建御雷の男の神・タケミガヅチノヲノカミ
少しは分ってくださったのかなと思っておりましたら理解できなかったようです。もっとも言霊の学問を知らないと解けるわけがありません。今の神社であげます大祓祝詞もそうです。神主さんの誰一人として内容を分ってあげているのではないのです。知らないのに皆有難がってお祓いをしてもらっている、なんとも滑稽な話です。
流れるように淀みなく分るのが樋速日(ひはやひ)と申します。パッと見て五十音図がどのようなことを表わしているのが甕速日(みかはやひ)。この二つのことを唱えて根源となるものが見えてきます、求道者の心の中に。こういうのが最高の音図だ、ということが分ります。心中に確かめられた人のことを「建御雷(たけみかづち)の男の神」と申します。
その境地になったら、血肉沸きあがり心躍って居ても立ってもいられないほどの感激を味わいます。昔の竹内文献を読みますと、言霊の学問を修了した人を「天津日嗣スメラミコト」と謂うとあります。その話す言葉には光が篭もっていてNOと言えない、有難くて、有難くて、嫌と言えない、しかも相手が納得するのですから誰からも文句が出ません。
「次に御刀の手上に集まる血、手俣(たなまた)より漏(く)き出(いで)て成りませる神の名は、闇淤加美(くらおかみ)の神。次に闇御津羽(くらみつは)の神」。指の間から血が流れ出て音図に照らし合わせて真偽を問います。闇は組む、全ての物象を完璧な精神構造で把握してしまう、そして手上に集まる血とは指折り把握することです。握手(にぎて)と申しますな。
次に闇御津羽(くらみつは)と申しますのは、所謂水鳥の尾っぽ末広がりに広がっておりますから、握って掴んだ原理は、他の原理に応用することで人類の社会が発展するということになりますから、指を起こしてひろげていくこと、つまり起手(掟)を謂います。
------------------
十拳剣
十拳剣はア・タカマハラナヤサ・ワ、伊耶那岐の命が一度徹底的に命令を出すと徹底的に出された本人が幸せになるのですから、誰一人として反対しない。一番自分にとっていいことを言ってくれるのですから、万人が納得します。筒と申しますのはアからワに亘るチャンネルのことです。
「次に御刀の本に著ける血も、湯津石村(ゆずいはむら)に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、甕速日(みかはやひ)の神。次に樋速日(ひはやひ)の神」。甕速日(みかはやひ)と申しますのは五十音図をパッと一見しますとこれは何を意味しているのかが分る音図、所謂天津太祝詞音図が宇宙を照らして人類を導く唯一の心の構造であることが一目で分る音図の意味。
樋速日(ひはやひ)の神、と申しますのは樋というのは雨水が流れる処、全体の流れが分る神のこと、石上神宮の布留の言本、「ヒフミヨイツムナヤコトモチ・ロラネシキル・ユヰツワヌ・ソヲタハクメ・カウオエニサリヘテ・ノマスアセヱホレケ」、この四十七文字は言霊の一音一音が分りますと素晴らしい事を言い表していることが分ります。
この世の中を光眩い第三の文明を創造する方法を言霊の四十八音で説いているのです。石上(いそのかみ)神宮に三千年間伝わる秘めごと伝聞です。この日文(ひぶみ)と申しますが、これを先生へ解いたのをお見せして「石上神宮に送って差し上げたら」と言われて、送りましたらうんともすんとも言ってこない、ということを本に書いたら、筆書きでお礼状が届きました。
--------------------
立体的な八咫鏡
ウオで禊払いをしようとしますと、おまえのここが間違っている、ここが良い、真理の取捨選択になってしまう。でも、けっしてそうじゃない、エから観ますと、良いものは良い、悪いものは悪いと決め付けてしまったら世の中は通用しない。
良いも悪いも一体になっているから人間なんだ、そのエの次元で観ますと、建御雷の男の神以降の神名がよく理解できる。オで説こうとすると解けない、最期にはオとエが一つになって初めて文明を創造できる段階なんです。エはイの働きですから。イはオの過去から引き出してエに渡す要になる、
