奥津那芸佐毘古(おきつなぎさひこ)の神、辺津那芸佐毘古(へつなぎさひこ)の神。「身禊」11。
奥津那芸佐毘古(おきつなぎさひこ)の神、辺津那芸佐毘古(へつなぎさひこ)の神
奥疎の神の働きで御身(おほみま)の禊祓の出発点の実相が明らかになりました。その出発点で明らかにされた黄泉国の文化の内容をすべて生かして人類文明へ渡して行く働きが必要となります。その働きを奥津那芸佐毘古の神と言います。
出発点に於ける黄泉国の文化の内容(奥津那芸)を生かして人類文明に渡す芸(わざ)を推進する(佐)働き(毘古)の力(神)という訳であります。それは過ぎたるを削り、足らざるを補う業(わざ)ではありません。内容のすべてを生かす事によって結論に導いて行く業であります。
辺津那芸佐毘古の神とは結論(辺)に渡して(津)行くすべての業(那芸)を助(佐)けて行く働き(毘古)の力(神)という事です。辺疎(へさかる)で黄泉国の文化がどういう姿で人類文明に摂取されるかが心中に確認されました。黄泉国の文化がその姿に収(おさ)まらせる事がどうしたら出来るか、の業が決定されねばならないでしょう。そういう業の働きの力を辺津那芸佐毘古の神と言います。
禊祓の出発点に於ける黄泉国の文化の内容をすべて生かして行く業(方法)が奥津那芸佐毘古であり、
その内容をどういう姿で人類文明に摂取するかの業が辺津那芸佐毘古と言う事が出来ます。
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常に端緒と終着地点が問題のようです。
ここで禊ぎするものは何でしょう。常に「たまき」のようです。数に関心を寄せれば六神も費やして祓い去るものです。余程の強敵となる物でしょう。意識行為において強力にまとい付く物とは記憶のことでしょう。経験知識の記憶、存在の記憶、抽象概念を扱う記憶、創造の記憶、意図目標の記憶、意志の記憶となるでしょう。
全ていざなぎの仕業であって有形無形の形となって自身にまとい付くものです。記憶は足手まといになると同時に生きていく助けともなるものです。ここで言う「佐」はその両方を祓い去るものと掬い上げるものを指しているでしょう。
前回は下のように書きました。
奥疎(おきさかる)の神は、途上(現在位置)にいる自分のものを対象客体の端緒へ持ち込みまとい付かせることになるでしょう。
あるいは自分を主張しようと途中を飛ばして物事の発端に無理にまとい、結び付こうすることでしょう。
辺疎(へさかる)の神は、途上(現在位置)にいる自分のものを対象客体の終端へ持ち込みまとい付かせることになるでしょう。
あるいは自分を主張しようと途中を飛ばして物事の終端に無理にまとい、結び着こうとすることでしょう。
そこで今回は次のようになります。
●奥津那芸佐毘古(おきつなぎさびこ)の神。○父韻の途上のものを第一父韻へなびかせ繋げるものを探す○左の御手の手纏
-自分を主張しようと他物を利用して事物の発端につなぎ留めようとする。
●辺津那芸佐毘古(へつなぎさびこ)の神。○父韻の途上のものを第八父韻へなびかせ繋げるものを探す○右の御手の手纏
-自分を主張しようと他物を利用して事物の終端につなぎ留めようとする。
他物というのが記憶です。うまく行くかどうか、やったことの無い禅問答に挑戦してみましょう。
無門関第一則『僧が問うた。犬に仏性はありますか。和尚は答えた。無い。』
僧はお釈迦さんの教えに従えば全てのものに仏性があると習っています。もちろん犬にも仏性はあると思っている。ところがその答えは「無し」と返ってきた。釈迦を取るか和尚を取って修業を続けるか迷うことになります。それらに対して無門は「無の一字に成りきれ」と解説しました。そうすると僧は今度は無とは何かを考え始めます。無門関を読む者も無に向かって突入していきます。
犬は生き物を言うだけですから何でもいいわけです。さらに生き物から存在を言うとするだけに視点を移動するなら「今屁をこいた。屁に仏性はあるか。」でもいいわけです。「和尚は答えた。有る。」となるところでしょうが、古事記の神さんはどういうかやってみましょう。
仏陀の教えは超えられないのに簡単に否定されました。黄泉国の伊耶那美、あるいは小僧であるわれわれは当然分析します。犬に仏性が無いとは何か。
衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神。判断の基準、精神の拠り所を斎き立てる。仏陀の教えを振り返ります。そして、
道の長乳歯(みちのながちは)の神。物事の関連性、連続性を調べる。犬の仏性のことを考えます。続いて、
時量師(ときおかし)の神。物事の実相の変化のリズムを見極める。犬に仏性が無い時はあるか思い詰めます。いろいろ疑問が噴出しするでしょう。
煩累の大人(わずらひのうし)の神。不明瞭さを排して言葉の意味をはっきり確認する。勇気を出して不明瞭な点を追求していきます。そこで分かることがでてきました。
道俣(ちまた)の神。物事の分岐点を明らかにする。自分なりに検討して考えの分岐点を見つけ、新しく立ち上がることが出来ました。こうして、
飽咋の大人(あきぐひのうし)の神。事物の実相を明らかに見てそれを言葉に組んでいく。自分の考えが固まり和尚に披露します。
和尚は「喝」といって小僧を張り倒して破門となるでしょう。そこで小僧は歯を食いしばって再挑戦します。
奥疎(おきさかる)の神。犬の仏性を直接仏陀の教えに対比していなかったか、。
あるいは自分を主張しようと途中を飛ばして直接仏陀の教えに無理にまとい、結び付けようとしていなかったか。
辺疎(へさかる)の神。自分の考えの結論を直接仏陀の教えの結論に持ち込み、無理にまといつき、結び着こうとしていなかったか。
●奥津那芸佐毘古(おきつなぎさびこ)の神。自分を主張しようと教えの記憶知識を利用して仏陀の教理の発端につなぎ留めようとしていなかったか。
●辺津那芸佐毘古(へつなぎさびこ)の神。自分を主張しようと教えの記憶知識を利用して仏陀の教理の結論につなぎ留めようとしていなかったか。
●奥津甲斐弁羅(かいべら)の神。自分の主張と仏陀の教えとの間を取り去り減らそうとし、自分は仏陀と同じことを言っているとしなかったか。
●辺津甲斐弁羅(へつかいべら)の神。自分の主張と仏陀の教えの結論との間を取り去り減らそうとし、自分は仏陀と同じことを言っているとしなかったか。
等を反省し、改めるでしょう。
ではどのような答えが用意出来たのか。
まず自分を棚に上げて犬のことを心配している反省です。仏性は自分に関することと仕切り直します。そこからすれば犬の仏性は不問にしてよいものです。和尚の答えに同意出来ます。
しかし、無門は無に成れと言ってきたので今度はそこに頭が突っ込みます。
そこでは無というのですから衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神である判断の基準、精神の拠り所となる仏陀の教えもありません。