高天原
形而上の精神で表わしますと、人間の頭脳の一番奥にある五十の言霊によって結界されている清浄無垢な領域、その原理に則って政治を司る政庁を指します。朝(アサ)庭、‘ア・タカマハラナヤサ’を「高天原」とも申します。みんな同じところから出て来る言葉です。
「千木高知りて」、千木(ちぎ)は「道気」です。伊勢神宮の本殿の屋根に「鰹木」が並んでいます。内宮は10本、外宮は9本、明治神宮は7本、鰹木の数が出鱈目でなく並んでいるのは伊勢神宮系統の神社、尾張の熱田神宮、出雲大社は3本ですが、これは古来の言霊の原理ではない心構え、外国の原理の数、必ず10乃至8本が正統な並び方です。
鰹木は「数招き」の当て字です。伊勢神宮は天津太祝詞音図をそのまま形に表わした神社です。「唯一神明造り」とも申します。ただ一つの神を明らかにした造りという意味です。ただ一つの神は天照大神のこと、皇祖皇宗(日本人の大祖先)と申しますのは普通、天照大神のことを言います。
千木には水平に切る「内削ぎ」と垂直に切る「外削ぎ」がございます。千木は「契り」、結び合う、約束事という意味。道の気が動きますと主体(ア)と客体(ワ)が感応し現象が起こります。現象とは鰹木によって物事が進行し移り変わるということです。
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数霊
言霊が動く表し方を「数霊」と申します。主体(ア)と客体(ワ)が千木(八父韻)の活動によって結び合い、季節の移り変わりのように現象が起こり、丁度映画を観るように物事が進行します。
内宮の鰹木は10の変化で現象を表わしますので10本並びます。‘ア・タカマハラナヤサ・ワ’、主体・八父韻・客体で10の行程を経ますから内宮は10本の鰹木、神道で「十拳剣」といいます。
外宮の鰹木9本は‘ア・タカマハラナヤサ’、客体の‘ワ’が欠けています、「九拳剣」、出雲大社の鰹木8本は‘タカマハラナヤサ’、主体と客体がない現象、「八拳剣」、一番世の中で確かな科学の原理です。科学は主体や客体を云々しません。
相対性理論とは申しますがアインシュタインの理論とはなかなか言わない。アインシュタインが発表しようが、私が発表しようが、相対性理論として発表した人が主体とはなりません。主体性と客体性を除いた現象間の関連性だけを求めます。永遠に求めて結論が出て終わりということはありません。
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鰹木の数の意味
まずい料理人がうなぎを捕まえるようなこと、それが科学の実体です。科学は好奇心のある所、何処迄も研究します。人間のクローンも数年経てば出て来るとか言われています。
自分の同じ人間がいたとしたら、不気味ですよ、怪奇、でも可能なんです。つまり果てしない、科学をどう研究の方向へ持って行けば良いのかを科学は決して教えてくれません。
完全な現象を現出させる原理は‘ア・タカマハラナヤサ・ワ’の十拳剣であるよ、それが「高天原に千木高知りて」と申します。厳然とした言霊の原理ですから、今の神主さんに「高天原に千木高知りて、とはどういう意味ですか?」と聞いても、答えて下さらないと思います。
丁度、数十年前に伊勢神宮の外宮にお参りしました時に、拝殿のところに神主さんがいらして、何気に「鰹木の数が内宮は10本、外宮は9本ですが、何か意味はあるのですか?」とお聞きしました。
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人類最高の政治の心構え
御殿の意味ではなく「御舎(あらか)」、ヨハネ伝に「言は神なりき」とあります、言葉の中の言葉(Word of Words)は言霊です、「言霊が神なりき。」
「御舎(あらか)」は、言霊を明らかにするものという意味です。昔は言霊五十音の一音一音を粘土版に刻んで素焼きしましたものを「甕(みか)」又は「みかがみ」、「瓦」と申しました。
御舎を集めまして父韻の順序、‘ア・タカマハラナヤサ・ワ’の素焼きを集めたもの。原理(八咫鏡)をいただき原理の通りに政をしたという意味。(瑞の御舎仕へ奉りて)
天の御蔭、日の御蔭と隠りまして、安国と平けく知しめさむ
「天の御蔭」は言霊、「日の御蔭」は数霊と捉えますと意味がよく分かります。「あらか」である天照大神の内容、人類最高の政治の心構え、それを掲げて政治を行いますと言霊を操作する数霊が必要になります。
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言霊と数霊を運用し政治を行う
