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心の痛みの次元。おのれの心の締まり、これ淤能碁呂島(おのごろしま)なり。
自分の考え、感じ、等がはたして自分でいうほど自分のものかどうかを見たいために、五感感覚の痛みを取り上げます。痛みはより直接的に自分が感じ自分の痛みという思いが強いようだというだけで、特別なことはありません。各人で自分の気に入っている扱いやすく題材に取り替えてみてください。
おいしいでもいいし、いい気持ちでもいいし、自分に与えられたものがどこまで自分のものであるか、ちょっとみてみましょう。
心の痛みについて。
オノゴロ島の段落にオノゴロ島を痛みとして当てはめてみます。
【 ここに天つ神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、】
生理的、精神的に人は痛みを感じることができますが、それだけの先天構造が出揃っていなければ事は起こりません。
つまずいた時の痛み、叩かれた時の痛み、人の死を見た時の痛み、文学作品を読んだ時の痛み、死を表現する音楽を聴いた時の痛み等々、身体的に精神的に痛みを受容する器官なり、感覚なり、情感なりがその人に備わっていなければ痛みは起こりません。
自分に痛みを感じるにはまず、天つ神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、というように先天的な条件の準備が主客の両者に必要です。
主体側の人間にはこの先天性は五次元の階層として現れます。
ウの次元-侵害受容器官からの痛み、生物生理上の痛み。直接な痛み。
オの次元-経験記憶上の痛み。、
アの次元-感情宗教芸術上の痛み。
エの次元-行為選択、道徳倫理選択上の痛み。。
イの次元-意思行為決定による痛み。
どんな人種もどんな人もこのような五段階の重層的な痛みを感じる構造を持っています。
( ここの場面での痛みを各自理解しやすいように自分に身近なものに変換して当てはめてみてください。心の原理論である古事記にあてはまるかやってみてください。)
【 伊耶那岐(いざなぎ)の命伊耶那美(いざなみ)の命の二柱の神に詔(の)りたまひて、】
心の次元層があるのが分かっても、ここではそれらが直ちに発動するわけではありません。自分の心、オノゴロ島がでてくるのはまだ後からですから、ここで言われている心は自覚された、自分でことを成し遂げ感じていく心ではなく、そうなっていくだろうという先天的なものです。
既に五層の痛みを分類してしまいましたが、それらはまだ別々に自分のものとして顔を出すに至っていません。その全体的な萌芽としてあるというだけで、自分の痛みとして感じているものではありません。
ややこし言い方で申し訳ないが、ここではまだゼロであるがその中に全体を現すチョン印が入っているとしています。○チョン。
そこで先天性が全部出揃うと事が動き始めます。ただし、私自身が動き、私が痛みを感じるというのではなく、痛みを感じる私を喚起し、痛みを与える対象が喚起されるという意味でです。この喚起する動因として、主客を誘うのが伊耶那岐(いざなぎ)の命伊耶那美(いざなみ)の命の二柱の神の働きです。
自分に痛みの受容器官があっても、その働きが喚起されなくては、痛みは感じられません。その喚起を遮断する、麻酔だとか薬物だとか気功だとかもあります。
この岐美の命の働きは、五層の次元全体に及んでいて各人に応じて発現していきます。
【「この漂へる国を修理(をさ)め固め成せ」と、】
先天の構成体全部が、痛みを感じるのは岐美の命の仕事だ、それ行け、いざ立てとせき立てるわけです。
ここでもまだ主体的に自分が痛さを与えるとか感じるとかの段階にはまだ到達していません。
古事記はこんな調子で精神の細かい一つ一つの動きを迫っていきます。
前もって言えば、精神の一つの動きは、冒頭の五十番目のカグツチの神まで来た時に一つの単音が発声される形になっています。それがそれぞれ言葉の単音数分だけ繰り返され単語となり、文節、文章へとそれぞれ五十回ずつ繰り返され成っていくのです。
ここではそのほんの始めの時ですから、何もかもはっきりしたものはなく、漂へる国というわけです。
単純に言えば、足を踏まれて痛いという時には、イ-タ-イの50×3の言霊循環が瞬時のうちに行われています。
そしてこの言霊循環の後に発せられた言葉、痛い、を以て事の成り行きが成就するのです。
【 天(あめ)の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依(ことよ)さしたまひき。】
実は、岐の命がことを喚起して発動の主導権を持っているのですが、手段をもっていないのです。
というよりも、ここでも言霊循環は貫徹しています。発動因であると同時に五十の循環そのものが手段となっているのです。
そこで痛いという原因結果も因果応報も業と輪廻も循環の仕方の現れ方の一つに成っていきます。
どのようにかというと、
【 かれ二柱の神、天の浮橋に立たして、】
