◎ 今現在論の準備中 。 いま(イの間)論の準備
今現在論の準備中
「今」は、イマ
「イ」の間
「イ」の意識の「マ」
数学で考える「今」は扱いません。
「今」( j?n) は中華、コン(今日)とか、キョウ(今日)とか now とかも扱いません。
探しているのは大和日本のイマです。
今に見ていろ、今に見ていろと頑張っている間に
二十年が過ぎました。
この二十年は、未だに実現していない「イマ」です。
ゲームに夢中で過ごした一時間。 「嘘でしょう。もうそんな時間なの。」
まるで過ごした「いま」など無かったようです。
今とは、時間の流れをとらえて、
過去と未来との境にある一瞬というような今は、
心のでき事である「イマ」ではないので扱いません。
しかしそのように考えてしまうことそのものは心の出来事ですから、
心の運用の間違え方として扱います。
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イマ-いま論の準備中
時間論の範疇に入れられそうなので、
ベククソンとかハイデガーとか読みたいけれど、引用文を拾い読みするくらいでしょう。
そんなことより、
古代スメラミコトの残した「心の原理論」である古事記の神代の巻を
絶対的に信頼していきます。
世界の哲学者が千人よってかかっても、
古事記の言霊百神は燦然と山頂に輝き続けるでしょう。
理解了解し輝きを認めるのは
言霊学を学ぶ、大和の言語構造を知った人たちだけです。
それを学ぶ人たちはいるけれど、
言霊学を自覚している人は、今は誰もいない。
ですから世界創造を目指す勢力はまだ存在しない。
種がまかれ根付いたばかりだけど、
肝心な皇室が頼りない。古代の地球世界を指導したスメラミコトであったことを、忘れた方たちばかりで、血統にしか関心がないようだ。
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イマ-いま論の準備中
イマ を意識の時間で見るとイマという「持続」のことになる。
それを誰かは「瞬間」と呼びたいのでそう呼んだだけ。
ある人は、現在という瞬間もないという。
持続を上手に扱うのは難しい。
神道の諸々の形、伝承が、イマの形式上のあらわれとなっている。
もちろん、人間のやることなすこと全部が今の現れだから、
神道など持ち出すこともないが、イマには人間的な持続があるということを、神道が教えている。
意識によるイマの持続は、一瞬をイマとし、二十年間をイマとし、一生がイマとなり、歴史主体ともなれば二千年のイマが持続していくことにもなる。
人としての幸せな世界がまだ創出されていないと感じるときは、二千年のイマはまだ一瞬たりとも過ぎてはいない。
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ア◎ イマ-いま論の準備中
イマの呪示された最高の物象は伊勢の御柱だけど、神社自身がその意味を知らないらしい。天皇もその意味を教えることができない。
天井を支えない短い柱なのに、五分の二が地中にある。
その訳を知れば、自分のこと人間のこととなる。
人は一本の柱としてあるのに、五分の二は埋もれている。
柱は屋根も軒も支えていなくてそれだけで独立してる。人はあちら側の世界とか創造主とか神とかを頭に抱かなくても、それぞれ独立した一本の柱であることを示しているが、そのあらわれ、生活の仕方考え方は五分の三でしかない。
さてどうする。
自分の五分の二がまだ埋もれている。
しかし誰もそんなことは思わない。
自分はイマココにいて生きている。
まだ知らないことがあるのなら、誰かの助けがあり、神の御告げがあると思っている。
その御告げを聞くことがすでに地上に出ている五分の三の一部だと聞かされ、あちら側神のことを思うのが既に突き出ているときかされると、びっくりする。
神とか御告げとかも、神の声を聞くとか交流とかも既に折り込み済みで、地上に出ているものである。
それじゃ、埋まっている五分の二は何だ。
神、御告げを超えて埋まっている五分の二の自分とは何だ。
柱を引っこ抜いて、
御柱の腐り具合を見るのか、自分の腐り具合を見るのか。
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イ◎ イマ-いま論の準備中
イマのイメージ化、物象化
今をイメージし物象化してください。
さあ困った。
御柱
16弁菊花紋
吾のイマから天照すのイマへ
イマの規範
アイウエオ五十音図
イマが動く原理と--父韻
イマが実在する原理と--母音
そして
この二者でイマが現象する原理--子音
「時間というものは現在しかなく、今、何する、どうするかの瞬間が本当の時間」というのが、禅の解説に載っていた。
でも、
過去から入ってくるものを無視したら、今はないのにね。
今いるという至福感には、今、何する、どうする、もいらない。
イマの持続だけがあればいい。
「イ」の間の持続だけがあればいい。「イ----------」
「now」の持続だけだなればいい。「ナ--ァ---ウ----」
「jetzt」の持続だけがあればいい。「イェッ--ツトォ------」
あなた今なにする。
「今 ?」
「イ------- ?」
「ナ--ァ---ウ---- ?」
「イェッ--ツトォ------ ?」
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ウ◎ イマ-いま論の準備中
馬祖道一禅師:答える
ある時には、何かをしている。
ある時には、何もしないでいる。
ある時には、やっていることがよいと評価を受ける。
ある時には、やっている事が適当ではないという評価を受ける。
四つのあり方が人生にはあって、それだけのものだ。
道元禅師の注釈です
「 仮に時間が、なければこれらの一切のものも起こりえないのだ。
だからこの世において様々な行いがあり、様々な善悪があるけれども、それらに共通して絶対のものといえば『時間』というものである。
そういう時間が、在ればこそこの世の一切がある。
この様に様々な角度からこの問題を勉強してみて、わかったとかわからないとか言ってみても、それらの一切が現実の時間における事態にほかならない。
『正法眼蔵有時』
仁冶元年(1242年)十月一日
興聖宝林寺においてこれを書いた。 道元」
分類して説くのは、仏教のお得意。
それを一つ一つ説くのも仏教のお得意。
でも体系ではない。
今の空、今の解脱を求めちゃうから、
持続する体系を放り投げる。
精神強化に禅を取り入れるなんていう坊主までいる。
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エ◎ イマ-いま論の準備中
今という時間を形にあらわす。
時間を形にしてください。
今を形にしてください。
観念、概念は形にできない。
あっ、そうか。
でもね、「イマ」という言葉が形としてあるじゃない。
あっ、そうか。
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オ◎ イマ-いま論の準備中
イマは何故動くのか。
今は瞬間だ。
瞬間が繋がっていく。
瞬間同士はどうやって手をつなぐのか。
「? ? 」
では、言葉を変えて「現在」は、としましょうか。
「 ? ? 」
ではでは、言霊学では。
「イ」の間はどうやって手をつなぐのか。
手をつなぐのじゃなくて、「まぐわい」するのです。
(「間の喰い合い」)
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カ◎ イマ-いま論の準備中
イマ-いま論じゅなくて
イマ-ココ論じゃないの
今-現在論じゃなくて
時間-空間論じゃないの
それじゃ
時間 と 空間 だけあればいいの ?
時間と空間意外に世界はないでしょう
本当ですか。間違っていませんか。
つまり全世界の思想、哲学も含めてあなた自身も、
時間と空間しかないと思い込んでいるだけじゃないですか。
時空意外に何があるというのだ、
被害妄想もはなはだしい。
人の心の絶対真理である古事記では
造化三神といって「三」なんですが。
あっ、
何も言わないでいいですよ。
わたしがやりますから。
みなさんにも古事記の冒頭を真似ることをお薦めします。
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キ◎ イマ-いま論の準備中
ヒフミ(一二三)神示っていうのがありますがあれも「三」なんですが。
「三分と思えども、二分であるぞ。」 なんて、しゃれたことをいっています。
「三分と思えども、時間と空間であるぞ。」なら三番目はいらないということじゃないか。
こういう例解もありますよ。
「富士は晴れたり日本晴れ」 ですが、日本を二本にすると、時間と空間の二本晴れとなるでしょう。
それでもって富士が晴れるのです。時間と空間と富士と三つあるでしょう。
時間と空間意外に世界はないなんてまだ言いたいですか。
わたしとあなたがいるでしょう、そこに、○
あなたと好きな人がいるでしょう、そこに、○
富士と富士を見ている人がいて、そこに富士の日本晴れ
時間と空間があるでしょう、そこに、○
どこから見ても、ヒフミ、一二三。
だから、
「三分と思えども、二分であるぞ。」
なんていう駄洒落がいえるのです。
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文字で表すと×のことだと思う
相手 ・・ 自分
潜在 ・・ 顕在
・・・・・×・・・
顕在 ・・ 潜在
これの偶然の一致による解消というか火花というか気付きというか
そんな感じ?