「蔭」を「景」とも書きます、それは日本語で「光」ともとれます、言霊(天の御蔭)の霊駆り、言霊の働きという意味。言霊が動きますと出て来るのが数霊(日の御蔭)。「隠りまして」とは「書き繰って」、言霊と数霊を操作して、皇御孫命が統治する言霊の原理を言霊と数霊として運用し政治を行う。
それが第一精神文明時代の天津日嗣天皇(ア)の政治のやり方。「天の御蔭、日の御蔭と隠りまして」は、天津太祝詞音図を政治の鏡として掲げ、‘アイエオウ’を土台とした役職、序文に「比礼挂くる伴男(イ)」、「手襁挂くる伴男(エ)」が出て参ります。
‘比礼’は言霊の原理(天の御蔭)を書繰る役職、‘手襁’(御手繰り)は十の指を折る(握手=法則を探る)、全部の内容が分かるとそれを応用する、指を起こす(掟=法律を作る)、日の御蔭を司る役職。
天津太祝詞音図を政治の要諦に掲げますと天津菅麻音図(アオウエイ)を土台にして、政治のやり方の法則、天津太祝詞音図(アイエオウ)が出来ます。序文の五つの役職、‘ア’は天津日嗣天皇、‘イ’は比礼挂くる伴男、‘エ’ は手襁挂くる伴男、‘オ’は靱負ふ伴男、‘ウ’は剱佩く伴男です。古代の朝廷の政治の機構はそういうように五段階(アイエオウ)になっております。
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伴男(トモノヲ)の役目
言霊を法則を知っている聖(ア)がいて、原理法則化(イ)し、数霊を以て活用する(エ)、‘イ’の言霊と‘エ’の決まった法律(天津太祝詞音図)を、言霊も数霊も使わずに一般の人が分かるような法律の言葉にする(オ)、それを民衆との間に交じりながら臨機応変に法律を運用する(ウ)。
‘ウ’の「剱佩く伴男」は、‘剱’は常に真理なる法則を心得ていて、臨機応変な判断力で一般国民に「前例はございません」といような応接をいたしません。
天津太祝詞音図の政治をしていた第一精神文明時代の爛熟期、その中の鵜萱不合王朝時代(‘ウ’の五官感覚に基づく萱、屋根が未完成)には内に鑑みて政治を行っていて満足はしていたが、反面、人間には物事を外に観る第二物質科学文明への関心が始まる兆しが、そろそろ見え始めていました。
物事を外に観るには、纏めようとするのではなく、破壊して分析する学問が始まり、競争原理が適用され、「我」という観念がポツポツ出始めました。来月の講習会では「罪穢れ」について、その内容とどう祓うのかをお話いたします。
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方便の世の中
今日のお話は人類の八千年乃至一万年前から五千年間続きました第一精神文明の時代が終わり、次の第二科学物質文明を創造、促進するために今から四五千年前、弱肉強食の生存競争時代を創らねばならないため、一番手っ取り早い方法として、第一精神文明の根本原理であります言霊の学問を世の中からすっかり消してしまうことになりました。
そうしますと「俺が、俺が……」の心が出てきまして、強い者が弱い者を喰って行く、強い者勝ち、偉い者勝ち、それが人間の罪穢れとなって現れてまいります。その「罪穢れ」とはどういうことなのかが、第三章に記されています。
国中(くぬち)に成り出でむ、天益人等(あめのますひとら)が、過ち犯しけむ雑々(くさぐさ)の罪事は、天津罪とは、畔(あ)放ち、溝(みぞ)埋(う)め、樋(ひ)放ち、頻(しき)蒔き、串刺し、生剥ぎ、逆剥ぎ、屎戸、幾許(ここだく)の罪を天津罪と宣りわけて、国津罪とは、生膚(いきはだ)断(た)ち、死(しに)膚断ち、白人胡久美(しらひとこくみ)、己(おの)が母犯せる罪、己が子犯せる罪、母と子と犯せる罪、子と母と犯せる罪、畜(けもの)犯せる罪、昆虫(はふむし)の災、高津神の災、高津鳥の災、畜仆(たほ)し、蠱物(まじもの)せる罪、幾許の罪出でむ。
斯く出でば、天津宮事以ちて、大中臣、天津金木を、本打切り、末打断ちて、千座(ちくら)の置座(おきくら)に置足らはして、天津菅麻(すがそ)を、本刈断ち、末刈切りて、八針に取辟(さ)きて、天津祝詞の太祝詞事を宣れ。
国中に成り出でむ、「天益人等」は、産めよ、増やせよ、地に満てよ、と聖書にもございます。人口が増えて行く人たちが犯す様々な罪、天津罪は8つの罪、国津罪は13の罪として書かれています。
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高天原には百神以外の神様はいない
人間の犯す罪を天津罪と国津罪の二種類に別けています。この二つの罪の違いは何かをお話いたします。天津罪は天津神、国津罪は国津神を神道では申します。
天津神と申しますのは清浄な罪穢れのまったくない高天原を構成している言霊五十音を表わしている神様、五十通りの動かし方を示す神様、合計百神。高天原には百神以外の神様はおりません。
