所有とおのれの心の締まり ① 。これ淤能碁呂島(おのごろしま)なり。
前文。
いろいろと思いがあっちこっちに飛んでいきます。尖閣の記事を読んでいたら所有とは何だろうかと思うようになりました。
辞書には所有とは、
自分の物として持つこと。また、そのもの、とあります。
ぜんぜんおもしろくない解説ですが、所有は人間の基本的な様態ですからいろいろなおもしろい形があります。
アメリカはイラクが大量殺戮兵器を所有してるとして潰しにかかりました。偽情報か故意の不正な情報を所有していた。
泥棒は勝手に盗んだあと自分の所有物として、競馬で全部すってしまいます。手段は関係なし、遊ぶ金が欲しい。
力の強い子は気に入った他人のおもちゃを見てこれは僕のものだとして取り上げます。子供に限らず歴史でも普通の世界だが、こうして取り上げると異常に見えてくる。
死後の魂はこうこうこういうものとしてあるという概念の所有を大切にしてその前に這いつくばる人もいます。洗脳されているのか、自らのめり込んだのか、宗教だけに限らない。
偉い人、権威と言われている人に付き、その笠を着てお前の意見は駄目だと頑固に主張、権威を所有することだけを頼りに自分を正当化します。自分には何も無いのにとても強力です。
早喰い競争では喰いあげた皿や丼の数がその人の所有物です。結果の取り入れ方が特殊ですがよくあること。
等々、どれでも中国の尖閣主張に当てはまるでしょう。
尖閣と言う名前も無い大昔には、島も大陸も地球が「 自分の物として持つこと。また、そのもの、」としていました。あるいはアホウドリが、かもしれません。
その島は人が所有意識を持たず単なる使用に付していただけの良き時代もありました。
島であろうと大陸であろうと昔からこの地球に備わっていたから、発見できたのです。個人団体国家から離れてあった物です。
これは飛躍した考えのように聞こえますが、現代は空気、宇宙、水、気象、インターネット等々幾らでも国家から離れて前人類的なものと言う意識が拡がっている分野はあります。
経済分野も人の権利とか自由との精神分野もスポーツも全人類の次元で考えるようになっているではありませんか。情報、経済統合などどんどん地球単位と言う言葉が浸透しています。
保険金殺人とか資本金融保険関係などは人が金を所有するというより、金が人を所有するようなものですが、既に昔から金の奴隷という言葉が浸透しています。
そんな中で相変わらず、これはわたしの物であなたの物じゃないといっているわけです。
所有の有無にはいろいろな解決法があります。
伝統的な普通のやり方は、拳骨や兵器武力や後ろにある影の力を見せつけることによって所有を主張することです。殺してでも奪うことです。
現代での普通のやり方は金で買うことです。インクの染み込んだ紙ですが、インクの匂いが嫌いな人には信用で買うこともできます。
所有は歴史の原動力みたいなものです。智恵があれば、そういった感覚的な力、破壊力を分析整理して繋げることでそれらの関係の中から自分の智恵の出所を見つけるでしょう。欲しい欲しいの欲望を概念とか契約にしていきます。しかし、智恵となった概念だけで所有していると竹島のようになります。
さて、所有に関する前書きが長くなりました。
この後は古事記の内容を頼りとして所有とは何かを見ていきたい。
といっても、古事記の冒頭を繰り返すだけです。
所有の心内での出来事ですので、所有の現象形態を直接うんぬんしません。
-------------------------
持つ。もつ。もち。
所有は漢語ですから、大和に書き換えると「もつ、もち」というのが適当かと思われます。
相変わらずわたしも無知で「持つ」なんて言葉を調べたこともありません。辞書を引いても持つは持つこと以上の解説はなさそうなので、万葉集とか古事記に「もつ」を探しました。そこで見つけたのが、万葉集巻頭の歌です。
籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち この丘に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家聞かな 名告(なの)らさね そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて われこそ居(お)れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告(の)らめ 家をも名をも
。
