金山毘古の神。金山毘売の神。古事記の言霊学による「はじめ」論。
たぐりに生りませる神の名は金山毘古(かなやまびこ)の神。
次に金山比売(かなやまひめ)の神。
たぐりとは吐瀉物(としゃぶつ)のこと、食物を食べて口から吐き出したもの、ここでは手繰(たぐり)の謎。金山毘古の神の金山(かなやま)とは神音(かね)神名(かな)の山の意。
言霊一つ一つを粘土板に刻んで素焼きにしたものです。(伊耶那岐の命は過ぎし日の伊耶那美の命との子生みの仕事の楽しい思い出を病気で眠っている美の命の枕辺にいて、思い出しながらいるのでしょうか)共に力を合わせた五十音の神名の山を手繰り寄せて、その一つ一つを点検しました。
金山毘古は言霊の霊(または音)を、金山比売(ひめ)は言霊の言(または文字)を確かに表わしているか、を調べました。
たぐりに生りませる神の名は金山毘古の神。次に金山毘売の神。
たぐりとは嘔吐(おほど)の事でありますが、ここでは「手繰(たぐ)り」の意の謎です。金山毘古の金は神名の意です。言霊一つ一つを粘土板に刻んで素焼きにした甕を手で手繰(たぐ)り寄せますと神代文字の山(神山)が出来ます。精神的なもの、物質的なものすべてを整理する為には先ずすべてのものを手許に寄せ集めることから始めなければなりません。金山毘古は音を、金山毘売は文字を受け持ちます。
【註】金山毘古の神に始まる古事記神話の言霊の整理・活用法の検討は実に総計五十の手順を一つ残らず明らかにして行きます。その間、どんな小さい手順も疎(おろそ)かにしたり、省略する事はありません。その手順はキッチリ五十にまとまります。その手順の一つ一つを読者御自身の心中に丁寧に準(なぞら)って検討されることを希望いたします。
メモ--------------------
「はじめ」とは何かをも一緒にやっつけようというのが今回の企画です。
この段落は「はじめ」とは何かにとってどういうことになるのでしょうか。
ここに「は-じ-め」という言葉が用意されています。イザナミの(たぐり)嘔吐物から成っています。客観的に用意されているものは誰かのものの可能性があります。わたしに「はじめ」という言葉が用意されているのは日本語で育ち日本語を使用していて、それが古代高天原にいた日本人の祖先から受け継がれて来たものだからです。八千年くらいの歴史を持つそれでいて今でも通用する摩訶不思議な言語です。
辞書をひくと「はじめ」は始めで端緒のこととしか書いてありません。現在では漢語中国語でルビを付けるとよりはっきり理解出来るものもあります。しかし基本の言葉は八千年前から同じです。説明が現実を実相を現しているのでそれだけです。ちょっとだけひねってみましょう。
「はじめ」は、端緒の芽、はしの芽のことです。事象の端っこに位置している芽です。
「は」は物事の表現が心の宇宙の表面に完成してその実現の姿が「は」です。
「言霊ハ」。山の神名は大山津見(おおやまつみ)の神。。先天の意図が津島でイメージ化され、佐渡の島で音声と結ばれ、そして渡(わた)され現われ(津見)たものが言霊ハの言葉だという訳です。
「し」はまとまって静まること、心の中に固定され、自己主張を守り固めようとする働き。
「言霊シ」。意富斗能地(おほとのぢ)の神。大きな斗(はかり)の働きの地と読めます。物事を判断し、識別する大いなる能力の地という訳です。
「め」はイメージ状のものが集約され速やかに形象状のものになること。
「言霊メ」。妹速秋津比売の神。速秋津とは速やかに(速)明らかに(秋)渡す(津)という事。
どこから見ても表現と心が一致しています。
もう結論が出たような話しになっていますが、元に戻ります。
金山毘古の神
金山毘売の神
「はじめとは何か」という疑問の追求はこの二神から始まります。。
まず「はじめ」という言葉をわたしの頭脳内にたぐり(嘔吐)寄せます。三つの言霊で成り立ち「ha-ji-me」という音であることが確認されます。脳内で反復して「はじめ」という三音に成っていました。三音以外は捨象されています。
「はじめ」は誰がいった言葉で何故「はじめ」として受け入れているのでしょう。
他の人との間に共通基盤が存在するからです。(先天構造が同じ)
何故三音であることが分かるのでしょうか。
他との違いが既知のこととしてあるからです。
「はじめ」とは何かという疑問が読んでも聞いても通用するするのはなぜか。通用しないことや失敗することも可能ではないか。
社会性というか時処次元に共通性があるから。
心は一定せず定まらないのに何故疑問として固定しているのか。
心の領域を共有して通過してきているから。
「はじめ」という表現は何故通用するのか。
「はじめ」という現象子音の心と音、霊と体を共有しているから。
