月読(つくよみ)の命。「身禊」。29。
次に右の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、月読(つくよみ)の命。
右の御目に相当する次元は言霊オの経験知です。禊祓の実行によって人間の経験知、それから発生する人類の諸種の精神文化(麻邇を除く)を摂取・統合して人類の知的財産とする働きの究極の規範が明らかに把握されました。月読の命の誕生です。その精神構造を言霊麻邇によって表わしますと、上筒の男の神に於て示された如く、オ・トコモホロノヨソ・ヲとなります。
---言霊ヲ、言霊オ---------
次に国稚く(くにわかく)、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母なす漂へる時に、葦牙のごと萌え騰る物に因りて成りませる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に天の常立(とこたち)の神。この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。
心の宇宙から言霊ウ、アワと剖判が起りました。しかしまだ先天宇宙の構造の話は始まったばかりで、それが確定されるのはまだまだ先の事であります。「国稚く」の国とは組んで似せる、区切って似せる、の意。東京と言えば東と京の字を組んで名を付け、東京といる処の内容に似せたもの、という意味であり、また東京という処を他の処とは別に区切って、東京の地を際(きわ)立たせたもの、の意となります。「国稚(わか)く」とは、先天構造を構成する言霊ウ、アワの検討は終えたけれど、まだその区分は始まったばかりで、しっかりと確定されたものでない、即ち、稚い、幼稚なものであるの意。「浮かべる脂の如くして」とは、水の上に浮かんだ油のようにゆらゆら漂っていて安定したものではない、という事。「水母(くらげ)なす」の水母とは暗気のこと。混沌としてまだ明白な構成の形体をなしていない、の意。
「葦牙(あしかび)のごと萌え騰る物に因りて成りませる」の意味は、濕地に生える葦が春が来ると共に芽を出し、またその枝芽から次々と芽を出し、何処が元で何処が末だか分らない程分かれた枝芽を出しますが、その姿のように、の意であります。
宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に天の常立(とこたち)の神。
言霊ヲ、オ。宇摩志(うまし)とは霊妙不可思議なの意。阿斯訶備(あしかび)とは葦の芽のこと。比古遅(ひこぢ)は、辞書に比古(彦)は男子のこと、遅(ぢ)は敬称とあります。男子(おとこ)とは音子で言葉の事。「霊妙に葦の芽の如く萌え上がるように出て来る言葉」といえば直ぐに記憶の事だと思い当たります。寝そびれてしまった夜、目が冴えてとても寝つかれそうにない時など、過去の記憶が次から次へと限りなく浮かび上がって来ます。一つ一つの記憶は関連がないような、有るような複雑なものです。宇摩志阿斯訶備比古遅の神と古事記が指月の指として示した実体は、人間の記憶が納まっている心の空間(宇宙)のことであります。これが言霊ヲです。一つ一つの記憶は独立してあるものではなく、それすべてに何らかの関連をもっています。その関連が丁度葦の芽生えの複雑な形状に似ているために、太安万侶はこの神名を指月の指としたのでありましょう。
天の常立(とこたち)の神とは大自然(天)が恒常に(常)成立する(立)実在(神)といった意味であります。宇摩志阿斯訶備比古遅の神が記憶そのものの世界(言霊ヲ)であるとするならば、天の常立の神・言霊オとは記憶し、また種々の記憶の関連を調べる主体となる世界という事が出来ます。またこの世界から物事を客体として考える学問が成立して来ます。言霊ヲの記憶の世界も、その記憶を成立させ、またそれら記憶同士の関連を調べる主体である言霊オの宇宙も、それぞれ人間の持つ各種性能の次元宇宙とは独立した実在であり、また先天構造の中の存在で、意識で捕捉し得ないものでありますので、宇摩志阿斯訶備比古遅、天の常立の二柱の神も「独神であり、身を隠している」と言うのであります。
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月読(つくよみ)の命
つく・何かが付いて光り、何かに付かれて光る、
よ・夜、受動、存在したもの(世、経験世界)、意識内、記憶部分等
み・見る見られる、五感と意識で感じられる
命・働き
月は古代から自ら輝くものでないことは分かっていました。自分から始まって存在の一切、肉体精神活動の成果一切は、光が当たらなければまるで夜の部分に闇の中にあるだけです。その存在を知らしめる働きの神が月読の命となります。天照らすは輝くといっても相手が無ければ輝かすものがありません。天照らすにそれを提供して手助けをする役目です。意識界物質界を問わずその経験、存在、知識概念、記憶等この世の全てをいい表します。
それら存在の正当なあり方がオ・トコモホロノヨソ・ヲによって明らかになったということです。
蜜柑を食べたくなり机の上に持ってきました。この過程、現象世界の子音の連続を月読みの命で解説できるかやってみましょう。
オ・主体側です。わたしはここにいますが蜜柑はありません。
ト・た・ふっと、自分の意識をよぎり何かがやってきた兆しがありました。まだはっきりしませんが、蜜柑の香を嗅ぎたくなったのか、お腹が空いて食べたくなったのか、昨日の食べた記憶が甦ったのか蜜柑なのか、意識内に戸のようなついたてがあってその向こうに何かあるイメージが浮かび、それを探すように言われたようです。飛び立つ飛び付き取っかかりのと、と(十)の道の戸を立てる、言葉だけ空想神話ののお話でなく、現実に行ける道筋がある、あるいはその記憶がある。
コ・か・立ち上がったイメージの戸を押してみると、暗くハッキリしない世界ですが探せという命令に素直に従えば、自然と自分の経験過去の記憶が甦り、知識概念が援助くれ、意識の中心に先程のイメージが一個の単位となってあることが分かりました。現象世界では実体がある、又は、あった記憶がある。在るというのは他と区別された個別の単位としてあること。
モ・ま・物も記憶もそこにあるだけでは何ものでもない。主体と結ばれ主体の意志に沿って働かなければならない。しかし物も記憶もどのように主体と結ばれるのか。その働きが現象となると持つ、持たれるということになる。主体に持つという行為を起こさせてそのものは主体に宿ることになる。それは目標となる。
ホ・は・目標があっても、行為が無ければ何も起こらない。そこで蜜柑のイメージはその人の(私の)意志に取り込まれ自己主張させなければならない。そして自分の表面を明かすこと、内実隠れたものを表に出すことによって、穂を出すこと、帆を揚げること、ほのめかし炎で示すことになる。蜜柑がそこにあることをわたしは感知することになる。
ロ・ら・蜜柑があること又はあるだろうことが分かっても手元にするまでにはまだ多くの関門を超えなければなりません。主体側に意志があっても、それを動かさねば行為とならないので、蜜柑の感知を主体に知らせ行為を喚起することになります。蜜柑があるぞあるだろうあるかもねと騒ぎ立て、ろれつを回します。
ノ・な・そこで宣り揚げられた中から意志行為に適応するものが選ばれ行動の名目が決まります。自分で作った名目に乗り込みその言葉に載ります。言葉に乗り込んだまま自分を行動に駆り立てていきます。
ヨ・や・一端言葉に乗り行為を起こせば、過去知識、経験、記憶等全てが手助けをしてイメージと行為の実現に協力するようになります。
ソ・さ・そして、結論、目標に向かって集約していき、
ヲ・客体の蜜柑を得ます。