精神元素「シ」の言霊と古事記。 その 1。
古事記神代の巻冒頭百神によって与えられた神名・ 「意富斗能地(おほとのぢ)」)の神。 言霊 シ
・神名の解。
意富・大きな
斗・斗(はかり)の
能・働きの
地・地
お・大いなる
ほ・穂(言霊)を
と・取り選択して
の・宣りたまう
ぢ・土台。
・神名全体の意味。
物事を判断し、識別する大いなる能力の地という訳です。
迷いながら、次第に考えが心の中でまとめられて行きます。
多数の選択肢の中から一つを取り選択してそれを宣べていく地となるもの。
・言霊「シ」の意味。
人の心の中に一つの結論がまとまっていく過程
吸込まれて行くように収拾されて行く働き
多くの選択肢の中から取られ決まったものがその方向へ行くと宣べられ、収束して静まっていく働きの地となるもの。
⑤言霊シ。意富斗能地(おほとのぢ)の神。
意富斗能地(おほとのぢ)の神。
言霊シ、意富斗能地は大きな斗(はかり)の働きの地と読めます。物事を判断し、識別する大いなる能力の地という訳です。人はある出来事に出合い、その事を判断・識別する事が出来ず迷う事があります。あゝでもない、こうでもないと迷いながら、次第に考えが心の中でまとめられて行きます。そして最後に迷いながら経験した理が中心に整理された形で静止し、蓄積されます。蓄積される所が心の大地という訳です。この働きから学問の帰納法。
意富斗能地・大斗乃弁の両神名を指月の指として本体である父韻シ・リにたどり着くことは至難の業と言えるかもしれません。けれどそうも言ってはいられませんから、想像を逞しくして考えてみましょう。
意富(おほ)は大と解けます。
斗は昔はお米の量を計る単位でした。十八リットルで一斗でした。斗とは量のことであります。北斗七星という星は皆さんご存知のことでしょう。北斗、即ち北を計る七つの星ということです。大熊座のことです。
意富はまた多いとも取れます。沢山の量り、即ち大勢の人の考え方、意見が入り乱れて議論が沸騰する時とも考えられます。そんな議論がやがて真実の一点に近づいて行って、その働き(能)が議論の対象である地面(地)にたどり着いたとします。沸騰していた議論が静まります。
多くの議論の内容は消え去ったのではなく、出来事の真実を構成する内容として一つにまとまった事になります。まとまった状態は言霊スですが、まとまって静まることは父韻シということが出来ましょう。
理屈ポクって理解し難いと言う方もいらっしゃると思います。そこで平易な例を引きましょう。毎週月曜夜八時、6チャンネルと言えば、直ぐに「水戸黄門」と気付く方は多いことでしょう。このドラマの前半は悪家老、代官が悪商人と組んだ悪事の描写です。後半はそろそろ黄門様一行がその悪事の真相に近づいて行きます。ここまでは毎回新しい脚色が工夫されています。けれど最後の数分間は何時も、数十年にわたって変わらぬ結末が待っています。
最後に悪人一味の悪事が暴露されると、悪人達は老公一行に暴力を行使しようとします。すると御老公は「助さん、格さん、懲(こら)らしめてやりなさい」と命じます。善悪入り乱れてのチャンバラとなり、老公の「もうこの位でいいでしょう」の言葉と共に、助さん(または格さん)が懐の三つ葉葵の印籠(いんろう)を取り出し「静まれ、静まれ、この印籠が目に入らぬか」と悪人達の前にかざす。そこで一件落着となります。
この印籠の出現の前に、事件に関わったすべての人々の意志、動向が静まり、御老公の鶴の一声によって結末を迎えます。この一点に騒動がスーッと静まり返る韻、これが意富斗能地の父韻シであります。この大きな入り乱れてのチャンバラが、御老公の三つ葉葵の印籠の一点にスーッと吸込まれて行くように収拾されて行く働き、それが父韻シであります。水の入った壜(びん)を栓を抜いて逆(さか)さにすると水は壜の中で渦を巻いて壜の口から流れ出ます。
父韻シの働きに似ています。この渦の出来るのは地球の引力のためと聞きました。水は螺旋状に一つの出口に向って殺到しているように見えます。父韻シの働きを説明する好材料と思えます。
