考え方のパターン。こころの創造原理、こころの原論の古事記。
ある考えが出され、それに対して別の考えがでてきます。違う考えが見つかったからです。表面を見てけば、何億とある考え方になるでしょう。各自は違うなと思える考えの元からはじめます。
何故、違うなと思えるのでしょうか。違うなと思えるのはその基があるからです。ではそこにある多くの同調反撥を理解できるのでしょうか。あるいは理解できなくとも、何かを主張しているということが分かるのでしょうか。
それは各人が承認、賛成反対を理解することができる同じ頭脳の構造を共有しているからです。言葉が分からなくても、他の言語であっても、解説されてけば何かを主張していることは分かってきます。
相手の言うことへの賛成反対共感反撥が分かるということは、人の与えられた頭脳構造、考え方の構造、両者の頭脳内容が同じだからです。
もしここに気が付けば賛成反対に係わらず、99パーセントの人の考え方のパターンは同じ穴のムジナということになります。
そうでないとお互いに話が進展せず通じません。逆言えば話されている内容の如何に係わらず、同じ土俵で踊っているということになります。
さて、仏陀の教えより、キリストの言葉より、何故弟子たちや解説者の言葉の方が理解しやすいか、宗祖から外れていても気づかず受け入れていってしまうか、それは、同じ穴のムジナからきています。
ここに99パーセントの言葉と1パーセントの言葉を使用する人の違いがあります。わたしたちはそれぞれの宗祖の言葉を読み理解できます。しかし、どのように読み理解したのか話してもらうと、99パーセントになっているのに気づかず、そのムジナ同士で語り会うことになります。
つまり、1パーセントの語り方があるのを知りません。これは心の別の次元から発するもので、私たちがわいわい言うようなものとはなりません。
ここまでにしておきましょう。失礼しました。
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ここまではある方のブログのコメントとして載せました。コメントは500字以内とのことで、わたしのようにだらだら書く者には向いていないので止めました。
yahooブログは5000字しか書けない。
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よく古事記を神話と扱い、その神話パターンを描き出すことが行なわれています。民族から、山に住むか海に住むかで共通のお話を導いていきます。歴史社会交通交易の状況から、お話しが渡り歩くことなども見ていくようです。
あまりに遠縁な地理関係のときなど、共同幻想とか元型とか便利な言葉も使用されているようです。
しかしいずれも現象の分類から出るものではありません。古事記による思考パターンを見るときには大いに不足していると感じられます。つまりパターンの出所が不明なものが多い。
現象を幾ら分類研究して、あれこれの基準を設けても、その基準の元に達しなければ思考パターンを見たことになりません。現象のパターンではなくそれを導く思考のパターンです。
そこでもし思考のパターンが導かれたのなら、それに対するものがもう必要なく、原理となっているものでなくてはなりません。つまり、そこから導かれるものは現象の多様、主張意見多種多様にも係わらず同一の思考パターンからのものと言うことになります。
例えばそこで議論論争が起きようと基を質せば同じ思考パターンでやっていることとなります。このような人間の奥の院を古事記のフトマニ言霊学で見てみたいというのが今回のテーマです。
古事記の奥の院は父韻にありますが、ここでわたしはつまずき停滞していました。母音から半母音へ渡る八つの父韻との関係が見えませんでした。
ですので、次の引用も内容が分かりません。
---引用------------------
三通りの考え方
人間の思考パターンと申しますのは五十人いれば五十通り、今の地球人口が63億人、それぞれの63億通りあると思われるでしょうが、それはあくまでも表面をご覧になるからであって、表には出ない奥の奥にある心の構造は、たった三通りしかございません。エッて驚かれるかもしれませんが三通りしかございません。
コトタマの学問でご説明いたしますと、八拳剣、九拳剣、十拳剣、の三通りでございます。哲学的に申しますと弁証法では六通りの力、演繹法に申しますと八通りの力、世界では知られておりませんが、地球文明を経綸する十という力がございます。
弁証法は正反合、所謂西洋の物の考え方、これは世界中に広まっております。地球人類の少なくとも八割以上の人たちはこの弁証法の考え方をしております。例えば、ある事象を自分の今までの経験を総動員して観察します。この事実が分ったとしたらこの事実とこの事実をどのように結びつけるか。
自分が見た客観的な姿と自分が信じている方法とで合意する。その映った眼で世の中を変え、自分を変えていこうする。これが弁証法のものの考え方です。所謂この方法で物事を考える思考バターンの人を見分けるには簡単です。口に出すか出さないかは別にして「I think」、「私はこう思う」と言います。
---以上です。------------------
哲学的に申しますと弁証法では六通りの力(八拳剣)、
演繹法に申しますと八通りの力(九拳剣)、
世界では知られておりませんが、地球文明を経綸する十という力(十拳剣))がございます。
人間の思考パターンは以上の三通りしかないということです。
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巷では思考パターンは、ポジティブネガティブ型、批判迎合型、最高最低型、目標志向状況対応回避型、未来展望過去回想型、自責型肯定否定型、白黒型、固執普遍一般化型、拡大過少型、感情依拠無視型、義務型放棄型、自己集中型他人転化型、等々色々分けているようです。
言霊学の引用文とはだいぶ相違しています。
しかし、通常の巷の分類を見ていると、そのほとんどは陰陽正負正反型です。
さらにこんな応援団もあります。
『批判的思考(ひはんてきしこう、英: Critical thinking)は、特に欧米諸国で主流となっている物事や情報を批判的に解釈する思考パターンのこと。対象物を見聞きしたままに受け取るのではなく、客観的なおかつ分析的に理解される必要がある。ウィキ。』
ここまでくると、巷で言われるの思考パターンとは思考パターンのことではなくて現象分類のパターンであることが分かります。そこで現象分類にくっついてきた思考パターンを見てみると、陰陽正反型です。彼らの思考は、学者であれ宗教家であれ経営コンサルトであれ、正反合の八拳剣型です。
合の部分は商売用とか、自分だけの秘密とか、攻撃用に隠してあるようです。
こうした同じ穴のムジナなので、お互いに共感同調ができ、また戦い排撃ができるわけです。心優しい人はあなたの意見も尊重しますと言い、虫の居所の悪い人は攻撃します。
お互いに自己の結論に対する根拠を他の人の中に見出せないからです。
言霊学にはそんなやっかいな八拳剣の正反合ではない、九拳剣、十拳剣があるといいます。心を静めてそれを探しに行きましょう。
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検索には「思考パターンを変える」というのがよく出てきます。裏から見て合の塩を少々ふりかけるということなのでしょうか。同じ穴のムジナにかわりはありません。塩した結論が次の発端疑問になるだけです。
八、九、十のパターン。こころの創造原理、こころの原論の古事記。
哲学的に申しますと弁証法では六通りの力(八拳剣)、言霊オの次元、経験知識概念記憶の世界。
演繹法に申しますと八通りの力(九拳剣)、言霊アの次元、感情宗教芸術の世界。
世界では知られておりませんが、地球文明を経綸する十という力(十拳剣))がございます。天津太祝詞の実践智恵の世界。
まず何故八、九、十なのかを知らなくてはなりません。一年生のわたしがうまく説明できるでしょうか。
思考のパターンは三通りしかないといいますので、いかように三通りしかないのか解かねばなりません。
当初はわたしもびっくりしてしまいました。
分かったところを書きます。
八、九、十拳剣は父韻の働きをいいます。あいうえお五十音図は五段あって各段ごとの次元世界を現す父韻の配置があります。
ウオ次元世界の始まりは父韻キです。
ア次元世界の始まりは父韻チです。
エ次元世界の始まりも父韻チです。
そしてイ次元では自由な同時発生で始まりは父韻チで代表させます。
ウオ次元では始めから終りに行くのに父韻の動きでア-ワに渡りますが、横列のアとワの自覚が無く中間の八父韻にだけ采配されています。この判断力が八拳剣です。
ア次元ではア-ワに渡る始まりのアの自覚がありますが、ワの自覚がアを始めた者とは別の者に委ねられています。ワ行が抜けて九父韻です。これが九拳剣の判断力です。
それらに対して、五感欲望、概念記憶知識、宗教芸術感情をさらに超えた道徳まつりごとの智恵実践の世界では自証と他証、ア-ワの自覚が顕著です。音図の横列全十父韻の采配が行なわれています。この判断力が十拳剣です。
こうしてここに三通りの思考パターンが産まれ、それ以外に自由自在なイ次元の同時発生の無碍の思考行為世界となります。一人スメラミコトのみが到達できる融通無碍の世界で三通りの思考パターンには入れられていないと思います。あるいは自然発生的なもの、赤ちゃんの判断力となるものでしょう。
このウオ、ア、エの言霊次元に応じた思考パターンはそれぞれが時間、空間、次元の三現象の組み合わせを持っています。それで全現象がカバーできることになります。
ところで三通りということは、その三つはお互いに相いれないということです。同じ土俵内では大いに話は盛り上がることでしょうが、そのまま他の次元に平気で越境して語ることはできません。カレーライスの辛味を語るのに芭蕉の俳句を例に出すようなものです。
釈迦という偉大な人物をあたかも理解しているかのごとく解説している弟子とか坊主とか、キリストと釈迦を比べてどっちが偉いかなどと考える人もいます。キリストも釈迦もわれわれ凡人のウオ次元の生を超えたア次元世界の人です。精神と魂の変態を実践した方です。
私たちが到達し見習うべき目標となっていたものが、到達する目標としてでなく、いつのまにか考えられた目標となって自分の頭の中に巣くっています。一度観念、概念としてア次元の釈迦やキリストが頭の中に成立すると、幾らでも自分の経験概念で操作できるようになります。
富士山の頂上からの眺めを経験しなくても、概念思考の演繹はそれが可能であるとし、概念思考を実在にまで祭り上げてしまいます。例え誠実であっても自分の恣意的な解釈が自分を占領しますので、自分の誠実さのせいで次元の違い、時処の違いが眩まされていきます。
