こころの構造 経験と選択。こころの原論の古事記。
(4)天の常立の神 言霊オ (主体側のこころの構造、経験)
(5)宇摩志阿斯訶備比古遅の神 言霊ヲ (客体側のこころの構造、経験)
(6)国の常立の神 言霊エ (主体側のこころの構造、選択)
(7)豊雲野の神 言霊ヱ (客体側のこころの構造、選択)
『子淡路(こあわじ)の穂(ほ)の狭別(さわけ)の島を生みたまひき。
次に伊予の二名(ふたな)の島を生みたまひき。この島は身一つにして面四つあり。』の面四つにわかれたところ。明瞭に前段と違う状態になったのを『隠岐の三子島』といいます。
淡路(あわじ)の穂(ほ)の狭別(さわけ)の島から出てはいるが、その発達した姿。細胞分裂して背骨を造り各種の器官を造り、徐々に完成に向かう生体になっていくイメージ。五十音図を形成していく途中の姿ですが、本当は高原の天照大神の鏡を創る途中の姿です。ここでは五十音図の両端ア行ワ行の中からオ-ヲ、エ-ヱが明瞭になってその機能を発揮するようになるところです。オ-ヲ、エ-ヱのそれぞれの精神世界は経験知識概念記憶の世界と道徳政事実践行為の智恵の世界です。
これで言霊ウの五感感覚による欲求産業活動世界、オ、ヲ、エ、ヱとア、ワの主客情感の世界、人のこころの精神構造のほぼ全てがでそろいました。残りはイ-ヰだけで、これは意志創造の原動因で、これら、アイウエオ-ワヰウヱヲが人の心の柱です。人の生きることはこの五つの柱を完成することにあります。(五つの気を五気る)。
ただし、昆虫等に変態があるように、人間精神の成長の変態を通過しなくてはなりません。人は成長を続けていきますが、誰もが変態を経験するわけではありません。自然に変態へ向かう昆虫達とは違うところです。さらに、勉強して知識を増やしても次の段階にいけることもありません。ちょうど、欲を満足させても知識の一つも身につかないようなものです。金が欲しい、売り上げを延ばした、会社を大きくしたい、大臣になりたい等々したいなりたいの成就はオ次元の学識ともア次元の情感芸術宗教世界とも、道徳的な行為のエ次元世界とも別のところにあります。そしてウ次元だけて終わる人生もあります。
これが言霊ウ次元ですが、しかし人の性能の基盤です。最低といっても一番下の段階を指すのではなく、淡路(あわじ)の穂(ほ)の狭別(さわけ)の島のように全てがそこからでてくるが、その芽が伸びることも枯れることもあるというわけです。その中から知識経験概念の世界が分化してきます。オ次元のこころの世界です。。そして次々に分化して来るこころの世界は五次元あります。よく言われる精神世界での何々次元とか、あの世の階層だとかではなく、いま此処にいるわたし、あなたのこころの世界のことです。
欲望の次元(言霊ウ)、経験知識の次元(言霊オ)、情感感情次元(言霊ア)、実践選択智恵次元(言霊エ)、そして創造意志次元(言霊イ)です。このアイウエオの五層が人間です。こころの御柱、伊勢神宮の最奥義と言われるものです。この五次元層は発達した姿を見ると、次元の違う別々の世界のように見えますが、階段の上と下が離れている関係ではなく、また五つの円があるのでもなく、五重の塔の中心が柱で繋がっているようなものです。
五十音図に書くと五段が相対的に別々に見えますが、それぞれを繋ぎ全部がお互いに接している柱が、動脈と静脈が通っています。それを丸い形で表現したやたの鏡は中心に人間性能の五次元が集中しています。
繋がってるとか次元が違うとかめちゃめちゃなことをことを言ってるようですが、なにぶんにもこころが相手ですので、感得してください。したい欲しいのウ次元で終わる人生もあるといいましたが、それらの人達には芸術を楽しむ心も、道徳を選択するこころもないというのではなく、同じ動脈が通いながらも芽が隠れている、だけのことです。誰にでも備わっているけど、変態を完了し花を咲かすのは、、、(うまい言葉がない)、、です。
この変態を禊と言います。変態に突入して完成させることで、水行水浴びではありません。またこれは精神の真の変態ですので、このブログ等で知識として書いているようなものではありません。最低の条件として仏教の悟りぐらいは卒業することになります。
いくら知識を蓄え博識となっても悟りも身禊も完成しません。返って知識がその邪魔をする姿が無門関のどのページにも現れているはずです。このブログで勉強したいなんて方がいますが、とんでもありません。わたしはそれを差し上げるような段階にありません。知識の受け売りでしかありません。悟りとか恩寵を得るとかを最低条件とか言ういい方にはごへいがありますが、身禊というのはそれらを超えたものですので。
われわれには経験出来ない異次元です。古代においてただスメラミコトのみが成し遂げました。その徳を慕って仏陀、キリスト、モーゼらも教えを請いにきました。ここいら辺の話は知っている人がいても、未だに真意は伝わっていませんが、、、、、そのように創られていますので。(知識を重要視するわたしみたいな馬鹿はすぐにこういったトンデモ話を持ち出すのです。こういった癖は三千年続いていますのでなかなか抜けるものではありません。)
わたしの書くものなど何の価値もありません。かの日蓮は身禊の内容(古事記の神代紀のこと)を気づいていたということですが、日蓮でさえ、それに比べたら自分の教えなど、朝日の昇った後の星の光でしかないと言いう手紙(三沢鈔みさわみょう)を残しているくらいです。いまちょっと検索をしましたら次のようなものがでてきました。『日蓮上人は、佐渡流刑を解かれ、帰りに、越中富山の皇祖皇太宮に寄ったそうなのですが、この三沢鈔は、その時、頂いた神勅を元に書いたのだろうと思われます。』
勉強する相手はこのわたし、このブログではなく、古事記の神代紀です。何を勉強するのかといえばあなたのこころです。くれぐれもこんなブログをみてうんぬんするのは避けてください。本物は一言メッセージからどうぞ。各自ご自身で最低条件をクリアしてください。
ウ次元の腹を満腹にしても、オ次元の知識がつかないように、オ次元をいくら豊かにしても、ア次元の美しい富士山だなあという感動を呼び起こすことはできないのです。同様にエ次元の道徳政実践選択の一歩も歩み出すことはできず、イ次元の意志を大きくすることもできないのです。ア次元から言えば富士が美しいといくら叫んで伝えても他の人はその人なりに答えることしかできず、富士を美しいと感じる意志を持てなどと人には言えないのです。これが宗教芸術の限界です。
現在の神武天皇以来のわれわれの世界はこのウとオ次元をもっぱらとする世界で、欲望産業経済のウ次元と概念知識を獲得闘わす世界でした。しかし宗教芸術感情情感の世界ではそういったことが通用しないのはだれでもが知っています。身禊はまずこのア次元から始まります。仏教で言えば言えば悟り、空を得るで、哲学なら汝自身を知れ、芸術上の至高体験等それらの、現在の囚われた精神の解放から始まります。
それを先程最低条件といいました。こんなブログで知識など学ぶことはないということです。ただでさえ困難なア次元の悟りを得るのに、古事記にはその先にエ次元、イ次元がまだあるのです。伊勢神宮がこれをこころの秘儀として隠しているわけです。内容を知らず形だけですが。何も知らずにこれだけのものか何千年も残されるというのも驚きです。古代の世界でどれほどこのアイウエオのインパクトが大きかったのか計り知れません。
そしてエ次元へ、その上のイ次元へ昇るわけですが、われわれには体験したことのない世界です。ですので、エ次元、イ次元について書かれていることは基本的にはわたしのうそです。ちょうど経験したことのない死後世界を懸命に語るようなものです。しかし五重の塔(五重=いえ=家)が柱で繋がっているように、体験したことが無いなりに御柱と繋がっているのです。わたしたちは人の家、(霊ひの、留まる)の(五つつの重なり合うところ)、に住んでいるのです。
こころの構造 経験と選択。こころの原論の古事記。
隠岐の三子島
『子淡路(こあわじ)の穂(ほ)の狭別(さわけ)の島を生みたまひき。
次に伊予の二名(ふたな)の島を生みたまひき。この島は身一つにして面四つあり。』
この隠岐の三子島に面四つが実在していきます。前段では比売(ひめ・秘める)という表現が、面になります。
隠岐とは隠り神、隠れているところで先天構造、三つ子とは三段目に現われる言霊領域(島)という意味 。
ここに四神が出現してきます。徐々に人間の精神機能が分化明確化してきます。その出現の仕方は、
『 次に国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、
宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。
次に天の常立(とこたち)の神。この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。
次に成りませる神の名は、国の常立(とこたち)の神。
次に豊雲野(とよくも)の神。この二柱の神も独神(ひとりがみ)に成りまして、身を隠したまひき。』
となっています。
経験概念知識そして学問科学等に発展するオ次元がでてきます。
