精神元素「ア」の言霊と古事記。その2。
言霊アの次元からは、情感感情が、そして宗教、芸術活動が出てきます。アは自己を超えたものとの出会いにによって、その捉えどころの無いものを指しています。アーあれはなんだろうという神秘体験や不思議現象などもこのア次元から出て来るようです。そこで神秘とか不思議体験とかがどのようなものかちょっとだけ考えてみます。
あちこちでそういった話を聞きますので現在ではもう特別な体験と思われていないかもしれません。光を見たとかあるものが無かったとか、無いはずなのに有るとか、無いものを見、聞き、感じることは、多かれ少なかれ多くの人達が経験しているところです。あの世に行ってきたとか異境を彷徨った、御告げを聞いて自動的に文書が出来たとかいう大事は今のところおいておきます。日常の五感感覚を突つかれて得るちょっとした実体験についてみてみたい。
今日朝起きたとき股の内側がかゆくて掻いていました。かゆいなどうしたのかなごしごしとある程度時間をかけていたが、かゆみも無くなりもういいと思ったとき、掻いていたのは股の外側でした。実際に掻いていたのは確かに内腿だったのに、よしと思ってみると外股だったのを確認しました。寝ぼけといわれますが、内股を掻いていたというのも確かな感覚でした。
これに類した、(感覚上の実際の)感覚と現象として現れている実態の相違乖離は、五感のそれぞれで体験するところです。医学的にも心理的にも神秘学的にもいろいろと解釈はあるでしょう。寝ぼけだ幻想だ幻視だ幻聴だということもありますが、いずれもそういうことは有るということ以外なかなか相手を納得させられないようです。
そういったことを利用して、特技にしたり商売にしたり御祓いだとか恐怖を起こさせたりもしているようです。そこで言霊学からはどのように見るのか挑戦してみましょう。言霊も霊という字で表現されているのでいやだという人もいることでしょうが、それも取り敢えずは霊という表現しか出来ていないと思ってもらえればいいのではないでしょうか。ついでに、このブログの言霊は、言葉の霊魂、その手段の使い方というものではなく、精神元素、意識の構成要素となるものですので、全然おっかないものは無いですよ。
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まずよく似た夢似ついて見てみましょう。
夢とは先天が津島の段階に於てタトヨツテヤユエケメの十言霊の中の七番目の言霊ユと十番目の言霊メを結んで夢と名付けました。
津島・まだ言葉として表現されていない内は全く個人的な恣意であって人間社会に通じることのないものです 先天の活動が言葉の社会、即ち一般社会に出て行く船の発着場という意味で、先天の何か分らない働きが表現された言葉の世界へ出て行く港の意です。
まだ言葉として発せられていない、考えがまとまっていく段階です
意識では捕捉出来ない先天の意図が津島の段階で次第に一つのイメージにまとめられて行きます。
タトヨツテヤユエケメの十言霊
・意識では捕捉出来ない先天の意図・まず夢の先天部分が活動を起こします。頭脳なの出来事で、十年前の印象だったり、昨日の記憶だったり、希望だったりしますが、いずれにしろ経験的な出来事の記憶の蓄積から出てきます。しかし、それは何故かどうしてかそれを選んだ理由を見出すことは先天の出来事なので分かりません。多くは夢を見た後からの推測となるものです。
・大事忍男の神 タ ・まず夢の素となるものが潜在意識から頭脳をつついて出てきます。
・石土毘古の神 ト ・それは何らかの経験に収まっていたものですから、その経験を支えていた構造と同じです。言霊タのインパクトが持続しているならそれは自らを主張しようと正規の経過を踏まえようとします。その一つは主体側の踏まえ出て行こうとする動きで、
・石巣比売の神 ヨ ・もう一つは、客体側の踏まえ受けようとする動きです。
・大戸日別の神 ツ ・この受けようとする段階、次元、程度、時処等の選択決定は先天部分に由来しますが、トが持続するなら、どれかの場面に近づいて行きます。
・天の吹男の神 テ ・ここでいずれかの場面が選択されます。昨日のことか、神のことか、光のことか、ご飯のことか、あの人のことか、とにかく過去の記憶全体が相手ですので大容量の前に手の出しようもなくフーと息を付くのではないでしょうか。
・大屋毘古の神 ヤ ・先天の意志が続くなら選択された働きによって次第に一つの建造物の如くイメージにまとまって行くことでしょう。例え夢のなかでもそれは、経験を支えていた構造の中から出てきたものですから、時間空間関連の脈絡とそれらの内容意味を引き連れています。
・風木津別の忍男の神 ユ ・大容量の過去の記憶は突つかれ、それが湯が湧き出すように現われてきます。
・大綿津見の神 エ ・しかしそれは心中の綿のようなイメージで頭の中で形を持っていません。言葉になるか絵になるか音になるか現象となる形が呼び寄せられます。
・速秋津日子の神 ケ ・そして選択が行われ、そのイメージがまとまり集約されて言語、映像等と結び付く直前の処まできます。
・妹速秋津比売の神 メ ・そしてここで綿のようなイメージは集約され形を持てる芽となります。けれど津島の終る段階でもまだ言葉、映像等が結ばれていません。
その言葉を結び付ける作業(これを佐渡の島と言いますが)が津島の十音の作業の何処ら辺までを捉えているか、によって夢は正夢、逆夢、その他いろいろな夢の姿が変わって来ることになります。
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内股が常にかゆい感覚にあったが外側を掻いていたのは、かゆいというイメージの集約された形を持っていたが、行動と結ばれていなかった例です。ケの例。?
これは夢ではなく会社へ行く途中のことです。メトロの地下駅で霧雨にあいました。「やばい、雨が降ってきた、濡れるぞ」と思いましたが、地下で雨が降るはずがありません。幻視でした。ケの例。?
昔はひよこのように上下に屋根まで飛ぶのを繰り返した夢を何十回となく見ました。トの例。?
モーツァルトは映画の中では遊びながら、食事をしながら作曲をしていますが、実際には既に作曲済みです。どこにかというと頭の中では一瞬、一秒か二秒の中で、演奏をすれば十分二十分かかる曲が既に鳴り終わっています。後はそれを書き写すだけの作業です。廻りから見れば作曲しているように見えますが、書き写しているだけですので、簡単な作業です。楽譜にはほとんど修正の後が無いといいます。タ、トの全体が一挙に出て来る例。?
