「一二三四五六七八九十、(ひとふ み よ い む な や こと)、ふるべ ゆらゆらと ふるべ)」と唱える「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱えながらこれらの品々を振り動かせば、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮するという。 (引用。)
何千何万の思いや願いがありましたが死人が生き返ったことなどありませんでした。今でも復活を信じる人達が世界中にいます。正しいとか間違っているとかは問われません。宗教の言葉で語られると、理性的といわれる人達も聞き入ります。
経験的には受け入れられませんが、意識のうちでは少なくとも聞くだけは聞いておこうと寛容な気持ちになります。
受け付けない経験を越える意識が死者の蘇生があるなしに係わりなく全人類的に保たれているからでしょうか。
では、そのような意識はどこにあるのでしょうか。
これは、黄泉国そのものの話ではなく、身禊の手順とは、黄泉国から出てくる経過を辿るものであるという理解からの照準を定めています。
ですので、黄泉国の話を身禊として捉えるものです。
ギの命には客体世界への対応と、自分自身が客体世界となることへの二重の対応がありますが、まずは客観編として、客体世界の土俵へ上がります。
後半は、主観が黄泉国となってしまうことへの対応です。
ひふみ奏上文は唱えれば死者も蘇生するといわれていますが、人間身体の蘇生ではなく魂の蘇生のことです。
例えば奏上文は次のように解されます。
ひふみよいむなやこともち 、、、赤子の持つ天然自然の判断規範(十音)を用いて。 まずこの全文が先天にあります。「ひ」から「と」までの十の意識を用いて。ついで十の要素が明かされます。
ひ・先天の「ひ」--はじめに、先天の心(霊・ひ)の全体活動が起こり、意識の全体が立ち上げられます。
ふ--霊(ひ)がふっと踏み出して意識の対象に付帯付加して(ふ)、主体と客体の二つに剖判します。
み--そこに自他を見合いする意識の元に意識の内実が形成されます。
よ--実となる実在世界の四つの、見られた側のよ(世)と見る側のよ(世)の主客が現れ
い--それらの間を創造意思(い)のイマココ(い)の働きが活動を始めます。
む--そこで実在世界と働き世界の霊(ひ)と実(み)である主客が結(む)すばれ
な--意識の内実(み)である主客の世(よ)の、意思(い)による結(む)ばれた働きの現れが名(な)となって現れ、
や--その自他の世間に流れでる弥栄(や)の姿が
こ--後天の子現象(こ)となる。このように、
と--意識の各次元の十の戸(と)を通過して事が成り了解して、事の帳(とばり)が降りて事の実相が出来る。(⇒ここまでで一循環が足りて終り、そして再び「ひ」に戻って)
ひ・後天の「ひ」--現象の中の霊(ひ)が先天の「ひ」に帰り、言霊循環の一行程が終了する。
(以上が言霊循環の原理で、続いて以下が通常の運用法に和をもたらす運用法にするための禊祓する方法。)
------------------
ろらねしきる 、、、世間一般で流布流通通用(ろら)しているものを、上記十の言霊の意識運用の言葉(ね)に仕切り直して、
ゆゐつわぬ 、、、湯水(ゆ)のように勝手に(ゐ・意思の客体側)出てきて(つ)通用させている方法(わ・和を装う)を止めて(ぬ・禁止停止)
そをたはくめ 、、、それを(そを)、タの葉(たは)、タで始まる言霊音図に組み換え(くめ)て(たかまはらなやさにすること)なさい。
か 、、、、、、、、、そうするとそこに現れる火(か)のようにはっきりした明瞭な意識の(アがカとなった)、
うおえに 、、、、、ウオエの各意識次元の配列が正当な意識活動の元になるように
さりえてのます 、、、探し(さ)理解(り)し得(え)て(さ、り、え)、それの解体改築を了解宣命(宣(の)る)ましまして(ます)
あせヱほれけ 、、、意識の始めである「あ」の瀬(せ)で和の選択表現を得る(ヱ・)ような、立派で誉れある(誉霊・ほれ)心の系列(け)を作りなさい。
正当な思惟規範の元に行なわれる人の創造活動が、固着不動であることからの復活ということです。
黄泉国から出てくることはイザナギの復活の話になっています。
(キリストは大和の地に来たということですから、スメラミコトによって精神の復活の原理を聞いたことでしょうけれど、比喩でしか語ることを許されなかったのでしょう。)
ここを以ちて伊耶那岐の大神の詔りたまひしく、「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国に到りてありけり。
かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」とのりたまひて、
竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら) に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。
かくして伊耶那岐の大神は禊祓を開始しました。
ではその禊祓の内容は何かといえば、黄泉国でしてきたことの全体です。黄泉国に入ることから始まり出るまでの全体となります。
またそれは、黄泉国で振る舞う客観世界での禊祓と主観世界での禊祓とに別れています。後者はホーム⑥身禊から見た黄泉国・主観編で扱います。主観編で扱う黄泉国の様子は古事記には全然書かれていませんが、黄泉国の記述がそのまま主観編となって読まれることになります。
固定した客観世界を作る黄泉国の話ではあっても、その始めは主体側の行為から始まります。
まず黄泉国の原文を引用しておきます。
黄泉(よもつ)国の原文。
(客観世界の全貌)
ここにその妹伊耶那美の命を相見まくおもほして、黄泉国(よもつくに)に追ひ往(い)でましき。
ここに殿の縢戸(くみど)より出で向へたまふ時に、伊耶那岐の命語らひて詔りたまひしく、
