【 次にその禍を直さむとして成りませる神の名は、】
神直毘の神
言霊オの宇宙から現われる人間の精神性能は経験知です。伊耶那岐の大神が禊祓を実行する為に心の中に斎き立てた衝立つ船戸の神(建御雷の男の神)の鏡に照らし合わせて、人間の経験知という性能が禊祓の実行に役立つ事が確認されました。その確認された働きを神直毘の神といいます。神直毘の神の働きによって黄泉国で産出される諸学問を人類の知的財産として、世界人類の文明創造に役立たせる事が可能だと確認されたのであります。
大直毘の神
言霊ウの宇宙より現出する人間の精神性能は五官感覚に基づく欲望性能です。この性能が禊祓の実行に役立つ事が確認されました。この確認された性能を大直毘の神と呼びます。この大直毘の神の働きによって、世界各地に於て営まれる産業・経済活動を統合して世界人類全体に役立たせる事が可能である事が分かったのであります。
伊豆能売
阿波岐原の川の中つ瀬の最後の言霊エの宇宙より現出する人間性能が禊祓の実行に役立つ事が確認されました。この確認された働きを伊豆能売といいます。言霊エの宇宙から発現する人間精神性能は実践智と呼ばれます。人間のこの実践智の働きによって世界の国々の人々が営む生活活動の一切、言霊ウオアエの性能が産み出すすべてのものを摂取、統合して、世界人類の生命の合目的性に添わせ、全体の福祉の増進に役立たせる事の可能性が確認されたのであります。伊豆能売とは御稜威の眼という意です。御稜威とは大いなる人間生命原理活用の威力、と言った意味であります。眼とは芽でもあります。眼または芽とは何を指す言葉なのでしょうか。
禊祓をするに当り、人間の根本性能である五母音アオウエイ性能のそれぞれの適否が検討され、その中のオウエ三つの次元が適している事が確認されました。この後、更に適当だと確認されたオウエの三性能について、可能とする道筋の経過が音図上で詳しく検討されます。その経過は明らかに言霊そのもので明示され、確乎とした事実としてその可能が証明されて来ます。その時、オウエの中の言霊エの性能が人間精神上最高・理想の精神構造として示され、主体的・客体的に絶対の真理であるという言霊学の総結論が完成されて来ます。その絶対的真理となる一歩手前の姿、という意味で伊豆能売、即ち御稜威の眼(芽)と謂われるのであります。
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理想の思惟規範を創ろうとしているのに、その過程で黄泉国という汚き国を必然的に創造してしまいます。意識の働きそのものに「禍」を創造してしまう働きがあるためです。
ところが、意識の流れの中に入りますと、やはり、自分を否定できず正当な自分の意識だ自分のものだという領域があることにも気付きました。しかしながら、その表象の仕方、表現の仕方は汚き国に落ちていく必然と、自分のものであることを正当に主張するところとがあり、その創造領域の二者があるため、その二者を同時に見出すことが出来ました。
そこで、「禍」を産むだけの神ではなく、「禍・津日」の神となって、自らの禍を日(言霊)に渡す禍津日も自己自身にあることを確認しました。しかし、あることを確認をすることと、実践することとは違います。それには意志の飛躍が必要で、意識活動の転換が必要です。
「禍を直さん」というのは自動的なものではありません。内外の条件状況を踏まえることと、主体意志活動の規範が用意されていなければ動けません。
そういうことなのですが、意識活動の発現をそれの主体規範に沿って行なうだけでは、主体主観内にまた、禍国を作ることになってしまいます。
この主体主観内に禍を作ってしまう必然に対処することが眼目です。
そこで、引き継いでしまう禍と自分で作ってしまう禍の全ての「禍を直さむとして」なりませる意識の運用の神が出てきます。主体の運用規範を使用するのも禍、主観の運用も禍を作ってしまうからです。意識を働かすことが禍を作ることです。人は創造活動に励んでいる積もりが禍つくりになってしまうのです。
そこで出てくるのが
神直毘、カムナオヒ、噛み直したヒ、で、生まれ出た禍を直して主観のヒを創出すると同時に、主観のヒにある禍を直すという、二重のヒを直す意識の機能です。(「ヒ」というカタカナ表記は既に表現できない心の運用機能にあるためです。)
この二重の「直す」心の構造は、オウエの三つの神で示される次元構造にあります。神直日はオ次元です。
ウ次元の直毘は噛むことをせずに直接的です。そこで「大」が付きますが、量的な大小ではなく、直接的に大いにヒを直す、ということです。五感感覚でする欲望の変更の在り方を見てください。