ついで、何をどうしようかという選択実践の智恵の領域のエ次元がでてきます。
(4)天の常立の神 言霊オ (主体側のこころの構造、経験)
(5)宇摩志阿斯訶備比古遅の神 言霊ヲ (客体側のこころの構造、経験)
(6)国の常立の神 言霊エ (主体側のこころの構造、選択)
(7)豊雲野の神 言霊ヱ (客体側のこころの構造、選択)
4-5の位置が違うようにみえます。主体が相手に働きかけるのなら4-5のはずです。しかし、古事記では宇摩志阿斯訶備比古遅の神 の客体側の「ヲ」が四番目です。主体的な精神規範を創造しようというのに、重要な経験知識を打ち立てる主体側の天の常立の神 言霊オが客体側の言霊ヲより後に登場するのは何故でしょう。主体的な能動活動をする以前にある客体側のヲとは何でしょう。
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この三つ子島ができた当時は、後に分化する精神機能が全部秘められた形で既にありました。国稚くの国はく・に(組んで似せる)で、組んで似せようにも混沌としていてどの時どの場所を締めているのか水母(暗い気・くらげ)状態ということです。五十音図の母音の位置の配置を決定していくのに、不安定な浮遊状態だったということです。というのもあいうえおの並びは人の精神次元状態で変化するからです。
天の御中主の意識の芽が産まれて、主客の判別があることが分かっただけでは、その内容の整理認識了解応用もできない状態です。組み合わせが若く、浮遊し一定しない浮かぶ油のようで、内容を規定し得ない暗い気、自分のこころということです。
この暗いこころであるときに不思議なことが起こります。『 水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物、』があるというのです。
何故だかどこからか来たのか知らないけれど、誰もがみんな知っている、分からなくとも知らなくとも知らないままに分からないままに、突き動かされてしまう行為にならない行為の萌芽がでてきます。人間に存在する先天性によって動かされる、行為です。
歌の中では月光仮面でしたけど、古文献でも月で示されています。始めに書きました、天譲日天狭霧国禅月国狭霧の尊、あめのみなかぬしのそのまえに、あめゆづるひ、あめのさぎり、くにゆづるつき、くにのさぎりのみことあるぞ。○チョンの○チョンの○チョンであるぞ」です。ここに月、付き、突き動かされる、があります。意志行為以前の動因となるものです。それがもえあがってでてきます。
これは先天世界のことでどのように分類分析していいのか分からないものですが、直感的にだれでもかんじることです。突然全然関係ないことをし出したり、犯罪行為の前触れとなったり、閃きとして予感出来たり予知したりということもあります。これが扱えると霊感霊能者となれるでしょう。ひとまず合理的にあの世、不思議現象、霊界などを解していく為のインスピレーション関係の根拠でしょう。
大抵は宗教芸術感情情感意志潜在思惟の次元での出来事です。古代大和でもそういったことは普通にあったのでしょう。比喩として、葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)るという時の「アシ」といっています。アシは植物のアシのことも指すでしょうが、ここでは高天原五十音図(天津太祝詞音図・天照大神の鏡のこと)の上二段、感情と意志の領域の最初と最後がアとシでそれを直接結んだものです。(葦船も)感情、意志部分だけが先行してしまうある種の蛭子のことです。
このプッシュする動力因がだれにでも備わっています。そしてこれが前回の最後に書いた、正否いずれであろうと自分の意見として正しいとして主張出来る根拠となるものです。この言霊ヲの解明はややこしいです。言霊ヲには記憶の全領域が含まれているからです。記憶は過去であるのに現在の主のようにのさばってでてきます。そして現在を占領して今後を、未来を指揮します。この言霊ヲを仏教では空といいますが、空即是色実は色ということです。ややこしくならないように理解したいのですが、ここでいう「理解」というのが「ヲ」の領域のことですので、ヤヤコシイ。
隠岐の三子島とあります。隠岐は、おき、いきでもあり、伊耶那岐でもあり、それが隠れている状態で、どこにかというと、三つ子、三段目まででウアオエが出揃った中にということで、さらに言えば三つ子とは、三世である過去現在未来のことで、それらの接点であるいま此処の中に隠れているということでもあります。この隠れた状態が現れると次の領域伊岐の島になり、伊耶那岐の出現です。
古事記ではこの隠れる(比売、ひめている、ひめられてる)の概念が非常に重要で、身を隠したまいきから始まって、最も大仕掛けなのが天の岩戸の章になります。何しろこの世の半分は姫ですし、主体の相手は客体、つまり姫で、黄泉の国に隠れた者を探しに行くという、古事記の半分は隠れものを探すことです。主客の(た)かみむすびの隠れた「た」探すことで、百番目のた・けはやすさのおの、田の気がすさまし勢いででて来るまで続くわけです。、
隠れた姿を主体的に現すのか客体的に現されるのかを表現している重要な言葉が「津」です。津のつく神名も多いです。「津」は神経科学ではシナプスという名前です。結合伝達を行なうとあり、「津」のつく地名は港に関係があって、船の渡し場となっているところで、この渡すことが「津」です。古事記の神名を借りれば、大戸日別の神が言霊ツをになっていて、主体から客体へ渡るのに途中の大いなる戸をひとつひとつ通って行くという意味です。実際には後述の八父韻を渡って行くことですが、ここでは隠れた「宇摩志阿斯訶備比古遅の神」が過去-現在-未来へ渡る例にしました。
では、宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神とは。
『 言霊ヲ、。宇摩志(うまし)とは霊妙不可思議なの意。阿斯訶備(あしかび)とは葦の芽のこと。比古遅(ひこぢ)は、辞書に比古(彦)は男子のこと、遅(ぢ)は敬称とあります。男子(おとこ)とは音子で言葉の事。
「霊妙に葦の芽の如く萌え上がるように出て来る言葉」といえば直ぐに記憶の事だと思い当たります。宇摩志阿斯訶備比古遅の神と古事記が指月の指として示した実体は、人間の記憶が納まっている心の空間(宇宙)のことであります。これが言霊ヲです。一つ一つの記憶は独立してあるものではなく、それすべてに何らかの関連をもっています。その関連が丁度葦の芽生えの複雑な形状に似ているために、太安万侶はこの神名を指月の指としたのでありましょう。 』
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(「うまし」と万葉集で検索したらこんな歌がありました。 「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は」天皇の歌です。辞書では「うまし」は。満ち足りていて美しい、すばらしいと賛美する気持ちを表す。よい。すばらしい。満足すべき状態だ。十分で申し分ない。
内陸の奈良の低い香具山に天皇が登って下界を見たら海原にカモメが舞っていたいたという、海もカモメも見えるはずの無い現実とは全然一致しない歌があります。この歌は天皇の歌ですから言霊学からしか解読できません。あまり大きなことは言えませんが少々分かったところがありますのでちょっとだけ。
海原とは海でも湖でもなく、古事記のスサノオに与えられた命令「海原を知らせ」の海原で、言霊ウの世界、この世の産業経済、人々の求める生活とその結果のことです。煙立ちは生産活動が盛んならその証拠となる火力の煙が多く立ち上っているということ。カモメは籠目にかけたもので、ユダヤのマークとなっているあれのことで、形而上と形而下の全体で正反合(6×6=36)、為政者からみればこの世の考察運用統治方法、全部で、カゴメ紋によるこの世の統治はうまく行っているという意味です。しかし本来の天皇による統治はカゴメ紋によるのではなく、十束剣(10×10=100)ですから、素晴らしいことですが、今はまだ蜻蛉ということです。)
宇摩志阿斯訶備比古遅の神 言霊ヲ は頭脳内でなら記憶、物質世界でなら結果の世界です。要するに考えたこと創ったことこの世の全部のことです。科学の応用によって147億光年を見たというのならそれも「ヲ」です。念力によって死後の世界に遊んだというのならそれも「ヲ」です。
こころの構造 経験と選択。こころの原論の古事記。
言霊ヲは宇麻志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。
言霊オは天の常立の神。
以下引用です。
今ここ
この時が今であり、この所が此処(今・此処即中今)である。この宇宙の一点に於ける人間意識の芽生え、これを言霊ウという。古事記神名は天之御中主の神である。
次にこの何か分らない生(うま)れ出ようとし、動(うご)き始め、蠢(うごめ)いているものが「何」であるか、という意識が働く時、瞬間的に言霊ウの宇宙は客観宇宙言霊ワとそれを見る主観宇宙言霊アに剖れる
