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この三柱の神は、みな独神(ひりとがみ)に成りまして、身を隠したまひき。
この三柱の神とは天の御中主の神、高御産巣日の神、神産巣日の神三神のことです。独神とは独立神という事で、他の実在に依存することなく、それだけで一つの界層、或いは次元を成している、という事です。例えば言霊ウの宇宙より発現してくる人間の五官感覚に基づく欲望性能というものは、他の言霊オの経験知や言霊アの感情性能に頼ることなくそれ自体で活動します。
身を隠したまひき、とは三神はみな心の先天構造を構成している神で、意識で捉えることが出来ないものです。そこで自らの身を隠している、即ち現実の現象界には姿を現すことがない、という意味であります。この説明で納得なされば、それで事は済みます。けれど中々そう行かない場合がありますので、例を引いて説明しましょう。
高御産巣日の神・言霊アは主体であり、私であります。神産巣日の神・言霊ワは客体であり、貴方です。と言いますと、「私といい、貴方という人間は現実に意識で捉えられるではないか。先天の実在であるというのは変だ」と思われる方もあるかと存じます。誠にもっともな事ではありますが、此処でもう少し考えてみましょう。今、此処に立っている私と言えば、右手で今日の朝刊の新聞を持ち、居間で窓を通して外を眺め、まだ起きたばかりで半分眠そうな眼をして、今日の日曜日は何処か空気のよい処へでも出かけて行き、帰りには久しぶりに美味しい夕食でも食べようかな、と思っている私です。一時間後の私は、会社から緊急の電話がかかり、血相を変えて急いで出勤のために背広に着替えているかも知れません。これも私である訳です。となると、どれが私なのでしょうか。この様に私自体という存在は捉えようがなくなります。捉えられる私とは、その時、その場の私というものの現象なのであって、私自体とは言い得ません。私自体とは人間が意識で捉えることが出来ないもの、つまりは人が意識で自分と思っているものの奥に直観で「自分自体」と見なしているもの、または、宗教行為によって直観乃至内観する「何か」でなければならない、という事になります。五官感覚で捉える現象としての「私」だけを私だと思っている限り、私という存在は私にとって永遠の謎のまま終ってしまう事となります。「真実の私とは何であるのか」と問い直して見る時、そこに壮大で、華麗で、厳密な言霊学の扉が開かれる事となるのであります。
心の宇宙の中に言霊ウ、ア、ワの宇宙が剖判して来る状況を図で示しますと、左の如くになります。この剖判の理論上の説明は今までお話して来た事で済むのですが、人の心はこの剖判の過程をどの様に内観することが出来るのか、はまた別の話となります。勉学する人の実際の体験を次にお話することにしましょう。御参考になれば幸いであります。
勉学者が古事記のいう「天地の初発の時」を現実に心で体験するための二つの方法、即ち自力と他力について前号でお話いたしました。今回も自力の反省から説明を始めます。人間は心の宇宙から生れ、宇宙の中で育ち、死ねば宇宙に帰って行きます。宇宙と人間は切っても切れない関係にあります。ですからここに「天地の初発」即ち心の宇宙自体を殊更に見、自覚しようとすることは奇妙な事なのです。宇宙、禅でいう「空」を見ようとすることを禅は「屋上屋を架す」と言って警しめています。四六時中宇宙の中で生きているのに、その上にまた宇宙というものを設定して、これを把握しようとすることは、今まである屋根の上に更に屋根を作ろうとするものだ、という訳です。ではどうしたらよいか、と言えば、常にその中に生きていながら、それを見る事が出来ないのは、見る眼の上に人間の経験知という色眼鏡をつけているからであり、宇宙を見たいならその色眼鏡をはずせばよい、というわけです。
そこで自力信仰の反省、自分との問答が始まります。自分が生れた時から天から授かっている大自然の眼で物を見ることを妨害している自分の経験知とは何か。その自分がその時まで頼っていた経験知・癖を一つ一つ心の内で点検し、それ等が自己本来のものではなく、他からの借物である事を確認して行きます。そして最後にそれこそ自己そのものだと確信していた経験知に真正面から向き合う事となります。この経験知をも「ノー」と否定したら、自分はどうなってしまうのだろう、と不安に駆られます。この時、禅は「百尺竿頭尚一歩を進むべし」と励まします。そして更に一歩を進めた時、宇宙は「現前」します。何もない宇宙の広がりを見ます。そこに何もありません。従来の心は死に、再びの「生」は起りません。この恐ろしいような空の世界を禅は「白雲影裡笑呵々(はくうんえいりわらいかか)」とニヒルに言ってのけています。達磨大師は「郭然無聖」と言いました。「広がりのある他は何一つ有り難いものはないよ」と中国の王様の問いに答えています。そこには宇宙の無音の音が聞こえて来るばかりです。人はそこに留まるならば、永遠のニヒリズムがあるのみとなるでしょう……。これが宇宙なのです。