「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、吾と我と作れる国、いまだ作り竟(を)へずあれば、還りまさね」と詔りたまひき。
ここに伊耶那美の命の答へたまはく、「悔(くや)しかも、速(と)く来まさず。吾は黄泉戸喫(へぐひ)しつ。
然れども愛しき我が汝兄(なせ)の命、入り来ませること恐(かしこ)し。かれ還りなむを。しまらく黄泉神(よもつかみ)と論(あげつら)はむ。
我をな視たまひそ」と、かく白(もお)して、その殿内(とのぬち)に還り入りませるほど、いと久しくて待ちかねたまひき。
(主体との係わり)
かれ左の御髻(みみづら)に刺させる湯津爪櫛(ゆつつまくし)の男柱一箇(をはしらひとつ)取り闕(か)きて、
一(ひと)つ火燭(びとも)して入り見たまふ時に、蛆(うじ)たかれころろぎて、
頭(かしら)には大雷(おほいかづち)居り、胸には火(ほ)の雷居り、腹には黒雷居り、陰(ほと)には柝(さく)雷居り、左の手には若(わき)雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴(なる)雷居り、右の足には伏(ふし)雷居り、
并せて八くさの雷神成り居りき。
(客観世界の整理とその反応)
ここに伊耶那岐の命、見畏(みかしこ)みて逃げ還りたまふ時に、その妹伊耶那美の命、「吾に辱(はじ)見せつ」と言ひて、
すなはち黄泉醜女(よもつしこめ)を遺(つかわ)して追はしめき。
ここに伊耶那岐の命、黒御縵(くろみかづら)を投げ棄(う)てたまひしかば、すなはち蒲子生(えびかづらな)りき。
こを摭(ひり)ひ食(は)む間に逃げ行でますを、なほ追ひしかば、
またその右の御髻(みみづら)に刺させる湯津爪櫛を引き闕きて投げ棄(う)てたまへば、すなはち笋(たかむな)生りき。
(主体側の対応)
こを抜き食(は)む間に、逃げ行でましき。
また後にはかの八くさの雷神に、千五百(ちいほ)の黄泉軍(よもついくさ)を副(たぐ)へて追はしめき。
ここに御佩(みはかし)の十拳の剣を抜きて、後手(しりで)に振(ふ)きつつ逃げませるを、
なほ追ひて黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に到る時に、
その坂本なる桃の子(み)三つをとりて持ち撃ちたまひしかば、悉に引き返りき。
(自覚)
ここに伊耶那岐の命、桃の子に告(の)りたまはく、
「汝(いまし)、吾を助けしがごと、葦原の中つ国にあらゆる現しき青人草の、苦(う)き瀬に落ちて、患惚(たしな)まむ時に助けてよ」とのりたまひて、
意富加牟豆美(おほかむづみ)の命といふ名を賜ひき。
(客観世界との決別)
最後(いやはて)にその妹伊耶那美の命、身みづから追ひ来ましき。
ここに千引(ちびき)の石(いは)をその黄泉比良坂に引き塞(さ)へて、その石を中に置きて、
おのもおのも対(む)き立たして、事戸(ことど)を度(わた)す時に、
(双方の言い分)
伊耶那美の命のりたまはく、「愛(うつく)しき我が汝兄(なせ)の命、かくしたまはば、
汝の国の人草、一日(ひとひ)に千頭絞(ちかしらくび)り殺さむ」とのりたまひき。
ここに伊耶那岐の命、詔りたまはく、
「愛しき我が汝妹の命、汝(みまし)然したまはば、吾(あ)は一日に千五百の産屋を立てむ」とのりたまひき。
ここを以(も)ちて一日にかならず千人(ちたり)死に、一日にかならず千五百人(ちいほたり)なも生まるる。
(客体世界だけの実在化)
かれその伊耶那美の命に号(なづ)けて黄泉津(よもつ)大神といふ。
またその追ひ及(し)きしをもちて、道敷(ちしき)の大神といへり。
またその黄泉の坂に塞れる石は、道反(ちかへし)の大神ともいひ、塞へます黄泉戸(よみど)の大神ともいふ。
かれそのいはゆる黄泉比良坂(よもつひらさか)は、今、出雲の国の伊織夜(いふや)坂といふ。
(身禊の準備)
ここを以ちて伊耶那岐の大神の詔りたまひしく、「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国に到りてありけり。
かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」とのりたまひて、
竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら) に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。
-------------------------------------------------
-------------------------------------------------
身禊から見た「神」から「大神」へ
伊耶那岐の神と伊耶那岐の大神の違い、神から大神への飛躍を説明するところです。その内容実体とは、自覚した決心です。どんなことでもやろうと決めたこととそれ以外のこととの間には大いなる飛躍があるということです。あることを決めると他のことは排除されていきます。イザナギの神の次元では排除されてしまえばそのまま置いておきぼりです。大神になる次元ではそうはいきません。
引用原文の最後に伊耶那岐の大神とでてきて、今までの伊耶那岐の神に「大」が付きます。これは自分以外の対象世界が現れるときにそれと一緒になった時に用いられます。向こうには向こうの世界があると確認されることです。それならば共に行かねばなりません。赤子幼児に対象と自分の差異が判りません。またそれだけではなく、日本語を除く他の言語規範を使用している「わ行」を持たない人々にも言えます。わ行を持たない意識には主観的な意識と出来た結果だけしか眼につきません。
アワギ原という決心を示す言霊音図にはその決心の内容と、それと相容れない他者を排除する内容とが含まれています。黄泉国の汚さを排除するだけでは汚染をまき散らすだけのことになってしまいます。それだけでは伊耶那岐の神から「大神の御身(おほみま)」になれません。
