泣沢女(なきさわめ)の神。その1。古事記の言霊学による「はじめ」論。
「かれ伊耶那美の神は、火の神を生みたまひしに因りて、遂に神避りたまひき。」
伊耶那美の神は火の夜芸速男(やぎはやお)の神(言霊ン)という火の神を生んだので御陰(みほと)が火傷(やけど)し、病気となり、終になくなられた、という事です。これを言霊学の教科書という精神上の事から物語るとどういう事になるでしょうか。伊耶那岐・美二神の共同作業で三十二の子音言霊が生まれ、それを神代表音文字に表わしました。ここで伊耶那美の神の仕事は一応終ったことになります。そこで美の神は高天原という精神界のドラマの役をやり終えて一先ず幕の影へ姿を隠してしまう事になった、という訳であります。
「神避(かむさ)る」と言いますと、現代では単に「死ぬ」と言う事に受け取ります。古神道言霊学では決して「死」を説きません。「霊魂不滅」などと言って人の生命は永遠だ、と説く宗教もありますが、言霊学は霊魂などという極めて曖昧な意味で不死を説くわけではありません。この事は他の機会に譲りまして、では伊耶那美の神が神避ったという事は実際にどういう事であるのか、について一言申し上げます。
三十二子音の創生と神代表音文字の作製によって伊耶那美の神の分担の仕事は終りました。五十音言霊で構成された高天原精神界から退場することとなります。そして伊耶那美の神は本来の自身の責任領域である客観世界(予母都国(よもつくに))の主宰神となり、物事を自分の外(そと)に見る客観的な物質科学文明の創造の世界へ帰って行ったのであります。この時より後は、五十音言霊の整理と活用の方法の検討の仕事は伊耶那岐の神のみによって行なわれることとなります。
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小豆島(あづきじま)またの名は大野手比売(おおのでひめ)
泣沢女の神の座。また五十音言霊の音図上の整理・確認の作業の中で、八つの父韻の締めくくりの区分を小豆島(あづきじま)と言います。明らかに(あ)続いている(づ)言霊(き)の区分の意です。
大野手比売(おおのでひめ)とは大いなる(大)横に平らに展開している(野)働き(手)を秘めている(比売)の意です。八父韻は横に一列に展開しています。
菅曽音図の一番下の列、言霊イとヰとの間に展開している八つの父韻に泣沢女の神と名付けた事について今一つ説明を加えましょう。法華経の第二十五章の「観音普門品」に「梵音海潮音勝彼世間音」(ぼんおんかいちょうおんしょうひせけんおん)という言葉があります。梵音と海潮音とは彼(か)の世間で一般に使われている言葉に優(まさ)る言葉である、の意です。その梵音とは宇宙の音、即ちアオウエイの五母音の事です。また海潮音とは寄せては返す海の波の音の事で、即ちこれが言霊学で謂う八つの父韻の事です。宇宙には何の音もありません。無音です。もっと的確に言えば宇宙には無音の音が満ちているという事です。何故ならそこに人間の根本智性である八父韻の刺激が加わると、無限に現象の音を出すからです。八つの父韻は無音の母音宇宙を刺激する音ですから、泣き(鳴)騒ぐ音という事となります。父韻が先ず鳴き騒ぐ事によって、その刺激で宇宙の母音から現象音(世間音)が鳴り響き出します。梵音(母音)と海潮音(父韻)は人間の心の先天構造の音であり、その働きによって後天の現象音が現出して来ます。「勝彼世間音」と言われる所以であります。
お寺の鐘がゴーンと鳴ります。人は普通、鐘がその音を出して、人の耳がそれを聞いていると考えています。正確に言えばそうではありません。
実際には鐘は無音の振動の音波を出しているだけです。では何故人間の耳にゴーンと聞こえるのでしょうか。
種明かしをすれば、その仕掛人が人間の根本智性の韻である八つの父韻の働きです。音波という大自然界の無音の音が、人間の創造智性である八つの父韻のリズムと感応同交(シンクロナイズ)する時、初めてゴーンという現象音となって聞えるのです。
ゴーンという音を創り出す智性のヒビキは飽くまで主体である人間の側の活動なのであり、客体側のものでありません。
鐘の音を聞くという事ばかりではなく、空の七色の虹を見るのも、小川のせせらぎを聞くのも同様にその創造の主体は人間の側にあるという事であります。八つの父韻の音図上の確認の締まりを泣沢女の神という理由を御理解願えたでありましょうか。
メモ------------------------
お寺の鐘がゴーンと鳴ります。
・・・あなたの画面の上に「はじめ」と書いてあります。
・・・雨上がりの空に七色の虹が見えます。
・・・わたしは「はじめとは何か」と考えています。
人は普通、鐘がその音を出して、人の耳がそれを聞いていると考えています。
・・・人は普通、わたしが「はじめ」と書いて、あなたがそれを見て読んでいると考えています。
・・・人は普通、虹が七色に輝いていると考えています。