人が自らの内に積んだ経験知識、性癖を、それは借り物であり、本来の自分ではないと「ノー」と否定して行き、その否定の末に大自然そのものに辿り着きます。そこは禅で「世界壊(ゑ)する時、渠朽(かれく)ちず」と言った冷厳透徹した無味無音の世界です。人間の愛、慈悲、温かさ、有難さなど一つもない世界です。それ等の人間らしさが現れるのは、人の精神反省の修行過程としては、もっと後の事なのであります。
イエス・キリストは死んで三日目に蘇った、と聖書にあります。イエスは右に述べました如く精神的に死んだのです。肉体的に死んだのではありません。人は自らの本来の生の根源宇宙に帰った時、暫し茫然として何することの気も起きなくなります。それを死と呼んだのです。やがて(人により時間に差はあるでしょうが)冷徹し切った心の中に何かが芽生えます。それは何の変哲もない、いとも当然の事が起ります。例えば「腹が減ったな」です。何もない心の宇宙に何か、即ち「空腹感」が、言霊ウ、やがてそれが自己意識となり、欲望となる意識の芽が生れます。
次に「何か食べるものはないか」と捜します。冷蔵庫の中に古くなった一片のパンを見つけました。夢中でそのパンを齧りました。その美味しい事。普段なら干乾びていて捨ててしまうであろうその一片のパンの美味しい事。この時です。人の心に愛、慈悲、そして生きることの無限の有難さ、身も震えるような真底から込上げてくる感謝の心が湧いて来るのは。今まで自分が自由気侭(きまま)に生きて来たと思っていた自分が、実は大きな大きな力によって生かされていたのだと気付くのです。身勝手で一人善がりの小さい小さい自分が、大きな力によって生かされて来た事を何の理屈もなく知ることとなります。聖書は「今よりは我生きるに非ず、イエス・キリスト我が内にありて生きるなり」の使徒パウロの言葉を伝えています。人は再び蘇ったのです。生れ変わったのです。
先に図で示しましたように「天地」の何もない広い宇宙の存在を知り、その「初発の時」として言霊ウの芽生えを自己の心中に確認し、次に愛と慈悲の心に生かされている宇宙の子としての自己、主体としての自己である言霊アとその対象となる言霊ワの存在を知る心の旅路の過程は以上のようなものであります。
自己は限りなく小さいもの、その限りなく小さい者であるが故に、限りなく大きな力、宇宙の力によって生かされているもの、そして限りなく小さいが故に、それが何かをしようとする処は常に大きな宇宙の中心に存在し、大きな宇宙より授かった知性を以て、自己である言霊アより対象となるあらゆる客観に天の浮橋なる橋をわたして次々と「問い」を発し、世界人類の文明を創造して行くことが出来る掛替えのない尊い生命であることを知ります。この文明創造の尊い生命の問いの光、聖書はこれを「日月の照すを要せず、神の栄光これを照らし、恙羊(こひつじ)はその燈火なり」と讃えています。
上の自力信仰による心の宇宙の自覚から言霊ウ、ア、ワの剖判に到る過程を他力信仰の立場から説明することにしましょう。自己の他人、身内または社会に対する行為について矛盾を感じ、迷い、苦しみから脱却する道として他力信仰の道に入ります。自らの一人善がり、我侭な行為にもかかわらず、自分を生かし、守っていて下さる大きな力(例えば阿彌陀様)に帰依し、感謝の念で世の中を暮らさせて頂こうと思います。苦しくとも、どんなに辛くとも、大きな力に感謝し続けようと努力します。「善人なおもて往生をとぐ、まして悪人をや」の悪人正機を信じて信仰に励みます。けれど己が煩悩は次から次へと湧き出るが如く現れて、我が身を嘖なみます。自分自身でも呆れる程の煩悩に終には「煩悩具足の凡夫、地獄は一定住家ぞかし」の絶望が訪れます。どんなに佛に縋(すが)ろうとも、地獄の底に這い回っているより他にはない自分だと知ります。それは心も凍るような冷厳な事実として自我が打ち砕かれる時です。自己の罪の重さに手も足も出なくなったのです。如何に神仏に縋り、祈ろうとも助かる事のない自分だと知ります。地獄の底の底にただかすかに息をしている自分を発見します。この息をするのだけが許されている事がこの世の中に生きている印(しるし)であると知ります。
この時、耳もとで大きな念仏の称名の声が聞こえて来ます。それは助かりたくて称えて来た念仏ではなく、決して助かる見込みのない自分の代わりに、阿彌陀様が地獄の底まで下りて来て下さり、自分の代わりに自分の口を使って称えて下さる念仏なのだ、と知ります。助かり度いという気持ちが消えて、しかも自然に両掌を合わせ、南無阿彌陀仏を称えている自分を発見することとなります。自我意識の自我ではなく、生れたばかりの本来の自己に帰った事を知ります。この純粋信仰を親鸞上人は「佛より賜わりたる信心」と呼びました。
以上が他力信仰による自己の内に見る宇宙―言霊ウ・ア・ワの剖判の過程です。自力・他力どちらに頼るにしても、広い大自然の心の宇宙から言霊ウ・ア・ワの宇宙剖判の事実を自己心中に確認すること、即ち「天地の初発の時」に成り出でる造化三神、天の御中主の神、高御産巣日の神、神産巣日の神を心の内に見極めるならば、勉学者の言霊学に於ける無限の創造の土台が築かれた事になる、と言う事が出来ましょう。
宇宙より造化三神、言霊ウ、ア、ワが生れ出て来る自覚の心理過程を宇宙、言霊ウ、ア、ワの区切りが理解し易いよう説明しました。勉学者それぞれその心理過程の体験は画一的ではない筈です。この説明を参考にお考え下されば幸いであります。
古事記の文章を先に進めることにしましょう。