それでも経験概念は富士山の火口は平地からでも理解でき見えると主張するようになっていきます。巷の思考パターンでは、精神の変態が考慮に入っていませんから、自分の都合のよいように、(自分で苦労して得た知識としてでもいいですが)、ポジティブとかネガティブ、最高とか最低とかが相手と比較される主張になっていきます。
こうして好き勝手な主張や、自分で考えたとする主張、気に入った主張ができるようになります。全てはその人の次元内の守備範囲内に修められるわけです。自分の主張ですから変通自由自在が可能となります。
そこには魂の変態を遂げた次元の違う聖者達の精神を斎立てることがありません。次元の違いを理解できず、というよりも自分なりに分からせています。自分の知識に無いものをも持っている、自分の経験しないことを経験した、単なるより多く所有している者というだけです。その所有意識さえ外せば幾らでも肯定否定の知的な対象となってしまいます。
この次元を理解できないということは直ぐさま次元の表現となる時と処の違いも了解できません。キリストの言葉も釈迦の言葉もア次元のイマココにおいてなす事を語っていますが、それらは過去の言葉としてその人の経験と記憶に対応されるように聴いてしまいます。
魂の変態を成し遂げた聖人たちとわれわれの次元とでは根源的な魂の相違がありますので、われわれのウ、オ次元からでは聖人たちのア次元を、地上から富士山の火口を、水中のヤゴが空中のトンボを、泣きよこたわる赤子が歩く大人を、カレーライスが芭蕉の俳句を理解することはできないのです。
それでもテーマが変われば理解できると言い張るのが人間頭脳のこれまた凄いところで、それによって文明の進歩がもたらされたものです。聖人たちはわれわれ凡人が何でも勝手なことを言うのを知っていますから、われわれに対して正しいとか間違っているとかを言いません。そんなことを言うのは代弁者たちです。なぜならそれがわれわれの偽り(黄泉)の文化をもたらしているものだからです。
聖人たちはわれわれに行為を誘う言葉を投げかけるだけで、理解しろとは言いません。知的な次元が悪魔的非人間的な世界であることを知っているからです。知識によっては、幾ら最上最新の知識を身に付けようと、上の次元に行けないのを知っているからです。般若波羅蜜多心経は観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空と「行」ずることから始まり、直ちに知識による「照見」が求められてるような書き方ですが、もちろん知識ではなく智恵による「照見」のことです。
ところで人の精神性能の全く別な次元にある知識と智識を合わせた熟語として思考というのがあります。思考とは思うと考えることです。
思うは田の心と書きます。田というのは五十音言霊音図縦横の整然とした姿を田んぼに似せたものです。田には稲が植えられていて稲はイネで、言霊イの音のことです。言霊イは人の創造原動因となるものでそれが鳴り響き現象となること、米穀類が生きていく基本の食料であるところからです。いのち、いきる、いえ、いう等は人の根源的な創造韻の言霊イからでた言葉です。
人の思いは言葉によって現され、言葉はイの次元から見た現象で、田んぼの田は一枚二枚と数え、一つの全体です。ですのでこの漢字は特別で古代大和のフトマニ言霊思想を起源として創られています。
考えるは、神返る、からで、神を頼りにできる最後に行き着く探し求められたその一者というところから、あれやこれやいつどこでどうしてどうなって等々の多数の選択肢、記憶、経験等の多様の中から辿り着く一者を見出し返り往くということです。
考えるは一者を求めてアレコレさまよい、思うは一枚田全体がまず出現します。
思考という言葉のなかにはこのようにその始めにおいて既に別々の次元があります。聖人の言葉は田の言葉でいわばするかしないかを誘い、その智恵を出すことを求めいます。一方経験知識のわれわれの言葉は捜し彷徨うことが本領で、寄せ集められた知識記憶の城造りに精を出しているわけです。
人の感じかた考え方がまちまちなのは最初からの前提となっています。まちまちでありながら何故お互いに通じ合えるのでしょうか。表面的な正反肯定否定をも両者に可能とするものは何でしょうか。それこそが思考パターンの神髄となるでしょう。と同時に上の次元での言葉は下からは理解できない秘密です。下からアップアップしながら、あるいはコツコツしながらやろうとしても到達できない秘密があります。
それを秘密という言い方もあながち悪くはないでしょう。聖人達は常に語っていて、その伝統は万巻の書を与えています。それでも結局誰もといっていいほど引き継ぐ人がいません。代弁者かそれに祭り上げられた寄生者たちばかりです。聖人たちは秘密としてまだ語らないのか、あるいは聖人たちもその秘密を知らないのか、どちらでしょうか。この世は現物社会です。それなのになぜ精神社会に閉じ籠もっているのでしょうか。神を拝む精神の集合体はなにをしたというのでしょうか。
それはこちら側から見れば開き直って、教えかたが悪いということになります。聖人たちは現代の混沌殺伐殺戮の世界に何の役割もしていません。自分の教えをまる投げして勝手に受け取れというだけです。心ある人は希望と共にありがたく受けるでしょうが、それも個人のことで、幾ら経っても殺戮闘争社会に手が出せません。大乗はその本質からして小乗に期待をかけているいるだけのようです。わたしの血と身体だとして与えたのは個人相手でした。
この数千年間、聖人、宗教が戦争を停止させたことはありません。喧嘩さえとめられず仲直りさせることもできません。しかし物質的な欲求に決着がつけばそのまま静まっていきました。それなのに聖人の言葉は廃れません。それとは逆に、牢屋の中で虐待され改宗を強制され、最低条件の中で神の放棄を強いられても守護していく例もあります。物理力も信仰を曲げられないというところですが、これらの話の示すところは、もともと次元の違うものを別次元で叩こうというだけのものです。神を見てしまった知ってしまったという実感を、叩かれれば痛いというだけで、実感の否定はどのようにするか本人自身にも分からないでしょう。
知識で話している場合、自分一人なら非常に気が楽でこの世の天下を取ったような気分でいられます。自問も抑制され自分を補強するものを気づくようにしていきます。そんなところに制御不能な他人の見解が飛び込んでくるものなら大変なことになります。直ちに応戦しなくてはならず、その材料を過去知識経験記憶から探さなければなりません。論点などといっていられず自分で解決できる範囲に事実なり、客観性なりを設定していきます。共通の論点であるときなら、相手の指摘を乗り越える努力を自分に強要します。
これは刺激を受けると動き出す動物よろしく何か言われて理解できず納得できない、自分の理屈が通らず自分の考えと違うとぶつぶつ、ムクムクと膨れて来る、自己防御自我のせいです。否応なく相手から突き付けられる選択に対処していくというわけです。自分の経験知識でもって防御に役立つ選択をあれこれ造り上げていきます。
そこでア次元の人なら、初めて聞き知った新鮮なご意見をありがとうというところですが、われわれはそうはいかず、自分の主張に触れるような時には直ちに疑問反撥が起こります。一度入道雲のように自己保全のための疑問が出てしまうと、それを中心に心が固まっていきます。それが出来てしまうと理解納得反撥反証の核となります。
ア次元の人も相手の意見を聴いてありがとうというのは、それが正しいとか真理とかいうことを保障しているのではなく、出尽くされない意見の一つが聴けた貴重さを有り難いと言ったのです。そんなことを知らないわれわれは正反合正反合の戦闘を準備していきます。それは、自分が見た客観的な姿と自分の信じている姿と両方を肯定させる一つの立場をここに見つけるまで続きます。
人間とは何か。伊耶那岐。 (創造意志) こころの原論の古事記。
「毒矢の喩え」
ある人が釈尊に問いました。
「世界に果てがあるのかないのか 霊魂と身体は同一か同一でないのか 死後の世界は存在するのかしないのか 」
それに対して釈尊は次のようなことを言って諭した。
「譬えば、ある人が毒矢に射られたとする。すぐに医者にかかり、治療しなければならないだろう。
霊魂と身体は同一か そうでないか人間は死後も存在しているのか
そのような問題に答えたところで私達の人生の解決にはならない。
そのようなことがはっきりしたら修行すると言うのは正しくない。
私たちの老死 憂い 苦痛 嘆き 悩み 悶えは依然としてある。
私はいま 現実のこれらの老死 苦を超えることを説く。」
ブログで捜したある人の解説は次のようになっていまず。
「霊魂の有無・滅不滅の問題を考えるよりも、先決問題であり一大事たる人の生きるべき真実の道を明らかにすべきである、と釈迦は教えたのです。」
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毒矢の譬えはどのお経にあるか知りませんが、解説はだいたいどれでも同じようです。
ではここで解説してくれる方に問いましょう。仏教者か、弟子か、宗教家か、道を求め勉強している人か、取り敢えずは共感同調を噛みしめている人か、どのような方か知りません。単に関心があるだけの方かもしれません。
問い。人間とは何か、仏教とは何か、悟りとは何か、空とは何か、と。
そうするとこれらの方々はきっと親切に、こうだこうだと良心的に自分のためにもなるからと、誠実に教えてくれるでしょう。
説明をしている時、そこに突然お釈迦様が出てきます。
「そのような問題に答えたところで私達の人生の解決にはならない。
そのようなことがはっきりしたら修行すると言うのは正しくない。
私はいま 現実のこれらの老死 苦を超えることを説く。」
と言って、解説してくれる方は毒矢に当たっていることを示しました。
毒矢というのは、実は観念的な疑問を出すことをいいます。どのような人格的な裏付けを持っていようと経験知識と記憶概念から出てきた知識のことです。
誠実で真面目な修業者だからといってそのまま受け取るわけにはいきません。目覚めていろ、というのは悪意に対しても善意に対してもいえることです。現代は善意と人格者が増えています。誠意と善意の輪が大きくなっていきます。それにも関わらず目覚めていなければなりません。疑問や不信を抱くことではありません。よく見つめることです。
そもそも偉大な聖人たちが数千年かかっても、この世のこころの荒廃は無くなっていないのです。
あるブログでは悟りは簡単だ、誰でも本来悟っているのだといい、その技術を提供するからセミナーに参加するように誘導しているのもあります。企業経営者も参加して良い成績を上げているなんて書いてあります。
現代は精神の問題、心の問題で金を儲ける時代でもあります。心から良心的、誠実でありながら時代の波に乗らされることがあります。
古事記ではこうなっているようです。