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今回の項目、うまく行かないので、中止。あめつちのア。言霊ア高御産巣日の神。
当面の資料は、 「 天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。次に高御産巣日(たかみむすび)の神。次に神産巣日(かみむすび)の神。この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき」、という一文と古事記は言霊の教科書、心とは何かを解明した原理書ということで、自分の心を相手にしていくことになる。
ところで言霊アは高御産巣日の神に配当されている。高御産巣日き神が言霊アであることは、古事記には記載されていません。これは明治天皇か御賢所にあるのを発見して以来、高御産巣日の神は言霊アであるということになっています。
これはわれわれにとっては知ることはできないことで、物理的に公証されることも期待できません。ごく少数の方々の証言があるだけです。
それでも、そんな有るか無いか判らないものを基準として古事記を読んでいくのは無茶苦茶であるという意見を受け入れ、且つ、古事記は言霊学の教科書であり人間の心を解明した世界でただ一つの秘宝書物であるという、その正当性を保証する道があります。
神代の巻に出てくるのはあいうえお五十神と整理運用法五十神で、ちょうど百神ですが、その神々の御名を解明していくと五十音の一つ一つに該当するということです。そのあいうえお五十音と神名の一致を保証するのが、各個人の心の中にあるということです。つまり、わたしの心、あなたの心がそれを明らかにするだろうということです。
学校で習う歴史知識とは違って、あいうえおの五十神への配当は五千年の歴史はあるということですので、同時にそのことも各人の心によって明かされることになるでしょう。そうなればわたしも賢明な古代の日本人に育てられていることが分かるでしょう。
しかし、ことは簡単ではありません。天地の初発の時を書き始めてから何日経ったことでしょう。何にも進歩していないのは一目瞭然です。 でもやってみましょう。
あめつちのア。言霊ア高御産巣日の神。
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アメツチのア。高御産巣日の神。言霊ア。
アを読み聞き書き見る等の行為によって知覚するとき、そこにアを介在させる物理的な紙、画面、耳の鼓膜、視覚とかがある。
アはそれらが人間、私にまで運ばれてきた時に始めてアと認知できる。
本には天地と印刷されていて私はアと読んで続けてア・メツチと繋げていく。
ここで黙読に要した時間は一まばたきもかからなかっただろう。
あちらに在るアが私に渡されるまでは、わたしはアを知らない。
「天地の初発の時」と書いておこう。わたしは、アメツチ、と読む。
上に書かれたアは天地の初発の時の天地に含まれるアです。あるいは天に含まれているアかもしれない。
安万侶さんは天地と書いて普通の天地を思わせておきながら、何か別のことをを暗示しようとしたのかもしれない。天という漢字覚えたばかりの小学生はテンが読めたと喜ぶかもしれない。哲学好きの青年はテンとはと考え出し、天文知識自慢な人は137億年前に ビッグバンがと言い出し、アメ-雨-飴-編め-と連想ゲームを楽しむ人もいるかもしれない。
書いた本人安万侶の意図は伝わらなくとも読み手聞き手は自由にアを解していく。アから始まる思いや解は自由だとしても、元々の意図がある。意図を隠すことも自由勝手に解くこともアに共通性があるために可能となる。それが言霊アである。
古事記は先人の誤りを正すために皇紀を正しく記録し直し、ついでにスメラミコトとは何で何をする人か、何を知っていなくてはならない人物か、その知っているべきものはどのように扱われるべきものかを、どのような仕事をする者がスメラミコトと呼ばれるのかを、神代の形を借りて解きあかしたものです。
上巻を神話と言いますが、間違いを正すために、もともと分けの分からない根拠によって神話なぞ創り出すわけはない。いい大人がそんなことをするわけもないし、古代人のおおらかと言って現代人の萎縮を見せる必要もない。これは作者の力量の現れで、真の意図は隠して神話としても通じるように、それを読み解くことによって真の意図も浮上してくるように、後々のスメラミコトの為に書かれている。
皇紀の正しさは検証されれば済むことだが、上巻がスメラミコトのための言霊の教科書であり、言霊とは何か、それによって出来た日本語とは何か、なぜ言葉が発生し、何故物に名前がついていてそれが話し合いで行き来できるのか、そもそも考えるとはどうして何故可能なのか、等は検証の対象は各人の頭脳内、意識内、思惟の中にあるので各人が自分の中をかき回し覗きこまないとできない。(二柱のかみ天の浮橋に立たしてその沼矛を指し下ろして?きたまえば、塩こをろこをろに?き鳴らして)
真の意図とその周りを巡り廻ることができるのは、アという言葉に全ての日本語を話す人に共通の種が与えているからです。それが言霊アであり、安万侶さんの書いたところによれば高御産巣日神と暗示呪示されたものです。それは各人が実際に?き鳴らさないと現象化してきません。(鳴らして、、言霊の教科書に相応しく言葉の発音を鳴るとしているばかりでなく、天地の初発の時高天原に成りませるの成りも、言葉の発音である鳴りと解すべきものです。
まずは初めのアから始めていますが、言霊アだけが解明の鍵を提供しているのではなく、あいうえお五十音の全部のどれでもが解明の種となっている。それは文字を二つ三つを繋げて単語を造り言葉の魂を見ていくことでは不可能です。
ではここからは言霊アは高御産巣日の神と暗示呪示されているので、それに従って行こう。
このことは当然従来の解釈も高御産巣日の神の周りを廻っているのだから、合理的で正しいにしろ誤っているにしろその神名から来る解釈として理解を可能にしている。
アメツチのア。高御産巣日の神。言霊ア。
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2。高御産巣日の神(たかみむすび)、次に
3。神産巣日(かみむすび)の神。
言霊ア。ワ。広い何もない宇宙に何かが起る兆しとも謂うべき動きが始まりました。言霊ウです。次に人間のこれは何か、の思考が加わりますと、たちまち言霊ウの宇宙が剖判して言霊アと言霊ワの宇宙に分かれます。宇宙の剖判です。
高御産巣日(たかみむすび)の神。神産巣日(かみむすぴ)の神。
言霊ア、ワ。広い宇宙の一点に何か分からないが、ある事の始まりの兆しとも呼ぶべきものが生れます。それに対し太安万侶は天の御中主の神という神名を付けました。言霊ウです。次にそれが何であるか、の問いかけが人の心に生じる途端に、言霊ウの宇宙は言霊アとワの両宇宙に分かれました。安万呂はその両宇宙に高御産巣日の神、神産巣日の神の名を付しました。言霊ウの宇宙が言霊アとワの両宇宙に分かれる事は、意識の対象として、即ち現象として捉え得る事ではありません。飽くまで心の中の実在の活動であり、意識によってではなく人の内観・直観によってのみ捉える事が出来る事でありますので、これを宇宙剖判と申します。剖判の剖は「分れる」であり、判は「分る」です。分れるから分る、分かれなければ分らない。分るとはこういう事であり、それが同じであることを言葉が示しています。日本語の妙であります。
上の言霊ウの宇宙が剖判して言霊アとワ、即ち主体と客体、私と貴方、始めと終り……の両極が生じて来る消息を一つの実験によって逆に証明出来る事を説明しました。人は自分に対するものを見聞きした時、自らの存在、即ち自我を意識します。その現象は言霊ウの宇宙から言霊アとワの宇宙が剖判した事の一つの説明になります。それとは逆に、自我を意識している自分から、その自分に対立して存在するものが(仰向けになって見る雲一つない空が対立する雲がない事によって)なくなることによって、自意識が次第に消えて行ってしまう実験でありました。自意識が消えてしまうと、仰いで見入っていた空が自分を呑み込んでしまったのか、自分が空になってしまったのか、全く何だか分らない状態、即ち「天地の初発の時」の言霊ウになってしまう実験であります。それは言霊ウから言霊アとワが剖判する消息を、逆に言霊アとワとの対立から、対立が消えて初めの対立のない、禅でいう一枚の言霊ウに戻って行く事で証明する実験という事が出来ます。
