こころの自覚 主体と客体。
(こころの島。二)、伊豫の二名島
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○ 古事記『次に高御産巣日(たかみむすび)の神。次に神産巣日(かみむすび)の神。
この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。 』
こころの自覚 主体と客体。
(2)高御産巣日の神 言霊ア (心の自覚、主体)
(3)神産巣日の神 言霊ワ (心の自覚、客体)
伊豫の二名島(ふたなのしま)
淡路の形の部分は前回書きました。今回は淡路の内容です。伊予に関してもくれぐれも四国の伊予であるとしないようにお願いします。現物主義で行きますと、またまた二名(ふたな)についても行きどころが無くなってしまいますから。
天の御中主の神なんていないように、ここにある高御産巣日の神、神産巣日の神も、このあとの全ての神様、日本神道の神様、皇室の神様も全部いません。問題はそれらの神名で示された内容です。世界と世間の動きが激しく、そういった神様がいるとかいないとか言っている時間はないくらいです。事は信仰なのでどういう風に信じているか、信じる内容を自由に語るのはいいではないかと呑気なことも言っていられないのです。
物質世界ではインターネットで世界が統一され、信用という物質を超えた貨幣価値が既に通用しています。信用経済の失敗の経験を積んでまもなく世界統一となるでしょう。地球自身の動きもハイチ地震で数千秒の一早まったと言います。現在の物質文明に見合う精神文明の必要はすでに多くの人が感じて表明しています。古代においてはフトマニ言霊という世界的な絆がありました。(言霊の古代世界文明への支配的な影響はとても興味のある問題です。)
ちょうど、やっと現代において物質と精神の二名(ふたな)が揃ったことになります。後はその両者を結ぶ取り扱いです。現代において神武天皇の夢が実ってきたのです。しかし、あまりにも物質文明、進歩の為の殺戮文明が行き過ぎた感もあります。オバマやメドベジェフが手を握り合うのも経綸の一つに組み込まれていたことでしょう。いままで通用していた金儲けの為の戦争も時代後れの考えとなるでしょう。
現在不足しているのは両文明を結ぶ橋渡しです。この橋は古代大和は、高天原、天の橋立、天の浮き橋、太刀(三種の神器の)、鳥居の笠木、しめ縄などとして現代まで残すようにしていました。端から端まで念の入った仕組みが取られていましたが、あまりにも忘れ去られていました。最高の物質文明の成果たる原爆による敗戦がなければ、地球の破滅を招いていたものです。
原爆による敗戦の意味は象徴高天原を民間に流すことにあったと思われます。民間ならば自由勝手な意見研究がでて来るからです。もし民間に流布していなければ象徴高天原を実現する路が閉ざされていたことと思われます。古代大和において人間の秘密が解明され、現在大和で新たに甦ったということでしょう。
橋というのは父韻で、(こころの島。四)、竺紫の島のことで、
○ 古事記『 次に成りませる神の名は、宇比地邇(うひぢに)の神。次に妹須比智邇(いもすひぢに)の神。次に角杙(つのぐひ)の神。次に妹活杙(いくぐひ)の神。次に意富斗能地(おほとのぢ)の神。次に妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。次に於母陀流(おもだる)の神。次に妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。 』
6・・・・・ こころの創造原理 (父韻)
(8)宇比地邇神・ 言霊チ (ウ)全体性
(9)妹須比地邇神 ・言霊イ (ウ) 全体性
(10)角杙神・ 言霊 キ (オ)拡がる動き
(11) 妹生杙神 ・ 言霊 ミ (ヲ) 拡がる動き
(12) 意富斗能地神・ 言霊シ (エ) 拡がりの保存収縮
