精神元素「ヒ」の言霊と古事記。 その 1。
古事記神代の巻冒頭百神によって与えられた神名・ 「於母陀流(おもたる)」の神。 言霊 ヒ
於母陀流の神を日本書紀には面足尊(おもたるのみこと)と書いております
・神名の解。
於母陀流は面足ずばりです。
面(おも)とは心の表面にパッと言葉が完成する韻と受け取れます。
昔、滝のことを「たる」といました。水が表面に一ぱいに漲り、そして流れ落ちる。これが滝です。足る、とはその表面に漲(みなぎ)った姿です。
・神名全体の意味。
面足とは心の表面に物事の内容表現が明らかに表わされる力動韻
・言霊「ヒ」の意味。
言葉が胸元まで出て来ているようで、喉元に引っ掛かって出て来ないもどかしい気持がフッと吹っ切れて、口というか、頭の表面というか、心の表面とも言える所で、記憶がハッキリした言葉となって完成する、否、完成させる言動韻、これが父韻ヒであります。
心の球形の表面に言葉が完成する韻(ひびき)」、心の表面に言葉を完成させる原動力の火花
意識内容が自己の表層へと上昇し自己の表面の結界を超えてその表面で見つかったものと結び付こうとする律動。
⑦言霊ヒ。於母陀流(おもたる)の神。
私も時に経験することですが、何かの集会で突然一人の人から「久しぶりにお会いしました。御無沙汰していて申訳御座いません。あの節はお世話になりました」などと親しげに挨拶されます。余りに親しげであり、突然の事とて、戸惑い、いい加減な挨拶を返してそのまま別れてしまう事があります。別れた後で「確かに何処かでお会いした事があるように思えるが、さて何方(どなた)だったかな」と仲々名前を思い出せません。二、三日経って、散歩な心に懸っている間に、次第に心の奥で思い出そうとする努力が煮つまって行き、以前に会った時が何処か、何時か、どんな時か等の事が焦点を結び始め、終に心の一点に過去の経験がはっきり一つの姿に沈黙の内に煮つめられた時、その瞬間、意識上に「あゝ、あの時の木下さん……」と言葉の表現となって花咲いた訳であります。
かくの如く心の表面にはっきり表現として現われる時には、心の奥で過去のイメージが実を結んでいる、という事になります。
太安万侶氏は何故に面足と書かずに於母陀流などと複雑な名にしたのでしょうか。それは勿論面足では直ぐに分かってしまって、古事記神話編纂の真意に悖(もと)るからでありましょう。
では「心の表面に言葉が完成する韻(ひびき)」とはどういうことなのでしょうか。言い換えますと、心の表面に言葉を完成させる原動力の火花とはどういう事を言っているのでしょうか。例を挙げることにしましょう。
或る会社の創立三十周年の祝賀会に招待されて出席しました。盛会でありましたが、その席上、突然ある人から声をかけられました。「M会社の中村さんですな。あの折には種々お世話になり有難う御座いました。その後ご無沙汰申上げて申訳御座いません。改めて御挨拶にお伺いさせて頂こうと思います。その折はよろしく御願い申上げます。」そこまで話が来た時、その人は同席の同じ会社の人と思われる人に促(うなが)されて、「では失礼いたします」と去って行ってしまいました。自分だけしゃべって、名前も言わずに行ってしまって、無作法な人だなと思ったのですが、その人の名前を思い出せません。何処で会ったかも分かりません。けれど一度会った人であることは間違いないようです。さあ、こうなると、その人のことが気になって仕方がありません。「何処で会った人なのかな」「何という名前だったかな」考えてみても喉(のど)に引っ掛かったように答えが出て来ません。
家に帰ってきてからも同じような気持で、何となく今にも思い出せそうでいて、出て来ません。翌朝、会社に出ようと靴を履こうとした時、ハッと思い出しました。「あっ、そうだった。二年程前の会社の後輩の結婚式の披露宴の席上、テーブルの隣の席にいたN販売の木村さんだ。披露宴の酒が進み、座が少々乱れ出した時、あの人と仕事のことでいろいろ話した事があった。あの人はそのことを言っているのだ。」喉につっかえていたものが一遍に吐き出された気持でした。「仕事でない所で会ったので、記憶が薄れてしまったのだ」と思ったのです。
