全部引用。八十禍津日。2。
我
金毛九尾は言霊学でいう所の「八十禍津日の神」。八十禍津日の神の一番上を除いた九段が九尾。今までの世の中の一切ということです。天津日嗣天皇が出ない世の中。凡てのものにくっついている。俺という観念。自我意識にくっついている。自分が持っている自我そのもの。自我というのは他とは違う城みたいなものだと思うとそこにひっついてしまう。
本当の自我というのは「大我」となります。そうではなくプライバシーを重んじるのを「小我」といいます。天の御柱が立ってしまいますとそれは大我ではなくて神です。いろんな切れ目がありますから。次元によって違って来ますから。真理ということから観れば我はありません。「本当はそうだけど」と言って自分を主張する。そこに我が出て来る。
宇宙に主語はありませんから人間として主語を使おうとしますと我が出て来る。言霊以外の言葉というのはここではこうだが、あちらではこうだという意味が違って来る言葉ですから。
アの言葉の並びといいますのは、自分というものが無くなって宇宙と一つになった時に出て来る言葉。それを相手にドンとぶつけてみて相手が感動するのもよし、感動しないのもよし、それが相手のためになるかどうかは当てにならない。九拳剣になる。十拳剣になるのはイとエがないと出て来ない。
我というものを考えると何のことか分からなくなってしまうのですよ。「我」って何だって。もともとないものなのですから、ないけれど良い場合もある。我がないと野放図になりますでしょ。あった方がいいとなると大我とか小我とか区別が出てきてさもあるように思われる。言葉に囚われてしまう。そうなると何のことか分からなくなってしまう。
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八十禍津日の神
八十禍津日と申しますのはね、「嫌だなー」っていう自分の罪穢れが心に見つかりますでしょ。そうするとこれをですね、これを心の中から取り除こうとして一生懸命になるんですよ。まあ言いますとね、「あの野郎やな野郎だな」と思うと、そのやな野郎がなかなか取れない。「そんなこと、自分のことじゃない、他のことに、どうしてそんなに神経を使うんだ」って。
結局同じ因縁を持ってるからなんですな。だから「やだな」と思うなら、自分のその「やだな」と思うのを、「おまえはなぜそういうように『やだな』『やだな』と思うんだ」って問いかけて、「NO!」って言うんです。座禅でいうと「無」って言うんです。「NO!」って言おうがなんて言おうが、「へへん」ともしない。依然として心の中にどっかと腰を下ろして、「ざまあみろ」って。
それをですな、ずーっと続けていって。「これは絶対にこれ直らないや」って。「直らないんだな」って思うとですね、「その直らない自分がどうしてこうやって生かされているんだろう」って思います。
せっかくの人間としての御用を授かってるのに、そんないやらしいことが心の中にわだかまってて、自分のことを言うこと聞かせることもできない、こんな弱い人間が、どうしてこうやって生きてるんだろう。と思うと、生きてるということがですね、「なんとありがたいことか」ということになってきて、「ありがたいなぁ」と思うと、その嫌な癖がその瞬間だけスーッと消えるんです。
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大禍津日の神
そういうことを続けながら生きてくると、「あ、そういうようにして消えていくことを八十禍津日というんだな」と、「そういう神様の働きがあるんだな」とわかってくる。
大禍津日っていうのはですな、八十禍津日と違いまして、議論なんです。わたくしはよく昔ですね、理科の勉強をしてたはずなのに、いつの間にか哲学をやり出しちゃいまして、それで、哲学をやってる最中に「弁証法哲学」というのにのめり込みましてね。
「弁証法哲学」っていうのはですな、わたくしがあることを正しいと思っても、他人が「それは違うよ。こうだよ」と言います。そうすると、自分の心が「正しい」と思っているとすると、そちらの人は反対ですね。だから、正、反とくるんです。正、反が相対立してたんじゃ、いいか悪いかがわかりませんから、そうすると、「これも成立させ、相手のこれも成立させる立場っていうものがないものか」というと、正、反、合となります。その立場をみつけると、「ああ、わたしとあなたと握手できるな」って。
このことを、大禍津日といいます。これも「ダメ」って書いてあるんですから。これでもダメだって。「これはもうやめとこう」と。「やめるよりほかないんだ」と。
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霊葉・ヒバ
全部が「有難い」の一言に尽きる。そう思いますと晴れ晴れとして、そういう経綸は二千年間の暗黒というけれど、暗黒そのものを見るのでなくて、暗黒によって支えられる光明を知っていてエとイを隠した。これが完全な経綸、「有難いな」に裏付けられて初めて皇祖皇宗の深謀遠慮が分る、自分のウとオの迷いが「有難い」と思われたときに天之御柱が立った時。