次に宇宙の一点に芽生えたものが何か、の心が起る。と同時に一瞬にして言霊ウの宇宙は言霊アとワ(高御産巣日の神と神産巣日の神、主体と客体、私と貴方)の二つの宇宙に分れる。
心の先天構造内で宇宙言霊ウが言霊アとワの両宇宙に剖れるから、後天構造の人間の主観意識が客観のものをはっきり識別し、認識する事が出来る、という訳である。さらに言霊ア・ワの宇宙は言霊オエ・言霊ヲヱの夫々の宇宙に剖判し、後天構造に於ける人間の認識を実践へと進展させて行く。
この一つの宇宙から二つの宇宙に分れる事を宇宙剖判と呼ぶ。分かれる前の言霊ウは未剖の一枚(禅宗)であり、分かれた後の言霊アとワは剖判した二枚である。次の意識の段階で言霊アの宇宙から言霊オとエの宇宙が、言霊ワの宇宙から言霊ヲとヱの宇宙が剖判して来る(図参照)。
最後に、ではその宇宙剖判を可能とする根本の原動力は何か。母音であり、また半母音でもあるもの、それでいて親音とも呼ばれる言霊イ・ヰと、その働きであり人間の根源智性である言霊チイキミシリヒニの八父韻である。これが人間の生の一切の根本原動力である。(この説明は後の機会に譲ることとする)
言霊ヲは宇麻志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。全部に引っ付いてしまってどこまでも触覚を伸ばす。
言霊ヲの宇魔志阿斯訶備比毘遅(ウマシアシカビヒコジ)の神、際限なくいくらでも出てきますから。二三日前に「あぁ、感謝していなかったな」と省みて、禅の時は“無”ですが、産み出そうとする時に“無”では何もならない。
牛の尻尾が意味するのは過去、記憶、言霊ヲのこと。過ぎ去ったことに実体はないのに、いつまでも忘れないのはどうしてか、あなたならどう答えますか?自分ならどう答えるかを思案するのも修行の一つです。
生きているのは実存している今ここのみ、他に人間は生きようがない、思い出すのは、後悔の念、懐古の念等々、それらから離れることができないのは、人間の宿業、輪廻である。
牛の尻尾そのものに善悪はない、もし、その後悔、懐古がなければ、人間は獣に等しい、昨日から今日に生きているのではない、今日が昨日を引き連れている。
言霊ヲ
何万何千年も前に起こったこともすべて貯蔵されている貯蔵庫が、人間の心の中
にあるんです。どこだかご存じですか。言霊ヲです。人類始まって以来、人類が
行ったことのすべてが、この言霊ヲというところに貯蔵されています。
ヲっていう貯蔵庫は、わたくしならわたくしの心の中にそのすべてがあるわけで
すから、サーッと雲がとれれば、そこからスーッと入ってきます。それがささや
きかけるんです。「こうだよ」って。「あ、そうか」っていうことになります。
これは過去だからヲに入ってます。またいろんな難しい事態に立ち至っちゃっ
て、「さあどうしたらこれを切り抜けることができるのかな」というときには、
これは将来のことです。将来のことで雲をパッとはらう、過去の考え方というも
のをフッとなくすということは、原点に帰るってことですから、今ここに帰るこ
とです。
今ここに帰ってしまいますと、将来を築く智恵というものは言霊ヱというもの
が、宇宙にエネルギーとなって充満しておりますから、そこから父韻の働きと
なって、ちゃんと教えてくれるんです。試してみられるといいです。
いっぺん試しちゃったらしめたものです。みんながずーっと考えてるときに、
「下手な考え休むに似たり」。フッとそこから抜け出して意識をほかに振り向け
ていたら、スーッと智恵が湧いてまいります。
人間はそういう点では無限の智恵を授かっております。人間の本性は神だという
ゆえんです。人間は神の子といいます。神の子は神ですから。
オの次元は何でも言いたい。自分が主張しないと自分がいなくなってしまうのではないかのように思う。そういう方には何も言わないのがよろしいです。何を言ってもつかかってきますから。自分が自分の因縁に翻弄されているハムスターと同じ。
過ぎ去ったことに実体はないのに、いつまでも忘れないのはどうしてか、あなたならどう答えますか?自分ならどう答えるかを思案するのも修行の一つです。
ここまで引用です。
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最後に載っている質問に各自答えてください。わたしもつぶやいてみようと思います。
こころの構造 経験と選択。こころの原論の古事記。
『過ぎ去ったことに実体はないのに、いつまでも忘れないのはどうしてか、あなたならどう答えますか?自分ならどう答えるかを思案するのも修行の一つです。』
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わたしの独り言を載せます。その1。
『子淡路(こあわじ)の穂(ほ)の狭別(さわけ)の島を生みたまひき。
次に伊予の二名(ふたな)の島を生みたまひき。この島は身一つにして面四つあり。
次に国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、
宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。
次に天の常立(とこたち)の神。この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。 』
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アメリカで100㌦紙幣が使えないという話はよく聞きます。価値は十分あるのに使用不能ということで、やぎならウメェーと食べるでしょうか。お金なんか紙切れだというのもよく聞きます。自分で印刷すると逮捕されるのに発券元は私立銀行です。神、創造主、幽霊お化けは実体はないと言われても怖い思い畏怖の念を抱きます。ネット社会の実体と現実、信用名前だけと実体、勤務実体がないのに給料を払うなんていうのもあります。哲学分野では客観なる存在の扱いが問題のようです。
「過ぎ去ったことに実体はない」を説明されてそれは記憶だ過去だ言葉概念だ色即是空だ借り物だといわれれば、納得するのは楽です。同意せざるをえません。死んだ後に溜め込んだ財宝を持っていくのかと問われれば現在では肯定する人はいないでしょう。しかしここに、知識は納得しても感情が残ります。たまには感情で納得したという人もいて、でもよく聞くとその時もそのほとんどは、その感情の出所を知的に納得することで、感情そのものが納得したのではないことを知りません。
『 過ぎ去った時を取り戻そうとする事は愚かなことなのか…それでも人はなぜ、過去に捕らわれるのだろうか。 』
『 記憶というのは、過ぎ去ったことではなく、過ぎ去らなかったことである。』
みんな上手な表現ですね。過去を語るのに素敵な表現がどうして多いのかなんて疑問が起きてしまいそうです。
過ぎ去ったこととは何でしょう。過ぎ去ったことに実体はないのに、いつまでも忘れないのはどうしてか、
ウ次元の五感による欲望感覚と過ぎ去ったこと。
オ次元の記憶知識概念と過ぎ去ったこと。
ア次元の感情情感と過ぎ去ったこと。
エ次元の選択実践智恵と過ぎ去ったこと。
イ次元の創造意志と過ぎ去ったこと。
ウ-過ぎ去った欲望はもう無いのですから、残っているのはその思い出です。欲望は常に現在で、過ぎ去った欲望はもう存在しません。
オ-過ぎ去った知識は思い出したり忘れたりしますから、どこかに残ってあるのでしょう。知識は過去のものですが、でて来る場所はいまここです。
ア-過ぎ去った情感は消え去ったものですから、現在にのこっているものはありません。情感は消えても同じようにまた現在に甦ることがあります。思い出す情感は経験知識となったもので情感の形骸です。
エ-エはではこれからどうしようかという選択実践の智恵です。これから未来を選択しようというものですので、過ぎ去るものはありません。記憶記録としてならオの次元になります。
過去-現在から見ると、
ウの次元-欲望を感じている欲望は現時点ですので、過去の欲望とはその記憶思い出です。過去の欲望自体が現在に甦る事はなくいつまでも忘れないのはその思い出概念ですが、自覚がなく五感欲望のとりこです。過去も未来もなくいま現在の充足が問題です。
オの次元-知識記憶は過去の概念出しかないのに現時点において顔を出しますが、自覚に関係のない概念のとりこです。過去から持ってこられたものだけなのに、現在から未来へ主張し支配しようとします。
アの次元-情感感情は現時点のもので、感じている自覚を保持していますが、その行き先を知りません。どのような宗教、芸術もその行き着く先を表現はしても明示できていません。未来の姿は向こう岸に置かれたリンゴとしてあります。
エの次元-実践の智恵で、道徳政事となって出現します。未来においてなっている姿として現在の課題を打ち立てます。単なる達成出来るかどうか分からない目標予定の設定でなく、未来において成っている姿を自覚しています。
では、「いつまでも忘れないのはどうしてか」から見ると、
ウ次元の五感による欲望感覚をいつまでも忘れないのはどうしてか。