「神」だけでは、おほみまを持つ伊耶那岐の大神のように、つまり大和の日本語を話す人達のように、結果側から主体を見ていくことが出来ません。結果の客体表現のみが関心事となっています。成せと命令はしますが、共に成すことができません。
つまり、他国の人達には身禊を行なう言語規範がないので、禊祓もありません。温故知新などの反省することが言われますが、主体側の係わりの始めの姿が問題を作る結果となってしまったことが取り上げられ、イマココの輪、和による生きて巻き取られて返される姿がありません。
黄泉国に入ってその汚さを見てしまいましたが、イザナギが黄泉国でしてきたことと反対のことをするだけでは、汚れないように工夫するだけです。中に入るのは必然なのですから、入ってから反対のことをするだけではそこでしたことを救えません。共に輝きながら出てくる工夫が必要となります。
【ここにその妹伊耶那美の命を相見まくおもほして、黄泉国(よもつくに)に追ひ往(い)でましき。】
ここにイザナギの行動が始まります。黄泉国の解説は前章でしましたので、この論考では身禊するものと黄泉との関係を探すようにしていきます。
イザナギの言霊アの世界の全体が出現します。イザナギにアの世界の全体として心に留まっているものを客体化して対象化していなければ、自らの心を相手において探すことはありません。愛しいイザナミよ、という思いが出てしまいました。
後に黄泉国の汚さを見ることになりますが、見たくないなら、「相見まくおもほして」という、愛着と執着を持たなければいいのです。
ところが、そうはいかず、主体を突き動かす吾の眼(あめ)が作用します。色は空としても、空は色に異ならずです。
イザナギの愛おしさはどこにあるのでしょうか。普通に言えば頭の中の思いにあります。ところがイザナギは思いに留まらず、黄泉国という自分以外のものを見出します。何故ならそこに客体化したミの命を見たからです。自分の主体意識の他に主体の対象がいたのです。日常では全く普通のことでそこで手を取り言葉を交わすことになるでしょう。しかし、ここでは心の原理教科書の扱いですから、別の意味になります。イザナギの主体意識を客体の中で確かめたいということです。 自分の吾の眼の思いと相手対象との一致を見出したく思ったのです。
ここに二つの主体の係わりがあって通常はその混同同一視で事が運びます。
黄泉国では物象となった(客体となった)イザナミが相手ですが、八十禍津日からスサノオまでで示されているイザナギの大神の始める精神の国内の(高天原内の)純粋身禊があります。ですので、ミの命にとっては物象と意識の係わりですが、イザナギにとっては主観内そのものにおいての物象化との戦いになっています。
主体意識が主体そのものを対象としていくのが、この論考の後半となる「身禊から見た黄泉国・主観編」です。
ですので普通に言われている死者の国とか死後の世界ということでは決してありません。主体と主体の向う客体世界の関係を問う話になります。
さて、「相見まくおもほして」という思いが現象として様々になるのですが、古事記は心の原理論ですからそちらの方向に向います。手応えのある現実からすれば弱々しいことのようにみえますが、確実な方法です。
ここで、愛おしさがどう出て来るのかが明かされます。その反対の方向を取れば身禊に近づきます。
愛おしいといってもその本体は所有欲とか愛欲とか、知識とか比較したいとか、一部分とか全体とか、現象としては後の解説になる話ですが、自分の感情意識として湧き出てきました。
ついで、その湧き出で方が述べられます。
【ここに殿の縢戸(くみど)より出で向へたまふ時に】
殿は家のことで、家は五重でイエ、心の五重の次元世界全体、つまりイザナギの心=私たちの心ですが、黄泉国は客観的なものとなっている世界ですから、物には物が対応します。心に物はありませんから、心が物となるもので対応します。物となる心とはことばです。ですので、殿とは心ですが物となる心の五重の家、言霊五十音図を指します。
五十音図は心のことですからそこには、心の主体側母音、客体側半母音、父韻、子音等の組み上がった組織図となっています。組み組まれた・クミ戸です。
この組織図の使用法は父韻によって母音とのマグアイで子音現象が生成され半母音行に渡り、「ん」の表徴表現となって出て行きます。ここで五十音組織図内に留まっているのが主体に向う方向ですが、客体側を示す半母音から「出でたまふ」で、イザナギはイザナミの実、身に関心を示し、自らの主体意識を客体に向けます。
自分の思いを物(ミ、彼女)に向け、物から思いを受取るという普通のことをしたまでです。そしてこれが既に黄泉国に陥ることとなります。
一旦出てしまうとそこには、自分と自分の中の対象ではなく、自分と自分の外にある対象との比較ができます。
言霊五十音図から出てしまうということは、子現象(子音)となった物象・客観性に入り込みます。
【伊耶那岐の命語らひて詔りたまひしく、】
イザナギが語ることは、自分の思いが作ったものであるにも係わらず外部にある自分に語りかけるわけです。語りかけの動因は愛おしさであったり、所有欲であったり現象はいろいろで、外にある自分を制御できなくなったものです。自分が喋ったものなのに一旦外に出てしまうと自分でも制御できないことも起きます。
すると自分への愛着とそれが制御できないことへの執着なども起きます。
ここではイザナミ全体に、子音となっている子現象全体に語りかけます。
【愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、吾と我と作れる国、いまだ作り竟(を)へずあれば、還りまさね」と詔りたまひき。】
一緒に作った国がまだ未完成だよと未練が出てきます。もう一度自分に取り込みたいのですが、今ここではイザナギの主体意識の土俵から降りてしまっています。相手は感触のある実・身で、身には身で応対しなければなりません。未練とか愛しいとかは主観です。ミには通用しない世界です。
イザナギは取り返すため黄泉国に行きましたが、イザナギの本体は主体意識でありそれの表現とそれを運用できる言語規範です。これを持ってイザナギは自らの作った実・身に問いかけます。返ってきて欲しいと主体意識とその規範で問いますが、イザナミという客体に通じません。ギはミとの接点を探します。