現象の名前をつけるには平面的な五十音図では分からない、三十二子音の各次元で四通りの組み合わせの内容を見るには、立体的な八咫鏡の音図でないと分からない、四つの母音と四つの半母音を各次元の父韻がくるくる廻しながら現象をあらしめる。
動くものを見極める方法を分かっていないとイの領域にいけない。音図が活動しているイメージというものは、古事記の甕速日の神、樋速日の神のところ、そこが分かれば光の言葉が出てくる。
--------------------
唱えごとの意味
奈良の石上神宮に三千年来にお祭りされている唱えごとを、先生から解くように言われたものを石上神宮へ送ったらウンともスンとも言ってこない。暫くしてから筆で書いた厚い丁重な御礼の手紙をいただいた。
少しは分かってくれたのかなと思ったら何にも分かっていらっしゃらない。分かるはずがない、昔書いたものといいますのは全部言霊の認識がないと全然分からないように出来ている。
神社で必ず挙げる大祓祝詞、日本人の神主さんが誰も知らない。どういう意味で挙げるのか。知らないで挙げているのに皆有難がっている、何で有難いのかが分からない、分からないだらけで挙げている。
ずーっと続けて分かるのが樋速日(ヒハヤヒ)と申します。パッと五十音図を見て、これがこういうことを示しているということが分かるのを甕速日(ミカハヤヒ)と申します。
----------------
フルノコトモト
これからが肝心です。
次に御刀の本に著ける血も、湯津石村(ゆずいはむら)に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、甕速日(みかはやひ)の神。次に樋速日(ひはやひ)の神。
湯津石村(ゆずいはむら)の件は時間がございませんので「古事記と言霊」に詳細に書いてございますのでお読み下さい。
甕速日(みかはやひ)の神と申しますのは一見して、これは何を意味しているのか、が分かる音図のこと。所謂、天津太祝詞音図を見ますと、これが宇宙を照らす、人類を幸福にする唯一の構造なんだと分かる人が見れば分かる。
次に樋速日(ひはやひ)の神と申しますのは、樋(とい)のように全体の動きが分かるような音図。
ヒフミヨイムナヤコトモチ
ロラネシキル
ユヰツワヌ
ソヲタハクメ
カ
ウオエニサリヘテノマス
アセヱホレケ
この四十七文字の言霊の一音一音が、ハッキリ分かってきますと、これは素晴らしいことを言っているのです。所謂、この世の中を一変に、光まばゆい第三の生命の文明に導く、言霊を一音も重複することなく並べて、その方法を説いています。
------------------
最高の心の音図
この二つのことを兼ね備えている根源となるものが見つかってまいります。この二つのことが分かりますと、求道者の心の中に、「それじゃ、最高の心の音図が出来上がりますね」という、言霊の勉強した最後に建御雷(タケミカヅチ)の男(ヲ)の神という、心躍る自覚した神様。
人間がこの世に生まれてきた最高の境地、昔の竹内文献を読みますと、このことが分かる人を天津日嗣スメラミコトと書いてあります。その人が喋る言葉は光が篭っている。嫌と言えない、有難くて、有難くて、素晴らしいお恵みの言葉で、相手を納得させる。
光の言葉を発することが出来る、それが建御雷の男の神と申します。又の名を建布津(タケフツ)の神、又の名を豊布津の神、茨城県の鹿島、建御雷の男の神は鹿島神宮の御祭神です。
次に御刀の手上(たがみ)に集まる血、手俣(たなまた)より漏(く)き出(いで)て成りませる神の名は、闇淤加美(くらおかみ)の神。次に闇御津羽(くらみつは)の神。
手俣とは指の間から血が流れ出て出来た音図という意味、闇淤加美の闇は組む、全ての物象をこの状態の心で掴んで人間の知識の元に集合させる。人間は科学的にもそれをやっている。
------------------