言霊アとワの指月の指として太安万侶は高御産巣日の神、神産巣日の神という神名を当てました。高御産巣日は主体であり、神産巣日は客体です。二神の名を片仮名で書くと「タカミムスビ」「カミムスビ」となり、主体を示す高御産巣日の頭に「タ」の一字が多い事だけの違いという事に気付きます。とすると「タ」の一音によって高御産巣日は主体を意味する事となります。
高御産巣日のタを除いたカミムスビから検討しましょう。カミは「噛み」です。産巣は産む、生じる事、日は言霊特にその中の子音を指します。カミの噛みは二つのものが出会う事で、心理学的に言えば感応同交という意。そこでカミムスビ全部で(主体と客体が)感応同交して言霊子音を生む、となります。では高御産巣日の冠に付く「タ」とは何を意味するのでしょうか。音声学という学問ではアイウエオ五十音表のタ行のタチツテトの五音はすべて陽性・積極性を意味する音とされています。日本の九州地方に伝わる剣道に示源流という流派がありますが、この剣法は剣を持って人と向かい合うと、剣を八双に立てて構え、そのまま敵に突進し、近づくと剣を上段に挙げ、気合諸共剣を敵の真向から斬り下げます。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」と自分の肉を斬らせて敵の骨を断つという玉砕剣法ですが、この剣を振り下ろす時の掛声がタ行の音「チェストー」です。以上の事で分りますように、「タ」とは積極・主体性を表わします。
何もない心の宇宙に初めて言霊ウが生れ、それが剖判して言霊ア(高御産巣日の神)と言霊ワ(神産巣日の神)が生れて来ますが、このアとワは一方は積極性の我であり、主体であり、片方は消極的な客体であり、貴方であることがお分かり頂ける事と思います。この私と貴方、主体と客体が感応同交をすることによって何かの出来事が生れます。現象が起ります。即ち現象である子音が創生されることとなりますが、この主体と客体の感応同交に於てイニシアチブを取るのは飽くまでも主体アであり、客体ワは主体アの問い掛けに答えるだけであります。
初め心の宇宙から言霊ウが芽生え、それが剖判して言霊アとワの宇宙に分かれます。そしてその言霊ア(主体)と言霊ワ(客体)の感応同交によって人間に関する一切の出来事(現象)が生れ出て来ます。人間の一切の行為の元はこの言霊ウ、アワの三言霊から始まります。これが人間の心の重要な法則でありますので、言霊ウ・ア・ワ即ち天の御中主の神、高御産巣日の神、神産巣日の神の三神を造化三神と呼ぶのであります。
広い何もない心の宇宙に初めて生れ、動き、蠢き出すもの、即ち言霊ウはやがて人間の自我意識に発展し、欲望性能が現れ、社会の中の産業・経済活動となって行きます。そのウの宇宙が剖判して出来た言霊ア(ワ)の宇宙からは人間の感情性能が発現し、その性能はやがて社会の中で宗教・芸術活動となって行くものです。
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朝、パッと目が覚めたら周りに変なものが散らばっていた。パッと見たその瞬間はそれが何であるか分らない。ですが何かあると言う事は分る、それ以外は分らない。という時に天の御中主の神。パッと見た瞬間に何かあるなという意識、それを言霊の学問は言霊ウと名付けた。
これ以外のものは有り得ない、何か有る、「こんにちは」と声かけられた、次に誰だろうという意識が自分と相手に分かれる、自分は高御産巣日の神、相手は神産巣日の神に宇宙剖判したと申します。この分かれる力は何処から出ているのかというとウオアエイという一番上にあるイという宇宙にある八つの父韻が働いてウからアとワの宇宙に分ける。
でも、ここでも何も起こりません。「こんにちは」から次に何を話し合って行くのかがオやエに分かれる。人間の行動は八つの父韻が働いて何をすべきか、どうすべきかを決めて行く。その言葉を創りだして行く根本になるのが五つの母音と八つの父韻ということが出来ます。
こうしますと一時半に始まって丁度一時間経って「もう少ししたらお茶の時間だ、休憩には菓子は出るかな」などと人間の頭の中でのことですから現象には現われないでしょうが、頭の構造の中では次から次と父韻と母音が働いていて色んなことを頭の中に描かされる、描いているということは既に頭に印画し、言葉にしているわけです。
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精神元素「ア」の言霊と古事記。その1。
●0)古事記神代の巻冒頭百神によって与えられた「ア」の神名・
高御産巣日の神(たかみむすび)。 言霊ア
・神名の解。
大いなる隠れた全体(た)を噛み(かみ)そして結ぶ(むすび)、そういう実体としての神
・神名全体の意味。
高いところから見下ろせば、全体から見れば、上の次元から見れば(高見)全てははっきり了解出来る(むすぶ)、またそういう言霊の体系(田)を噛み砕いて(かみ)組み結んで(むす)言葉の魂(び)を明らかにする。
・言霊「ア」の意味。
言霊アは言霊ウから剖判してア・ワになる主体側のアとなる。
美しく思う心や幸福と感じる心、人間の感情の現象が現れて来る元の宇宙、言霊ア。
「阿字本不生(あじほんふしょう)」とは「アという言葉はもともと生まれないよ」っていう意味なんです。「生まれない」っていうんですから、「人間が生まれる前からあるんだよ」っていう意味です。「宇宙があるかぎり、いつでもある。消えることはない。それがアだよ」っていうんです。
どういうことかといいますと、宇宙そのものを自覚した心を「ア」というんです。だから、自分の五感意識ではとらえることができないことを自覚すると「アーッ」って言いますね。
言葉では言い尽くせないことを体験するときは、かならず人間は「アーッ」と言います。
言霊アは感情の次元です。世界人類の文明を創造して行くのに感情を以てしては、物事を取り扱う点で直情的になり、自由奔放ではありますが、人間の五段階の性能によって製産されるそれぞれの文化を総合して世界文明を創造して行くには適当ではありません。宗教観や芸術観で諸文化を総合し、世界文明を創造することは単純すぎてア次元以外の文化を取扱う為の説得力に欠けます。そこで「上つ瀬は瀬速し」となります。
蛭子を載せた葦船のア。(現象を起こさせる力動因の不在、感情感覚だけで、崇高世俗を問わず神秘的感情だけを押し出すこと、等々。)
●あ 【▼吾/▽我】(代)
〔上代語。中古以降は「わ」が用いられた〕一人称の人代名詞。わたし。あれ。われ。わたくし。
あとわの両方が使われている。
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もう昔のことですので古代の大和の人達はどう使用していたのか分かりませんが、一人称、あとわ、吾(あ)と我(あ)について少しだけ考えてみます。
『ここにその妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、「(吾)が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」とまをしたまひき。ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「(我)が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。故(かれ)この(て、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、』
アが世界語というのはよく聞きます。アーメン、アッラー、阿弥陀等、尊び自己を超えた崇高な対象の頭に来る音となっています。これらあの崇高音はこちらから問いかけたときだけ応答をする構造をもっています。疑問を投げかけ助けを求め指針を確かめたいとき、全てそれらの言葉を発した範囲内でしか答えはありません。宗教の教えの特徴ともなっています。幻覚幻想による導き等もそれを受けた人が理解出来る範囲にかぎられています。つまり最初から全く新しいことは生じてこないということです。
自分の五感意識ではとらえることができないことを自覚すると「アーッ」って言いますね。言葉では言い尽くせないことを体験するときは、かならず人間は「アーッ」と言います。その瞬間には人は判断辞を持っていないのです。