例の話が少々長くなりました。父韻ヒの韻律をお分かりいただけたでしょうか。言葉が胸元まで出て来ているようで、喉元に引っ掛かって出て来ないもどかしい気持がフッと吹っ切れて、口というか、頭の表面というか、心の表面とも言える所で、記憶がハッキリした言葉となって完成する、否、完成させる言動韻、これが父韻ヒであります。
○○○
古事記は意識の目覚めの何らかの始めから始まっています。そこには意識とその潜在的な対象が隠されていますが、それがいわゆる○チョン、スの神です。安万侶はス神は取り上げていません。他の文献『先代旧事本紀』(くじき)では、「天譲日天狭霧国禅月国狭霧尊(あめゆずるひあめのさぎりくにゆずるつきくにのさぎりのみこと)としてでてきますが、これは古事記の「天地の初発」を神の名で現したものです。
ここでも対になったものが、一つの形になっている。古事記の天地とは宇宙とか地球とかの天と地のことではなく、心の天地、心の主体側と心の客体側のことを言います。この長たらしい名の神を天地の初発の時に当てはめることができます。
先天の気が揺すられて(あめゆずる=ゆする、揺する、揺れる、揺すられる)主体の芽がぼやっと霧のように昇り(日天狭霧)、後天の現象を揺すり(国禅)客体に付着してそれがぼやっと霧のように(月国狭霧尊)現れる力を持った働きの神(尊)ということで、何もないものの何らかの動きの気配とエネルギーが張りつめている、いのちが現れ出ようとしている前段階に相当します。エネルギーの発動する振動のみがあって、その方向も対象もまだ現れていない状態です。
例を示せば、物事、意識の始めのその前のことでパソコンのスイッチを入れる場合なら、パソコンが意識対象となってスイッチを入れる相手になる以前に感じている何かの気配の動きが心の奥で始まろうとする状態のようなものです。自我とか主体とか対象客体とかの分裂も無く、無いけど有る、そんな潜在エネルギーの揺り動きだしの状態。安万侶さんはこのようなややこしさは必要ないとして記載せずに「天地の初発」としたのでしょう。
不思議世界が好きな方達はここから、運命は決まっているとか未来は何々によって意図されているとか言い出すことでしょう。反対する方は人の意志を持ち出すでしょう。要するに現象が見分けられるようになった時の位置づけの相違によって、自分の意見のもっていき方が変化するだけです。この「見分けられる」「表面化」を担当するのが於母陀流となります。
古事記の神は全て精神、心の次元から出発する神々ですから於母陀流の神も例外ではありません。こころに秘められていてまだ言葉にならないとよく言いますが、実際の頭脳内では、表現されなくとも物凄い超スピードで言葉での組み合わせの準備が言葉で行なわれています。アーアーアーエーエーエーが明確化して言葉になるのではなく、頭脳の潜在次元で既に素粒子たる言葉たちが活躍していてその元素が組み合わされるようになっています。
新幹線のひかり号はひかりのように早いと言う物理の知識からきた命名でしょうが、光のパッと表面に現れるということもあるでしょう。光は霊駆りと書き霊をヒと読んでいました。駆るは速く走らせるで、言霊の働きそのものを指しています。ここでいう早いとは頭脳内での間髪を入れないその動きを言います。実際、感じ考えることが言葉となって表現されるに要する時間はあるのか無いのか分からないくらいです。習い覚えた多くの言葉があって、相手に通じる言葉を選択して、一瞬のうちに表現して、言ったことを直ちに了解して、また頭脳内に収納して整理いくことが人の言語活動です。物理の知識で命名したからといってもその下地は人類に共通の言霊の働きにあります。
こうした言霊の性能は勉強するしない、知っている知らないに関わらず誰もが持っている人としての性能です。よく、良い言霊を使いましょうなどということを聞きます。それを主張される方は真面目に住みよい社会が来るようにと思い、広めようとしていることと思われます。真剣に人生を見つめよくしようと考えていることでしょう。
しかし、良いという主張はその反対側を圧迫抹殺する悪魔的な心持ちが内包されています。自分の言う良いというのが良いので他のものは圧殺されることになります。それらは立派な経験知識となっているのでしょうが、良いとか悪いとか言う前に両者が共に上昇出来る方法を見つけてもらいたいものです。