握って起こす
世界の果ても観測できる天文学が発達して、138億光年先の天体までを日本の天体望遠鏡で映すことが出来た。その宇宙はどんどん膨張しておりますから大変なものです。光は一秒間に地球を三周半回る速さだそうです。それの138億光年です、あまりも途方な数字ですから実感が湧かない数字ですが、これを闇淤加美(クラオカミ)と言います。
全部を一つの原理の元に把握してしまう、手を握る所作。それで手上(タガミ)に集まる血、手俣(タナマタ)より漏き出てと申しますのは、指を折って把握すること。次に闇御津羽(クラミツハ)の御津羽は水鳥の尾っぽ。
鳥の尾っぽは末広がりに広がっておりますから、掴んだ物象を応用することで人類の文明が発展する様を表しています。これを闇御津羽と申します。お供え崩しで一月の十一日にお汁粉を作って食べますね。
十一日目でなくてはならない、それは一二三四五六七八九十で掴んで、十一でその応用で指を起こす、それを自分の心の中で把握する時、この原理は人類が続く限りに於いて色んな物事を認識し、自証し、応用していくために充分であるということを言っております。
-----------------
あの世
自分の生い立ちというもの、生い立ちの以前の叡智、どういう場面に現れて出てくるのか、それによって過去の歴史において、自分がどのような関係があったか、なかったか、その場にじーっと坐っておりますとよーく分ります。成る程なぁーって、生まれた時からあんなこともあった、こんなこともあったことが、こういう原因で起こったならば納得できるなぁとわからせてもらいました。
すべてのものから解放されて、いままでこうやってお話していることからも解放されて、大きな息をついている所、太安万侶さんのお話は初めからやらしていただきます。取り合えずは四月号会報の末尾に記しました古事記の文章の解説をいたします。
かれここに伊耶那岐の命の詔りたまはく、「愛(うつく)しき我(あ)が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易へつるかも」とのりたまひて、御枕方(みまくらへ)に匍匐(はらば)ひ御足方(みあとへ)に匍匐ひて哭(な)きたまふ時に、御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神。かれその神避(かむさ)りたまひし伊耶那美の神は、出雲の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき。ここに伊耶那岐の命、御佩(みは)せる十拳(とつか)の剣を抜きて、その子迦具土の神の頸(くび)を斬りたまひき。
ここにその御刀(みはかし)の前に着ける血、湯津石村(ゆついはむら)に走りつきて成りませる神の名は、石柝(いはさく)の神。次に根柝(ねさく)の神。次に石筒(いはつつ)の男(を)の神。次に御刀の本(もと)に着ける血も、湯津石村に走(たばし)りつきて成りませる神の名は甕速日(みかはやひ)の神。次に樋(ひ)速日の神。次に建御雷(たけみかづち)の男(を)の神。またの名は建布都(たけふつ)の神、またの名は豊(とよ)布都の神。次に御刀の手上(たがみ)に集まる血、手俣(たなまた)より漏(く)き出(いで)て成りませる神の名は、闇淤加美(くらおかみ)の神。次に闇御津羽(くらみつは)の神。
古事記の十七先天神の母音と半母音と父韻の活動によって32の子音が生れる、33番目の子音として言霊ンも生れます。火之夜芸速男の神といって神代文字のことです。ここで伊耶那岐と伊耶那美の子供は生み終わりました。子種が絶えて伊耶那美の神は黄泉国へ行って亡くなったとあります。
今の国文学は仏教の説を取り入れて「あの世」というものを想定して黄泉国としております。ですが、あの世って何処にあるのでしょう、霊的現象から分るかもしれません。言霊の学問のあの世は近からず遠からず、というよりも遠くなくとてつも近い、あの、って言う前より近い。主体的なのはこの世です。客観的なのがあの世です