この後、ミの返答と行動があります。それらは象徴的な話であり行動であって、ミの主体的な行為ではありません。ミというのはあくまでも客体側にいます。
イザナミの命は受動、見られる方の側にいます。主体的に相手に選択を求めるならそれこそ立場が替わってしまいイザナギになってしまいます。「いまだ作り終えていない」というのは、ギの命の問いそのもののなかにあるものでした。
とは言うものの、ミの客体世界を体現するもの代弁する者がいます。時には敵であったりもしますが。如何に双方が納得して共通の地盤で協働できるかが問題になります。
ここにその解答例があります。
愛しい(いとしいでなく、うつくしい)貴方よと呼びかけます。これは美人の貴女よという主観的な呼びかけでなく、美(うつく)しいは写し取られた貴方よということで、愛(いと)おしさを持ってはいてもその中での第三者的な見方です。
美しいあなたの国つまり写し取られた貴方の国がもっと美しくなりより完璧になるには、もっとわたしと協働しなければならないのじゃないかというわけです。
【ここに伊耶那美の命の答へたまはく、「悔(くや)しかも、速(と)く来まさず。吾は黄泉戸喫(へぐひ)しつ。】
ところが、イザナミはイザナギの本体である意識と一体化しようにも、実の身の姿ですから理解できず応対ができません。片や意識(気)であり、片や実(身)ですから合いません。
主観と客観という哲学上の問題となっていきますが、未だに解決できていません。というのも大和の日本語を除く世界の言語の規範に半母音のワ行が不備であるからです。言い換えればわ行による和・輪の循環ができないからです。
どこの言語でもあ行の主体側から発する言語は当然ありますが、受け取った側見られる側からする言霊循環の体系がありません。日本においても現在はわ行の意味が失われていますが、言霊学による復権が行なわれています。
今のところは客観世界だけの分析追求発展をこととする科学が栄え、わ行の運用を忘れた思考法の支配下にあります。
黄泉へぐいしたというのは、ミが黄泉の食事をしたのではなく、ミが整理分析され分解破壊され、組み合わされ統合され、物理世界の作用反作用に取り込まれたことをいいます。現象世界内での動きですので主体性はありません。
そのへぐいの内容は今までのイザナギの活動によって作られたイザナギのこの時点までの現象の全体です。
早く来てくれなかった、からと言っています。
これは速い遅いということではなく、イザナギの記憶によって取り上げてもらえないことを指します。古事記の解釈もそうですが、史跡とか古文献とかの物理的な証拠とされるものに禍されて、主体的な意味がまるで忘れ去られたまま、歴史が物証、文献と共に提起されることはよくあります。主体的な意識が問われなければ、速い遅いも無いのですが、主体意識の始まりであるア次元による始まりが無いことを比喩したものでしょう。
また早く来てもらえれば何か変化があり何かやりようがあるということかもしれません。というのも、ア次元の活動中ならば他の次元意識に渡りようもあるからです。(ただし黄泉国の設定は縢戸(くみど)から出てしまっていますから、他の次元に渡ることはありません。)
どの時代の出来事も記憶に取り上げられることがなければ、「悔しかも、早く来まさず」となります。
その一方、突如記憶に甦ったとしても、それをそのまま語るのでは「速すぎる」のです。
では記憶に戻り、黄泉の食い物を見せられたらどうするのでしょうか。その取り扱いの内容が黄泉国であって、その方法が後の身禊神となって説明されています。
創造意志をいつき立て、その対象を定め、八つに分析し、主体意識のその主客の両側から眺め直し、ウオエの実のみを取り直し、整理形成し直していきます。
要するに黄泉国の内容であり、祝詞の内容となっているものです。
【然れども愛しき我が汝兄(なせ)の命、入り来ませること恐(かしこ)し。かれ還りなむを。しまらく黄泉神(よもつかみ)と論(あげつら)はむ。
我をな視たまひそ」と、】
未完成、不完全と言われるのはもったいないお言葉、わたしに未完の部分があるか奥で調べてきますから待ってもらえますかと、引っ込みます。客観事象は客観事象としか語り合えません。黄泉神(よもつかみ)というのは客観事象を統括するものです。ミは客観世界に落ち込んでいるのですから、客観事象のいずれかのもの達と話し合うしかありません。固定した規範による現象同士の比較分析と帰納演繹の総合です。ギの命の高天原の規範とは交通の道がありません。それでも黄泉国には黄泉国の原理原則があり、黄泉国の中では自分が「美しい」ものであるかどうか「黄泉(よもつ)神と論う」になります。
普通に考え思うことはそのままが、自分に正しい自分と共に在ることで、それで自他の文化文明が発展していくものとしています。自分が喋っているのに、自分は正しくなく自分の思っていることを語っているのではないという方はいません。でもその規範となるものは客観世界を司る黄泉神です。主体の無い血も涙も無い、黄泉神から出てきた客観判断で、科学的思考などがそれに相当します。
その一方で思い付き閃き等もこれを禊祓するイザナギの立場からすると、日常普通に見られる混乱の元となる客観事象の解釈となります。事象の解釈を事象の在り方とすることです。イザナギが口を出しますと頑固な主張の保持者となり、客観世界の科学的な分析整理などお構いなく、思ったこと考えたことが正しいという主張をします。
イザナギは既にワ行から出ているので、自身の主体としての在り方と働き方を、イザナミ及び黄泉神に載せることができません。気になるところですが手が出せずにいます。
【 かく白(もお)して、その殿内(とのぬち)に還り入りませるほど、いと久しくて待ちかねたまひき。】
既に客体側と主体側の別々の次元にいるので、ミのあったものの世界は新たな力が加わらない限り自分で動くことはありません。ミは客体の世界に引っ込んでしまったのですから、もう動きようが無いのです。