(13)妹大斗乃弁神 ・言霊リ (ヱ)拡がりの保存収縮
(14)於母陀流神・ 言霊ヒ (ア)火花の先端にて、表面生
(15) 妹阿夜訶志古泥神・言霊ニ (ワ)火花の先端にて、表面生
で、解説されます。
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二名とはアとワの二音言霊のこと 宇宙剖判で主体アと客体ワに分れます。天の御中主の神の統一体、言霊ウの全体性が自分とその対象へと分化していくのを認めることになります。
この主と客に分かれることが全ての自覚の始まりです。
伊豫は、 イとヰの現象を創造する働きの予めの区分、イ(ヰ)-の予め、伊-予のことです。
伊-予は後からでて来る伊耶那美(イ)-伊耶那岐(ヰ)の現象を創造する働きの予めの領域と言うことです。鳥居の二本の柱の部分に相当します。五十音図のア母音行とワ半母音行です。
永遠の女性
人間が物を見た瞬間には、そこに何かあるというだけであるが、一度これは何だろう、という心が生まれると同時に、その見た或る物が見る主体(ア)と見られる客体(ワ)とに分かれる。そして吾は汝に働きかけ問いかけることによってアとワの交流(感応同交)が起き、終にその或る物は実はこれこれの物なのだと結論が出る。
客体である言霊ワは、主体である言霊アの働きかけがなければ永久に暗黒であり、混沌である。
そして主体の働きかけの分だけ自分の内容を現して来る。
詩人ゲーテはこの言霊学でワと呼ぶ純粋客体を「永遠の女性」と言った。
何故なら自分の問いかけにだけ回答されたとしても、全てが理解出来たわけではない。「分かった」と思われた瞬間から客体は、相変わらず主体に対する未知数の部分は暗黒の未知である。主体に対する永遠の未知の客体として存在する。
それでいてこちらの問いかけた分だけは答えてくれる客体は正しく「永遠なる女性」と呼ぶにふさわしい。
「人間の心の主体と客体は、主体の働きかけによってお互いに交流して色々な現象を産んで行く」の意。
客体である言霊ワは、主体の働きかけの分だけ自分の内容を現して来る、というところが要点です。
よくあの人は自分のことをどう思っているかと、相手の本心なるものを知りたいと言うテーマを占いなどでよく見かけます。しかし、聞く人が理解出来ない相手の本心などはないのです。それは相手の中に秘められていて、相変わらず未知数です。
全ての自覚の始まり。
こころの自覚 主体と客体。
分析だとか説明だとか言って書き出すと、こういっただらだらと長いものになります。それを簡単明瞭にに現すと、何々の神とずばっと一言で片づけたのが古事記です。解説すると個人の考えとか意見とかが余計に加わっていき逸脱しやすい、その反対に神名ずばりだけでは当初は誤解だけでしょう。
しかし、その両者に共通しているのは、解説も名前も、指し月の指で、あの人があそこにいると指さされ、その指を見て指先にいる人を見ないことです。上手な解説を理解して了解はしてもこころの体験に達しなければなんでもありません。ずばりの短い名前だけでも直感的に体験出来ることもあります。
最初の三神、天之御中主の神・高御産巣日の神・神産巣日の神の事を造化三神と呼び、全精神活動の始めの動因ですので、指し月の指にも当てはまります。御中主が状況全体で高御産巣日がわたしで神産巣日があの人です。わたしは「あっ彼がいる」と発音することになりますが、この場合は古事記冒頭の五十神は、その瞬間の精神の動きを五十に分析して神名を使って示しているものです。つまり冒頭五十神は人間精神の冒頭の瞬間の動きを示したものです。
ところが、その動きが循環であることから循環する冒頭は、成長する循環、発展する循環と、なっていくこととなります。その始めの構造が造化三神です。循環と言う意味は成長、発展するどの時点においても出現するということです。一つが終了してその終わりを待って、新たに始まるのではありません。ただ説明の必要上順番を付けなければならないので、御中主が始めにいるというだけで、その後は引っ込んで出番まで寝ているわけではありません。、