---------------
次に建御雷(たけみかづち)の男の神。またの名は建布都(たけふつ)の神、またの名は豊(とよ)布都の神。
建御雷の建(たけ)とは田気(たけ)の意です。
田とは五十音言霊図のことで、その気(け)ですから言霊を指します。
雷(いかづち)とは五十神土(いかつち)の意で、五十音を粘土板に刻んだものです。
自然現象としての雷は、天に稲妻(いなづま)が光るとゴロゴロと雷鳴が轟(とどろ)きます。同様に人間の言葉も精神の先天構造が活動を起すと、言葉という現象が起こります。
言葉は神鳴りです。
この神鳴りには五十個の要素と五十通りの基本的変化があります。この五十の要素の言霊と五十通りの変化の相とを整理・点検して最初に和久産巣日という五十音図(天津菅曽音図)にまとめました。
次にその音図を十拳剣という主体の判断力で分析・検討して行き、石柝(いはさく)、根柝(ねさく)、石筒(いはつつ)の男と検討が進展し、甕速日(みかはやひ)という心の静的構造と樋速日という心の動的構造が明らかにされました。
その結果として五十音言霊によって組織された人間の心の理想の構造が点検の主体である伊耶那岐の命の心の中に完成・自覚されたのであります。この精神構造を建御雷の男の神と言います。
人間精神の理想として建御雷の男の神という五十音図を自覚しました。これを建御雷の神と書かず、下に「男の神」と附したのは何故なのでしょうか。
初め伊耶那岐の命は妻神伊耶那美の命と共同で三十二の子音を生みます。それを粘土板に書いて火の迦具土の神という神代表音文字に表わしました。
そこで伊耶那美の命の客体としての高天原の仕事は終り、美の命は高天原から客観世界の予母津国に去って行き、残る五十音の整理・検討は主体である岐の命の仕事となります。
そこで整理作業によって最初に得た菅曽音図を主体の判断力である十拳剣で分析・点検して人間精神の最高理想構造である建御雷の男の神という音図の自覚を得ました。
しかし人間の心の理想構造の自覚と申しましても、それは飽くまで主体である伊耶那岐の命の側に自覚された真理であって、何時の時代、何処の場所、如何なる物事に適用しても通用するという客観的證明をまだ経たものではありません。
主観内のみの真理であります。その事を明示するために、太安万侶はこの自覚構造に建御雷の男の神と男の字を附けたのであります。
またの名は建布都(たけふつ)の神、またの名は豊(とよ)布都の神。
建布都(たけふつ)の建は田(た)(言霊図)の気(け)で言霊の事。
布都(ふつ)とは都(みやこ)を布(し)くの意。都とは言霊を以て組織した最高の精神構造、またはその精神によって文明創造の政治・教育を司る教庁の事でもあります。
豊布都の豊(とよ)は十四(とよ)で、先天構造原理をいいます。そこで建布都とは言霊を以て、豊布都は言霊の先天構造原理を以て組織された最高の人間精神の事であり、建御雷の男の神と同意義であります。
建布都・豊布都は奈良県天理市の石土(いそのかみ)神宮に伝わる十種(とくさ)の神宝(かむたから)の中の神剣の名でもあります。
自覚と自証
【自覚】言霊の学が進むにつれて、五十音が全て確認されることになる。その自覚された五十音で人間の心を表わすように並べると、心の持ち方によって種々の五十音表を得ることが出来る。
母音がアオウエイと並ぶ音図を古代「天津菅素(あまつすがそ)」と呼んでいた。スガスガしい心の衣の意で、人間が生まれた時から与えられた真っさらな心の構造を示している。生まれたままの人間が持つ判断力は母音アオウエイの縦の順序で表わされる。
----> 建御雷の男の神
【自証】学生が講義を聞く。これは耳学問である。自分の心を反省し、自分の心が確かに講義の通りに構成され、活動している、と確かめて初めて自分にとっての真理となる。これを自証という。