籠(かご)よ 美しい籠を持ち 箆(ヘラ)よ 美しい箆を手に持ち この丘で菜を摘む乙女よ 君はどこの家の娘なの? 名はなんと言うの? この、そらみつ大和の国は、すべて僕が治めているんだよ 僕こそ名乗ろう 家柄も名も
…………………………………………………………………………………………………
歌の解は、
俗に天皇の求婚ナンパの歌といわれているらしい。言霊学で解せるかやってみよう。
籠はこの世の判断理解を刈り入れておくもので、その美しい籠を誇っている人がいます。
その判断は、カゴメの正反合、▽△の判断でそれを用いて、主客を行き来していますが、
丘は判断の動因が行き来する場所で、言葉の繰り返しを行き来ととらえています。
そんなところで、あなたがへら、小刀で片刃、を使ってやって、家、五重、人生、人の世のことを捕らえようとしていますが、
現象を、菜を摘むは現象を把握すること、摘むことも、人間世界のことも、物に名を与えることも、理解出来ませんよ。
そうではなく、ここで家がダブりこちら側に移り、人の世とその道理のことになる、
先天(そら)から見られ現れた(みつ)現象世界の現れ、大和の国は、この世は五十の言霊からなっているので、わたしの持っているフトマニ原理によってしか解することはできません。このフトマニ原理が世界を創造し世界に名を与えたのです。
となります。
ここでの持つは単なる用例です。
古事記から。
古事記の神名に、もつ、もち、がありますが、言霊モ が配当されているのは、木の神名は久久能智の神(くくのちのかみ)です。
ここから「もつ」を割り出してみましょう。うまくいけばのことですが。
「も」は言葉が発せられ空中を飛んで相手に到達する前の姿で、木の神名は久久能智の神
で示されています。
木は気、霊で、久久能智は久しく久しく能く智を保っているです。
発音された空中を飛んでいるときの言葉は、音波ですが、空気の振動濃淡で音がしているわけでも、何か意味があるわけでもありません。単なる無音の音波の伝搬です。目で見る文字も無色彩の光波です。
それなのにそこに了解が成り立つのは、発出側と受容側に共有された共感があるからです。それが先天的な母音行と父韻です。この両者のシンクロによって現象が明らかとなります。
そこで主体側でも客体側でも無く途中の物象化された物の意識に古事記は「言霊モ」を配当しました。発信側からすれば、発信側の全部が乗っていて、受信側からすればシンクロした全部が受け取れるのです。また、モ自身からすれば、久しく久しくどこまでも発信側の意識を保持していくというわけです。
そこから「モ」には保持、持続してことに関する、茂、盛る、森、燃え、萌え等の発展する感じが配当されています。
この「モ」が相手に到達する姿が、モが達して、もつになり、発信側か受信側に保持されている姿が、もち、になります。
ということで、所有は発信側、その途中、受信側の三様に見ることになります。
続く、かどうか、??
所有とおのれの心の締まり ➁ 。これ淤能碁呂島(おのごろしま)なり。
おもしろい文章を見つけました。
「 自我意識
自我意識というのは厚い。自分はこうだと思い込んでいる。思い込んでいるから揺ぎ無い。もし、着ている物に染みがついていますよ、と注意されれば、礼を言ってクリーニングしなければと思う。だが、心の中のことを指摘されると憤慨してしまう。それは人格が否定されたように受け取るからだ。」
文章でも同じことが起きる。コメント欄にわたしはこうですよと単に誰かが自分の意見を載せただけで、本文を否定されたような気が起きる。これらに同意肯定しようと否定反発しようと、そこには火花が散る。
さてさて、所有を現実の問題としてみていくと目眩がする。そこで前回なんとかしようと、「もち、もつ」を持ちだしそれを所有の和語とした。そこで「も」という語幹を古事記に明らかにしてもらった。
「モ」の内容は一端、物象的な物に変換されます。言葉なれば空気振動に、財物なれば物意識に、精神なれば概念に、といった具合にです。そこでその前後、言霊 フモハ 、を見ると、
言霊フ 風の神名は志那都比古(しなつひこ)の神
志那都比古とは先天活動の意図(志)がすべて(那)言葉となって活動している実体(神)と言った意味です。心は言葉に乗って何処までも活動します。言霊フモハヌは空中(外界)を飛ぶ言葉の内容でありますので、風・木・山・野の神と自然物の名が附けられています。風の神の風は人の息(いき)のことでありましょう。フとはその心、その言葉の内容を意味します。
言霊モ 木の神名は久久能智(くくのち)の神