ところで、御中主がいなければ何事もはじまりませんが、忘れて等閑にすることはできるし、日常、勉強上そのことは常に起こることです。その顕著な例は記憶を元として考え行動すること、つまり日常のほとんど全てです。例えば他人のブログを読む場合、書かれた文字を読んでいき、その内容と称するものに反応するわけです。こいつは神はいないと言うが人の歴史をどう見ているのか、まるでなっていないとなります。
これを造化三神でいうと、高御産巣日の読む人が自分の持っている経験知識で、書き主の神産巣日の書いた内容を追っている、あるいは書き主は自分の持っている経験知識で古事記を神産巣日として書いているとなり、まるで当たり前のようですが、相手の経験知識を自分の経験知識で読むという構造になります。これで物事は通常進んで行きます。よく見るとここには御中主さんがでてきません。造化二神になってしまいまた。このことを後にオノゴロ島の章で「淡島、ア-ワ島」を生むと名付けています。
ここで引用です。
『 この「天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原に成りませる神の名は、天之御中主の神。次に高御産巣日の神。次に神産巣日の神。……」という古事記神話の冒頭の文章は文字通り言霊学苑入校の門であると同時に人類の第三文明時代建設の起工式ともなるものなのである。
このウ∧の自覚を経る事なき思考はすべて物事を対象とし、客体として捉え、創造する主体を見失った学問領域に入らざるを得ない事となる。
実に神道に於ては宇宙剖判の時の最初の三神、天之御中主の神・高御産巣日の神・神産巣日の神の事を造化三神と呼び、宇宙内の万物を創造する原動力としている。
人は何かを見た一瞬はそれが何であるか、が分らない。分るためには分(わ)けなければならない。即ち見る主体と見られる客体に分けなければならない。この原則は人の意識の持つ特性であり、人の宿命でもある。
この時、最初の意識の芽である言霊ウから言霊アとワとに剖判する事を見落とし、言霊アとワ、すなわち見る主体と見られる客体という分離した時点から思考を展開すると言霊オ(天之常立の神)が成立する。
この時が今であり、この所が此処(今・此処即中今)である。この宇宙の一点に於ける人間意識の芽生え、これを言霊ウという。古事記神名は天之御中主の神である。
次に宇宙の一点に芽生えたものが何か、の心が起る。と同時に一瞬にして言霊ウの宇宙は言霊アとワ(高御産巣日の神と神産巣日の神、主体と客体、私と貴方)の二つの宇宙に分れる。
これ以外のものは有り得ない、何か有る、「こんにちは」と声かけられた、次に誰だろうという意識が自分と相手に分かれる、自分は高御産巣日の神、相手は神産巣日の神に宇宙剖判したと申します。この分かれる力は何処から出ているのかというとウオアエイという一番上にあるイという宇宙にある八つの父韻が働いてウからアとワの宇宙に分ける。
でも、ここでも何も起こりません。「こんにちは」から次に何を話し合って行くのかがオやエに分かれる。人間の行動は八つの父韻が働いて何をすべきか、どうすべきかを決めて行く。その言葉を創りだして行く根本になるのが五つの母音と八つの父韻ということが出来ます。
こうしますと一時半に始まって丁度一時間経って「もう少ししたらお茶の時間だ、休憩には菓子は出るかな」などと人間の頭の中でのことですから現象には現われないでしょうが、頭の構造の中では次から次と父韻と母音が働いていて色んなことを頭の中に描かされる、描いているということは既に頭に印画し、言葉にしているわけです。
他人や世間を批判するということは、自分の心の刃で相手を斬るということになりますから、悲しいことですから批判はしないことになります。「あなたはどう思いますか?」と聞かれたら、「こうこう思います」と言いますのは批判でなく答えですから批判ではございません。ただ、心に壁はございませんから、批判すると相手をつついて響いてしまう、頭は分らないですが心の底が分ってしまう。