オ次元の記憶知識概念をいつまでも忘れないのはどうしてか。
ア次元の感情情感をいつまでも忘れないのはどうしてか。
エ次元の選択実践智恵をいつまでも忘れないのはどうしてか。
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わたしの独り言を載せます。その2。
古事記。『子淡路(こあわじ)の穂(ほ)の狭別(さわけ)の島を生みたまひき。
次に伊予の二名(ふたな)の島を生みたまひき。この島は身一つにして面四つあり。
次に国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、
宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。
次に天の常立(とこたち)の神。この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。 』
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引用。『 言霊ヲ、。宇摩志(うまし)とは霊妙不可思議なの意。阿斯訶備(あしかび)とは葦の芽のこと。比古遅(ひこぢ)は、辞書に比古(彦)は男子のこと、遅(ぢ)は敬称とあります。男子(おとこ)とは音子で言葉の事。
「霊妙に葦の芽の如く萌え上がるように出て来る言葉」といえば直ぐに記憶の事だと思い当たります。宇摩志阿斯訶備比古遅の神と古事記が指月の指として示した実体は、人間の記憶が納まっている心の空間(宇宙)のことであります。これが言霊ヲです。一つ一つの記憶は独立してあるものではなく、それすべてに何らかの関連をもっています。その関連が丁度葦の芽生えの複雑な形状に似ているために、太安万侶はこの神名を指月の指としたのでありましょう。 』
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言霊ヲは宇麻志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。
記憶というと生きている間に人が長、短期に、持っている蓄積された情報のことをいいますが、言霊ヲの記憶は「天地の初発の時高天原に成りませる」いらいの人の記憶、経験した出来事の記憶です。
天地の初発の時とはイマココのことを指しますので、イマココで獲得されている記憶のことです。個人にしても人類全体にしても過去の全体を背負っていますので、その人の手持ち+人類の過去です。例えば十数年前には宇宙の年齢は数十億年だったのがその後に伸びて現在は147億年だそうです。さらにこの宇宙のビッグバンの外にも宇宙がありそうというニュースもあるので、宇宙年齢はきりがなく伸びていくみたいです。個人の言霊ヲの記憶の中では数年前では128億年のだったのが最近では147億年からその先が共有されています。
そんな話題に関心が無いのなら宇宙年齢を機能食べた寿司でも、今日これから会う好きな人への思いでもいいのです。では何故わたしの食べた寿司があなたの記憶として共有出来るのか、またあなたの語る好きな人がわたしの記憶として共有出来るのか、宇宙の誕生か147億年前にはあったという科学知識か共有できるのか。わたしはあ鉈ではないし科学者でもないし、その逆も同様です。
例えばこれらのことが理解のできない言語で語られた場合はどうなるでしょうか。相手は懸命に昨日食べた寿司をわれわれの理解できない言葉で喋っています。この場合には猫が昨日寿司を喰ってうまかったにゃーとわめいているのとおなじです。猫が食べた寿司のことをわれわれは知り得ないのですから、それは存在しないのです。すなわち外国語での話の内容も猫のわめきも、「天地の初発の時」をわれわれに形成しません。そこには「高天原に成りませる神」が成り立ちません。(身振り手振り舌なめずり等も表現ですのでそれらも通じないとしています。)
では猫と外国人の喰った寿司は存在しなかったのでしょうか。「天地の初発の時」に戻ってみれば、「次に国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる 」ものとして、くらげ(暗気)状態で浮かべる脂のように明瞭な形はなく、その言葉はなにを組み合わせ指し示してるのか分からない(国・くに=組んで似せることが、幼稚)状態であることしか分かりません。そこで分かることは彼と何かが、猫と何かの両者があるということだけです。(たかみむすび、かみむすびの主客の始め)
147億年前の光で言えば、数年後により遠くの光が発見されば147億年から導かれた科学的意見は全て相対化されます。以前なら十年前なり視力でもっとも小さい光を見て、その当時、その時はそれを主張して真実でした。ということは現在に主張しているものも同様なものです。最先端とはそんなものです。(携帯電話の最先端が数年のうちに何回変わったことか)
『過ぎ去ったことに実体はないのに、いつまでも忘れないのはどうしてか』
客観的にあるものに対してはある程度回答したようですが、意識の上に昇った記憶の情感部分についてはまだ何も言っていないようです。
記憶の主張がその時の状態に左右されているのなら特に最先端だからといってその正否を叫ぶこともないのだけど、そこから否応なくいろいろと問題がでて来る。自然なもので善悪も無いものなのに、主張に種々の感情が付随してきて、暴力武力でケリをつけることまで起きて来る。こうした悪業がでてくるのも必然といえば必然です。気をつけろ直せといって、罰して罪科を与えれば善良になるというものではありません。
個人的なら後悔したり、恨んだり、恥ずかしがったり、得意がったり、様々な人間模様がでてくるでしょう。それらが全部単なる記憶、過去から持ち越した実体のないものに依拠しているというわけです。どうしてかというのは、なかなか難しいことです。ことに人間性にもともとあるもののように思える。しかしそういった次元を超えた聖人達もいるわけですから、もともと超えることもできるものなのでしょう。
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うまく行かないので、もう一度。
こころの構造 経験と選択。こころの原論の古事記。
何故うまく行かないのかは簡単なことで、知識で解こうとするからです。最初にアイデアが浮かびその線に沿って考えが進んでいくけど、すぐさま別の案がでてきます。最初の線を伝っていく場合でも途中で幾つもの分岐点があるので、その各々の整合性を保つ為に最初のアイデアを保持するように概念の操作が主要な仕事になっていきます。そしてあるときに気が付くと現実からかけ離れたことをしていることが分かってきます。概念の整合性を好む人はそのままつき進んでいって進歩さえ感じるようになるでしょう。
このブログも知的な関心、回答を得るという程度の低い段階のものですからしかたのないことですが(読まれる方はその辺のことは承知してもらいたい)、あまりにも、あちこち、これやあれやと概念同士の衝突がおきます。今回のアシカビヒコジに入る前に、ちょっと飛ばし過ぎじゃないのかという疑問が既に起きていました。ほんの少数の神様の名前をいじっただけですが、どれもこれも知的な解釈、概念の寄せ集めの範囲をでていません。全て駄目という感じはありました。
オノゴロ島の章では、伊耶那岐の命が彼女に問います。「あなたの体はどうなっているのか」と、ここのところは、今問題となっている、伊耶那岐という主体が与えられた問いに「この質問はどうなっているのか」と、答えるのと同じ構造です。
伊耶那岐とはわたしで、あなたで、読者です。自分には回答、概念、意見が、思想があるので、それをもってあなたの空所となっている質問を埋めましょうということです。もちろん回答すれば伊耶那美にとっても、質問にとっても、それなりに何かが説明解明されるのですから「しか善けむ」でしょう。しかし決定的なことが保障されたわけではありません。
オノゴロ島の章で美が先に喋ったというのは、岐が美において特徴的と見るだろうものを美が示したということです。美はわたしのここらあたりをちらっと見せれば岐は乗って来るのを知っていたということです。伊耶那美のなかにもともと有るものを、伊耶那岐は彼の好み関心において選択して、自分に操作しやすい蓄積された知識と混ぜ合わしているのです。岐はそのことで主体的にことが運んでいると思っていますが、実際は美に魅せられたことを白状しているに過ぎないのです。例えばどなたの意見でも構いませんがそれを分析すれば、アレレーということになるのではないでしょうか。
自分の考え思想なんていうものは高が知れています。伊耶那美になよなよっとしているのも自覚せず、自分で何かしていると取り違えているのです。
ここのところを以下オノゴロ島から見てみよう。直訳でなく論旨に沿って訳すると。
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『ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、』・・自分から主体的にしていることと思っているが、実は、先天的な構造から(天津神)規定されている(命以ちて)のも知らず、
『伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、』・・主体側の考えとその対象となる客体側を取り出して、両者を勝手に設定し、
『「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、』・・不明な未解決の問題を修理めようとし、また自分の主張で固めようとし、
『天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき。』・・先天的な(天の)判断力(沼矛)に従わされているのに気づかず、その言いなりなってになって、
『かれ二柱の神、天の浮橋(うきはし)に立たして、』・・主体側と客体側の設定を先天的な判断次元とその判断力によって行なわされるようにされ、、
『その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、』・・判断を下し、主張を貫き描きだす為に、
『塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、』・・(塩・しほ・四穂・四つの言霊次元のこと、欲望・知識・情感・選択のこと)次元の違い水準の違いを考慮せず勝手に混ぜ合わせ、ああだこうだ、こっちだあっちだ、これが正しいあれが正しいと言いながら、
『引き上げたまひし時に、その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の』・・自分のせいで創られているように思い込み、判断を収束、結論を提示していくと、
『累積(つも)りて成れる島は、これ淤能碁呂島(おのろご)なり。』・・その結果を自分の成果として自分が産み出した、これがおのれの心の見解だ(領域、島)としていく。それだけのことです。
こうして出だしにおいて、自分の恣意的な選択や伊耶那美のチラリズムにやられているにもかかわらず、本人は真面目に自覚の無いまま主張の根拠を自分が創出したからとしていきます。間違った駄目な意見(ということにします。)はオノゴロ島では、喧嘩もなく論争などもなく普通に葦船に入れて蛭子として世間に流布されていきます。間違っていて駄目だからといってもそれ自体は悪でもないし無価値でもない。立派な歴史性を持ったものです。それなりの出生の根拠もあり、それなりに発展肥大していきます。
(葦船について。アシは植物のアシのことも指すでしょうが、ここでは高天原五十音図(天津太祝詞音図・天照大神の鏡のこと)の上二段、アイエオウのア段とイ段、感情と意志の領域の最初と最後がアとシでそれを直接結んだものです。言霊アの感情、言霊イの意志部分だけが先行してしまうある種の蛭子・霊流子・骨、実体(霊)のない、ひ(霊)のながれてしまっている(流)、創造された現象(子)のことです。)
主体側では学問的に、科学的に概念範疇を扱っているつもりでょしうが、その内実は自分の気に入った感情に左右されて疑問なり関心事をかき寄せ集めることから始まったことに過ぎません。伊耶那美の魅力にひっかかったということです。
それでも人間の性能として当然のこととして流布されていくのです。この当然となるのはどうしてかというのが、解こうとしている問いです。
これが解けなければ言霊学を学んでいる甲斐もないのですが、わたしもその内の一人ですので。
間違っていようと駄目であろうとひとたび自分の意見と言うことになれば固執していくものです。五感感覚から産まれた欲望の世界もその固執、執着には物凄いものがあります。無知であろうと学者であろうと自分の考え意見思想には我を張ってまで立てこもり防御するものです。意思決定の違い、未来選択の違いから殺人や戦争になることは日常のことのようです。
正しいのではなく正しさを装うだけですが、それでもそこから出て来る力量には凄いものがあります。こうして数千年の歴史が動いてきたのですから、誰でもがその力の恩恵を感じてていることでしょう。犯罪者、戦争仕掛け人、何々をしてどこが悪いと言う人達にも歴史は味方しているし、それなりの根拠を与えていることでしょう。
このまま行くと話が外れますのでその前に問いに答えたいのですが、情けないことにまだでてきません。
古事記はこころの原理論ですから、理解していれば、また、アンチョコとして利用すれば、スイスイと答えられる筈ですが、、、、まだです。
過去概念記憶とそれに囚われることは別のことです。囚われ忘れず感情移入してまで選択してしまいますが、ここでは複雑な問題まで手が届きませんので、過去が現在の概念記憶知識となってしまうからくりを探りたいと思います。
まず過去を造り、それが現在にまで移動するのか、移動しないのなら過去はどこにあるのか、現在になったとされる過去と本来の過去との関係、移動しないならその過去は今後どうなるのか、どこでどうして間違い、どこでどうすれば間違わないのか、等々目茶苦茶になりそうだけどやってみよう。
過去を造る。
過去を造るのは簡単でいま何かを認めればそれはそのまま過去に落ちていきます。これは何だ。あっ、マウスか、で認められたマウスは過去となりました。すれにもかかわらずマウスが実在していても、これは何だと言った時のマウスはもう過去のものです。
止め。ストップ。
いい案が浮かばないので禅の公案、『犬にも仏性はあるか』、でやってみます。
答えは、無し。有り。有るとか無いとかじゃなくて絶対無だ。宇宙生命の活性化だ。相対性の無い無だ。むーという絶叫だ。等々いろいろ。
読んでも聴いても何も分からない答えばかり。要するに何を言っても許される内容を持った問いということ。その点では坊主もわたしも同等、坊主がスリッパで頭をはたいたら、やりかえすこと。
『犬にも仏性はあるか』をプロも学生もまともに読み過ぎている。有る無しの有無に引っついている。
問いを単純にすると、犬は仏かで、同じ構造なら、馬は羊か、古事記は神話か、古事記はこころの原論か、AはBか、嘘は真実か、カレーは寿司か、仏陀はわたしか、あなたか、キリストか、宇宙は48億歳か、等々何でもお好きなように。というように二つの対象にある判断辞が加わるだけのことです。
二つの対象にはそれぞれある時ある場所での与えられた、学んだ、修得した判断があります。時と共に変化し、立場によって変化していき、自分のうちにも判断は変化していきます。そういった国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる二つのものへの判断です。たまたま一方が仏陀の教えであったり、最新の科学知識であったり、大多数の一致した意見であったりするだけです。権威であったり公式であったりもします。正しいものはいつも正しいなんていう頑固な意見であったりもします。
すべてはこうした過去に造られた判断を摂取することから始まっています。確かに与えられた時点では、ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちてという、天与の判断知識でした。何かが有るなと分かった時、そこには言霊ヲの宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神がいました。(上の方では伊耶那美の魅力ポイントで示されています。八百万の別々の神でなく、その元は細胞分裂のようにただ一つの神しかいないところから始まっています。)
犬の仏性という仏陀の教えから始める者は当然有りと答えます。何故なら仏陀の教えがあるところから始めているからです。当たり前のようですが、事を自分に引き寄せれば仏陀の教えなど無いに等しい向こう岸の助け船です。カレーは寿司かというのも同じです。寿司というのは向こう側に有る判断の助けです。公案で問われいるのは、有る無し、有無ではありません。そういった有無を前提として受け入れ設定してしまう心持ちについてです。
相手が坊主達なのでお釈迦様にかけて仏性となっていますが、科学者なら犬の判断能力を持ち出し犬に判断力はあるかとなり、救助犬に関心があれば犬は猫を救助できるかとかになります。新メニューを開発している調理人ならカレーは寿司かを考えているでしょうし、狼に襲われた馬をみて羊飼いは馬は羊かと嘆くことでしょう。これらの場面の一つを抽象化すれば公案が成り立ちます。
この抽象化された言葉に跪くのが坊主でありわれわれとなります。
この辺で止めておきます。
こころの構造 経験と選択。こころの原論の古事記。
○ 古事記『次に国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に天の常立(とこたち)の神。この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。
次に成りませる神の名は、国の常立(とこたち)の神。次に豊雲野(とよくも)の神。この二柱の神も、独神に成りまして、身を隠したまひき。』
(4)天の常立の神 言霊オ (こころの構造、経験)主体側