イザナギが持っているのは主体内の待つという思いです。ミの方はそれなりの変形崩落の作用反作用に左右されているだけのものとなっています。イザナギが幾ら意志をぶつけても動きません。ミの客観世界では意志発動があるだけでは塵さえも動かすことはできません。
【かれ左の御髻(みみづら)に刺させる湯津爪櫛(ゆつつまくし)の男柱一箇(をはしらひとつ)取り闕(か)きて、
一(ひと)つ火燭(びとも)して入り見たまふ時に】
イザナギは意志だけでは何もできないことを知りましたが、それにも係わらず意志ですから、自らを突き動かします。イザナギ(私たち)が持っているのは常に意識の五十音図規範です。愛しいと思うアの次元も、意志をぶつけるイの次元も何の変化を起こさせることはできませんでした。
待遠しさの心持ちにうながされて様子を見に行きます。どうしたのかという自分の気持ちを現わすのは、イザナギの現在までの手持ちの規範とその心です。正当な高天原の意識の運用法を自覚していません。
そこでいつもの癖で男柱である主体側のあ行で様子を見てみました。二つの見方があり、一つはあ行全体で、一つはあ行の各次元の一つを取ってみることです。
自覚的な規範運用ができないので、各次元の使用法に混乱があります。感情を話していると思うと、知っている知識の講釈になったり、思い付き次第こうすればよいああすればよいと言い合います。
また、あ行の一つの次元内での話し合いでも、誰もわ行への落ち着け方を知らず判らないので、ありったけの知識の披露と推測でああだこうだと言い合っています。そんな様子が蛆が騒ぐです。
【蛆(うじ)たかれころろぎて、】
蛆はウの次元の心のことで、思い付き次第の思いや考え、浮かんだことのあることないことの直接の主張です。ここで混同してはならないのは、蛆をウの次元の心としてその例に「考え」と書いたのを指して、それは言霊オの記憶の次元ではないのか、ウは欲望ではないのかということです。そこには次のような混同があります。意識の次元を分ければそうなりますが、意識の働き表出の仕方の次元にもア行があります。ですので知識の記憶概念を喋っていても、その表現方法が欲望のままにか、概念操作かではまた別の次元での、つまりウ次元の表現法かオ次元の表現法という違いがあります。
黄泉国はあるかないかの直接表現の世界ですから、その「表現」が欲望知識政治芸術等と次元をことにしていても、「表現の仕方」も欲望次元と同じ直接表現になります。
これらは全てイザナギがそのように共感して感じていることで、イザナギの心の反映です。
直接的な事を対象とし、また相手として有るか無いかのざわめきを主とした話なので、「こころぎて」とは、ごろごろピカッと渡り合う意識を指しています。ついで、その蛆が動きざわめく仕方を、八父韻に対応させています。
【八くさの雷神】
頭(かしら)には大雷(おほいかづち)居り、、思い着いた全体をそのまま出す意識、ア
胸には火(ほ)の雷居り、、胸に閃いた一つの灯火を全体のように受ける意識、ワ
腹には黒雷居り、、空き腹に手当たり次第のものを食ら(くら・黒)っていくよう出す意識、ウ
陰(ほと)には柝(さく)雷居り、、陰を割き開いて(さく)お気に入りだけ受け入れるような意識、ウ
左の手には若(わき)雷居り、、手持ちの材料、自分の主張だけを分け(わき)与えるような意識、エ
右の手には土雷居り、、分け与えられたものに取りつかれる(つち)ような意識、ヱ
左の足には鳴(なる)雷居り、、在って静止しているのに(あし)まるでそれが成るように出してくる意識、オ
右の足には伏(ふし)雷居り、、在って伏されて(ふし)いたものを掘り起こして騒ぐような意識、ヲ
并せて八くさの雷神成り居りき。 このように直接与えられたもの(意識の直接与件)の八つの取り扱い方の世界がある。
【ここに伊耶那岐の命、見畏(みかしこ)みて逃げ還りたまふ時に、】
イザナギは黄泉国の直接的な表現を旨とする自己主張と不調和に協調し得ないと恐れをなして逃げ帰ろうとします。
ここの愛しくて逢いたいから、逃げ出したいへの転換はどういうことでしょうか。
「相見まくおもほして、」から、「見畏(みかしこ)みて、」へは一連の流れにあって断絶した後、新たなものが出てきたのではありません。
愛しさの中から生まれ、愛を越える感情です。
愛を越える、などというとだんだんおかしな方向へ行きそうですが、まだ二段階の越え方があります。
愛を唱える宗教自身が持っている神の全人類宇宙愛からする越える宗教的な愛があります。しかしそこには量的な大小や選ばれた対象への配慮があり、それらに対する特別な香がします。選ばれた相手からの反応を考慮することができていません。これが愛の中に留まりながらの最高地点への到達された愛でしょう。(アの次元)
次の、愛を越える、は全人類宇宙愛というはっきりした選択と個人への愛が、判別されしかも同居したものです。愛の中に留まった時点では「空と色」への対応に自身の姿が投影しきれません。しかしここでは、無限の宇宙ですから何処の時点にいてもイマココであるという、無数のイマココという実在がイマココにあるという一点のイマココとなっているような愛です。空と色というように分離した言葉遣いは無くなり、実践行為の内にいつでも何処でも統一されています。(エの次元)
そして、愛を越えてしまった愛は、「畏(かしこ)み」です。単に恐れということではなく、自覚反省した自己規範が愛を引き上げる時に起きます。単なる恐(畏)れという現象には、自己の全体が萎縮するようなさらなる全体意志の創造性の前に拝跪する姿が捉えられます。そこに芽生えているのが畏(おそ)れです。色空のわけの判らない実在働き創造者も、それらを感じている自己の宇宙存在も、その同一性と差異性に矛盾無く一体化していて、生かし生かされる自己の主体と他者の主体との合一が、自己規範の中で明瞭になっています。(イの次元)
イザナギの畏(かしこ)みとはこのことですが、その表明は黄泉国を出たところで、伊耶那岐の神から伊耶那岐の「大」神として変態脱皮するときに現わされます。