2012/11/28(水) 午後 7:43 [ ◆ ]
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1738768.html#more
http://ja.wikipedia.org/wiki/X
2012/11/28(水) 午後 10:09[ ◆
-----以上----------------------------------------------------
コメントや参考サイトの紹介等ありがとう。
気付きには他の気付きが応対し、それに気付くとまたその他が返答します。
そうすると又他の気付きが、、、、、、、となっていくのがこの世です。
これが全く駄目な人間思考のプロセスであることを神示も古事記も示していますが、
余りにも平常普通な思惟運用のため誰も駄目であることを気付きません。
思い付きを思い付きで証明しようというのが、紹介されたサイトです。当てはまればオッケー、当たるも八卦外すも八卦です。
これで正常と思われているので、駄目といっても間違っているとはいえず、社会運用上は正当性のあるものです。ただし「でんぐりかえし」が来るまでですよ。神示はこういった日常思考をひっくり返すことを紹介しています。ひふみ神示読む人たちの「でんぐりかえし」は余りにも軽すぎます。
この通常と思い込んでいる、思惟運用法を斑馬を入れるといいます。
馬は「ウの間」、五十音図のウ段、ウクスツヌフムユルウの運用を逆さにするというのですから、
ウルユムフヌツスクウで思惟運用をします。
ウは人間性能の欲望次元をあらわします。
始めのウと終わりのウは同じウ(ここでは欲望)です。
ウ) 例えば、腹減った何か喰いたい、あいつを殴りたい戦争したい、大臣になりたい金を儲けたい等の欲望が起きます。思い付きですから何時どこでどうして自分に起こってきたことか自分でも知りません。充足されるまで続きます。
ル) 知らない内に自分に起きた欲望がとめどもなく進展していきます。(流・ル)
ユ) 極まることのない欲望が湯(ユ)のごとく湧き出てきて本人を動かします。
ム) 欲望と身体が結ばれ(ム)ます。
フ) そうすると、志が何であるのか分からないまま自分の欲望の追い風に吹きつかれて(フ)
ヌ) 行為の名分が勝手に煮詰まり相手に到達して縫い(ヌ)い合わされます。(相手対象と対当対峙する)
ツ) そのまま欲望達成のために自己の全てが動員され相手を突つき(ツ)ます。
ス) それが目的となって手段を選ばぬ自己発現となって、その人には澄んだ(ス)疑いのない思考と行為になってしまい、
ク) 自己欲望のために組み(ク)つき掻き寄せていきます。
ウ) こうして相手対象は侵略なり消費なりの欲望充足のための自己表出の場となりますが、最初に起きたのが自己本来の自覚ではなく欲望充足のための思い付きですから、自分がどうで、相手がどうでという自覚がありません。欲望充足の自覚がありませんから、次の欲望が起これば又繰り返します。
これが斑馬(まだらうま・間の運用の足らないウの間)をさかさに投げ込むことで、通常の欲望充足なら、上記を下から読み直してください。
ア段なら、アカサタナハマヤラワになります。
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ク◎ イマ-いま-イの間論の準備中
現在しかない、今しかない、といっも今や現在が居すわる訳じゃない。
何としても、現在も今も動かなくてはならない。
今現在しかない、ではちと都合が悪い。
おしっこしたくて我慢していれば、とても長い、ながーい今が、続く。
「そもそも過去、現在、未来などというのは人間がつくった虚構でしかない。」 なんてよくいうよ。
人はこうした考え方が普通にできる構造にあるのです。
間違ってるぞなんていったら、いけないですね。それで普通なのですから。
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ケ◎ イマ-いま-イの間論の準備中
思い付き、気付きは全く駄目で、「でんぐりかえし」されるといいました。
しかし、
始めは、気付くこと思い付くこと、そこから始めることしかできません。
気付きのあ行あかさたな・・を、たかまはら・・に変換する、
そのプロセスが禊ぎ祓えです。
水浴びすれば身体の健康にはいいかもしれないが、
頭の健康運用には関係ありませんので、風邪引かないように。
ついでに
だみ声で祝詞、経文唱えるのも、頭の生理健康にはいいかもしれないが、
思惟運用が健康になることはありません。間違えないように。
それらはみんな意識を物質次元に引き下げる行為です。
ですので御利益も物質的でしかありません。いわく気分爽快。
頭の生理上の健康と思惟行為の健康とは別ですので。
否定もせず、捨てもせず、破壊もせず、無視もせず、止揚します。
それが、イマの瞬時にヒョイヒョイと出来てしまうのが、スメラミコトです。
ですので、間違うことがありません。
感情感覚次元で出来るのが、禅坊主です。
その知識ではよろしくないと切り捨て拒絶しますが、再利用再変換止揚し再構築する仕方を言えません。
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コ◎ イマ-いま-イの間論の準備中
「時間の構造」でググッたら「交流分析」なるものがでてきた。
「交流分析では、日常的な人間関係を通して『他者からのストローク』を得るために、自分の生活時間の使い方を構造化するという考え方があるが、これを『時間の構造化』と呼んでいる。交流分析における『時間の構造化』には、『自閉・儀式・活動(仕事)・雑談・ゲーム・親交』の6種類が仮定されている。」
ネットに頼ると情報が拡がりすぎるけれど、情報価値があるとかないとかは別として、みんな分析と総合しかしていない。
もちろん緻密な分析と総合から出てくるのだから、みんな立派な仕事で役に立つものとなっている。
一度ひふみ神示の神さんに、それでも「でんぐりかえし」は必要なのか、と聞いてみたい。
影響力のある立派な仕事、社会の大多数の賛同を得たものも「でんぐりかえし」が必要不可避ということなのか ?
Yes.なら、わたしも続ける。全体のでんぐりかえしか、少なくとも私のでんぐりかえしのために続ける。
No.なら。多くの支持を得た社会的に通用しているものにはその必要はないなどといわれたら、焼き捨てる。とはいっても最初からひふみ神示の本は持っていないけど。
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サ◎ いま-イの間論の準備中
重層構造と階段構造
過去-今-未来を階段状に捉えると、断絶を越えられない。
年輪みたいに捉えると内外が繋がらない。、、、
今に過去現在未来が全部含まれている構造体が意識となっている。その表徴が伊勢の御柱。
意識自然の物体ではないので類似品を見出すのが難しい。
自然界ならば成長するものの各段階でのスナップ写真を一枚の全体にしてあらわすという感じ。
種、発芽、双葉、若木、幹が出来て花が咲いて実がなってを重ね合わせて一枚に。
赤子、幼児、少年、青年、中年、老人を重層させて一枚に。
みんな、地に足が付いていている。
思い出した。砂鉄が描く磁力線に、そういった部分がある。
共通の底辺(磁石)から出て重層長円環を作っている。
御柱もそれのイメージをもらって、共通の底面から出てくる重層長円環にするといいかも。
それでも、今現在今現在を動き流れるようにしてないといけないが。
十六弁の菊花紋でイメージしたこともあった。
五十音を書き込んだ八咫鏡もある。
勾玉は外縁を延長していけば丸だけど、わざと削って廻らないようになっている。左右にぶらぶら動くけど常に今に戻る形。過去-今しかない-未来の時間の流れを全部備えている。素晴らしい。
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シ◎ いま-イの間論の準備中
イマの何かが書きたいということは、イマについての何かが言いたい。
ということは、イマについて上手に喋りたいとか、納得させるように書きたいとか、感動を与えたいとか、どうせ分かりはしないだろうとかの、感情が入ってきます。
別に「イマ」論に限ったことではなく、全ての人の普通の発言においておや、です。
科学的な見解や数学的な論理で客観的にイマを書くのではないのですから、当然そうなります。
主観性を排して客観的になどというのは、物質の扱いにだけ当てはめればいいので、人間的な意識の介入しているものには不要で不純でコソコソした泥棒根性みたいなものです。
自分の見解が客観的でないなどと縮こまることはなく、誰でも主観的にしか意見を言えないのです。
そこで問題は、客観的な意見であるとか主観的な主張であるとかではありません。
自他ともに喜びが得られる、自分の発言が他者のためになるように運用操作されているかです。
そうするとここにも、発言以前に自らを鼓舞し他者の利益のためになるという自己意識の改革変態を自覚することが必要です。
つまり、「イマ」を語るには、もちろんなんでも構わず語りたいものを語るには、自己意識の禊ぎ祓えを通過しなくてはなりません。
「イマ」の禊ぎを通過していないような発言は、「喝っ、ピシッ」。
黄泉の国から帰還した 【 伊耶那岐の大神の詔りたまひしく、「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国に到りてありけり。かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」とのりたまひて、】と、わざわざ、自分の事を【御身(おほみま)】と読んでいます。
日常的には個人的にそういっことは普通です。重大な事を目前にして自分を「御身(おほみま)」と感じることはよくあります。
願掛け肉断ち水行までする人もいます。でも、全部個人行です。
あまり突っ込むと大法螺吹きになりますのでこの辺で。
「イマ」を語るのに禊ぎ祓えが必要だって !
本当かよ ?