しかしこれは未だ主観的真理に域を出ない。この主観的真理を客観的に最多の人間や社会に適応して、そこに誤りがない時、客観的な真理として認められる。これを他証という。自証と他証が共に成立する時、その真理は絶対的真理である。
----> 伊耶那岐の大神
--------------------
古事記と日本書紀の先天図の違い
古事記の先天図でも始めに説明する時にやはり飛躍があるんです。その飛躍を落としてしまっている。書かないで述べている。ウがあってそこに何かの思考が加わるとアとワに分かれるって。思考が何であるかを言っていない。
思考という観念からいくと父韻しかない。だからウからア・ワと分かれるのも父韻の作用なんです。父韻を説明するのに父韻を使ってしまったら何が何だか分りませんから。そこのところはオミットしている。だから古事記の先天図になる。
太安万呂はそれをうまいこと使い分けてしまって、初めから日本書紀の先天図を知っているわけですから、建御雷の男の神が旗印の衝立つ船戸の神として掲げた時には既に太安万呂は知っていても、その正体を明かさないで、最後に「その禍を直さん」とし、未だそこでも明かさないで三貴子まで持っていってしまっている。
最後まで黙っている。そんなこと言わなくてもここまで来た人には分るだろうって。そこに来るとハタっと停まってしまう。それがこの一月くらいでそうなんだって気が付きましたから、完全に言霊エとうものを掴んでおりませんから尻切れトンボになってしまった。
-------------------
三貴子(ミハシラノウズミコ)まで
奥疎(おきさかる)の神、奥津那芸佐毘古(なぎさびこ)の神、奥津甲斐弁羅(かいぺら)の神。辺疎(へさかる)の神、辺津那芸佐毘古の神、辺津甲斐弁羅の神。
上の六神は、黄泉国で生産された文化が今、人類全体の文明の中に吸収されようとする時、その文化は現在どういう内容を主張しているか、その内容を世界文明の中ではどういう役目として取り入れられるべきか、そしてそれを可能にするには如何なる変革が必要か、が調べられる段階の働きを表わす神名。
八十禍津日(やそまがつひ)の神、大禍津日(おほまがつひ)の神、神直毘(おむなほび)の神、大直毘(おほなおび)の神、伊豆能売(いづのめ)。
然らば諸々の文化を世界文明に摂取するための変革は、人間に天与されている五つの性能の中のどの性能に於て行わるべきか、が検討され、人間の持つ五性能のそれぞれの役割が決定され、更に世界各地の文化を世界人類の文明に吸収する方法は、「あっちを削り、こっちを足す」という変革ではなく、闇の中の文化に光を差し入れ、それぞれの文化をそのままの姿で光の世界文明に吸収するやり方が適当である、と決定し、その観点からの変革を実行することが決定される。
底津綿津見(そこつわたつみ)の神、底筒(そこつつ)の男(を)の命、中(なか)津綿津見の神、中(うは)筒の男の命、上津綿津見の神、上筒の男の命。
光による変革とは、黄泉国の諸文化を光である言霊原理によって作られた言葉で表現することで世界人類が挙げて祝福する文明にまで吸い上げることだ、と証明され、主観的原理である建御雷の男の神の人間精神構造は晴れて人類の歴史創造の永遠の真理であることが自覚される。天照大神(言霊エ)、月読の命(言霊オ)、須佐男の命(言霊ウ)の三貴子の誕生となる。建御雷の男の神の音図はここに天津太祝詞音図となって人類最高の道徳規範が決定される。
以上が三種の神器の釼(天津磐境=あまついはさか)の連気の総合作用で言霊五十音が元の姿に復元される過程である。三種の神器の釼・曲玉・鏡の順序に従って古事記の「言霊学の教科書」としての神話が編纂されていることを御理解頂けたことと思う。
またその過程の記述が余りにも簡潔すぎることを不審に思われる方も多いかも知れない。何故その様な記述をしたか、それはここまでの文章はこれから始まる「古事記と人間生命」という本題の前提文として書かれたものだからである。さて本題に入ることとしよう。
--------------------
禊祓