久久能智とは久しく久しく能(よ)く智を持ち続けるの意。人が発声した言葉はそれ以後人との関係がなくなる、という訳ではありません。心はその言葉に乗って何処までも影響力を持ち続けます。木の神の木は気(き)、霊(ひ)の意。空中を飛んでいる言葉は気、霊を宿(やど)している事を示しています。
言霊ハ 山の神名は大山津見(おおやまつみ)の神
山の神、また大山津見の山とは八間(やま)の意です。言霊八父韻チイキミシリヒニが発現する姿を図示しますと■となります。この図の八つの間に一つずつ父韻が入ります。またその図の平面の中央を面より直角に引き上げますと山の形となります。先天の意図が津島でイメージ化され、佐渡の島で音声と結ばれ、そして渡(わた)され現われ(津見)たものが言霊ハの言葉だという訳です。父韻ヒは「物事の表現が心の宇宙の表面に完成する韻」と説明されます。その実現の姿が言葉です。
という順になり、イメージ内容に音声が結ばれ、発声されます。発声された言葉は次に空中を飛び、聞く人の耳に入り、復誦、検討され、その内容が了解され、そこで先天の意図が達成され、となっていきます。
所有を物と考えているひとはここに、物を置き換え、思考概念と考えているひとは概念を適用すればいいわけです。
中国が突如尖閣の領有を主張することは同様に、アメリカがここは爆撃訓練用に使用するためアメリカ領とすると宣言しても同じことです。当然わたしがここは日本ではなくわたしの庭だと言っても同じ論理です。
もちろん言霊循環の途中ですからここから結論まではまだ先の話ですが、実際の歴史社会では、幾らでも途中の段階から結論を引き出し自分の物だと主張してきました。
それは客観的な証拠があろうと無かろうと、言霊循環を都合のよい処で止めた上での結論ですので、客観性などいくらも力の無いものとなっていきます。
それじゃどうするのかいわれると、わたしが自分の庭だと主張する分には解決の方法はありますが、数カ国の国家エゴがからまるので、そんなことはアホウドリに聞けと言っておきます。
---------------------------
言霊 モ 木の神名は久久能智の神(くくのちのかみ)と所有に関して、メモ程度に。
自分よりも大きな存在の前では、わたしは無だ、なんとちっぽけな存在だと感じることがあります。自分に所有しているものはなく、その反対の感じを得ます。
ところがそれを欲望に当てはめて、自分の大きな大きな欲望としてその前では、自分はちっぽけとは思いません。青年よ大志を抱け、大いなる意志と欲望を持ち設定しろ、願いは大きいものを所有しているほど良いものだ、などと踊らされて、欲望の大きさが自分と同一視されています。
この両者の違いはどうしてでしょうか。
個人を超えた偉大な存在の前でわたしはどうなってしまうでしょうか。
御来光を前にしたわたし、愛する人に出会ったときのわたし、神々しい経験をさせられた時のわたし、絵画文学等で生きる目標を与えられた時のわたし、等々は「わたしはなぜ存在するのか、教えてGoo !」の回答者たちの範囲を超えています。
これらに共通しているのは、乱暴に言ってしまえば、わたしはいない、存在しない、わたしには何も無い、所有していないです。
ところが欲望はその大きさこそが自分だと言い張るわけです。
そこで、身体も、感覚も、心も、現実にあるものだから芸術家、宗教家達はいるといない、あるとないの間でいろいろと苦しんでいきます。それを超えるのが悟りとか神の恩寵とかを得ることになりますが、宗教家の個人の感情を解決しただけで、社会性はありません。
今回はちょっと怪しい雰囲気になりそうです。芸術家宗教家の経験した次元から語るのではなく、単なる経験知識からの想像で語ろうとするものだからです。
要するに一切価値のない駄文になりそうということです。
それでも人はなんとか期待を持つものですね。そこが問題です。
そこにいるのがイザナギの大神でしょう。生きる意志、生かされてる意思ということでしょう。イザナギさん、いつか見つけたら酒でも酌み交わそう。
般若心経というお経があります。無い無い何にも無い、無いというのも無いといった、無茶苦茶なお経です。誰もお釈迦様の次元に行ったことが無いくせに、坊主だから、学者だから、智恵があるから、関心があるから、悟りたいから、知りたいからと、それぞれ勝手な解釈をしています。
このお経は無い無い、欲望も感覚も考えも感情も知識も記憶も行動もないと言っていますが、それらのきっかけを創る意思の動因も無いとは言っていないのです。つまり、空というのもそこまで止まり、あるいはそこから始まるもののようです。