あまりの黄泉国の混沌とした光のない世界から伊耶那岐命は、追いかけてくる伊耶那美命へ後手を降りながら、「お前の考え方は通用しないぞ」って、千引きの石まで逃げ帰る。
この後、伊耶那岐は自らの原則を立てみそぎへと向かいます。
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ここには、善意の方、誠意ある方、心ある方達がたくさんいます。みなさんそれぞれの分野で暗黙の力を出し合う協力の体制を了解しています。憑かれたように善意を与えあうこともあります。
しかし、社会も政治も生活も何ら改善されません。
何か奇怪しい違う、という思いが全ての人にあります。世界全体の異変に気づいてるようです。宗教を扱い、霊を扱い、心を扱うブログが増えているように感じます。
一人一人が自由に主張を吐露して行けるのに、何か非常に大きなものに、精神的に、宇宙から制約を受けている感じがあります。中国などの場合には党国家が代表して精神宇宙からの制約を受けているようです。地球も、地震とか気象異常で何かをいいたそうです。経済社会もどこへ行きたいのか不明です。
日本では自由に主張ができますが、その自由を操作しているものがいるとか、政治思想は操るものがいるとかいっています。
実はそんなことは当たり前のことです。自分がその立場にいないためのやっかみです。同じ穴のむじなの片割れなのに相手のことばかりを突つくのです。
同じ土俵に立つ以上誰でも同じことをします。その土俵を超えるのは宗教芸術感情の自己主張の自覚からしか起こりません。
同じ土俵に立つ以上は誠意を元として真摯に真理を求めるために勉強研究して、知識を高め最新科学で武装していても、一歩足りとも上の次元には行けないのです。単に知識量と守備範囲が拡がりより遠くまでの過去に手が届くだけで、文献の量が増えるだけです。
このブログでは文献といってもわけの分からない古事記だけです。しかもその古事記を五千年前以上に既に完成していたフトマニ言霊学としてみています。
お釈迦様はこの世の次元を抜けるため、霊とは何か人間とは何かという問いに、毒矢をまず抜き取ることを教えました。個人の次元なら当然すぐになすべきことです。
手当ては終了しました。
そしたらまた毒矢が飛んできました。人間とはなるか霊とは死後とは、死後の霊位の向上をどうするとか、また質問する人が出てきました。皆真面目で真剣です。
さあ、お釈迦さん、こんどはどうしますか。
以下引用。
言霊 人間とは何か
人間とは何ですか?と訊かれた時にタカマハラナヤサと答えればいい、それは宇宙生命、ただこの一つの宇宙が永遠に根ざしている高天原、いよいよ栄えよ、私の辞世の句、「たまきはる いのちのみよを 言祝がむ 永久(とわ)の起手は タカマハラナヤサ」。
---ここまで----------------
続いて引用です。
自分という人間
そういうことを唱えると破門されて破滅なわけです。人間は神と獣の間の生きものとよく言われる。ということは、人間とは完全な神にもなれない、獣にもなれないとするとそれは違う。
今は人間が神にもなるし、獣にもなる。そのことに目覚めれば聖職者であろうが、一般人であろうが、目を覚ます時。お経を唱えたり、神を拝んだりする時代じゃない。
業が深い生きもの、それが人間
そういう心理を彼らはよく知っている。人間の本性はきれいなもんじゃないということを知り尽くしているから。私だって体は弱っておりますけど、人が来れば元気になるということは昔の癖の名残がある。
もしくは、言霊の仕事をする時だけは皇祖皇宗が私に力を与えて下さっているということは分かっておりますから、そんなに苦しまなくて済んでいる、まったく仕事していない時は苦しくて仕方がない。
咳が出るようで出ない、この差というものを自覚できるようになってきましたから、実相というものの正体がだんだん分かってきた。業が深い生きもの、それが人間。そこを避けてしまいますと色々な論説が起こってくる。
人間とはこういうものなんだということを知っている人が、政治を行なったり、裁判を行なったりすれば、臨機応変に法律に則ることのない人間的な社会が運営される。
人間とは情けないもので主体的に観ないで、客観的にしか観ようとしない。空の外には行けないと書いていながら、その先にあると思い込んでしまう。
空を知って言霊アに一歩突っ込む、と同時に静なる五十音図と動なる五十音図をイメージして、建御雷の男の神は自分であると自覚して、自分の周りに起こってくる現象を振り返ってみればいい。
ただ、ア(例えば宗教家、芸術家)の段階で修行が終わってしまっている方はエとイに行けない。心の自由を得て満足してしまっておりますから。アは垣間見ればいいのであって、そこに浸ってしまったら行けない、同じ時処位であるアエイと進めばいい。
本当の幸せを知りたい、本当の人間とは何ぞや、となると国津罪と天津罪を知らないことには、真実は分からない。三千年前に戻ることが出来ない、万葉集の歌のようなあっけらかんとした明るさになれない
人間の心の構造を人間が直視して、人間はどうして物事を考えるのか、どういう原則で以って考えているのか、そこに道があるのかどうか、道がなければ人間は動物の世界より劣るほど野蛮になります。動物は力ずくで生きているようで整然たる社会を形成しております。
人間は同族と殺しあったりします、これも人間という一つの原罪として、人間という分際として、人間が心を許すとこんなに野蛮な事もするということを弁えて、どうしたら悲惨な世の中でなくなるのか、を考える時に母音から説明しないことには始まらないのです。
では、どうして母音が一番初めにくるのかと申しますと、人間の考えているということが、広い無量無辺の宇宙を住家として、人間の心は生きているからです。人間の心が住んでいるところ、日本語では家と申します。言霊の学問では家は五重を語源としております。人間の心は五つの母音を家として、ウオアエイという五つの重畳(たたなわり)をして心の住家としております。
日本には古来から「人間とは」の答えがある言霊の学問というものがあるのですから、
-------以上引用でした。---------------
人間とは何か。追加。伊耶那岐。 (創造意志) こころの原論の古事記。
人間とは何か
人間とは何ですか?と訊かれた時にタカマハラナヤサと答えればいい、それは宇宙生命、ただこの一つの宇宙が永遠に根ざしている高天原、いよいよ栄えよ
--------------------------
引用。
この学問は一部を論いますと結論は永遠に出ません。人間の一部分を見て、どうのこうのと論議するようなものです。
内容を頭に入れながら、自分のイメージとして覚えてくださってしまえばいいのです。そうしたら、入学受験証に「良し」って判が押されます(笑)。大手を振って言霊の学問のなかに入ることができることになります。
勝手にブログに公開していいの?というご懸念もあろうことでしょうが、このコトタマ学。どんどんお話なさって結構なのですよ。
なぜなら言葉は生命ですから、万人に「値なくして与えられたものですから、値なくして与えよ」なのです。著作権やクレジットで揉めることはありません。
実際にこの神話でいったようなことが、自分の心の中で完全に起こっていて、その通り自分は生きてるんだということがおわかりになってきます。
また、怠けていらして、「途中まで行っただけで、それ以上もう行けなくなっちゃった」っていう方も、なかにはいらっしゃるかもしれません。「それじゃあ何にもならないじゃないか」って言ったら、大違いです。
いつも申し上げますように、人間の命っていうのは、死なないんです。ですから「ここまでやった」という自分の思いの言葉は、自分が亡くなったときも、ちゃんと子々孫々なり知人なりに移っていって、直接には勉強していなくても、この勉強をし始めますと、すぐ気づかれる立場に立つことができます。
理屈ではわからなくても「それ本当」と言える立場になります。
ですから自分にはわからないと思っても、完成しなくてもおやりください。完成するのは目的ですけれども完成しなくても無駄にはなりません。
---ここまで。-----------------
人間とは何ですか?と訊かれた時にタカマハラナヤサと答えればいい、
とあります。
なにを言っているのか分かりません。あなたではありません、わたしがです。
でもそれでいいのです。
答えようとしてもきりがないのは分かっています。人間とは何かにではありません、タカマハラナヤサとは何かにではありません。
答えというのは現象です。誰もが考え分かろうと、頑張ります。ブログなど作っていきます。他人の意見を聞きます。
しかしそれらの全てはその人の、ある人の考えを現した現象です。
当たり前だ、と言われてしまいそうです。
ではそれらの現象はどこから来たのでしょうか。どっかの種本から、聞き伝え言い伝えから、馬鹿言うな自分で考えたのだと言う方もいるでしょう。
自分で考えたという方へ、誰かが聞きます。あなたの使う言葉はどこから来ているのですか。
おい、変なところへ問題をづらしていくのじゃない、言葉は昔からのものに時代に応じて追加変化してきたものだ、文句が言いたければ内容に関することにしろ。
内容は言葉で表現され、言葉が無ければ何もいえないでしょう。
だから俺は言葉を持っている。
こうして水掛け論が始まります。
古事記は端的にこう言います。
天地初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。次に高御産巣日(たかみむすび)の神。次に神産巣日(かみむすび)の神。
この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。
独神(ひとりがみ)というのは誰のお世話にもならず独立しているということです。身を隠しているというのは現象として誰かに見られるものじゃないということです。
こうなると自分の考えとはいうものの、誰かの言葉を使って誰かに見せるようにしているのじゃないですかとなってきます。
失礼なことは言うな、わたしは神ではないが真摯な態度でいる。
そうですね、しかし、人格的な態度は考えの内容とは関係無いし問題がづれていくのじゃないですかとなってくる。
これでみても古事記というのはそう簡単に神話だホイで終わらないのです。
今回は分からなくても良い、ということに関してです。
古事記は独りで身を隠している神から始まっています。創造主だからこうなっているという方もいるでしょう。
でも創造主とか神とか呼ばれちゃってますね、どうしましょう。
だからみだりに神の名を唱えるなといわれている。
誰の世話にならずに隠れているから、たまにならいいのですかと、こんどもわけの分からないことになってくる。
巷ではこれが自分の考えだといって証文を残したり取ったりしている。証文自体は歴史的なもので自分で決めたものではないのを知っている。全てはそんな上にのっかかって事が運ばれていきます。それでも頑固にこれは自分の考えだと固執していきます。登録特許制度まであります。