・・・人は普通、自分の頭で自分の言葉を使って考えている思います。
正確に言えばそうではありません。実際には鐘は無音の振動の音波を出しているだけです。
・・・正確に言えばそうではありません。実際には画面はドットの燐点を光らせているだけです。
・・・正確に言えばそうではありません。実際には七種の波長の異なる光波を出しているだけです。
・・・正確に言えばそうではありません。実際には出来ている言葉の組み替えをしているだけです。
では何故人間の耳にゴーンと聞こえ、「はじめ」と見て読み、自分の言葉を使い考えているとしているのでしょうか。
種明かしをすれば、その仕掛人が人間の根本智性の韻である八つの父韻の働きです。
音波という大自然界の無音の音が、無色の波長の違いが、意味内容も指示性も無いインクの印刷物や単なる光点の集合や音の組み合わせが、
人間の創造智性である八つの父韻のリズムと感応同交(シンクロナイズ)する時、
初めてゴーンという現象音となって、七色の虹となって、「はじめ」という文字となって、指示性や意味内容をもって、聞え見え考えられるのです。
ゴーンという音を創り出す智性のヒビキは飽くまで主体である人間の側の活動なのであり、客体側のものでありません。
「かれ伊耶那美の神は、火の神を生みたまひしに因りて、遂に神避りたまひき。」
伊耶那美の神は現象となって子という形で客観世界を創造しました。
この子はいわば純粋客体として実在を主張するが自己主張はしません。母音は息の切れるまで同じ音が続いていきます。無音の音、無色の色、空即是色として実在しているだけです。
それに色を付け現象として五感を叩き起こすのが、伊耶那美を誘う伊耶那芸です。伊耶那美が純粋客体として実在を主張はするが自己主張しないのに反して、伊耶那芸は感応仕掛け人たる純粋自己主張だけはするが、客体を持っていません。
そこで伊耶那芸は常にまぐわい・まねぎ合いを求めることになります。
泣沢女(なきさわめ)の神。その2。古事記の言霊学による「はじめ」論。
「「かれここに伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」とのりたまひて、御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらび)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神。かれその神避(かむさ)りたまひし伊耶那美の神は、出雲(いずも)の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき。」」
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「かれここに伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」とのりたまひて、」
伊耶那岐の命はその時まで高天原での創造の協同者であった伊耶那美の命を失ってしまいましたので、「わが愛する妻の伊耶那美の命を子の一木に易えてしまった」と嘆(なげ)きました。岐美二神は共同で三十二の子音を生みました。その三十二の子音を表音神代文字火の夜芸速男の神・言霊ンに表わしました。妻神を失い、その代りに一連の神代文字(一木)に変えたという事であります。
メモ----------------------------
いよいよここからイザナギが一人となって主体の確立を目指していきます。
まずはじめに、なぜここに愛情表現が入っているのでしょうか。哭(な)く、嘆く形になっています。この段までに子である現象子音を手にしています。伊耶那美の形見である子達と一緒にいなければならないのにどうしたらよいのか分からないからです。
ここからはイザナギが一人で踏み出していくべき道ですが、その未知の先にあるものは歎きの大きさによって得るものが変化するという意味にもなっています。
わたしには「はじめ」という言葉がありますが、その取っつき方への思いが大したものでなければ出来上がりもそのようになるし、心秘められたものを持っていれば後にそれは反映されるということです。精神行為の始まりに情緒芸術宗教次元の感性が大きく介入しているということと思われます。
学問学術上のはじめは大体が知識欲といわれるように、単に個人欲に終始して終わりです。
歎きの克服、客観へのア次元での感傷、ア次元をどうしたいか、青年よ大志を抱け。
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「 御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらび)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、」