最後に言われているギャテー、ギャテーも本場に行かないと分からない言葉ですが、「成し得て終わった」という意味らしい。つまり、意思の動因から以降のものは現実となり現象として、あったり無かったりふにゃふにゃだが、現象実体となったものであり、ハーラギャテー、それが彼岸となって明らかになり、ハーラソーギャテー、全て明瞭な現実となり、ボージソワカ、それがそのまま真理である、となるようです。
始めに色を出したので、最後も色でくくったということです。
メロンを食べたいという次元では色即是空だなんて、通用しません。所有し食べてしまえば色即是空です。
次のメロンの経験知識の次元では、もともと概念ですので、食べられたものではありません。でも知識欲にはきりがありません。所有が所有を呼び楽しみが増えます。
ついで、メロンを見たり思ったりしていく中でメロンへの感情が出てくる次元があります。もちろん感情は食べられせずまた知識も超えてます。所有してなくても所有した気分が味わえます。
般若心経はここまでの三つの次元の扱いを説明した後に、それらを全部活かした活用はどうすべきかを暗示しているようです。
答えはお経を聞いたものが各自で作り出していくのですが、ボージソワカ、それがそのまま真理である、というのがヒントらしい。
これは、感覚として見せることも、知的に教えることも、感情になって呼び覚ますこともできない世界なので、それ以上言うことは無いということでしょう。
欲望感覚、経験知識、感情につづく心の世界はイエウオアの五次元世界からすれば、まだエ次元の世界とイ次元の世界があります。わたしの参考としている元本にそう書いてあるので真似ているので、実際にわたしが経験している世界ではありません。だからわたしの言うことは怪しいです。
しかし、そんな事を幾ら続けても上の次元に行くことはままならないのは当然のことです。ただこうして燈火を消さないようにしていくだけです。単純にハイヤーセルフとか超意識とか守護霊だとかを出してきて、魂の成長とかこの世とあの世での次元上昇とかを得るために金をかける積もりはありません。
現代は最も金のかからない自省反省にも、いろいろな、手法だとかセミナー集会、器具、薬品を売りつける商売が流行っているようです。それでも禅坊主顔負けの幻覚と「見えない存在」との接触に新鮮さがあるのか、高次元だ異次元だと踊らされて、成長進歩と思っているようです。ついでに願望が実現して御利益があるとなれば廃れるはずがなく、高次元への精神の成長は立派な商売種となっていきます。
どうせなら、早くこの世がすばらしい幸せとなるような、所有問題をパッと解決できるような、政治指導や道徳指導、宗教改革、世界の進歩の手法や薬品などが発売されないかと待ち望むところです。小乗的な悟りが蔓延するには時代の性でもあるのでしょうか。早く世界的な幸せをもたらす守護霊などもさっさと大量に発売してもらいたいところです。
魂の成長とか霊魂の次元上昇とかも大いに小乗的な意識がまといついているようです。感謝とありがとうの言葉を薦めていながら、次の段落に来ると願いが叶うとか御利益があるとかの話がよくでてきます。片足を何かに突っ込んだままのようです。わたしなんぞは両足を突っ込んだままですが、うまく立ち行かない。
ここに、他の人、他の生命、生命と感じられるものとの共鳴共感が元となっている次元があります。
次元というのは、心を解明したときに現れる階層のことで、数学とか物理学とか魂の成長とかあの世の霊の霊位だとか銀河意識の次元だとかをごちゃ混ぜにして、精神には十幾つの次元があるとか二十以上あるとかいう次元のことではありません。
人の心には五つしか次元階層はありません。あいうえお五十音図で示されるあいうえお次元の五つのことです。中国とかインドとか世界の宗教でいう五行、五大とかの成り立ちを意味する元となっていたものです。これが古代大和の世界的な発見で各地に流布されたものです。現在でも伊勢神宮の御鏡の下にある忌柱のことです。
人は元来基本的に五つの性能を授かってこの世に生れて来る。進化の順に並べると、言霊ウ(五官感覚に基づく欲望)、言霊オ(経験知)、言霊ア(感情)、言霊エ(実践英智)、言霊イ(生命意志)の五次元性能である。これ等五つの性能で全部であり、それ以外の性能はない。
所有というのもその五つの性能次元によって全く様相が違うのです。次元を交えての話はもともと通じ合わないのです。
いつも通り話が逸れていきました。
所有とおのれの心の締まり ③ 。これ淤能碁呂島(おのごろしま)なり。
所有の取り扱い方。