自分の考え主張は言葉で発表されますが、自分の「じ」考えの「か」のどれ一つをとっても自分のものはありません。数千年一万年前に出来ていたものです。(ここの歴史理解は学校とは違っています)
ではこんどは一万年前の古代大和の人に聞いてみましょう。
人間とは何ですか。たかまはらなやさじゃ。もう一度他の人に聞くと、たかまはらなやさです。
現代では百%タカマハラナヤサと答える人はいないのに、古代ではかなりの確立で同じことを答えます。(ここの設定は神は他の銀河からやってきたというのよりはましというだけです)
ではたかまはらなやさはどこから来たのかと問うと、そんなものは知らんそうなっている、と言います。
ここまでくると現代人が使う言葉がどこから来たのか知らないのと通じるものがでてきます。今の人も昔の人も知らないのです。しかし現代人は自分の言葉だと個人のものだと主張しますが、古代大和は共有しているというだけです。
では元々を知らないのを共有できて平和である古代大和と、知らないのに自分のものと主張闘争を繰り返す現代人との差はどこにあるのでしょうか。(古代が平和であるということに納得できなければ、現代のように言論闘争はないとしてもいいですが)
ありもしないおとぎ話を勝手に敷衍しているだけと感じる方もいるでしょう。あいつは馬鹿なことを言っているという場合でも、相手と同じ土俵上での判断の多少の違いに過ぎません。せいぜい学力とか知力とかがくっついてくるだけで、判断形式も文法も言葉使いも同じです。そうでなければわたしの言葉も他の人の言葉も理解できません。
この同じように知らないという土俵に立ちながら、方や知らないといい方や知っていると固執していく違いがあります。
知らないでいられるというのは対象をそのまま受け取ることです。受け取った対象、客体に対して自分の経験知識からする概念を対比させないことです。
知っているというのは過去の概念知識との対比ができることです。
ではここから、両者の共通性を導いてみたい。こんな話は聞いたことがないかもしれません。知ると知らないの両者の共通の出所を探ろうというのです。知る知らないで喧嘩するのではなく、知るとか知らないとか言える根拠を探そうとするものです。
知る知らないはある時点での判断の分岐したものですから、当然共通の基があります。判断以前の基があります。判断は言葉でしますが、言葉以前のイメージがあります。
イメージは言葉へ渡される前に作られなければなりません。このイメージは言葉以前ですから言葉では説明できません。
言葉以前のイメージが無ければ言葉へ受け継がれるイメージとなりませんので、前イメージがあります。ここからは頭脳内の先天構造になっていきます。
前イメージは頭脳内の先天構造の働きからきます。それは知る知らないという判断の現れとなりますので、知的意識を形成する判断の元になる源型があります。(ここには、五感感覚、知識、実践智恵、情感感情、意志の行為の原型が鶏の卵のように一塊であります。)
知る知らないにしろ、その対象がなければならないので、対象を意識する頭脳内の働きがあります。
対象を客観としてみるにはそれを担う頭脳の働きがあります。ここに対象を得る判断と対象に分ける判断との両者の統一体があります。
こうして判断の基なるとなる卵がみつかりましたが、知ると知らないとの合一体としてですので、まだ何らの判断に至るものではありません。
卵を孵して知るとか知らないとか言うにはその動因が要ります。それが父韻です。
取り敢えずここまで。
こころの御柱 (創造意志) こころの原論の古事記。
言霊 今ここ
人間という生き物は一人ただ広いところにおっぽり出されたら、西も東も南も北も分からんのです、何かの表示がなければ。
どんなに頭のいい人間でも、自分の知らない言葉を受けて、これはいいと思ってそこに突き進まない限り、次の段階に進めない。
ウとオで苦しんでいる限りにおいてはアという存在すら分からないのです。だからどうしても教えてくれる人がいなくてはならない。その教えてくれる人というのは自分しかいない。
何かあるのか、まだ何かって、ところが何もない、何かあると思うからやっきになる。ところが何もないと分かったら、今ここで判断できるじゃないですか。すべて何も実体のないことでしょ?意識にないもの。
ところが今ここに立つとまだ来ぬ明日に悩むこともない。何故なら今ここにいる自分も刻々と過去になりつつあるのですから。ですが、心に沸き起こることは先天の成せる働きで、自分という人間は伊耶那岐の神であると同時に伊耶那美の神を包含したもの。
伊耶那岐(いざなぎ)の神。伊耶那美(み)の神。
言霊イ、ヰ。先天構造を構成する十七の言霊の中の十五言霊が現われ、最後に伊耶那岐(言霊イ)と伊耶那美(言霊ヰ)の二神・二言霊が「いざ」と立上り、子音創生という創造活動が始まります。言霊イ・ヰが活動して初めて先天十七言霊の活動が開始されます。この様に言霊イ(ヰ)は一切の創造活動の元となる言霊であります。
「大風が吹くと桶屋が儲かる」という話があります。一つの原因があると結果が現われる。その結果が原因となって次の結果が出て来る。……かくして因果は廻って果てしなく話は続くという事になります。
言霊ウの宇宙から社会の産業経済活動が現われます。言霊オの宇宙から学問という分野の活動が起ります。……では何故ウ言霊から産業経済活動が起るのか。……それは人間の根本智性である八つの父韻が母音言霊ウに働きかける事によって現象を生むからです。……では何故八つの父韻は言霊母音に働きかける事が出来るのか。話は何処まで行っても尽きないように見えます。
この次々に考えられる原因・結果の話に「止(とどめ)」を刺すのが伊耶那岐・伊耶那美二神の言霊イ・ヰであります。言霊イ・ヰは大自然宇宙を含めた人間生命の創造意志と呼ばれる一切の原動力であり、伊耶那岐・美の二神は宗教で創造主神または造物主と呼ばれているものに当ります。
現代では使われなくなりましたが、昔「去来」と書いて「こころ」と読み、また「いざ」とも読みました。伊耶那岐は心の名の気の意であり、伊耶那美は心の名の身という意味となります。心の名とは言霊の事です。そこで生命創造意志である言霊イ、ヰの意義・内容を次の三ヶ条にまとめて書いてみましょう。
一、四言霊アエオウの縁の下の力持ちとなって、これ等言霊を支え統轄します。
二、人間の根本智性であるチイキミシリヒニの八父韻に展開して、四母音に働きかけ、人間の精神現象の一切を創造します。
三、生み出された現象に言霊原理に則った相応しい名前を付ける根本原理となります。
言霊イ・ヰは母音・半母音であり、同時に父韻となるものでありますので、特に親音と呼びます。
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① 一、言霊イは他の四母音言霊エアオウの縁の下の力持ちの如くこれ等言霊を支え、統轄します。
母音エアオウの精神宇宙からはそれぞれに特有の精神現象が生れます。次元ウの宇宙からは五官感覚に基づく欲望性能が、次元オからは経験知識という所謂学問性能が、次元アの宇宙からは感情性能が、そして次元エの宇宙からは実践智という人間性能が生まれます。これら現われ出た人間性能の現象は言霊ウの欲望現象より社会的に産業・経済活動、言霊オより一般に学問・物質科学が、言霊アより感情、引いては宗教・芸術活動が、言霊エより実践智、またこれより政治・道徳活動が現われます。しかし言霊イの創造意志の宇宙からは現実世界に現われる何らの現象もありません。
けれど今、此処で活動する人間の心をよくよく観察しますと、言霊ウオアエよりの現象の底に、それらの現象を縁の下の力持ちという言葉の如く下支えしている生命創造意志言霊イの力があることに気付きます。
言霊ウの五官感覚に基づく欲望性能が現われるのも、その底に言霊イの生命創造意志が働くからです。言霊オの記憶を想起してその現象の法則探究即ち好奇心が起るのも、その底に生命の創造意志が動くからであり、言霊アの感情性能が現われるのも創造意志あっての事であり、更に言霊エの実践智性能も創造意志が動いて初めて発現して来ます。
このように言霊ウオアエから起る諸現象はすべてそれぞれの母音宇宙の底に言霊イの生命創造意志の力が働く事によって発現して来る事が分ります。言霊イは右に示しますように言霊ウオアエを縁の下の力持ちの如く下支えし、統轄します。
② 第二ヶ条の説明に入ります。それは「言霊イは人間の根本智性であるチイキミシリヒニの八父韻に展開して、四母音宇宙ウオアエに働きかけ、これ等四次元からそれぞれ八つの現象の単位を、即ち全部で計三十二の実相の単位を創生する」ということです。
この第二ヶ条は第一条の「言霊イが他の四母音ウオアエを下支えし、統轄する」という事を更に詳細に説明し、その上で母音と半母音であるウとウ、オとヲ、アとワ、エとヱの宇宙の間に入ってその両者を結び、それぞれの次元の現象の単位を誕生させる(言霊イの働きである)八つの父韻チイキミシリヒニなる人間天与の根本の智恵をクローズ・アップさせる説明となります。
言葉がやゝ難しくなりましたが、平たく述べますと、「人間はどの様にして外界の出来事を、それが現象として認識することが出来るのか」という人類の認識論という学問が始まって以来数千年間、いまだかって完全な解明がなされていない大問題に最終的な解答を与える素晴らしい事柄を提示したものなのです。こう申上げても何の事だかお分かり頂けないかも知れません。順次説明して参ります。
向うのお寺の鐘の音が「ゴーン」と鳴りました。何故人の耳に「ゴーン」と聞こえたのでしょうか。「そんな当り前の事を言って何になる。お寺の鐘を坊さんが撞いて音が出た。その音を人が耳の聴力で聞いたのだ」と言って納得してしまう事でしょう。けれどそう簡単に片付けてしまえない事があるのです。
棒で撞かれた鐘は果たして初めから「ゴーン」という音を鳴らしているのでしょうか。撞かれた鐘は振動して、その振動による音波を出します。鐘はただ無音の音波を出しているだけなのです。そしてその音波が人の耳元に達したとき、人は「ゴーン」という音を聞く事となります。この経緯を合理的に説明するにはどうしたらよいのでしょうか。そこに言霊学独特の八父韻が登場します。
人がいます。向うに鐘があります。鐘が鳴ったとしても、人がいなければ鐘がなったかどうか分りません。逆に人がいたとします。けれど鐘が鳴らなかったら、人はその音を聞く事はありません。どちらの場合も主体と客体の関係となることはない訳です。
鐘が鳴り、その音を人が聞いた時、聞いた人が主体(言霊ア)、聞かれた鐘が客体(言霊ワ)の関係が成立します。けれど主体であるアと客体であるワは母音と半母音であり、「身を隠したまひき」であり、その双方共に相手に働きかける事はあり得ません。双方だけではその間に現象は起らない事になります。
