筑紫(つくし)の島
古事記では神名にしろ島名、その他にしろ、名前を出した後につける解説のようなものがとても奇妙です。そのまま不思議なことだと受け取ればいいものを、わざわざ現実の場所などをさがしに行くものだから多くの見解がでてきます。
場所探しに奔走する場合には該当場所がなければ、無いという不明な場所とか空想上の場所とかを配当します。これは在る事、在ってしまった事から頭脳活動が出発していく事です。ところが古事記では活動主体は常に「成る」「成っていく」ものです。御中主の神も「成りし神」です。動いて止まない創造物被創造物とは意識、頭脳の働きのことです。そこで古事記の上巻とは頭脳の働きを解明した世界初の書物だという事になります。
もし島とは現実のどこかの島のことだというところから出発しますと、じぶんのこれから行うことは必ずどこかの島に収束していく発見の旅になります。ここでは経験知識の解析がものを言うようなるでしょう。
一方古事記の方法によれば、精神世界の意識の島か現存の島かそれとも別物かの、一切の混沌がまず与えられます。いっさいの混沌も経験の範囲内でのことですが、ここには意志、感情、行為の世界も含まれています。
最初から意識の向かう方向を規定することはありません。ついで島という言葉の内容の探検に入ります。天地がひらけて高天原があって既に大地があるように感じるのに国を創ろうと言って、国どころか蛭子などを創ってしまい流したとある。その後に出来たのが小さな島々である。大地どころの話ではない。そもそもオノゴロというのが怪しい雰囲気を持つ。
このように経験知識を当てはめて行って現実の島を見つけるという方向が出てこない。そこで実のある内容をさらに探ることになる。経験によって島の内容が見つからないとなれば、後は欲望の世界からの助け、五感観念の世界からの助け、あるいは印象によるとか、祈るとかになっていく。
学問の世界ではこれらの扱いは非常に矮小化されていて公言されないことが多い。その癖大発明大発見する人の話の中には夢でとか散歩中に突然現れひらめいたということをよく聞く。古事記の真の内容が言霊学であり、精神世界意識の操作法であると、どのように気づいたのかよく知らないが、どこから読んでも古事記の上巻は言霊学の原理を述べたものという見解に不審な点は無い。
わたしの場合は本、ネットhp『言霊百神』から知識を得たので、ことだまと神名の配当を追体験したものではない。しかし、現存の島探しの疑問点だらけな状態からすれば、意識の領域に関する記述が古事記だとする方が、余程整合性があり不備な点が無い。
『筑紫(つくし)の島を生みたまひき。この島も身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。かれ筑紫の国を白日別(しらひわけ)といひ、豊(とよ)の国を豊日別(とよひわけ)といひ、肥(ひ)の国を建日向日豊久士比泥別(たけひわけひとわくじひわけ)といひ、熊曽(くまそ)の国を建日別といふ。』
意識は常に上に積み重なり大きく拡がっていく。何故それが可能なのかその理由の解明をどのような哲学も精神分析学も成し遂げたことは無い。(古事記と古代のフトマニ言霊を知っていた霊知り人を除いて)
その意識活動の要が父韻チイキミシリヒニの八言霊の精神宇宙内での活動という。
この意識活動があることによって人間の創造意志活動がある。創造意志の智性の原律をすべて尽くしている、即ち竺紫(つくし)の島である、という事です。
ここは経験知識超える理解が必要とされるところで、ここに記載されているのは単なるわたしのメモです。
尽くすというのは内容を全部出すという非常に強い言葉です。
八父韻によって意識の内容が全部出てくるということになるのでしょう。
次に伊岐(いき)の島を生みたまひき。またの名は天比登都柱(あめひとつはしら)といふ。
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