弥都波能売の神。古事記の言霊学による「はじめ」論
次に尿(ゆまり)に成りませる神の名は弥都波能売(みつはのめ)の神。
尿(ゆまり)とは五埋まりの謎です。
五十個の言霊の一つ一つを点検して、次に整えるための目安となる母音をどのように並べるか、となりますと、大祓祝詞や、古事記神話にありますように、「下津磐根に宮柱太敷樹て、高天原に千木高知りて……」とありますように、五つの母音の中の天位のア音は最上段に、地位のイ音は最下段に位置することとなります。
そうしますと、残りの母音オウエがその間に入る目処が立ちます。弥都波能売(みつはのめ)とは三つ葉の目の謎であり、オウエ三母音が位置する処の見当がついたことになります。弥都波能売を日本書紀では罔象目(みつはのめ)と書いています。罔(みつ)は網のことです。天のアと地のイの間に三つの母音オウエを入れますと、網の形(象)をした目の如くなる、と示しています。弥都波能売とは、五つの母音の中のオウエの三母音の位置の見当がついて、五つの母音の並びが網の目の如くなることが分ったという意味であります。
尿に成りませる神の名は弥都波能売の神。
尿とは「いうまり」即ち「五埋(いう)まり」という謎です。
五十の埴土を集めて、その一つ一つを点検して間違いがないのが分ったら、次に何をするか、というと先ず五つの母音を並べてみることでしょう。「五(い)埋まり」です。
その順序はといえば、アは天位に、イは地位に落ちつき、その天地の間にオウエの三音が入ります。オウエの三つの葉(言葉)の目が入りました。弥都波能売(みつはのめ)とはこれを示す謎です。日本書紀では罔象目と書いております。罔(みつ)は網(あみ)の事で、五母音を縦に並べてみますと罔(あみ)の象(かたち)の目のようになっているのが分ります。五十の埴土(はに)を並べて整理しようとして、先ず五つの母音を基準となるよう並べたのであります。
メモ--------------------
突然難しくなった感じです。
尿(ゆまり)とは五埋まりの謎です。
五十個の言霊の一つ一つを点検して、次に整えるための目安となる母音をどのように並べるか、となりますと、大祓祝詞や、古事記神話にありますように、
下津・下に行く、元祖創造意志イザナギイザナミの神の「イ」段に行く。
磐根に・五十葉音、いはね
宮柱・御屋(神の家)の自覚内容をあらわす五母音の柱
太・フトマニ活用原理
敷樹て・(磯城しき、五十城)五十個の言霊を土台として
高天原に・天津大祓祝詞
千木高知りて・活用して
とありますように、五つの母音の中の天位のア音は最上段に、地位のイ音は最下段に位置すること
言霊五十の内の母音をまず配列しようということです。原理原則を始めに立てることと思います。原則のまま走り出すと淡島、蛭子が産まれ失敗の元です。
高御産巣日の神 ア ----宗教政治---------→ ------------神産巣日の神 ワ
天の常立の神 オ ------経験知識---------→ ------------宇摩志阿斯訶備比古遅の神 ヲ
天の御中主の神 ウ-----感情欲望---------→ ------------天の御中主の神 ウ
国の常立の神 エ ------実践選択---------→ ------------豊雲野の神 ヱ
伊耶那岐神 イ --------創造意志---------→ ------------伊耶那美神 ヰ
「はじめ」とは何かにとってこの段はどういうことになるか。
「はじめ」という言葉は既に与えられているけど生命原理のどの段階で言っているのか分からない。
Beethovenのダダダダーンの興奮した魂の始まりなのか、腹を満たす始まりか、言霊学の勉強のはじまりなのか、政策選択のはじまりなのか、初発心時便成正覚でいうはじまりか、各次元が違う。
腹を満たすはじまりには、他人は出てこないで自分のことだけ、情緒の高揚なんて関係ない、知識があっても腹は膨れない、愛の教えを説こうなんて何それ、ということになる。
ということで人間生命は五段階ある。五母音の原則、五母音(い)の道、いのち、命。
この段では象徴的に、お-う-えの弥都波能売(みつはのめ)三つ言葉の目になっています。どうして五(い)の道のように五つにしなかったのでしょうか。
弥都波・みつは、三つの葉、三つの言霊
能売・のめ、(呑める、飲める、のめりこむ、ののめと取り)中に入る、はまり込む
全体で弥都波三言霊が中に入り込む
五母音の内上下にアイが来ていますが、ここでは取り敢えず 尿(ゆまり)とは五埋まりで上下と中間三つにしておきます。
そこで「はじめ」の上下アイはどうなる。
アをBeethovenのダダダダーンにすると、それに魂を揺すられた人だけの問題になり、伊耶那岐神 (イ )の創造意志ではないので、残りウオエとなる。
何か問題が提出された場合のその所在を五次元のどこにあるかを見分けるとしておきます。
続いて
和久産巣日の神。
弥都波能売の神。
尿に成りませる神の名は弥都波能売の神。
尿とは「いうまり」即ち「五埋(いう)まり」という謎です。
五十の埴土を集めて、その一つ一つを点検して間違いがないのが分ったら、次に何をするか、というと先ず五つの母音を並べてみることでしょう。
「五(い)埋まり」です。
その順序はといえば、アは天位に、イは地位に落ちつき、その天地の間にオウエの三音が入ります。
オウエの三つの葉(言葉)の目が入りました。弥都波能売(みつはのめ)とはこれを示す謎です。
日本書紀では罔象目と書いております。罔(みつ)は網(あみ)の事で、五母音を縦に並べてみますと罔(あみ)の象(かたち)の目のようになっているのが分ります。
五十の埴土(はに)を並べて整理しようとして、先ず五つの母音を基準となるよう並べたのであります。
