建速須佐之男の命とは何か。
建速須佐之男の命とは何者か、何の表徴かということは、伊耶那岐の命によって規定されていますから明かです。
【汝は命は海原を知らせ】と言われています、スサノオとは海原を知らす者です。
ところがスサノオと海原の話が出てきません。要するにそこから先は研究者の勝手ということです。時代の規制もあったでしょう。スサノオの姿はいろいろ描かれました。海原を知らせと言われているのに、海原に対する考察がありませんでした。
スサノオは海原=ウの原=ウ次元世界=欲望実現、即物対応、現物生産、それを基にした意識思惟方法による経済産業社会の主宰神です。人間性能の原初の基本的な精神活動と文明創造活動部分を司っています。
建速須佐之男の命は、タケハヤスサの男、タケ・田気・心の働きが、ハヤ・速く、すさまじい勢いで伸びていく心を持つ人といった意味を持ち、心の持ち方がそのまま自分の現在を形作ってしまうような人です。考える前に行為する、やってみなければ分からないとにかく始める等、現在があるから現在を獲るそういった人です。
心理分析とか性格とかを述べることではなく、よくいわれるあらぶる猛々しい神の姿を述べることでもなく、もしそう言いたいのならタケハヤスサの名称にその根拠を探さねばなりません。荒ぶる猛々しい姿は欲望の表現にはよく現れるものですが、その姿は五感感覚の欲望そのものではありません。
また、スサノウを個人と取ることも必要でありません。スサノウという思惟方法による生き方をする人はみんなスサノウです。また古代において大和のスサノウ集団は世界建設のため出立したので、世界中に大和の痕跡が残されています。
タケハヤスサにその根源を見いだせなければその説明は失敗するでしょう。
タケは田気で、心のこと。
ハヤは速いで、心が速い。ハは葉、端で表面に現れる、ヤは矢で早く飛ぶ様子、心の内面がそのまま現れる、欲しいから欲しい見たいから見たい等々の欲望の現れ方。
スは巣、住む、澄むで、確固とした不動なベースが平静な様子であるようで、そこから一切のものが生まれ出るエネルギーで充満していること。
タケ・ハヤスは、心の現れの速く即物的に充実している様子。ハヤスは内実のエネルギーを表面化する。
サは、指す、刺すで、スサのすざましい勢いで一定方向を目指して浸透することです。
スサはまた、主(ス)を佐(サ)で主を助けることです。
猛々しいスサノオはタケと高天原での悪態からきているイメージですが、タケそのものにはタケダケしいことはなく「僕はきたなきこころなし」と言っている通りです。ところが勝ったという思い込みが破壊行為になっていきます。その原因は子を生むこと、現象を創造することで判断しようとしたことです。
欲望次元では子を生むことは欲望の充足を得ることで、自分の欲望と満足される欲望とは同じことです。子現象を生んで満足することからすれば、欲望が実現することはそのまま自分の満足が実現することになっていきますから、「これによりて申さば自ずから我勝ちぬ」になります。五十音図ウ段の母音と半母音が同じになるわけです。
そこでの歓喜の姿がタケダケしいで勇猛荒々しい荒ぶる神にまでは直接に飛ばないようです。タケダケからは猛々しいイメージを受けますが、タケ、だけですとそうはいきません。タケしい、?。
建速須佐之男の命は三貴子の一翼を担う形で生れています。
五十音図の頂きにあるア段の天照すの眼(あめ)が輝き渡り、対象世界に付き・月・て人間の基礎生産の原であるウの原(つち)になります。
精神的には三人が揃って清浄無垢な高天原となり、スメル天照す大御神の指令中枢にたいして、天照すの反射を受けて輝く古事記のフトマニ言霊の原理を使用せず記憶概念比喩象徴数を以て表現按配する月読み、及び、現物に直結して獲得しようとする思想と生産分配の世界となります。
--------------------------------------
---------------------------------------
速須佐之男の命だけが天津罪を侵せる
古事記は色々とむずかしい漢字の神さんたちがたくさん出てきて解読に大変です。
今回の表題を見ても何を言っているのか分かりません。
ところがこれを普通の言葉で普通にあることで表現すると、なるほど古事記の言う通りだと納得することができ、今までで習った知識や関心の持ち方が変わります。
だいそれた戯言は言わない方がいいのですが、現代は世界歴史の変わり目ですからウズメの裸踊りも色々な形で出てくることでしょう。
「速須佐之男の命だけが天津罪を侵せる」を普通の言葉で言うと、欲望と記憶は正常な規範を侵せるとなります。
例えば、赤ちゃんはあるいは酔っぱらいはどこででも小便をするとか、運転する人は制限速度を知っているから違反をするとかになります。正常な規範は天照すで、スサノオは赤ちゃん酔っぱらいです。しかし本当のことを言えば我々の普通の状態ですが。
神さんを茶化すと罰が当たるので止めておきますが、まじめに真剣に追求したからといって本当のことを本人以外に語っているとは限りません。茶化す文章は経験知識過去概念からできていて、単なる記憶が今在る姿に取って代わりたい欲望を持つだけのものです。これもスサノオです。
スサノオはこういっています。「わたしは汚き心を持っていない」。当然です。今持っている起きてしまった欲望知識に綺麗も汚いもありません。盗人殺人犯も、金を儲けたい、社長になりたいも同様で、今あり所有している欲望は実現することにあります。何ら精神構造に違いはありません。
しかし正常正当な規範である天照すからすればそのあかしが欲しいとなります。「汝の心の清く明かきは、いかにして知らむ」と応戦するような態勢をとりますが、目茶苦茶に高天原の精神領域を荒らされたときには荒ぶれ主を当然のこととして、かばいます。
社会規律の維持のためには悪行に対してはここに強制規律や命令や矯正が掲げられます。個人間の関係なら喧嘩でけりをつけるとか、国家間なら戦争をするとかになります。天照す大御神は違います。喧嘩戦争を吹っ掛けられてスサノオをかばうのです。どういうことでしょうか。
(聖書にも同じ場面があります。頬を打たれたら他方も出せ、金銭を要求されたら上着も与えよ等。キリストは大和のスメラミコトに教えを請いに来朝していますから、その時の印象を記したものかも知れません。おかしい事を言っていると取られるので、今のところはここまで。)
日常場面でもよくあることです。間違え矯正するときなどそうなるでしょう。キーの打ち間違えでとんでもない変換された字が出てきてしまい、何故か考えるときなどもそうでしょう。
現象次元の例をあげていきますと肯定と否定がそれぞれ出てきて、それに居つくとまた喧嘩の種になります。その例はいいとか悪いとか分かるとか分からないとかになります。天照すの場合はスサノオのできることを全部させてあげ、その上でかばいます。矯正するために相手を納得させようともしません。
やりたいしたい次元の欲望行為と矯正納得とでは両者の立場が違うので話になりません。サラダが食べたいのに古事記を勉強しなさいというようなものです。天照すが求める「汝の心の清く明かきは、いかにして知らむ」も別の意味を持たせられます。
つまりスサノオが行為することそのものが明かき心であること、スサノオにできることを全部させ、スサノオが実行することがスサノオの「明かき心」とする事です。もしスサノオにやり残しを与えたらまた悪行が始まりますから、かえってここがまだ壊し足りないとと教えるでしょう。スサノオとは行動次元が違うことを示しているので、非常に忍耐のいることです。それを歴史で見れば二千年が必要だということになりそうです。
天照す大御神はスサノオのまだ悪行が足りない、まだ悪態のやり残しがあるとかばうのです。
破壊は全部壊したと思えれば自然に止みます。欲しいものが手に入ったらそこで一旦停止します。ですが現在は流通交通可能な世界という知識がありますので、金力財力で世界を統一した、権力軍事力で世界をまとめたと、そこまでこなければ止む事はありません。