わずかにそれに加えるとしたら働きによって一つのグループとしての名前を付けることがあります。太祝詞音図を家に例えますと一番上(ア段)は屋根に当たります。「天の児産命(アメノコヤネノミコト)」。
‘ツクムフルヌユウス’のウ段の神様は「天の宇受売の命(アメノウズメノミコト)」、この神様は盥を逆さにしてその上でストリップする。八父韻が祀られている戸隠神社の神様は「八心思金命(ヤゴコロオモイカネノミコト)」、または「手力男の神」というように高天原に属しています。
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天津罪
五十音が五十通りに動く神様の名前を表わしますと「天津神」です。その神様たちの秩序や法則を勝手に変えてしまう罪、勝手に変えてしまうのがどうして罪なのか、「言霊」という言葉を知らなければ、勝手に変えるということも、どうやって変えるということも分かりません。
天津罪と申しますのは、言霊の学問が世の中に出て来るまでは、神道関係者、宗教関係者でもわからなかった。キリスト教でわずかに「原罪(ORIGINAL SIN)」という言葉を使いました。しかし、どういう罪なのかは説明がつきませんでした。今は言霊の学問が現れ出ましたので、ハッキリ申し上げる事が出来ます。
人間が「オギャアー」と生まれた時から既に持っている罪、よく言われます、「私がこの世にいるだけで罪だ」、これは原罪とはまったく関係のないことです。言霊の学問でないと説明が出来ません。
「天津罪」に関しまして辞書によりますと「神代の昔、須佐之男命が、天照大神が機を織っている時に乱暴を働いた」とあります。それは呪示の謎ですから、織物は横糸アイエオウ(空間)と縦糸タカマハラナヤサ(時間)を綾なすことは、歴史を織って行く、それを乱すのですからその罪。
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国津罪
「国津罪」と申しますのは人間が意識できない人間の心の奥で犯した罪ではなくて、人間社会において自分の感情の趣くままに利害から人に迷惑をかけたり、嘘ついたり、殺してしまったりする罪。
宗教において色んなお祓いをいたしますが、これが通用するのは「国津罪」の方です。「天津罪」の方は眼に見えない罪なので、何方も気が付きもせず意識しませんから「罪」とも思いません、ということは祓い用がありません。
言霊の学問が出て来て、「大祓祝詞」の意味が明らかになって初めて「天津罪」を祓うことが出来ます。日本では二千年、外国では三千年の間、犯して来た罪です。
人間が心の中で「これは悪い事だ」、「これは良い事だ」を決めるには、一つの「鑑」が要ります。その境界がぼやけていなければ、罪穢れがあると分かる事ですが、その「鑑」が今までございませんでした。
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人間が善悪をその時々に判断できない世の中
赤軍派が昔、ハイジャックをして「刑務所から仲間を出せ」と乗客を人質にして、服役している罪人も含めて北朝鮮へ亡命した事件がありました。法律では認められない釈放することを「超法律的処置」、法規を超えた扱い方。
ということは刑法に触れるから「悪い」、触れなければ「悪くない」と普通の人は思っております。悪い事をしても知られなければ良いんだ、最近は特にそういう考え方が蔓延しております。ここでいっているのはそういうのではなくて、人間が善悪をその時々に判断できる世の中であれば、犯罪も起こりません。
そういう「鑑」がなくなってしまった世の中、二三千年間も続いたものですから、何が良くって、何が悪いのかが、ハッキリしなくなった。人を殺すのは悪いことではあるけれど、それが複雑になってきますと、殺すのが良い事なんだというようなことが起こりかねない。
戦争で人を殺すと勲章を授与される、そういうように人間の良識から離れている世界、原因は何か、「天津罪」という人間がオギャアーと生まれた時から背中に負っている、社会の中に溶け込んでしまっていて、わからなくなってしまっている罪。
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良否ではなく判断力で決める
何をしても修祓ができない天津罪ですから、言霊の学問が出て来た今、何が良くって、何が悪いかの基準を、「何々すべし、何々すべからず」という規則の良否ではなく、一人一人が生まれた時から授かっている判断力で決める。
天津罪と国津罪の違いがお分かりになりましたでしょうか? ただし、この二つの罪が全然関係ないのかと言うとそうでもございません。人間が何か罪を犯したとしても、世の中全体が善悪を決められない。