( しかしこんなことに気付いてしまうと、後がコワイ。)
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ス◎ いま、イの間論の準備中
理想的なイマとは、他人の喜ぶイマを提供してあげること。
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セ◎ いま、イの間論の準備中
いま か 現在 か
「イマ」論という言い方は全然流行らないので、現在といってもいいのだけど、現在という中国語を使うということになってしまう。それなら英語にしてもフランス語にしても変わりはないし、当然各国それぞれにおいて「現在論」がある。
現在というのは大和の日本語ではないので、現在という言葉を使うとせいぜい「現在論」しか出来ない。
世界中で現在といっているから各国語にすれば、訳していけば通じる言葉なので、その中で書けば、世界最高の現在論が出来るだろう。
しかしそれは、世界最高の論考となった現在論にはなれるだろうが、
人間の「イマ」を語る現在論にはなれない。
何故なら、「イマ」という言葉を使用しないからです。
大和の「イマ」論は「イの間」を語るもので、「イ」について説明していくものですが、外国語には「イ」が無いので説明のしようがない。
イと発音する漢字は相当あるが「現在」に相当する「イ」と発音する漢字がない。
「イ」の禊ぎ祓えとか、「イ」の喜びとか外国語では解説できないでしょう。
なので、世界最高の論考は出来ないが、
人間最高の「イマ」は語れるでしょう。
(今日は鼻息が荒く、言うだけ番長になりそう。)
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ソ◎ いま(イの間)論の準備中
メモ
「イ」の、あ・たかまはらなやさ・わ(という間が) ⇒ エ
「イ」の、あ・かさたなはまやら・わ(という間が) ⇒ ウ
「イ」の、あ・かたまはさなやら・わ(という間が) ⇒ オ
「イ」の、あ・たからはさなやま・わ(という間が) ⇒ ア
暴論、妄想か、真実か
思い付きです。
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タ◎ いま(イの間)論の準備中
今現在しかないというけれど
今現在の何があるのですか。
禅坊主の言葉。
1-「いまここ」は理解するというより、
「いまここ」に気づき自覚し、その場で行うべき事を心をこめて行うことで、
「いまここ」はより深く生き楽しみ味わうものです。
一杯のお茶をその香りや色や味わいを感じながら、
「ああ、おいしい!」と飲むようなものです。
2-大切なことは、
いまここを充実して生きるため、
「よし過去をふりかってみよう」とか、
「未来についてビジョンを描こう」とか思うことです。
つまり、平常の生きている心のベースを「いまここ」に現在させながら、
過去も未来も自由に思うということです。
「ああ、おいしい」と、味わい自由に思うことですか。
苦行精進した釈迦の姿と重なりますか。
個人行の目指すところですね。
イマの「イ」はイキルの「イ」と同じです。
イキルの「イ」がイマにイキルとその人がイルことになります。
連なったイマの「間」を「切る・キル」と、その人がイル姿が流れ(る)でてきます。
味わい自由に思うというのは、そのような基本要求を示すもので結構なものですが、イマを示すものではありません。
そのような現象から出発しますと、わたしがここにイルのはあなたのイマココの邪魔になるということが起きます。
古事記のイルはその両者を止揚するでしょう。(やってみたいがそう簡単ではない。)
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チ◎ いま(イの間)論の準備
イマ論をトキ(時)論としないのか、時間論では駄目なのか。
めっそうもない。時間論結構、時(とき)論結構。
でも、時は「ジ」ではなく、「トキ」と読む。
五十音図の横段を数えると、ア段十個。イ段十個、、、。十はト。
(五十音図は現代の五十未満の五十音図ではなく、言霊五十音図のこと)
では、「キ」は何だ。どうして、ト+キ=トキなのだ。十(ト)+キがとき(時)なのだ。
わたしだってそれが分かれば、いま(イの間)論なんて書かない。
知っていて書いて読んでもらうより、
探求冒険しながら書くのもおもしろい。
書き上がり読んでもらって「そんなものか、そんなこともあるのか、知識が増えた」といわれるよりも、
自己中心のがりがり妄想自画自賛でしかないと、投げ返される方がおもしろい。
唯我独尊が、ポッと理解できたりしたらめっけ物。
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ツ◎ いま(イの間)論の準備
自分が生まれる。
自分の時はいつ始まった。自分の今はいつから今となった。
今現在しかない、といわれる。
赤ん坊時代の自分の今現在は、どこへいった。
少年時代の自分の今現在は、どこへいった。
昨日の自分のいま現在は、どこへいった。
こんなことを書いている自分の今現在は、書いている内に過去になったと言いたいわけですか。
それにしても、凄い変化じゃないですか。
パパママバイバイも知らなかったのに、今だとか、現在だとか、論だとか言い出す。
ママのオッパイ飲むしか知らない今現在が、こんな大人になってしまった。
今現在しかない、というだけで満足ですか。
こういうのが見つかりました。
引用開始。
大乗仏典7(中央公論社)より「金師子章」(法蔵論述)
(p.372) 九、十世隔法異成門。
「師子は是れ有為之法にして、念念に生滅して、刹那之間、分ちて三際となす。
謂わく、過去、現在、未来なり。此の三際に各の過、現、未あり。
総じて三、三の位ありて、以って九世を立てて、即ち束ねて一段の法門と為す。」
「則ち九世、各各に隔てありと雖も相い由りて成立し、融通無礙にして、
同じて一念と為す。十世隔法異成門と名づく。」
引用ここまで。
訳してみる。
瞬間刹那は三つに区切ることができる。
それを過去、現在、未来と名付ける。
注意しなさい、このそれぞれに、過、現、未があります。
総じて三、三の位ありて、つまり瞬間刹那を三分してできたその過去に過、現、未があり、現在に過、現、未があり、未来に過、現、未があるので、
この瞬間刹那には三×三で九世が備わっているのです。
この九世が一つの柱となって始めの一歩となります。
二番目の文章は一番目の理解によるので、わたし訳の延長でやりたければ挑戦してみてください。九世が十世になるところが味噌です。
ここでいう十世というのは、音図の横十個のことですが、三と三と九で一念足して十としています。
仏教で刹那を九で説明しているのを始めてみましたが、刹那の過、現、未にまた刹那の過、現、未を用いて接続しています。
刹那という時を過、現、未にするのはどこでも同じですが、言霊原理論だけは、世界で唯一(?)そうじゃないといいます。とはいっても今言ったことは正確ではありません。世界にはいろいろな時間論があるし、これからも出てきます。
しかし、思惟規範の運用上の視点で見れば、正しい思惟規範の運用は古事記を真似る以外にはありません。その意味で唯一です。
(そんなことを言っても実際にはできもしないのによくいうよ、いい加減にして黙れなんていう声もありそう。)
幾つの主張があるのかといえば十です。しかし、お経が言うように三×三+一で十ではありませんが、主張となる現象結果は十ですから十の主張のあれこれプラスマイナスされたものになります。
また、調べると、「刹那生滅の道理」というのも出てきた。
ネットをいじっているとキリがない。
上の経文がいうように、いくら刹那の過現未を過現未で繋げても生成消滅は起きません。そこは悟れというのが仏教ですから、仏教の方向から行きたければ悟らなくてはなりません。
言霊学の方向から行くにはまた別の方向があります。
-------------------------
テ◎ いま(イの間)論の準備
またまたこんなお絵描きをしてみました。
イマ ココ の言霊原理図 この図全体が今(イマ・イの間)です。
◎ 天津管麻の御柱 ◎
|==========================|
| |
宇比地邇(言霊チ)の神 |
| 高御産巣日の神ア |
| 妹須比智邇(言霊イ)の神
| |
| |--------------------| |
| | | |
角杙(言霊キ)の神 | |
| | 天の常立の神 オ | |
| | 妹活杙(言霊ミ)の神
| | | |
| | |--------------| | |
| | | | | |
意富斗能地(言霊シ)の神 | | |
| | | 天の御中主の神 ウ | | |
| | | | 妹大斗乃弁(言霊リ)の神
| | | | | |
| | | |---------| | | |
| | | | | | | |
於母陀流(言霊ヒ)の神 | | | |
| | | | 国の常立の神 エ | | | |
| | | | | | | |
| | | | | | | 妹阿夜訶志古泥(言霊ニ)の神
| | | | | | | |
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⇒ 人の創造意志のいのちの弾み、いのちのうねり。 ⇒
いとなみ いきさま
伊耶那岐神 イ
⇒ ⇒ (過去-今) ⇒ ⇒ (今 ◎ 今) ⇒ ⇒ (今-未来) ⇒ ⇒
伊耶那美神 ヰ
===================================================================================
⇒ いのちのうなり、ひびく基底音。 時間の流れ ⇒
ありさま
豊雲野の神 ヱ
天の御中主の神 ウ 妹阿夜訶志古泥(言霊ニ)の神
妹大斗乃弁(言霊リ)の神
宇摩志阿斯訶備比古遅の神 ヲ 妹活杙(言霊ミ)の神
妹須比智邇(言霊イ)の神
神産巣日の神 ワ
=====================================================================================
この図全体が イマ(今)
--------------------------
ト◎ いま(イの間)論の準備
地球自転の音がする
創造意志の いのちの弾み、いのちのうねり
いのちの、りきみ
ひびく基底音
時間の流れ
シイィーィーィーーーーー、、、、(ィ)ーーーーーーーーー
----------------------------------------------
ナ◎ いま(イの間)論の準備
こんどは地球公転の音だ、
ウィゥーーゥンーーーー、、、、ーーーーーーン.ゥーーーーーーーー
実在の動き
----------------------------------------------
ニ◎ いま(イの間)論の準備
何故、いま(イの間)論で、
イマココ論でなく、時間論でなく、時間空間論でなく、時空存在論でなく、時間存在論でなく、etc.でない理由を説明するために。
いま(今)という時間の説明には二つある。
①は、外部から見回して、時間と空間に分けた中に今(時間)を見出す。
②は、内部にもぐり込んで、時間自身の中に今(時間)を見る。
①は、時間と空間というので、その両者を導く統一体が必要。
②は、時間(今)自身が統一体なので、いま(今)の分割が必要。
例えば、
①
【 ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、 --先天の時間と空間
伊耶那岐の命 --時間
伊耶那美の命 --空間
の二柱の神に詔りたまひて、 --時空になる前の先天時空に
「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、--時空の創出はどうするのかと
天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、 --時空を結ぶ父韻を用いて
言依さしたまひき。 --運用する