【 ここに詔りたまはく、「上(かみ)つ瀬は瀬速し、下(しも)つ瀬は弱し」と詔りたまひて、初めて中つ瀬に堕(い)り潜(かづ)きて、滌(すす)ぎたまふ時に、成りませる神の名は、
八十禍津日(やそまがつひ)の神。次に大禍津日(おほまがつひ)の神。
この二神(ふたはしら)は、かの穢(きたな)き繁(し)き国に到りたまひし時の汚垢(けがれ)によりて成りませる神なり。】
わたしのまだ全然理解のできない後半の、勝手に選んだページから始めてみます。理解のできない引用をするだけで終わってしまうかもしれません。
----------------------
【】上(かみ)つ瀬は瀬速し、
上つ瀬はア段、感情、宗教、芸術の生れる次元、
この次元で所有を扱うには瀬速しです。
感情で所有問題を扱うわけにはいかず、宗教的な敬虔な心で扱うことも適当でありません。また所有を芸術的に取り扱った処で何にも前進はないでしょう。
アの感情世界は、一瞬にして物事の判断をしてしまいます。所有物に美を見いだしてその美しさをうんぬんしても、所有とは何かに一切ふれることはありません。(美を所有すると言う例えはありますが。)同様に美に耽溺し、感情を注ぎ自分の生命までつぎ込んで追求しても、そゃにあるのは所有とはかけ離れた美の感情世界です。
この美の強さを逆手にとって主張をすると頑固一点張りの融通の効かない、敵どころか味方さえ離れていってしまうような、狂信的な主張になります。
また、自分だけが納得している世界ですので、基本的な要求や目標はあっても、その実現は相手の判断にゆだねることが多いので、真面目にやっているのかふざけているのか分からないという所があります。
その一方では、高尚な純粋な気持ちが見て取れますが、現実の所有に引き下げ較べてみるとなにか幼稚さも見えるという形容をされます。
それでも、確固とした自覚や悟りや信念を感じさせる世界ですので、普通に見て手のつけようがないとも形容されます。
上(かみ)つ瀬は瀬速し、です。
このようにアの次元では、所有を語り合うことは地上と雲の上とで会話をするようなものです。
------------------------
【】 下(しも)つ瀬は弱し」と詔りたまひて、
下つ瀬はイ段、人間意思の次元、言霊原理の存在する次元、
この次元で所有を扱うには瀬弱しです。
大原則である意思の実在する世界であり、それを表明している世界です。所有する意思を表明してはいるものの、たったそれだけのことです。原則は素晴らしいが、何何々とやんわりお断りされる世界です。
しかしお断りする方の世界にも原則があってのことです。このイ段の世界なしには何事も動きません。自覚するしないに関わらず、多くの場合は自覚しないでその人は付き動かれていきます。
謂わば意志して所有を成し遂げたというより、知らず知らずのうちに所有したものを意識していったというようなものです。常に命は働いているのに気がつかされる時にしか気がつかないようなものです。
イ段はまた神による命を感じる次元でもあります。光は普段あるのに光は感じないのです。光のあるときに光といっても誰も認めないようなもので、所有していて当たり前のことを言い張るようなもので、下(しも)つ瀬は弱し、ということになります。
手があるから、人指し指があるからタイピングができるなどと、なるほどと納得意見ですが、何の力強さもないか弱い意見です。
所有する意志があるから所有すると言った所で、何も言ったことにならないようなものです。
-------------------------
【】 初めて中つ瀬に堕(い)り潜(かづ)きて、滌(すす)ぎたまふ時に、
そこで感情世界、原則世界から離れてより適当な世界で所有を語れる場所を探しにかかります。
古事記は常に五十音図を語っています。上、下つ瀬はあ段の上下でした。そこに残るのは中間のオウエ段です。(注意。ここでいうア段は伊勢神宮皇室で使用されている、アオウエイです。人の自然な次元世界のことです。)
ここでは瀬に入って、潜(かづ)きて、滌(すす)ぎたまふことができました。
「 中つ瀬とはオウエから流れるオ―ヲ、ウ―ウ、エ―ヱのそれぞれの川の瀬の事であります。次元オは経験知、その社会的な活動は学問であり、次元ウは五官感覚に基づく欲望であり、その社会に於ける活動は産業・経済となります。次元エからは実践智性能が発現し、その社会的活動は政治・道徳となって現われます。共に文明の創造を担うに適した性能という事が出来ます。」
中つ瀬が三つあるように、この瀬では、三種の形容があります。それぞれ各次元に適した言葉で対応しています。