その土台の上で自分の利害が他人に迷惑をかけることがいっぱい出て来ます。その土台が「天津罪」、表面に出て来るのが「国津罪」とお考えになりますとだいたい間違いないだろうと思います。
「天津罪」は八つ、畔(あ)放ち、溝(みぞ)埋(う)め、樋(ひ)放ち、頻(しき)蒔き、串刺し、生剥ぎ、逆剥ぎ、屎戸、とあります。
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大祓祝詞・記憶で怒る
●畔放ち…
畔は‘畦’(あぜ)のこと、天照大神は田んぼを耕しています、稲を栽培しています、人間の心を図で表わしますと天津太祝詞の五十音図になります。縦横がはっきりしていて、一音一音は稲(イ音)になります。
人間は‘ウオアエイ’と進化します。生まれたての赤ちゃんはまず、乳を呑みます、お腹が空く、五官感覚の‘ウ’の世界。成長しますと言葉や物事の名前を一つ一つ覚えていきます。必要に応じて思い出す記憶の‘オ’の世界。
友達の酒を飲んでいたら突然叩かれた、酒の場でもあるし、事を荒立てないようにとその場を繕った、次の朝、「何であいつは俺を殴ったんだ!?」、何か変なことを言った覚えはないのか、殴られた出来事は既に消えてしまっているのに、何もないのに記憶の‘尾っぽ’(オ)だけが残っている、その記憶で怒っている。(無門関公案第三十八、牛、窓檻を過ぐ)
学問は起こった事、経験したことを頭でもう一度思い出して、経験と経験の関連性を調べる‘オ’の次元です。経済学者は株の変動を見ますが、未来の予想は百人いたら百人違う答え。だからといって学者が情けないのではなくて、過去の法則で判断するのが学問です。明日からの新しいことが分からないのは当たり前です。
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現れない創造意志
次の‘ア’、五官感覚でもない、経験知でもない、感情の性能がこの次元から出て来ます。次に‘ウ・オ・ア’をどういうように選び、按配したら今後の生活がうまくいくだろうか、日本や世界の国をどうしたら良いのか、未来のことを選ぶ‘エ’の性能、実践智の知恵。
‘ウオアエ’を纏めて活動させるのが‘イ’、創造意志。「意志が強い、弱い」とか言いますが、見えるものではない、ウ(欲望)、オ(学問)、ア(感情)、エ(実践智)も現れますが、意志は現れません。だけど、あることは間違いない。
この‘イ’(意志)の次元で世の中を観ますと、五十の言霊として観ることが出来る‘イ’の眼(みいず)。田んぼの中の稲(イ音)は五十音一音一音の言霊のことを表わしています。言霊自体は生命の元ですから、一つ一つは穢しようがない、善悪を超えてしまっている。
ですが、運び方、運用を乱すのが天津罪、「畦放ち」畦(あぜ)は五十音の仕切りの線をとっぱらってしまう。‘オ’と‘エ’の境界をとっぱらってしまって乱してしまった。その例が文部省、今の教育は経験知と実践智は厳然と違うんだよ、ということが分かっていない。
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伝える手順
私が家内に「喉渇いたからお茶飲みたいな」と思って言葉にする時、「お茶!」と言えばいいのか、「持って来てくれませんか?」と言えばいいのか、まず考えます。言葉だけでいいのか、近くに寄って言えばいいのか、色んなことを考えます。その手順が‘ア・タカマハラナヤサ・ワ’、それでお茶が飲めるということになります。
このリズムを崩す、意志の次元でその意志が伝わって初めて伝わることです、「お茶!」と言えば不味いお茶が出て来ることだって有り得ます。(笑)また逆の過程もあるかもしれない。ですが、総てこの順序を踏んでいる。
行いの順序である生命(ア・タカマハラナヤサ・ワ)の流れの溝がこれをとっぱらうということは、支離滅裂になります。ー「溝を埋める」ということは「気が移らない」ということです。
知識と智恵とは違うということを文部省のお役人が知っただけで、お子さんは幸せになります。知識を詰め込むだけ詰め込んで、智恵の方は全然教えません、「道徳」を教えないで、教えるのは道徳教育。
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罪にならない「悪い事」
●樋放ち…
「とい(樋)」と言ったら屋根の下に付けて雨水を下に流す、水が通る管。又は、水を溜める所があって、その開閉口を「ひ(樋)」と言います。‘ア’から‘ワ’への流れが、取り払われると、緩急の調節が出来なくなり、社会は急変、または停滞することになります。
社会現象はたくさんあります、たとえば「サッカーくじ」、スポーツ振興のためのものですが、サッカーを観ずに「当たりくじ」目当てに買う人も出て来る。色んなことの区別がつかなくなることを言います。「樋放ち」と言うのですから、ジャンジャン流れてしまったり、水がなくなって止まってしまったり、社会の混乱を招きます。