五十個の言霊とその表音文字が出揃い、今はその言霊の整理・検討が行なわれているところです。その整理に当る伊耶那岐の命の行動を、妻神を失った伊耶那岐の命の悲しむ姿の謎で表わしています。御枕方と御足方とは美の命の身体をもって五十音図(菅曽音図)に譬えた表現です。
人が横になった姿を五十音図に譬えたのですから、御枕方とは音図に向って一番右(頭の方)はアオウエイの五母音となります。反対に御足方とは音図の向って最左でワヲウヱヰ五半母音のことです。そこで「御枕方に葡匐ひ御足方に葡匐ひ」とは五十音図の母音の列と半母音の列との間を行ったり、来たりすることとなります。
「哭きたまふ」とは、声を出して泣くという事から「鳴く」即ち発声してみるの意となります。
メモ----------------------------
「 御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらび)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ」、なんという大げさな泣き方でしょう。きっとこのようでなければ大成はしないということですね。腹這い這いつくばってやるということでしょう。
葡匐(はらび)はハラ+ヒで腹の霊(ひ)で腹蔵している言霊の内容という意味。
母音列の腹の霊内容をこれから探そうというわけです。
子音は客観現象となって子の形をしていますが、父母とは独立した第三者です。ここではその子を前にしてどの母とのまぐ合いで出来た子かを調べます。
子は純粋客体として実在を主張するが自己主張はできませんので、イザナギによる判定を必要としています。判定対象は全世界ですからそれこそ大変な鳴きかたとなるでしょう。それでも一応五重の世に分けることは既に成功しています。
「はじめ」とは言うけれど一体何に関しての何のはじめか。どの次元で言われてどの次元で聞いた「はじめ」かを明していきます。
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「 御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神。」
香山(かぐやま)とは言霊を一つ一つ粘土板に刻み、素焼にした埴(はに)を集めたもの、即ち香山とは「火の迦具土」と「金山」を一つにした名称。
畝尾とは一段高い畝(うね)が続いている処。母音から半母音に連なる表音文字の繋がりの事。その畝尾は五十音図では五本あります。
「その木のもと」とありますから、五母音の一番下イからヰに至る文字の連なりの事となります。涙はその一番下の畝尾に下って来ます。
一番下のイからヰに至る文字の連なりは父韻チイキミシリヒニの八韻です。この父韻が鳴りますと、その韻は母音に作用して現象子音を生みます。
父韻は泣き(鳴き)騒ぐ神です。そこで名を泣沢女(なきさわめ)の神
と呼びます。泣くのは男より女に多い事から神名に泣沢女の神と女の文字がついたのでありましょう。
メモ----------------------------
この段落はイザナギの自己主体の存在の確認です。
欲望意識、経験意識、情緒意識、実践意識、の全体的な意図意志が自分にどのように存在しているか、まずその存在を確認します。
泣沢女(なきさわめ)
な・現象に付けられるだろう名
き・気、霊、現象に付けられるだろう名前の実体を示す霊が、
さ・全体となってビンポイントに相手を探して
わ・相手客体(母音)と統合しようとする
め・芽の状態にある
イザナギの自己存在の仕方の確認は常にまぐあいの相手を求めることにあります。感応仕掛けの張本人であるイザナギは自己主張だけはしますが客体を持たないのでここが男の見せ所となりますが、喋り過ぎる男はやはり女(め)と見られています。
泣沢女(なきさわめ)の神。その3。古事記の言霊学による「はじめ」論。
「かれその神避(かむさ)りたまひし伊耶那美の神は、出雲(いずも)の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき。」
出雲とは出る雲と書きます。大空の中にむくむくと湧き出る雲と言えば、心の先天構造の中に人間の根本智性である父韻が思い出されます。
伯伎の国と言えば母なる気(木)で、アオウエイ五母音を指します。聖書で謂う生命の樹のことです。
比婆(ひば)とは霊(ひ)の葉で言霊、特に言霊子音を言います。子音は光の言葉とも言われます。
伊耶那岐の命と伊耶那美の命は協力して三十二の子音言霊を生み、子種がなくなり、高天原での仕事をやり終えた伊耶那美の命は何処に葬られているか、と申しますと、父韻と母音で作られている三十二個の子音の中に隠されて葬られているよ、という意味であります。
子音言霊が高天原から去って行った伊耶那美の神の忘れ形見または名残のもの、という事です。
メモ--------------------