(5)宇摩志阿斯訶備比古遅の神 言霊ヲ (こころの構造、経験)客体側
(6)国の常立の神 言霊エ (こころの構造、選択)主体側
(7)豊雲野の神 言霊ヱ (こころの構造、選択)客体側
天の常立の神 言霊オ
この世に成り立ち有るものは、自然と文化です。自然による創造と人間による文化創造です。人の学習による記憶行為はというと、自然の延長です。一見文化創造行為のように見えますが、そのどれもが動物の学習や実験、サーカス等々にその芽が見出せます。動物が人の真似をすると人間達は拙い有り様を見てとても満足します。
文化創造、未来を選択する為の智恵(言霊エ次元)、宗教芸術活動(言霊ア次元)、意志決定(言霊イ次元)等に、動物達が関与しているかのような外見を示すこともありますが、動物側には一切自覚がない。人間も上の次元を真似ることがあります。予言者の真似をしたり、創造者の真似をしたりしますが、確かにあった経験のいびつな逸脱で自証他証の自覚はなく、オ次元でのことです。
いまこうして勉強していることも自然な動物並みのことですが、動物と同じではありません。人はイエウオアの五重の家としてもともと造られているからです。(誰がどのように、という疑問はオ次元でのものです。それようの答えとして神とか創造主とかを持ちだすでしょうが、アの次元、宗教芸術次元、に昇った方は、誰がどのようにという疑問の持ち方は出てこないのです。さらに言霊学ではその上のエの次元とイの次元があります。伊勢神宮の隠された五分の二の忌み柱。)
現在の歴史的位置はオ次元の完成期です。ウ次元の産業経済の発達と相互補完にある学術科学文明は共に頂点に達しようとしています。最近は、文明の見直し人間精神の再検討があちこちで叫ばれています。二千年前に聖人が出てきて荒野での叫びを実行してきましたが、ウ、オ次元の堕落没落に貢献しただけで未来社会に踏み出すことはできていません。ウ、オ社会の発展がまだ完了していないからで、また聖人達自身にエ、イ次元への踏み入れを許されていなかったからです。
これらは人間の意志による介入を自然とした見方です。人は意志して歴史を築いてきたようで、誰かの意志の元に自然と従っていたと言うことになります。難しい言葉で経綸と言います。神を信じる人は神の経綸と取るでしょう。しかし、神の経綸もある人によって折り込まれていたとする立場もあります。それが言霊学であり、ある人とは神武天皇です。これから先は関心のある方だけが進めばいいので話はここまでです。一言メッセージ欄から入って歴史項目を探してください。
通信と交通、情報は既に世界は一つになっています。大昔には隣の部落は敵でした。戦国時代も終わり内戦も終わり、国家間の戦争も終わりました。確かにとなり部落を敵とする風習は未だに残っています。スポーツなどは隣に座る人はいまだに敵です。しかし、世界規模での物事の出現は留まることをしません。
まず産業経済界での世界統一はまもなくでしょう。「中国輸出企業200強 8割が外資系、2010年4月21日15時26分、 対外貿易企業に関する報告書「2009年中国対外貿易企業200強」が20日発表された。それによると、対外貿易企業上位200社のうち外資系企業が前年を12社上回る153社に上り、輸出額は2507億4千万ドルに達して全体の77.8%(前年比3.7%増)を占めた。」(朝日新聞)
科学学術界では既に全分野で統一共通化の方向に向かっています。次にくるのは神道のもとに宗教界での合同です。今まで三千年間世界の宗教、聖人達の達し得なかった、宗教では未来社会を創造できない共通の秘密が明かされるでしょう。その時は日本は世界の中の一国だった日本(ひのもと)改め、霊(ひ)の元となるでしょう。新大和朝廷の領域は地球文明です。
ブログは現在、天の常立と自然過程についてです。歴史の勉強も経綸による自然過程と見れるなら、そこに神の役割さえも設定した方がいるというところまで行きました。あやふやになる混乱を避ける為、天の常立に戻りましょう。
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天の常立(とこたち)の神とは大自然(天)が恒常に(常)成立する(立)実在(神)といった意味であります。
宇摩志阿斯訶備比古遅の神が記憶そのものの世界(言霊ヲ)であるとするならば、
天の常立の神・言霊オとは記憶し、また種々の記憶の関連を調べる主体となる世界という事が出来ます。
またこの世界から物事を客体として考える学問が成立して来ます。
言霊ヲの記憶の世界も、その記憶を成立させ、またそれら記憶同士の関連を調べる主体である言霊オの宇宙も、それぞれ人間の持つ各種性能の次元宇宙とは独立した実在であり、また先天構造の中の存在で、意識で捕捉し得ないものでありますので、宇摩志阿斯訶備比古遅、天の常立の二柱の神も「独神であり、身を隠している」と言うのであります。
宇摩志阿斯訶備比古遅の神 ヲ ・何万何千年も前に起こったこともすべて貯蔵されている貯蔵庫が、人間の心の中にあるんです。どこだかご存じですか。言霊ヲです。人類始まって以来、人類が
行ったことのすべてが、この言霊ヲというところに貯蔵されています。
ヲっていう貯蔵庫は、わたくしならわたくしの心の中にそのすべてがあるわけで
すから、サーッと雲がとれれば、そこからスーッと入ってきます。それがささや
きかけるんです。「こうだよ」って。「あ、そうか」っていうことになります。
これは過去だからヲに入ってます。
またいろんな難しい事態に立ち至っちゃっ
て、「さあどうしたらこれを切り抜けることができるのかな」というときには、
これは将来のことです。将来のことで雲をパッとはらう、過去の考え方というも
のをフッとなくすということは、原点に帰るってことですから、今ここに帰るこ
とです。
国の常立の神 エ
豊雲野の神 ヱ ・今ここに帰ってしまいますと、将来を築く智恵というものは言霊ヱというもの
が、宇宙にエネルギーとなって充満しておりますから、そこから父韻の働きと
なって、ちゃんと教えてくれるんです。
分析して部分部分の仕組を明らかにし、その上でその物事自体が人間の文化にとってどのように役立つか、を考えながら総合したことである。
言霊オ「天の常立神」の分析は自然に対する調査であり、
言霊エ「国の常立神」の総合は人間の文化活動である。
分析は言霊オの「天の常立神」で自然に対する調査であり、
綜合は「国の常立神」で人間の文化活動の言霊エの働きである。
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国学者、神道家、大多数の賛同者では、天の常立神は「天(高天原)そのものを神格化し、天の恒常性を表した神である。」(ウィキ)としています。
(5)宇摩志阿斯訶備比古遅の神 言霊ヲ (こころの構造、経験知識)客体側
(4)天の常立の神 言霊オ (こころの構造、経験知識)主体側
(6)国の常立の神 言霊エ (こころの構造、選択智恵)主体側
(7)豊雲野の神 言霊ヱ (こころの構造、選択智恵)客体側
ここでよく見て欲しいのはのは(4)と(6)で「天」に対する「国」です。字面での判断なら天は見上げる天のことですが、ここでは、「地」に対するものではないので、天と地を含めたものが「天」です。いわば大自然、現象界、これは何だという心の相手全部のことです。
天の常立の神は天の神格化ではなく、心の相手が常に成立していくこころの動きをいいます。例えば、正しい間違っているに関係なく、「天の常立の神」を天の神格化としてしまうこころの働きの大本のことです。相手を見るとそこに相手がいると納得していく動きのもととなるものです。つまり、宇摩志阿斯訶備比古遅の神、言霊ヲがこころの構造、経験知識として客体側にいますから、ヒコヂを成立する心となります。霊(ヒ)の現象(子)を創成する下地(地)。
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何もない広い宇宙の中に先ず言霊ウの宇宙が現われ、それがアとワの宇宙に剖判しました。言霊アは主体・私であり、言霊ワは客体であり、貴方であります。即ちこの見る方(ア)と見られる方(ワ)の次に何が剖判して来るのでしょうか。それは言霊オ・ヲの宇宙でありました。言霊オは天之常立の神、言霊ヲは宇摩志阿斯訶備比古遅の神であります。
心の先天構造の此処までの活動で、広い宇宙の中に何かまだ分からないが、何者かが現われ(言霊ウ)、それに人間の思惟が加わりますと、言霊ウの宇宙は見る主体(言霊ア)と、見られる客体(言霊ワ)に剖判し、更にそれが何であるか、を見定めるために言霊オとヲ即ち過去の記憶と記憶するもの(言霊ヲとオ)が剖判・出現し、そのオとヲの記憶によって「何か」が決定されるという段取りとなるのであります。眼前のものが何であるか、が決定しますと、次に何が起るのでしょうか。
人は何か対処し、処理すべき事態に遭遇した時、先ずその事態が如何なる原因によって起ったのか、を調べます。この調査は経験知によって行われます。今まで過去に起った同じ現象と比べて、今回の事態が過去と同じか、違いがあるとすれば、それは何か、を調べます。以前起った現象と様相が全く同じであるなら、その以前に経験した対処法をそのまま採用すればよい事となります。この場合、経験知がそのまま実践智となり得ます。問題は起りません。