●頻蒔き…
「蒔」は「播」と書いた方が分かり易いでしょうか。種を落とす時に幾重にも播いて、穀物の成長を妨げる。ある所の田植えは手に十本くらいの苗を植える、下から冷たい水が湧き出るので、一本だと一本しか育たないということでした。私が以前、自然農法をしていた頃、一本植えただけで二十本、分蘗(ぶんけつ)しました。
頻蒔きをしますと、平常だったら一本が十~二十本の分蘗するところを、二本だとお互いが牽制し合って支障がでます。八父韻の実相の流れで物事は進みますが、‘ア・タカマ~’まで来た時に、強情から完全に拘って次の一歩を踏み出せない、仕事をしていてもそのようなことが往々にあります。「これ位でいいでしょう」、「駄目だ、もっと徹底しろ」、前に進めない。
不景気をなくそうとして税金を投入しますが、それも「頻蒔き」の一つです。いくらやっても「ザルに水」、でも、何とかして次の手を考えるということをしない。国債を湯水のように発行して負債を作る。社会的に良いとか、悪いとかを言う人がいないでする、罪にならない「悪い事」です。
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硬直と抹殺
●串刺し……
縦の母音の並び、天津太祝詞音図は‘アイエオウ’、天津金木音図は‘アイウエオ’、その並びを、団子を串刺しのように動かないよう硬直させる。何年か前にソビエト連邦が崩壊しました。それも制度が動かなくなって民衆蜂起が社会現象となりました。
横の父韻の並び、‘タカマハラナヤサ’は人類の文明を創造する手順、‘カサタナハマヤラ’は儲けようとする手順、ところが、これを串刺しにしますと、歴史を創造するのも‘カサタナハマヤラ’、社会が時所位に応じて自由に社会を築けないように規制してしまいます。
●生剥ぎ……
皮を剥ぐということではありません。生命の基準は五母音にあります、その中の一つ乃至二つの並びを抹殺してしまう。例えば宗教と芸術が発現する‘ア’を生剥ぎしますと、共産主義体制が「宗教は阿片なり」と言って、憲法の上でも宗教活動を完全に禁止してしまう。
国家それぞれの法律によって、実際にはあるべきものを失くしてしまう、自由な発言は国家の反逆罪として弾圧する、体制側の都合の悪いことを規制する、というようなことです。全部を生かした上で社会の調和を図るのが政治ですが、国家の信義に反するので抹殺してしまう。
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目的の何かをオミットする
●逆剥ぎ……
「逆」は当て字で「性」です。酒を飲みますと本心(性)が露呈します。普段おとなしい人が、普段の鬱憤を何々上戸でもって晴らします。人間の性質として「性」は何処から出て来るか。
それは「八卦」、八つの父韻、始めから終わりへの実相の変化の順序、その中の一つか二つを抹殺してしまう。社会現象としましては。例えば「偏差値」、小学校に入って一年生から六年生になるまで、どういう人格を目指して教育が行われるのか、目的の何かをオミットしてしまう。
今の学校教育では人間が世の中で生きて行くには、どういう判断をしたらよいのか、判断力を養成するにはどうすればいいのか、がオミットされています。
確かに知識も必要ですが、人を愛する感情も伴わなければなりません。同時にそれらの性能をコントロールするかの智恵、これが必要です、そのような社会現象が逆削ぎです。
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五十音をバラバラに
●屎戸……
古事記には神様たちが宴会を開いた時に須佐之男命が糞を撒き散らしたと書いてあります。これは国津罪の方になります。神様の行為ですから「糞」と申しますのは「組素」。
人間の言葉は言霊を組んで作ります、五十音をバラバラにして撒き散らすこと、それを「屎戸」と申します。古事記百神の神様の物語が終わりまして、須佐之男命は伊耶那岐命から「汝は海原を知らせ」と伊耶那岐命に命令されます。
他の月読命、天照大神と三柱になって高天原の歴史を創っていく、ですが、途中で須佐之男命が「姉さんの高天原の原理は確かに素晴らしい、でも、人間には心の他に精神ではなくて‘物質’の原理もあるはずだ、「八拳須心前(やつかひげむなさき)に至るまで、いさちき。」
「やつかひげ」は「八拳」、‘ア・タカマハラナヤサ・ワ’の十拳剣が高天原における政治の原理です。しかし、物質の原理はこの法則では未だどのように並べて良いか分からない、それでバラバラにしてしまって啼(鳴)きらした、鳴らした。どうやってこれを並べたら良いかを探した。物質の研究はまず物を破壊し分析することから始まります。伊耶那岐命から「精神界の高天原ではさせない」、伊耶那美命の黄泉国へ追放され、神遂(かみやら)ひされます。