本能欲望と結び着いていても本能欲望をどうこうしようということも無く、知識経験があってもそれらをこえているからアーッが出たのだし、アーッの対象を相手に何かしてやろうとは到底思えない。
母音を発声してみると分かりますが、アならアを発声すると、息の続く限りアーとなります。また感情の体験を原初に戻すとそのインパクトは忘れるまで同じ感じをつづけます。宗教家なり誰でもなりがする神秘体験の始めも弱まるとか消えるとかするまで同じことの続きです。激情であるか奔放であるかいろいろでしょうが、それらアの感情に身を据えてことを起こすには忙し過ぎ、直ぐに過ぎ去り留めておくのはとても難しいことです。これは「(吾)が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」に相当します。
一方、「(我)が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。」は子音の発声で分かる通り、頭のイニシャルTKMHRNYSに続く母音が成り余れるところというわけです。
ここの文章は「(吾)が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎ」となっていますから母音で母音を刺し塞ぐことになります。しかし母音には動きがありませんから、父韻の手助けが必要です。
それはどういうことになるかというと、
チ。アは経験感情の相手が直接出現します。
キ。それが何であるか知ろうとしても知るということを超えています。
ミ。しかし自分の中に拡がり、どこか着地出来るところを見つけようとします。
ヒ。経験を超えているのでそれを説明する言葉は持っていません。
リ。したがって、アの直接全体がそのまま続きます。
ニ。感じる限り思い出す限りアとなるしかありません。
イ。その全体性が保持されます。
シ。そのままアが保存され時の流れのままになります。
となって、刺し塞ぎ突き当たったところがワというわけです。
人は先天と後天の二つから成っています。アも同様で、発声するアがあり発声されたアがあります。
先天部は母音部と父韻部からなります。上記のワにまで到達するには父韻を通過する必要があります。
ここで父韻を通過した(通過する)アが我となり、それ以外が吾となります。これは他の母音と半母音にも同じことです。
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精神元素「ア」の言霊と古事記。その2。
言霊アの次元からは、情感感情が、そして宗教、芸術活動が出てきます。アは自己を超えたものとの出会いにによって、その捉えどころの無いものを指しています。アーあれはなんだろうという神秘体験や不思議現象などもこのア次元から出て来るようです。そこで神秘とか不思議体験とかがどのようなものかちょっとだけ考えてみます。
あちこちでそういった話を聞きますので現在ではもう特別な体験と思われていないかもしれません。光を見たとかあるものが無かったとか、無いはずなのに有るとか、無いものを見、聞き、感じることは、多かれ少なかれ多くの人達が経験しているところです。あの世に行ってきたとか異境を彷徨った、御告げを聞いて自動的に文書が出来たとかいう大事は今のところおいておきます。日常の五感感覚を突つかれて得るちょっとした実体験についてみてみたい。
今日朝起きたとき股の内側がかゆくて掻いていました。かゆいなどうしたのかなごしごしとある程度時間をかけていたが、かゆみも無くなりもういいと思ったとき、掻いていたのは股の外側でした。実際に掻いていたのは確かに内腿だったのに、よしと思ってみると外股だったのを確認しました。寝ぼけといわれますが、内股を掻いていたというのも確かな感覚でした。
これに類した、(感覚上の実際の)感覚と現象として現れている実態の相違乖離は、五感のそれぞれで体験するところです。医学的にも心理的にも神秘学的にもいろいろと解釈はあるでしょう。寝ぼけだ幻想だ幻視だ幻聴だということもありますが、いずれもそういうことは有るということ以外なかなか相手を納得させられないようです。
そういったことを利用して、特技にしたり商売にしたり御祓いだとか恐怖を起こさせたりもしているようです。そこで言霊学からはどのように見るのか挑戦してみましょう。言霊も霊という字で表現されているのでいやだという人もいることでしょうが、それも取り敢えずは霊という表現しか出来ていないと思ってもらえればいいのではないでしょうか。ついでに、このブログの言霊は、言葉の霊魂、その手段の使い方というものではなく、精神元素、意識の構成要素となるものですので、全然おっかないものは無いですよ。
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まずよく似た夢似ついて見てみましょう。
夢とは先天が津島の段階に於てタトヨツテヤユエケメの十言霊の中の七番目の言霊ユと十番目の言霊メを結んで夢と名付けました。
津島・まだ言葉として表現されていない内は全く個人的な恣意であって人間社会に通じることのないものです 先天の活動が言葉の社会、即ち一般社会に出て行く船の発着場という意味で、先天の何か分らない働きが表現された言葉の世界へ出て行く港の意です。
まだ言葉として発せられていない、考えがまとまっていく段階です
意識では捕捉出来ない先天の意図が津島の段階で次第に一つのイメージにまとめられて行きます。
タトヨツテヤユエケメの十言霊
・意識では捕捉出来ない先天の意図・まず夢の先天部分が活動を起こします。頭脳なの出来事で、十年前の印象だったり、昨日の記憶だったり、希望だったりしますが、いずれにしろ経験的な出来事の記憶の蓄積から出てきます。しかし、それは何故かどうしてかそれを選んだ理由を見出すことは先天の出来事なので分かりません。多くは夢を見た後からの推測となるものです。
・大事忍男の神 タ ・まず夢の素となるものが潜在意識から頭脳をつついて出てきます。
・石土毘古の神 ト ・それは何らかの経験に収まっていたものですから、その経験を支えていた構造と同じです。言霊タのインパクトが持続しているならそれは自らを主張しようと正規の経過を踏まえようとします。その一つは主体側の踏まえ出て行こうとする動きで、
・石巣比売の神 ヨ ・もう一つは、客体側の踏まえ受けようとする動きです。
・大戸日別の神 ツ ・この受けようとする段階、次元、程度、時処等の選択決定は先天部分に由来しますが、トが持続するなら、どれかの場面に近づいて行きます。
・天の吹男の神 テ ・ここでいずれかの場面が選択されます。昨日のことか、神のことか、光のことか、ご飯のことか、あの人のことか、とにかく過去の記憶全体が相手ですので大容量の前に手の出しようもなくフーと息を付くのではないでしょうか。
・大屋毘古の神 ヤ ・先天の意志が続くなら選択された働きによって次第に一つの建造物の如くイメージにまとまって行くことでしょう。例え夢のなかでもそれは、経験を支えていた構造の中から出てきたものですから、時間空間関連の脈絡とそれらの内容意味を引き連れています。
・風木津別の忍男の神 ユ ・大容量の過去の記憶は突つかれ、それが湯が湧き出すように現われてきます。
・大綿津見の神 エ ・しかしそれは心中の綿のようなイメージで頭の中で形を持っていません。言葉になるか絵になるか音になるか現象となる形が呼び寄せられます。
・速秋津日子の神 ケ ・そして選択が行われ、そのイメージがまとまり集約されて言語、映像等と結び付く直前の処まできます。
・妹速秋津比売の神 メ ・そしてここで綿のようなイメージは集約され形を持てる芽となります。けれど津島の終る段階でもまだ言葉、映像等が結ばれていません。
その言葉を結び付ける作業(これを佐渡の島と言いますが)が津島の十音の作業の何処ら辺までを捉えているか、によって夢は正夢、逆夢、その他いろいろな夢の姿が変わって来ることになります。
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内股が常にかゆい感覚にあったが外側を掻いていたのは、かゆいというイメージの集約された形を持っていたが、行動と結ばれていなかった例です。ケの例。?