そこで、エ次元のイズノメです。これには「直」が付きません。さらに神とも命とも名付けられていません。「禍を直す」のに「直す」ことをしないのです。神社にも祀られていないようです。どういうことでしょうか。
「禍」を直すことをせず「禍」を直す道を見つけることでしょう。
「禍」と云われるものをそのまま持ち来らせられればいいのです。
ここに、常なる「え」の選択する創造意志が発現しているからです。
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次にその禍を直さむとして成りませる神の名は、神直毘(かむなほひ)の神。次に大直毘(おほなほひ)の神。次に伊豆能売(いずのめ)。
「禊祓をアオウエイ五次元性能の中のどれでしたらよいか、を検討した伊耶那岐の大神はア次元とイ次元を調べて、この双方は禊祓の下準備(八十禍津日)や、基礎原理(大禍津日)としては必要であるが、そのもので禊祓をするのは不適当である事を確認して、上つ瀬でも下つ瀬でもない中つ瀬に入って禊祓をすることとなりました。その時に生まれましたのが神直毘の神、大直毘の神、伊豆能売の三神であります。中つ瀬にはウオエの三次元性能があります。神直毘は言霊オ、大直毘は言霊ウ、そして伊豆能売は言霊エの性能を担当する神であります。」
ここで禍を直さんとして三神が誕生してきます。「禍を直さん」というのは創造意志の表明なのですが、それ自体の表明が禍である事は既に見ました。直そうとする事が禍となる自己矛盾の中に自らを落し込む事になります。それを確認して、解決するのが次の三神です。
意識のオ次元の知識意識から、実践知識精神への転換、の神直毘によって、
意識のウ次元の欲望意識から、実践欲望精神への転換、の大直毘によって、
意識のエ次元の選択意識から、実践選択精神への転換、の伊豆能売によって、行なわれます。
泳ぐためにはまず水に入る事ですが、ここで主観意識の自己分裂からの止揚を実践しなければなりません。それは主観の二つの在り方として出てきます。
古事記では、建御雷の男の神の精神規範と、伊耶那岐の大神の天津菅麻精神規範となっています。自分の持ってしまっている初歩の判断規範とそれを保障する先天の判断規範です。
神直毘・大直毘 の「なおび」というのは、自分の創造してきた言霊規範である「ひ」毘・霊・そのものを直すことです。自分の意識することを禍として直そうとするのですから、まず自分が納得しないでしょう。
いよいよこんがらがってきます。
しかし、客体世界を客観的に扱うことではなく、主体世界での主観の客体化を防ぎ、正当な主観化を実現するためですので、何時何処でも常に反省の時処位を自分に取り入れる環境にはあります。
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まず基本となる精神規範をあげます。
建御雷の男の神の精神規範を現実の経験知による立場から現わした五十音図規範。
イ チ キ シ ヒ ミ リ イ ニ ヰ
エ テ ケ セ ヘ メ レ ヱ ネ エ
ウ ツ ク ス フ ム ル ユ ヌ ウ
オ ト コ ソ ホ モ ロ ヨ ノ ヲ
ア タ カ サ ハ マ ラ ヤ ナ ワ
(島田正路『古事記と言霊』234ページ)
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伊耶那岐の大神の天津菅麻精神規範(アワギ原)
ア タ カ サ ハ マ ラ ヤ ナ ワ
オ ト コ ソ ホ モ ロ ヨ ノ ヲ
ウ ツ ク ス フ ム ル ユ ヌ ウ
エ テ ケ セ ヘ メ レ ヱ ネ エ
イ チ キ シ ヒ ミ リ イ ニ ヰ
(島田正路『言霊』184ページ)
着眼点は「エ」「オ」が反転していること。
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参考とすべき文章。
その発信する言葉を「光の言葉」と申します。「その光の言葉っていうのは何だ」と申しますとね、伊耶那岐大神が、自分の心を自分の心とし、世界のことを自分の体として、それで伊耶那岐大神となって、宇宙に自分ひとりしかいないという観念の下に、「さてこの世の中をどうしたらいいんだ」といって禊祓を始めたときに、最後の手段として出てくるのが、神直毘、大直毘、伊豆能売という観念なんです。
「なおび」と申しますのは、言葉通りにとれば、なおやかな霊(ヒ)。素直な心。---どういうことかっていいますと、どんなにこんな真っ暗な世の中も、素直な心で見てごらんなさい。「愛する心」じゃなくて、「素直な心」。そうすると、「みんないい人」だと思える。