「神」も「大神」も日常では勝手に使用されて、拝んだり一緒にお話ししたりしている相手になっていますが、古事記でいう神は常に自分のことを指しています。自分の外に対象化しただけなのがウとオ次元意識の神、全く相手を知らないか思いつきで納得している神とか、神感情体験の多少からするア次元意識の神、自分には納得できても相手のことは判らない神、ではありません。
ですので、ここでのイザナギの畏みとは、未だに黄泉国の一切を自分に取り込めない自分の精神規範への萎縮です。それでも脱出の途中でそれぞれの事例に対処していくことを忘れてはいません。そもそも黄泉国とはイザナギが作ったものです。イザナギは自分の愛の結晶に畏怖し責任を持ちます。
その進行は、
1)黒御縵(くろみかづら)を投げ棄(う)てたまひ
2)右の御髻(みみづら)に刺させる湯津爪櫛を引き闕きて投げ棄(う)て
3)十拳の剣を抜きて、後手(しりで)に振(ふ)き
4)その坂本なる桃の子(み)三つをとりて、持ち撃ち
という矯正法を施しながら高天原の精神界へ返っていきます。(後の身禊の段落に通じていきます。)
続いて、イザナミの反応が出てきますがこれらはイザナギの心に反映されたものをミに託して言い表したものです。
【その妹伊耶那美の命、「吾に辱(はじ)見せつ」と言ひて、 すなはち黄泉醜女(よもつしこめ)を遺(つかわ)して追はしめき。】
蛆がたかって不備で未完成であることを「恥」といっています。これはイザナギの心がそう受け取ったので、在って在る実在世界のイザナミが言ったのではありません。
もしイザナミが言うとすれば、弱肉強食のなかで自らの優位性を主張します。創造された世界の創造物を見せつけ、時代の先端からの科学的な成果を誇るでしょう。物質文明、そして文化の全人類的な役割貢献の五千年の歴史を見て見ろというわけです。
イザナギは五千年の歴史を文明を見せられて「辱(はじ)」と感じます。ミの命と組んでやってきて五千年経ってもたったこれだけことしかできていないからです。勝手に主張し合う宗教、宗教の元に行なわれた殺人、社会的政治的な豊さに無気力な宗教、等々が追いかけてきます。宇宙旅行への野望は殺人兵器となり、豊かさは強制労働へと駆り立てていきます。
実は、このような不備不完全な世は歴史の初(はじ)めから用意されていたもので、「辱(はじ)」ではなく、歴史の端の事(はじ)でこれからの道(三千、みち)の序章だったのです。
歴史の端緒(ハジ)の時代に原子を操作する恩恵も弊害もありませんが、現象創造に共通する二面性を見せられました。
古事記の精神原理は一万年前に完成し、物質文明が豊かになったところで精神意識の遅れを恥じるように作られていました。古事記は精神の原理教科書ですから前もってかかれてはいます。科学物質文明が躍進してそれを謳歌する時代には恥などありませんでした。物質的にも豊かになり物質の構造も判るようになった今になって、つまり黄泉の国が栄える今となって自身への恥をみるようになってきたのです。
例えば、戦争讃歌への躍動感は古来消えることはありませんでした。文明の進歩、生命の希望の証でした。ところが豊かな社会が出現してしまうと、前ならば文明社会の破壊、文化の喪失への恥がありましたが、現代はそうしたものとは異質なものへの恥が少しずつ蔓延するようになりました。戦争反対も賛成も前ならば文明の破壊と創造に係わったものとしての態度表明でした。文明創造者の人間への尊厳に係わっていました。
しかし現代は、原爆が落ちようと、原発が破壊されようと、ガザ地区が廃墟になろうと、人類の力によってよりよく再構築される確信があり、自信を持っています。
そして現代ではそのような態度こそ人間精神への恥、精神をないがしろにする横柄な恥ずべき態度となっているのです。
イザナギは豊かな文明社会の出現に伴って人間精神がないがしろにされていく恥ずべき文化が創造されていくことを数千年前に見ていました。それでも物質文明が突出して豊かになるのに寛容であったのです。今までは宗教が精神の萎縮を保護する役割を担っていましたが、既に宗教によっては文明を制御できないということが世界的に知られるようになりました。各宗派で原理に戻れと叫ばれ、こんどはそれが異端として糾弾されています。
こうして各宗教とその神々の終焉が準備されているのです。
しかし、恥ずべき事には、現代のどの宗教にも世界に対応に出てくる神さんはいません。各宗教は自分自身の身禊をするだけの原理を持たないからです。
ミの命を介してイザナギが感じた「吾に辱(はじ)見せつ」というのはこのようなことでした。
ですので上記の起きてくる問題に対してはそれぞれの正当な精神界へ昇る対処法が用意されました。
1) 【ここに伊耶那岐の命、黒御縵(くろみかづら)を投げ棄(う)てたまひしかば、、、すなはち蒲子生(えびかづらな)りき。】という対処法。
2) 【またその右の御髻(みみづら)に刺させる湯津爪櫛を引き闕きて投げ棄(う)てたまへば、、、すなはち笋(たかむな)生りき。】という対処法。
3) 【ここに御佩(みはかし)の十拳の剣を抜きて、、、後手(しりで)に振(ふ)きつつ逃げませるを、】という対処法。
4) 【その坂本なる桃の子(み)三つをとりて持ち、、、撃ちたまひしかば、悉に引き返りき。】という対処法。
【すなはち黄泉醜女(よもつしこめ)を遺(つかわ)して追はしめき。】
イザナギはびっくり、見畏みて逃げてきますが、ミにとっては当然の成果ですから美醜はありません。物語の流れ上うまい具合に醜女・シコメを追っかけさせますが、鬼を放ったわけではありません。「醜」はシコで四つの世の子(シコ)で、自らがイザナギと産んだウオアエの世界の現象のことです。イザナギよお前と産んだ子供たちではないかよく見てみよと現象を与えたのです。
日常でもよくあることですが、結果現象と主体意識の同一視という混同です。
【ここに伊耶那岐の命、黒御縵(くろみかづら)を投げ棄(う)てたまひしかば、、、すなはち蒲子生(えびかづらな)りき。こを摭(ひり)ひ食(は)む間に逃げ行でますを、なほ追ひしかば、】