【 かれ二柱の神、 --時間と空間
天の浮橋(うきはし)に立たして、 --父韻と共に
その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、 --チイキミシリヒニを運用して
塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、 --空間側を掻き回し(母音)
引き上げたまひし時に、 --対応した半母音側を得て
その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の --展開領域の基盤の(子音)
累積(つも)りて成れる島は、 --できる現象実在は
これ淤能碁呂(おのごろ)島なり。 --時空で表現される領域=次元
例えば、
②時間(今)のみに適用・・常にウのアワ
【 ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、 --いま(今)の先天時間
伊耶那岐の命 --いま(時)のイキサマ・(ア)
伊耶那美の命 --いま(時)時のアリサマ・(ワ)
の二柱の神に詔りたまひて、 --いま(今)になる以前の先天の時間の働きと実在に働きかけて
「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、--時(今)の創出の名分を与えこうしようと
天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、 --チイキミシリヒニの父韻を用いて
言依さしたまひき。 --運用して
【 かれ二柱の神、 --いま(今)の働きと実在・アワ
天の浮橋(うきはし)に立たして、 --父韻と共に
その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、 --チイキミシリヒニを運用して
塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、 --母音側いま(今)の実在を掻き回し
引き上げたまひし時に、 --対応した半母音側を得て
その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の --展開領域の基盤となる(子音)実在の
累積(つも)りて成れる島は、 --出てくる現象は
これ淤能碁呂(おのごろ)島なり。 --いま(今)と表現される、いま(今)の次元領域
というように例えば、オノゴロ島の段落を利用してみました。
今・時間を語るのに、今とか時間とかから語りだすと、今とか時間を語り始めるための上位概念(今とか時間とかいうことを保障する過去概念)がいる。
今・時間を語るのに、今とか時間とかを結論にすると、今とか時間とかは結論として導かれる言葉になる。
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ヌ◎ いま(イの間)論の準備
始めにある、(先天)
と同時に、
始めを創造する。
と同時に、
全部が繋がっている、
と同時に、
全部が繋がっていく。
と同時に、
終わりが始めであり、
と同時に、
始めが終わりである。
と同時に、
円を廻りながら直進する。
これが、
イマ。
それが、<いま>から、いま、になって、今になる。
これら全てが一カ所に詰まっている。
なぜこんなことが言えるのか。
同士の皆さんの突っ込みがないと
独りよがりになってしまうので
つっこみ大歓迎です。
ただし返事は保証しません。
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ネ◎ いま(イの間)論の準備
受精 = まぐわい
か
細胞分裂 = 言霊分裂
か
出産 = 子音創造
か
赤ちゃんが生まれました。
現象が生まれました。
イマが生まれました。
神との対話が生まれました。
下らない事を書いているが生まれました。
これら全てが一カ所に詰まっているが生まれました。
これら全てを取り上げて共通した真実を取り上げているのが言霊学ですが、
いまのところは、それが分かったから書いているのではなく、そうなるはずだというだけです。
こけおどし、だぞ。
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ノ◎ いま(イの間)論の準備
「分かりもしない事」
古事記は子事記と書けるように、子の事(現象)を創造する意識の原理論です。
イマを解き明かそうとしているのですから、イマという現象を創造する方向へ向かうつもりですが、未だに出だしが決まりません。
分かりもしない事を書こうというのが元々間違っているのだよ。
その通りですが、「分かりもしない事」と何故分かっているのですか。
西暦二千年はこうなると、二千十二年はこうなると、2千何十年にはこうなると、分かりもしない事を唱えてきたし、唱えてるし、唱えるだろう。
結果の出ているのもあるし、本当だったらどうするの!というのもある。
分かりもしない事を分かったふりして続ける事もある。
分かりもしない事を実体として捉えると、後から今後分かるだろう分かるかもしれないとなる。
ところが、いま(イの間)論からすればそんな甘い夢見心ではいられない。
これら分かりもしない事全てが一カ所に詰まっている今が生まれたのだから、その今が育つので、何時か分かるだろうというのは別のお話になる。
ということはわたしが自分で分からないだろうと自信を持っていっているのだから、わたしは何時まで経っても分からないのです。
そこでの救いは、分からないという自分の心を見つめる事ができるというになります。
つまり分かりもしない事が分かることになります。駄洒落。
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ハ◎ いま(イの間)論の準備
今などない
または
今しかない
ニュアンスを掻き集めれば
今だけがある
今もない
今はある
今はない
言葉を継ぎ足せば
無数に
言霊学はこれらの表現の原理を扱うものです。
ですので、ある とか ない とかの主張にくみしません。
どちらの主張にくみしてもらっても結構です。
それぞれの出所の地盤は共通です。
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ヒ◎ いま(イの間)論の準備
「自分が体験しないと「そんなものなのか」で終わってしまう、やはり自分で勉強しない限り分からない、こうやって真面目に話していても他人事のように読んでしまうでしょ、インターネットで公開しますと。(島田正路)」
みんな真面目に自分の思い付きや考え等を語っているのですけれど、他人事ですね。中には真面目すぎて、日本で始めて言いだしたとか世界でトップクラスのこと、とか言うかたもいます。
慎ましい方は、これは個人的なものですがとか、ということに気付きました、とか言う方もあります。
自分で法螺を吹いているとか、これは慎ましい真実ですとか言っても、聞いている人たちには同じことです。うまく同調してもらえればしめたものですが、それでも他人事のように読まれていきますから、他人事の感動を語った感想文となって返事がきます。
あるいは感情情緒次元で受けた感動を、共有しようとするときもあります。
最近はとうとう、思い付きしか受け付けないツイッターと言うのができました。思考する人間を不要にするもので、真剣を持たせればその場の出会い頭の勝負の世界になるでしょう。
いよいよ現場、仮想現場で裸踊りのウズノメの出現となりました。
それでもア次元に翻訳しますと、禅問答のように直ちに答えられなければ叩かれるような、全人類に意識の上昇を促すものとなっています。(精神世界とか言うものがお好きな方のために付け足し。)
書いている人の本心内容に沿った返答などは無いのが普通です。
と言うのは書いている人は思い付きで書いているので、その思い付きは個人的で自己所有物として他人に渡したくないからです。その感触が書き手にありますから、読み手も他人の物を盗むようにするよりも、自分の勝手な思い付き感想を述べた方が簡単です。
確かに為になると感じてどうしても欲しい理解したいと思うときも出てきます。
その時は他人事のように読むわけには行きません。読み方も自分の思い付きで読むのではなく、相手の懐に入ろうとします。
今とは、現在とは、と言うことを探すのも同様で、思い付きなら幾らでも感想が出てきて、どんなことでもそんなものでも自分の染み込んだ汗を主張していきます。
ところがその内心内面内容を捉えるようにしたくなるときがあり、思い付きを語ることではなく、求める物は何だろうとそのものと一致したくなります。
しかし残念ながら、そんな真面目な態度を取ると人は突き当たります。何に突き当たるかといえば、問題を解く方法、原理原則を所有していないという自覚にです。
これを得なければなりませんが、できないので、自分の身近にでてくる思い付きにすがります。
こうして思い付きバトルの二千年が過ぎました。現代はこのバトルの花盛りの時代ということでしょうか。
今現在の考え方が思い付きでそれぞれであるからおもしろい、個性があって素晴らしいという見方もあります。原理原則など無い方があれこれごちゃごちゃ言い合えるから楽しみがある、知らないこと気付かないことが聴けるし分かってくる、おもしろい、となります。
泳ぎを覚える前に、まだ出来ない泳ぎについてガチャガチャ言い合ったり、手持ちに無い十億円あったら何しようとか、まだ来ぬ事に予想や予言をして楽しむようなものです。
今しかない、そんな今を得たらどうしよう。
確かに知らねば知らぬままでそれなりの楽しみがあるものです。
別のこともあるのに、気付かない。こんな気付きもある。
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フ◎ いま(イの間)論の準備
出産で 今 が出来るのか
今 はあるものなのか
今 はできるものなのか
今 は無いのか
出産の姿、は様々あります。
古事記で
は、
『 既に国を生み竟(を)へて、更に神を生みたまひき。 かれ生みたまふ神の名は』
【18 言霊 タ 】大事忍男(おおことおしを)の神、次に。
【19 言霊 ト 】石土昆古(いはつちひこ)の神を生みたまひ、次に
【20 言霊 ヨ 】石巣(いはす)比売の神を生みたまひ、次に
【21 言霊 ツ 】大戸日別(おおとひわけ)の神を生みたまひ、次に
次に、次に、、、、、。
で、次々に言霊神を生んでいきますが、「次に」というのはどのような形に相当するものでしょうか。
産み方です。
自然界なら両親がいてその都度子を産みます。
にわとりなどは一人で次々に産みますが、受精卵でなく、排卵みたいなものでしょう。
いっぺんに複数生む自然界の出産もあります。
昆虫の変態などは新しく生まれる様なものです。
物質界では、生むというより分裂崩壊によって出来たり、結合浸透だったりして新しいものが出来そうです。
では、意識界で生むとはなんでしょう。
少し引用します。
・言霊イヰによる子音創生が始まりますのも、その予めに言霊アワに分かれたからであります。
・後天現象の言霊は32の子音で構成されております。32の神様が次から次へと生まれて参ります。
・交合することによって現象子音言霊が生れます。
・子音と申しますのは目に見える世の中の出来事。意識で捉えられる出来事の最小単位です。「雨が降る」、「雨」はアとメ、 ‘ア’の内容と子音‘メ’の内容が分かりますと、「雨」と名付けたのはもっともだということになります。
・その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、
→ 八つの父韻の下に母音が引っ付いてきます。32の子音のことです。
八つの父韻で以って、エアオウの四母音を掻き回して引き上げてみると、八つの父韻の下に母音が引っ付いてきます。32の子音のことです。32の言霊との区別はよく気をつけてお聞き下さい。