「かれ伊耶那美の命は、火(ほ)の神を生みたまひしに因りて、遂に神避(かむさ)りたまひき。」前にお話しましたように客観世界へ行きましたということです。そういえば死んだ人というのは客観世界におりますね。主体と客体という区別に過ぎないということがいえます。人類に課せられた人間でなければ出来ない区別でもあります。
何故かって言えば人間が自分というものを認識し、世界を認識し、自分の行為を認識し、それでいて宇宙をも知る、天体の事も知る、「あぁ、宇宙って大きいなぁー!」と思った瞬間に、流れ星が流れたら、あれは何だろうって、この人間の心が主体と客体とにぱっと分かれる。
分かれるということは人間に課せられた大宿命でございます。他の生物にはない宿命、このアとワ、ウの天の御中主の神からアの高御産巣日の神、ワの神産巣日の神に分かれる、人間の大恩寵といっても過言ではございません。
なぜわかんないかっていうと、「天地の初発の時高天原に成りませる神の名は天御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣日神。この三柱の神は独神に成りまして身を隠したまひき」っていうんです。「隠しちゃってんだ」っていうんです。この現世にいる、生きたわたくしたちが見ることができるはずがないでしょ。「身を隠しちゃった」っていうんですから。その「隠しちゃった」っていう神様のことを知ろうとしてるんですから、はじめっからわかるはずがないのです。
「身を隠してる」ということは、人間の五官感覚では決して捉えることができないものなんだとはっきり申しているのですから、五官感覚の上でとか思惟の上で捉えようとしても、まず無駄だということです。無駄なことをなぜ書いてあるのか。不思議な話です。
ところが、現代の進んだ原子物理学では、このことと同様なことを、はっきりと実験によってやっているのです。
ここまで引用。
「身を隠したまひき」、分かるはずはないと神様がおっしゃるのですから、それでいいのです。何だかんだと文献だとか文物だとかをひねることもありません。一つ一つの裏を取ろうと無駄な労力も払わなくともよいということです。古事記の記述では「次に」「次に」と「次に」すすめと指示しているだけです。そしてオノゴロ島という、おのれのこころの島の章の始めで、「ここに天つ神諸々の命もちて」と「次次」に得られた神を当然のこととして受け入れろと言っています。天津というのは天の領域での仕事ということですから先天潜在性、人間には現象分析したって手の出せないもの、ということです。つまり自分という現象の前にあったものをよく見てその言うことを聴けと言っています。
自分が何かを思い行為する場合、自分という高御産巣日、何かという相手になる神産巣日、その両者の前に「ここに天つ神諸々の命もちて」という御中主という構造を作れば十分だということです。人の話を読み聞きすると、自分の知識に触れるものにはすぐ反応が起きます。自分の知識も相手の知識もまずは天の御中主からでているのだから、そこに戻れということになるでしょう。
自分の知識は、確かに金をかけて数十年の成果としてあるものでしょうが、前提からしてどれ一つとして自分のものであった試しはありません。全部借り物ですが、ひとたび頭脳内の記憶に納められると頭脳の所有者の所有物になってしまいます。何故でしょうか。それは最初に外にあったものが頭脳内に移動したからです。外にあったものが記憶され概念として使用出来るようになると、まるで自分が創造主になったように思えるからです。外部のものを収集して蓄積しお互いに借り物と借り物とをぶつけ合って進歩してきたことになります。