手を口に当てて、シー、とやると、シー静かに、と言うサインになっている。おそらく世界中に通じる仕種だろう。シーと発音するか唇だけがシーになるのかはしらないが、人種を超えて言語が統一される下地と見ることもできる。これの意味するところは、人間に与えられた心の先天構造が同一であるということにある。それを正しく解明したのが古事記の上代の巻きとなっている。神道と皇室はその別な形の後継者です。人工的に創られているからこそ、どこからでも同じ構造を見出せることができるのです。
君が代が日本一国のためのものじゃないと前回に書いてありますが、この言霊シを見てもそういえるでしょう。それが意富斗能地(おほとのぢ)大戸之道〔オホトノヂ〕尊、大戸摩彦〔オホトマヒコ〕尊、大富道〔オホトマヂ〕尊等、わざと分からないように、そのくせわざと後世に残るようになっていて、時がくるまでは世界を相手にできないようにしてあるわけです。
余計なことは置いといて、意富斗能地(おほとのぢ)を理解しなくては話にならない。
意富斗能地・妹大斗乃弁は対の関係で、発音もぢとべが違うだけです。
死
言霊学は死を説かない。なぜなら死はないから。
法学、法医学、生物学等々が死の定義を提出していますが、単なるそれらの分野ごとに関心のあるものを定義としているだけです。ですので死とは脳死だとか鼓動の停止だとか、機能停止の仮死だとかいうだけのものです。ついでに言えばそれらは単に経験概念知識次元の言霊オの死の定義となります。
当然他の次元でも死を扱えます。寝てる人を見て死んでいるといったり、その逆だったり、鼓動が無く息をしていないので仮死状態を無視して死としたり、象徴と結び付いた対象を死としたり、精神的な不死を求めて肉体を死としたり、等々多くの死との結びつきがあります。
言霊「シ」の意味は、人の心の中に一つの結論がまとまっていく過程、吸込まれて行くように収拾されて行く働き、多くの選択肢から選ばれたものが宣べられることによって収束し静まっていく地となる等として説明されています。かなり理解し易いシです。
書いている途中で、ここから下の文章が消えました。不思議な現象です。
多分、オンボロマシンのせいです。
今回はここまで。
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精神元素「シ」の言霊と古事記。 その 2。
言霊シと死。
いのちとは何か分からないように死も分からないものです。頑としてあるものですからできるだけどんなものか見てみましょう。
肉体も脳髄も死んで灰になるものです。頭脳の多くの機能もなくなります。五感感覚による一切は無になっていくでしょう(ウ)。脳内に蓄えられた一生の経験記憶も空となるでしょう(オ)。肉体から始まって肉体で分かるものは全て無くなるでしょう。
ウとオの次元も生きている時には全地球、全宇宙と共に生きていました。父母のその前の前の前からずっと続いてきた生命と共にありました。勉強するようになり記憶を活用できるようになり、興味関心と努力があれば数十億年前の宇宙と共にいることができました。死と共にその人に蓄積されたものは無になります。
ここには二つのものがあります。生れて以来自我として構成されてきた自分と、宇宙、地球、人類社会から自我として構成させられた自分です。人は自我とか個性とか自分とか言いますが本来そんな物はありません。自分の出生そのものが他人他物の上に載っているのですから。自分といっても同じ生命の中に後天の自分と主張するものと、その自分を支えてきた宇宙全体の生命が自分となっているものとがあります。
肉体と肉体に関連したものの次元では全ては死んで灰になります。生きた種から生れたと主張してもその種は多くの死を摂取してできたものです。この死の摂取と命の創造とは古事記の黄泉の国のテーマとなっています。古事記ではもっぱら言葉の次元として書かれていますが、肉体物質の次元としても同じです。
伊耶那美は陰(ほと)を火傷して病気になり神避(かむさ)りとあり、そしてひばの山に葬おさめまつりきとなっています。ほとというのは霊止(ほと)のことで、霊の働きが停止し、言霊の創造活動が終了したことをいいます。活動が停止されば、主観世界の活動も終わります。そこで神避(かむさ)り、主観世界から去って、残っているひばの(霊葉の)山、言霊の客観世界、で静かに待機しているとなります。