二神はそれぞれ端の両端に立ちます。岐の命が美の命に会いに橋を渡る格好になりますが、橋には八つの橋板しかありません。
このように書くと精神的な意味が出てこないので、もっと心の問題に則して書くと、両端が母音と半母音で、主体が客体を見つめ、私があなたを見つめ、主から客への心の関係のこととなります。その主から客へ行く関係のとり方、父韻、が八つあることになります。
何故八つしかないのかというのは、私たちの追体験もしないでそのまま言葉を受け取ってしまう怠慢な者たちの言い種でしかありませんが、実際に古代大和で五千年以上も前に発見されていたことは確かでしょう。
ゼロから始め八を以て上の次元に到達してそれをゼロとしてからまた八を繰り返すひふみ九九算の数理では既に解明されているようです(石上神宮の布留の言本(ことのもと)。
ここに主観と客観の全哲学問題の解答があるはずです。
【 その沼矛(ぬぼこ)を指(さ)し下(おろ)して画きたまひ、塩こをろこをろに画き鳴(な)して、引き上げたまひし時に、】
痛みの話をしたいのになかなかうまくいかない。
痛みはいつ完成するのでしょうか。
変な質問ですが、自問自答してみます。
痛みを分類しても痛みを感じたことにはなりません。同様に痛みとは何かを分析しても痛みを感じたことにはなりません。
また痛いはずなのに、痛みを感じないことも事もあります。自分でもびっくりします。
要するに痛みは痛みの対象を痛いと指し示したときに完成します。これは直接言葉にすることもあり、頭脳内での意識の流れのように無言で痛い痛いということもあります。
言葉の働きで対象を掻き回し、現象子音の適当なものを探し何とか自分に相当するものを自分に引き寄せ、その成果を引き上げるときに痛みが現れます。
この働きは口の中で行われ、舌をころころ回して言葉を創造していくことになります。言葉にしなくても痛みを得ると言うことも、無言の言葉の回転の中で行われています。
【 その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、】
こうして探し求められ引き上げられた言葉の集合体が単語という形をとって、痛いとなります。
【 これ淤能碁呂島(おのごろしま)なり。】
ここまできてやっとおのれの心の痛いという外観ができました。しかし、おのれの心が発動していくのはまだ後です。
こんなことを言っていたら、いったい心はいつ働くのか非常に疑問に思えます。
【 その島に天降(あまも)りまして、天(あめ)の御柱(みはしら)を見立て八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。】
そして自覚的な心の次元に目覚め、自らの心の柱ができます。
いままで、先天だ先天だと言ってきたものが突如として主体的な心が出来たと言い出しました。
これも言霊循環の御蔭です。
つまり、先天性を説明していくことがそのまま後天性の説明にもなっており、現象顕在化の説明にもなるのです。
全くわけの分からない手品のようです。
もちろんこの説明が正しければいいわけですが、なかなか自分が理解し相手に分からせるのは手がかかります。この手順をかみ砕いて理解していないと、途中にでてくる浮橋の橋板がガタガタしだします。
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先天の説明が後天の説明になるというところで、次回には、もっと痛みに近づいた話をしてみましょう。
①おのれの心の締まりと心の痛み、 。これ淤能碁呂島(おのごろしま)なり。
現象となった痛みに近づいてみましょう。
「いろんな」痛みがあります。
では「いろんな」とはどういうことでしょうか。
頭を打たれ、事故に遭い、食べ過ぎて胃が痛い等色々ありますが、それらは生理的なもので、ここでは心の運用に関しての痛みです。
そこで身体的な痛みは分類上は生理上、精神上に分けることも出来ますが、古事記の分類法を参考にしてみましょう。
古事記の分類法ではどのような物事であろうといつも同じで、あいうえお五十音図を手本としていきます。痛みに限らず自分に感じたもので試してみてください。
まず身体生理と精神にわける事について。人は身体と心を持っているから、痛みもそのように分けられそうです。しかし、精神の痛みを頭の痛みとするとそれは単に生理的なものになってしまいます。その反対に生理的な痛みも、心の中に起きる出来事ととらえると、別の世界が生れてきます。古事記の世界は心の世界を解明するものですから、ここでも、心の中の出来事として扱っていきます。
五十音図は五段に分かれています。ウオアエイの五段。
・ウの次元-侵害受容器官からの痛み、生物生理上の痛み。五感感覚上の痛みや、欲望次元での痛み。頭を打たれ、事故に遭い、食べ過ぎて胃が痛い、頭痛、株で損して頭が痛い、手に入る予定の金が入らないで胃が痛い、等皆同じ次元の痛みです。人生の大半の痛みはこの五感感覚上の痛みになります。