外にあった状態というのが、天の御中主になるでしょう。御中主を設定しないと借り物でしかないのに自分の考え意見として主張をして、それは違うとか自分のいうようにしろとか等々になっていくわけです。収集蓄積整理に費やす甚大な金労力も自分のものですから、誰もが記憶された成果も自分のものと思いたくなります。この言霊学は一万年近く前にできたものです。だれが所有者というわけでもなく全ての人が所有者です。現在の常識とは違って、大和言葉も五十音図も人工的に一万年近く前にできていました。日本語との類似を世界中に探しているようですが、大和言葉が世界に拡がった、あるいはその変化したものが残っているということです。脱線でした。
こころの自覚 主体と客体。こころの原論の古事記。
(こころの島。二)、伊豫の二名島
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○ 古事記 『 淡路(あわじ)の穂(ほ)の狭別(さわけ)の島を生みたまひき。
次に伊予の二名(ふたな)の島を生みたまひき。』
『次に高御産巣日(たかみむすび)の神。次に神産巣日(かみむすび)の神。
この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。 』
こころの自覚 主体と客体。
(2)高御産巣日の神 言霊 ア (心の自覚、主体)
(3)神産巣日の神 言霊 ワ (心の自覚、客体)
高御産巣日(たかみむすび)の神と次に神産巣日(かみむすび)の神は伊豫の二名島(ふたなのしま)の領域を受け持ちます。
アとワは吾と汝。
タは田。田噛産霊(タカミムスビ)と書き換えるとよく分かる。主体(言霊ア)の心の構造を表わす言霊五十音図は整然と縦横に仕切られていて、田圃の形をしている。
それに対して言霊ワである客体はあくまでも昨日の記事にあるように、主体の働きかけを待って答えるだけ。噛産霊(カミムスビ)であって田はない。
古語で噛は噛み合わす・交流する意味。産は生み・生産するの意。産霊(ムスビ)の霊は言霊特に現象の単位を表わす言霊三十二の子音である。
これらをまとめると「人間の心の主体と客体は、主体の働きかけによってお互いに交流して色々な現象を産んで行く」の意。
伊豫の二名島(いよのふたなしま)
言霊ア・ワの区分、高御産巣日(たかむすび)の神、神(かみ)産巣日の神の宝座。
伊豫(いよ)とは言霊イ(ヰ)のあらかじめと意味がとれます。何物もない広い宇宙から主客未剖である意識の芽が現出します。言霊ウです。それが人間の思惟が加わりますと瞬間的に言霊アとワ(主と客)の二枚に分れます。人間は物を考える時には必ず考える主体と考えられる客体に分れます。これが人間の思考性能の持つ業であります。「分(わ)ける」から「分(わか)る」、日本語の持つ妙とも言えます。
この主と客に別れることがすべての人間の自覚・認識の始まりです。言霊ウの宇宙が言霊アワの宇宙に剖判し、次々とオヲ、エヱの宇宙剖判となり、終にイ・ヰの宇宙に剖判する事によって「いざ」と立上り、現象子音の創生が始まります。言霊イヰによる子音創生が始まりますのも、その予めに言霊アワに分かれたからでありますから、伊豫の二名(アワ)の島と呼ぶわけであります。
古事記 『この島は身一つにして面四つあり。面(おも)ごとに島あり。』
身一つ、とは一枚(言霊ウ)から二枚(言霊アワ)に分れることから、身とは言霊ウを指します。言霊アワから言霊オヲ、エヱが剖判します。そこで「面四つ」と言っています。五十音図の両端の中から現れて来る。
古事記 『 面ごとに名あり。かれ伊予(いよ)の国を愛比売(えひめ)といひ、讃岐(さぬき)の国を飯依比古(いひよりひこ)といひ、粟(あは)の国を、大宜都比売(おほげつひめ)といひ、土左(とさ)の国を建依別(たけよりわけ)といふ。』
面四つのそれぞれを言霊に置換えますと、
愛比売(えひめ)とは、言霊エを秘めているの意で、言霊エは言霊オから選ばれる事から、愛比売とは言霊オであります。