これは全ての人間活動に該当します。例えばこのブログを読み終わる時を上記の古事記の文章に当てはめてください。テレビや映画を見終わる時、食事の終了、疑問を持つこと答えを待つこと等々全て、主体の創造活動を停止して客体は客体に、主体は主体に納め静まることをいいます。
ブログが読了すれば、ブログはブログで読者とは独立した別の場所にあります。また、読後の記憶を主体にすると読了とは記憶するものがもう無いことで、記憶する働きの停止になります。活動の、記憶の、読むこと、見ること等言霊活動のほ・と、ほが止まると言うことです。
ここから一挙に言葉を吐き出せば、人間の意識すること活動すること生きることとは黄泉の国を創ることにほかなりません。考えの静まり返った結果、活動の静まり返った結果が黄泉の国というわけです。経験知識の全て、記憶の全ては黄泉の国のものです。過去の結果となって動かずそこにあります。過去になった自分では動かないものがそこにある国です。それらを今後の為に思い起こし使用する、予め実となっている、ヨ-ミということです。
生きるとは黄泉を背負っていることで、死ぬとは黄泉を降ろすことです。だから別に死ぬわけじゃないのです。自分で創ったものを一瞬一瞬降ろしていくので、最終的には肉体の力が無くなり何も降ろす荷物が無くなる時が来るというだけです。
肉体とか物理的なものに結び付いた場合にはこんな関係になるでしょうが、まだべつの世界もあります。朽ちて灰となる物に結ばれているのではなく、精神に結ばれているものもあります(ア次元)。
生きているのがありがたいと心豊に暮らしている人、芸術創造活動をしている人、宗教とか神に喜びを見出している人等がいます。それらの人には無くなり朽ちて灰になるものがありません。そういった精神に結ばれています。またそういった精神を自覚していますので、愉快におおらかに楽しく暮らしています。そこでは自分で感じられる自覚の内容に沿ってそれ自身を心の内容、行動の内容にしています。
これらの人々には死の恐怖がありません。上記ウオ次元の生き方では、自分の所有しているものを失い、自分のもの、自分のこと、自分の考えと思えるものが死んでいき、自分に無い得体の知れないものがまだ生きていること、自分の自分でないものが生きていることへの恐怖となっています。
つまり同じ黄泉の国を創造しているわけですが、朽ちる肉体、物象から出発しておらず、自らの自覚から出て行くことなので、一瞬一瞬の創造活動が自分のものとなって跳ね返ってきます。黄泉の国の創造が楽しいのです。ただ残念なことに彼らは自分の行き先が分かりません。始めたことの自覚はあっても、それが未来の目標となっているだけに留まっています。結論は出せず時の経過に委ねられてしまいます。
古事記の黄泉の国の章では別に死を説いているわけではありません。創造された結果の世界を黄泉の国というだけで、もし言いたければ結果に縛られ捕らわれる心を死と言ってもいいでしょう。黄泉の国の章はそういった心の癖を取り去り、物と物象に取らわれない方法を述べているようです。そのことによって、アへの次元へ上昇するように導いているようです。
言霊「シ」は人の心の中に一つの結論がまとまっていく過程、吸込まれて行くように収拾されて行く働き、多くの選択肢の中から取られ決まったものがその方向へ行くと宣べられ、収束して静まっていく働き等ですが、何故片や恐怖に捕らわれ、片や喜びに浸ることができるのでしょうか。
それは例えば言霊シの取り入れる位置が違っているからです。欲求、五感感情の世界を基盤とした人達の言霊シは、自分の欲望そこから発する目的を直ちに「シ」とします。かき寄せられた欲望の目的が心の中心にすぐ据えられるからです。知識や経験基盤のある場合には、概念の対象が自分の経験知識と混ぜ合わされ検討されて自分なりの主張がそのままでてきます。ここでは両者とも自我の保持とそこからする判断が基盤となっています。それを失うことは恐ろしいこととなっていくでしょう。
一方では、ある種の感情情感の自覚を持っていますので、それが過去経験意識に結ばれる前に、情感の内容を拡げ、自覚内容を表現しようとします。湧き出てくる自分の情感が常に相手となるので、自分のやることなすことに恐れを持つ暇がありません。