どこかの本に載っていた疑問とか誰かが言った疑問でなく何故自分の疑問となっているのか。
それはわたしの意識内で表象されているから。
金山毘古の神と金山毘売の神とは心の現象化した表現です。心は古事記の流れの中では言葉として解説されていますが、心の表現全てに係わっています。心を現した絵画であったり音楽であったり、行為行動思考想いであったりします。
音として文字としてその他の表現として何故「はじめ」と分かるのでしょう。
それは表現法が共通だからです。(カグツチノ神の頚を斬った後の八神のこと)
このようにわたしが「はじめ」と言う時には既に様々なものが伝承されています。金山毘古の神と金山毘売の神はそれらの総体としてまずわたしの頭の中を占めてます。金山毘古は音、言霊の霊を、あるいはたぐり寄せられる内容を、金山毘売は文字、言霊の言を、たぐり寄せられた物をあらわしています。
ここで注意しないといけないことは、金山が現象と成った物といっても目前に直にある物を指しているわけではないということです。いまここの目前には机の上に乗ったノートパソコンが開かれていますがそういったことを金山は指しているのでなく、意識に与えられた客体としてあることをいっています。
意識に与えられた客体を領域とするイザナミのたぐり物としてあるということです。今度はそれがどうなるのかを見ていく手順となります。金山に音、霊と文字、言があるようにその両者に対応していきます。
金山毘古の神・材料を集める。材料の二面性。音。聴覚を叩く音。
金山毘売の神・材料を集める。材料の二面性。文字。音符。
波邇夜須毘古の神・材料の分解点検
波邇夜須毘売の神・材料の分解点検
弥都波能売の神・整理、基準原則の設定
和久産巣日の神・大枠の設定
この神の子(豊宇気毘売の神)・大枠の活用
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金山毘古の神。その1。
主体側の心の整理運用の初めの時。
古事記冒頭百神の後半五十神の初めの神。
前半言霊神五十は言葉、後天現象の現象創成でした。
前半五十神によって後天現象として言葉、物事はでてきましたが、今度はそれをどうするのかの心の整理運用五十神の始めになります。
金山を金属の山とし、鉱山、金属、それらの加工物へとイメージ連鎖、風が吹けば桶屋が儲かる式の連想ゲームで鉱山、金属、それにかかわる人に関連した神ということになりました。
これからは古事記の本来の心の原論としての思想が通用運用される時代です。
それには今まで続いてきた千年間以上の歴史を持つ間違った連想式の解釈に与しないことです。それには間違った連想に与するわれわれの頭の使い方をちゃんと説明することと、新たな本当の説明に今までの頭の使い方を適用しないことです。
もし今ま出のことに文句をいう時、同じ連想ゲーム式で答えれば、両者はいつまでも同じ土俵からでられません。いくら本来の思想はこうだと言い張っても、それはお前にそういう風が吹いているのでそういった桶屋を作っているのだということになってしまいます。
そこで全く今までの方式を脱しなくてはなりません。個々人においてそれは可能ですが、それを今まで通りの人たちに伝えても暖簾に腕押しとなります。
宗教的な悟りを得ていくら凡人次元の説明をしても根本的に理解は出来ず、知識の伝達に終わってしまうだけです。豊かな知識概念は所有できるでしょうが、新たなイメージ連想の種を与えひいては論争、戦争の目を育むだけでしょう。
今までは正しい知識を得たので共有したい、本当のことを教えたいという心がありましたが、それらは所詮、知的な次元で、ああそうなの、と喜んで受け入れるか、聞き流すか、反撥するか、捨て去るかで終わるものです。
それを嫌うなら、正しいと称する知識をせいぜい客観的に証明できる一般的な説明に抽象化していくだけになります。要するに概念要素で証明説明し、一般的な経験を強要するわけです。
こういった知識に応じた禍津日(まがつひ)の心を誰でも持っているのは当然ですが、そこに留まって主張せずにそれをさらに越えていく心持ちを持つのも自然です。
そこで、そういった知的な構成で、一般的な経験事象と、連想ゲームの観念を背景にした援用を排していかなければ、なにも進まないことになります。
気を付けてください。こういったことをごちゃごちゃいうのも、わたしが未だ用意が出来ていな印です。
せっかく心の原論である古事記を勉強しているのになにもならない見本みたいなものです。
【 この子を生みたまひしによりて、御陰炙(みほどや)かえて病(や)み臥(こや)せり。
たぐりに生りませる神の名は金山毘古の神。次に金山毘売の神。】
連想ゲームで読めば、