飯依比古の飯(いひ)は言霊イの霊(ひ)で言霊のこと、比古とは男性で主体を意味します。言霊を選ぶ主体は言霊エ、即ち讃岐の国は言霊エです。
大宜都比売(おほげつひめ)とは「大いによろしい都を秘めている」の謎で、都とは宮子(みやこ)で言霊の組織体の意でありますので、粟の国とは言霊ヲの事を指します。
建依別(たけよりわけ)とは建(たけ)は田気(たけ)で言霊のこと、依(より)は選(より)で選ぶの意で、土左の国は言霊ヱを指します。
伊豫・讃岐・粟・土左の四国は「面四つあり」の四に掛けたもので、それ以外の意味はないように思われます。
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『 淡路(あわじ)の穂(ほ)の狭別(さわけ)の島を生みたまひき。
次に伊予の二名(ふたな)の島を生みたまひき。次に 』
こうして、次々と全部で十四の島を産みますが、ここの読み方は、一から数えて個別の十四個を生んだのではありません。生んだのは『 淡路(あわじ)の穂(ほ)の狭別(さわけ)の島』だけです。
日本国の島々をあっちにポン、こっちにポンと点々と産んで言ったのではありません。たった一つの小さな小さな狭別の島だけを生んだだけです。つまり意識の種、意識の芽生えを生んだことになります。上手い具合に地名と一致しているのがあるので、実際の島を生んだように思わせるための智恵でした。
自分の頭脳内で何かに気づく時その小さなものが後で大きくなるのです。のちのちには始めに気づいたものが十四の島(意識の領域)となり、五十の言霊となり、五十の運用法となって、人の百の道(もち)を完成していくのです。古事記はこの人の道(もち餅)の製造を辿る為の原典ででもあります。
狭別(さわけ)の島には潜在的に次のことが全部含まれています。先回りして言うと、まず前半八島(八つの区分領域)と、その上に後半の六つの運用上の領域が乗っています。この二つを合わせたのがお正月の鏡餅という物象となっています。二つで五十音の上下で、百神ですが、八×八の64と六×六の36で合計百(もち、百道)です。古事記百神の鏡餅上の数霊の配分になりますが、ここのところはわたしは知りません。
鏡餅の下に敷く裏白、白は昔「申す」と読み言葉の意。それはまた言葉の法則である言霊の原理に通じています。お正月にお持ちを作って食べるのはこの精神行為の象徴です。一日は御中主で三が日で、造化三神です。小正月十五日の先天性、十五神の誕生を祝って、伊耶那岐伊耶那美がイザと十六十七日目で出現し、三貴子の登場となり、百神が揃いめでたくいただくとなります。
まず、狭別島はあいうえお五十音図の中の記入されていない枠だけの世界です。ここに二名島ができます。左右に真ん中から分かれます。主体側と客体側となります。
主客がはっきりして母音行が確立しますと主客のエオの四面(面四つあり)が現れ、両側に母音の柱が立つようになります。
後に五十音が全部治まると、それぞれ左右の中央はスとユです。大嘗祭の悠(ユ)紀田・主(ス)基田の由来です。五十音図をお米を獲る田んぼに見立てたものです。主体と客体、ア-ワ路の稲穂をしめしています。
ついでつくしの島のイ-ヰ行が納まり、イザとギミと神が立ち上がり最後に現象となる残りの36の子音を産んで全部埋まります。言霊五十音図の完成です。
これが鏡餅の半分で、これを使用して最高規範である天照大神の鏡餅が作られていきます。
このブログはすでに解明された神名の解説を反復しているだけですので、何かを言っているわけではなく、返って脱線やいい加減なことを付け加えている方が多いくらいでしょう。一万年近い歴史の経綸をバックにしていますから、現在一万分の一パーセントの少数派であっても全然気にならないものです。言霊学は宗教でもないし教祖などはいません。(ただし言霊を解明された方はいます) 科学の検証に必要な実験器具は一切無く、自分の心だけが相手ですから一銭もかかりません。