「男柱」の主体側の眼で見ると勝手な主張で騒いでいる黄泉国を見てしまいましたので、元に戻ろうと急いでいます。否定しっぱなしで放っておくことはできませんから、いろいろとその時その場に応じた修復法を伝授しつつ還ります。ここでは、ミの命に五千年の文化文明の結果(シコ)を見せられます。眼前に結果が在る、見れば判るだろうとミの命は誇らしげに言うわけです。まるでミが一人で産んだかのようにです。
そこでイザナギは、実は結果というものはこういうものだということを示します。ミは五千年の文明の成果を見せたのに「蛆」と一蹴されてしまいました。
イザナギは結果現象とは何かを示します。
イザナミは、結果を、ある原因から生じた出来事や状態の時間的な前後の違いを別々の現象として見ているようです。ですので、物と物との作用で出来た現象の違いも原因結果として見たりしています。差異を併置した時処位の意識が現象化してきます。ところが、実はそこには人間がいません。
イザナギが言うのは物の形状の変化ではなく、意識上の問題です。意識はイマココの上で成り立ちますから、時間差があった上での差異を指すのではありません。光が点くと同時に影ができるのです。
黒御縵(くろみかづら)を投げ棄(う)てたまひしかば、すなはち蒲子生(えびかづらな)りき
ミの命の言う世界の在り方は、黒い鬘を取り外して、ぶどうが生えてきた事によるというのです。イザナギは
カヅラは書き連ねる、表象表記され物象となったもの、つまり黄泉の国のこと、イザナミのこと、客体化されたもののことで、その黒い影として現れる意識の方面を指します。
黒みカヅラに影を付けるのは主体側意識による働きがあるからです。客体側意識がそれを受けて形を現します。電気を付ければイマココの瞬間に影ができます。その瞬間を結果といいます。前と後の差ではなく、イマココの瞬間にできる裏表です。
黒に対してイザナギの主体活動側を白とすれば、白の活動が始まるやいなや影の黒ができます。イザナミの黒の世界とはこの瞬間の世界の事です。イザナギはこの間の意識の事情に気がつくようにと、エ(智恵)のビ(言霊原理の霊、ひ)のカヅラ(書き連ねる、表象表記され物象となったもの)の発生の原理を示しました。
意識の世界では原因結果は同時発車同着なのです。イザナミはそれぞれの時点でのスナップ写真を見比べているので、それらの差異を「ころろぎて」いるわけです。
「男柱」の主体側を灯してそこに蛆やらいかづちやらを見ました、自分の性でそうしてしまったのです。ミの保持している世界は主体側に照らされた反対側影の側であることを示します。五十音図で言えば濁点の付く、カサタハとマラヤナの、光と影、裏表、等でしかありません。
こを摭(ひり)ひ食(は)む間に逃げ行でますを、なほ追ひしかば、
イザナミは示された原理を拾って吸収し(ひりい食む)ますが、それだけでは納得しません。影に形があり、個性的である事、力を持つ事、等の属性があることを知ろうとイザナギの後をまた追います。
ミの世界にも反省や温故知新とかはありますが、それらの使途を変化や比較から見ているだけでは、そもそも結果現象が出てきたことが解けません。
イザナギが示したことによると、主体活動の呼びかけに応答する主体意識があって、それが出てくることで現象があらわれます。ミはその間の流れを吸収しようと、こを摭(ひり)ひ食(は)むとします。ヒリは霊流で正当な言霊意識の流れのことです。
そこでイザナギは意識の流れの元となる側を与えます。
【またその右の御髻(みみづら)に刺させる湯津爪櫛を引き闕きて投げ棄(う)てたまへば、すなはち笋(たかむな)生りき。こを抜き食(は)む間に、逃げ行でましき。】
イザナギは自らの活動の客体側(黒)を示したので、今度は主体側の活動意識でどのように客体ができるのかを見せます。当初に持っている(先天にもっている)主体規範図である建御雷の男の神の五十音図です。
建御雷の男の神の音図
ア・タカマハラナヤサ・ワ
イ・--------・㐄
エ・テケメヘレネエセ・ヱ
オ・トコモホロノヨソ・ヲ
ウ・ツクムフルヌユス・ウ
上記音図の主体側の意識、あ行で示せばマラナヤ行が右の御髻(みみづら)となり、代表としてワ行であらわし、ワ行の連なりとなります。前記と合わせれば五十音図となります。
そこで、「タカムナ」が出てきます。竹の子のことで、田の気の子現象のことです。イザナミさん、あなたの元にあるのは言霊五十音の主体意識による子現象で、現象結論結果をあらわすものですよというわけです。
結果が結果を呼び、結論が結論を呼び、現象が現象を呼ぶように黄泉国では話が進みますが、概念に概念を重ねるものです。時代の若いとき、人生の若いときなど、結論結果などを原理として扱ってしまっています。五行五大五元素等の古代思想、学問に相当するでしょう。
イザナギに現象ができる大本を見せられ、自分が原因となってものができるのではないと知ります。しかしあるものの世界、あったものの世界はイザナミの世界ではないのか、貴方と作ったのなら半分はわたしのものだとせまります。
【また後にはかの八くさの雷神に、千五百(ちいほ)の黄泉軍(よもついくさ)を副(たぐ)へて追はしめき。
ここに御佩(みはかし)の十拳の剣を抜きて、後手(しりで)に振(ふ)きつつ逃げませるを、】
イザナミと一緒に作ったのですから半分はミのものです。千五百とは出来上がるまでの道(三千、みち)のりの道を三千と書いた場合の半分で千五百という冗談です。働きと実体のかけ合わせで現象がでてきますが、その実体を提供しているのがミであり、一緒に産んだ子現象の実体側もミのものというわけです。
そこまでならイザナギも同意しなくてはなりません。
ところがミの命のすることはそれを越えます。勝手気ままな過去概念で取り繕う八くさの雷神に主張させるのです。勿論現代では客観的な物象と共に科学的な考えとなっています。ものの作用反作用とものの同時繰り返しをさせれば科学に敵うものはありません。そこまでの主張はイザナミ側のものですが、それをもって概念を構築する主張をしていきます。
「また後には」とある「後」とは何でしょうか。常にイマココの意識を問題としているのにどうしてここに「後」が出てくるのでしょうか。