ところが五感による意外にも別の種類の痛みがあります。五感による接点はありますが、五感では理解できません。独自の世界にある痛みです。
(侵害受容器官からの痛みと言うとそれは全く生理的なものではないのかと言われるかもしれません。以下の段も同様ですが、客観的に計測できる痛みがあるとかどのくらいとか世界の話ではなく、それらが心に現れて来る世界の話です。)
・オの次元-経験記憶上の痛み。五感とは違うしそれでは理解できない痛みで、五感には感じなくても、思い出により、記憶により痛みが蘇ります。うの次元でのように現在痛みを受けていなくても、思い出したり振り返ったりして痛みを追体験することがある。映画を見たり話を聞いたりしてもそれによって痛みが喚起されることがある。
また直接痛みはないのに、概念によって、知識によって表現される世界があります。
・アの次元-感情宗教芸術上の痛み。これはまた記憶によって引き出される痛みとは違って、苦痛となるようなもの。情感を揺り動かされているのでその苦しみははっきりしているが、本人以外には理解のしようがない特徴がある。宗教芸術上の痛みは経験記憶上の痛みとはまた違います。底辺において五感、記憶の次元と繋がっていますが、それらの次元からは思いもよらず理解できません。宗教家、芸術家の感じる痛み、あるいは子を思う母親の痛みです。
・エの次元-行為選択、道徳倫理選択上の選択智恵を実行する上での痛み。人々の苦痛を背負ったような、聖者の得る痛み。選択決定による不平等、不公平、不均等などに関する個と全体の両立や為政者の感ずる痛み。( 私は聖者ではないのでここは分かりません。イの次元も同様。)
・イの次元-意思行為決定による痛み。生きる意思そのものに関する生への痛みと喜び。(よく分かりません。こういった水準には達していません。)
一応五段階の痛みを作ってみました。というよりこれ以外の痛みはありません。
ここでいう次元は人の霊的な次元だとか死後の霊位だとか魂の次元を高めるとかでは捕らえられていません。上記の次元層は底辺によって一致していて、あるいは一本の柱の中心が共通してと言うか、そういった感じのどの人間にも共通の現実の次元のことです。
上記の五つの次元は実在の世界のことでこの意味でどんな人間にも差異はなく平等です。
しかし、その現れ方運用の仕方は全く個別的で、下段にいる人は上の段にいる人の痛みを知り得ない関係にあります。親の心子知らずですが、柱には中心があり、底辺は繋がっているのですからその関連が突如として現れびっくりするようなことはよくあることです。
キリストの磔刑の絵を見て、イバラによる王冠の痛みは、経験記憶概念から導き出すことはできるでしょうが、宗教者としてなら実際感情として苦痛の共有が可能でしょう。ウ次元の人には絵など何の感慨ももたらさないでしょう。
痛いの語源。
ここで痛いの語源を探してみましたが、見つかりませんでした。こんな簡単な基本的な言葉も何も知らないで使っているわけですね。
日常生活でのありふれた言葉ですが、出所不明でした。
古事記で言霊の勉強をしているのに何にもならないようです。情けない。
自省反省して痛みの語源に戻らねば。これは大変なことだ。
痛みの生理的な特徴は局所化が一瞬出来ない所にあります。素足で歩いていて松葉を踏んだり、小石につまずいたりして足が痛くなったとき、最初は足全体に痛みが走ります。その後土踏まずに松葉が刺さってたりするのを見いだして局在化されたり、足全体が石に当たったのではなく小指だけだったりを確かめたりします。
この一連の生理上の痛みの動きを捕らえて、イ、タ、い、と言ったように思われます。主な語はイとタで、イの言霊はイザナギの神が配当され、タの言霊は大事忍男(おおごとおしを)の神が配当されています。
イザナギは人の精神次元全体を指し、大事忍男も、大いなる現象として押し出してくることを指示しています。
この両者を続けて表現すると、ちょうど突如痛みを受けたときの意識の流れに相当していくようです。
痛みを受け取ったその直後には、何が何だか、何をどう規定していいか分からず心の動揺が現れ、それは人の心全体として一挙に広げられたものとして各人にえられます。ここで一挙というのは、経験的に何が起きたのかとか、どのような感情を喚起したらよいのかとかがはっきりする以前の初発の時のことです。足の小指にも関わらずその突発性は腕か首かお腹か太股かも分からず身体全体に痛みが誘われていくようです。そしてそのほんの瞬時の後には破傷場所が局在化され手がそこにあてがわれるようになります。感覚でありながら感情が喚起され、全経験概念の知識がスタンバイ状態になります。(この全体性がイ) 。
ついで生理的物理的に確認ができると、今度はその場所に囚われていく意識が動きだしその場所全体を表象意識化していきます。物理的には小さな範囲であることが確認されているのに、意識はその場所に関してその場が含まれる全体を意識します。小指なのに足全体とか腕なのに身体全体とか言う風に意識によって拡大されていきます。痛みを受けたと言う全体性がまず実在していきます。(この拡大性がタ)。