弥都波能売の神。古事記の言霊学による「はじめ」論
次に尿(ゆまり)に成りませる神の名は弥都波能売(みつはのめ)の神。
尿(ゆまり)とは五埋まりの謎です。
五十個の言霊の一つ一つを点検して、次に整えるための目安となる母音をどのように並べるか、となりますと、大祓祝詞や、古事記神話にありますように、「下津磐根に宮柱太敷樹て、高天原に千木高知りて……」とありますように、五つの母音の中の天位のア音は最上段に、地位のイ音は最下段に位置することとなります。
そうしますと、残りの母音オウエがその間に入る目処が立ちます。弥都波能売(みつはのめ)とは三つ葉の目の謎であり、オウエ三母音が位置する処の見当がついたことになります。弥都波能売を日本書紀では罔象目(みつはのめ)と書いています。罔(みつ)は網のことです。天のアと地のイの間に三つの母音オウエを入れますと、網の形(象)をした目の如くなる、と示しています。弥都波能売とは、五つの母音の中のオウエの三母音の位置の見当がついて、五つの母音の並びが網の目の如くなることが分ったという意味であります。
尿に成りませる神の名は弥都波能売の神。
尿とは「いうまり」即ち「五埋(いう)まり」という謎です。
五十の埴土を集めて、その一つ一つを点検して間違いがないのが分ったら、次に何をするか、というと先ず五つの母音を並べてみることでしょう。「五(い)埋まり」です。
その順序はといえば、アは天位に、イは地位に落ちつき、その天地の間にオウエの三音が入ります。オウエの三つの葉(言葉)の目が入りました。弥都波能売(みつはのめ)とはこれを示す謎です。日本書紀では罔象目と書いております。罔(みつ)は網(あみ)の事で、五母音を縦に並べてみますと罔(あみ)の象(かたち)の目のようになっているのが分ります。五十の埴土(はに)を並べて整理しようとして、先ず五つの母音を基準となるよう並べたのであります。
メモ--------------------
突然難しくなった感じです。
尿(ゆまり)とは五埋まりの謎です。
五十個の言霊の一つ一つを点検して、次に整えるための目安となる母音をどのように並べるか、となりますと、大祓祝詞や、古事記神話にありますように、
下津・下に行く、元祖創造意志イザナギイザナミの神の「イ」段に行く。
磐根に・五十葉音、いはね
宮柱・御屋(神の家)の自覚内容をあらわす五母音の柱
太・フトマニ活用原理
敷樹て・(磯城しき、五十城)五十個の言霊を土台として
高天原に・天津大祓祝詞
千木高知りて・活用して
とありますように、五つの母音の中の天位のア音は最上段に、地位のイ音は最下段に位置すること
言霊五十の内の母音をまず配列しようということです。原理原則を始めに立てることと思います。原則のまま走り出すと淡島、蛭子が産まれ失敗の元です。
高御産巣日の神 ア ----宗教政治---------→ ------------神産巣日の神 ワ
天の常立の神 オ ------経験知識---------→ ------------宇摩志阿斯訶備比古遅の神 ヲ
天の御中主の神 ウ-----感情欲望---------→ ------------天の御中主の神 ウ
国の常立の神 エ ------実践選択---------→ ------------豊雲野の神 ヱ
伊耶那岐神 イ --------創造意志---------→ ------------伊耶那美神 ヰ
「はじめ」とは何かにとってこの段はどういうことになるか。
「はじめ」という言葉は既に与えられているけど生命原理のどの段階で言っているのか分からない。
Beethovenのダダダダーンの興奮した魂の始まりなのか、腹を満たす始まりか、言霊学の勉強のはじまりなのか、政策選択のはじまりなのか、初発心時便成正覚でいうはじまりか、各次元が違う。
腹を満たすはじまりには、他人は出てこないで自分のことだけ、情緒の高揚なんて関係ない、知識があっても腹は膨れない、愛の教えを説こうなんて何それ、ということになる。
ということで人間生命は五段階ある。五母音の原則、五母音(い)の道、いのち、命。
この段では象徴的に、お-う-えの弥都波能売(みつはのめ)三つ言葉の目になっています。どうして五(い)の道のように五つにしなかったのでしょうか。
弥都波・みつは、三つの葉、三つの言霊
能売・のめ、(呑める、飲める、のめりこむ、ののめと取り)中に入る、はまり込む
全体で弥都波三言霊が中に入り込む
五母音の内上下にアイが来ていますが、ここでは取り敢えず 尿(ゆまり)とは五埋まりで上下と中間三つにしておきます。
そこで「はじめ」の上下アイはどうなる。
アをBeethovenのダダダダーンにすると、それに魂を揺すられた人だけの問題になり、伊耶那岐神 (イ )の創造意志ではないので、残りウオエとなる。
何か問題が提出された場合のその所在を五次元のどこにあるかを見分けるとしておきます。
続いて
和久産巣日の神。
弥都波能売の神。
尿に成りませる神の名は弥都波能売の神。
尿とは「いうまり」即ち「五埋(いう)まり」という謎です。
五十の埴土を集めて、その一つ一つを点検して間違いがないのが分ったら、次に何をするか、というと先ず五つの母音を並べてみることでしょう。
「五(い)埋まり」です。
その順序はといえば、アは天位に、イは地位に落ちつき、その天地の間にオウエの三音が入ります。
オウエの三つの葉(言葉)の目が入りました。弥都波能売(みつはのめ)とはこれを示す謎です。
日本書紀では罔象目と書いております。罔(みつ)は網(あみ)の事で、五母音を縦に並べてみますと罔(あみ)の象(かたち)の目のようになっているのが分ります。
五十の埴土(はに)を並べて整理しようとして、先ず五つの母音を基準となるよう並べたのであります。