ところで、伊耶那岐はどのように妹伊耶那美の客観世界に行くことができるのでしょうか。自分が書いたもの創ったものを自分が見るとはどういう仕組みになっているかということです。あるいは黄泉の国にどのように入るかです。こんにちはと言って入るわけにも行きません。命が無くなると誰かに放り込まれるわけですか。
ここでの古事記の表現は次のようになっています。「ここに殿の縢戸(くみど)より出で向へたまふ時に、」
主体は人間で、人間が主体でなければこの世はなんでもないでしょう。私が死者の国に行くとなれば、身体も脳髄も燃やされてその残骸を見に行くことになるのでしょう。わたしの身体も頭も働いているなら、死者の国に言ってみるものはわたしの残骸でなく、そういった概念知識を敷衍したものをみているだけでしょう。わたしの残骸を見たければ私自身が灰とならなければなりません。パリのシテ島にある裁判所が見たければそこにいなければなりません。
古事記の文章はそのことを示しています。殿というのはこの世のことあるいはこの世を現す言霊のことで、そこから出て行く、終了した結果の戸の外に行くということです。自分が終了した結果となって初めてその結果と同一の地平に立てるのです。言霊では半母音ワ行より出るといいます。
ここから導き出せることは、死後の霊魂とかあの世の生命とか魂とかいわれていますが、どれもこれもその次元に立たなければ分からないということです。それ以外は聞きかじった概念知識、信念、偽経験とかです。さらにいろいろまとわりつく問題がでてきそうなので、今回はここまで。
以下引用です。--------
死なない
古神道と申しますのは「死」を説きません。それはどういうことかと申しますと、「死」はない。そんなことはなかろう、だって死んじゃうじゃないかって。確かに肉体は死にます。仏教で謂う魂は残る、魂も残る。じゃあ、その魂、霊ってどういうものかって。
そこになりますと仏教でも分らない。それは肉体とか霊とかの概念では説明つかない。霊が残るというと経験的にそれに安住できる方は納得されるでしょうが、そうでない方はくるくると自分の考え方が変わってまいります。
根本的には人間は肉体がなくなったとしても、何万年も、何十万年も、この宇宙が続く限り、死んでしまっても生きるという言葉をあえてここで使うとしたら、死なないのであれば生きているはず、その生きているということはどういうことなのか、神秘な世界に入ってくることになりますが、神秘でもなんでもない。
コトタマの学問をよくよく見つめていただきますと、肉体的には死人と接触することは出来ませんが、例えば旅行に出掛けたかみさんは家にはいないけれど旅行先で生きている、だから出掛けて行く時に「さようなら」とは言わない。
永遠の生命
「自分が死んじゃったら生命はどうなるだろう」って、生命のことを心配する必要はないです。生命はなくならないのですから。決して死なないのです。「おまえそれ証明したか」って言ったら、いくらでも証明できますから。証明してもらいたかったら、わたくしのところへいらしてください。
人間ていうものはですな、永遠の生命なんですよ。死なないんですから。「本当に死んじゃいたい人は死ぬ」っていっても死なないんですから。こればっかりは相談できないものなんです。死なないんですから。
伊耶那美の命、神避(さ)りたまひき
そして「伊耶那美の命は、火(ホ)の神を生みたまひしに因りて、遂に神避(カムサ)りたまひき」。そこまで行ったときに、伊耶那美命はついに亡くなられました。 「亡くなられる」というのはですな、さっきも申しましたけれど、伊耶那岐命と伊耶那美命が共同して高天原の純真無垢な精神界の中でもって三十二の子音を産んで、それをハニヤスとして…甕神として…神代文字に書いた。
そこでもって伊耶那美命は御用がなくなって、高天原から退くことになります。退くことを「お隠れになった」「神避りました」という言葉で書くのです。それじゃ、どこへ神避っていったのか。現代でいえば、亡くなっちゃったら「魂だけになってあの世に行った」というように仏教では言うんでしょうけれども。神道は死を説きませんから、そういうように説明はできません。