・お父さんとお母さんの活動で生まれてきた子供、32子音(アウエオ4×8)のお話に入ります。32の音と32の言霊の区別をつけてお聴き下さい。音と申しますのは口から出てくる「音」を指します。ですが「声」ということになりますと言った人の心が伴っています。
・
言霊学からの引用ですので、ぴんと来ないかもしれません。
現象が現象を生む姿を捉えているのではなく、始めて現象を生む姿を原理で示しています。
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ヘ◎ いま(イの間)論の準備
今とは何か、Google 約 14,700,000 件 (0.33 秒)
今などない、Google 約 1,040,000,000 件 (0.47 秒)
<いま>と言う間に過去になる、まるで光より早い<いま>があると思われている。
みんな、自分の考えで<いま>と言っているのに、相手に伝わると相手の考えの<いま>となってしまう。
つまり、× 2 (かける 2)か、
あるいは、
× (かける) <いま>と理解できる人の数だけか、
今とは何か、Google 約 14,700,000 件 (0.33 秒)
今などない、Google 約 1,040,000,000 件 (0.47 秒)
× (かける) <いま>と理解できる人の数だけ、
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ホ◎ いま(イの間)論の準備
言霊循環と生命循環
この宇宙を全てがつながった一大システムと、とらえると自分の子孫子供を生んで連続して循環しているように思えます。
種は芽生えて大きくなって花を咲かして実を付けて種になってから、自分が蜜柑の種だったのかと気付きます。
それらは他者を生んだり他者になって自身を知るという循環です。自分と他者と別のものを繋げるために、遺伝だとか血筋だとかが導入されています。
生と死の循環を他者を介して循環していくとすればそうなるでしょう。
言霊循環は、人という生命の上にできていますから、生命生物循環の遺伝も伝わっています。
しかし、自分を探して自分を見つける循環では、他者を見つけるのではありません。自分と他者の間に遺伝子があるとかないとかが問題になるのではありません。
言霊学でも父韻と母音で子音を生むというように他者としての現象子音を生むと言いますが、これは現象子音という他者となった自己を生むということで、実在的な他者を生んで終わるという生物世界とは違います。
他者を生んでいくことが、成長発展変態しつつ自己発見によって自己回帰しつつ他者を自己としてその同一性を了解するものです。
自分の新しく創造された自分を得るので、その生物物理的な形は他者であっても、自分をあらわすものです。喋っている言葉が他者の形をとっても、自分の内容をあらわすので、喋る以前の自分が、言葉となり喋ることであらわれます。
第三者の子供という形ですが自分を生み成すものです。
生物生命の循環では両親は他者としての子を産みますが、言霊循環では、他者という形、実在を借りて自己を産みます。と同時に、他者という形に他者の心、霊、気が乗るようになってます。
つまり言葉の共通性、一般性として自己が表現されるからです。
表現される音は、生理的な作用反作用の内にありますから、循環でいえば生物生理的な捕らえ方になります。
それを言霊に適応する基礎としてしまうと、おと(音)でとらえた言霊(ことだま)というのがあります。
それは発音された音、聞かれた音を数えてしまいますから日本語の要素なっている五十音を大きく越えてしまっています。
日本語の要素にある霊・気・内容に違いによる分け方でなく、おと(音)の違いでの分け方ですから、濁音促音等があるといって、おと(音)の連結した言葉を見ていきます。その連結した言葉の全体を言霊と結び着けたもので、単音五十だけでは満足していません。
というのも、発音された現象を追っているため、ことばの要素に独自の単音の霊・気・内容の時処位の違いを見ないからです。(単音に還元した説明も恣意的な経験概念による思い付きです。)
しかし、古事記の言霊(コトタマ、清音のタ)はコトと霊(タマ)の一致した単音要素のコト・タマを見ていきます。発音され聞かれる音は共通な一般性として「流布」させていくことが折り込まれています。
例えば、ことだまでは、今という言葉の言霊を探しますが、それは今という言葉の全体現象の言霊を探しています。
一方、コトタマでは、今のイとマという二つの単音の要素を探し、イのマとなった内実を探します。
前者は言葉(今)の内実、発展進化を探るのに、今に外部から説明を付け加えていき豊富な概念を付加して作っていきます。発音と与えられた意味とが分離していますから、多くの添加物が必要となります。(漢字の組み立てに意味はくっつけられますが、発音には関係しないようなものです。)
後者は内部のそれぞれの単音に、不離の意味内容を一致したものとして見ていきます。大和言葉のコトタマは発音がそのまま意味と成るようになっています。(イは動き出した力動が持続するこころの内容を表現しています。)
以上のことを言霊循環と結び着けると、前者では意味の付加付け足しで、当初の意味から逸脱しないようにという循環になります。
古事記の言霊循環では、当初のイならイの成長発展変態した姿の自己発見という循環です。日常でいえば自分の書いた言った言葉を自分で聞き見て自己了解をしていることになります。
自己発見というと、過去にあったものを見出すだけで、では進歩発展どうなる、過去を見出すことが成長そのものと成るイメージを削がれます。言霊循環はそれが説明できるでしょうか。
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マ◎ いま(イの間)論の準備
サイト『神の数学』にある、≪9=0≫とする
・・・0123456780123456780123456780・・・『宇宙次元原理表』(九九算表)
http://www4.tokai.or.jp/kaminosuugaku/old.html
と、ひふみ神示の
「12345678の世界が12345678910の世となりて、012345678910の世となるのぢゃ、」
は、
元々の思想は古事記の父韻の運用のそれで、それぞれの分野での表現となったものです。
ひふみ神示はわざと父韻とは表示しません(一厘の秘密)が、神の数学の方はまだ気付いていません。
これらを繋げて、これからやろうとしている「今とは何か」と関連させるとどうなるかと、思い付きました。勝手な思い付きです。
神の数学の例示した数列を超簡単にすると-0-0-0-となり、それに、-過去-今今-未来-が配当できます。
1-8の各数列が「-0-」で左右に繋がっていますが、この-0-には二つの意味合いがあって、一つは1~8の次に成った9=0、一つには連続するうえでは、0を前次元の成ったものとしてそのまま、次次元の始めの0になっています。
ですので、1~8で成ったものを9とすれば終わりで、連続させれば、次次元の始めの0として、以下同様に繰り返されます。
その意味を言葉の創造に当てはめれば、一連の言葉例えば、「こんにちは」という五文字の発音了解にもあてはめることもできます。
発音以前に、イメージ(0)の「<こんにちは>」があって、1~8の八父韻の働きをを通過して、「こんにちは」の「こ」が発音され(9)、「こ」として了解されます。それが発音として正しく聞かれていることが確かめられれば、今度はその「こ」をベース(0)として(9=0)、次の「ん」が同様の過程を通り、五回繰り返されて、当初の頭脳内の「0=<こんにちは>」が1~8を通過して9となり、完成了解されます。(ここのたり、九で充分足りました。)
さらに、そこで会話が続けば、「こんにちは」が次の会話の「0」の位置にきますが、会話が中断されそれで終わりとなれば、これで足りたということで、発音された言葉は宇宙空間に放出されるなり、相手の記憶に印画されるなりして、自分は挨拶したのに相手は聞いていなかったとかの<0>となります。
この関係を「今」に当てはめるとこうなります。
今(イマ、イの間)、という発音から見た場合は前記と同様で、コンチチハがイマになっただけですから別の方面からみます。
「今」が瞬間であって瞬間でなく、前から継承すると同時に次に伝承する構造を見てみましょう。
それには「神の数学」には無い(注。)「0」の能動因を導入しなくてはなりません。
「-0-」が前後にダブって「0」であらわせる理由が必要です。数列にしてしまえば要りませんが、現実ではそうはいきません。
(注。)ここで「無い」というのは、「神の数学」のサイトの続きを読むには大金を払わなくては読めない仕組みになっているので、わたしは読んで「無い」ということで、その後の「神の数学」にはあることかもしれません。
さて、と続けたいのですが、、、、関連はしていますが、古事記に記載されていることだし、脇道へ入りそうなので、止めておきます。
「0」というのは古事記では「こ」のことです。
ひふみよいむなやこと、ここでも、9=0です。蛭子です。
というところで、気が削がれました。今回はここまで。
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ミ◎ いま(イの間)論の準備
「 霊界には、時間がない。故に、霊人は時間ということを知らない。其処には、霊的事物の連続とその弥栄があり、歓喜によって生命している。即ち、時間はないが状態の変化はある。(ひふみ神示)」
というのがあります。「霊界には、時間がない。、、時間はないが状態の変化はある。」というのがみそです。
読み替え遊びをすると。
1)霊界には、とき(時)がある。故に、霊人はとき(時)ということを知っている。其処には、霊的事物の連続とその弥栄があり、歓喜によって生命している。即ち、とき(時)はあるが状態の変化はない。
2)現界には、時間がある。故に、現界人は時間ということを知っている。其処には、霊的事物の連続とその弥栄がなく、歓喜によって生命していない。即ち、時間はあるが状態の変化はない。
3)現界には、とき(時)がない。故に、現界人はとき(時)ということを知らない。其処には、霊的事物の連続とその弥栄がなく、歓喜によって生命していない。即ち、とき(時)はないが状態の変化はある。
4、5、6)とまだまだできそうですが、もう遊びは止め。
どこの誰が霊界には時間がないと納得させてくれるのかわかりませんが、この「時間」という言い方、「霊界」という言い方が、日本語ではなく外来語であることに気付くべきです。
時間という言葉に従ってしまいその心の運びに盲従してしまうことと、時間を創造していく心の運びの違いがあります。(ひふみ神示は人を引っ掛けるのが大好きなようです。)
ひふみ神示自身も言っています。
「霊界には時間、空間は無いと申してゐるが、無いのでないぞ。
違って現はれるから無いのと同様であるぞ。あるのであるぞ。」
「時間、空間もあるのであるが、ないのであるぞ。」
「判るやうに申すならば、時間も空間も映像であって、情態(註:内面的な状態)が変るのみのことであるぞ。」
ということで、引用も気に入ったからといって恣意的にすると問題ですが、わたしのように言い換え遊びにしてしまうのも真面目さを欠くようです。
「一切の未来も一切の過去も、総てが現在ぞ。中今ぞ。現在は永遠ぞ。」
要するに過去も未来も「中今ぞ」ということが分かれば、けりの着くことです。
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ム◎ いま(イの間)論の準備
「中論」鳩摩羅什の訳、Zapoの現代語訳
「何ものも消滅することがなく(不滅)、
何ものも新たに生ずることもない(不生)。
何ものも断滅することがなく(不断)、
何ものも恒常であることもない(不常)。
何ものも同一ではなく(不一義)、
何ものも異なることがない(不異義)。
何ものも来ることがなく(不来)、
何ものも去ることもない(不出)。」
「質問して言う。
諸々の法(ものごと)は、はかることができないぐらい沢山(無量)あるが、どうして、この八つの事柄(八事)だけをもって、邪見を破れるというのか?