子音現象、現象世界を創成したので、必要充分な現象要素を正式に産み出すことは終了しました。これからは自ら吐き出す意志による創造となり、まず心の成すことは、名付けられた仮名(金)を付けられた子音現象世界の個々の要素を集積する(たぐる)ことです、
となります。
古事記の神代の巻きはどの部分、どの記述をとってもこのように心の原論となっていて、その一貫性はまさに世界の至宝といっていいものです。それを砕けて言えばアイウエオ五十音図を上下に重ねた百音図の解説になっているだけです。
原理は鏡といいます。鏡餅とは原理(鏡)の百の道(も・ち)のことで、言霊要素の五十と、運用要素の五十のことです。また神道、皇室、行事、説話等もアイウエオ百音図を隠したものとなっています。
ということで知的には誰にでも古事記の秘密、つまり神道、皇室の秘密はもう既に解けてしまっているのですが、運用適用するには、知的な理解では歯が立たないのです。
意志を持って行為し創造するのは、
【天照らす大御神に賜ひて詔りたまはく、
「汝(な)が命(みこと)は高天の原を知らせ」と、
言依(ことよ)さして賜ひき。---心の世界。原理と選択。
次に月読の命に詔りたまはく、
「汝が命は夜(よ)の食国(おすくに)を知らせ」と、言依さしたまひき。---光の反照(月、付き)した世界、感情、知識概念記憶。
次に建速須佐の男の命に詔りたまはく、
「汝が命は海原(うなばら)を知らせ」と、言依さしたまひき。---海原・ウ(欲望、産業)の名の領域の創造を助ける(佐)】
の三者が統一された姿で産まれなければなりません。
知識は、月読みの命の領域で単に日に照り帰った二次的な光につき従った(月・付き)世界(夜の押す国)を扱うだけですので、活用運用には充分ではありません。
また竹(建)がさっさと延びていく(速)ように主人(須・天照らす)を助けて(佐)、う(欲望、産業創造界、知識を知りたい得たい欲しい欲しい)を延ばすだけでも不十分です。
金山毘古についてもこれが適用されます。
【 三はしらの貴子(うずみこ)を得たり】という三者の統合された姿で説明できないと、思いつきアイデアの連想知識と多少の経験を付け足しただけの概念となります。
先程書いた連想ゲーム式の説明、「 子音現象、現象世界を創成したので、必要充分な現象要素を正式に産み出すことは終了しました。これからは自ら吐き出す意志による創造となり、まず心の成すことは、名付けられた仮名(金)を付けられた子音現象世界の個々の要素を集積する(たぐる)ことです、」
であっているのですが、鉱山、鉱物だというのと連想経験の中にいる以上は、殴りあって決定するとか権威で潰すとかするまで解決はしません。その間には他の意見もでてきます。
そこで人は、悪魔に誘われて山頂から飛び下りたり、陸上に立つことを止めて水中を泳ぐことにしなくてはならなくなります。
-----以下引用----
【 この子を生みたまひしによりて、御陰炙(みほどや)かえて病(や)み臥(こや)せり。】
この子とは火の夜芸速男の神のことです。またの名である火のかがや毘古の神・火の迦具土の神も同様に頭に「火」の字が附されています。伊耶那美の命は夫君伊耶那岐の命と婚いして三十二の子音を生み、それを神代文字(言霊ン)に表わして、合計五十神・五十言霊がすべて出揃いました。これ以上の言霊は有り得ません。伊耶那美の命はもう子が生めなくなりました。
この事を最後に火の神を生んだので伊耶那美の命の女陰が火傷(やけど)をして病気になってしまった、と表現しました。太安万侶一流の洒落であります。五十音言霊が出揃いましたので、これよりそれ等言霊の整理・活用の検討が始まります。
【たぐりに生(な)りませる神の名は金山毘古(かなやまびこ)の神。次に金山毘売(びめ)の神。
次に屎(くそ)に成りませる神の名は波邇夜須毘古(はにやすひこ)の神。次に波邇夜須毘売(ひめ)の神。
次に尿(ゆまり)に成りませる神の名は弥都波能売(みつはのめ)の神。
次に和久産巣日(わきむすび)の神。
この神の子は豊宇気毘売(とようけひめ)の神といふ。
かれ伊耶那美の神は、火の神を生みたまひしに由りて、遂に神避(かむさ)りたまひき。】
【 たぐりに生りませる神の名は金山毘古の神。次に金山毘売の神。】
たぐりとは嘔吐(おほど)の事でありますが、ここでは「手繰(たぐ)り」の意の謎です。
金山毘古の金は神名の意です。
言霊一つ一つを粘土板に刻んで素焼きにした甕を手で手繰(たぐ)り寄せますと神代文字の山(神山)が出来ます。
精神的なもの、物質的なものすべてを整理する為には先ずすべてのものを手許に寄せ集めることから始めなければなりません。
金山毘古は音を、金山毘売は文字を受け持ちます。