どうすればいいんだ、全然違う法則を遣り出して、場所もわきまえず、バラバラにして撒き散らした罪、何か手を打たなければならない、案件をどうしていいか分からないから、「とりあえず、何でもやっちまえ」という時、この社会現象が起こります。
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もう辛くない時
以上が言霊に関する罪の「天津罪」のことです。言霊の学問が出て来るまで、どういうことかが分からなかった。キリスト教の原罪が何のことであるかが分かりませんでした。ここにきて初めて取り上げられることになります。
第一精神文明から第二物質科学文明へ移り、もうすぐ完成しようとするという時に、必要悪としてこしらえた社会の競争を促した結果、人類の破滅の危機に直面する事態になりました。精神文明の根本原理である五十音の原理が現れます。
と同時に五十音の原理を隠したがために、弱肉強食の生存競争の社会が三千年間も続いたのですから、これを改める方法はただ一つ。全世界に言霊の原理をこの世の中に復活させるしか方法はございません。大本教のお筆先に「知らしてはならず、知らさいではならず、神はつらいぜよ」、もう辛くない時が来たということです。
復活した時のために太安万侶が「古事記」を神様の物語として編纂しました。古事記は「こじつけ」とも読みます。「記」と申しますのは飲み屋なんかで勘定する時に「つけにしておいて」と言います。
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あっけらかん
江戸時代は「つけ」の清算を年二回しました、戦争前迄は月末に一回だったそうです。魚屋、酒屋、八百屋等の和紙の台帳の表紙に「記」と書いてあります。太安万侶は、ウィットに富んでいたか、へそ曲がりだったか、「こじつけ」と解釈しませんと、古事記の神話の真意が分かりません。
「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は天の御中主の神、~」、書かれている通りを解釈しても、何千年、何万年経とうが言霊の原理は分からない。今迄の国文学者は原文のまま読み解こうとしました。今でもそう思っている。
科学、天文学、地球物理学、宇宙物理学でも分からない「宇宙の始まりに神様がいて」その神様の名前は「天の御中主の神」と解釈しますと何の意味もない。でも、よくよく常識で考えれば分かる。昔の人が意味のないことを天皇の勅命で書くのか、頭が悪かったのか。
万葉の時代の人が現代に蘇ったら、現代ほど野蛮な世の中、人を平気で殺す。皇室のお歌会始めの時に詠んだ歌が一等になった、「よくこんな歌が一等になるね」と言われるはず、今の歌人は万葉集にある歌を一首も詠めません。あっけらかんとした歌、「あっけらかん」を現代人は出来ない。
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名刺の裏の肩書き
西遊記の孫悟空、何か悪さをしますと頭の輪っかを締め付けられる、現代人もそうです。孫悟空だから締め付けられるわけではない、あの輪っかは皆がはめられている。抵抗して、この間とうとう謝った、「外れない」と観念したら、スーッと外れた。外そうとしない者に嵌めていても意味がない、こいつは見込みがないから駄目だって。
嵌めた奴があきれかえってしまう。その輪っかが外れますと天津罪が分かる。言霊の学問はうんとへそ曲がりになって、お釈迦様でもおならをします。孔子さんだって恋人に逃げられたら喚き嘆きます。孔子に出来て、俺が出来ないわけがない、お釈迦様が説いたんだから、俺に説けないわけがない。
沢庵和尚が‘空’を説いたなら、俺にだって説けない訳がない。同じ人間じゃないか、こういうのをへそ曲がりという。白を黒と言い、右を左と言うようなへそ曲がりでないと古事記は解けません。何故こじつけたか、古事記百神に記された神様を祀っていない神社はいくつもあります。古事記にはちゃんと人間の心を構成している最も重要な所に「八十禍津日の神」、「大禍津日の神」と出て来る。
名刺の裏の肩書き、ひっくり返さないと分からない。人間と申しますのは人間であると同時に神である人間、だから神のことが分かる、人間だけなら神のことは分からない、客体の神が分かるということは、主体も同じ性質のものがあるから分かるのです。ハップル望遠鏡が千五百億光年先の星を発見した、気が遠くなるもんじゃない、光は1秒間に三億メートルくらいの速さ、想像がつかない程宇宙は大きいです。