ウの現物社会ではそうなります。世界は金銭を使用して金銭を溜めるという思想に統一されています。後は実際にため込んだ事実の長ができ、それで統一されれば終了です。もう間もなくですが、ではその後はどうするのかは考えられていません。
またさらに概念の分析も止まることを知りません。量子物理も宇宙学も止まるところを知りませんが、整理分析統合解析の繰り返しです。ですが結果の出たところで一旦停止で、次の事実の出現を待ちそれに対応しようとします。近年は大規模な装置を駆使して、事実の確認ではなく事実を創造しようとしています。これもそれなりのウ次元の準備ができているからでしょう。
しかし、どのような誰のどんな時点においても止まることがあります。そこには知識の多少に関係なく、集めた材料の多少に関係なく、学者であろうと研究者であろうと素人であろうと大人も子供もスサノオも全く同じで、日常普通に止まる原理があります。
古事記はこういっています。
【その幡屋の頂きを穿ち、天の斑馬を逆さ剥ぎて落し入る】
ハタヤは織物小屋で、縦横糸の布地は五十音図のこと。
頂きは音図の上段、父韻、いきさまの変化を示す段。俗に言えば頭です。
フチウマはマダラで点々と連絡のないの「ウ」の間で、スサノオの行動思想原理。
逆さ剥ぎは、出来上がり結果側からということ。
落しは、適用してということ。
芸術映画を鑑賞するつもりで映画館に入ったが突然カレーが食べたいという閃きに誘惑されて映画を見ずに外へ出るなどとなります。またスサノオはカレーの思いを画面にぶつけ、破壊したとなるでしょうか。
結果現象を押し込んで新規の生産現象を得ようとすることです。織り子が【ヒに陰上(ほと)をつきて死にき】、子供を生む生産現象を生む陰部をヒで壊された、子供を押し込んでもう一人子供をつくろうとしたわけです。子供を押し込んでおいて新しい子現象を得たというのは創造生産したのではありません。
欲望はこのように、できないことをやれと言うことがあります。
また同様に、概念の恣意的な連結によってありもしないことをあるように、論理的に破状することを平気で主張することもあります。それらはスサノオの働きというわけです。例をあげれば納得あるいはその切っ掛けはできると思います。
ここまでがスサノオのできることですが、最後の一線を超えることは父韻の働きを逆さにしたことで、返って天照すの方が隠れてしまいました。つまり現象を、明かりを、生むことができなくなりました。
欲望の言うこと成すことに従うとか、主張した人しか体験できない概念に従うとかは日常普通なことです。天照すが、あるいは天照すに相当する規範が、現象を生めなくなる生産できなくなる機能しなくなることはよくあることです。その原因は欲望充足と記憶概念の取り違え別解釈からきています。
古事記では女の子を生んだから「おのづから我勝ちぬ」と勝手に解釈し自分勝手に決めてからスサノオの狼藉が始まっています。欲望次元の判断は全てそうです。また反省のない記憶概念操作もそうなります。スサノオの仕事のことを指します。
わたしが「天照す」と書けば、画面を見てアマテラスとみなさんは読みます。しかし実際にはドット点の点滅があるだけです。岩戸閉めではスサノオはこのドット点を全部消したということです。スサノオは書かれた文字の意味を受け持ったのではなく、書かれた現象現物の担当者、物質文明の生みの担当者だからです。
---------------------------------------
項目1。反逆へ。
【 この時伊耶那岐の命大(いた)く歓喜(よろこ)ばして詔りたまひしく、「吾は子を生み生みて、生みの終(はて)に、三はしらの貴子(うずみこ)を得たり」と詔りたまひて、すなはちその御頸珠(みくびたま)の玉(たま)の緒ももゆらに取りゆらかして、天照らす大御神に賜ひて詔りたまはく、「汝(な)が命(みこと)は高天の原を知らせ」と、言依(ことよ)さして賜ひき。かれその御頸珠の名を、御倉板挙(みくらたな)の神といふ。次に月読の命に詔りたまはく、「汝が命は夜(よ)の食国(おすくに)を知らせ」と、言依さしたまひき。次に建速須佐の男の命に詔りたまはく、「汝が命は海原(よなばら)を知らせ」と、言依さしたまひき。】
スサノウが出てきてちょうど百神になります。言霊ウの天の御中主から始まってウ次元世界のスサノウにまで来て原理論は終了です。次は応用実行編になっていますが、アからワへの(アワ路)締められた箍(多賀)である言霊イの伊耶那岐大神に乗ったものであることをしめしています。
高天原の精神界においてはスサノウは天照を助けてウ次元を主宰する理想的な運用をしていました。それがここにきて変化が起きます。物を得て物が集まるとそれら物同士の関係を知りたくなり、物による物を動かすことと物の生産に関心が移ります。 より良くアマテラスを補佐するにはどうするかに没頭していきます。
ところがイザナギは御頸玉(くびたま・組んだ霊の玉・言霊原理)をアマテラスにしか与えていません。補佐実行者としてのスサノウはウ次元産業生活社会を豊かにしようと熱意に燃えていますが、その手立てが明白ではないのです。そこでがむしゃらな物凄い研究が始まったのでした。 啼(な)き、 泣き、 哭きと連続して書かれているように、高天原精神界においてはその精神に沿った方法に従っていました。すなわち精神表現の方法である言葉を運用していました。
言葉を発することを 啼(な)き、 泣き、 哭きと表現し、言葉の運用で物の世界を豊かにしようとしていたのです。
物を覚え物が貯まる初期にはよくあることです。言葉なり法則考え方法なりで物が動くように生産できるように思い込みがちです。
またスサノウはこの段階ではタカマ原の精神界にいますから、ウ次元の精神運用に心血を注いでいたわけです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
項目2。【母の国に往かむ】
【 故(かれ)、各(おのおの)依(よ)さしたまひし命(みこと)の随(まにま)に、知らしめす中に、速須佐(はやすさ)の男(を)の命(みこと)、依さしたまへる国を治らさずて、八拳須心前(やつかひげむなさき)に至るまで、啼(な)きいさちき。その泣く状(さま)は、青山は枯山なす泣き枯らし、河海は悉(ことごと)に泣き乾(ほ)しき。ここをもちて悪(あら)ぶる神の音なひ、さ蝿(ばへ)如(な)す皆満ち、萬の物の妖(わざわひ)悉に発(おこ)りき。故(かれ)、伊耶那岐の大御神、速須佐之男命に詔りたまはく、「何とかも汝(いまし)は事依させる国を治らさずて、哭きいさちる。」とのりたまへば、答へ白さく、「僕(あ)は妣(はは)の国根(ね)の堅洲国(かたすくに)に羅(まか)らむとおもふがからに哭く」とまをしたまひき。ここに伊耶那岐の大御神大く(いた)忿怒(いか)らして詔りたまはく、「然(しか)らば汝はこの国にな住(とど)まりそ」と詔りたまひて、すなはち神遂(かむや)らひに遂らひたまひき。故、その伊耶那岐大神は、淡路の多賀にまします。】
実践智規範(天照す)と五感覚欲望規範(スサノオ)との対比。現象客観世界の五感と経験知による理解と分析は客観世界(黄泉国)で成就する。人類文明創造へ出発。
スサノオの吾の眼
清浄無垢な高天の原にいる限り間違いはありません。
しかしスサノウは豊かな社会を作る使命に燃えていました。高天の原の精神規則も研究対象にしていき、とうとう残るところは精神世界の対岸にありちょうどイザナミのいる国しかなくなってしまいました。 堅洲国、片半分のス(ウ)の国。
悪(あら)ぶる神
スサノウが泣いているうちに悪いことをする神が出てきたのではありません。精神界、その表れである言葉の世界での荒ぶるです。注意してください。スサノウには御頸珠(みくびたま・精神規範)は与えられていません。
アマテラスの規範ア段・・・ア・タカマハラナヤサ・ワ で、アから始まって行きサに至ってアサ・朝庭アサニワのアサ。 御頸珠。
スサノウの規範のア段・・・ア・カサタナハマヤラ・ワ で、 アから始まって行きラに至ってアラ・荒ぶるアラぶるのアラ。
荒ぶるのブル、フルは運用するということで、精神のラで終わる運用のことです。別に悪神がいるわけではありません。