どういうような説明になるかと申しますと、高天原というところはですな…。この心の中で、この花がある。「その花を見ている自分の心はどうなんだ」といって、振り返ってその自分の心を見る世界が、心の世界でございます。
見たものを「ここにある」と思って、それで、思う心はここで「要らない」っていってどけてしまって、見られるものだけを調べる世界は、これが科学の世界になる。それで、こっちの世界を「主観的世界」「心の世界」、こっちの世界を「客観的世界」と申します。
伊耶那美命は主観的世界の用が済んじゃったので、客観的世界…すべてのものを向こうに見る世界…に行ってしまった、ということなのです。死んだわけじゃないのです。「向こうに行ってしまった」ということです。
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意富斗能地(おほとのぢ)の神。言霊シ。
対になる神は、妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。言霊り。
意富斗能地は、何々の地のように、意富斗の地と解せます。
重複して、意・富斗・の地にもなっています。
意富・おほ・は大きい。
斗・と・は計量する計り。
意・い・は意に介する。
富斗・ほと・は女陰。
地・ち・は目標到達点、目指す相手。そこに出来たもの。行くべく道、述べるべく道。大いなる道。
斗は計りですが、ここでは物の量を計ることや、場所とか地名とかを探ることではなく、意識に関することです。意識は大いなる計りと成るですが、これだけでは何を言っているのか分かりません。
大いなる量りの意識を持って到達地を行く。
あるいは意中の人(女)を得る大いなる道でもいいでしょう。
重点は道を行く、行為する、実践することで、妹大斗乃弁(おほとのべ)の、のべ(述べ)る行為と対になっているところです。
内容としては大いなる道である斗を解することです。
斗は北斗七星のように指標となるもの、計量して比べる元になるものの意味がある。しかし、これらは全て自分の外部に在って相対的な指標です。大いなる計りとは言えないものです。
そこで思いをかけた人を得ると言う場合には、その思いとは誰の思いでもなく、まさに自分自身の思いとなっています。外部の事情はあるにしろ、自己の思いを見つめている分には、何者にも煩わされることはないでしょう。この場合ならば大いなると形容しても差し支えないでしょう。
ではそのような意識の働きはどこにあるのか。
自己内に秤の指標を立てるには、いろんな場面があります。
自分の欲望にこだわる事、自分の経験知識にこだわる事、自分の感情にこだわる事、自分の目標選肢にこだわる事、等がある。
では何故そうなのか問うてみます。
欲望に、経験に、感情に、選択肢にこだわるのは何故かというと、それを気に入っているから、それを知っているから、と下がってきてついには、したいやりたいからという以外に理由を見いだせなくなります。
本人は生き生きとして状況にあり、外部の障害とも打ち勝つような準備さえしていきます。意志も高揚し、目的までの道のりも不問する勢いです。
しかし、ここにあるのは本人を超えた先天的な本人を突き動かすはずみのようなものです。このはずみは今まで生きてきた時間と空間の総体から創られ変化していくものです。
自分の内に指標を打ち立てても、それは先天的なはずみというものに乗っているだけの事です。
しかしその御蔭で方向性が産まれ、決まった方針に身をゆだね、結論を得ようとすることができます。
多かれ少なかれ選択肢がこれしかないという方向へ導かれ、収束する結果へと導かれます。本人内に希望欲望が生きていればその御蔭となり、知識が検討されていればそのせいであり、感情が持続していれば自分を見直し、選択の通りになれば自由自在感を得るでしょう。
こうして、
意富斗能地(おほとのぢ)の神とは、決まった方向へ結論へと収束するように、選択肢がこれしかない状態を産み出し、今現在を静め修めようとする律動です。