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感謝しても拝んでは駄目
千五百億光年の星を認識したということは、私達人間が見た、それだけの心の広さがある。ネズミに千五百億光年の星だよと言ったって、何のことだか分かりませんが、人間なら分かる。ということは人間の心もそれだけ大きいということです。
心はですね、壁がない、「あの野郎!」と思ったら、地球の裏側にでも通じてしまう。人間の気は大きな働きをしています。それだけの能力を誰もが分かるだけのものを授かっているのですから、感謝しても拝んでは駄目です。
「国津罪」はニュースに出て来るような事件なのでお分かりになるでしょうが、不思議なことに、神道の大祓祝詞は13の国津罪は何の説明もない。モーゼはペンタトーチに創世記から五つの章を説いた聖書のレビ記、出エジプト記に一つ一つの大祓の国津罪を詳しく書かれています。
国津罪とは、生膚(いきはだ)断(た)ち、死(しに)膚断ち、白人胡久美(しらひとこくみ)、己(おの)が母犯せる罪、己が子犯せる罪、母と子と犯せる罪、子と母と犯せる罪、畜(けもの)犯せる罪、昆虫(はふむし)の災、高津神の災、高津鳥の災、畜仆(たほ)し、蠱物(まじもの)せる罪、幾許の罪出でむ。
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国津罪
●生膚断ち、死膚断ち……
生きている人、死んでいる人の肉体を傷つけるな、モーゼの十戒には「汝殺すなかれ」とあります。
●白人胡久美……
「白人」とは癩病のこと、レビ記には「癩病患者は神殿の前には出るな」と書いてあります。「胡久美」はイボ、コブ、のことを言います。「セムシは神の用をしてはならぬ」とレビ記には書いてあります。神道では何の事かわからなかった。
●己が母犯せる罪、己が子犯せる罪、母と子と犯せる罪、子と母と犯せる罪……
森鴎外が近親相姦をテーマに小説にしたことがあります。昔はきっと多かったのではないかと思われます。旧約聖書には何頁にも渡って詳しく書かれています。ギリシア神話にエディプス・コンプレックスとして書かれていますから、何の説明もいらないと思います。
あるアメリカ人の牧師が全世界を回って講演しておりました。奥さんが日本人でして、講演のテーマは「日本文化はユダヤ文化の成れの果てで、三千年前にユダヤ民族が日本に多く渡って来て、物質文明に明るかったので日本の文化に影響を与えた、日本の大臣にもなった。現在、固有の文化といわれているものはほとんどがユダヤ文化である」ということでした。
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そのご夫妻とお会いする事がございましたので、その時、「大祓に、」と言ったら、それ以上言わさない。「大祓の国津罪はズラズラと13述べているだけど、レビ記には詳細に説明して明白に分かっている。だから、ユダヤの方が先だ」と。日本人はそれを真似たに過ぎないと、「そうでござんすか。」(笑)
それは、一つのコンプレックスがあって、ユダヤはダビデ、ソロモンの時に誓約の箱を持っておりました。中に入っていた三種の神宝(アロンの杖は‘天の叢雲の剣’、勾玉は ‘黄金のマナ壷’、十戒石は‘八咫鏡’)が無くなっていた。聖書にはそのように書いてある。
ソロモンの財宝は日本の国に返してしまったのかと日本に探しに来た。日本にもその伝説が残っていて、四国の剣山、あそこに行きますと伝説がたくさんあります。それを聞いた吉川英治という小説家が「鳴門秘帖」を書きました。
嘘か本当か知らないですが、私が三十年程前に私の先生の所に、名前が「つるぎみちお」とペンネームを名乗る二十歳くらいの方が来られていて、「剣山へ行ったら偶然に‘アロンの杖’を見つけた。嘘ではありません、本当です。」
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●畜犯せる罪……
人の獣が交わる、レビ記には詳細に書かれています。交わった者は獣と共に殺すべしとあります。知っても知らなくても関係ありません。
●昆虫の災……
小笠原先生によりますと「イナゴ(蝗)」の災いだろう、でもそうでないかもしれない。レビ記には「はふものに触れる罪」、這う生き物に触れる罪、アダムとイヴには「蛇」が出て来ますが、何の事だか分かりません。
●高津神の災、高津鳥の災……
高津神と申しますのは因果応報、輪廻転生を永遠に繰り返す、清浄化されない因縁霊、それによって色んな災いを起こす。では、正常か、正常じゃないか、区別はどこで付けるのか、清い霊とか、穢れた霊とか。