答えて言う。
諸法は、無量というが、略して八事を説けば、それがそのまま、総じて一切法(全ての物事)の邪見を破ることになる。」
とにかく仏教書は分析がお好きと見える。幾らでも切りきざんで行く。読み追いかけるのが大変だ。
ところがこれも見方を変えると、こうなる。
きっとどこかに公表されていないネタ元があって、それに沿って述べているだけかもしれない。隠されている口伝の原理があって、その口伝さえ知れば誰でもがほぼ同じようにどの問題についても、同じような分析の過程を経ていくことができる、のかもしれない。
時代を越えて書き手が変わっても、常に使える隠された原理があって、それを応用しているのかもしれない。
仏教の教えにもよく「八」に関するものが出てきます。昔、釈迦が古代大和の地にきてスメラミコトから教えを受けたこととつながっているからでしょう。
「八」というのは古代のスメラミコトが世界の宗教指導者に与えた原理の一部です。
スメラミコトは「原理」を教えたのですが、教えを受けた世界の聖人たちは自らの教義、教え、教訓としてしまいましたので、原理としては伝わらず、釈迦の「教え」とか、モーゼの「教え」、キリストの「教え」、孔子の「教え」とかになってしまいました。
各聖人たちがスメラミコトの「原理」を「原理」として広めたなら、現代の世界の混沌混乱は無かったでしょう。
大元の開始者達が受けた「原理」を、自分の「教え」としている以上、お互いに了解し合えることが制限されてしまいました。世界の歴史はそれぞれの「教え」の上に載って未だに暗黒史が続いてます。
しかし世界の各大宗教間での了解がとれないようになりましたが、世界中に各宗教の教えが伝搬した御蔭で、世界の人々の未来に希望と光があることが分かるようになりました。
それと同時に、どの宗教においても教義に囚われていては、世界の和は得られないことが全世界一斉同時に知られるように成ったのです。
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メ◎ いま(イの間)論の準備
まだ表題が定まらず、<いま>論、今( いま・イの間)論、今-今論その他とかいろいろ思っていますが、どうしても「イマ」を探りたいので「イマ」と付けたい思っています。
ところが、イマというのをイの間としても、どこから見ても理解はできないのが現状です。その元ネタを古事記にして、古事記が心の原理論教科書ですといっても、宣伝文句程度に聞かれる状況です。
逆に現在は、インスピレーションを受けて考えれば、想いが膨らみ思考が豊かに成ったように思われ、そうすると現実との乖離が気になり、そこで行動に係わるとこの世が変わるように感じられ、現実を変える思想を持っているように思い込んでいきます。
未来の目標が自分の中にできていますから、その基本要求を自分が実現していくと、そのまま社会も動くように勘違いをしています。それらが古代からの偉大な宗教道徳思想と結びつくと、その権威の元にそれが保証されているように感じます。
釈迦もキリストもモハマッドも未来への希望を与えてしまいました。それを基礎に未だに新しい宗教などが継ぎ足されています。二千年の間何もできていないことを思い出すどころか、忘れてしまい、非道と抑圧と殺戮の歴史を許してきました。
現代はそろそろ全体を自己反省する時代です。一つのことがすぐ全体に繋がっていることが普遍的に認識されています。
しかしそれを保証するための思惟規範が、原理と成る思想がありません。そのため過去代の偉大な思想、宗教を基礎として真似ていく事から始めようとますが、それを土台として前提にしていますから改築改修新発見の付け足しに留まります。でんぐりかえしに至りません。
ということで、ここから先は真の古事記の宣伝になります。
ですので書くことはありません。
自分で突っ込んで勉強してみる意外に分かることは無いでしょう。
表題候補
「今(いま・イの間)論」
「オノコロ島の今現在論」
「論考・今現在論をつまとして古事記はいかに成れるかと問い自答する」
「今門関」
「今(いま)学入門」
「中今学」-心の宇宙の中に活動が始まる一点
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モ◎ いま(イの間)論の準備
二十一世紀の世になっていまどき「今とは何か」などと問おうとしています。
古くて新しい問いなどといって、気に入っているわけではありません。
ましてや新発見があったからといったところで、せいぜい思い付きでしかないのは分かりきったことです。精神意識分野では心の原理が古代スメラミコトの時代に確定してしまっていますから、付け加えることはありません。八千年前に既に終了しています。私たちは知らないだけのことで、原理としては何時の時代にも貫徹しています。
丁度、鳥が卵を抱くように、母が乳をふくませるように、既に決まっていることです。
その原理とは古事記の神代の巻としてあらわされた思想のことですが、理解できるできないとか、理解するしないとか、誤解されるとか曲解しているとかは、個人レベルのことで、原理の実在に関係しません。
現代の世界は経済、知識、科学技術、情報、交通、生産流通、スポーツ等々は単一でそれ自体で完結してしまう規制された枠の中にありません。もちろん大昔から人間には渡り鳥みたいな習性が伝わっていて、いかだに乗って大洋に漕ぎだしていましたが、現代は多くの分野で、地球単位での行動になっています。
科学や知識分野が地球単位になっているのに、思考の分野はお気に入りの思い付きのおらが春しか目指していない。駆けっこだって世界を相手にしているのに、、、、
ところで、世界を目指すとどうなるのか。
日本語しか知らないのに世界を目指せるのか。
日本でさえ古事記を知らないのに、それを解説するというのか。
古事記の守護者である天皇も神話に拠らないと宣言してしまった。
疑問ばかりでどうする。
心の原理である古事記は何と言っているか。
あめつち
吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)と成す
かくなすべし
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ヤ◎ いま(イの間)論の準備
よしなしごとを書いているうちにヤ行にまできてしまいました。
アから始めて五十音図に沿っていますが、言霊五十音とは関係なく、単に番号がわりに使用しているだけです。五十音図を発音で理解していると、七十幾つあるとか、ヤ行にはダブリがあるとかになります。
また、表音の五十音図の成立と、言霊五十音図とは別物で、言霊五十音図の文献上の成立と思想の成立とはこれまた別のものです。ここでは、八千年以上前には成立していたと思える言霊五十音図の思想を問います。
言霊五十音図は発音の数ではなく、言霊の数の五十のことです。
ウアワヲオエヱ、七、(母音)
チイキミシリヒニ、八、(父韻)
イヰ、二、 (親韻)
の計十七と、
タトヨツテヤユエケメ、十と、
クムスルソセホヘ、八と、
フモハヌ、ラサロレノネカマナコ、十四の、
計三十二と、 (子音)
最後のン、(表音文字)
の合計で、言霊五十になっています。
ヤ行にダブリがあるとか七十幾つあるとかいうのは、表音の数を数えたもので、言霊の意味はなく、言霊の意味を後から付け加えただけのものです。
(もちろんよく考え感じて言霊の意味を付け加えていますが、作者の感じ方で皆違っています。ですので、言霊ナは子の内容といった意味を持っているのに、表音文字に言霊の内容を持っておらず、与えられた意味、価値、威力があるとすることを示すだけです。)
この言霊の順序、ウからン、は皇室の賢所にあるとされる秘本に拠ったもので、この五十の言霊がそのまま、古事記の冒頭五十神に配当されています。
(秘本とはいっても、その内容はこうして民間人が幾らでも手に入れられるように流出していますが。)
これは皇室の権威を借りるというものではなく、古代八千年以上前からの人のこころを見つめ探求した結果原理として抽出されたものです。
誰でもが使用できるものですが、わたしのように自分で追体験をして確かめていないと、自分なりのお気に入りの思い付きが入り込んで言ったり、巷にあふれる全然別な方向の言霊理解(言葉に宿るとされた霊的な力といった)に成ったりしていきます。
古事記の神々の名前とそれへの言霊の配当があるということは、古事記に記されている神など、例えば天の御中主の神という神様などは、そのものとしては存在していないということです。
秘本では天の御中主の神に言霊ウを配当していますから、言霊ウに何らかの理由で天の御中主という名前を与えたのです。その謎解きをしようというものです。
そうすると古事記の神代の巻は心の原理運用法を説いた原理教科書であるということが浮かび上がってきます。
上記にアイウエオ五十音を不規則な形で示しましたが、実はこれが、神名に配当された言霊の順番通りの記述で、意識の発生成長発音され、聞かれて了解し宇宙に拡がるそのままの姿です。つまり、古事記の神々の記載順です。
数は合計で五十ですが、ウは二つで一つで、ヤ行のイとワ行のヰは独立していて、ア行のイとも別です。
これらは全て心の運用上の理由からきていることで、発音現象で分けているわけではありません。
わたしの言うことなどどうでもいいから、早く勉強したくてうずうずしているかたは、下記サイト、島田正路氏のサイト、をご覧ください。どこからも文句の付けようが無い、自分の誤解曲解無理解理解不能早とちり思い込み常識や学会の正式な意見からする文句さえも解消してくれます。
http://www.futomani.jp/kototama_ver.1/
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イ◎ いま(イの間)論の準備
言霊の原理は誰でも使用できるといって、私は書いていますが、真実を示しているのかというとそういうことではなく、単なるわたしの書き物です。もちろん真実を書いている人はいませんし、そこにあるのは個人的な経験に基づいたものですから、「真実だ」という主張があるだけで、無数の「真実だ」という主張の一つとなってるものです。
他の人の知らないこと珍しいこと、自由なことを書き主張すればそのまま、自己所有している真実を発表しているつもりになれます。
自分の意見の表明はそのまま自己所有している、自己に価値のある概念ですから、他者に向かうと直ちに自己=他者となって、自分の真実がすぐ他者にも真実になっていると勘違いしていきます。
あれは他人の言ったことと割り切ったつもりでも、それに評を加える時には他人に対しても他者の真実を代弁しているようなつもりになれます。最初から自分の主張だけを延べ合ってると了解していれば構図は簡単です。しかし、いずれにしても何の進歩もなく堂々巡りか他の方法を導入するしか解決を知りません。
そんなことを想いながら「黄泉国(よもつくに)」と「今」について私の「真実」を考えています。
そういうと、黄泉国とはこういうものだこう理解するものだと各人その主張をしたくなり、相手の意見を読んだり聞いたりすることが自己所有した理解の中に生まれますから、作り固めようとします。古事記では黄泉国の段落で次のように述べられます。
【ここにその妹伊耶那美の命を相見まくおもほして、黄泉国(よもつくに)に追ひ往(い)でましき。ここに殿の縢戸(くみど)より出で向へたまふ時に、伊耶那岐の命語らひて詔りたまひしく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、吾と我と作れる国、いまだ作り竟(を)へずあれば、還りまさね」と詔りたまひき。】
古事記は、【相見まくおもほして、、、愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、】と、自分の片割れに執着し愛着を抱き、さらには一緒になろうと自己所有物であるかのようにあつかおうとしています。全く万人の真実を語っているところで、まじめに読み込むことはせずにそのままそんなものかですましてしまうような場面です。