ということはイとエの次元からウ・オを観れば、感謝する高山の段にある、そうすると禊祓の八十禍津日、大禍津日、の禍(まが)を直さんとして、神直毘、大直毘、伊豆能売のウオエは短山(ひきやま)の段ではなくて高山の段にある天之御柱についての記述なんです。ここで暗黒と光明という対立がなくなって唯一光明の世界に入ったということになります。
ウとオを「有難い」と思えるイの言葉、霊葉のこと、ようするに大和言葉なんだということ、世の中の万象に大和言葉で話すということは、それ自体が光である、霊葉である、その他に光があるわけではない。言霊で創られた大和言葉で物事を表現するということは、高天原の原理が立ったというわけです。
すべてはウオアエイの次元で物事を判断していきます、反省ばかりでは宗教ですから、宗教を通り越しての学問ですからそんなに難しくは無い。宗教的に考えるから迷うし難しくなる。ウオアエイと進んでいく道として言霊の学問を精進しますと易しい。自分と皇祖皇宗、自分と伊耶那岐、伊耶那美、他のものは視野に入れなくていいということ、この一ヶ月間で導かれた内容です。
今までの事をご破算にして組立てなおしたから分ったことです、この「有難い」の心境を二面で捉えないと分らない、一面は言霊の学問のウオアエイと進化する、もう一つは言霊の学問に則って経綸している皇祖皇宗の歴史が、何の狂いも無く人類の歴史を創造していっているということです。
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両児島・フタコジマ
八十禍津日とは、上からアイエオウと並ぶ天津太祝詞音図をパタンと下に折り曲げて五十音図を百音図にした図を作って下さい(古事記と言霊234頁参照。)なぜこの図を作るか。
一つの目から見た社会というものは全てこの五十音図で表わされる、これは事実です。ではなぜ百音図を作るかというと、ここが人間の心理の一番知っておかなくてはならないことなのです。
下半分の五十音図の目、この下の目で見ますと、実は今の一般の現代人の目がみんな下の目なんですが、こういう質問はどうでしょう?
「あなた方どこに住んでいますか」とたずねると、東京都のどこそこに住んでいる、などのお答えでしょうが、こういう答え方もあります。「あなた方全部間違いなく地獄に住んでいます。」反論する方もおありでしょうが、絶対天国ではないですね。
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八十禍津日
アからエ
八十禍津日(やそまがつひ)の神と大禍津日(おほまがつひ)の否定しないところが生きてくる。日によって言霊の世界へ渡す元になるんだという意味があるわけですから。八十禍津日の神で言えば、宗教的修業を積んだとしても、地獄から天国へは渡せないんだと知ることで渡せる。
そういうことを言うと皆さん引いてしまう。「そんなこと私に出来そうもないわ」って。そんなことないんですよ。聞いてくださればいいんです。聞かないで解らないということになると解らなくなってしまう。
それが各々の中にある三千年の業なんです。そこからどうしても抜け出なければなりませんから。三千年って言ったら何も出来ませんが、今・此処といえば一瞬ですから。その中にあるものを突き抜ける。
八十禍津日の神の八十というのは自我というものの確立を説かない。現象でもって自分を反省しようと。自己の確立という、所謂、天之御柱、国之御柱というものを説かない。それで八十教というのです。
西洋人には天之御柱、国之御柱というものをなかなか理解できない。人間の心の中にはズバーッと宇宙を貫いている剣、柱が立っているのだということを。そのあたりが難しいんですね。
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禊祓?¬
それで黄泉国へ行って伊耶那美の神の実情を知った上で逃げて帰ってくる時に整理しながら千引の石で離婚します。整理する立場と整理される立場では永遠に一緒にはなれないんだと。永遠になれないものを自分のものとして人類文明というひとつのものを創っていくには、どういう言霊の活用法になるのだろうかと。
その検討が始まるわけです。その時にこうなるであろうという自覚された最後の心の構造、建御雷の男の神というものを自分が禊祓をする時に目標に行くガイドブックとして立てるわけです。それが衝立船戸の神。
大筋は出ても結論が先に分かってしまったら面白くないですから。あくまでもこれは覆面であって八十禍津日ではダメということになって「この禍を直さんとして」と言って、覆面を表面化する。だけでもまだ十分に出し切らない。
出て来る前の底中筒と綿津見、これら六神が出てきて初めてその正体が明らかになるような話方をして三貴子が登場する。「この禍を直さんとして」というのはあくまでも今までの流れの中であるものなんですよということで、直毘として伊豆能目として出してくる。
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禊祓?