LHCとか宇宙ロケットとか恐ろしく金のかかることをしても、最終的には何も出てこないのはわかりきっています。国威とか学者さん達には申し訳ない言い方になります。いくら宇宙を観測しても宇宙の中心は見つかりません。あなたのこころ、わたしのこころが宇宙の中心なのですから。いくら陽子を衝突破壊しても究極には達しません。次のおもちゃが欲しくなるだけです。
それはこの世がラセン循環しているからです。古事記の最初の神様は言霊ウで始まります。百番目のスサノオも、欲望、産業領域の言霊ウの領域を受け持ちます。おギャーと産まれて欲望だけなのが、智恵が付いておのれの欲するところに従いて死す、です。おもしろいところでは、ひふみ算と言う算数があって9をゼロとした循環法を「神の数学」と名付けて公開しています。ひふみとは0123456780123・・の循環をさすとのことです。( http://www4.tokai.or.jp/kaminosuugaku/ )
昨日ネットで見つけたものです。
『 無門関 第十二則
中国が唐と呼ばれていた頃の時代に瑞巌寺というお寺に師彦という名前のお坊さんがおりました。
師彦禅師は、毎日、毎日、座禅を組んでは、以下のように自分自身に呼びかけたそうであります。
「おい、主人公よ」と自身に呼びかけ、こう答えた。「はい」
「おい、しっかりと目覚めているのだぞ」と自身に呼びかけ、こう答えた。「はい」
「どこで、他人に欺かれないとも限らないぞ。しっかりするのだぞ」と自身に呼びかけ、こう答えた。
「はい、はい」
そんなこんなの座禅と問答を生涯続けたという。自問自答ってやつですね。
我々が日頃使う「主人公」という言葉は、上記のような禅宗の問答より来た言葉だそうです。
その意味するところは、「本来の自己」「本来の面目」だそうです。
人の心の中に仏さんがいて・・・その仏のような自分こそが本当の自分だと・・・そこに立ち返れと・・・
そんな風に僕は解釈するのですが。』(引用ここまで)
無門和尚の解説:この禅師は自分で自分を買ったり売ったりして神々や鬼の顔を弄んでいるが、どういうことか。呼びかける者、それに応える者、騙される者、騙されない者、そんなことを認めたら間違いである。こんなことを真似するのは似非禅、野狐の禅だ
ここでの構造は、心の中の仏と自分、元気か問う自分と答える自分、買ったりする自分と売ったりする自分の二者を設定していることです。古事記で言えば、伊予の二名(ふたな)の島を生みたまひきですが、この自問と自答は、無門和尚はそんなことを認めたら間違いだといいます。何故でしょうか。
それは伊予の二名島が淡路の穂の狭別の島から産まれたのではなく、別の島としてどこかにポイッと産まれているからです(淡島を生むこと)。そしてその島を説明しようとするとその内部(面四つのこと)からでなく、外部のどこかから材料を持ってきているからです。ここで無門和尚が似非禅というのは、どこかに独立した島として伊予の二名島を生むことを言います。ですので古事記の島生みは本来一島だけで、五十音図にすると裏白の図、まだ開いていない鏡餅、これから潜る鳥居等々になるでしょう。
ところが古事記の凄いところはそういった知識操作の間違いはあるのだ、としているところです。誰もが間違える性能を持っているというのです。それが次の「次に隠岐(おき)の三子(みつご)の島を生みたまひき」です。
わたしたちは平気であなたの意見は間違っているといいますが、そういった、相手を間違っているとして正しい意見はこうだと当然のようにいうことのできる間違った意見を作れる構造が、ここにあります。ややこしい。要するに嘘でも間違っていても自分の意見として主張出来る構造がある。じぶんの意見は間違っているのじゃないかなどと縮こまることはないのです。おれのは正しいとでかい声を出すこともありません。正否いずれにしてもそのようにしか語れないのですから。
天の常立の神 オ 、宇摩志阿斯訶備比古遅の神 ヲ 、国の常立の神 エ 、豊雲野の神 ヱ です。