黄泉国というのは客観現象の世界のことで、死んでいようと生きていようと客観現象に囚われていればみんな黄泉の国にいるということです。仏教ではその囚われから脱するのに解脱とか悟りとかの体験世界へ導きますが、古事記では丁重にその起承転結を語ってくれます。
そこで、イマと黄泉国の関係です。
客観現象を実体とするのが黄泉国を扱うことですが、扱うことはイマのなせる技ですから、つまり妹伊耶那美を思うことが黄泉国に落ち込むことです。客観相手対象を実体客体と扱うだけで黄泉国に入るということになります。あのことを思いこのことを思うという全く日常のことです。日常は黄泉国を作りつつ進行していきます。
段落の終わりに「伊賦夜坂」というのが出てきます。「言うや性」であり、言う事の性質が夜でよく見えないことを言ってものです。出来上がったものに対してあれこれ言い出すので、規範を持たない場合には、見地思い、気づき閃きの相違で騒ぐことになり、規範があればあったで主観的な判断断定に導かれるということです。
イマは今動いている過去から未来へと今の現れている全体を含みますから、それに応じた規範を持たないと対応できません。黄泉国ではあったものがまあるだけで、それが今後の未来へ向かうときには過去概念の、過去経験の整理からでる判断によって、同じ条件なら反復するだろうというだけです。典型的には温故知新などといっていますが、反復するだけのことは保証されるかもしれないというだけです。
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今年の漢字が「金」ということですが、詳細は、「25万8912通の応募のうち、最多の「金」は9156通だった。読売新聞」とある通り、二十五分の一の投票数です。
単なる多数を選択する坊主、主催者の悪趣味がうかがわれます。
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ユ◎ いま(イの間)論の準備
黄泉国を死者の世界としても、黄泉へ行く前に生きていたということがなければなりません。生きていたという前提があって黄泉があるのです。
死者には死者の見方があると、客体側からは客体側からの見方があるという主張がでてきます。
言霊学では黄泉は客体世界ですから、やはり実体が創造されていることになり、おなじ構造の内にあります。主体側の働きがあって客体側をみることになりますが、客体側世界は主体側が創造したものです。
自分で生んだ片割れを黄泉国に放り投げて、そこの場面で実体と働きを謎々みたいにして語った文章がひふみ神示にあります。
「ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、ことにもなるのであるぞ、とも言へるのであるぞ、、、」
火の神というのは【火(ほ)の夜芸速男(やぎはやお)の神を生みたまひき。またの名は火(ほ)の炫毘古(かがやびこ)の神といひ、またの名は火(ほ)の迦具土(かぐつち)の神】 言霊ン のことで、現象実在の総体を示します。
イヰ(イザナギ、イザナミ)の神は八父韻を介して現象(十の卵)を生みますが、客体と固定され向こうに置かれてしまうと、「八つ生んで二つ残し」たことになります。こちら側には十があり、あちら側には八があってあっちとこっちで「イヰ」が残され、共通部と独立した部を数えると十二になっています。そこで生死全体から見ると「十二の卵を十生んだ」と言っています。同じことを実在次元に当てはめると「五つの卵を四つ生んだ」ということもできますが、実相を言わないで算数の象徴を用いただけのもので意味はありません。
古事記では黄泉国の段落でこのことを扱っています。神示ではそれではどうするのかと述べていません。ただ「その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄もないことであろう、妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国の総てを生み育て給ふたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、千引の岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。」というだけです。
ひふみ神示では「うれしうれし」等の直接理解できる言葉を選んでファンになっている人が多いですが、実相は隠されていますから内容は無いといってもいいものです。というのも理解できるように隠されているのではなく、もともとわからないように隠されているので、幾ら読んでもお気に入りの言葉を選択し、懐にする以外に内容はありません。
もともと古事記を種本として古事記の思想に目を向けさせるためのものですが、訳者たちにまるで自覚が無いため古事記とは縁遠いところを回っています。
古事記やひふみ神示を黄泉国にあるものとして読んでしまわないために、すこし言及しました。
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江◎ いま(イの間)論の準備
古事記は心の精神原理教科書ですから、黄泉国があるということは心の黄泉があることで、心の動きの途中に必ずできあがり現れてくるものとして扱われています。生が終わって死んだ後にあるというものではなく、生きていくことが黄泉国を成立しつつ動いていくことです。
黄泉国は精神でのできごとですから、まず、精神が生きていることが前提です。つまり、黄泉国を思ったり考えたりするには我々が生きているから、黄泉国なるものを思うことができます。ですので黄泉国が世界のどこかの地中にあるのか宇宙のどこかの空間にあるのかというのは問題にしません。
一) 心にできる黄泉国ですから当然各人が生きている間のできごとです。実在物としての客観実体を黄泉とすれば、五感感覚で感知できる黄泉の実在が必要です。しかしそんなものはありません。
二) また、五感感覚を含めた意識で認知する黄泉をあるとすると、認知する側の相手対象となる黄泉があることになります。これは主体側の対象となる主客の関係を持ったものとなります。主体の活動に対する、客体の活動を表す関係での黄泉世界です。
三) ところがここに、物質の客観世界と意識の対象となる二つの黄泉世界の他に、イザナギの持つ黄泉世界があります。(今は黄泉のことを喋っているから黄泉というだけであって、他のことに適用してもかまいません。)
イザナギというのは自分のことです。このイザナギが自分の心の内に黄泉(その他)を打ち立てる場合の時のことです。
古事記の黄泉の段落に至るには、黄泉を引き合いにすれば、先天の黄泉から自己主体領域の黄泉とその活動領域ができて、黄泉の現象要素ができ、ついで、現象を創造して物的な形を取り現象としてはその独自の運行に任せられます。そこで黄泉という客観対象は神去りして物質世界のこととなります。これが(一)でイザナミの埋葬のことです。
それを意識で取り上げるのが(二)で、客観実在を意識の相手対象として主体客体の関係の中に置きます。普通の主客論がここから出てきます。
古事記の凄いところは、主客の成り立ちを説明してしまうことです。
(二)の客体があることを主体の働きの相手とするのは誰でも普通にしています。生理器官を持ち出したり意識や記憶を利用したりして説明されていきます。しかし、その説明の根拠が説明できないので誰も言い出しません。つまり、こういうことです。
例えば画面の〈画面〉という字を見て「画面」と納得了解する根拠を自分に見いだせないということです。学校で習って覚えているから、その概念知識と〈画面〉という文字との類似同一性相似性のおかげで「画面」と言っているわけです。ここまでが(二)の主客の問題です。
さて(三)はその根拠が、全く主体側自身内のことでしかないことを説明することです。
相手対象としての「画面」は向こうにあります。主体側はそれを認知して主客の関係をとた結びます。客体側は黄泉国にいる死んだイザナミです。それを生きているイザナギの頭の中に導くことがひつようです。その説明が感覚器官であり意識作用でもたらせられるわけです。
このイザナギの頭にもたらすことから(三)の段階の黄泉が始まります。何しろ相手は死んだイザナミです。黄泉国にて生きている形をとらすには、二つのことがあります。一つは単なる自然の過程内での作用反作用での変形で、動いているような見かけを得ることで、もう一つはイザナギが主体の相手対象として生き返らすことです。これで、主体意識の対象としてはイザナミは蘇りますが、生きて蘇るのではなく、死んだままの形で蘇るのです。
ややこしい言い方で申し訳ないが、当方の頭の限界であるし、人間知性の限界でもあります。つまり、問題は考えて書いていったり、書きながら考えていったりしている限界ということです。古事記の記述に従ってしまえばいいのですが、やはり謎は解かれないと面白くありません。
イザナギの(三)の黄泉とは【 かれ左の御髻(みみづら)に刺させる湯津爪櫛(ゆつつまくし)の男柱一箇(をはしらひとつ)取り闕(か)きて、一(ひと)つ火燭(びとも)して入り見たまふ時】
というイザナギの黄泉国の主体規範を持っているということです。
この灯火が(三)のイザナギの黄泉となっているものです。
イザナギの主体内にこの黄泉の灯火がなければ生きたイサナミとあうことはできず、死んだイザナミを見るだけです。
今とは何かという問題に該当させれば、私が「イマ」という灯火の規範が無ければ何も解決できないということになります。
全然公式とも常識とも正式とも違うことを言ってるようにとられてと思います。ことさら奇をてらって思いつきの奇抜さを紹介しているのでもありません。
例えば自分がこのように書くこと誰かがこのように読むことの日常行為に自然に生じていく、思惟行為の動きを古事記の黄泉国から現代語に訳してるようなものです。深読みとか曲解とかでなく、古事記を通して心の真実に向かおうとするものです。
それでも黄泉国をそう解するのは全然受け入れられないということでしょう。同じ論理がこちらにもあり、黄泉国をどこかに探すのは二千年(!)以来の誤解であると言っています。
それではどうなんだ。どちらが本当なんだと言うのが、黄泉国の内容です。黄泉国を場所として探す人は見つければ正解になるし、死んでから見つけるつもりの方はそうすればいいし、黄泉国を心のこととするなら今すぐできます。
後はどれかを選択して自分で確かめればいいのです。
この選択確かめ方そのものが黄泉国の話です、と、こちら側は言いますので気に召さない方はそれぞれの行為選択をしてください。
参考までに段落の始めを紹介しておきましょう。
【 ここにその妹伊耶那美の命を相見まくおもほして、黄泉国(よもつくに)に追ひ往(い)でましき。】
実際の場所を探している方は幾ら頑張っても見つかるはずは無いのですが、そういった努力は今もつづいています。
実際の場所から少し後退して、死者の世界であるとする方はいろいろなイメージ勝負になりますからあんまり突飛なことにならないように。
生死の境を超えてあちら側の世界にいくという、確かめたわけではないがそんな思いを持つ方は、どうしても魂とかあの世とかの実在を設定しないと自分の言葉が続きませんので、やはり適当なところで切り上げないと妄想呼ばわりされそうです。
言葉を扱って済ましたいという方もいるでしょう。黄泉は中華の言葉ですが言葉の探求だけでも大変な労力がいります。
黄泉は大和の「ヨミ」という言葉に漢字を当てはめただけで、漢字以前の「ヨミ」という心持ちがありました。大和の「ヨミ」という心持ちを無視して黄泉の漢字を該当させても中国人式の黄泉国理解になるだけです。
もし古事記の黄泉国の段落に、こういったようなことがどのようにできて、どのように人の心持ちを占領し、どうしたらそれに支配されずに済むのかというようなことが書かれていたとすれば、どうなるでしょうか。
まずは発見してみましょう。
【 ここにその妹伊耶那美の命を=自分の片割れです。自分の創造したこと思ったこと考えたこと主張していること等々。