これは夢ではなく会社へ行く途中のことです。メトロの地下駅で霧雨にあいました。「やばい、雨が降ってきた、濡れるぞ」と思いましたが、地下で雨が降るはずがありません。幻視でした。ケの例。?
昔はひよこのように上下に屋根まで飛ぶのを繰り返した夢を何十回となく見ました。トの例。?
モーツァルトは映画の中では遊びながら、食事をしながら作曲をしていますが、実際には既に作曲済みです。どこにかというと頭の中では一瞬、一秒か二秒の中で、演奏をすれば十分二十分かかる曲が既に鳴り終わっています。後はそれを書き写すだけの作業です。廻りから見れば作曲しているように見えますが、書き写しているだけですので、簡単な作業です。楽譜にはほとんど修正の後が無いといいます。タ、トの全体が一挙に出て来る例。?
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今回の項目、うまく行かないので、中止。
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わたしの働きかける意識。言霊ア。高御産巣日(たかみむすび)の神。
1-意訳
■
≪わたしの意識、働きかける心の内側を見た心と、(高御産巣日(たかみむすび)の神)
(神産巣日(かみむすび)の神) 相手の対象、主体の働きかけに答えるだけの心に分かれます。≫
2-古事記
●
『高御産巣日(たかみむすび)の神』 【言霊ア】
3-テーマ
分かれるから分かるという、この人間の大恩寵、大恩恵。
人間に課せられた大宿命。
4-言葉解説・指し月の指
カミは「噛み」です。産巣は産む、生じる事、日は言霊特にその中の子音を指します。カミの噛みは二つのものが出会う事で、心理学的に言えば感応同交という意。
そこでカミムスビ全部で(主体と客体が)感応同交して言霊子音を生む、となります。
では高御産巣日の冠に付く「タ」とは何を意味するのでしょうか。音声学という学問ではアイウエオ五十音表のタ行のタチツテトの五音はすべて陽性・積極性を意味する音とされています。日本の九州地方に伝わる剣道に示源流という流派がありますが、この剣法は剣を持って人と向かい合うと、剣を八双に立てて構え、そのまま敵に突進し、近づくと剣を上段に挙げ、気合諸共剣を敵の真向から斬り下げます。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」と自分の肉を斬らせて敵の骨を断つという玉砕剣法ですが、この剣を振り下ろす時の掛声がタ行の音「チェストー」です。以上の事で分りますように、「タ」とは積極・主体性を表わします。
5- 省略部
6- 解説△○□
7- 凡例
始まりの直前の意識は【う】である。
一二三をひふみ、、、と勘定します。ひふみはいろいろな漢字を該当させて意味を持たそうとしていますが、意味を与えることが問題ではなく、意識の次元でひ、ふ、み、、、、と並び、ひが始めに来て、ふが二番目に来て、、、という意識内の必然性を探すことです。
始まる直前の意識はウですが、それが現れるとヒに成ることを意識内に証明していくことが要求されます。
そうするとここにすぐ余計な考えが出てきます。
古事記は、御中主【言霊ウ】、高御産巣日【言霊ア】、神産巣日【言霊ワ】、、、とつづき、
ところが、勘定は、ひ、ふ、み(一二三)、、、です。
この両者の相違を考慮すると、ひふみが一二三、、、になるのはヒが一を現し、フが二を現すという風に見えますが、そうはいかないように思えます。前に書いた七、八の語源ではうまくいったようにおもえましたが、今回「ひ」が「一」であることがうまくでてきません。
ひは霊で、日で、火で、となっていきますが、日がでて一日の始めにはなりますが、始めの一には成りません。そこで「ひふみ」の日文の石上神宮をちょっと調べたら、日本書紀には伊勢神宮とここしか記述がないということですので、伊勢神宮は古事記冒頭百神の前半五十の言霊原理神を斎立て、石上神宮は後半五十の言霊運用神を斎立てたことになります。
ということは、「ひふみ祓詞」・「ひふみ神言」は意識の運用法を述べたものになります。
意識の運用法ならば、ひが一、ふが二という語源解明とはまた別の話になっていきます。
この布瑠の言(ふるのこと)とは、死者蘇生の言霊といわれているらしいけれど、死者蘇生の実例が目に入りません。死者とは死んだ人のことをいうのではなく、頭脳内にあってまだ現象して来ない先天の意識、あるいは、過去の概念意識を言うことが分かります。その意識の運用法が、ひとふたみよいつむななやここのたり、であることを示しています。
数を直接示したものではなく、意志の運用法の始めはこうで、次いでこうで、というのが一二三、、、になっていったのでしょう。
そこで読みと解ですが、幾つかの解が重層的に一文になっているようです。言霊学の知識が必要ですがそのままいきます。
ひふみよいむなやことたり。
ひふみよいむなや(一~八の)・・これで足りている→八父韻で足りている。
ひふみよいむなやこ(一~九)・・九において客体現象となって成りでて来る。→前後にゼロが省略されているが、九において事は足りている。
ひふみよいむなやこと(一~十)・・主体から客体へ十の過程を経て事は正式に足りている。→十拳剣をもって判断する。
いずれも八父韻の働きの区切りのとり方による判断法を数をもって示せるようになったもののようです。
(ひ)主体側の先天的な意図が、(ふ)ふっと吹きかけられて、(み)相手側対象の身に、(よ)依り付いて、(い)そこで主体の意志が、(む)結ばれて、(な)両者のまぐあいにより成り、(や)発生してきた、(こ)産出現象たる子は、(と)このようにして各十の戸を押し開けながら通ってまかり出てくる。
主体側の働きかけに客体側が答えて、両者の結果である現象がでてくることです。
この後の、「ふるべ ゆらゆらと ふるべ」は発生する単音を繰り返し、重相的に創造していけということになります。
そこで古事記に戻ってみると、石上神宮の「ひふみ祓詞」が、一~八をもって、八九十の取り扱いを重点としているようにみえ、古事記の伊勢神宮の方は始めの(ゼロ)一二三を重点的に扱っているようです。石上の運用法としては一二三と順を踏んでいくことが出来ますが、原理では、始まりの前、あるいは無、空、ゼロが導入されなくてはならないし、一から二へ行くのではなく、一が剖判、分裂して二つになる、というようになります。
そういうことならば、ウがヒになるとか、ヒが一だとかにこだわらなくてもよさそうです。
高御産巣日の神(タカミムスビノカミ)は天の御中主の神(アメノミナカヌシノカミ)が剖判して、神産巣日の神(カミムスビノカミ)の片割れとなったものです。
ここで注意してもらわなくてはならないのは、片割れ、陰陽、男女、±、裏表、等々のイメージから来る正と反の感覚意識です。
例えば、手を指して手の平と手の甲の二面をさしたり、紙の裏表などという別々の性格を持っているものを統一的に考えることではありません。自分が経過中、運動中にいる場合では、出発点は終点の始まりではなく、出発点でも終点でもない現時点にいます。
高御産巣日と神産巣日の関係はちょうどその現時点での関係と同じで、手の平を見て、裏側の甲を剖判の相手とするのではなく、手の平を見ている主体側と見られた客体側の同じ手の平との関係です。