この意識の現象と意識の流れを二つまとめてイタとして、与えられる苦痛の全体を生理生物肉体次元に降ろし指し示して痛いという単語になっていった。
これが痛(イタ)いの語源ではないでしょうか。
痛いの最初のイの時はその衝撃力が大きいので、人の人格性質性能資質も全部飲み込まれてしまいます。つまり聖人であろうと人格者であろうとガリガリ亡者の金しか考えないものであろうと腹を空かしていようと、痛いのイに対する態度は変わりがなく、顔をしかめたその人全体の姿が現れます。
それがタの時になれば反省や自省が加わり記憶過去概念のせいで、各人の対応にそれぞれの変化が現れます。
つまり痛いと言うのは痛覚に依る痛み生理上の感覚をいうのではなく、痛覚が意識されその意識が破傷場所との間を上下する心のあり方を指したものでしょう。イ・タ・が痛覚を直接指したものではないということからすれば、次のような言い方も可能になるかもしれません。
誰かがどこそこに居た、イ・タ・!、というときのイタと痛いのイタとは同じことになりそうです。居たと痛いの文法上のタの扱いでいけばおかしな話になりますので、これは意識の流れ、心の動きのであることを了解してください。とはいってもこうなるからこうだと主張するつもりはありません。
迷子になった子供を探した挙げ句やっと人込みの中に『居た、イ・タ・!』と見つけました。
居た!という最初の印象を得る時、突如見つけた子供の閃きのような全体性が出現します。それを受けたその直後には、何が何だか、何をどう規定していいか、分からず心の動揺が現れ、それは人の心全体として一挙に広げられたものとして母親に与えられます。ここでは、経験的に何が起きたのかとか、どのような感情を喚起したらよいのかとかがはっきりする以前、不明の子供を見つけて認識する直前のことです。ごちゃごちこした人込み全体の中に光るもの得た時のことです。
一点の光明はそれが自分の子か迷い犬かも分からず身体意識全体に光点が引きつけられます。まるでイ・タ・!が母親の全身を覆い尽くすかのようです。そのほんの瞬時の後には固定された眼が局在化され眼がそこにあてがわれるようになります。(この全体性がイ) 。
ついで背格好顔つき着物等生理的物理的に確認ができると、今度はその場所に囚われていく意識が動きだしその場所全体を表象意識化していきます。物理的には小さな範囲であることが確認されているのに、意識はその場所に関してその場が含まれる全体を意識します。あそこに居る遠くの小さな点でしかないのに、人込みを含む情景全体と、子供の身体全体が意識によって拡大されていきます。(この拡大性がタ)。
この意識の現象と意識の流れを二つまとめてイタとして、与えられる情景の全体を指して居た!という単語になっていった、とも考えられます。
これが居・たの語源ではないでしょうか。
このように心の動きから見ていくと痛いと居たとは同じ構造のように見えます。
では何故同じ言葉でも全然別の場面になるのでしょうか。
、これが浮橋、八尋殿、父韻の働きからきています。
一応語源を見つけたとしておいて次に、オノゴロ島では【その島に天降(あも)りまして、天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。】
ですから、上記の五つのあいうえおが御柱に相当しますが、浮橋と八尋殿(やひろどの)がまだ無いのでそれを探してみましょう。
これらは現象として分かっているものを逆算して分類しているようなもので何になるのかは不明です。済みません。
また、浮橋と八尋殿は同じことです。
さて、何とか分かりやすく書いて自分も納得したいのですが、だらだらしすぎのようです。いつかびしっと決めたいのですが、まだ時間がかかりそうです。
次回へ。
②おのれの心の締まりと心の痛み、 。これ淤能碁呂島(おのごろしま)なり。
まず、浮橋と八尋殿の内実である父韻から。
以下引用。
宇比地邇(うひぢに)の神。妹須比智邇(いもすひぢに)の神。 言霊チ、イ。
宇比地邇の神とは心の宇宙がそのまま現象として姿を現す動き、となります。
父韻イとは「父韻チの瞬間力動がそのまま持続して行く力動韻」という事が出来ましょう。ここに力動韻と書きましたのは、心の奥の奥、先天構造の中で、現象を生む人間生命の根本智性の火花がピカっと光る閃光の如き動きの意であります。
角杙(つのぐひ)の神。妹活杙(いくぐひ)の神。
言霊キ、ミ。言霊キの韻は掻き繰る動作を示します。何を掻き繰る(かきくる)か、と言うと、自らの精神宇宙の中にあるもの(経験知、記憶等)を自分の手許に引寄せる力動韻のことです。これと作用・反作用の関係にある父韻ミは自らの精神宇宙内にあるものに結び附こうとする力動韻という事が出来ます。
意富斗能地(おほとのぢ)の神。妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。