スサノウは最高の精神規範である、たかまはらなやさ から飛び出して、あカサタナハマヤラの世界を探求したいと言い出したのです。そこで誰にでも起きる心の運用を荒ぶるというだけです。
その内容は次に述べられますが、スサノウがやる範囲はアマテラスによって先天的に与えられるのです。ですがその大本が 【淡路の多賀にまします。】 イザナギなのです。アからワへの多賀(桶の締め付ける箍・タ・カ)を管理しています。
スサノウがアマテラスに会いに行く場面でのアマテラスの戦争準備場面は、スサノウに与えられたスサノウのこれからすることの先天の補償となっています。相手に対するには相手の領域から出れば交渉できません。アマテラスは前もってそれを示しています。後の狼藉もスサノウの好き勝手し放題にみえますが、アマテラスによって与えられていてその範囲でしていることです。
【天にまい上る時】
【かれここにハヤスノオのミコトのもうしたまわく、「しからばアマテラスオオミカミにもうしてマカリなん」ともうしたまいて、
すなわちアメにまいのぼりマスときに、やまかわコトゴトにとよみ、くにつちミナゆりき。ここにアマテラスオオミカミききオドロカシて、
「アがナセのミコトののぼりきますユエは、かならずウルワシキこころならじ。アがクニをうばわんとオモオスにコソ」とのりたまいて、
すなわち御髪ミカミをとき、ミみずらに髪を分けて結い、ヒダリみぎりのミみずらにも、ミかずらにも、ヒダリみぎりのミてにも、みなヤサカのマガタマのイオツのミスマルのタマをまきもたして、
ソビラにはチノリのユギをおい、ヒラにはイオノリのユギをつけ、またイツのタカトモをトリおばして、ユハラふりたてて、カタニワはムカモモにフミなずみ、アワユキなすケハラカシて、イツのオタケビふみたけびて、まちトイたまわく、「ナドのぼりきませる」とトイたまいき。
ここにハヤスサノオのミコトのもうしたまわく、「アはキタナキこころなし。
ただオオミカミのミコトもちて、アがナキいさちることをトイたまいしゆえに、『アはハハのクニにまからんとオモイテなく』ともうししかば、
オオミカミ、『ミマシはこのくににナすみそ』とノリたまいて、かむやらいヤライたまうゆえに、『マカリなんとするサマをモウサン』とオモイテこそマイノボリつれ。けしきココロなし」ともうしたまわば】
スサノウを迎え撃つ準備をしているように見えますが、ここはアマテラスの原理規範の全体像を示しているところです。
国が揺れ動くはスサノウの研究心の表れで原理規範にまで分析の手を延ばしてきたことになります。
アマテラスは髪を解き自分の規範構造を示してくれます。単音要素の五十音図と運用要素の五十音図を縦に並べて全体(国)規範とします。
【 すなわち御髪ミカミをとき、、、五十音図の成り立ちは
ミみずらに髪を分けて結い、、、分け切り離してみると
ヒダリみぎりのミみずらにも、、、左右の母音半母音行
ミかずらにも、、、頭にあたるア段
ヒダリみぎりのミてにも、、、左右の運用主体と客体の母音半母音行
みなヤサカのマガタマの五百津イオツのミスマルのタマをまきもたして、、、それぞれが五段の百神の言霊循環を得て用い
背平ソビラには千入チノリの靫ユギをおい、、、千、道、ミチを負い従え
ヒラには五百入りイオノリのユギをつけ、、、五を基調とした母音半母音の全体を実現するため
またイツのタカトモをトリおばして、、、母音から半母音へ父韻の働きで十理(五十音図横列の十の道理)を渡る
ユハラふりたてて、、、運用をする
カタニワはムカモモにフミなずみ、、、そのための確固とした音図上で
アワユキなすケハラカシて、イツのオタケビふみたけびて、アからワへ行く、主体から客体へ行く父韻の働きを見届けることで
まちトイたまわく、「ナドのぼりきませる」とトイたまいき。】、、、問いを発することもできる。
---------------------------------------
項目3。・ 誓約生み。
速須佐之男の命にできること
速須佐之男の命はウケヒで、
①・多紀理毘売の命(奥津島比売の命)、
②・市寸島比売の命(狭依毘売)、
③・多岐都比売の命、
の三神を生みました。
速須佐之男の命の段落には「三」が多く出てきます。
三段に打ち折り、胸形の三宮、三前の大神、高天原での三つの狼藉(営田の畦はなち、溝埋め、くそ撒き)、千位の置戸髭切り爪切りの三罰、これらの「三」が上記三姫に対応しているという話をします。
スサノオは自分の意志で高天原の精神界を出たいと告げました。精神界に対するものは物質界です。速須佐之男の命は今は高天原にいますがそこから出るにはどうするかです。精神世界で完璧な天照すに対して成し得ることの問題です。
例を一つ二つ。お母さんがお弁当を作ってくれました。それを見たスサノオは期待したものと違うので気に入りません。そこで弁当を自分で作り直します。例えば、積み木で小さい子供の目前で家を作って下さい。そして出来た家を小さい子供に見せてください。その子が、出来上がっている積み木の家(天照す)に対する態度をみてみます。
この子は小さいので二階家とか家の屋根があるとか煙突があるとかを識別していません。
① ウ次元の行為・おそらく「わあーっ」と、何をしているか分からず、積み木の家全体を前にして手を下すでしょう。
② オ次元の行為・手を下すか足を出すか分かりませんが、前の形と今の形の違いで自分の破壊行為、あるいはマネを知るでしょう。
③ エ次元の行為・元の家全体と壊れた家との違い、自分が手を加えた後の違いを納得するかどうか知りませんが、積み木の要素となっている部分、あるいはバラになった部分があることから、それを今の状況として新たな手を下すかどうかの決定が起きるでしょう。
弁当(天照す)の例でいうならば、まず期待と違うので気に入りませんから作り替えます。【僕(あ)は汚き心なし】自分のお気に入りの弁当が食べたいから作り替えます、となります。
ここでスサノオが作り替える以前に成すことが、スサノオの段落の主題です。速須佐之男の命は、スサで、主(ス)を佐(たす)けるという使命を受け持っていますが、ここでは、自分の実践行為を確かめたいので、高天原においても自分の出来ることを研究探求してやってみたいということなのです。
天照すの導く規範の実現をスサ(主佐)する速須佐之男の命が天照すによらずに自分の規範を持って、高天原に適応してみたいという願いの実現を実行します。その物語の詳細が古事記では続きます。その始めの物語で、スサノオは自分の思いを遂げるには、自分の知らない父韻の活動韻があることを知らされます。
天照すの領導規範を助けるスサノオでしたが、自分でもできるかどうかというので、やることがひっちゃかめっ茶かです。そこで出てくるのが天照すの「五」に対してスサノオの「三」になります。
上でウオエ次元として書いたものが上記の三神に対応しています。つまり、天照すに対してスサノオの出来ることでしょう。天照すからみればスサノオの手持ちの判断である十拳の剣のできることを、三姫で示したことになります。
スサノオは既に手持ちのウ次元の判断規範の象徴である十拳の剣を持っています。 ですので高天原の精神界では天照すに従っていればその操作使用法にまちがいはありません。
しかし、彼の思いは人間世界の片半分である精神界の高天原に対する【堅州国(かたすくに)】を研究したいということにあります。【根の】片半分ということで、根は、音(ね)のことで、言葉の意味内容ではなく物質物象方面の事を指し、アメツチ(吾の眼を付けて智恵となす)の智恵のチが大地に根付く地(ち)の意味になります。
こうして物質世界の創造研究に出発したのです。
--------
項目4。
スサノオが天照す(完璧な全体という表徴)に対して出来ること。
注意。百神が出終わったところで伊耶那岐の命は【御頸珠】を天照すにしか与えていません。頸珠(クビタマ)は、組む(ク)霊(ヒ)で、言葉を組んで創造したものに名前を付ける事です。団体組織、家庭内、弁当作り等で天照すの決められた規範とスサノオのやりたい規範を較べてみてください。組織会社の中で社是に反して自分の規範を主張してみればどうなるか。
①・ 多紀理(たきり)毘売の命(奥津島比売の命)。