紙の裏表ではなく、見ている主体の紙の表と見られている客体の紙の表のことです。主体は表をみる働きをして、客体の紙は表を見られる側になります。同じ表が、わたしは紙の表を見た、紙の表は見られた、こうして主体と客体に分かれた、だから、紙の表が分かったということになります。
その時点では紙の裏側は存在しません。その時点ででは裏はどうなるかというのは意識の先走りです。二つのことあるいはそれ以上のことがまとめて頭に登ってきてしまっています。
ではここをひふみのひで解くとどうなるでしょうか。
ひふみは完成された判断力が前提とされ、言霊五十音の配列の自覚の上に成り立っています。
手の平は、線が多いとか少ないとか猿のようだとか皮膚が柔らかいとかピカソの描くきちがいの手のようだとかいう、個別の規定判断を固執していくものとはなっていません。
手に関する1~十の「たり」ている判断です。た・かみむすびです。この足りている充足した自覚の基に考えが進行していきます。足りていることは全部知っていることとは違います。自覚があるということで、古代大和人は比較にならないほど今の人より知識量は少ないのです。しかし、1~十の「足らす」方法を知っているから、現代の人の鏡になれるのです。
ひは主体側の先天的な意図と書きましたが、古代大和の人はなんと言うでしょうか。
ここから先は誰も彼もがいい加減なことを述べるでしょうし、思いつきのオンパレードと成るでしょう。わたしもそのうちの一人です。恥ずかしい。止め。
8-注・・引用。
宇宙剖判
‘ウ’っていうのは何だろうって、次の瞬間に入ると「こんにちは」と、人間だろう、「誰だろう」というハッキリしない意識そのものが天の御中主の神(アメノミナカヌシノカミ)。どういうことになるのか、自分と相手に分かれる。
分かれた自分の方は高御産巣日の神(タカミムスビノカミ)と言い、相手は神産巣日の神(カミムスビノカミ)と言い、高御産巣日の神も宇宙、神産巣日の神も宇宙、宇宙と宇宙が、天の御中主の神という宇宙が「何かな」と思った瞬間に真っ二つに剖判する。
瞬間的に分かれるのを宇宙剖判と申します。どうして分かれるのか、というか、分かれる力は何処から出ているのか、これがアオウエイの一番上の‘イ’という宇宙の中にある八つの父韻。
分かれた瞬間にこれはどうなるのかを判断するにこの八つの父韻が回転して‘ウ’という宇宙を‘ア’と‘ワ’の宇宙に分ける働きをする。それで‘ア’という宇宙と‘ワ’という宇宙が相対することになる。
でも何も起こらない。宇宙は何もしてくれません。ただ分けたりだけの話しですから。それでもこの人とどんな話しをしたらいいのだろうかというと‘オ’という宇宙に分かれたり、‘エ’という宇宙に分かれたりしながら、ではこういう話し合いをしましょうということになる。
高御産巣日の神(ア) と 神産巣日の神(ワ)
アとワは吾と汝。読みはタカミムスビの神とカミムスビの神。
タは田。田噛産霊(タカミムスビ)と書き換えるとよく分かる。主体(言霊ア)の心の構造を表わす言霊五十音図は整然と縦横に仕切られていて、田圃の形をしている。
それに対して言霊ワである客体はあくまでも昨日の記事にあるように、主体の働きかけを待って答えるだけ。噛産霊(カミムスビ)であって田はない。
古語で噛は噛み合わす・交流する意味。産は生み・生産するの意。産霊(ムスビ)の霊は言霊特に現象の単位を表わす言霊三十二の子音である。
これらをまとめると「人間の心の主体と客体は、主体の働きかけによってお互いに交流して色々な現象を産んで行く」の意。
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わたしの働きかける意識。言霊ア。
言霊アを高御産巣日というな前を付けて、古事記は暗示説明をしています。
古事記は全然神の系譜を述べたものではなく、天皇の出所を記したものでもありません。
そのような体裁となっているのは、神武以前のスメラミコトの世界統治の偉大な成果の余韻があまりにも強力であったことが原因です。
すなわち、一切の問題がフトマニ言霊の原理によって解かれ施行されていったことによります。
人の命は短く統治者は代替わりをしていかなくてはなりません。世界の実践智恵による統治は頭の問題ですので、身体の血統が続くことは考慮されていません。
しかし、代替わりにはフトマニ言霊学を理解する者でなくてはスメラミコトになることはできません。
当然教育なり修練が行われますが、水にうたれたところで頭のほうが良くなる方向には向かいません。少なくとも今で言う悟りぐらいは悟っているのが最低必要条件で、知性理解力があるだけの問題ではありませんから、そう簡単に後継者が見つかるわけではないでしょう。
そうなると特殊な教育機関なり、環境が必要となり、その前身がスメラミコト集団として形成されたでしょう。それが後に世界歴史創造の方針転換と共に、家系創造と神道によるカモフラージュをかけ、後の世に託したということでしょう。
総ては古代のスメラミコトの手の内で動いていることになります。
古代において人間の精神原理が発見され「いたく歓喜して」という物の無かった時代から、物質条件の変化向上から産業経済思惟構造の変化を受けるようになってきました。その象徴がスサノオで物理条件の研究による欲望の充足を早急に打ち立てるように要求してきました。二三千年前のことです。
そこでスメラミコト集団が討議をして、今後の世界二千年のあり方を決めたのが岩戸き会議でした。
スメラミコトの会議でしたから、全人間精神の二千年に関わる方針が打ち立てられました。スサノオのように物質的とそれを担う知識的な条件だけを追求していくものではありませんが、それを全的に開花できる方策も与えられました。
こうして現代の精神、物質文明社会が出来てきました。物質欲望社会は不安定ですので、そのための世界宗教も用意されています。古代大和から世界に聖人たちが散らばって行き、社会の不安定さを支えるようにしてあります。
こうして繁栄する現代社会が予定通り二千年後に出現、宗教や神の存在も不用という条件もでてきました。しかし、この成り出来上がる直前というのは非常に危ない不安定な時ですので、ちょうど現代世界がそれに相当するところのようです。
といってもまだその芽が出始めたというところで、岩戸を解釈していけば、最初に言霊学の復活がありそれが成ったところです。
ついで、科学学識思想世界がフトマニ言霊学を受け入れ、そのことによって宗教精神世界が正当に解釈され直し、一般産業経済社会が十分に潤ったところで、全世界が同時に動きます。
現代はそういったことが起こる直前のようにおもえます。言霊【う】の御中主のわけの分からない混沌とした全体が動きそうなそういった、感じがします。
すると次には、高御産巣日【あ】と神産巣日【わ】に剖判していくわけですが、いまだ天照の判断規範たる鏡を誰も知らないので、思いつきだけがまかり通っていますが、世界政治の方向と希望は明るさに向かおうとしているようです。
統治実践は道徳的な智恵のある者でないとできませんが、世界を統治する役目を持っている日本にはどこにもそんな方は見えません。もちろん見えないからといって問題なのではなく、二千年の伝統を受け継いで隠れているだけのことでしょうし、インターネットの時代ですからかくれんぼの終りの時には一挙に広まるでしょうし、各自が自分を磨いていればいいだけのことですね。
それにしても高御産巣日【あ】の項目で何でこんな話になっていったのかもう忘れましたが、相変わらず【あ】似ついて何も説明がない。
事の始まりの直前の意識が【う】で、その剖判が【あ】と【わ】といわれても、???です。