堕(い)り、入ることで、欲望次元世界に入ることで、手に入れるか入れないかが問題です。
潜(かづ)きて、数(かず)きてのことで、整理分析することで、経験知による順位付けの次元のこと。
滌(すす)ぎ、は付いたものを選んで払い落とすことで、実践のための選択智を出す次元のことです。
この三つの次元世界でなら大いに所有を語れるのではないかということです。
----------------------
ところが、
【 ここに詔りたまはく、「上(かみ)つ瀬は瀬速し、下(しも)つ瀬は弱し」と詔りたまひて、初めて中つ瀬に堕(い)り潜(かづ)きて、滌(すす)ぎたまふ時に、成りませる神の名は、
八十禍津日(やそまがつひ)の神。次に大禍津日(おほまがつひ)の神。】ということで、
この二神(ふたはしら)は、かの穢(きたな)き繁(し)き国に到りたまひし時の汚垢(けがれ)によりて成りませる神なり。】
中つ瀬は三次元に分かれていますが、そこから二神が生れます。どういうことでしょう。しかも、災い、禍、災厄です。
中つ瀬での行為は、
堕(い)り、、、ウ段、
潜(かづ)きて、、、オ段、
滌(すす)ぎ、、、エ段、
で、各次元においては、普通の通常のあり前のことです。
問題はこの当たり前のことは即災厄であることを知れとなります。汝、自身を知れ、です。
そこで普通に、
欲望を満たすために飲んで食べ金を欲しがって所有してという行為が、あるいは、
勉強して知識を得ようと研究して、それを発表してという行為が、あるいはまた、
智恵を出して善悪を判断していると思ったり、将来へ導いて行ける正しい判断としたり、
等々ということが、何故、「禍」であり、と同時に「津日、日に向かい渡していく」ことになるのかを知ることになります。
この後には、【 この二神(ふたはしら)は、かの穢(きたな)き繁(し)き国に到りたまひし時の汚垢(けがれ)によりて成りませる神なり。】ということまで書かれています。
当然のことが、汚いことといわれますが、ここは禊ぎの段落ですから、さらにその後ではすくい上げる事が待っています。それにしてもまず、「かの穢(きたな)き繁(し)き国に到りたまひし時の汚垢(けがれ)によりて成りませる」の通常の意味を得なければなりません。
「気田なしが繁盛している国に至りたまひしときの気枯れによりてできた」ということですが、人の精神、社会行為等が全員の幸せを創造することのできない部分的な自己主張を実現していくだけの人間行為ということです。
しかし、ここは経験なしで語る事は難しい所です。少しでも芸術感情や宗教経験や自分を超えた偉大さを感じた事があればなんとかなりそうです。
まずは通常のなんでもない考え、行為が「汚垢(けがれ)によりて成りませる」ことを経験的に自覚しなくてはなりません。八十禍津日(やそまがつひ)の神、大禍津日(おほまがつひ)の神が災害を催す神と知った所で何にもなりません。
知ること自体が禍であることを知ることです。知識概念が指し示す内容はその後の話になります。
なにしろ人の精神原理を禊ぎし直すというのですか、私どもにはそう簡単に手が出るものではありません。滝にあたるか風呂に入るかがせいぜいでしょう。でもそんなことも言ってられないので、やってみましょう。
汝自身を知れ、
汝の八十禍津日(やそまがつひ)、大禍津日(おほまがつひ)を知れ、です。
前者は、神の真似事はやめて自分の分際に居なさいという、知っていることを相手としたものです。
後者は、次回です。
引用、参考は以下から。
http://homepage2.nifty.com/studio-hearty/kototama_ver.1/lecture/no178/no178.htm
所有とおのれの心の締まり ④ 。これ淤能碁呂島(おのごろしま)なり。
八十禍津日(やそまがつひ)の神。次に大禍津日(おほまがつひ)の神。
人はそれぞれその基準や原則を持って生きています。確かに意識はしていないかもしれませんが、行動と考えの隠れた基礎が存在します。
五十音図は精神要素の五十の実在のことですが、その運用使用、動きの五十音が無くては機能しません。そこで、五十音図を上下に二つ重ねて、実在とその動きをもって人間精神全体を現します。(上下のお供え餅です。)
その上下は、自覚側と無自覚側、天国高天原と地獄黄泉国、等々対立したものの象徴となっていきます。
百音図は 50+50の100 ですが、(古事記冒頭の三貴子までで100神のこと。)、両側母音行を抜くと80です。要するに先天的にもある人間性能の先天世界を除くと、人間の現象世界の全ての象徴となります。