ここまでは心の葛藤として出て来るけれどもこれを完全にするためには衝立つ船戸の神を持ってこなくてはならないのですよということを言葉の裏で示すんです。話法の順序として分かろうとしているところを途中で分からしてしまったら分からなくなる。
建御雷の男の神として構造が分かってしまっているもの。これを伏せてしまって、ただこれを目標として掲げたんですよということだけを言っておいて、その掲げたものが何時、どのように姿を現すかの劇的な瞬間を八十禍津日においた。そこでパッと見せる。
それで今までは主観的のみに完成されていたものを客観的にも完成することが可能ですよという結論を持っていくわけです。ここまでしか出来ない人間が他のやり方ではどうにもならないことを自分の胸に秘めていた「この禍を直さんとして」でオープンする。
その内容は底・中・筒男の神、綿津見の神、ですよというこです。それが子音の並びで示すことになる。誰もぐーの音も出ない。従うより他なしということです。それが天津太祝詞の子音の並び方の同じ。あーでもこーでも、といっていたことが実にうまく最後にビシッと決まる------------
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極楽と地獄
極楽のアというのと地獄のアというのは、行動ではまったく同じなんです。だけど、人生の意味はまったく違うんです。
戦うことを修羅と言います。でも野球なんかで、棒を持って相手の投げてくる球を打って戦う分には、これは極楽の業ですな。それを人がみんなおもしろがって見てる。だけど本当に棒でひっぱたき合いしちゃったら、これは地獄になります。行為は同じでも、そういうように違ってきます。
そのときに、人間の反省によって「自分はこういうようにひっぱたき合いしたんだなあ」といって、「にもかかわらず自分がいまこうやって生きてるじゃないか」と。そうすると、自分そのものは本当に地獄に堕ちちゃっているようでいて、実はその自分というものを温かい目で見てくださってそして生かしてくださっている、そういう存在の生命の尊さ。信仰で言えば神の尊さ、仏の尊さというものを知る。
それで、「あっ」と気がついたとき極楽に行くけれど、また元の木阿弥で地獄に下がる。また「ああ、生かしてくださってるんだな」って、感謝・報恩の気持ちが続くうちは極楽に行く。ふっとそれを忘れちゃうと、また地獄に落っこっちゃう。
で、これを八十禍津日(やそまがつひ)っていうんですが、古事記というのは言霊の学問であると同時に、言霊をどうして学べばいいかも、その裏でちゃんと教えてくださってるんです。「上に行ったり下に行ったりするのでは、禊祓はできませんよ」って。なぜならば、それは黄泉国に到る時の「汚垢(ケガレ)によりて成りませる神なり」と書いてあります。
だけど「その禍を直さんとして」っていって、神直毘、大直毘、伊豆能売という神様の名前が出てまいります。「神直毘(かむなほひ)、大直毘、伊豆能売(いづのめ)という神様として表されている境地に、人間はどうしたら行けるんだろうか」となると、皆目書いてないように見えます。だけど、ちゃんと書いてあるんです。
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禊祓
ここに「津日」という字があります。禊祓をするというときにはこれじゃあだめなんだけれど、個人の修行としては行ったり来たり行ったり来たりしてるうちに、八つの父韻の自覚が生まれてくる。津という字は渡すという意味ですから、「神直毘、大直毘の『ヒ』に渡してくれますよ」って、ちゃんと書いてある。
喜んだり嘆いたりした経験の中から、たゆまずそのことを続けていくうちに、あるときそれを、大直毘といいまして、究極において言霊の一音一音が「どういうように考えても合理的に構造を持ってるなあ」とわかる。
または、悩んだり喜んだり悩んだり喜んだりしてるうちに、しばし極楽に留まることができると、「ああ、ここの次元から見ると、実は地獄なんていうものはないのであって、あるとするならば、極楽というものを知らせるためにのみ存在するものなんだ」というようにわかったときに、ここに行きっぱなしになる。地獄は消えてしまう。
だから八十禍津日、大禍津日というのです。「個人的な修行としては、これを続ければいいんですよ」ということを教えてくださってるんです。その結果として得るものは、極楽の目でもって地獄を見る。
「嫌な次元だな」として見るんじゃなくて、「これも自分の体だな」として見るようになってくると、ここにもう禊祓は完成してくるんだよ、ということになってまいります。
極楽に留まっていて、地獄が全然自分に対して意識できなくなったとき、それが禊祓の完成の時です。意識できなくなっちゃうです。「昔みたいに地獄を見たいなあ」っと思っても見えない。なくなっちゃうんです。
だからコロコロコロコロ笑ってりゃあいいんです。「地獄にいるんだって?たいしたもんだね。いっぺん卒業するとなかなか行けないから、しばしそこにいたまえ」なんていうことになる。