(この方法を身禊といいます。また、聖人、聖といわれる人がいます。ひじりとは霊(ひ)を知る(じ)ひと(り)のことで、全人の為に身禊による指示ができる方をいいます。個人的な修練修業者、個人的な救いを与え求める宗教者とは違いますが、現代までの定義ならそういうことです。)
いろいろごちゃごちゃ書いてきましたけれど、言霊ヒというのは重層的な階段を上がるその入り口のような気がします。重層的というのは別の層へいく時には別の次元になっているという意味です。火がつかない火が燃えないというのは同じ状態が続いていることで、言葉を発しない説明しないというのも、同様です。火がついてその後どうなるのかといえば、ヒで明らかにされたものが煮詰められ形を整えていきます。次は言霊ニです。
⑦言霊ヒ。於母陀流(おもだる)の神。
❽言霊ニ。妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。
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於母陀流(おもたる)の神。言霊ヒ。
妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神、言霊ニと対になる神さんです。
於母陀流(おもたる)の神は、顔おもての「おも」と「たる」の組み合わせです。
「おも」は、顔つきの変化、面影うわべ様子等が「たる」状態に向かうところを切り取ったものでしょう。
さらには後に出てくる思い金の神にある「思い」が足る状態と関係しているでしょう。
「たる」は樽、足りる、垂れる、垂れる水(たるみ)=滝等につながるものでしょう。
顔は心の表情、心の表面で意識の別様の現れです。顔の表情が動けば意識が動きます。意識が動けば顔おもても動きます。
「たる」は足りるで、その限界は表面張力が破れたときに滝となって落ちるとか、満腹でもう他のものを受け付けないとか、一つ追加するたびに「たる」状態を確認するとかで、表面に現れる結界(限界)状態を見極めることにある。
そこで於母陀流(おもたる)は、表面の変化に至る全行程が含まれていて、行程が足りて表面に達する事と表面が達せられたものによって変化するところまでを含む。
、
意識の動きとその働きを顔の表情の変化とした比喩を用いて説いたもので、感情、情緒の誕生にもなるし
変化して現れたものが言葉なら意識による言葉の発生となるだろう。
意識は頭脳内に隠されたもので、それが表面に達して表面をチェンジして、言葉に成るには革命にも匹敵する変化になるが、「たる」にはパンパンに張りつめた面の縁から滝状に流れ落ちる姿が見られる。
面に達するには達する内容内面が隠されていたためで、それが現れるという事も大変な事となる。また一方、隠れていた内容はそこに留まっていては誰にもあらわれたものとはならない。
顔の表情に意識は現れるといっても、内容関連はあるがそのものが示されることではない。こぼれ落ちたもの、受け入れられないもの、はち切れてしまったものはあるで、面の状態条件次第となる。
ところで「おも」(面)とは自分自身にあるもので、自分が自分の表層へ浮上する上で、自分を満ち足りる過程を保証して行かねばならない。そうでないと足り満ちて自己の表情を変えるだけの状態を持続できない。その状態によって喜怒哀楽が付随していく。
自己のおもの表面において足りた状態とは、隠れた意識から現象手段を使用した表現への飛躍を指す。
こういったところで、於母陀流(おもたる)の神は、意識内容が自己の表層へ上昇し自己の表面結界を超えて、表面で見つけたものと結び付こうとする律動です。
この場合、自己の意識内容が表面を目指すといっても、表層を覆う結界に導かれていきます。結界は様々な次元で様々な形をしていて、言葉であったり、欲望であったり、経験知識であったり、情感であったり、行為となる実践智であったりしています。
それらの自己を覆っている結界が意識内容を引っ張り上げる関係と成ります。
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