八十とはここに居るわたしであり、あなたである全てです。わたしでありあなたである生きた姿、現象となって動くわたしでありあなたです。
ですので字面に見る、禍、災厄を示すのではなく、わたしであり、あなたであることがそのまま禍、災厄となることで、全てがそうなるのですから、善悪とか良い悪いとかの区別はありません。ましてや厄除けにお願いにあがる神でもありません。
私たちがすることなすこと考えることがそのまま禍となる、その構造を掴むことです。ただし、相手に禍を与えるとか、禍を与えないようにするにはどうするかといったものでもありません。人間の本性となっている精神原理を洗い直す禊ぎの章でのことです、ああでなければこうだといった内容ではありません。
例えば、カレーを食べて食欲が満たされ満足する、勉強して知識を得て嬉しい、といった普通のことに内在している禍による自分の行動を禊ぎすることです。カレーを食べて満足することも、知識を得ることも一切否定しないことです。しかし、それは「禍(まが)」である構造を知ることです。
仏教なら執着するな、という所でしょうか。宗教は執着は人の性であることを認めていながら捨て去れといいます。執着する所を捨て去ったら社会は成り立ってきません。社会から隠れた所でウンウンと力むなら社会へ向けて何もメッセージを発しないことです。一人でやり一人でしかできないのがもともと宗教です。余計な混乱の原因は作ってほしくありません。
そこで当然フトマニ言霊学の出番となります。とはいっても現在は誰もこの出番を受け持つ人はいません。古事記とその象徴物が残され勉強の機会が与えられているだけです。
そこで古事記の真の解説をしたもの( 一言メッセージ欄に住所あり)からまずは引用をしておきます。
「 八十禍津日の神
人は言霊アの次元に視点を置きますと、物事の実相が最もよく見えるものです。そこで信仰的愛の感情や芸術的美的感情が迸出して来ます。その感情は個人的な豊かな生活には欠かせないものです。けれどこの感情を以て諸文化を統合して人類全体の文明創造をするには自由奔放すぎて役に立ちません。危険ですらあります。禊祓の実践には不適当(禍[まが])という事となります。
けれどこの性能により物事の実相を明らかにすることは禊祓の下準備としては欠く事は出来ません。八十禍津日の神の禍津日とはこの間の事情を明らかにした言葉なのです。禍ではあるが、それによって黄泉国の文化を聖なる世界文明(日)に渡して行く(津)働きがあるという意味であります。以上の意味によって禊祓に於ける上つ瀬言霊アの役割が決定されたのです。
では八十禍津日の八十(やそ)は何を示すのでしょうか。図をご覧下さい。菅麻(すがそ)音図を上下にとった百音図です。上の五十音図は言霊五十音によって人間の精神構造を表わしました。言霊によって自覚された心の構造を表わす高天原人間の構造です。
下の五十音図は何を示すのでしょう。これは現代の人間の心の構造を示しています。元来人間はこの世に生まれて来た時から既に救われている神の子、仏の子である人間です。けれどその自覚がありません。旧約聖書創世記の「アダムとイヴが禁断の実を食べた事によりエデンの園から追い出された」とある如く、人本来の天与の判断力の智恵を忘れ、自らの経験知によって物事を考えるようになりました。経験知は人ごとに違います。その為、物事を見る眼も人ごとに違います。実相とは違う虚相が生じます。黄泉国の文化を摂取し、人類文明を創造する為には実相と同時に虚相をも知らなければなりません。そこで上下二段の五十音図が出来上がるのです。
合計百音図が出来ますが、その音図に向かい最右の母音十音と最左の半母音の十音は現象とはならない音でありますので、これを除きますと、残り八十音を得ます。この八十音が現象である実相、虚相を示す八十音であります。これが八十禍津日の八十の意味です。言霊母音アの視点からはこの八十音の実相と虚相をはっきりと見極める事が出来ます。
この八十相を見極めることは禊祓にとって必要欠く可からざる準備活動です。けれどそれを見極めたからと言って、禊祓が叶う訳ではありません。そこで八十禍と禍の字が神名に附される事になります。
古事記が八十禍津日の神に於て人間の境遇をアオウエイ五段階を上下にとった十段階で説く所を、仏教では六道輪廻の教えとして説明しています。それを敷衍して図の如く書く事が出来ます。」 、
http://homepage2.nifty.com/studio-hearty/kototama_ver.1/lecture/no178/rokudo_rinne.gif