多紀理は、「田切り」のことで、「田」は一つの全体、天照すの創造規範のことで、その整然とした縦横の田を切り破壊すること。奥津は、「起き津」のことで、適当適宜に起こしたところから事をはじめてしまうこと。
スサノオは自分の規範を適応したいというのですから、当然天照すの全面否定から始めます。思い付きのお気に入り、「起き津」、を自己領域の始めとします。
②・市寸(いちき)島比売の命(狭依(さより)毘売)。
市寸は、「いつく(斎つく)」のことで、イの創造意志全体でなく自分のそこで起きた意識に居ついて拘泥してしまうこと。狭依は、「狭い糸を縒る」で、居ついてしまった自分だけの経験概念記憶の狭い範囲での領域を作ること。
イマ流行りの言葉で言えば気付きとなるでしょう。狭い思い付き気付きを縒ることになります。
③・多岐都(たきつ)比売の命。
タ起津・言霊タ起津のことで、目前眼前のあるものが全体となってしまうこと。
勝手に出てきた狭い経験体験に居ついたところがその人の起きる全体の始まり(田起津)となります。またそれがその人にとっての思惟と行為の都(みやこ)です。
繋げると、天照すの全体、全体を操作することに対応したもので、田という全体を勝手な切り離した要素にして①、得られたその要素の反映を自我意識の狭い領域のままに居つかせて②、それを自分の全体の出発点としていく③、となります。
①~③は天照す大御神の全体に対するスサノオの全体を対比したもので、高天原を出た後は、スサノオの行動原理となっていきます。そこでスサノオの行動原理としての三姫を見る必要があります。これによってスサノオは本領を発揮しその後の二千年の世界が成立していきます。
言霊ウ次元の活動原理。
ウ次元世界は今在るものが今在る、現実現物の欲望の世界です。
①・多紀理(たきり)毘売の命(奥津島比売の命)。
思いついた目覚めてしまった起き津の領域はそのまま直ちに在るものとして実現されなくてはなりません。タキリのタは起きて出てきた欲望の全体を示すと同時に、たぎり立つ欲望に直ちに対応現物として得ていこうとする世界です。タの切り盛り姫となります。
スサノオはあれが無いこれが無いあれが欲しいこれが欲しいの世界に直ちに対応し、高天原の精神界を出た後の社会を創造して行かなくてはなりません。
②・市寸(いちき)島比売の命(狭依(さより)毘売)。
出てきた欲望に居つくのですから、どうしても手にするまでは何をしても何が何でも所有しようとするでしょう。左右を見られず脇目も振らず狭い紙縒りの上を一直線に駆け出す姿となります。視野が狭まることは返ってそのものを手にする近道となるでしょう。
③・多岐都(たきつ)比売の命。
今在る欲望だけが現実であるウの次元ですから、目標もやることもそのことのためだけです。他のことは無視し犠牲にし省みることをしません。そこで起きることだけが全ての都です。
自己の欲望を実現するだけの精神世界は非常に強力で、現代においてもそれに勝るものはありません。そのお蔭でこれだけの発展した社会が今在るわけですが、統制不能に陥っています。
スサノオの欲望を実現する社会は無くなることはありません。欲望は大いなる国の主です。しかしだからといって今後も生存競争と他者を蹴散らす社会、我良しの世界だけが通用していく事ではありません。
--------
スサノオの高天原での悪行
① 【営田の畦はなち】は隣の田との領域次元を不問不明にすること、自分の田自身の縦横を破壊することで、田切り、タキリ姫。整然とした五十音図を田と見て、単位要素の言葉の畦を放つこと。母音半母音父韻行の畦を分析してみること
② 【溝埋め】は、田の全体に与える水の流れを止めること。自我に囚われるとそれしかなくなり水の流れを見られなくなる。いつく(斎つく)拘泥した領域の主張。イチキシマ姫。五十音図の行、段の溝を埋め流れを止めること、又そうするとどうなるか研究してみること。
③ 【くそ撒き】は、組む素(要素)のこと。直にあること(タ)だけが全体の要素となってしまい、その要素から始め(キ・起)て直接出発していく(ツ・津)こと。全体、行、段の分析研究が進み次いで、単位要素(組む素・くそ)を研究する。
スサノオの行為は高天原では悪行となりますが、天照すは精神界を出た後の①~③を見据えていますので咎めません。
①【営田の畦はなち】は【地をあたらしとする】と了解され、田の拡大、生産量の増大、つまり生存競争において他者を囲い込みより大きくして生産し、財と権力を強大なものとしていくとして、速須佐之男の命の使命を認めます。
②【溝埋め】も【地をあたらしとする】で、領地を拡大し生産力を高めることでしょう。
③【くそ撒き】は【吐き散らす】で、領有の宣言、権利の独り占め等になるでしょう。
このようにスサノオの独占と権力の乱用を認めていき、そのことで、生産力を高め流通交通を豊かにしようというものです。スサノオ研究心は熾烈を極め、とうとう天照すの精神領域(岩戸、イワト、五十葉戸、五十音図)の分析研究になります。イワ、五十葉、の戸は全体で一つですからそれを分解されたらイワト、岩戸閉めになります。
スサノオの世界創造の研究は止まるところを知りません。
後にスサノオの系統の支配者大国主によって国譲りが行われ逆転しますが、その熱心さ情熱は、刀を逆にさして切っ先にあぐらをかいて座るところを見せつけなければ納得させられません。次元上昇が自然にくるとか予言が実現するとかいうような簡単なものではありません。
これは今後(現在において)大和日本のフトマニ思想が全世界の文化文明生産精神活動を領導できることを見せなくてはなりませんという手本です。日本と日本人の世界に対する使命です。
---------
今後の世界でスサノオの成すこと。
① 千位の置戸は、天照すの全体、千の道があることを忘れないようにすることで、スサノオにも千の蔵に現実界の生産物が満たさせるようすること。生産力のたぎる状態を創造すること。
② 髭切りは、霊気(ヒ・ケ)で、髭はいくら切ってもまた生えてくるもので、切った髭に居つく拘泥するのではなく常に生える髭に居つくように、物質界の生産物にも霊気(ひけ)がついて回ることを忘れないようにすること。切った髭にではなく、生えて来る髭に居つくようにすること。
③ 手足の爪切りは、ツメ、津眼のことで、津は渡す、眼は意識の選択。スサノオのウ次元の行為は直接性ですが、手足を動かして選択創造活動をするごとく手足に爪がついて来て爪が生えるごとく、現実現物の直接性だけで動かないように、次の次元へ繋げる眼を持つことを忘れないようにすること。スサノオの行為全体を常に起き目覚めさせて次に渡すこと。
---------
後にスサノオは高天原の精神界から出て、現実界客観物質世界にいきます。そこで扱うものを整理分析分類はしますが、扱い方は天照すに属するため知りません。そこで大蛇退治によって現実界の扱い方(ウ次元の父韻)を得て(草なぎの太刀)、すがすがしい心持ちを持ちます。これらは高天原の精神活動に対して、客観物質界の操作運用に有効なものとなります。分析分類総合へ、帰納演繹総合へとなっていくでしょう。
(草なぎの太刀、九になる蛹、く・さなぎ、つまり今は八。)
--------------------------------------
項目5。 スサノオにも手が出せない先天構造。天の岩戸開き。
岩戸開きの段落も難しくてよく分からないものですが、分かった積もりのものだけでも書いておきます。皆さんの参加をお待ちしています。
岩戸開きの真の意味という言い方でいろいろな意見があります。ここでは古事記は心の原理論ですから、岩戸開きは心が開かれて出てくる話です。
岩屋戸はイハヤト五十葉屋戸で、五十音図組織の事を指します。古事記は徹頭徹尾五十音図の話ですので、材料は普通に誰でもが知っていることから始まります。岩戸閉めはそこに言葉の意味内容を持った天照す大御神が隠れて、意味のない音だけがまかり通るようになったという事です。どの分野にもあることです。宗教の分野では言葉だけが先走りして意味のない霊だとか神だとかがよく出てきます。スサノウに破壊された後ではどのように意味と音が合体して出てくるのかを見て見ましょう。
◎ 岩戸が閉められました。