ここを以ちて伊耶那岐の大神の詔りたまひしく、「吾はいな醜(しこ)め醜めき穢(きたな)き国に到りてありけり。かれ吾は御身の祓せむ」とのりたまひて、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原(ツクシのヒムカのタチバナのヲドのアワギハラ)に到りまして、禊ぎ祓ひたまひき。
古事記「身禊」の章は右の文章の如く説き起す。禊祓については幾度も説明して来たことで、今回は後に続く文章に関連する所を簡単に触れることとする(詳しくは「古事記と言霊」身禊の章参照)。
伊耶那岐の大神
諸々の文化を生産する黄泉国=よもつくに(高天原日本以外の国)の主宰神である伊耶那美の命をも自らの責任として取り込んだ主体プラス客体である宇宙神の立場。
衝立つ船戸(つきたつふなど)の神
禊祓の行為の方針として掲げた建御雷の男の神の音図。
道の長乳歯(みちながちは)の神、時置師(ときおかし)の神、煩累の大人(わずらひのうし)の神、道俣(みちまた)の神、飽昨の大人(あきぐひのうし)の神。
上の五神は禊祓をするに当り、摂取する黄泉国の文化の内容を予め調べるための五つの観点。
--------------------
生れたばかりの赤ちゃんが持つ精神構造
生れたばかりの赤ちゃんが持つ精神構造である。第二段階は、第一段階で得た菅麻(すがそ)音図を下敷として、これに更に整理・活用の為の手を加え、人間が人間社会の中で生産される種々の文化を受け入れて、人類の文明を創造するために如何様な心構えが必要であるかを、人間の主体内原理・法則として確立しようとする作業である。
その結果として人間の主体内に於てのみ自覚された人類文明創造の法則を得て、これを建御雷の男の神と呼ぶ。人類が初めて主観内に自覚した人間最高理想の精神構造である(これが如何なる精神構造であるか、は古事記はこの段階では明らかに示さない。詳細は古事記神話の総結論である「三貴子(みはしらのうずみこ)」の誕生に於て明らかにされる)。
その人本人の心の内容を分析によって知り、それを再び総合によって元の姿に返す仕方の心構えを、今度は世界各地で生産される諸々の文化を吸収して、世界文明創造に役立たせる、所謂禊祓の原理として確立するために、人間の判断力(総合)は如何にあるべきか、の実際の探究と、その完全な証明が最後の段階である。
この事の検討によって建御雷の男の神という主観内真理が、如何なる外国文化に適用しても成功して誤ることのない真理であることの証明が完成する。人間が持ち得る最高理想の心構えの確立となる。この様な精神的行法を古事記は「禊祓(みそぎはらい)」と呼んでいる。
最高の心の音図。古事記を鑑とする。
この二つのことを兼ね備えている根源となるものが見つかってまいります。この二つのことが分かりますと、求道者の心の中に、「それじゃ、最高の心の音図が出来上がりますね」という、言霊の勉強した最後に建御雷(タケミカヅチ)の男(ヲ)の神という、心躍る自覚した神様。
人間がこの世に生まれてきた最高の境地、昔の竹内文献を読みますと、このことが分かる人を天津日嗣スメラミコトと書いてあります。その人が喋る言葉は光が篭っている。嫌と言えない、有難くて、有難くて、素晴らしいお恵みの言葉で、相手を納得させる。
光の言葉を発することが出来る、それが建御雷の男の神と申します。又の名を建布津(タケフツ)の神、又の名を豊布津の神、茨城県の鹿島、建御雷の男の神は鹿島神宮の御祭神です。
次に御刀の手上(たがみ)に集まる血、手俣(たなまた)より漏(く)き出(いで)て成りませる神の名は、闇淤加美(くらおかみ)の神。次に闇御津羽(くらみつは)の神。
手俣とは指の間から血が流れ出て出来た音図という意味、闇淤加美の闇は組む、全ての物象をこの状態の心で掴んで人間の知識の元に集合させる。人間は科学的にもそれをやっている。
--------------------
古事記を鑑とする
意識できないところを意識しないと分からないですから。なんであそこで甘いって言ったのか、酸っぱいと言っても良かったのにって、省みることだけならば、南無阿弥陀仏なんです。