言霊シ、リ。意富斗能地は大きな斗(はかり)の働きの地と読めます。物事を判断し、識別する大いなる能力の地という訳です。人はある出来事に出合い、その事を判断・識別する事が出来ず迷う事があります。あゝでもない、こうでもないと迷いながら、次第に考えが心の中でまとめられて行きます。そして最後に迷いながら経験した理が中心に整理された形で静止し、蓄積されます。蓄積される所が心の大地という訳です。この働きから学問の帰納法が生れて来るでありましょう。
大斗乃弁とは大いなる計りの弁(わき)まえと読めます。意富斗能地と作用・反作用の関係にある事から、心の中にある理論から外に向かって発展的に飛躍していく働きと考えられます。父韻リはラリルレロの音がすべて渦巻状、螺旋状に発展していく姿を表わしますから、父韻リとは心の中の理論が新しい分野に向かって螺旋状に発展し、広がって行く働きであることが分ります。この様な動きの理論の働きは演繹法と呼ばれます。学問ではなくとも、多くの物事の観察から人の心の中に一つの結論がまとまっていく過程、また反対にひとつの物事の理解から思いが多くの事柄に向かって連想的に発展して行く事、その様な場合にこの父韻シ、リの存在が確かめられます。
於母陀流(おもたる)の神。妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。
言霊ヒ、ニ。ハヒフヘホの音は主として人の言葉に関する音であります。面足とは心の表面に物事の内容表現が明らかに表わされる力動韻という事が出来ます。かくの如く心の表面にはっきり表現として現われる時には、心の奥で過去のイメージが実を結んでいる、という事になります。この心の奥に一つの事の原因となるものが煮つめられて行く力動韻、これが父韻ニであります。
伊耶那岐(いざなぎ)の神。伊耶那美(み)の神。
言霊イ、ヰ。先天構造を構成する十七の言霊の中の十五言霊が現われ、最後に伊耶那岐(言霊イ)と伊耶那美(言霊ヰ)の二神・二言霊が「いざ」と立上り、子音創生という創造活動が始まります。言霊イ・ヰが活動して初めて先天十七言霊の活動が開始されます。この様に言霊イ(ヰ)は一切の創造活動の元となる言霊であります。
生命創造意志である言霊イ、ヰの意義・内容を次の三ヶ条にまとめて書いてみましょう。
一、四言霊アエオウの縁の下の力持ちとなって、これ等言霊を支え統轄します。
二、人間の根本智性であるチイキミシリヒニの八父韻に展開して、四母音に働きかけ、人間の精神現象の一切を創造します。
三、生み出された現象に言霊原理に則った相応しい名前を付ける根本原理となります。
言霊イ・ヰは母音・半母音であり、同時に父韻となるものでありますので、特に親音と呼びます。(引用ここまで。)
【 その島に天降(あも)りまして、天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。】
さて、天の御柱と八尋殿は紹介したので、今度は【見立て】ることですが、はっきり言ってわたしにはまだ分かりません。五十音図を見てそのまま配分していけばいいように思っていたのですが、最近は満足感がありません。迷う所です。
心の次元層に五つ(ウオアエイ)あるとしても、同じウ次元同士ではどうなるかが分かりません。今回は分からないまま勝手なことを書いていくことになりそうです。
思想哲学では痛みは罪に対する罰のように取り扱うこともあります。そういう扱いをしたからといって高級な人間のする扱いをしたわけでもなく、扱い方の次元が知識と宗教にまたがっている所を突いているだけのことです。
それが学識や社会の方面に近づくと法律で囲って傷み付けるぞという死刑とか牢屋とかいう脅しになり、宗教に傾くと神の罰当たりめがというようになってくる。
またそういった社会状況を捨象して人倫道徳方面から痛みを昇華していく罪を引き受ける人などもでて来る。
こんなおおげさなことを語らなくとも、五感感覚次元では痛みは人を強く打ちのめす。
日本語の痛みには罪とか御免なさいとかの意味は直接には含まれていない。痛みはイとタを組み合わせて出来ていることは前回に見た。人の心の全体にかかわるものであって、学者たちが見つけてきてうまい具合にくっつけ納得してしまうようなものとはちがいます。
これ淤能碁呂島(おのごろしま)なり、と痛みというおのれの心の島は出来ましたが、わたしの感じる痛みはどこにあるのでしょうか。
実は、 伊耶那岐の命伊耶那美の命はその島に天降(あも)りまして、天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひきですので、わたしが見立てたのではありません。先天的にそのようになっていくというのです。
わたしの感じる痛みわたしの得る痛みは次の段落、まぐあいの段落、でわたしの痛みが生れ感じるようになるのです。つまりここまでは痛みを得て感じる主客の受け皿が準備されていたのです。日月神示でいう「チョンの中にまた〇があり、その〇に〇チョンがあり、々、々、々・・・」のまるチョンが準備されていたのです。
そこで今度は先天構造から人間性能の五感感覚による欲望、ウ次元に移っていきます。言霊循環(フトマニ循環)によれば、先天の準備がされていく過程はウ次元の痛みが準備されていく過程と同じです。同様にその次の次元も。