「人が鐘の音を聞いた」という現象が生じるのは、主体アと客体ワの他に、根源的な宇宙生命の創造意志である言霊イ(ヰ)の実際の働きをする人間の根本智性である八つの父韻の為す業なのです。八つの父韻が主体と客体を結んで現象を起こす事となります。
では八つの父韻はどんな形式で主体と客体を結びつけるのでしょうか。主体と客体が結び付く時、能動的なのは主体であり、先ず主体側から客体に向かって問いかけをし、客体側は主体の呼びかけにのみ答えます。この事を父韻の働きではどういう事になるのでしょうか。
八つの父韻チイキミシリヒニは作用・反作用の関係にあるチイ・キミ・シリ・ヒニの四組から成ります。この四組の中で、濁音が附けられる音チキシヒが主体側の父韻であり、濁点が附けられないイミリニの父韻が主体側よりの呼びかけに答えるものです。
主体と客体だけでは決して現象は起りませんが、その間に八父韻が入り、両者を仲介し結びますと、主体と客体の間に現象が生れます。その時、主体と客体の間に入る八父韻の中で、主体側の客体側への問いかけの働きとなるのはチキシヒの四父韻であり、その問いかけに答えるのが客体側のイミリニの四父韻という事になります。
主体側の問いかけである父韻チには客体側のイが、父韻キにはミが、父韻シにはリが、そして父韻ヒにはニが答える事となり、その答える時現象が生れます。このチに対してイ、キに対してミ、シに対してリ、ヒに対してニが反応し、答えること、それを主体と客体のリズムの感応同交というのであります。
先に言霊父韻の説明の所で、八つの父韻が四つの母音に働きかけて計三十二の子音言霊を生むと申しました。また主体と客体のみでは現象は起らないが、主体と客体との間に八つの父韻が入り、主体と客体とを結ぶ時、三十二の現象の単位である子音を生むと申しました。その子音を生むメカニズムを、八つの父韻の陰陽の二つの働きに分けて更に詳細に正確に説明した事になります。お分かりいただけたでありましょうか。
こころの御柱 (創造意志) こころの原論の古事記。
上の説明を更に整理してみましょう。人間の心にはそのそれぞれより現象が生れるウオアエの四母音の次元があります。言霊イの次元は、それ自体からは現象を生むことのない縁の下の力持ちの次元です。ウオアエの四次元はそれぞれウヲワヱの四つの半母音宇宙と主体と客体の関係にあります。
このウ―ウ、オ―ヲ、ア―ワ、エ―ヱの四対の主客対立の間にチイキミシリヒニの八父韻が、言い換えますと、主体側のウオアエにチキシヒの四父韻が働きかけ、客体側のウヲワヱにイミリニの四父韻が寄って行き、そこにチイ、キミ、シリ、ヒニの陰陽のリズムが作用・反作用の感応同交を起す時、初めて次元ウオアエの四界層に現象が起る事となるのであります(図参照)。
この事を言霊イ・ヰを観点として簡単にまとめて見ますと、図の如き構造が完成します。人間の生活一切の営みは、次元ウ―ウ、オ―ヲ、ア―ワ、エ―ヱの主客の感応同交による四次元界層の現象でありますが、同時にそれは創造主神と呼ばれ、造物主と宗教界で崇められる人間生命意志(言霊イ・ヰ)の根本活動である言霊父韻の働きに依るのである、という事であります。人間の一挙手・一投足の動きはその奥にこの様な大きな内容を秘めているという事を忘れてはなりません。
人が鐘の音を聞く、という現象に加えて、もう一つ例を挙げてみましょう。人がいます。向うに青い葉の茂った高い木があります。普通の常識から言えば、木があり、それを人間の眼の視覚が捉えたという事になります。この簡単な事も心の根本構造である言霊学の見地からすれば、人それ自身は純粋な主体であり、樹それ自体は純粋な客体であり、この両方だけでは両者の間に現象は起り得ません。
そこに人間の精神生命の根本の創造意志(言霊イ・ヰ)が働き、両者間を取り持つ時、初めて現象が起ります。ここまでは前例の人と鐘との場合と同じです。この現象を更に細かく説明しましょう。人と木との間に起る現象には四次元、四種類の可能性があります。
先ずウ次元の現象が考えられます。人間と木との間に考えられる現象としては、この木の高さは、また人と木との間の距離は、幹の直径は、……等々の問題です。即ち人間の五官感覚意識に基づく問題です。
次にオ次元の現象と言えば、この木は学問的には何科に属する植物か、常緑樹か、落葉樹か、木材として利用の可能性の有無等々が考えられます。
アの次元では、この木の写真の芸術的価値を出すのは朝焼け、昼間、夕暮のどれが効果的か、風にそよぐ枝の葉擦れの音の音楽的効果如何……等々でありましょう。
そしてエ次元の問題としては、車の往来が激しくなり渋滞が起っている。この木を切り倒してでも道路を拡張すべきか、どうか、等が考えられます。
以上、人と木との間に起り得る現象は四種類が考えられるのですが、それ等四種類の現象は人間が生来授かっている性能がそれぞれ違っておりますから、人と木との間に入る人間の根本智性である八つの父韻の並びの順序も当然違って来る事が考えられます。
言い換えますと、人間天与の四性能を示す四母音(ウ―ウ、オ―ヲ、ア―ワ、エ―ヱ)に対して、生命意志の働きである八父韻はそれぞれ相違する配列を以って対応、感応することとなります。これも言霊イ(創造意志)の霊妙な働きであります。
7の1・2・ こころの御柱 (創造意志) こころの原論の古事記。
③ これまで伊耶那岐の神(言霊イ)の内容の第二について長く説明をして参りました。そろそろ言霊イの働きの第三点の話に入ることにしましょう。この第三点は「第二点の働きによって生み出された現象に、言霊原理に則り相応しい名前をつける」事であります。この第三点は誰も気付かない事で、しかも言われてみればいとも当然の事とも思われ、それでいて人間の生命の営みひいては人間の文明創造の仕事に大変重要な意義を持つもの、と言う事が出来ます。説明して参りましょう。
言霊イ(ヰ)は人間の生命創造意志の次元であります。創造と言いますと、現代人は普通言霊ウ次元の産業・経済活動に於けるビルや道路、飛行場、船舶などの建設、建造を、または言霊オ次元の学問社会に於ける新学説の発見・発表などを思い出すのではないかと思います。更にまた言霊ア次元に於ける諸種の芸術活動、音楽・絵画・彫刻・小説等々の創造、その他各種スポーツの振興等も同様でありましょう。また言霊エ次元に於ける新しい道徳理念の発表、政治倫理の発見等も創造行為と言う事が出来ます。
上に羅列いたしました各次元の活動・行為がすべて社会の中の創造である事に間違いはありません。この誰も疑いを差し挟むことがない事実であることが、若し「○○がなかったとしたら」という前提を許すとすると、それ等すべての創造行為が一辺に「無」に帰してしまうという、その様な前提がある事にお気づきになる方は極めて少ないのではないでしょうか。
「そんな魔術のようなものがこの世の中にある筈がない」と思われるでしょう。けれど極めて真面目な話、それは厳然と存在するのです。それは何か、「名前」です。
貧しい家庭の中でも、今ではエアコン、テレビ、携帯、パソコンなどの科学製品は当り前のように見られる世の中となりました。その内部の機械構造は分らなくても、大方の人は操作が出来ます。けれどこれ等の電化製品が発明された時、若しそれに名前が付かなかったらどうなったでしょうか。「テレビジョン」という名前が付けられなかったら、ただ人は「アー、アー」というだけで、テレビの普及どころか、それは世の中に存在しないのと同じで終ってしまうのではないでしょうか。
「何を言い出すかと思ったら、そんな途方もない事を。名が付かないなんて事はある筈がない」と言われるかも知れません。発明されれば、その物品に名前は付けられるでしょう。でも若し付けられないとしたら。……SF小説のような恐ろしい世界が予想されもするのではないでしょうか。
物品に対してではなく、この世に生を受けた人間に名が付けられなかったら、どうなるでしょうか。その人には戸籍がありません。国籍もありません。小学校にも入れません。就職も出来ません。正式な結婚も絶望です。その人の一生は奇想天外なものになるでしょう。「そんな有りもしない事を何故言うのだ」とお叱りを受けるかも知れません。けれど私はそういう自分の名前を持っていない人を一人知っています。
先の大戦に出征し、軍隊の仲間は全部戦死し、自分だけ一人日本に帰って来た時は、自分を知っている人はすべて死んでおり、自分の名前も戦死という事で抹殺されて、法務省へ再三の戸籍復活の請求にも「事実を証明する人なし」という理由で却下され、苦悩の中から余生の五十年間を今も尚生きている人を一人知っています。その人がどのような人生を歩まれて来たか、聞く人がいたら多分開いた口が塞がらない事でしょう。
名前がなかったら、という仮定の事について長々とお話しました。人でも物でも、その名前というものは、私達が普段思っているより遥かに重大な事を含んでいるのです。二十世紀のヨーロッパの有名な哲学者、ハイデッガー、ヤスパース等の人達は「物事の実体とは何か、それは名前だ」と言っています。新約聖書、ヨハネ伝の冒頭には「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。この言は太初に神と共に在り、万のものこれに由りて成り、成りたるものに一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命あり、この生命は人の光なりき。……」と説かれています。
上のように物や人の実体であり、生命であり、光でもある名前を命名する根元的な役割、力、生命は何処から出るのでしょうか。それが言霊イ(ヰ)であり、言霊イの第三番目の重要な働きという事が出来ます。八つの父韻が四つの母音に働きかけて生れて来る種々の現象に、それに相応しい名前を与え、この人間社会の生々発展の基礎的役割を果たす事、それが言霊イの第三の内容であり、役目なのです。
言霊母音ウオアエの四次元から生れて来る種々なる建設、発見、発明、主張、学理、理念、これ等は勿論社会の創造物であります。そしてその様な社会の創造物相互の関連ある進展が文明社会の創造発展と言うべきでありましょう。と同時に、それら生み出された現象上の進歩・発展の創造物に名前をつけること、そしてその名前と名前の関連する精神的発展、これも人類文明の限りない発展の実体ということが出来るのであります。
人類社会に創造される物事につけられる名前自体の限りなき発展、それが人類文明の創造という事が出来ます。
以上で言霊イ(ヰ)の三つの言霊学的内容についての説明を終えることといたします。この三つの内容について復習をしますと、――
●第一に言霊イは母音ウオアエ四宇宙の最終・最奥の次元に位して、これら四つの母音宇宙の縁の下の力持ちとなって統轄します。
●第二に八つの父韻に展開して、母音ウオアエに働きかけ、三十二の現象子音を生みます。
●第三にその生まれ出た三十二の最小の現象の実相単位のそれぞれを一個乃至数個結び合わす事によって生まれ出る現象に名前を付けます。