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真理は真理そのままに
そういう意味でインターネットはすばらしいです。もうここまで来たら隠す必要はない。第三のキーワード「言霊の会」の話をすると全部話しをすることになります。「言霊の会」が成長する従っていろいろなことが分かって来る。総結論は「光」だということになります。
地獄から光を見ている内は分からない。何故かって言うと地獄はないものです。コトタマの学問そのものをジーッと見ることによって、人間の存在を言霊の学問から見ていけば、当然光というものに行き着く。その光に精神のフォーカスを合わせば三千年の闇が一瞬にして消えます。
暗いところがあるからそれを生かしている光があるんだと…いう目で見るとそれは禍であると古事記に書いてあるんですから。八十禍津日(やそまがつひ)の神は駄目だよって。光は光として見なければって。
建御雷(たけみがづち)の男の神を掲げるでしょ。修業的には八十禍津日の神からではいけないんだって古事記は否定しますから、建御雷の男の神をジーッと見ることのみ光を見ることが出来る。真理は真理じゃないところから見るのではなくて真理は真理そのままに見るのだということを一月まえから教えられた。
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八十禍津日の神。大禍津日の神。「身禊」14。
ここに詔りたまはく、「上(かみ)つ瀬(ア)は瀬速し、下(しも)つ瀬(イ)は弱し」と詔りたまひて、初めて中つ瀬(ウオア)に堕(い)り潜(かづ)きて、滌(すす)ぎたまふ時に、成りませる神の名は、八十禍津日(やそまがつひ)の神。次に大禍津日(おほまがつひ)の神。
この二神(ふたはしら)は、かの穢(きたな)き繁(し)き国に到りたまひし時の汚垢(けがれ)によりて成りませる神なり。
● 八十禍津日の神
● 大禍津日の神
八十禍津日の神が、ア段(感情性能)の意義・内容の確認、
大禍津日の神はイ段(意志性能)の意義・内容の確認であります。
有るがため「まがつい」を招来してしまうことは日常茶飯事です。手助けをしたのにそれがために自他ともに負の結果を招いた。こういったことでもなく、単に存在したがために、何かしたがために、「まがつい」となることは、主体行為の裏側にこびりついています。全ての行為は「まがつい」と共にあります。
「親切が仇になる」「おせっかい」「余計な口出し」「差し出がましい」「ありがた迷惑」「出過ぎたまねをする」等は原因結果の因果を言っていますが、上記二神はよもつ国、かの穢(きたな)き繁(し)き国での創造は直接「まがつい」の創造であると言っています。
この二神はかの穢き(きたなき、言霊の気、霊が無いまま)繁き(頻繁に繰り返される自己主張の)国に到りたまひし時の汚垢(けがれ、気枯れ)によりて成りませる神なりで、悪神とか禍神とか善神とかではなく、言霊原理にそぐわない全てを言います。
そこで禊ぎをする自分自身(八十禍津日の神、大禍津日の神)もア次元やイ次元で物事を見てしまう穢き禍を生じている神であるということです。衝立つ船戸から奥津甲斐弁羅の神までを通過している宗教、芸術でさえも、その教義や問答の端緒に世界に対する自覚はあっても、終端は各個別の意識に任されていて全体を見ることが出来ません。どの宗教も芸術家も未来、結果、客体に対する明瞭な物は提示出来ていません。
主体の自覚的な立ち上がりは成し遂げられても、それがどこへ行ってどうするのか、結果の自覚はなく時間の経過に委ねられています。どのような偉大な宗教家も立ち上がることだけを呼びかけその後は知りません。宗教からする意識への問いかけの限界です。
イの次元での大禍津日の神の「まがつい」はどのように現れてくるのでしょうか。よもつ国で最後に伊耶那美が追いかけてきました。最後に残った問題として意志をどうすると問いかけたものです。伊耶那美の売り言葉に対して伊耶那岐の買い言葉が出てしまいました。千に対する千五百です。伊耶那美が先に言い出したことであるにせよ、彼がまず分離の意志を置いたこと見て取られたからです。彼はこの段ではあれは「まがつい」を創ることだったと反省します。
行為にしろ意志にしろ人に対する時にはその内容が伝わります。凡人の日常のことですが、言い出すことその物がすぐさま「まがつい」となる伊賦夜坂いうやさが、言うや否や性になることことがあり、話し出す姿勢に秘められた意志そのものが問われます。
もちろん伊耶那岐でないわれわれは、この二神においても、正当な言霊原理の創造の為、八十禍津日の神が、ア段(感情性能)の意義・内容の確認、大禍津日の神はイ段(意志性能)の意義・内容の確認をまず目指すことになります。
そして、
次にその禍を直さむとして成りませる神の名は、神直毘(かむなほひ)の神。次に大直毘(おほなほひ)の神。次に伊豆能売(いずのめ)。
古事記の進行はこのようになっています。