ウ次元の痛みは基本的な生命の痛み、五感で得る痛みです。例えば右の頬を打たれた痛みと言うことならば、【 ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、】は頬に関しての皮膚感覚の状態や痛神経などが天津神になっていきます。そこに主客の行為を見なければ、生理学的な客観的な疼痛に関する科学的な学問が成立していくでしょう。
ここでは痛みを受ける八つの浮橋と八尋殿(やひろどの)を尋ねてみましょう。
その回廊は次のようになっています。チイキミシリヒニの順に八つあります。
これは頬を打たれたと言う単純な事実を意識の流れに沿って追っていったものです。一言で言えば打たれて痛いというだけの立ったの一秒間のできごとですが、オノゴロ島の段落で説明するとこうなります。
最初は、頬を打たれといってもどこをどうしてなんで何をどのように等々打たれたことを規定説明することは出来ないが、打たれたと言う現象を受け取っています。これが宇比地邇(うひぢに)の神で言霊チです。ウは地に比べて近いという意味で、ウという心の世界が主客の間隙がなくそのまま現れることです。誰がどうして何でとかいうことが一切まずは分からずに直接全面的に出現することとなります。文章にすれば長くなりますが実際には始めの0・01秒と言った意識内のできごとです。
(注意。本当に0・01秒かどうかは分かりませんが今後脳内科学によって意識の流れる時間が計測されるでしょうからその時に明らかになるでしょう。しかし、古事記は冒頭の100神を通過して一つの単音の言葉が了解される過程を記したものですから、それでもたったの一秒のできごとです。一秒を百通りに分析できた縄文大和人には脱帽です。+歴史の時間軸。)
閃光のごとき直接全面性は、そのまま消えてしまわなければ今度はそれが持続していくことになります。それが妹須比智邇(いもすひぢに)の神で言霊イになります。須らく智という人間性能全般に比べて近い。つまり、ウイヂニは主客の同一性の方面から、そしてスイヂニは主体側だけからみてそのその人間性能の方面から、ということになります。
こうして、チとイを通過して頬を打たれた現象が主体側の御柱に取り込まれていきます。ここでも打たれた詳細はまだ分かりません。
ついで言霊キの角杙(つのぐひ)の神の出番です。主体内に取り込まれた主客の判別としない状況を分別していきます。角を出してかき分け探りながら前進する様子です。頬を打たれたという情報を角を出して探ります。
ついで妹活杙(いくぐひ)の神で杙(くい)は印、判断、分別の象徴で得た情報を活かしていきます。こうしてここでは過去の経験知や情報の記憶や概念使用比較能力といったものが働きます。頬を打たれたことに関しての情報が整備されます。主客の分別ができて来れば次に、
意富斗能地(おほとのぢ)の神の言霊シがでてきて、あれこれある情報から自分に引き寄せられるものだけを集め整理していきます。ごちゃごちゃあるものの中から必要なものだけが沈殿し、静まり提出されていきます。斗は方向を示すことと取れば、分別によって大いなる方向を主客に示すということになります。頬を打たれたことの判断の方向性が示されます。
そして、妹大斗乃弁(おほとのべ)の神でそれが述べられる地盤が形成されます。言霊リです。りは連想発展広がりの元となります。頬を打たれたことの関連性が準備されます。
主体側は自己主張をして自らを現すようになります。これが於母陀流(おもたる)の神で、おもは顔面のおもで、内実が表に現れてきます。言霊はヒで、事物の内実が日に当たってさらけ出してくるということです。ここでは自己主張に見合うだけの自己の立場が形成されていきます。
最後に、妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神の言霊ニによって、段々明らかになってきた情報達が煮詰められ心に固まってきます。ここまできて、あの出来事は頬を打たれたことなのか、となります。
ここまできて一応痛みが分かったと言うことになりますが、その詳細にはまだ手つかずです。現実にはたったの一秒間を百に分類するまでもないことですが、わたしのブログでは痛みのイにまでも達していません。
ところで先天ということを持ち出すと、普通の精神からはおかしなことを言っている風に見られていきます。
今までの所はわたしの痛みとか感じとか考えとかは、それがそのままわたしのものだと言う立場で普通でした。
もう気が付いているかもしれませんが、オノゴロ島の段落から解していくと、わたしが居なくなっているのです。わたしの先天性があって、それがわたしになる前段階になっているのですが、いまだにわたしが出てこないのです。
古事記ではこの後、ギミの命がまぐあいをして蛭子を産んでいくのですが、わたしという一つの主体が出てこずに、いつもギとミの対になっています。いったいわたしはどこに行ったのでしょうか。