引っ込んでしまった心の前にあるものが集まり集められます。アマテラスという心が隠れてしまいましたが破壊されたのではありません。
【ここをもちて、八百万の神、天の安の河原に神集いて、高御産巣日の神の子、思金の神に思わしめて、常世の長鳴き鳥を集め鳴かしめて、天の安河の川上の天の堅石(かたしは)を取り、天の金山の真金を取りて、鍛人天津麻羅(かぬちあまつまら)を求ぎ、イシコリドヒメの命におほせて鏡を作らしめ、玉祖(タマオヤ)の命におほせて八尺の勾玉の五百津(いほつ)の御すまるの珠を作らしめて、】
◎ 天照すの持つ意味内容を除いて全世界の先天要素が集まります。
【ここをもちて】
現象結果を生めない元の木阿弥の中で。
現象を生めないからといって先天構造は破壊されません。そこで先天構造の構成を再度明かします。(冒頭の言霊百神の繰り返しという事です。結構分からない事が多いですが、全て冒頭の十七神に対応しています。とはいっても場面が違い肝心の意味内容を与えるものが隠れています。別の見方をすれば意味はなくても存在できるもが集められました。各人の普通に知覚するとき、目前に物があるときがそうです。視覚の対象としてあったり、感情の対象であったり、概念知識の対象であったりします。各人の意識との関係をまだ持たないので、各人との意味関係はなくある物があるというだけのことです。何でもない普通の出だしです。古事記の表現では以下のようになっていきます。
【八百万の神、天の安の河原に神集いて】
まず、実在(ありさま)、そして働き(いきさま)が出てきます。
アシカビヒコヂの言霊ヲが萌え上がるものによりて出てきたように、八百万の人間世界の全過去世が控えています。河原は高天原と同様に頭脳の精神界で、働きかけられるまではどのような過去も静かなものですので「安」と言っています。
また「安、ヤス」はヤが巣に住むで、主体が客体に渡れない、天照すの動作の無い状態、物事に意味内容を与えられない状態も暗示しています。これから現在に呼び起こされる全過去の記憶のことです。
八百万の神は、神道における神観念で、きわめて多くの神々、自然のもの全てには神が宿っているという風に理解させられていますが、人間一人一人が神であることを忘れているようです。古事記は神を語りますが、神を語るようになった人の神たる由縁があってのことです。
◎ 思いの霊・気・意味内容ではなく、思いの金(カネ)、音、体、言葉、仮名。
【高御産巣日の神の子、思い金の神に思わしめて】
在る物に対する働きかけが出てきます。主体側ですが、「金」とあるように、「鐘、仮名の音」の事で、スサノオの働きかけの対象となる片半分の物象側です。もう一方の天照すの意味内容側は岩戸の中に隠れています。
高御産巣日の神が働きかけたならば各人そのものが働きかけたことになり、各人そのものの働きとはここでは隠れている意味を持ったアマテラスですので直接働くことはできません。しかし出てきたときは働きとならなくてはならないものですから、直接の血統を持った子というわけです。いわば主体側の先天です。
スサノオに壊された実在側を呼び出すことから始まります。
主体側の呼びかけが無ければ実在世界が出てきませんが、実在世界がなければ呼びかけも出来ません。
高御産巣日の神は主体側を現し、その主体の働きで出来た子現象側の総元締めとして、思い金の神を設定します。ですので、主体側の働く性質を持った思いのカネ、物象音、仮名のネ(音)側です。
画面に光の点滅で文章が出来ていますが光点そのものに意味はなく、子として現されたときに意味を持たせられているようなものです。それを母音世界で説明されます。(注。この光点の物象側をどうするのかが、スサノウの高天原を出て行く研究課題です。)
【常世の長鳴き鳥を集め鳴かしめて、】
永久不変に変わらない人間意識のアイウエオの五母音実在世界があります。ここでは先天の実在世界のこと。
いつでも呼ばれれば出てこられる思いのカネ(音)、音世界でいえば、母音の事です。アは、その他の母音も、息の続く限り「アーーー」で常世の長鳴き鳥です。意識対象は母音世界の長鳴き鳥の上に立ち上がり、吾の眼(アメ、天)が付くところで始まって、いつでも、何億万年前であろうと 「アーーー」 で始まった母音世界は途切れることがなく今に続いているので、記憶との縁があれば直ちに出現してくることが出来ます。
記憶として出現してくるだけでなく五感での接触が起きることがあります。一年前千年前の音も視覚像もはるかに衰弱していますが無になったのではなく、同調共感が起こるときには宇宙に漂う物がその人に到ることもあるでしょう。
◎ 先天実在の構造。源泉の「イ」。
【天の安河の川上の天の堅石(かたしは)を取り、】
五十音図の形成です。「安」は前出。安河は河の流れを主体側から客体側へ行くことをたとえたもの。
母音世界があり縁があるといっても転がっている石がくっ付くわけではありません。主体の働きかけ意思があるから出来ることです。
川上は意識の源流、人の心の源を探ります。主体側の自分の意識で、母音行アイウエオです。 堅石は五十の言霊の内の片方にある主体側の母音行のうち「イ」のことで、何事によらず意志(石)の「イ」に依らなければ始まりません。源流は自らの姿は見せませんが縁の下の力持ちです。イからもう片方のヰへの流れとなります。
この「イ」を発信源として意志行為の連結(ヌとか、タマとかいわれることの繋がり)が出来ていき、これが後の全ての新たな堅石となって循環します。隠れたイザナギの箍(多賀)のことです。次に、
【天の金山の真金(まがね)を取りて、】
金山はカナヤマで、仮名の文字の山、言葉の音側の集まり。スサノオによりバラバラにされている音文字のがれきを拾い集めます。
ここに石(意思)の有無を調べます。言葉、音があっても意思のあるものか雑音か定かではありません。意志(石、意味内容)を注ぎ込もうとします。
鉄、マガネ、は真金で真の仮名の音(ね)、真の音は冒頭十七の後半の妹背になっている八神のことで、源泉の「イ」の「イ」段の展開されたチイキミシリヒニの力動韻のこと。これをどうするかが次に求められている。
【鍛人天津麻羅(かぬちあまつまら)を求ぎ、】
鍛人、カヌチ、マガネの仮名の音を連結縫うことで、イ段の意思の流通が元になって、各段の流通結びつきが起きる。同様に鍛人、カヌチは金(仮名の音)打ちで、母音行を打って現象子音を出し、自らのイ段の配列を作っていく。その先天の、
マラは、イ段の間(マ)の羅列でマラ、スサノオによってメチャメチャにされた父韻の配列の間を正しく羅列すること。及び他段への波及。
大本の意思の発動次元の修復を言霊「イ」次元で現しておくもので。その全景となるものが次の鏡。
◎ 先天規範(鏡)の完成。
【イシコリドメの命におほせて鏡を作らしめ、】
意志、イシ、を懲り(コリ)固め留め(トドメ)秘めている鏡のことで、意志と同時に意志の働きを実体化してコリ留めている五十音図規範を八角の同心円に配分したもの。
四角に見れば田、丸く八角形に見ればヤアタの鏡。父韻、母音、半母音、親韻、子音で構成されていてその鏡の大枠を作ること。構成された各部分を抜き出して表徴化したのが、日本の神道、天皇、文化、行事となっている。
その全体は五十の言霊の単位規範となっている。次にその運用操作規範が必要になりそれを作る。
◎ 要素が出揃ったのでその運用となる
【玉祖(タマオヤ)の命におほせて】
単位規範となっている単音言霊を玉で表徴してそれを繋げて現象表現にしていくその元々(祖)の姿、チイキミシリヒニの父韻、をまず確定する。
また言霊の親としての運用は未来に関わる今の選択按配政治となるので、言霊エ次元の祖として統括する。その為の構造は、
【八尺の勾玉の五百津(いほつ)の御すまるの珠を作らしめて、】
八尺は大きさではなく八つのサガ(人の持つ意識の性)のことで、前記八つの父韻を指します。この大発見が人類の至宝となって人類文明運用の隠れた大本となってきました。その形だけを保持させたのが、神道皇室天皇、日本の行事文明文化、ヤマトそのものです。