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広い広い心の宇宙の中に何かが始まろうとする兆し、言霊ウから次第に宇宙が剖判し、更に宇宙生命の創造意志という言霊イの実際の働きである八つの父韻が他の四母音宇宙に対する働きかけの話となり、心の先天構造を構成する十五の言霊が揃い、最後に母音であり、同時に父韻ともなる親音と呼ばれる言霊イ(ヰ)が「いざ」と立ち上がる事によって先天十七言霊が活動を開始することとなる人間精神の先天構造の説明が此処に完了した事になります。この十七言霊で構成される人間精神の先天構造を図示しますと次のようになります。この先天構造を古神道言霊学は天津磐境と呼びます。
この名前を説明しましょう。天津は「心の先天宇宙の」意です。磐境とは五葉坂の意、図を御覧になると分りますように先天図は一段目に言霊ウ、二段目にア・ワ、三段目にオエ・ヲヱ、四段目にチキシヒイミリニ、五段目にイ・ヰが並び、合計五段階になります。五葉坂とは五段階の言葉の界層の構造という意であります。
人はこの心の先天構造十七言霊の働きによって欲望を起こし、学問をし、感情を表わし、物事に対処して生活を営みます。人間何人といえども天与のこの先天構造に変わりはありません。国籍、民族、住居地、気候の如何に関らず、世界人類のこの心の先天構造に変わりはありません。この意味で世界人類一人々々の自由平等性に何らの差別はつけられません。
人間は一人の例外もなく平等なのです。またこの意味に於いて人類を構成する国家・民族の間に基本的優劣は有り得ません。また人類がその「種」を保つ限り、この先天構造は永久に変わることはありません。この先天構造に基本的変化が起ることとなったら、その時は人間という「種」が人間とは違った異種に変わってしまう事となります。
こころの御柱 (創造意志) こころの原論の古事記。
ここまでの説明で心の先天構造を構成する十七言霊の中の十五の言霊が登場しました。言霊母音と半母音ウアワオヲエヱ七音、言霊父韻チイキミシリヒニ八音、合計十五音となります。そこで最後に残りました言霊イ・ヰ即ち伊耶那岐・伊耶那美二神の登場となります。その説明に入ることとしましょう。
この天津磐境と呼ばれる心の先天構造は人間の心の一切の現象を百パーセント合理的に説明する事が出来る唯一の原理であります。人類社会の後にも先にもこの原理に匹敵する、もしくはこれを凌駕する原理は出現し得ない究極の原理であります。古来伝わる宗教・哲学の書物の中にはこの天津磐境の原理を象徴・呪示するものがいくつか認められます。その一つ、二つについてお話をすることにします。
中国に古くから伝わる「易経」という哲学書があります。易の成立については「古来相伝えて、伏羲が始めて八卦を画し、文王が彖辞を作り、周公が爻辞を作り、孔子が十翼という解説書を作った」と言われています。その易経の中に太極図というのがあります(図参照)。太極図について注釈書に「易に太極あり、是、両儀を生ず。両儀、四象を生じ、四象は八卦を生じ、八卦は吉凶を定め、吉凶は大業を生ず」と説明しています。
この太極図を天津磐境と比べてみて下さい。構造は全く同じように見えます。けれど磐境は物事の実在と現象の最小単位である言霊を内容とするのに対し、太極図は哲学的概念と数理(―は陽、--は陰)を以て示しているという明瞭な相違があります。この事から天津磐境が先に存在し、易経は磐境の概念的写しであり、易経は磐境の呪示・表徴であり、指月の指に当ることがお分かり頂けることと思います。
次に印度の釈迦に始まる仏教に於いて人間の精神の先天構造をどの様に説明しているかを見ましょう。
古くからあるお寺へ行き、普通二重(二階)の建築で、上の階の外壁が白色で円形、または六角形のお堂を御覧になられた方があると思います。これを仏教は多宝塔と呼びます。この多宝塔と、この塔と共に出現する多宝仏(如来)については、仏教のお経の中のお経と称えられる法華経の「妙法蓮華経見宝塔品第十一」という章の中で詳しく述べられています。その説く所を簡単にお話すると次の様になります。
法華経というお経は仏教がお経の王様と称える最も大事なお経でありまして、その説く内容は「仏所護念」と言って仏であれば如何なる仏も心にしっかり護持している大真理である摩尼宝珠の学を説くお経とされています。
摩尼宝珠の摩尼とは古神道言霊学の麻邇即ち言霊の事であります。見宝塔品第十一の章ではお釈迦様がこの法華経(即ち摩尼)を説教なさる時には、お釈迦様の後方に多宝塔が姿を現わし、その多宝塔の中にいらっしゃる多宝如来が、多宝塔の構造原理に則ってお釈迦様の説教をお聞きになり、お釈迦様の説く所が正しい場合、多宝如来は「善哉、々々」と祝福の言葉を述べ、その説法の正しい事を証明するという事が書かれているのであります。
先にお話しましたように、天津磐境の精神の先天構造によって人間の心の営みの一切は実行・実現され、しかもその実現した一切の現象の成功・不成功、真偽、美醜、善悪等々はこの磐境の原理によって判定されます。
同様に仏教の最奥の真理を説く釈迦仏の説法は、その後方に位置する多宝塔の多宝仏により、多宝塔の原理によってその真偽が判定され、その真は多宝仏の「善哉」なる讃辞によって証明されます。この様に多宝塔とは言霊学の天津磐境を仏説的に表現し、説述したものと言う事が出来るのであります。これに依って見ましても、言霊学に説かれる先天十七言霊にて構成される人間の心の先天構造、天津磐境は人類普遍の心の先天構造に関する究極の原理であることが理解されるでありましょう。
仏教の多宝塔の外壁が何故円形または六角形であるか、それは人間の心の先天構造は生れながらに与えられた大自然の法則だからであり、人為ならざる大自然の形状は普通円形で表示され、その数霊は「六」であるからであります。以上で「古事記と言霊」講座の精神の先天構造の章を終ります。
こころの御柱。もう一度。 (創造意志) こころの原論の古事記。
伊耶那岐(いざなぎ)の命・言霊イ、次に妹伊耶那美(いも・いざなぎ)の命・言霊ヰ。
古事記は精神の先天構造を説明するに当り、先ず意識の初めとなる天の御中主の神・言霊ウから始まり、それが主体と客体である高御産巣日の神・言霊アと神産巣日の神・言霊ワに剖判しました。
剖判活動は更に続き、高御産巣日の神・言霊アは天の常立神・言霊オ、更に国の常立神・言霊エと剖判し、客体である神産巣日の神・言霊ワは宇麻志阿斯訶備比古遅の神・言霊ヲ、更に豊雲野の神・言霊ヱと剖判します。
更に主体と客体とを結んで現象を発生させる八つの父韻が現われます。ここまでを図で示すと次の如くになります。
さて此処で考えてみましょう。言霊ウアオエと言霊ワヲヱは母音宇宙、半母音宇宙として厳然と実在するものでありますが、その宇宙の方から仕掛けて現象を現わすことはありません。このことは以前お話しました。とするならば、ウの宇宙からアとワの宇宙に剖判したり、父韻が主体と客体を結び付けて現象を起こすという活動の力は何処から出て来るのでしょうか。
そこに先天構造の最後として現われるのが伊耶那岐(いざなぎ)・伊耶那美(いざなみ)の二神(ふたはしら)、言霊イ・ヰであります。先天構造十七神の十五神が出揃い、最後に「伊耶」として登場する神、それは言葉の如く「いざ」と創造する神であります。即ち母音・半母音宇宙を剖判させ、また主体と客体の宇宙を結んで現象を生ぜさせる八父韻の働き、そのすべての力はこの伊耶那岐、伊耶那美の言霊イ・ヰが原動力なのであります。
昔、「去来」と書いて「いざ」と読みました。また「こころ」ともいいました。
伊耶那岐とは「心の名の気」であり、
伊耶那美とは「心の名の身」のことです。
そして心の名とは言霊そのもののことであります。この故で伊耶那岐・伊耶那美の二神、言霊イ・ヰは万物創造の原動力であり、宗教的には最高主神と呼ばれます。このことによって言霊イ・ヰは母音・半母音であると同時に特に万物の生みの親として親音とも呼ばれているのであります。
以上のことを踏まえて人間精神の先天構造図を完成させますと図の様になります。人間は一人の例外もなく図に示されます十七個の言霊の活動によって人間生活の一切の現象を生み出し、創造して行きます。
言霊イ・ヰだけが他の母音ウアオエと半母音ワオヱと異なり、親音と呼ばれることをお話しました。言霊イ・ヰは他の母音・半母音とどのように違うのでしょうか。この事を考える事によって、読者の皆様が多分、夢にも思わなかった真実に気付かれることでしょう。その事を含めて言霊イ・ヰ親音の働きについてお話を進めて行きましょう。
言霊イ・ヰが現われたことで、母音アオウエイ、半母音ワヲウヱヰのすべてが出揃いました。母音と半母音が結ばれて子音である現象が生まれます。ウ・ウの母音・半母音宇宙からは五官感覚に基づく欲望現象が出て来ます。言霊オ・ヲが結ばれると経験知現象が生まれます。ア・ワの結合からは感情現象が生まれます。エ・ヱが結ばれて実践智現象が生じます。
では言霊イとヰが結ばれると何が生まれるのでしょうか。イ・ヰの次元に於いては目に映る現実の現象は何も生まれません。現実的には何も現われることはありませんが、実はイとヰが結ばれると、チイキミシリヒニの八つの父韻が活動を起こし、それがウオアエの四次元のそれぞれの母音・半母音を結び付け、欲望現象、経験知現象、感情現象、実践智現象を起こすこととなります。
言い換えますと、イ・ヰ次元の活動はそれだけでは後天的な現象は起こりませんが、そのイ・ヰの働きである八つの父韻がイ・ヰ以外の四段階の母音・半母音を結んで、それ等四段階の現象を起こすのです。そこでイ・ヰの言霊を創造意志と呼ぶのであります。
この創造意志の性能は飽くまで先天構造内の活動であって目に映ることがなく、“縁の下の力持ち”となって他のウオアエ(ウヲワヱ)次元の現象を生み、この四次元を統轄しているのであります。言霊イ・ヰは他の四次元の母音宇宙より起こる現象を創造します。そのことから申しますと、次のように言うことが出来ましょう。
ウの宇宙から起こる欲望現象も、実はイ・ヰの創造意志性能が働くからであり、オの経験知現象も創造意志が縁の下の力持ちとして働くからであり、アの感情現象もイの生きようという創造意志あるが為であり、エの実践智が働くのも、イの創造意志活動のお蔭である、ということが出来ます。
言霊五十音図の中から十七の先天言霊だけを書いた図を想像してみて下さい。言霊イ・ヰの親音は縦にアオウエイ、ワヲウエヰの母音、半母音をそれぞれ統轄しています。また横に自らの働きである八つの父韻を以ってアオウエ、ワヲウヱのそれぞれの段を結び、アオウエ四つの段階のそれぞれの特有の現象を創生します。(創生した三十二の子音が森羅万象構成の単位となります)
親音イ・ヰはこのように人間精神の全活動の原動力となる創造意志の本体でありますが、それ以外にもう一つ重要な役目を果たしているのです。普段人々が全く意を留めていない創造意志の性能について今より触れることといたします。