古事記に頼って文を書くからこういう事になるので、自分で考えて書けばいいじゃないかとなりそうです。そうすればどこから見ても自分のものとなりそうです。自分の思ったこと考えたことを書き綴れば自分を現したようにおもえます。わたしも普通ならそれで承知するでしょう。しかしです。
一方で宗教などではわたしは存在しないとよくいいます。仏教ではそれが顕著です。といっても色即是空空即是色ですが。自我に執着するなとか捨てるとかいわれています。
次回へ。
③おのれの心の締まりと心の痛み、 。これ淤能碁呂島(おのごろしま)なり。
古事記を独自に解釈して独自の意見を述べる人が後を絶ちません。
そういう方達は相手が古事記のように得たいの知れないものだから、何でも言えるだろうということで古事記に救われているのです。
誰か特定の人に自分独自の意見があるとするなら、当然に誰にでも独自のものは持てます。そうなればこの世は独自だらけで、独自の言語だらけになって、ひっちゃかめっちゃかになります。独自の意見だとして自分の主張を開陳する割りにはこの世が崩れないのは、彼らのいうことが通じるだけの嘘としてこの世から浮きでてきただけのものだからです。そしてそれをまき散らしていけるからです。要するに彼らの主張する割りには全く独自なものはないということです。独自なものは流通できないからです。
古事記には痛いという言葉はほとんどでてきません。イナバの白うさぎの段落で一つ見つけました。古事記を独自に解する人たちはこの段落の痛みをどう解するのでしょうか。歴史を研究し文献を漁るのも単に知的な領域をでないものです。古事記は知識のオの次元を超えてアの次元、エ、イの次元に行くように誘っているものですから、独自な見解などもともと相手にしていません。
独自の見解で古事記の痛いを考察するひとは、ユダヤ人だとかキリストだとかがでてきて、痛みとは大阪の伊丹空港を指しているなどというのでしょうか。繋がりを発見しても元になるものが何も手つかずに残っています。
おもしろいことに、独自の見解を持つ人たちに共通していることは、向こう側の外国がまずあって、日本が後と言うことです。この共通項は全然独自ではないですね。
これも今後単純な考古学的な事実の発見で修正されることでしょう。
向こう側外国を先にすることは文献から見ても間違いであることは、例えば、易経は前3千年以上前に概念操作が記されたものですが、ではその概念を扱う実体実在現象の説明はどこからきたかと言えば、古事記に伝わっていた古代大和のフトマニ思想からきていたことからして明らかです。実体の説明ができなければ概念の説明はできず、フトマニ言霊学は実体の説明をするものだからです。
上記の意見は異端で現在では受け入れられていないものですが、独自なものでしょうか。意見そのものとしてはわたしのは全て受け売りですからネタもとがあります。ではネタもとはここで指摘された独自な見解、流通しない意見なのでしょうか。他の人には駄目と言って自分の場合にはよしとするのでしょうか。
痛みの話からどんどん逸れていくようです。痛みを伊丹というのは独自な通用しない見解ですが、イ・タ・と二語に分けてその語源を探ったこともそういえるでしょうか。理解の仕方、解釈の仕方で色々あることは当然ですので置いておき、その手順を見ていくなら、伊丹とイ・タ・とは根本的に違うことが分かると思います。
では歴史上の事物となっている易経は古代大和のフトマニの概念化であるとするのはどうなるでしょうか。陰陽とか、五行、五大、五天使とかの中国、インド、ユダヤ、キリスト教等のいう数理で示されているものは全て概念です。火水土金等、生命の水、御国、仏陀菩薩声聞とかも実体を示したものではありません。それぞれの国、それぞれの頭脳内で実体らしきものが当てはめられているだけです。
こんな例えもあります。世界ではいろんな神様の名前がありますが、全て何かを象徴したり暗示したりなんらかの意味が込められていたり、単なる適当に付けられた名前であったりします。何々の意味であると指示はするけれど、指し示したものの実体はないのが普通です。あるいは実体に付けられた名前と言っても実体そのものではなく象徴になっています。
唯一の例外は古事記の神様の名前です。名前がそのまま実体を示しています。象徴概念と取られていますが、その言葉通り実体へと降ろしていくと、名前と実体が同じものとなっているという、世界唯一の構造を持っています。
同様に、痛みも、痛みを受け取る感覚、その意識の動き通りの言葉を発見して配当していけば、痛みは痛みだと言う、言葉の説明がそのまま実体の説明になると言う不思議な、日本語の世界になるでしょう。
古事記の研究はもちろん現在では学者たちの見解が主流で、学校教育も、あっ、学校では教えていないか、、、、、、。
やめた。
古事記から出てこないで、『独自』からこんばんわでした。
さて前回浮橋を通って痛みを得る過程を描きました。
頬を打たれて痛みを感じるといってもそれを表現するとなれば個々で違います。ではどのようにこの違いが出てくるのでしょうか。