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12。意富斗能地(おほとのぢ)の神。13。妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。
言霊シ、リ。父韻を示す神名の中でこの父韻シ・リの神名からその父韻の内容を理解することはほとんど不可能に近いと思われます。意富斗能地は大きな斗(はかり)の働きの地と読めます。物事を判断し、識別する大いなる能力の地という訳です。人はある出来事に出合い、その事を判断・識別する事が出来ず迷う事があります。あゝでもない、こうでもないと迷いながら、次第に考えが心の中でまとめられて行きます。そして最後に迷いながら経験した理が中心に整理された形で静止し、蓄積されます。蓄積される所が心の大地という訳です。この働きから学問の帰納法が生れて来るでありましょう。
大斗乃弁とは大いなる計りの弁(わき)まえと読めます。意富斗能地と作用・反作用の関係にある事から、心の中にある理論から外に向かって発展的に飛躍していく働きと考えられます。父韻リはラリルレロの音がすべて渦巻状、螺旋状に発展していく姿を表わしますから、父韻リとは心の中の理論が新しい分野に向かって螺旋状に発展し、広がって行く働きであることが分ります。この様な動きの理論の働きは演繹法と呼ばれます。学問ではなくとも、多くの物事の観察から人の心の中に一つの結論がまとまっていく過程、また反対にひとつの物事の理解から思いが多くの事柄に向かって連想的に発展して行く事、その様な場合にこの父韻シ、リの存在が確かめられます。
12。意富斗能地(おほとのぢ)の神・父韻シ、13。妹大斗乃弁(いも・おほとのべ)の神・父韻リ
意富斗能地・大斗乃弁の両神名を指月の指として本体である父韻シ・リにたどり着くことは至難の業と言えるかもしれません。けれどそうも言ってはいられませんから、想像を逞しくして考えてみましょう。意富(おほ)は大と解けます。斗は昔はお米の量を計る単位でした。十八リットルで一斗でした。斗とは量のことであります。北斗七星という星は皆さんご存知のことでしょう。北斗、即ち北を計る七つの星ということです。大熊座のことです。意富はまた多いとも取れます。沢山の量り、即ち大勢の人の考え方、意見が入り乱れて議論が沸騰する時とも考えられます。そんな議論がやがて真実の一点に近づいて行って、その働き(能)が議論の対象である地面(地)にたどり着いたとします。沸騰していた議論が静まります。多くの議論の内容は消え去ったのではなく、出来事の真実を構成する内容として一つにまとまった事になります。まとまった状態は言霊スですが、まとまって静まることは父韻シということが出来ましょう。
理屈ポクって理解し難いと言う方もいらっしゃると思います。そこで平易な例を引きましょう。毎週月曜夜八時、6チャンネルと言えば、直ぐに「水戸黄門」と気付く方は多いことでしょう。このドラマの前半は悪家老、代官が悪商人と組んだ悪事の描写です。後半はそろそろ黄門様一行がその悪事の真相に近づいて行きます。ここまでは毎回新しい脚色が工夫されています。けれど最後の数分間は何時も、数十年にわたって変わらぬ結末が待っています。
最後に悪人一味の悪事が暴露されると、悪人達は老公一行に暴力を行使しようとします。すると御老公は「助さん、格さん、懲(こら)らしめてやりなさい」と命じます。善悪入り乱れてのチャンバラとなり、老公の「もうこの位でいいでしょう」の言葉と共に、助さん(または格さん)が懐の三つ葉葵の印籠(いんろう)を取り出し「静まれ、静まれ、この印籠が目に入らぬか」と悪人達の前にかざす。そこで一件落着となります。
この印籠の出現の前に、事件に関わったすべての人々の意志、動向が静まり、御老公の鶴の一声によって結末を迎えます。この一点に騒動がスーッと静まり返る韻、これが意富斗能地の父韻シであります。この大きな入り乱れてのチャンバラが、御老公の三つ葉葵の印籠の一点にスーッと吸込まれて行くように収拾されて行く働き、それが父韻シであります。水の入った壜(びん)を栓を抜いて逆(さか)さにすると水は壜の中で渦を巻いて壜の口から流れ出ます。父韻シの働きに似ています。この渦の出来るのは地球の引力のためと聞きました。水は螺旋状に一つの出口に向って殺到しているように見えます。父韻シの働きを説明する好材料と思えます。
