奥疎(おきさかる)。辺疎(へさかる)の神。「身禊」10。
禊祓の業と言いますのは、自分に対する客観的なものの穢れを清めたり、修正したりすることではありません。何度も申上げている事ですが、黄泉国で考え出された文化を、世界身・宇宙身である伊耶那岐の大神が自分自身の身体の中に起ったものとして受け入れ、受け入れた自身の身を禊祓することによって新しい身体としての宇宙身に生まれ変わって行く事、そういう形式で人類文明を創造して行く業であります。
先ず伊耶那岐の大神は客観世界に起って来た文化を自らの身体の中に起って来たものとして摂取します。摂取した文化を先にお話しました道の長乳歯の神以下五神の働きによってその文化の内容の実相がよく理解し易いように整理・検討します。その作業が終わりますと、次に奥・辺の疎、奥津・辺津の那芸佐毘古、甲斐弁羅の心の中の業の進行に入る事となります。
次に投げ棄つる左の御手の手纏(たまき)に成りませる神の名は、
奥疎(おきさかる)の神。次に奥津那芸佐毘古(なぎさびこ)の神。次に奥津甲斐弁羅(かいべら)の神。
次に投げ棄つる右の御手の手纏に成りませる神の名は、
辺疎(へさかる)の神。次に辺津那芸佐毘古(へつなぎさびこ)の神。次に辺津甲斐弁羅(へつかいべら)の神。
以上六つの神名が出て来ました。読んだだけではその神名が何を示すものなにか、全く見当もつかない名前であります。先ずその名の文字上の意味から考えることにしましょう。六神名を読んで分かります事は、一番から三番目までの神名のそれぞれの頭に付けられている奥、奥津、奥津と、四番目から六番目までの神名にそれぞれ付けられている辺、辺津、辺津の文字を取り去りますと、一番目と四番目が疎(さかる)、二番目と五番目が那芸佐毘古、三番目と六番目が甲斐弁羅とそれぞれ同じ神名という事になります。この事を先ず頭に入れておいて解釈をすることとしましょう。
次に投げ棄つる左の御手の手纏とは何か。
辞書を引くと、「手纏とは上代、玉などで飾り、手にまとって飾りとしたもの」とあります。
伊耶那岐の大神が両手を左右に延ばした姿を五十音図表に喩えますと、左の御手の手纏とは五十音図に向って最右のアオウエイの五母音に当ります。そして右の御手の手纏とは音図の最左の半母音ワヲウヱヰとなります。物事は母音より始まり、八つの父韻の流れを経て、最後の半母音で終結します。そうしますと、
「奥(おき)」とは起(おき)で物事の始まりであり、反対に「
辺(へ)」とは山の辺に見られますように、物事の終りを表わす事となります。
次に疎(さかる)とは辞書に「離れる」「遠ざかる」を表わす上代の言葉とあります。そうしますと、奥疎(おきさかる)と辺疎(へさかる)の文字上の意味は明らかになります。即ち
奥疎の神とは何かを他の何かから始まりの処に遠ざける働きという事になります。そして
辺疎の神とは何かを他の何かから終結する処に遠ざける働きと言う事が出来ます。
文字の上での解釈はこの様になりますが、実際にはどういう事になるのかは後程説明いたします。
次に奥津那芸佐毘古の神、辺津那芸佐毘古の神の文字上の解釈に入ります。奥津・辺津の津は渡すの意です。那芸佐毘古の神とは悉(ことごと)くの(那)芸(わざ)を助ける(佐)働き(毘古)の力(神)という事です。とすると
奥津那芸佐毘古の神とは始めにある何かを或る処に渡すすべての芸を助ける働きの力という事となります。
辺津那芸佐毘古の神とは終結点に向って何ものかを渡すすべての芸を助ける働きの力と解釈されます。
次に奥津甲斐弁羅の神、辺津甲斐弁羅の神の解釈に入ります。甲斐といえば甲州、山梨県の事となりますが、この甲斐は山峡の峡のことで、山と山との間という意味です。弁羅とは減らす事。甲斐弁羅であるものとあるものとの間の距離を減らすの意となります。そうしますと、
奥津甲斐弁羅の神とは、始めにあるものを渡して或るものとの間の距離を減らす働きという事となります。
辺津甲斐弁羅の神とは、終結点にあるものを渡して、あるものとの間の距離を減らす働きとなります。
以上で奥疎、奥津那芸佐毘古、奥津甲斐弁羅並びに辺疎、辺津那芸佐毘古、辺津甲斐弁羅、計六神の文字上の解釈を終えたのでありますが、この解釈だけでは実際には何のことなのか、読者の皆様の御理解は得られないと思われます。そこでこの文字上の解釈に基づきながら、禊祓を実行する人の心の中に起る手順・経過について説明して行きます。
●奥疎の神、辺疎の神
伊耶那岐の大神という世界身の中に摂取された黄泉国の文化は、それが実相を明らかにされた時点でも禊祓の洗礼を受けている訳ではありません。伊耶那岐の大神の身体の中に取り入れられただけの状態です。その文化を取り入れた我が身の状態をよく観察して、これに新生命を与えるための業の出発点となる実相を見定める働き、これが奥疎の神であります。