五百津、イホツ、は五を基本単位とした百のことで、古事記の三貴子までに丁度百神出てきますが、その前半五十神の言霊単位要素をしめす神々と、後半の操作運用に関する意識に関する五十神の計百神のことで、五百ではない。
五は人間の心の全体を五次元とすることで、この五つの次元において、この百神の縦横の組み合わせによって各人は自分の意識を統率(御すまる)するというわけです。
◎ 続いてすめる、みすまる順位の形成になります。
【 天の児屋の命 、 布刀玉の命を召して、 天の香山の真男鹿の肩を全抜(うつぬ)きに抜きて、 天の香山の天のははかを取りて、 占合いまかなはしめて 】
【天の児屋の命】
イホツで精神意識界を五段にすることに決めました。その一番上が屋根にあたります。身体の上に治まる頭脳による働きで、イ、エの働きを感情全体感によって現します。
天の児屋(ヤネ)の命の言霊アで、構成の始め今後発展していく児となっています。五十音図ア段の始めでもあり、ア・タカマハラナヤサ・ワとなるものですが、スサノオが使用するときは、ア・カサタナハマヤラ・ワです。
またここで母音行の形成はイエアの順になり、続いてオウが出てきてイエアオウの人間性能世界の順位が現されます。順位といっても尊卑高低ではなく次元世界のあり方で、この場合は意志された行為が、意志、選択、感情、知識となって実際の欲望の元に行なわれるということです。
逆にしてウオアエイにすると、人間性能を自覚して向上していく過程、欲望、知識、感情、選択、意志による創造の順位になります。
【布刀玉の命を召して、】
布刀でフト、ふとまにのフトと同じで二十(フト)のこと。
五十音図の再構築中です。上段に屋根が出来、両側に母音行が
屋根が出来その下にまず主体側要素の二十を置きます。八父韻の能動主体側によって出てきました。過去を現在に呼び覚まし置く、濁点のつけられるカサタハの五段で二十です。言霊運用の表徴として二十が用いられました。主体側の二十が決まれば残りの受動側の二十も置かれることになります。
言霊「イ」のスメル働きの下に屋根と二十と二十が配置されました。
◎ 次は単位要素を動かす準備です。
【天の香山の真男鹿の肩を全抜(うつぬ)きに抜きて、】
父韻働きのいきさまを示す側です。
上記ア・タカマ・・とア・カサタ・・の天照すとスサノオの五十音の配列の始めの「タ」と「カ」を取って「カタ(肩)」です。父韻ですので男鹿です。
香山、カグヤマ、カグはは書かれた八つの言葉、ヤマは八間で各言葉の居間そのもののことで、直接には文字ですが子現象表現生産物です。現在は再構築中でスサノオ狼藉によって子現象を得ない状態ですが、何から始めるかに当たってその要素単位となっている「カ」で始まる父韻か「タ」で始まる父韻か(肩)を最初に掲げるかどうかです。
【天の香山の天のははかを取りて、】
母音実体のありさまを示す側です。父韻の配列によってア行の配列も変わります。スサノオのあ行はアイウエオ、天照すのあ行はアイエオウです。
ハハカのハハで母音側。スサノオによって要素にバラバラにされていますが、それらは父韻と母音のマグアイによって出来たもの(香山という文字表現物)ですので、父韻母音の働き内容が生きて秘められています。
そこで生きていること働きがあるかが確認されます。
◎ そこで五十音図内で要素を動かしてみます。
【占合いまかなはしめて】
御神籤占いとは関係ありません。
占いは裏合いのことで、人の裏側、心の秘められている内容をを父母韻のマグアイで表面に出すこと(子を生むこと)です。
現象の先天を機能させることで、その現れが以下のようになります。
◎ まず全体。
【 天の香山の五百津真賢木(いほつまさかき)を根こじにこじて、 上枝に八尺の勾玉の五百津の御すまるの玉を取り付け、 中枝にヤアタの鏡を取りかけ、 下枝に白和幣青和幣(にぎて)を取り垂らして 】
【天の香山の五百津真賢木(いほつまさかき)を根こじにこじて、】
現象が五百津、いほつから出来ているのは、先天に五百津があるからで、恣意的にお気に入り気付きだけでスサノオのように事を運ぶことは出来ません。そこで、
真賢木、真に賢い木(気)であり、真(マ)のサカ(性、サガ)を持った全体の木を、根こじにこじてを要します。
意識の真の性の運用には、木(キ、気、霊)の構成として意味内容をもたらす、
上、先天の意識の運用
中、理想的な判断規範
下、出発点の置き方と結論のもたらし方とがあります。
【 上枝に八尺の勾玉の五百津の御すまるの玉を取り付け、】
上、先天にあるのは先天規範で、現象せず見えずにあるから先天なのですが、古代ヤマトのスメラミコトのお蔭で日本語として現象していますので、それを使用します。(矛盾した言い方ですが、この真似される元と真似の循環を古事記は扱ってます。それでフトマニ、フト真似といいます。)
ヤマト以外の言語には先天規範がありません。言語学でも日本語は全く独立しています。
【中枝にヤアタの鏡を取りかけ、】
先天に理想的な判断規範があっても利用する主体は人間側にあります。鏡の見方作り方が様々になりますから、常に上枝を真似て、八尺(ヤアタ)の鏡を追求するようにします。
【下枝に白和幣青和幣(にぎて)を取り垂らして】
和幣(にぎて)は。古事記理理解の鍵を「握る」というように、把握理解すること。
白は起点、上中枝の判断規範によって五百津の判断材料を母音側主体側に集めて主体側から始め、
青は結果、客体側に判断が集められ、結果に導かれるように始めること。
目的を一歩一歩実現するというように、先の見えない暗闇の中を試行錯誤していくのが記憶概念知識ですが、にぎては今現在の手の内にある目的が循環していきます。
参照。御手繰(みてぐり)。実用的な正反合(△▽、666)の判断規範
上中枝を真似てできる帰納演繹も用いられます。一つ一つ指を折って握っていき握り終わったところで事を終了納得することと、握った手を一つ一つ開いていって開き終わったところで納得終了するほうがあり、それぞれに正反合の三角構造が意識されます。三角の上り下りが合わさるとカゴメマークのユダヤ思想になります。古代にスメラミコトが来朝したモーゼに与えたものです。
ついでに666とは、帰納(▽3)+演繹(△3)の正反合(6)を組み合わせて(6)新しい正反合(6)の子現象を生むということになります。
◎ 準備が着々と整っていきます。アマテラスが出てきたときのアマテラスが載る土俵作りです。
---------------------------
項目7。 スサノオにも手が出せない先天構造。天の岩戸開き。 続き2。
【この種々の物は、布玉の命太御幣(ふとみてぐら)と取り持ちて、天の児屋の命太祝詞言ほきまおして、天の手力の男の神、戸の脇に隠れ立ちて、天の宇受売の命、天の香山の日影を手次(たすき)にかけて、天の真折(まさき)を鬘(かづら)として、天の香山の小竹葉(ささば)を手草(たぐさ)に結びて、天の岩屋戸に桶(うけ)伏せ、踏みとどろこし神がかりして、胸乳をかき出で、裳紐(もひも)をほとにおし垂れき。ここに高天原とよみて、八百万の神共に笑いき。】
【この種々の物は、布玉の命太御幣(ふとみてぐら)と取り持ちて】
準備は着々と整いつつあります。天照すとはここでは意味内容ですが、意味内容はそれが乗り移る外見形式、物象化され客観物がなければ自らを現せません。そこで意味内容が現れるための全形式を準備している所です。
登場人物は、布玉の命、天の児屋の命、天の宇受売の命、で天の手力の男の神は脇に隠れています。この四神はそれぞれ言霊オ、言霊ア、言霊ウ、言霊イ次元を受け持ち、天照すは言霊エ次元として、出る出ないの選択をうけ持っています。また、手力の男は言霊イの意志次元ですから見えない動力因のため隠れているという形が取られています。
「太みてぐら」は記憶概念の判断とその方法の全体で、過去から現在に向かう全知識の事です。天照すはその上に乗って現れます。オ次元世界の準備は整いました。
【天の児屋の命太祝詞言ほきまおして、】
言霊ア次元の準備です。人のすることには強弱大小の違いはあれ必ず感情の上に現れます。この喜怒哀楽世界を準備したということです。喜怒哀楽世界が無い所には人の理性思考さえも現れることは出来ません。