伊耶那美の命は何処に葬られているか、と申しますと、父韻と母音で作られている三十二個の子音の中に隠されて葬られているよ、これを読み替えると表象され表現されたものは全世界のどこにでもいて形見として存在しているのでいつでも会えるよ、ということになる。
「はじめ」とは何かに関しては、イザナミである「はじめ」は神去り葬られてしまっていなくなったのではなく、「はじめ」という言葉に形見となって納まっています。あの世に行ってしまうとか霊魂になるとかではありません。現象や客体のある形を死と形容しているだけです。そこにはいつでも働きかけを待つ客体が存在します。
父韻チイキミシリヒニの八韻がでてきます。
これは竺紫の島の領域を構成している以下八神のことです。
宇比地邇神・妹須比地邇神 チ・イ
角杙神・妹生杙神 キ・ミ
意富斗能地神・妹大斗乃弁神 シ・リ
於母陀流神・妹阿夜訶志古泥神 ヒ・ニ
人間精神の中にはこの八神の動きしかありません。
「はじめ」とは何かというわたしの疑問はこの八神の動きとして母音の各次元に働きかけそれぞれの意味内容をもった現象として現れてきます。
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「ここに伊耶那岐の命、御佩(みはか)せる十拳の剣を抜きて、その子迦具土の神の頚(くび)を斬りたまひき。」
ここに初めて古事記の文章に剣という言葉が出て来ました。古事記のみならず、各神話や宗教書の中に出る剣とは物を斬るための道具の事ではなく、頭の中で物事の道理・性質等を検討する人間天与の判断力の事を言います。形のある剣はその表徴物であります。この判断力に三種類があり、八拳、九拳、十拳(やつか、ここのつか、とつか)の剣です。
十拳の剣の判断とはどんな判断かと申しますと次の様であります。十拳の剣とは人の握り拳(こぶし)を十個並べた長さの剣という事ですが、これは勿論比喩であります。実は物事を十数を以て分割し、検討する判断力のことです。実際にはどういう判断かと言いますと、十数とは音図の横の列がア・タカマハラナヤサ・ワの十言霊が並ぶ天津太祝詞音図(後章登場)と呼ばれる五十音図の内容である人間の精神構造を鏡として行なわれる判断の事を言います。この判断力は主として伊耶那岐の神または天照大神が用いる判断力であります。後程詳しく説明されます。
迦具土の神とは前に出ました火(ほ)の夜芸速男(やぎきやを)の神・言霊ンの別名であります。古代表音神名(かな)文字のことです。
頚(くび)を斬る、という頚とは組霊(くび)の意で、霊は言霊でありますから、
組霊(くび)とは五十音図、ここでは菅曽音図の事となります。
十拳の剣で迦具土の頚を斬ったという事は、表音神名文字を組んで作った菅曽音図を十拳の剣という人間天与の判断力で分析・検討を始めたという事になります。という事は、今までは言霊の個々について検討し、これからは菅曽音図という人間精神の全構造について、即ち人間の全人格の構造についての分析・検討が行なわれる事になるという訳であります。
メモ--------------------------------
剣・つるぎ・両刃・断ち分析と連気つるぎ総合
刀・かたな・片名・断ち分析のみ
九拳・月読命の判断力・宗教哲学の判断力
八拳・須佐男の命の判断力・科学的判断力
泣沢女(なきさわめ)の神。
かれここに伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」とのりたまひて、御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらび)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神。かれその神避(かむさ)りたまひし伊耶那美の神は、出雲(いずも)の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき。
伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」とのりたまひて
伊耶那岐の命はその時まで高天原での創造の協同者であった伊耶那美の命を失ってしまいましたので、「わが愛する妻の伊耶那美の命を子の一木に易えてしまった」と嘆(なげ)きました。岐美二神は共同で三十二の子音を生みました。その三十二の子音を表音神代文字火の夜芸速男の神・言霊ンに表わしました。妻神を失い、その代りに一連の神代文字(一木)に変えたという事であります。
御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらび)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、