それは何か。自ら創生したものに名を付けるということです。どんなものを創造しても、それに名が付かなければ、ただ「あー、あー」と言うだけで、それがないのと同様です。そのものに適当な名前がついて初めてそのものは世の中の時処位が定まります。世の中から認知されます。大きく言えば人類文明の一つとして認められたことになります。
この重要な役割を言霊イ・ヰが担っていることに気付く人はそれ程多くはないでしょう。この重要な役割を一手に引き受けているのが言霊イ・ヰの親音なのであります。親音イ・ヰの働きを箇条書きにまとめてみましょう。
一、親音イ・ヰは人間精神の天之御柱(アオウエイ)、国之御柱(ワヲウヱヰ)を音図の縦に統轄し、
二、言霊イ・ヰは親音として自らの働きであるチイキミシリヒニの八父韻を音図の横に展開してアワ、オヲ、ウウ、エヱの四段階の母音・半母音を結合させ、合計三十二の現象子音を創生し、森羅万象一切を生み出します。
三、創生した一切のものに、自らの所有である言霊五十音を駆使して、そのものに最も適した名前をつけ、社会に於ける時処位を定めます。
以上、宗教において最高主神と崇められ、言霊学においても一切の言霊活動の原動力である言霊イ・ヰの性能についてお話いたしました。精神の先天構造を構成する十七の言霊の最後の伊耶那岐・伊耶那美の二神、言霊イ・ヰが出揃いますと、「いざ」と創造意志が働き、先天構造が活動を開始します。
それによって言霊イ・ヰの実際の働き手である八つの父韻が四組の母音・半母音に働きかけ、主体と客体を結んで8×4=32で、合計三十二個の後天現象の単位・要素を生みます。現象子音の創生です。言霊学でこの現象を「子生み」と申します。
先天構造の話が終りますと、次に「子生み」の話に移ることとなりますが、先天構造は言霊学すべてに対して「始め」の役割を担っています。
先天構造の内容とその働きがよく分かりませんと、後天構造の内容を理解する事が難しくなることが多々起こって参ります。そこで「子生み」の話に入る前に先天構造の理解を深めるために、もう一度復習をしておくことにしましょう。
宇宙剖判の順序に従って十七先天言霊を並べますと、上の図となります。このような先天構造の配列を天津磐境(あまついはさか)と呼びます。天津は先天の意。磐境(いはさか)は五葉坂(いはさか)の意です。図をご覧下さい。先天図は五段階の言葉の層になっています。これを五葉坂(いはさか)と書き、磐境(いはさか)とまとめました。全体で天津磐境(あまついはさか)です。
次に先天構造の母音、半母音、八父韻をそれぞれを主体、客体、底辺とした五十音図の枠を作ります(図参照)。向って右の縦の母音の並びを天之御柱(あめのみはしら)と呼びます。アオウエイの縦の並びは主体を表わします。向かって左の縦の半母音の並びを国之御柱(くにのみはしら)と呼びます。客体を表わします。
次に天之御柱と国之御柱とを結ぶ横線のチイキミシリヒニの八父韻を天之浮橋と呼びます。
アオウエイの五母音が縦にスックと立った姿、五重、これが人間の心の住み家です。家(五重)の語源となります。五母音がかく並んだ人間の自覚態を、五尺の柱として伊勢神宮には本殿床上中央の床下に祀られています。心柱、忌柱(いみはしら)、天之御量柱(あめのみはかりばしら)などと呼ばれます。神道ではこれを「一心之霊台、諸神変通之本基」と呼んで尊んでいます。「一切の現象はこれより発し、終わればまたここに収まる」と謂われます。
言霊学における五つの母音を外国では如何に呼んでいるか、五母音との対照図は「古事記と言霊」に載せてありますが、念のため此処でも図にして載せることとしました。
人間とは何か。たかまはらなやさ。。伊耶那岐。 (創造意志) こころの原論の古事記。
判断の元となる卵は見つかりました。人間とは何かという卵です。あるいは知る知らないとは何かでもいいですが。
この人間界では卵の色は五色に分かれています。
五感感覚の直接的表現次元からする色付け、言霊ウの次元、そして欲望、産業経済社会へと発展。白。
経験記憶抽象概念からする色付け、言霊オの次元、そして、知識、学問、科学、実用社会へと発展。黒。
感情情感宗教芸術からする色付け、言霊アの次元、そして、神、絶対者、悟った者の世界へと発展。青。
まつりごと道徳実践智識からする色付け、言霊エの次元、そして、道徳政治による治世社会へと発展。赤。
創造意志そのものからする色付けです。言霊イの次元。そして、生命意志精神高天原の世界へと発展。黄。
それぞれ実在はしますが現象はしていません。つまり、
人間現象を超えて、人の先天構造の中に実在していますが、それらのものとしては現象していません。
どの次元でも良いですが、例えば、熱い寒いの五感感覚を得るのは、感じる本人と感じる客体側の両方がなければ成立しないということです。前回のお寺の鐘がゴーンと鳴る例を思い出してください。この世の最高の例解です。宗教、哲学の全難問が吹っ飛んだようです。以下各次元とも同様。
五色の色付けはそれぞれ違う形をもっていますが、その五色全体を持ち合わせているのが人です。五は「い」とも 読み、ひふみよい、そのい(五)の付く行為を行なえのが人間というわけです。生きる(五いきる)、言う(五いう)、命(五いのち)、家(五いえ)、息(五気いき)。
人は霊止(ひと)、一(ひ)十(と)とも書きます。前者は霊魂ではなく言霊の留まるということで、後者は五十音図横列十音の母音から半母音へ行き交うということです。
色即是空空即是色はこの間の関係を現していますが、その内容として両者への行き来は示していません。その内容が父韻と呼ばれ両者間を行き交い、客体側と人間側を現象させるものです。
古事記では八種類の重層的な八種の父韻を挙げています。言霊チイキミシリヒニ。ここに淡(アワ)路のア行とワ行が加わるわけです。
(仏教でいう八正道を八つと分けてしまわないで、その各々がそれぞれ八正道を内包しているとする方向でいくと父韻に辿り着けるかもしれません。しかし八正道はどこかに正しいものがあってそこから見て往け、考えていけというもので、どういうものが正しいのかを語ってはいません。)(単なる予想的な思いつき発言で括弧内のことです。)
こうして人間とは何かの色付けができてきました。
上記の五次元と一十(ひと)の十行を掛け合わせるとあいうえお五十音になります。そうです。人間とはあいうえお五十音のことなのです。図示すれば五十音図になります。各次元で組み合わせがありますから、五十音図は五種類あります。小学校で教えているのは金木五十音図と呼ばれるもので、言霊ウ次元のための人間造りに役立つようになっています。
では試しにどんな話題題材でも構いませんから、人間とはかくかくのものであるを検討してみてください。
神を拝むのが人間である。このことは、神への思い感情はア次元から出ていますが、拝むことは次元の低いオ次元からでてきます。ア次元を保持しているのなら、拝むではなく、斎きたてることになります。
これがわたしの人として考えである。このことは、全ての考えはどのように人格的に飾られていようと、立派であろうと嘘であろうとオ次元のものです。
人間とは考える葦である。これはオ次元。含蓄の深みは本人のみ、あるいは理解した者のみしか行き渡らない。
献身できるのが人です。献身にはウオアエの各次元があります。宗教的献身まで高まる。下心を持ったものや、試してみるもの、こうと決めてかかるもの、それぞれ異なります。
人間とは悟りを目指さねばならぬ。このことは、悟りを目指すと口に出すことが既に向こうにあることを示しています。悟りはア次元ですが目標を持つことは低次のオ次元です。
人間とは霊位を高める為努力するものです。このことは、考えられ説明できる霊位のことを言っているなら、来世にせよ現世にしろ、単なるオ次元のお話し作り事で、少々の例外として説明考えられない出来事としてイ次元があります。
等々。
こうして各次元での人間とは何かの返答があります。また、同一次元でも、横八列からの出てくる場所によって違いがでてきます。若干の例外として、赤ちゃんの世界がありますが、赤ちゃんは全次元が同時発生同時進行です。
答えは一つの現象ですが、それを浮き上がらせたものは、人の先天性です。先天構造から出てくるものですが、人は先天性を意識できませんから、自分の言っていることの次元内容を知りません。ですので喋っていることだけが全てということになりがちです。
人ごとのように書いていますが、自分の書くことは正しい、うまく行っているという感じは多かれ少なかれ誰でもが持ってしまいます。観念で書く世界のことはおざなりを元としていますから、多少でもその場にあっているとピタリと分かったように思えます。気にしていた現象の一つ二つが解説されれば大当たりにまでなってしまいます。
心持ち態度が真剣真面目であっても人の思考構造が変わるわけではありません。内容が高級になることもありませんが、共感と人気は出るでしょう。このブログもファンになている方もいますが、多かれ少なかれ概念記述しかないのに気づいてもらわなければなりません。
今回のシリーズも古事記の解説本を元にした概念操作でしかないのです。一応先天を司る伊耶那岐、美まできましたが、私自身一度として、神の御名を自分の心に照らし合わせたことがない。全て単に考えたこと、概念を寄せ集めただけのものです。自分の頭で考えることが如何に非人間的な現代人を作っていることか。
小さな自己経験の知識を大事に扱うように導き、自分で考えて大きく育てるように教育されています。知識に固執する頑固な欲の塊を育てているようなものです。プラスの方向に向えばいいことですが、中国の万博のように知識欲のない人達に新しいものを見せようと思っても入場者は増えることはなく、無駄になることもあります。
このブログは寄せ集めた知識のご開帳みたいなもので、何の御利益もありません。振りかざしたい、見せたいという知識を捨てきれない執着からできています。いい年してそんな未練を斬りたいところですが、むずかしいですね、大変なことです。
今回は人間とはタカマハラナヤサである、しかし、そんなことは分からなくて良いのだよというところからきています。
相変わらず分かりませんが、、、
それで良いのじゃ、、、、
というところですかね。。。。
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じっとしていると、ここで心が揺れます。
分からないままで済ましたくない。多少は反省したふりして書けるのじゃかと、。
確かにこうした下司根性がでてきます。。
続けるための準備までしようとしています。
現象を生じるのは潜在性があってのこと、人の世界の潜在構造はタカマハラナヤサからきている。どんな高級低級な考えであっても、それを産み出す潜在十七言霊のせい。潜在性に言及しないものは全て同列、オ次元の中で勝手にやってください。しかし、人には潜在性を語る言葉はない、語れば現象を語ることになり、潜在じゃない。古事記にも独神と書いてあり誰の世話にならない、できないと書いてある。しかも隠れているという。見えないものは語れない。語れば見えたものとして語った偽物。だから分からないままでよい。分かったとするのは自らを貶めるもの。上に昇って高次元から見るようにすればいいだけ。