もっと大きな視野から言えば、言霊の学問の顧みるということは、古事記の神話の通りのことを自分の心に問うてみる。コトタマ学そのものを鑑とするならば入門したことになる。
どういうことかと申しますと、古事記の初頭にある「天地の初めのとき…」それは自分の心のどれか、ウから三貴子まで自分は知っているか、知っていないかを確かめる、これが鑑にして自覚する方法。
五十音を全て自分の中で掌握してそれをどう活用するかを自覚しているのが建御雷の男の神(タケミカヅチノヲノカミ)です、でもまだ他の文明をどのように活用する時でない、じゃあ今何をすべきかというと、その建御雷の男の神まで。
-------------------
立体的な八咫鏡
ウオで禊払いをしようとしますと、おまえのここが間違っている、ここが良い、真理の取捨選択になってしまう。でも、けっしてそうじゃない、エから観ますと、良いものは良い、悪いものは悪いと決め付けてしまったら世の中は通用しない。
良いも悪いも一体になっているから人間なんだ、そのエの次元で観ますと、建御雷の男の神以降の神名がよく理解できる。オで説こうとすると解けない、最期にはオとエが一つになって初めて文明を創造できる段階なんです。エはイの働きですから。イはオの過去から引き出してエに渡す要になる、
現象の名前をつけるには平面的な五十音図では分からない、三十二子音の各次元で四通りの組み合わせの内容を見るには、立体的な八咫鏡の音図でないと分からない、四つの母音と四つの半母音を各次元の父韻がくるくる廻しながら現象をあらしめる。
動くものを見極める方法を分かっていないとイの領域にいけない。音図が活動しているイメージというものは、古事記の甕速日の神、樋速日の神のところ、そこが分かれば光の言葉が出てくる。
----------------
アは垣間見ればいい
どういう観点に立てばエとイを自覚することが出来るか、八十禍津日と大禍津日で迷うと直毘に行けませんから、分かってしまえば何十年も前から言っていたことなんだということが分かる。
その道は誰も教えてくれません、「その禍を直さんとして」としか書かれていないのですから。人間とは情けないもので主体的に観ないで、客観的にしか観ようとしない。空の外には行けないと書いていながら、その先にあると思い込んでしまう。
空を知って言霊アに一歩突っ込む、と同時に静なる五十音図と動なる五十音図をイメージして、建御雷の男の神は自分であると自覚して、自分の周りに起こってくる現象を振り返ってみればいい。
ただ、アの段階で修行が終わってしまっている方はエとイに行けない。心の自由を得て満足してしまっておりますから。アは垣間見ればいいのであって、そこに浸ってしまったら行けない、同じ時処位であるアエイと進めばいい。
----------------
自覚者である・建御雷の男の神
エとイの勉強をして理論的に分かり、自分はアとしての自覚が未だ足らないとしたら、個人の人生から人類の歴史を創造するには天の御柱を打ち立てないとならないということになる。アの修行は同時にエとイの修行に繋がっていく。そうでないとアの修行で満足してしまいますと自惚れる。
アの境地に立って個人としての人類ではなく、人類としての個人として役立てるには、天の御柱を立てて自分の責任として世界を創造していく役目を引き受けなければならない、その視点に立ちませんと天の御柱が立たない。
極端に申しますと、世界で起こった一切の出来事を非難しないこと、「皆一生懸命頑張っているな」と思える。これがけっこう大変なんです。自分が天の御柱を立てようとするときに初めて思える。
あんな戦争をどうしてするんだ、仲良くする道はあるだろうにって。その「あるだろうに」というのは個人の想像に過ぎない。「こうすればいい」ということじゃない、その言葉を言えるのは争っている両方に言えること。自分の子どもだと思えること。