「じゃあなぜ『みんないい人』がこんな世の中を創っちゃったのか」っていえば、これが「因縁」ってやつです。歴史に関係するんです。「その歴史が、いままでどうなってこういう世界を創っちゃったのか」っていうことがわかりますと、元がわかれば直せますな。元がわからないで、「こうしたらいいだろう」「ああしたらいいだろう」っていったって、絶対にできるもんではございません。
それで、神直毘、大直毘、伊豆能売といって、そこのところで「どうしたらいいんだ」ということが、かっちり禊祓の業として決まってしまって、それからのちに出てくる言葉が「光の言葉」というのです。
その禍を直さんとして、津日である直毘と伊豆能売です、その時は飛び越してしまう。その時に黄泉国の産物は消えてしまう。それは黄泉国と表現していたものが、コトタマを結んだ言葉として光と影を合わせて出てくる。
その大元の原動力が伊豆能売、出てきたものをオに反射させると神直毘、ウに反射させれば大直毘になる。あくまでもエの傘下でオとウは働く。そこまでは分かってきましたが文章にするには書けない。
直観だから書けないということではなくて、絵を描くときにどうしてこういう絵にしたのかを書けといわれるようなもの。説明するより絵にした方が分かりやすいでしょ。
でも絵を描くにも構図が重要ですから、ただ趣くままに描いても光と影が調和しない。音図はあくまでも鑑ですから、どのような社会を創るかの構図ですね。筆を動かす伊豆能売があって、産業経済と学問のタッチをどのようにするかが、直毘。
その時代が来たら社会はそうなるのか、そうじゃない、あくまでもエで行使するのですから、それを文章にするにはコトタマの学問でしか説明できない。書けないとは言い切れませんが、同じことの繰り返しになってしまう。
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ベルクソンの『創造的進化』に見出した文章。
・ところが行動は円環をやぶる。以降を対比してみましょう。
【】かれ投げ棄(う)つる御杖に成りませる神の名は、衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神
。。。「私たちを所与のものの円環に閉じ込めることも理屈の本領なのである。ところが行動は円環をやぶる。」
(今までの判断基準)
【】次に投げ棄つる御帯(みおび)に成りませる神の名は、道の長乳歯(みちのながちは)の神
。。。「もし一度もひとの泳ぐところをみたことがなかったら、」
(今までの連続性)
【】次に投げ棄つる御嚢(みふくろ)に成りませる神の名は、時量師(ときおかし)の神
。。。「あなたは水泳は不可能事だ、泳ぎを覚える為にはまず水上に身体を保たなければならないし、」
(今までの変化のリズム)
【】次に投げ棄つる御衣(みけし)に成りませる神の名は、煩累の大人(わずらひのうし)の神
。。。「したがってすでに泳ぎを知っていなければならないからだというにちがいない。」
(今までの心の衣、拠り所)
【】次に投げ棄つる御褌(みはかま)に成りませる神の名は、道俣(ちまた)の神。。。「実際理屈は私を固い土の上に」(今までの分岐点)
【】次に投げ棄つる御冠(みかかぶり)に成りませる神の名は、飽咋の大人(あきぐひのうし)の神
。。。「いつまでも釘付けにする。」
(今までの実相感)
つづいて、、
【】次に投げ棄つる左の御手の手纏(たまき)に成りませる神の名は、(主体側規範の動き)
奥疎(おきさかる)の神
。。。「しかしごく素直に恐がらないで水に飛び込むならば、」
(主体側の出発整理))
【】次に奥津那芸佐毘古(なぎさびこ)の神
。。。「沈むまいとばたばたしながらどうにかまず水上に身をささえ、」
(主体側の選択創造性)
【】次に奥津甲斐弁羅(かいべら)の神。
。。。「そうしてじょじょにこの新しいかんきょうになれて泳ぎを覚えることであろう。」
(主客の間隙を減らす)
【】次に投げ棄つる右の御手の手纏に成りませる神の名は、(客体側規範の受容)
辺疎(へさかる)の神
。。。「そのようなわけで、知性以外の道で」
(客体側の到着整理)
【】次に辺津那芸佐毘古(へつなぎさびこ)の神
。。。「認識しようとすることには」
(客体側の結果選択創造性)
【】次に辺津甲斐弁羅(へつかいべら)の神
。。。「理論上ある種の背理がひそむ。」
(客主の間隙を減らす)
。。。の後の文章は全部一続きの文章です。神名も同じ。
どうですか、驚異的な一致を感じませんか。
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