しかし、古事記の思想を作った古代大和は凄い。
五千年以上も前に人間の全精神問題を解決してしまっているじゃないですか。
二千年前の安万侶さんは実際に潜在構造を解説してくれているではないですか。
そうですね。後はわたし次第、あなた次第ですね。
自分の頭を占領した知識を追い出すことですね。
追い出す人はわたしではなく、タカマハラナヤサですね。
でも人にはそれ相当分とか因果とか縁とかがあるので、今すぐというわけにはいきません。
ああ。
こうした言い訳も赦しちゃうのですね。
「 自我というものが自分の心の中に生きていて、それは幻だけれども自分以上に自分のことを主張する、ということをお分かりになればよろしいです。本当の自分じゃない。自分の頭の中に入り込んでいる幻の自分です。本当は無いものですから。これの本性が金毛九尾っていいます。 」
「自我というものがないのにある。その後で金毛九尾がせせら笑っている。何があったって実体がない虚なのですから。人間がただ妄想した産物。戦う相手は自分なのですから。完全に認めると「そうか」といって消える。
知識に翻弄されますと柄にもなくいい職人でもないのに高価なカンナを買ってしまったようなものです。持っていることをただ威張っているだけで使いようがない。(笑)何も仕事ができない。自分は仕事ができないと思えばそこから始めるより仕方がありません。いい道具を買ってしまうといい大工になったように感じる。」
「真理ということから観れば我はありません。「本当はそうだけど」と言って自分を主張する。そこに我が出て来る。」
以下のコメントがありました。
コメント(1)
では、解いてみたまえ。
《わたしはある》
2010/5/22(土) 午前 1:30[ 万軍の主ヤハウェ(ペテロ) ]
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コメントにある《わたしはある》は外国語からの訳でしょうが、原語が分かりません。原本は聖書ですね。
各国語訳となって流布されているものでしょうが、どこの国の国語から取れたものでしょうか。
一応、英訳、または、ギリシャ語訳からということにしておき、言語のニュアンスは問わないことにします。わたしにも分かりませんので。
次に、万軍の主さんの名前からすれば、旧約から取られたもののようですが、新約にもありますので、どっちを取るかで違いますが、どちらでしょうか。
日本語に訳されたものとして、ほかにもありますが、わたしのイメージに沿ったものにしていきますのでよろしく。
さて、万軍の主さんの言うところを確かめたいところですが、余計な知識は仕入れないままにしておきましょう。
また当方のブログのどの当たりに対するものなのかも、知らないままにしておきます。
《わたしはある》というのは、新約のほうからか、旧約のほうからなのかで、それぞれ歴史事情が違ってきますが、それも問わないでやってみようと思います。
つまり、ヤハウェ、モーゼ、キリスト、万軍の主さん、そしてわたしにあっても共通した解を得たいと思います。ヤハウェ、モーゼ、キリスト、を持ち出してくるとやっかいになることでしょうから、なるべく自分に引き付けた、万軍の主さんも共感できるような解にしたいと思います。
聖書の中の言葉なのでそれに沿って答えてもらいたいというのでしたら、期待外れになります。
ここの話は次のようなこととします。
モーゼが問う、「イスラエルの民にあなたを何の神であるといったらよいのですか」と。その時の神の答が「I am that I am.」
または、
「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。
「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。」
8:24、8:58も同じです。
「彼らが『ナザレのイエスだ』と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。」
(これはいずもギリシア語原典では「エゴー エイミ」なのです。)
または、わたしは万軍の主さんに問います。
「あなたを何とお呼びすればよろしいのですか。」
「I am that I am. ありてある者 」
そして、もしよろしければ、わたしにも同様に問うてもらえますか。
わたしも同様に答えます。
「I am that I am. ありてある者 」
こうしてお膳立てが整ってきましたが、大事なものが残っています。
万軍の主さんと神の関係です。信じているのかいないのか、居るとかいないものとしているのか、知っているのか神の経験体験があるのか、それらによって答えが当然違うと予想されます。もし宗教者であるなら公然とした態度があることと思われますが、何も探り出さないということにしましたので、プライバシーということにしておきます。
このままでやってみましょう。
では、解いてみたまえ。
《わたしはある》
宗教的アプローチも歴史的なアプローチも横に置いておく設定になっていますから、残るのは認識論みたいなアプローチになります。うまくいくかどうか。
全体の構文は、I am that I am.として、聖書の解説を引用すると、「出エジプト記を見ると、モーゼの問いに対して、
- God said to Moses, "I am who I am."
(King James Version では
"And God said unto Moses, THAT I AM.")
神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。
『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」」こうなっています。
日本語の訳文、既に二重三重訳、の感じも違うものになっていますが、それぞれお気に入りを選択したこととしておき、差異を問わないことにします。
繰り返しますが宗教者としての立場も考慮しませんので、そういった名前がでてきても内容には触れていません。
これは、問いの答えですから、最初の I AM は答えた人、ヤーウェ自身のことです。
モーゼからすれば彼の信じている神が答えましたとなりますが、他の宗教や信じない人もいますから、ここの構文だけを取り出します。
ですのでここは何を持ってきても構いません。(というのは今は宗教とか歴史とかの話ではないので)
THAT I AM を I AM たらしめているものです。
例えば、今自分はこういう意見を陳べた、その THAT I AM でもいいし、
おかしなことを言っている奴だというのなら、そのおかしいと感じている根拠となるもののこととなります。
俺は今飯を喰っているというのなら、飯を喰っている俺がそういう俺であらしめていること、有らしめられていることです。
霊界とか霊位とかを言う人なら、ヤーウェが誰かさらに上の人に質問したとしてもいいし、生徒が先生に質問したのなら先生の答えとなります。
構文からすれば、例の取りかたは無数にできますので、自分の思考の届く範囲で適当に各人でストップをかけています。今回は認識論みたな方向に注意が向いていますので、例とするものの範囲が広く、そのまま演繹帰納が可能となるようにしています。
ですので、万軍の主さんの言葉は《わたしはある》となっているので、その言葉の成立する根拠の全てが、 万軍の主さんの I am です。
(わたしはある)という言葉は他人の言葉で、その時その場に応じた気分で切り取られていますから、それの解釈をしても変幻自在となっていきます。確固とした理解があるとすれば、その「理解」というのが
I am となります。
簡単に言えば質問者自身の存在、質問内容の存在を定立するもの、現象させるものが I am となります。
質問者自身の関心、注意の度合い、記憶、経験の違いでそれぞれ自由に発表されるものとなります。別の表現を用いれば、I am (その理由なり根拠なり頼りとしているもの、自分も従わなくてはならない判定の基準、その象徴物あるいは神、等々が I am です)というのは、自分の現象を自分足らしめる先天の働きのことです。
そこで、that I am. というのは質問した本人、モーゼ、ここでは(わたしはある)という言葉を語った万軍の主さん、それの返答を書いているわたし、その他等々のことになります。
ここで注意してもらいたいのは、質問者側からの方向と、答える側からの方向が正反対であることです。
I am that I am.はこの両方向からみられ、いままでわたしの書いてきたことは、下から上を見る立場です。
この立場から書くもの考える者は全て、駄目といえば駄目です。要するにわたしの言うことは相対概念の中に入れられていくだけのものです。つまり反対相違する考えを持とうと感じようと全て同じ穴のムジナということです。
答えを聞くには答えた者の次元に昇らなければなりません。そこで同じような理解がえられます。神の言葉として聞いているのなら、聞く人は自ら神となって聞かなくてはならず、万軍の主さんの質問を受けるのならわたしはその人自身にならなければはっきりしたことは分かりません。あるいは最初から概念を与えるだけとしなければなりませ。
そこでこんどは、 I am that I am. を上から解いていくことになります。それは同時に下からの見方も包含しないと通じませんから、神様も歯がゆくなるところでしょう。
I am というのは大雑把に言って先天の働きとなります。これを人間の次元からは好き勝手にのべるわけです。人が起こす現象を超えたものなのに、いくらでも言葉で突っ付き出します。考えることはいいことだ、自分の頭を使おう、何でも質問しよう等々が顔を出してきます。
だらだらとしていて5000字制限のなりそうです。駆け足で済まします。
I am that I am. とは初めの I am の私はとはヤーウェ神自身のことであり、that I am の私はモーゼのことを意味しています。
「神とはモーゼがモーゼであること(モーゼがモーゼたらしめているもの)である。」
回答の形をとった今回のブログが、回答の形をとったブログであるのは神のもたらしたもの、ここで神を信じない人には神の内容は、ブログが相手に伝わることに関する全てになります。
「では、解いてみたまえ。《わたしはある》コメント」が、「では、解いてみたまえ。《わたしはある》コメント」として成立しているのは、「では、解いてみたまえ。《わたしはある》」であるからです。
最後は同義反復で済ましていると感じましたら、I am that I am. のほうに文句を付けた方がてっとり早いと思います。コメントをありがとうございました。