もう少し説明を加えましょう。黄泉国の文化をわが身の内のものとして摂取した時は整理されていない文化を身の内に入れたのですから、自らが清められ、新しい生命に生まれ変わらねばなりません。では何処が整理されるべきなのか、禊祓の業の出発点としての自らの黄泉国の文化体験はどう認識すべきなのか、が決定されなければならないでしょう。摂取した文化の実相を見極めて、それを摂取した自らの禊祓の出発点としなければなりません。その出発点(奥)(おき)の状態を見極めて行く働き、これを奥疎と呼ぶのであります。
行の出発点としての自らの実相が見極められたら、次ぎに禊祓によって新生命に生まれ変わった世界身としての自らは如何なる状態となっているか、の終着点の新世界身の姿がはっきり心に浮び上がります。禊祓の業の目的達成の時の状況が明らかに心中に浮び上がります。この様に禊祓の業によって創り出されて行く結果(辺)の状況の決定、これが辺疎の働きであります。
この働きによって黄泉国の摂取された文化がどんな姿に変わって行くかが決定されると同時に、その文化が摂取された後は伊耶那岐の大神の世界身である世界文明がどういう姿に変化・革新されて行くかも決定されます。
禊祓の出発点の実相を見極める働きが奥疎の神であり、
禊祓の業の終了後の世界身の実相を決定する働きが辺疎の神であります。
それは黄泉国の新しい文化を摂取したばかりの伊耶那岐の大神の心の内容から、禊祓の行を始める出発点に「これが新しく摂取する文化の実相だよ」と思い定める事(奥疎)、またその摂取した新文化は禊祓の結果として「この様な姿で人類文明の一翼を担うようになるのだ」という確乎としたイメージを結ぶ事(辺疎)なのであります。
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全五神では相対的に静止した視点での関係から起きて来る黄泉の産物でしたが、ここからは主体側の視点を動かしていくことが黄泉の産物を創造してしまうことについてです。
主体の現在位置が相手側の始発点や終着点に動き、また同様に相手の視点主張を自分の始発点や終着点に持ってきてしまうことになるでしょう。
悪い言い方によれば移動すり替えというのがあり、反省という名目の移動すり替えというのもあります。
自分の現在位置を都合のよい方向へ持っていくわけです。前期の五神にて示せば次のようになるでしょう。、
●道の長乳歯(みちのながちは)の神。自分の主張を相手の過去経験知識概との関連性、連続性のなかに持ち込む。
●時量師(ときおかし)の神。自分の主張を相手の主張の変移と選択のリズムの中に持ち込む。
●煩累の大人(わずらひのうし)の神。自分の主張を相手と情緒感情も含め心に響き同調して知るように振る舞う。
●道俣(ちまた)の神。自分の主張を相手と同じ客体、結論へと向かい、また、同じ分岐点にいたとする。
●飽咋の大人(あきぐひのうし)の神。そして基本的な主張の構成法が相手と同じとする。
人の心はころころ変わりますから幾らでもこのようなことは出来ます。なぜそんなことが可能なのかを手纏(たまき)を棄てることによってクリアしていきます。
手纏(たまき)は手に巻きつくで、手は探し選択することを意味します。
そこで、動的な視点は目標対象客体と関係するのに自らが動いていて、相手を探し選択して客体を独占したくなり、相手にまとい付く(たまき)ことになります。
●奥疎(おきさかる)の神は、途上(現在位置)にいる自分のものを対象客体の始めへ持ち込みまとい付かせることになるでしょう。
あるいは自分を主張しようと途中を飛ばして物事の発端に無理にまとい、結び付こうすることでしょう。
●辺疎(へさかる)の神は、途上(現在位置)にいる自分のものを対象客体の終わりへ持ち込みまとい付かせることになるでしょう。
あるいは自分を主張しようと途中を飛ばして物事の終端に無理にまとい、結び着こうとすることでしょう。
こうしたまとい付きを起こさない為には、
現在途上にある自分の主張を出発点(奥、起き)に戻し(疎さかる、離す)、または相手側の受け取り方を自分の出発点に引き戻することになります。出発地点に戻って父韻の順を踏んでいるかを検討することになる。(自分の上がった土俵は何房の元からか)
それは同時に、現在途上にある自分の主張を終着点(辺、端へ)に戻し(疎さかる、離す)、または相手側の受け取り方を自分の終着点に引導することになります。終端に行って父韻の順を踏んでいるかを検討することになる。(退出は何房からか)