けれど今度の事態が過去に似た事例を見ない出来事だったり、似た事例があったとしても、その他未知の要素が含まれているような出来事であったりした場合、経験した知識だけでは判断出来なくなります。この時、実践智という人間の性能が浮かび上がります。言霊エの実践智とは、言霊ウの欲望、言霊オの経験知、言霊アの感情の各人間性能をどの様に按梅して物事に対処したらよいか、を決定する智恵なのであります。この智恵も経験知と同様人間に生れた時から授かっている生来の性能なのです。
こころの構造 選択の智恵。こころの原論の古事記。
豊雲野(とよくもの)の神 言霊 ヱ
字面から受ける印象のわりにはこの神様を祭る神社がな非常に少ないようです。豊作、豊魚、豊饒、豊かな人生、開運して豊に、等々、何も役立つ様子がない。御利益無しでは可哀相。なぜ、豊雲野(とよくもの)の神を祭らないのでしょうか。記紀の始めに出て来るから有り難いというだけで祭られているだけでは。それとも雲の固定しない混沌浮き漂うイメージからでしょうか。それとも何にもないだだっ広い野原のせいでしょうか。
豊雲野の神は客体側ワ行の言霊ヱです。客体側ワ行のヱを理解できない為か、理解させない為か、あるいは理解するような次元じゃない為か、不思議な豊雲野です。何故この神は祭られないのか。われわれ人間側にある原因を探してみましょう。豊の字が使われている例は非常に多いけれど祭られないことについてです。
『日本書紀』では、
豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)、豊国主尊(とよくにぬしのみこと)、別名として豊組野尊(とよくむののみこと)の、とよ+クモ、クニ、クム、+の、の系統に入りそうもない、
葉木国野尊(はこ・くに・の・のみこと)、というのがあります。はこ+クモ、クニ、クム、+の、で同じ仲間なので、ハコとトヨが同じあれば両者の共通性がでてきます。
ハコは箱で、ハコの左右と上部を取り出すと台形になり、丸くすればウズメの桶になります。ハコを台にして左右を柱として立てて梁を渡すと鳥居の原型です。両端の柱は伊勢の心の御柱を主客に現したものでその間を伊耶那岐の大神が渡ります。主客の柱は主体側がイエウオア、客体側がヰヱウヲワでこの五つの間を川の流れに例え、五つの瀬を渡る伊勢(五瀬いせ)で、実際に流れているのが五十鈴川、五十音言霊の流れです。鈴は横から見れば口を開いた形で言霊を宣命する形。こうして葉木国野尊(はこくにののみこと)のハコは五十音図のことです。
この五十音図の両側の御柱(ア行とワ行)とその瀬を渡る伊耶那岐の大神の現れである、たかまはらなやさ(八文字)を足すと十八(5・8・5)になります。御中主から高御産巣日と神産巣日へのウからアワへの剖判で主体側のアは五文字のイエウオアで現し、その五つの瀬(伊勢)を渡るタカマハラナヤサが八つ、そしてワ行をまとめて客体側一つとして、全部足すと十八から十四になります。この十四をよむと十(と)、四(よ)で、とよ、豊になります。
これは人の先天構造を現した神代十七神の主体側の母音、まとめられた客体側半母音、そして父韻の数と一致しています。人はこの先天的な鳥居を潜ることによってしか物事を成し得ないという古代の聖人の大発見、人類の秘宝なのです。それを記念して日本の古名には豊の呼び名が入れられています。大和の日本は世界の他の一国一国に対する国ではなく、世界全体と日本と言う構造になっています。(脱線)
次は、葉木国野尊(はこ・くに・の・のみこと)、豊雲野(とよくもの)の神のクニ・クモについてです。国と表記されていても国と取れません。雲、酌む等との関連づけが必要です。
豊が人の心の先天構造にある十四を示していました。神代十七代の全体です。この十七代が、クニ、クモ、クム関係になることです。ここで一番分かりやすいのはクム組むです。その中に雲を位置付ければいいでしょう。
豊雲野の神の「雲」は「組む」の暗示です。組んで結ぶです。組んで模するです。何を組むのかと言えば、十四(十七)の言葉の働きを自由自在に組んで、人としての意志の発現、実践行為をすると言うことです。その働きの実際は主体である母音と客体である半母音を結び組むことを意味しています。また、国とは組んで似せる(く・に)、区切って似せる、の意となります。
しかしここで組むと言っても豊雲野が組むのではありません。豊雲野は組まれる地盤を提供するだけです。わたしがあなたと組む、わたしがあなたのブログを読む、わたしは音楽を聴く等々、全過去の全てを提供して、これから行なうことの将来を決める地盤のことです。
言霊オ、ヲの記憶経験知識のことではなく、言霊オの場合にはこれは何かに対するもので、言霊エの場合はこれをどうするかで、未来にかかった雲を切り開く智恵のことです。言霊オの経験知識はあっても、とっさの機智に対応する言霊エの智恵がまるで無いこともあります。
言霊エ-ヱのエネルギーが宇宙に充満しているので、時と場所に応じて対応できているわけで、幾ら高度なブログ知識、ネット知識があったところで、四月二十四日のわたしのブログが読めるわけでも無いのです。(この日は記事を書いていない)
こころの構造 。拝む。 選択の智恵。こころの原論の古事記。
正像末法というのがあります。
正法。お釈迦様の正しい教えが守られ行なわれること。
像法。仏法と修行者は存在するが、この時代には、悟りを開く者は存在しないとされる。
末法。仏の教のみが存在して悟りに入る人がいない時期のこと。
これは言い換えるとこうなります。
正法。お釈迦様の教えが守られ、弟子人々も同様に実践していた。お釈迦様は見本手本であり、自分の成る姿であった。
像法。お釈迦様の描かれもの、仏像となったもの、教典となったものを拝んでればよくなった。
末法。お釈迦様より、生まれ変わりなり教祖なりを自称するもの達を拝めばよくなった。
自分のこととしてこうも言えます。
正法。何かを勉強しようとし、何かをえようとし、何かの身体運動を体得しようとするとき、何かき姿を真似ます。まず何かを正しいものとしてその通り同じようにしようとします。
像法。何かが書いたもの、何かが言ったこと、何かが示したもの、を拝むようになります。
末法。当初の何かの代わりに、秘伝だとか引用されるものを崇めるようになり、伝承者正統者多数者とかを拝むようになります。
こう見ますと時間的に千年とか二千年とかは関係なく、今のわたしのこととなってきます。言霊学を学び始めた当初は、修得しようと同じようにしようとしていました。その後知識材料情報が増えて来ると、それらの選択確認取捨に勢力が奪われ、言霊学の本物に近いものを拝むようになりました。
そして、だれか気に入ったことを言っている人、気に入ったものが見つかるとそこにこころが移動していきます。
さて、正法の時代、真面目に真剣に練習格闘していたとき、何かお釈迦様のような自分で設定した存在がありました。その存在は将来の自分のことでもあり、目指す姿、出来上がった自分でもありました。熱意のある実践学習をしている心を持っているとき、誰が何を拝むでしょうか。
こうなりたい成ったらいいなという自分のこころを拝むことはしません。祈ることもしません。自分の熱意と真剣さは自分の到達するべき規範、鏡として自分に「いつき立てる」ものです。現在は「いつきたてる」と言ういい方が無くなりそうな時代です。
例えば、目標を立てて何もせずその目標をこれはいい、立派だ、見事だと拝むだけと言えば分かりやすいでしょう。目標とは自分の成った姿です。それを「いつきたて」ずに拝むのです。自分で造ったものですから拝めることもできるでしょうが、実践修得行為は無いままです。そのような状態は「おろか」です。
もうお分かりでしょ、拝むの語源は、「おろか」者のなすこと、「おろがむ」からきた言葉です。おろがむは、おろかもの(おろ)が自分を神(がむ、かむ、かみ、神を迎える)とすることです。ですので、誰でも健全な精神を持っているとき、こころが燃えているときには「おろがむ」ことがありません。
( 目標を立てるの「立てる」は古事記ではこうなっています。
衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神 。
かれ投げ棄(う)つる御杖に成りませる神の名は、
杖(つえ)とは、それに縋(すが)って歩くものです。その事から宗教書や神話では人に生来与えられている判断力の事を指す表徴となっています。投げ棄つる、とは投げ捨てる事ではなく、物事の判断をする場合にある考えを投入する事を言います。判断の鏡を提供する意味を持ちます。
衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神。