「後に」囚われることとは記憶概念です。イマココに在るものが記憶となって沈潜し、後に囚われの身となって逃れられなくなるからです。つまり黄泉国で起きてくるものはイマココが記憶となって恣意的に出てくることを指しています。出来上がった手持ちの半分はミのものですから、主体的な働きかけがなくとも、実在しているということを主張してそこに働き掛ける恰好を作るわけです。
つまり、現実に話していることなどは全て記憶に基づきますから、ミの命側からすればこの現実、過去の甦る現実はどうするのかということになります。
それに対してイザナギは「十拳の剣を抜きて、後手(しりで)に振(ふ)きつつ逃げませる」となります。
注意して下さい、イザナミの言う「この現実、過去の甦る現実」とは実は現実ではありません。過去が今概念となってあるものです。主体意思である伊耶那岐の命のもぬけの殻が物象となったものです。ミにとっては概念として今在るので現実にあるものと勘違いができます。こうして、思い付きや閃き等々が過去概念であるにも係わらず、現実に在るように主張できるのです。主体意志たる伊耶那岐の神はそこにはいません。
それを示す行為が、「十拳の剣を抜きて、後手(しりで)に振(ふ)きつつ」 になります。
そんなことを言われたってミの命さん、貴方の言う今の現実とは全て過去概念ですよ。確かにわたしと一緒に産んだものですが、物象となった概念の中には過去の私しかいません。ですので貴方も好き勝手に雷神たちに喋らすことをしているのではないですか。
もし、貴方の言う現実なるところまでに到達するのならば、私の主体意志のあった過去の出生時点にまで戻っていかねばなりません。私はそこにいたからですが、その後はミの命さん貴方の世界しかないのではないですか。ですので「十拳の剣を抜きて、後手(しりで)に振(ふ)きつつ」戻ったところでなら逢うこともできるでしょう。しかし、今のわたしではありません。
こうしてミの言う主観は生まれたときのイザナギとの同一性から離れ遠ざかり疎遠になると共に代わりに雷神の棲家となっていきました。
在るというものについてここまでミに話しかけても、ミには雷神に守られた過去概念があるため納得できません。
とうとうイザナギは、ミの命が持っている物象化された表徴が創造された元の時点にまで逃げ戻りました。
【なほ追ひて黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に到る時に、その坂本なる桃の子(み)三つをとりて持ち撃ちたまひしかば、悉(ことごと)に引き返りき。】
物象となっている過去概念の語りかける内容の特徴は一般化です。過去の言葉をもって今を語りこれからを語ろうとするのですから、今の実体ではなく過去の実体を持ち出しいじっていることになります。そのようなもので過去現在未来を語ろうとするには全部に通用させようとする一般化しかありません。
そこでミの客観化表出、表現となった元々を指し示して、あなたの一般化の元となる出生はここにあるとしめしました。それが「坂本」で、表出のさが(性質、坂)の始まりを指します。そして、より現実に近い現実の在り場のア行で示せばウオエの各次元世界で、ミの命は客体側にいますから、ウヲヱの三つの実体世界とその三つの働きを示しました。桃の子三つのことです。モモは百のことで言霊要素の五十とその運用の五十でモモ(百)、その内客体側のイザナミ側のより現実に近い世界がヲウヱの桃の子三つです。
つまりイザナギの音図のア行(アオウエイ)に対応する客体側イザナミのワ行の中央を占めるヲウヱを、イザナミの実の出生として示しました。この三つという鍵は後に三つの綿津見と筒の男に対応してきます。
この黄泉国ではもっぱら客観世界だけを取り上げています。イザナギ自身の主体世界は客観世界の問題を解決した上で示されます。
【ここに伊耶那岐の命、桃の子に告(の)りたまはく、
「汝(いまし)、吾を助けしがごと、葦原の中つ国にあらゆる現しき青人草の、苦(う)き瀬に落ちて、患惚(たしな)まむ時に助けてよ」とのりたまひて、
意富加牟豆美(おほかむづみ)の命といふ名を賜ひき。】
▼▽▼▽▼▽ 以下未完 ▽▼▽▼▽▼
(自覚)
(客観世界との決別)
最後(いやはて)にその妹伊耶那美の命、身みづから追ひ来ましき。
ここに千引(ちびき)の石(いは)をその黄泉比良坂に引き塞(さ)へて、その石を中に置きて、
おのもおのも対(む)き立たして、事戸(ことど)を度(わた)す時に、
(双方の言い分)
伊耶那美の命のりたまはく、「愛(うつく)しき我が汝兄(なせ)の命、かくしたまはば、
汝の国の人草、一日(ひとひ)に千頭絞(ちかしらくび)り殺さむ」とのりたまひき。
ここに伊耶那岐の命、詔りたまはく、
「愛しき我が汝妹の命、汝(みまし)然したまはば、吾(あ)は一日に千五百の産屋を立てむ」とのりたまひき。
ここを以(も)ちて一日にかならず千人(ちたり)死に、一日にかならず千五百人(ちいほたり)なも生まるる。
(客体世界だけの実在化)
かれその伊耶那美の命に号(なづ)けて黄泉津(よもつ)大神といふ。
またその追ひ及(し)きしをもちて、道敷(ちしき)の大神といへり。
またその黄泉の坂に塞れる石は、道反(ちかへし)の大神ともいひ、塞へます黄泉戸(よみど)の大神ともいふ。
かれそのいはゆる黄泉比良坂(よもつひらさか)は、今、出雲の国の伊織夜(いふや)坂といふ。
(身禊の準備)
ここを以ちて伊耶那岐の大神の詔りたまひしく、「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国に到りてありけり。
かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」とのりたまひて、
竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら) に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。