【註】金山毘古の神に始まる古事記神話の言霊の整理・活用法の検討は実に総計五十の手順を一つ残らず明らかにして行きます。その間、どんな小さい手順も疎(おろそ)かにしたり、省略する事はありません。その手順はキッチリ五十にまとまります。その手順の一つ一つを読者御自身の心中に丁寧に準(なぞら)って検討されることを希望いたします。
----引用ここまで-----
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金山毘古の神。その2。
主体側の心の整理運用の初めの時。
【 この子を生みたまひしによりて、御陰炙(みほどや)かえて病(や)み臥(こや)せり。
、たぐりに生りませる神の名は金山毘古の神。次に金山毘売の神。】
金山毘古の金は神名(かな)の意です。
言霊一つ一つを粘土板に刻んで素焼きにした甕を手で手繰(たぐ)り寄せますと神代文字の山(神山)が出来ます。
歴史的実在としてなら甕(みか)は、立太子宣明の儀(りったいしせんめいのぎ)の時、壺の中を壺切御剣(つぼきりのみつるぎ/つぼきりのぎょけん)でかき回しますが、その壺の中にあるあいうえおの粘土板で、五十固入っているはずです。剣(つるぎ)は判断力の象徴です。判断材料をタグリ寄せ、整理構成してこれから役立てようとするものです。
金を仮名、仮名文字として、精神行為、心の創造行為の成果とすることもできます。
心の原理では、金山毘古は精神行為の始まる時に産まれる働きです。
テレビをみよう、ブログを書こう読もう、散歩に行こう、考えてみよう等々するときに心に起きる最初の動きです。
そこには心の相手対象とそれを了解する主体側の心とその両者を関わり合う力動韻があります。
普通は自分が考えるから考える、見るから見るというように、自分のしようとすることがそのまま自分の精神行為であるように理解しています。そういう私自身考えたこと思ったことを自分のものとして書いているわけです。
ところが古事記による心の運用の最初は、【 たぐりに生りませる神の名は金山毘古の神。次に金山毘売の神。】となっていて、子音現象をタグリ寄せるところに金山毘古が産まれるといっています。
誰もが自分の考えたことと称してブログを書いているわけですが、そういった考えた結果が現れる前に古事記を見ると、ちょっと待て、となります。
自分の頭から新しいものが出てくるのではなく、既にあるものをまず「タグリ」寄せるのではないかということです。
さらに面白いことに、かな・やまびこの後半は呼べば答えるやまびこのことと通じています。毘古は男性側の主体を表しますから、掛け合わせれば、主体側のヤッホーに対してだけヤッホーの返事があるということになります。
ヤッホー、といって「今日はさようなら」と答える山彦はありません。ここからヤッホーという主体側の働きかけには、それに応じた「ヤッホー」しか返って来ないということになります。タグリ寄せるものはヤッホーに対しては「ヤッホー」しかありません。
しかし帰って来た「ヤッホー」は主体の言葉ではなくその反響、客体です。ですので古事記も、金山毘古とその反響である金山毘売と、次元の違う二神を分けているのです。
ここにヤッホーと「ヤッホー」があるのが分かりました。ヤッホーは主体側の表示意思行為次第で表現されていきますが、客体側の「ヤッホー」は自分一人だけの出番というものはありません。まず主体側の表出行為がなければ何もないし、表出行為を成り立たせる条件が揃わなければやはり、毘売の出番はありません。
五十番目の金山毘古からは現象となっている精神、心を扱っていますから、そこにあるものとなります。そこにあるものとは即ち、火の夜芸速男の神 言霊ン(カグツチ)のことです。
金山毘古は主体側の働きをしますから、カグツチをタグリ寄せ集めることになります。カグツチ等自身を含めて心の全体五十の現象実体、つまり心の対象全体を集めます。集めるといっても金山は主体側としてタグリ寄せるヤマビコを発っした範囲内でのことになります。
知っていること、欲していること、感じるていことが出来るものに関してはヤマビコを期待できます、欲し得ないこと、知り得ないこと、感じ得ないこと等は、ヤマビコを発してタグリ得ることができません。
つまり、ブログを自分の意見で書いているというのも、最初から自分にヤマビコとして返ってくるものだけを書いているというわけです。
その帰って来たものが金山毘売ということになります。金山毘古は音を、金山毘売は文字を受け持ちます。
主体側の精神行為の初めは手繰り寄せることになりますが、この手繰り寄せるという心の行為の中に、既に自分の今後の精神全行為が含まれてます。
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