衝き立つ、とは斎(いつ)き立てるの謎です。判断に当って、その基準となる鏡を掲げることであります。その鏡とは何なのかと言いますと、先に伊耶那岐の命が五十音言霊を整理・検討して、その結論として自らの主観内に確認した人間精神の最高構造である建御雷の男の神という五十音言霊図であります。船は人を運ぶ乗物です。言葉は心を運びます。その事から言葉を船に譬えます。神社の御神体としての鏡は船形の台に乗せられています。でありますから、船戸の神とは、船という心の乗物である言葉を構成する五十音言霊図の戸、即ち鏡という事になります。衝き立つ船戸の神とは、物事の判断の基準として斎き立てられた五十音言霊図の鏡の働き(神)という事になります。此処では建御雷の男の神という五十音図の事です。)
おろかものは自己の経験をないがしろにして、おろがみ拝む対象にしてしまいます。ここで脱線です。
やまたのオロチも「おろ」と持っています。愚か者(オロチ)が酒を飲んで「頭を垂れいれて」頭を下ろすことを象徴しています。また愚か者であってもその熱情のある時には草薙の太刀(判断力のこと)を内包しているのです。オロチはスサノオの反省以前、イツキ立てるものを見出す前のスサノオのことです。オロチのオは言霊オで経験知識概念記憶のことで、自らの獲得していったもので次々とイツキ立てる努力を放棄する(おろす)ことになれば、寝てしまうことになり、結果を持ちつづけていけば草薙の太刀を得るだろうと言うことのようです。
イツクの説明の引用です。
「斎(いつ)く」と「拝(おろが)む」
古代の日本人の神様に対する態度は、大変はっきりしていました。その態度は二種類あり、言葉の上で明快に区別されていました。一つは「斎(いつ)く」であり、もう一つは「拝(おろが)む」ことです。
斎くを説明しましょう。斎くの語源は「五作る」です。五を作るとはどういうことなのでしょうか。そこに言霊が登場です。人間の心は五つの母音の重畳で出来ています。心の先天構造の項でお話しましたが、五官感覚による欲望の宇宙(言霊ウ)、経験知の宇宙(言霊オ)、感情が出て来る元の宇宙(言霊ア)、実践智道徳の宇宙(言霊エ)、それに創造意志の宇宙(言霊イ)の五段階の宇宙です。
「五作る」の作るとは、よく理解して使い分けるという意味です。人は物事を考える場合、ともすると眼前の事態を欲望の問題として対処すべきか(言霊ウ)、過去の経験知に全面的に頼るのがよいか(言霊オ)、それとも感情の赴くままに解決すればよいか(言霊ア)……等々、問題の捉え方に迷って考えあぐむことがよくあるものです。この場合、人がもしそれぞれの異なる心の宇宙や次元を自分の心中にはっきり区別し、認識して、それぞれの次元の心がどう動くかのメカニズムの相違を熟知しているとしたら、その人はどんな問題にも気持よく対処して行くことが出来るはずです。迷うことはありません。
そういう人間になろうとすれば、どうしても自分の心の中で、ウオアエイの五つの母音宇宙をしっかりと把握しなければなりません。この五つの母音宇宙を把握し、自覚することを「斎く」(五を作る)と名付けたのでした。この五つの母音宇宙を把握している人を、霊を知る人の意味で聖と昔の人は呼んだのです。斎くとは神に対する最高の態度であると同時に、神そのものの態度である、ということが出来ましょう。
ついで。
「拝む」に移りましょう。拝むとは神様の前で頭を下げて、誓いをしたり、ご利益を願ったりする態度です。今より二千年前、崇神天皇という天皇は、その時まで人間精神の構造を表し、日本の言葉の原典であり、政治の鏡でもあった言霊の原理を、天照大神という名の神様として伊勢の神宮に祭ってしまいました。それ以来、生きた聖がこの世に次第にいなくなっていったのです。人間の心の住み家である五つの母音宇宙(家・五重)のうち、人々は最高段階にある生命の創造意志(言霊イ)と、その意志の法則である言霊の原理に則って行う実践智(言霊エ)である英智の自覚を失ってしまいました。
人々は生命を支配する法則と、その運用法である実践智の自覚を失った結果、その大きなものを神と見立てた神社の前で頭を下げ、身の安全と幸福を願い求めるより他に方法がなくなったのです。これが拝む態度です。
古代には現代社会が持っているような物質科学や機械文明はありませんでした。だからといって、大昔の人が野蛮人であったのではありません。現代人が想像も出来ないような精神文明が花開いていたのです。その時代の人間の精神程度からすれば、現代人はやっとティーンエイジに届くか届かないかの「青二才」なのかも知れません。 「拝む」と「愚か」とは語源を同じくしています。拝むということは神に対して愚か者のとる態度ということが出来るのです。
日本の古神道では、神である言霊アオウエイの天の御柱を心中に斎(いつ)く(五作(いつく)る)事を目的として、神を拝(おが)む(おろがむ)事はありませんでした。
神様なんていないんだとしたら、どうなるのか。こういう私も神様なんていないと言いつつも、実はいるんだよとも言う。言霊を神様としたら信仰なんですから。でも信仰で捉えようがない。
自分の心で現実の目でみれば拝む対象ではないのだということが分かる。拝んでも、拝まなくても神はいるんだよって。あまりに人間の発想を超えた話ですから、呆気にとられてしまうでしょ、世界的にも、とくに学識者がね。
神様は火星から飛んできた」と言う人もいる。どうやって飛んできたの?と聞き返す。その人は大真面目で二千円とか五千円の寄付を募って、物販したりしている。現代人はそっちの方を信じやすい、何か価値を求めてしまう。
こころの構造 選択の智恵。こころの原論の古事記。
御倉板拳(みくらたな)の神
本居宣長は『古事記伝』にて「御祖神の賜いし重き御宝として天照大神の御倉に蔵め、その棚の上に安置奉りて崇き祭りたまいし名なるべし」と言い、板挙とは「板を高く架挙て物置く所に構うる故に如此書けるならむ」
『霊界物語』では、この御倉板挙の神ということは、言霊学上から見ても神様の方で申されまする暦…この世界には恒天暦、太陽暦、太陰暦の3つの暦が、常に運行循環しているのであります。で、この御頸珠をお授けになったというのは、いわゆる御倉板挙の神、すなわち恒天暦、太陽暦、太陰暦をお授けになったのであります。(みくらたな)の神といふ。
御倉板挙とは御厨(みくりや)の棚(たな)の意です。天照らす大御神の知しめす食物といえば言霊のことです。それを並べておく棚という事で五十音言霊図の事であります。天照らす大御神が父神、伊耶那岐の命から授かった御頸珠とは五十音言霊図、またはその原理だ、という事となります。
御倉板拳(みくらたな)の神を巡って一定した見解がありません。三貴子の段でのことです。ここは『すなはちその御頸珠(みくびたま)の玉(たま)の緒ももゆらに取りゆらかして、天照らす大御神に賜ひて詔りたまはく、「汝(な)が命(みこと)は高天の原を知らせ」と、言依(ことよ)さして賜ひき。かれその御頸珠の名を、御倉板挙(みくらたな)の神といふ。』 御倉板擧之神【訓板擧云多那】(タナと読め)と書かれています。
「御頸珠の名を、御倉板挙(みくらたな)の神といふ」、首飾りは棚(田名)であるという普通ではさっぱり分からない、秘密の言葉で書かれています。
古事記は言霊学でしか解けません。
その解を引用します。
すなはちその御頸珠(みくびたま)の玉(たま)の緒ももゆらに取りゆらかして、天照らす大御神に賜ひて詔りたまはく、「汝(な)が命(みこと)は高天の原を知らせ」と、言依(ことよ)さして賜ひき。
御頸玉(みくびたま)とは頸に巻いた玉の事、その玉を糸で繋いだロザリーであります。
また頸(くび)とは組(く)む霊(ひ)の意でもあります。言霊の事を霊と呼びます。言霊を組む事によって大和言葉が生まれます。
御頸玉とは三種の神器の一つ、八坂(やさか)の勾珠(まがたま)と同様のものであります。
「もゆら」とは辞書に「玉がゆれ動き、触れ合って鳴る音」とあります。そのロザリーを天照らす大御神に与えました。という事は言霊の原理を天照らす大御神に与えた事になります。
そして伊耶那岐の命は天照らす大御神に「汝が命は高天原を治めなさい」と命令し、委任したのでした。高天原とは前にもお話いたしました如く、五十音言霊麻邇によって結界された清浄無垢な精神の領域の事を謂います。
かれその御頸珠の名を、御倉板挙(みくらたな)の神といふ。
御倉板挙とは御厨(みくりや)の棚(たな)の意です。天照らす大御神の知しめす食物といえば言霊のことです。それを並べておく棚という事で五十音言霊図の事であります。
天照らす大御神が父神、伊耶那岐の命から授かった御頸珠とは五十音言霊図、またはその原理だ、という事となります。
引用でした。
珠(たま・田間)は五十音図の一つ一つの部屋・間で、それを名付けたのが、板挙(たな・田名)です。同時に名付けられた食料を差し出す吟味を乞うための棚です。ここでは食料といいますが、解決すべき世界の全ての問題のことです。
簡単に個人のことで言えば、今日の夕食は何にしようかと迷うとき、明日はどこへ行こうか思うとき、今後の人生を考えるとき、等、検討する為の材料となるものです。前回のオロチの言霊オのことです。頭を下ろさず、頭を棚へ向けて挙げて見つめることになります。
ここまでにしておきます。豊雲野の神を祭る神社が何故少ないのかと言うはじめの疑問でしたが、棚の上に乗っているのは自分です。自分が自分を祭り、拝むのは、おろがむことです。