---------------------
五十音図平面と立体
煩悩があるから人間、でも親鸞さんはそう説かない、煩悩を論っても何も解決しない。教えなくてはいけないんだ、坊さんはそう思ってしまう、でも、自分だって同じなんだよ、って同じ立場で説くなら、迷っている人にとっては救われる。
アからエイに行くに、迷いの煩悩の坩堝にはまってしまってどうしようすもなくなって、やっと去年の末頃になってから、人間は今ここでしか生きられない、なのに明日の悟りがあるんじゃないか、自分の客観である半母音の方にばかり気をとられていた。
迷っている自分を確かめようとして古事記をもう一度読み直した。建御雷の男の神まで何回も読み直している内に、平面の五十音の構造と立体の八咫鏡のような八角形の構造、この二つの構造が自分の心の中でイメージとして描かれた。
アもエもイも同じ方法で悟ることが出来るということに気が付いた。今ここなのですから、同じ方法でしかないわけです。アは広大にして無限、人間の概念的思考は、無限は意識の外にある、計算出来ない、もし無限が分かったとしたら、その向こうを思ってしまいます。
----------------------
整理と活用
火之迦具土神の頚を斬り賜ふ時の十拳剣を指す場合と、斬られた側を指す場合、斬った方は言霊の原則を表す主体側、斬られた客体側は神代文字で表わす、斬る方、言霊の原則に則ればどういう意味があるのかなを判断する、伊耶那岐の大神、建御雷の男の神の判断力、それによって五十音の言霊が分かって来る。
「この通りに勉強しなさいよ」とするのが整理、自分の心の整理なんです、和久産巣日の神以降は文字だけに囚われてしまいますと何の事かさっぱり分からなくなります。ここまで自分の勉強が進んだとしたら、「これはどういう意味なのかな」というように考えませんと。これは小笠原先生の霊感ですが。
そうやって小笠原先生は解いていった、禊祓の始まる件のところから私に託された。まったく霧中にあってもそれが解けたのは、自分はどうやっているのか、その消息は古事記に書かれている神様の名前。だから皇祖皇宗は我が裡に住んでいるということが明瞭に分る。だってそうでしょ、奥疎、辺疎(おきさかる、へさかる)なんてひっくり返ったって分りませんよ。
なんで疎(さかる)んだって、何が奥の方へ離れ、何が辺の方へ分かれていくのか、その何がが分らない、その何ということに気がつくだけ上等な方、なんだろう、なんだろう、で一年、とんでもない時に「あっそうか!」と分かって来る。それはその神様の心理に順番が廻ってきたときに分る。それは今ここ、今ここに差し掛かった時に「こうだよ」って。
---------------------
経綸
だから「分った」と思えるのは建御雷の男の神として分ったということ。そこに人類というものを抱え込んで責任を持っていこうとするなら、歴史的人類として動く時でないとならない。
人類の歴史と自分の心の中に築かれた論理的な真理が一体となった時、それが人類が動く時。一体になる時に動き出すのではなく、一体となるから動き出す事が出来る。この経綸を離れて人類はないのですから。ただ唯一の真理、人類の動きをただ一点において支え動かす、その意味の重大さは十分に汲み取られるでしょう。
そこに立てば悩みなんか消えてしまう。そういう素晴らしい時代に生かされようとする時代、地獄を見ないことに越した事は無いですが見るに越したこともない。じーっと自分の現実を観ますと地獄におりますよ。私なんか朝起きると呼吸が苦しくってウンウン唸っている。どっか苦しいんです、もし苦しくなかったらこの忙しい時に飛び回っていますよ。
唸らざる苦しいことがどっかにある、それがふーっと消えた時に薬師如来の文章が書ける。どんな重病でも喜べる時、ということは重病がなくなる時、なにしろ今の世の中は何が何だか分からないけれど苦しむ事は良いこと。だってそうでしょ、ついこの間までポケットに電話を携帯したり、月や火星に飛んでいけるなんて誰にも想像できなかった。