ここでは太祝詞を単に読み上げたということではなく、読むだけのことなら知識世界の言霊オの太玉の世界です。【言ほき】と言っています。寿(ことぶき)、言ほきということで感情の表出、祝福したということで表現されています。もちろん喜怒哀楽等の全感情の代表としてです。
次にウ次元です。
【天の宇受売の命、天の香山の日影を手次(たすき)にかけて、天の真折(まさき)を鬘(かづら)として、天の香山の小竹葉(ささば)を手草(たぐさ)に結びて、天の岩屋戸に桶(うけ)伏せ、踏みとどろこし神がかりして、胸乳をかき出で、裳紐(もひも)をほとにおし垂れき。】
ちょっと込み入っています。現実現物世界の今すぐ欲しい欲しいの天の宇受売です。過去も未来も無い天の宇受売の今現在を今の天照すと取り組みをさせるわけです。今の現実が今の現実を引き起こすにはどうするかとなるでしょう。どんちゃん騒ぎをして相手の注意を引くに限ります。相手側に現実を与えます。
【天の香山の日影を手次(たすき)にかけて、】 香山は書かれた文字の山で、表現されたもの生産されたもの一般ですが、そこにあるはずの意味内容を現す天照すが隠れていますから、意味の無い外見物、ただの物体ということで、日陰(霊隠れ)といっています。たすきは児を背負う時の×マークです。意味の無いがらくた客観物を用意し背負い込みということです。物に執着する自分もいるでしょうし、何でも間でも取り敢えず手に入れておこうとするのもあるでしょう。。(ウ次元のウ)
【天の真折(まさき)を鬘(かづら)として、】 まさきは蔓性植物ということで、用意したがらくたをたくさん結びつけ合わし帽子がわりにして、ファッションショーというところでしょうか。馬鹿に馬鹿を重ねる呆れる事をするになるでしょう。物質欲望が精神に取って代わる亡者の姿でしょうか。
あるいはマサキを真気に書き直せば、天の宇受売の天の宇受売たるつるとなる連結を示す物を鬘(五十音図の上段、あ行)にしたことかもしれません。その場合のあ段は、アタカマハラナヤサワ、とならず、アカサタナハマヤラワを作り自己顕示するのかも知れません。
ここは沈思黙考して自己確認が必要ですが取り敢えず候補として置きます。(ウ次元のア)
【天の香山の小竹葉(ささば)を手草(たぐさ)に結びて、】 ささばは単位要素となっている言葉の表徴ですので、小がつきます。ウ次元の欲望で言葉を寄せ集め形成して手(タ・田)にする事でしょう。上記鬘の配列に従って無理やり田(タ・五十音図)にされるのですから通じる物ではありません。欲しい欲しいの理由付けにはよくある事で、感心するくらい立派な理由となることもあります。(ウ次元のオ)
【天の岩屋戸に桶(うけ)伏せ、】 こうして理由付けが出来る自分だけの手持ち田・タの五十音図を作り、いわやとは五十葉屋戸で天照すの意味のある五十音図に対して、タカマハラ・・をアカサタナ・・にしひっくり返された五十音図対比させます。(同じだよ、貴き神がいるよッ、見てご覧、と)(ウ次元のエ)
ここまでで、ウ次元の言霊要素を集め、ウ次元のア段を形成し、ウ次元の五十音図、自分の言いたい事が言える音図を作った事になります。そうなれば言いたい放題です。【踏みとどろこし神がかりして、】
【胸乳をかき出で、】 無(む)の名(な)の智恵(ち)の事で、相手を説得するには欲望は名前の無い智恵のような物ですが、乳が男を魅了するように名もなく意味もなく引き寄せます。欲しいというかき出でる一言は強力で、自分ばかりか他人さえも引きつけます。
【裳紐(もひも)をほとにおし垂れき。】 そこでとうとう欲しい欲しいと叫び続ければ自分も他人も動き、物を生む事が出来るように思えます。裳はひだひだのスカート前掛けのような物で、五十音図を縦行の線で区切られた形の表徴です。自分の主張発現規範として、ほと(陰部、児を生むところ)に押し込んで生産現象を得るだろうかとした事です。五十音図から言葉が出てくるのに、逆にしました。
【ここに高天原とよみて、八百万の神共に笑いき。】 日常生活ではカレーが食べたいといえばカレーが出てくるのが普通です。しかし高天原の精神界ではまず心にカレーが食べたいという心象が起きなければカレーという言葉は発せられません。そこで高天原の精神界からみるとおかしなことをしていると笑ったわけです。
これはウズメの五十音図の運用法を語ったもので、前に出てきた、【天の香山の真男鹿の肩を全抜(うつぬ)きに抜きて、】で、「肩・カタ」を「カ」で始まる父韻列か「タ」で始まる父韻列かにすることで、その後の全抜き(うつぬき)具合が全く変わることを言っています。
ウ次元世界の性ですから良いも悪いなく、正誤もありません。誰もがスサノオである以上変わりません。後にヤマタの大蛇の段落で、ウ次元以上の世界があることを了解してすがすがしい気持ちを得ます。
--------------------------------------------
項目8。 スサノオにも手が出せない先天構造。天の岩戸開き。 続き3。
【ここに天照す大御神あやしとおもほして、天の岩屋戸を細めに開きて、内よりのりたまはく、「吾が籠もり増すによりて、天の原自ずから暗く、また葦原中国も皆暗からむとおもうを、何の故にか天の宇受売は楽をし、また八百万の神諸々笑へる」とのりたまひき。ここに天の宇受売まをさく、「汝が命に益して貴き神いますが故に、喜び笑い遊ぶ」とまをしき。】
ウズメが自己主張をする音図が出来ました。
ではどうするのかというと、どうにもしません。
どうしようかこれを選んでこうしようというのはウズメの管轄ではなく、天照すの按配選択の次元です。ウズメは欲望をだして満足させる事だけが眼目です。ですので欲望が何であるのかどのようにできてどのようにここに出てくるかなど気にしません。つまりウズメの方からは天照すとの接点が見えないのです。ウズメの欲望が何であるかを知ろうとするとそこに知識、過去との比較概念記憶が出て来ないと何であるかを言うことが出来ず、何である分からなければ選択のしうようもないのです。
ですので、天照すはウズメのお乳を見てもどうしようという選択次元の選択肢を持たないのです。ウズメは騒ぎっぱなしです。
欲望によるどんちゃん騒ぎは誰にでも注意を引きます。しかし、欲望次元は今現在の充足を事としますので、本来天照す大御神の選択次元に関心があるわけではありません。そこではウズメは天照すに問いかけることもしません。手前勝手な騒ぎが続きます。そこでウ次元の欲望ベースがむずむずやかましければ、何故かの理由を吟味した上で選択按配政治をせざるを得ません。まずは知識のオ次元によって何だろうかが明かされます。ウからオです。経験知過去知識によって何かが明かされれば選択も出来ます。
岩戸開きにはこの段落が欠けているように見えます。
ただし布玉(フトダマ)のオ次元が既に出来ていますから、そこにある「取り持ちて」をオ次元の旗振り運用、ウズメと同時に行なっている事とすれば、ウズメの行為の解釈も同時進行していますので、何であるかの規定も次々に加わっています。そうなれば、エの選択も出てくるでしょう。
とうとう天照すの方から動き出します。岩戸のなかで尻がむずむずしています。
自分がいなければ世界は暗く静かなはずなのにどうしたことかということです。
つまり、人間の次元性能世界はそれぞれ独立しているので、その他次元世界内ではそれぞれがザワザワ動いているということです。古事記の研究と称してあることないことを言い出し、ウズメも天照すもそっちのけで論争が起きます。こうしてオ次元はオ次元で外が暗かろうと明るかろうと喧しくしている事が出来ます。ウ次元も同様です。暗いから欲望が無い知識が無いということにはなりません。外はそもそも八百万の神が集まっていてやかましいのです。
はじめに【あやしとおもほして】とあります。天照すは判断規範の内容となっていますから、おかしい不思議なことが起きているなどという思いはありません。普通の解説書は安万侶さんの書き方にひっかかって思う壺に落ち込んでいるようです。千三百年経っても謎々がまだ持ち堪えているとにやにやしていることでしょう。
ここはスサノオにバラバラにされた田・五十音図の再構築をしているところです。イウオア次元の言霊は既に揃いました。エの天照すは岩戸の中で隠れています。かくれんぼで見つかれば自分から出て行きます。しかし天照すは自分からは出ません。