次に妹大斗乃弁の神・父韻リの説明に入ります。大斗乃弁とは、漢字の解釈から見ますと大いなる量(はかり)のわきまえ(弁)と見ることが出来ます。また神名に妹の一字が冠されていますから、意富斗能地(おほとのぢ)とは陰陽、作用・反作用の関係にあることが分かります。この事から推察しますと、父韻シリは図の如き関係にあることが分かって来ます。五十音図のラ行の音には螺理縷癘炉(よりるれろ)等、心や物質空間を螺旋状に広がって行く様の字が多いことです。そこでこの図の示す内容を理解することが出来ましょう。
「風が吹くと桶屋が儲かる」の譬えがあります。風が吹くという一事から話が四方八方に広がって行き、最後に桶屋が儲かるということに落ち着くのですが、ここで落ち着かないで、更に諸(もろもろ)が発展して行き、永遠に続くことも可能です。人の考える理屈が野放図に広がって行く譬えに使われています。これも父韻リの説明には不可欠の理屈の働きと言えましょう。また噂(うわさ)に尾鰭(おひれ)がつく、という言葉があります。一つの噂に他人の好奇心による単なる根も葉もない推察が次々と加えられ、当事者や、または全然関係のない大勢の人々に間違った情報が伝わって行くことがあります。時にはそれが社会不安を惹き起こしたり、大きな国家間の戦争の原因になることがあります。これ等の現象は人間の心の中の父韻リが原動力となったものであります。原油価格の高騰が伝えられた数日後、スーパーマーケットの店頭からトイレットペーパーが姿を消してしまったという話をまだ記憶に留めていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。
父韻リの働きを説明するために悪い影響の話ばかりして来ましたが、父韻リには善悪の別は全くありません。人間誰しもが平等に授かっている根本能力の一つであります。発明家といわれる人は、一つの発想、思い付きから次から次へと新しい発明品を発表して行きます。これも父韻リの原動力によるものであります。この根本力動の韻律によって人類は現在ある如き物質文明を建設して来たのでもあります。
お気付きになる方はお気付きになる。お気付きにならない方はお気付きにならない。最後にこの真実が成された時にお気付きになられたらよろしいのです。実にいろんな考え方を持ってこられますが、「そうでございますな」と肯定する。馬鹿にしてそのように申上げているわけでは御座いません。
日本の歴史上でそういう考え方をするのも現時点に於て「間違っている」とは申上げられません。「そうですな」とお返事はしてもそれが真理だと申上げているわけでも御座いません。
古事記の中のほんの数十ページです。言霊百神は天の御中主の神から建速須佐之男命まで。人類の秘宝、人類がこれだけはぜったい失ってはいけないことが詰まっております。今後この学問が隠れる事はもうないと思います。
「古事記と言霊」の本に八つの父韻のことはこと細かく書いておりますので、よくお読みくだされば御理解できると思いますが、ただ混同しやすいところがございますのでお話申上げますが、意富斗能地(おほとのぢ)の神、妹大斗乃弁(おほとのべ)の神、於母陀流(おもだる)の神、妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。
図にしますとこうなりますが、それでも何の事かお分りにならないでしょうが。妹阿夜訶志古泥ともうしますのは、昨日ある会場へ行ったら「お久しぶりで御座いました」と声を掛けられて、以前たしかに覚えのある顔だけれど名前を思い出せない、なんかの拍子に思い出した、そうしましたら於母陀流、自分の宇宙全体にその名前が浮かび上がった。
そうしましたら同時に、その人とはどういう時にどういう話をしたかということを、経験した心の真中に結び付く。「あぁ、あの時の人だ」と思い出す。妹阿夜訶志古泥の阿夜とは記憶の暗いところにあるから夜というのでしょうか。
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