「う」ーーーっと動くのか、「ウ」ーーーッと生むのか、「う」ーーーっとうずくまって、何か起こるのを待っていると、ついで、眼が開き火花がちりぱっと拡がる、なんだあれは、「あ」っっ、という意識が出てきて、「あ」っっと感じた相手が、「わ」っ分かった、となります。
何か分からないがそこにあるものに注意を寄せている心にあるものは、見たい、知りたい、何だろうという思いを解決したい欲望です。何かしらの関係を持つ始めにでてくるのが欲望ということになります。そこで欲望の世界を言霊【う】としました。そこで言霊ウの世界が広がり、欲望充足の活動になり、産業経済の社会になっていきます。直接間接に関わらず、何何したいやりたいほしいの人間社会とその文化活動が生れます。
言霊うの精神はうの世界だけで進展していき、その目指すところは始めに起きた欲望の完遂にあります。欲望はいつどこでどのようにという自覚的な手順をもってコントロールできるものではありません。これからでてくる五日後の四時半にカレーが食べたくなるなどというのは不可能です。
このウ次元の底辺にいて、何があるのか知りたい見たいと待っている欲する心と接触している別の心があります。その一つが「あーーーッ」という欲する意識でも、知的意識でも無く、ただ単に、自分と自分でないものを分けるだけの意識です。その世界を言霊【あ】といいます。
物の始まりの直前の意識には、例えば見るという例でいえば、見たと見ていないと分かったと分からないとの分別か不明で渾然一体となっています。突如角で出会った相手がいて、その出会った意識の出来る直前を反省すると、自分が相手に出会ったのか、相手が自分に出会ったのか、自分が自分に出会ったのか、相手が相手に出会ったのか、分からない渾然とした全体不明感を経験します。
この時に次に来るこの現象はわたしがわたし以外の人に会ったという意識の始めが「あ」になります。物を見る時も考えが起きる時も、外部から突然与えられる時も、「あ」っという意識をもたらされます。そしてこのもたらされたものが「W+あ」で「わ」になり、自分と対象を一回転した輪となった「わ」の意識となります。
既に対象との間に一回転した輪となっているので、それが意識の底辺で欲望と重なり合ってはいても、別の次元の意識へと進展していきます。この意識は輪、分かっている、ということから始まっているので、全ての感情を始めとする変化に富んだ意識へと向かいます。
しかし、分かっているのはこちら側だけで、相手対象がこちらをどうしているのかについては、こちらには分かりません。感情から発する全分野において当方側の主張を述べるだけになる原理となります。芸術、宗教の世界へと進展していきます。しかし終着となる相手側の「わ」は、輪、調和、最近では誰かのいう友愛だとかも、発進側からする一方通行が基本で、リターンに関しては何も知るところがありません。
分かったものがついで、「わ」っっと出てきて意識内を占拠していく状態がまずあって、状態があることが、「を」です。「を」ーーーっとしていると、「お」っ、と形象が具体化されていき、「お」っ、そいつはこうだとなります。
五感からの欲望と精神感情とさらに底辺で接しているものがあります。それが知識です。欲望があろうと感情が無かろうと、知識はまた別の次元でそれ自身の世界を形成していきます。ただし底辺でそれらが接していて相互に乗り換え上昇が出来るので、一見間違われやすく、階段のような欲望の後に感情があり、その上の段に知識があり、というような上下差をつけらてしまいます。
知的であることが何が偉いような上の段階に行けるような感覚でいるようですが、全く関係ないのはその人を見ればすぐ分かるところです。知識の特徴はそのような実際に基づかない基づくに関係なく、概念の主張が出来ることにあります。
それはウ-ア-ワによって対象となるものが先に形成されているからです。これは冒頭で、
天の御中主-高御産巣日-神産巣日-うましあしかびひこぢ-天之常立の順、ウ-ア-ワ-ヲ-オ、で母音と半母音が逆転しているのを見ても分かります。
うまし--霊妙な。あしかび--葦の芽のように次々に幾らでも出てくる。ひこぢ--男=音子。意識の冒頭で何もしなくてもどんどん出てくるものは記憶。つまり全過去において対象としたものの全記憶と概念。
知識は脳内の全記憶に対してのお気に入りを選択するにすぎないからです。
「お」っということに納得すると今度はおっとこいつをどうるか、「え」っっと迷うことになります。そうこうするうちに「え」っお前はあっちだ、「え」ーーとよし、お前は選ばれたからここにいてよし、となります。
「お」の過去-現在から現在-未来へは、同じく底辺で接している「え」の選択する智恵(知識ではない)の世界があります。この智恵の世界はおうおう知識のあるものが小さな子の智恵に負けるおとぎ話となっています。
このように底辺が接しているため、理性的に解釈しようとすると階段を踏み外します。ここには階段は無く、底辺を接した重層円があるのです。
「え」っと選ばれたことに納得できれば、お前はここに存在して「い」ていいことになり、ここに「い」ることになります。そして「ヰ」る結果が続くことになります。
この「い」を加えて、「い」によって全ての層が支えられ五重の層となります。仏教の五重の塔の語源であり、五重=いえ、つまり人の心の家、そして人の棲家となった由縁です。
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高御産巣日(たかみむすび)の神
2011/4/27(水)
前号の布斗麻邇講座で「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天の御中主の神(あめつちのはじめのとき、たかまはらになりませるかみのみなは、あめのみなかぬしのかみ)」の文章を、「何も起こらない心の広い広い宇宙の中に、何か分からないけれど、人の意識の芽とも言った現象の兆しが起ころうとした時」と解説しました。そしてそれは広い宇宙の中のことでありますから何処をとっても、それは宇宙の中心であり、何かが起ろうとするのは、まぎれもなく「今」であり、「此処」である、と説明しました。天の御中主の神(言霊ウ)は何か分からぬが、人間の意識の芽のようなものであり、やがては「我」という意識の始まりでもあります。
心の先天構造である、人間の意識では捕捉することが出来ない宇宙に、初めて何かが起ころうとする天の御中主の神(言霊ウ)を踏まえて、古事記の文章の次に進むことにしましょう。
「次に高御産巣日(たかみむすび)の神。次に神産巣日(かみむすび)の神。この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。」
「次に」
次に、とありますのは、何も起こっていない心の宇宙の中に、何か知らないが、意識の芽とも言える何かが起ころうとしている(その宇宙を言霊ウと名付けるのですが)、「その意識で捕捉できない心の動きが、更に進展して行くならば次に」ということであります。心の中で何かが起ころうとしている気配がある。けれどそれが気配を感じるだけで、何も起こらず、そのうちにその気配も消えてしまうということはまゝあることです。それはそれで言霊ウまでで終わってしまいます。けれど、更に先天の活動が進展して行けば、「次に」ということになります。こんな話は言わずもがなの話のようでありますが、この後に出て参ります、先天宇宙の「宇宙剖判」という出来事を説明するために必要なことでありますので、前もってお話申上げました。