平手で打たれたのか、投げ捨てタバコが当たったのか、抱いていた赤ちゃんに引っかかれたのか、目で状況を見ていればすぐ分かることもあります。頬の痛みは歯痛の反射であったり、目前の交通事故の凄まじさに頬が引きつった痛みとか等々はどのように意識されるのでしょうか。
たいていの場合はどんな場面でも痛いという言葉しか表現がないようです。子供に引っかかれても、叩かれても同じ表現です。
生理的な痛いを表現していても実際には無数の状況があります。
ではここから引き出される問題として、「痛い」という表現の内容はどこにあるかです。
痛覚受容器官の痛覚と脳髄を結ぶ神経系に痛みは実在していくわけですが、痛いと発声された痛いとはなんでしょうか。
戯言、衒学のように聞こえる方は自分の気に入っている言葉に置き換えてください。おいしいでも、いい気持ちでも、自分の考え自分の感じでも、何でもいいです。自分だ自分わたしだわたしのわたしでもいいです。
そうすると、感覚、記憶概念、感情、行為する智恵とかの、どれかを取り上げているときには、わたしはあるし、痛みもあるし、おいしい、いい気持ち等はあるのに、個々の場面を離れて、わたし、痛い、おいしい、いい気持ちとかいう場合には、何か非常に空虚な、相手にしているものが何もないことに気づきます。
子供に頬を叩かれてその時には痛い痛いといって頬は痛かったけれど、その事を翌日他人に話すときには生理的な痛みはなく単なる経験談となります。そこで痛い痛いといっても空虚なことばであることは本人に分かります。この時の痛みの内容はどこにあるのでしょうか。
この時は単に言葉として発音されているだけですが、人によっては経験を呼び覚まし、感情を喚起し痛みを共有することもあります。もちろん、あっ、そうなので終わることもあります。
これは自分で自分のことを言うときも同じで、自分といいながら時には非常に肌近く自分を感じ、時には空虚に自分を感じることがあります。
一つの言葉によってどうしてこの違いが出てくるのでしょうか。方や色即是空であり、方や色即是色です。
これは人の五次元の御柱の性能から出てくる事です。例えば痛いを現物即物としてしか理解しない人は、話を聞いても絵画を見ても痛みは呼び起こされないでしょう。自分の感じ思い考えた事からしか行為しない人にも、違った意見考えがある事など考慮の対象になりません。独自の考えを述べたり、学者などもそういった次元の人たちです。他の次元を見れないし自分の次元にいる限り弁慶です。
相変わらず話が飛んでいるようですが、
【 かれ二柱の神、天の浮橋(うきはし)に立たして、その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、こをろこをろに画き鳴(なら)して、引き上げたまひし時に、その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、これ淤能碁呂島(おのごろしま)なり。
その島に天降(あも)りまして、天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。】
を読み返すと、まんざらでもないでしょう。
おのれの心の島に立ち降りて、自分の心を打ち立てるというわけです。
おのれの島に、自分の天の御柱と八尋殿(やひろどの)しか見立てることはできないということになりそうです。先天的にこういった構造がある以上、自分と言うのはそこからしかでられないものとなりそうです。
ここまで来ると、今回のシリーズの始めに出てくる、わたしという存在について、わたしというのは本当はいるのかいないのかについて、考えるきっかけぐらいは出来たのじゃないかと思える。
わたしはなぜ存在するのか、教えてGoo ! から解答を引用すると、
存在という言葉自体についての解答、生物自然存在としての解答、過去現在未来という時間軸からの解答、疑問を持つことは人間的だとほめる解答、分からないから考えているという解答、魂という他者を持ち出しての解答、ご縁に依るという解答、存在論を持ちだして解答、過去生命からの解答、神の創造神へ成長していくという解答、質問のための質問だと言う解答、人のため神のためという解答、偶然だという解答、生きたいからという解答、存在は気のせいだという解答、などがありました。
これらの解答に共通していることは、わたしは居るという設定が当然のこととして承認されていることです。全ての解答は知識と記憶概念での違いでしかありません。誰もわたしはいない、わたしは虚であると言う人がいません。つまり知っていること知りうるだろうというところから、わたしが導きだされています。
こんなことを言えばわたしはアホなことを言ってると思われていることは明白です。残念ながらそういった同じ次元で土俵に立つことは両者の乖離を表明するだけです。禅坊主や芸術家、宗教家等は平気でわたしは存在しないということでしょう。彼らからすれば当然なことです。ではわたしはどうすればいいのでしょうか。どこかの次元に落ち着くか、それらを超えるか、、、さて、さて、、、、。
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