殴られたら、何の思慮もなく、殴り返す、これを因縁と申します。人と猿は何処が違うか、押されたら押し返す、人に殴られたら「何故、あいつは俺を殴ったのか」を先ず考えて、殴り返した方がいいのか、殴らずに他の方法を探って、殴る行為を契機として仲良くなれないものか、殴り返さずに、相手と共に新しい人生をクリエイトしていく。
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「殴られた」という一つの現象をそこでストップさせる。私はこういうことを教訓にするが、ただ反発するということは止めにしよう、人間が自分の心の中で判断して処理していく、流されない、これを正常と申します。
イスラエルとアラヴみたいなもの、三千年間やっている、聖書にございますようにモーゼが奴隷になっていたユダヤ民族を連れて紅海を渡る、追っかけて来たファラオの軍隊は満潮になって全滅した。
旧約聖書に「我が国に立ちはだかる者は総て殺せ。赤ん坊であろうと全部殺せ。持っている物を全部奪え。少しでも憐れみをかけた者はエホバ之を憎む。」そう言って占領した、ミルクと蜜の流れる国、イスラエルの国を建国した。
ダビデ、ソロモンの時代に最盛期を迎え、イスラエルの民族は二つに分かれて世界を流浪することになる。東へ渡った部族は日本に到達した。約三千年前に続々と渡って来た。大体が聖徳太子の時代の頃までに朝鮮と支那から渡って来たのはユダヤ人との混血民族でした。
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聖徳太子の頃に山城の国、ということは今の京都、撮影所のある太秦。あそこに何万人というユダヤ人がいました。西に向かったユダヤ人はアラヴ人を抹殺しながらヨーロッパからアメリカへ渡った。
生き残ったアラヴ人と未だに交戦しているイスラエル。第二次世界大戦が終わった時、イギリスが肝入りでイスラエルという国を建てた。三千年の恨み、辛み、殺し、殺され、終わらない、そういう因縁霊がズーッと尾を引いている。それを「高津神」と申します。
「高津鳥」と申しますのは霊的な因縁を持った人の言葉。主義主張を世間に悪い心象を振りまいたり、偽の神様を立てて人をたぶらかしたり、その言葉のことです。
昔の人は、私から貴方、貴方から私、交わす言葉を「鳥」に例えました。普通の言葉なら問題はありませんが、個人的な主義、思想を煽って世間を惑わす言葉。
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●畜仆し……
昔の日本人は四つ足の動物を食べなかったそうです。
●蠱物せる罪……
呪い、占い、魔術等を言います。レビ記には「エホバ其の者に顔を向け、蠱物せる者は一生許さない」と書かれています。死人を呼び寄せる降霊術もそうです。
レビ記には、大祓は国津罪を十三列記しただけのものに対して、事細かく、何十頁にも亘って一つ一つの罪についての説明が書かれている。ですが、天津罪については聖書には何一つ書いてない。天津罪があるということも書いてない。
その訳は、人間の性能は欲望(ウ)、経験知(オ)、感情(ア)、実践智(エ)、意志(イ)、の五つございます、それ等の構造を言霊で表わしますと、それぞれの五十音図が出来上がります。
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以前、ラビ・トケーヤーというユダヤ人に、言霊の翻訳本を渡した時に、「これはイスラエルのカバラに当たるのでしょうね」と話しておりました。カバラの原理をユダヤ人は持っております。カバラの原理は三千三百年程前、鵜萱不合王朝第六十九代の神足別豊鋤天皇がモーゼに「天津金木を教う」と書いてあります。第五十八代御中主幸玉天皇は中国から来た付儀に、やはり「天津金木を教う」と書いてあります。
それは‘易’のことです。言霊の原理としてそのまま教えたわけではなくて‘易’という概念、数霊の陰陽の数として焼き直して教えた。モーゼにはヘブライ語の言葉と数霊に組み替え脚色して教えた。
カバラの原理と申しますのはヘブライ語の法則と数霊の原理を合わせたようなもの、それを乱したのが「天津罪」、もし、言霊の原理そのままを教えたのであれば、五十音図の並び方が分かります。ところが、そのまま教えたわけではないので、ヘブライ語を民族固有に脚色したものを、どんなに研究しても言霊の原理に行き着かない。
天津金木の原理をそのまま教えなかったのは、いよいよ、どんづまりの世の中を第一精神文明と第二物質文明を両輪として第三文明を転換するには、正真正銘の言霊の原理が出て来なければなりません。先にお話したユダヤ人の牧師に帰り際に言霊の英訳本を差し上げました。日本とユダヤのどちらが先なのかがいっぺんに分かります。よく読んで分からなければお聞き下さい」と帰っていただきました。
今日の国津罪と天津罪のお話はこれで終わらせていただきます。