴譬えで「子の事」を記したものではなく、実体としての「子」の理想的な現象創造を記したものです。
それが世界の精神時代に完成していた古事記の上巻である神代の話の形をとった、フトマニ思想です。フトマニとは二十(フト)を真似(マネ)るということです。二十は象徴譬えではなく、実体としてこじつけられたものです。
二十とは言霊五十音図でいえば、「かさたは」行の濁音が付いて過去現在未来の流れを保証する二十音のことであり、その今現在のあり方を神の名を持って語れば、空の悟り、見神次元を現す飽咋の大人(あきぐひのうし)の神の次から勘定して二十の神々たちのことです。奥疎(おきさかる)の神から建速須佐之男の命までの二十の神々の働き実体を了解することです。
つまり、悟り、見神を得る次元の後に来る二十の精神次元を獲得することです。
こうして現代にいたりこの世を導く古事記の思想が、今これから再度必要とされるようになりました。
スメラミコトが見据えた、その時代が到来したのです。