五十個の言霊とその表音文字が出揃い、今はその言霊の整理・検討が行なわれているところです。その整理に当る伊耶那岐の命の行動を、妻神を失った伊耶那岐の命の悲しむ姿の謎で表わしています。御枕方と御足方とは美の命の身体をもって五十音図(菅曽音図)に譬えた表現です。人が横になった姿を五十音図に譬えたのですから、御枕方とは音図に向って一番右(頭の方)はアオウエイの五母音となります。反対に御足方とは音図の向って最左でワヲウヱヰ五半母音のことです。そこで「御枕方に葡匐ひ御足方に葡匐ひ」とは五十音図の母音の列と半母音の列との間を行ったり、来たりすることとなります。「哭きたまふ」とは、声を出して泣くという事から「鳴く」即ち発声してみるの意となります。
御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神。
香山(かぐやま)とは言霊を一つ一つ粘土板に刻み、素焼にした埴(はに)を集めたもの、即ち香山とは「火の迦具土」と「金山」を一つにした名称。
畝尾とは一段高い畝(うね)が続いている処。母音から半母音に連なる表音文字の繋がりの事。
その畝尾は五十音図では五本あります。「その木のもと」とありますから、五母音の一番下イからヰに至る文字の連なりの事となります。涙はその一番下の畝尾に下って来ます。
一番下のイからヰに至る文字の連なりは父韻チイキミシリヒニの八韻です。
この父韻が鳴りますと、その韻は母音に作用して現象子音を生みます。父韻は泣き(鳴き)騒ぐ神です。そこで名を泣沢女(なきさわめ)の神と呼びます。
泣くのは男より女に多い事から神名に泣沢女の神と女の文字がついたのでありましょう。
小豆島(あづきじま)またの名は大野手比売(おおのでひめ)
泣沢女の神の座。また五十音言霊の音図上の整理・確認の作業の中で、八つの父韻の締めくくりの区分を小豆島(あづきじま)と言います。明らかに(あ)続いている(づ)言霊(き)の区分の意です。大野手比売(おおのでひめ)とは大いなる(大)横に平らに展開している(野)働き(手)を秘めている(比売)の意です。八父韻は横に一列に展開しています。
菅曽音図の一番下の列、言霊イとヰとの間に展開している八つの父韻に泣沢女の神と名付けた事について今一つ説明を加えましょう。法華経の第二十五章の「観音普門品」に「梵音海潮音勝彼世間音」(ぼんおんかいちょうおんしょうひせけんおん)という言葉があります。
梵音と海潮音とは彼(か)の世間で一般に使われている言葉に優(まさ)る言葉である、の意です。その梵音とは宇宙の音、即ちアオウエイの五母音の事です。また海潮音とは寄せては返す海の波の音の事で、即ちこれが言霊学で謂う八つの父韻の事です。宇宙には何の音もありません。無音です。
もっと的確に言えば宇宙には無音の音が満ちているという事です。何故ならそこに人間の根本智性である八父韻の刺激が加わると、無限に現象の音を出すからです。八つの父韻は無音の母音宇宙を刺激する音ですから、泣き(鳴)騒ぐ音という事となります。
父韻が先ず鳴き騒ぐ事によって、その刺激で宇宙の母音から現象音(世間音)が鳴り響き出します。梵音(母音)と海潮音(父韻)は人間の心の先天構造の音であり、その働きによって後天の現象音が現出して来ます。「勝彼世間音」と言われる所以であります。
お寺の鐘がゴーンと鳴ります。人は普通、鐘がその音を出して、人の耳がそれを聞いていると考えています。正確に言えばそうではありません。実際には鐘は無音の振動の音波を出しているだけです。
では何故人間の耳にゴーンと聞こえるのでしょうか。種明かしをすれば、その仕掛人が人間の根本智性の韻である八つの父韻の働きです。
音波という大自然界の無音の音が、人間の創造智性である八つの父韻のリズムと感応同交(シンクロナイズ)する時、初めてゴーンという現象音となって聞えるのです。
ゴーンという音を創り出す智性のヒビキは飽くまで主体である人間の側の活動なのであり、客体側のものでありません。鐘の音を聞くという事ばかりではなく、空の七色の虹を見るのも、小川のせせらぎを聞くのも同様にその創造の主体は人間の側にあるという事であります。
八つの父韻の音図上の確認の締まりを泣沢女の神という理由を御理解願えたでありましょうか。
かれその神避(かむさ)りたまひし伊耶那美の神は、出雲(いずも)の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき。
出雲とは出る雲と書きます。大空の中にむくむくと湧き出る雲と言えば、心の先天構造の中に人間の根本智性である父韻が思い出されます。
伯伎の国と言えば母なる気(木)で、アオウエイ五母音を指します。聖書で謂う生命の樹のことです。
比婆(ひば)とは霊(ひ)の葉で言霊、特に言霊子音を言います。子音は光の言葉とも言われます。
伊耶那岐の命と伊耶那美の命は協力して三十二の子音言霊を生み、子種がなくなり、高天原での仕事をやり終えた伊耶那美の命は何処に葬られているか、と申しますと、父韻と母音で作られている三十二個の子音の中に隠されて葬られているよ、という意味であります。
子音言霊が高天原から去って行った伊耶那美の神の忘れ形見または名残のもの、という事です。