【ここに天照す大御神あやしとおもほして、】 「あやし」は自分の心の内実の結晶です。しかし、何がどのようにどう「あやし」いのか明らかではありません。天照すはそのような不確定な姿で現れることは無いのですから、「あやし」の判断内容が与えられているわけではありません。ここは天照すは内容であるのに内容ではないといって矛盾したことを言っています。しかし、矛盾した言い方ではないことは天照すは自分からは出てこないことで示されています。
「あやし」、これはもちろん他の言葉で置き換えることができます、は心の内実の結晶ではあるけれど、まだ心の外には出ていないということです。それではどうなっちゃうのかというのが、次の手力の男の出番となるところですが、話が飛びました。
元へ戻して、【天の岩屋戸を細めに開きて、内よりのりたまはく】です。「内よりのりたまはく」は五十音図内でということ、こころの内で心の結晶とはなっているけれどしかし、音図より外へ出る形になっていないということです。
【細めに開きて】は、 言うことはあるけれど言う言葉が見つからないという言い方に近いものでしょう。阿夜カシコネ、言霊ニ、の神というのがいます。煮詰まったものがあるがまだ表出していないものがあります。
【「吾が籠もり増すによりて、天の原自ずから暗く、また葦原中国も皆暗からむとおもうを、何の故にか天の宇受売は楽をし、また八百万の神諸々笑へる」とのりたまひき。】 天照すの心の内実に煮詰まったものですから、もちろん笑いでも悲しみでも怒りでもいいもので、どのような形になるかはその後のこととなります。ここでは遊び笑うを例にしてあります。
しかし遊び笑うも心の開き度合いからすれば、最もオープンな形を取るので、岩戸開きにかけてあるのかも知れません。
さて、【「汝が命に益して貴き神いますが故に、】 前にも触れました。これは仮に天照すより貴い神がいるとかではなく、各次元、ウズメのウ次元にはウの言霊五十音図が貴き神であり、オ次元にはオの言霊五十音図が貴い神であるということです。ウズメの欲望充足に当たっては、選択項目がはてなくずらずらと出てきたところで何の足しにもならないのです。比較をしてこちらの方がということでも、嘘つきということでもありません。ウにはウ、オにはオが貴いということです。
----------------------------------------
項目9。スサノオにも手が出せない先天構造。天の岩戸開き。 続き4
【かくまおす間に、天の児屋の命、布刀玉の命その鏡を差し出し、天照す大御神にみせ奉る時、天照す大御神いよよあやしと思ほして、やくやく戸より出でて臨みます時に、その隠り立ちりし天の手力の男の神、その御手をとりて引き出しまつりき。即ち布玉の命、尻くめ縄を御後方に引き渡してまおさく、「これより内に得還り入りまさじ」とまをしき。かれ天照す大御神出でましし時、高天原も葦原中国も自ずから照り輝き。】。
【かくまおす間に、天の児屋の命、布刀玉の命その鏡を差し出し、天照す大御神にみせ奉る時】
この鏡とは何でしょうか。前には【中枝にヤアタの鏡を取りかけ、】と出てきました。そして、【この種々の物は、布玉の命太御幣(ふとみてぐら)と取り持ちて、天の児屋の命太祝詞言ほきまおして、】でした。この段落はちょっと雰囲気が違います。何しろ天照す大御神が引きずり出されるのです。つまり天照す大御神が外へ出ても問題の無い要素条件が本人を除いて全部整ったということです。
そのいわんとしているところは、各言霊次元の鏡・各言霊五十音図が出来ているので、天照す大御神がいつどのような形で出てもいつく相手がおり、渡り合う事が出来るということでしょう。ですので「天の児屋の命、布刀玉の命その鏡」というのは、天の児屋の命のア次元の言霊五十音図の鏡、布刀玉の命のオ次元の言霊五十音図の鏡二つをそれぞれ差し出したということです。
それに現物次元のウ次元のウズメはすぐ側で騒いでいます。エは天照す自身で、イは最初に原動力因として既に設定されています。簡単に言えば選択の対象が用意できたので見てください、ということで、カレーがないのにカレーを選択の対象に出来ないということでしょう。
【天照す大御神いよよあやしと思ほして、】
各次元は独自となっていますが、天照す大御神は全次元のお膳立てが無いと自らの乗る場所を見いだせません。本当かいな、【いよよあやしと思ほして】と現れの直前の疑惑がまた出ます。
【やくやく戸より出でて臨みます時に、】
ここでは天照すが自分から出てくるような印象を受けますがそこまでは行きません。「臨み」とあるように高所から臨み見るだけで戸から出たのではなく、例えば乗船のする、船に入る準備が出来たということでしょう。「出でて」は入るいずるです。自分の乗る船の番号、アイウエオを確認了解したことです。ところが。
【その隠り立ちりし天の手力の男の神、その御手をとりて引き出しまつりき】
と手力の男にひきずりだされます。乗船相手を確認してもその乗船の仕方は徒歩にしろ車に乗ったままにしろ係に従って行なわれるようなものです。この案内係は腕力のある相撲取りとは全く違って、「その隠り立ち」ていて自分の姿を見せない影の力なのです。かくれんぼのように見ーつけたと言われて出てきません。最初から最後まで隠れた韻として働きます。
初めに【イシコリドメの命におほせて鏡を作らしめ、】 とありました。イシコリドメの実際の活動因が、
手力の男でしょう。首っ玉を掴むのではありません、「御手」とあるように、手(T+E)、エを選ぶ手助けをします。手助け法は八尺の鏡とあるように、八種の父韻、チイキミシリヒニを用います。そうすると。
【即ち布玉の命、尻くめ縄を御後方に引き渡してまおさく、「これより内に得還り入りまさじ」とまをしき】
と、また布玉の活躍です。何故布玉なのでしょうか。これは天照すに後ろに戻らないで下さい、後ろを向いて調べ関連を知識とするのは自分の言霊オの役目ですからと、結界を引いたことです。言霊オの世界は人間文明の全ての知識と連関を扱います。過去から現在に向かう全概念知識が布玉の管轄です。しかしそこには知識をどう扱うかの現在から未来へ向かう実践智の行為はありません。
これこそが天照すの領域です、ということになります。過去から現在、現在から未来へ渡す人間の重要な二つの性能の流れを分担したものです。
前にも【布玉の命太御幣(ふとみてぐら)と取り持ちて】と出てきました、取り持ちて現在に提示し、そこから先は天照すさんですよというわけです。
数億万年の過去から現在へは用意され、いま現在の無限の広がりも出来ました。欠けているのは天照す自身の現在から未来へ向かう世界とその実践行為です。幸いなことに常に隠れて手助けしてくる父韻手力の男も控えています。こうして船出の準備が出来たのです。
【かれ天照す大御神出でましし時、高天原も葦原中国も自ずから照り明かりき】
それぞれの次元世界は独立したものです。独神、ひとりかみといわれています。それならば天照すがいようといまいとそれぞれ勝手に自ら照り輝いているはずです。天照すが隠れれば暗くなり出れば明るくなるなら独神になりません。その秘密が天の手力の男です。
車は一台一台違いますが燃料を入れないと動かず、タイヤがないと走れません。だからといって燃料、タイヤが手力の男ではありません。燃料には燃焼爆発力があり、タイヤには摩擦力があり、これらの方が手力の男に近いでしょう。摩擦力がなければスリップしっ放しで、これが隠れた引っ張り出し役をしています。 この隠れた引っ張り出し役は人の行為のどのような場面にも登場する普遍的なものです。
父韻といい、伊耶那岐の命、伊耶那美の命の言霊イ、ヰで示されています。
ここでいいたいことは、各次元、各車、各人、言葉が現れるときは別々個人個人で独神ですが、隠れた動力韻の上に乗っているということです。
次のヤマタの大蛇ではスサノオが自分にも父韻があることを発見してすがすがしい気持ちをもって終了するようになっています。
--------------------------------------