【相見まくおもほして、=自分の作ったもの主張したものは思いついたものはいとおしいものです。
【黄泉国(よもつくに)に追ひ往(い)でましき。=いとおしく会いたくなるその心とは何か。執着愛着による幽霊を、黄泉国を作ることではありませんか ?。
とんでもない。喜びの期待、愛の確認もあるでしょう。
死者とですか。
そうだ。いとおしさだよ。
それは心ですね。しかも、死んだ相手には通じない自分だけの思いです。それはあなたの主観です。こんな言い方をされると悲しくなりますが死んでしまった相手、出来てしまった主張、書かれた話された言葉等々、には通じません。返って形となったものがあなたをとらえようとします。そこでより執着愛着を起こしたら黄泉に囚われます。抜け出られませんが、自分の半分は確保したつもりになれます。なぜならそこにあるのは自分が作ったものですから。
書けば書くほど自分の黄泉国をつくり、吾と我と作れる国、いまだ作り竟(を)へずあれば、還りまさね」と詔りたまひき。
黄泉国をやり直さないと駄目なような気がしてきました。
黄泉国=執着からの解放の準備
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ヨ◎ いま(イの間)論の準備
黄泉国は精神の客観世界のことで、出来上がった世界のことです。ですので「イマ」との関係を考えるときには少々特別な関係になります。というのも出来上がってる世界には未来はなく、未来へ向かって動くことが無いので、過去-今-未来へ流れる方向はありません。
ところが日常生活ではあれこれ、こうだああだと過去にあったことに言い合いをしています。過去に対して言い合いをしていますとあたかも未来へ通じる道を開いているように思われてしまうこともあります。このことを古事記の表記では【 一(ひと)つ火燭(びとも)して入り見たまふ時に、蛆(うじ)たかれころろぎて、】と書き示しています。
つまりの「過去-今」のあり方を取り上げてその範囲の中で「過去-今・今-今・今-未来の流れ」を概念で再構築しているのです。
過去の話を取り上げるときには、黄泉国が二つあることに気づきます。前回の二と三のことです。主体側に取り上げられた客体側で、出来上がっている相手対象となるものと、その対象を今現在意識している時に主体側において客体側であることを意識させている主体内の客体です。ややこしい言い方で申し訳ない。言い換えると、今客体側を意識するための規範に比較される頭脳内の客体と、出来上がったあっち側にある客体です。
例えば、「客体です。」とパソコンの画面に出ていますが、これが出来上がってしまった客観世界で、それを読み認識する時には、頭脳内において「客体です。」を了解する納得するための規範がないと、字を見ているのか絵を見ているのか判断がつかないのです。前者が死んだイザナミの世界で、後者がイザナギの主体内に生きているイザナミの世界です(同様に黄泉の国と呼んでいます。ヨミ・四の実、四つの次元世界の実となっているもの)。
古事記ではこの判断の用い方が詳しく示されています。これは判断する側の主体に係わるもので、客体側自身が動き自分でしゃべるわけではありません。(これを喋らすのが物質科学認識分析の役目となります。)イザナミは死んでしまっていて、ギの命一人だけですから、ギの命の取り上げる客体世界というのは、イザナミの出来上がった世界の形を借りたギの命の世界にならないと、ギの命の働きが有効でなくなります。
ここには、イザナギの主体内に過去-今-未来の全過程があります。この未来をも目指すイザナギの力動因があるので、過去のイザナミを取り上げても生きているイザナミがいるように見えるのです。これが過去を取り上げても未来につながっていると思える根拠です。
そこの手続きを古事記の黄泉国の段落では、判断の過程を、その前提から、実在次元の母音世界、父韻の働き、判断が取り上げるもの、判断する上で主体側に欠けているもの、等が示され、次段の禊ぎ払えに向かうという、凝りようです。
イザナミはいませんが彼女の世界をとりあげるやいなやイザナミの全世界状況が目前に繰り広げられます。ただし主体である自分自身が成すこととしてですので、死んだイザナミが相手をしてくれるわけではありません。
ここの所を古事記は美の命が追っかけてくるように記述しています。その意味はギの命が囚われ落ち込む各地点のあり方を示し、黄泉国に堕することのないように段階を示すためです。ギの命の思惟行為に付き物の(つまり誰でも全員に付き物の)黄泉国へ堕していく必然のきっかけをその都度示してくれています。
またこれを、さらに上位の見地から見れば、次段の禊ぎ払えの内容を示すためでもあります。この必然的に誰でもが黄泉国に堕していくことがあるために、禊ぎ払えの次段が用意されていいます。禊ぎ払えとは何をするものかが黄泉国で示されたわけです。
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ラ◎ いま(イの間)論の準備
過ぎ去った過去、黄泉国、は主体側が取り上げることによって、力を持ってきます。どうしてでしょうか。死人に口無しどころか祭り上げ跪き拝みます。さらには空想予言予想にに脅え、自分を放棄して神頼みの蓑に隠れます。宗教界、思想界はいうに及ばず、組織でも日常生活でも黄泉の構造が支配的です。
黄泉の国のイザナミは常に勝者であり黄泉津大神です。
仏陀は執着から解脱せよと言ったきり寝たままです。キリストは天にまします神を探しに行ったまま降りてきません。ごちゃごちゃ言い出す新興宗教も精神世界の新思想も拠り所にしたものが動く気配はありません。期限の切れた予言をつないで新しくしてもどうせまた期限切れになる不安を消せません。
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黄泉国に行くといいますが、精神が行くにしろ魂にしろ身体が行くにしろ、まずこちらにあるものがなければ行こうにも行かれません。
自分が黄泉国に行くのなら自分の何が行くのか、誰も明らかにしません。
身体の何が、精神の何が、魂の何が黄泉国に行くというのですか。
黄泉といってもどこにあるのかわからず、古事記の記載された漢字表現から地下ではなく山奥にあるという主張もあります。死者の国だといいますが、おとぎ話としてなら通じるでしょうが、まじめに黄泉国として書くものがあるのでしょうか。神話学となってますから、それなりに尽きないお話もあるでしょう。
言霊学はそういった主張こそ、黄泉国の主張であるとしますが、それらの一つ一つを取り上げて起承転結を明かすのも疲れるし、明かしたところでそういったこともあると了解されて、それで知識を得たような気持ちにさせて、何もなく終わるものです。
これは言霊学からの説明が悪いのか、人の頭はどうしようもなく言霊学を受け付けないようになっているのか、そういったところでしょうか。ひふみ神示のように秘密だからわからないようにしてあるけれど、いつかでんぐり返しが来るまでお待ちなさいというのもあります。
いずれにしてもその間は黄泉国、過去経験世界はでかい顔をして世界にのし上がっていきます。そればかりか、生者の国の人を毎日千人殺すとまでいいます。過去世界のわけのわからないイザナミはそんな脅しまでしてきています。
こういったわたしの主張も、それを聞いて反撥するのもみんな言い古されたものですが、喋っている当人にはその人の今を形成するものです。何を喋ろうともどんな反対意見を述べようとも、それぞれ自分の存在を主張していきます。
そのベースは黄泉国の知識、死んだ知識です。
「伊耶那岐の命語らひて詔りたまひしく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、吾と我と作れる国、いまだ作り竟(を)へずあれば、還りまさね」と詔りたまひき。」
そこで美の命が目覚めて私を自由に使って応用して頂戴、温故知新といわれるでしょう、などと言い出すものなら黄泉国はガチガチの砦となります。
イザナギは蛆のがさがさしているのを見て逃げただけなのに、イザナミには「吾に辱(はじ)見せつ」ととられました。批評なり批判なりをしてあげた方が余程ミの命の気持ちがすっきりするのですが、そうしませんでした。
返って「事戸(ことど)を度(わた)す」ことになります。
さて、ややこしい問題があります。過去事象であるイザナミの世界に「事戸(ことど)を度(わた)す」とはなんでしょうか。
死んでしまったあっち側の世界になぜわざわざ事戸を渡すのですか。
放っておけばいいのですが、そうすると「吾に辱(はじ)見せつ」ととられます。挙げ句の果てに千人殺すです。
イザナギさん、どうしますか。
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リ◎ いま(イの間)論の準備
人はでかい顔をしている過去に翻弄されます。
どこかの少数の人たちは「今しかない」などと言っていますが、そう言うしか知らない過去知識に翻弄された何とかの一つ覚えになっています。
その解説、言葉使いは過去知識の繰り返しです。
つまりわたしの言うことも同じ構造の中にあり、人様に向かって偉そうなことは言えません。
今あることが、ただありのままにあるだけだと、素晴らしい未来への言葉を述べたとたんに、その過去となった言葉に囚われます。
二回目に述べるときは全然未来への言葉となっていません。
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ル◎ いま(イの間)論の準備
コメント 2012/12/23(日) 午後 5:32[ ◆ ] がありました。
「菊の読み方には「クク」とか「ココ」とかあるんですね。
菊理姫(ククリ姫)とか
菊(ココ)菊の古名とか
九九の意味がなんとなくわかったのでよかったです!
ココのネタ元 ホツマツタヱ
みかさふみ なめことのあや
ナカツキハ オオトシツケル
なかつきは おおとしつける
九月は 大年 告げる
ココノミハ カサネココクリ
ここのみは かさねここくり
菊の御衣 襲 菊・栗
ククリ姫は古事記ででてるしココという読みまで出てきたら
九九は菊と考えてよさそうですね。
裏が一で16とかと関連ありそうだなぁ・・
っていう程度です^^;
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菊理媛に関しては、日本書紀の一書でチラッと出てくることをいいことに、勝手な解釈が横行し、いつの間にやら公式見解とやらもできているようです。
そのように好き好きな思いつきを言わせるように、もともと仕組んでいたのかもしれません。
つまりどのような意見を吐こうとも正解には達しないという非常な自信が書紀の作者にはあったのでしょう。
深慮深謀次元をくっつけた思い付き次元とやらで語るのではなく、原理的にはどういうことでしょうか。
和解、和合、縁結び、死者と生者の仲介、締めくくった、というのはそれぞれの現象のあらわれです。
出されたカレーライスがまずくて断った場面みたいなものです。何か言われて黄泉国を出ました。
イザナミも「『私はあなたと、すでに国を生みました。なぜにこの上、生むことを求めるのでしょうか。私はこの国に留まりますので、ご一緒には還れません』とおっしゃっております」と、伝えられた後の姫の出番です。
「こころをこめて作り上げたカレーです。これ以上のものはできません。」といった後に吐いた、姫(秘め)の謎の言葉です。
「イマ」と発音して「イマ」と聞いて「イマ」と反復して「イマ」と了解する場面で、姫(秘め)の言うべきことは何でしょうか、何が残っているでしょうか。
次の段落は禊ぎです。汚らしい国から持ち来ったものを全部脱ぎ捨てます。
当然、イザナミとの和合、和解、縁結び、生死の仲介もくくりも脱ぎ捨てます。
現象からする現代の解釈はその逆ですが。
イザナミとは何だったのか。
イザナミの脇に立つことのできるのは何か。
書き表さず、聞かせず、相手を納得させるとは何か。
和合、和解、縁結び、生死の仲介もくくりではないが、それらである、その心とは何か。
未完。