「高御産巣日の神・言霊ア。神産巣日の神・言霊ワ」
広い心の宇宙の中に天の御中主の神と神名で呼ばれる言霊ウの宇宙が活動を開始し、更にその活動が進展しますと、言霊ウの宇宙から高御産巣日の神と呼ばれる言霊アの宇宙と、神産巣日の神と呼ばれる言霊ワの宇宙が現出します。
事は心の先天構造という五官感覚では把握できない領域の話でありますから、手に取って見るような説明は難しいのですが、出来るだけ平易に説明してみましょう。高御産巣日・神産巣日とう二つの神名の指月の指から、その神名が心の何を指し示してくれているのか、を考えてみましょう。高御産巣日(たかみむすび)、神産巣日(かみむすび)という漢字を仮名に置き換えて書いてみます。すると「タカミムスビ」「カミムスビ」となって、高御産巣日の方が頭にタの一字が多いだけの事が分かります。
後程お分かりになることですが、日本語の中に使われるタの一音は物事・人格の全体または主体として使われることが多い音です。そのタの一音以外では二神名は「カミムスビ」と同音に読めます。「カミムスビ」は「噛み結び」となります。噛み結ぶ、即ち緊密に結び合って何かを生み出すもの、更に一方は主体で、他方は客体であるもの、と言えば、それが何であるか、は想像がつきます。そうです。高御産巣日・言霊アは主体宇宙、神産巣日・言霊ワは客体宇宙であることを示しています。言霊アは心の先天構造内の主体宇宙のことであり、言霊ワは客体宇宙のことであります。
初発(はじめ)の心の働きの芽であり、兆(きざし)である言霊ウが始まろうとして、そこで止まってしまえば、次の段階のアとワ(主体と客体)への変化は起こりません。それが頭脳内に起こるということは、先天構造を構成している心の宇宙の内部で次の活動が起こったことになります。
高御産巣日と神産巣日の二神が生まれ出たということ、即ち言霊アとワが現れ出たということは、言霊ウの宇宙が言霊アとワの二つの宇宙に分かれた、ということになります。この宇宙の活動はこの後も次々と他の宇宙を現出させることとなるのですが、この様な心の宇宙の中で次々とその宇宙が分かれて他の宇宙を生むことを言霊学は宇宙剖判(ぼうはん)と呼んでいます。剖判の剖は「分ける」です。そして判は「分かる」であります。
この宇宙剖判を図で示してみましょう。
五官感覚(眼耳鼻舌身=げんにびぜつしん)でとらえられることが出来ない先天構造の中の内容の説明ですから、何とも心もとない、難しいことを言うようになりますが、ない能のあらましは御理解頂けることと思います。この宇宙のまだ分かれない未剖の言霊ウから言霊アとワの主体と客体に分かれること、この剖判が欠く事の出来ないに人間頭脳の働きの特徴であることに御留意下さい。この不可欠の特徴が人間の認識の作用上、重要な意義をもたらすこととなります。そのことについてお話することにしましょう。
先に「剖判」の剖は「分ける」、判は「分かる」と説明しました。人は何物か、または何事かに遭遇した時、これは何かと思うと同時に、その事物を頭の中で分析します。そして分けた部分々々を調べ、内容が「分かった」と納得します。分けなければ分かりません。分けるから分かるのです。この当り前と思える法則が人間に与えられた認識法則の最重要法則の一つなのであります。
広い何もない宇宙の中に何か分からない意識の芽が芽生え始めました。言霊ウであります。意識が更に進展すると、言霊ウから言霊アとワ(主体と客体、私と貴方、僕と君、心と物、…)に分かれます。宇宙剖判です。ウからアとワに分かれました。初めのウとア・ワと数えて三つの言霊、神名でいう天の御中主の神、高御産巣日の神、神産巣日の神の三神を神道で造化三神と呼びます。物事の始まり、未剖のウからアとワの二言霊に分かれた事、この事は人間の心の営みのすべての始まりであります。
言霊の内容や働きを数(かず)で表わすと、これを数霊(かずたま)と呼びます。二千年以上昔に書かれました中国の「老子」という書物にはこの造化三神の法則のことを「一、二を生じ、二、三を生じ、三、万物を生ず」と言っております。造化三神の法則をお分かり頂けたでありましょうか。
造化三神の法則について、もう一つの重要な事をお話しておきましょう。近代の人々、特に現代人はこの造化三神の法則について、アとワ、すなわち主体と客体に分かれる以前に、主体未剖の言霊ウがあることを知らないで生きています。ですから、「私が彼に会った時」、「僕があの物を見た時」その時が物事の初めだと思い込んでいます。
既に主体と客体に剖判した「私」と「貴方」から思考が始まります。言霊学的に見れば、ウ∧ワアの三者から始まる思考が、現代人はアとワ、主体と客体、の偶然の出会いからの思考と変わります。どちらでも同じなのでは、と思われるかも知れませんが、実際には天と地程の思考の差が生じて来るのです。この認識の違いが結果として人間の心の持ち方の上でどの様な事になるか、今の所では、読者の皆様の研究課題とさせて頂くことにしましょう。心の宇宙剖判が更に進んだ所で詳細な解説を予定しております。
言霊ウの宇宙が剖判して言霊アとワの宇宙か現われます。主体と客体です。主体アである私のことを昔は「あれ」(吾)といい、客体ワである貴方のことを「われ」と呼んだ時代がありました。今でも地方によって年寄りが「お前」のことを「われ」と呼ぶのを聞くことがありましょう。
言霊アの内容として、漢字で書きますと、吾(あ)、明(あ)、灯(あ)等々が考えられます。
また言霊ワには我(わ)、和(わ)、輪(わ)、枠(わ)等々が考えられます。
「この三柱(みはしら)の神は、みな独神(ひとりがみ)に成(な)りまして、身(み)を隠(かく)したまひき」
天の御中主の神、高御産巣日の神、神産巣日の神の三神は独神で、身体を現わすことのない神だ、ということです。独神とはうまい表現であります。意味を説明すると難しくなります。哲学用語を使いますと、「それ自体で存在していて、ほかに依存しないこと」の意となります。言霊ウ、ア、ワの宇宙はそれぞれ一個で厳然と実在していて、他に何々があるから、これもある、という依存なく、それ自体が実在体である、の意であります。また「身を隠したまひき」とは、それ等の宇宙はすべて先天構造を構成しているものであり、人間の五官感覚で捕捉することが出来ない領域のもので、現象として姿を現わすことがない、の意であります。
これも中国の「老子」の中の文章ですが、「谷神(こくしん)は死なず」とあります。アイウエオの母音は声に出してみると、どれも息の続く限り「アーーー…」と声が続いて変わることがありません。山の深い谷は木々に覆われて上から見ることが出来ないので、「身を隠したまひき」の母音宇宙の喩えに使われ、発音して変化のなく永遠に続くことから「死なず」と表現されました。山中の深い谷に水が流れ、宇宙空間の無音の音の如く響く母音は、宇宙であるから消え絶えることがない、と母音を説明した文章であります。二千年以上昔に、わが国の言霊学の影響を受けた老子がかくの如き言葉を遺した事から考えて、精神的に古代に於ける言霊学の他国に及ぼした影響の大きかった事が偲ばれます。
先天構造内の宇宙剖判が更に進展しますと、次に何が起こるでしょうか。古事記の文章を先に進めて行きましょう。
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