非常に難しい説明です。世界文明文化の運営に関わるスメラミコトの立場での解説ですからこうなるのでしょう。皇室の人たちはどこまで理解していることでしょうか。
わたしは日常生活のカレーライスに置き換えてやってみます。
カレーの肉の塊はどれぼど大きくてもいいが、人参は小さくしないと駄目だ、タマネギは形の無くなるほど煮ること等々、何時の間にか自分なりの好き嫌いの原則が出来ています。そこでカレーを食べていながら自分に沿った原則が出てくるとします。
人参が大きいのでその赤い色が派手すぎて、それにタマネギも塊が目に付き過ぎ、肉の存在感が見えないとかの感想があるとします。材料の配色、大小など個人的な趣向の範囲なのにまるでその感覚に沿っていなとおいしいカレーでないようにいいます。
その人の思う通りに作つくらていれば、その人にとっならカレーへの思いがさらに豊かになり美的になっていくことでしょう。それがこうじていけば、何々はこうしなければいけないなどと厳密ささえ要求するようになっています。そういった例は年齢を問わず幾らでもあります。
感情的な趣向によって判断左右するのは極普通のことです。頑固親父のいうことを理解するのは骨が折れます。そういった趣向はある人にだけあるのではなく、全員が持っています。それらの要素として現れる場合と、その動きとして現れる場合があるでしょう。
そしてそれらを総合して見ていけば上下の五十音図は埋まり、その現象は八十を基本として成り立ちを示します。
それらは人の基本的な性能としてもあるので、どれが良い悪いと言うことはできません。個人を抜き出して話をさせれば何だかんだと感情をこじらせてまで言い合うことになりますが、相対的には当然なことです。
ここに自然に成立していく「禍、まが」があります。感情をこじらせ喧嘩までしても、この多様性がカレー文化を創造していきます。この文章は、お好きな言葉をカレーの代わりに言い換えてください。
つまり禍、まがをうむにも関わらず創造的な文化文明の光(日)を創造してそれに常にバトンタッチしていることを、八十禍津日といいます。決して災厄という意味ではありません。
知識を覚えることも同様です。覚え得た知識による交流交換による対話論議など、その数分後の世界は悲惨です。得た知識による満足充実感はどこへやら、罵詈雑言、罵倒の世界が出現していきます。もちろん常にそういうことではありませんが、協調共感する思いを持ち合うことになっても、そこにはあの人のいうことはあそこまで、わたしならここまで、等の比較対比による順位判断から逃れられません。
知識次元での禍、まが、です。知識による他の人への人格判断はほんのすぐ先に控えていて、口に出すやいなや決裂です。しかしその御蔭で知識、科学文明の世界は発展してきました。その現れはいかに儲けるために搾取できるか、いかに大量に殺せるか、いかに自分を上位にできるかと、等となっています。ここにも八十禍津日(やそまがつひ)の神さまです。
カレーの知識の話を持ち込むとくどくなるので止めときます。このように禍の所有には両面があることになります。
八十は人の現象世界の全体のことですが、誰にも全体を見るめは持っていません。ただし頭の数だけ集めるのを全体とするなら、一人一人違うのですからもともと全体を見ることなど無理な話となります。
しかし人の性能から見ていくのなら違います。人には五つの次元にしか係われないし、人の思惟意識を働かす原動因は八つしかないのです。こういうことを言えば疑う人が当然います。数千万単位の人が疑うでしょう。八つのわけないだろうと。
では、ここで疑う人たちの心の動きを見てみましょう。
八つじゃない各人一人一人が違うのだという人がいます。
ある人は、考えるということは全員が共通だが、各人がそれぞれ自分の意見を言うのだ、とし、
ある人は、違うことを考えるけれど向かうところは同じだと中心へ行く方向を見、
あるいは、既得の経験知識に近づけ関係づけようとする方向と、
逆に種々のものに結びつけようとする方向があります。
あるいは、自分の受け入れ皿に収めようとする方向と、
発展拡げようとする方向があります。
そして、受け取ったものが他の世界に結ばれようとする方向と、
自分の中で結ばれようとする方向とがあります。
これらの八つの原理に思考パターンは分類されます。
この考えの八つの動因はモーツァルトの曲のようにほんの二三秒の流れの変相となって、八百万となるだけです。
そこで今度は八つの元となる曲が八百万になるときの禍、大禍津日の神を見ていきましょう。
----------------------