11。チイキミシリヒニ、とは。たかまはらの使用法。自我の成立=名を付けること。
古事記の八父韻の働きによる意味内容(8~15)を、言葉にして自己意識が成立するときの経過を述べたものです。古事記の順番がそのまま言葉の順番となって一文が成立しているのに気付きます。
赤い花をみる、何故赤く見えるか、赤をとるか緑か黄色か自意識は選択に悩んでいる等、で「赤い花」というとき、
五感感覚次元(ウ)では、言葉を使用してませんが、頭脳内では感覚からする了解のためには、ここにあるのは黄色でも紫でもないあれは赤いバラという五感上の無数の確認了解事項が物凄い勢いで頭脳内をかけめぐり、言葉とならない言葉を使用して「あか」を欲していきます。
知識上の次元(オ)では、言葉を扱うのが専門の次元となり、「赤」に関して過去概念、記憶との整合性が言葉の使用で確かめられます。
選択上の次元(エ)では、前次元の了解の上に、自らを処する実践行為の選択が行われ、「あか」を選んでるのに隣にある黄色に手が出ないようにしていきます。
また、感情次元(ア)では、上記のいずれとも違う諸相の中で喜怒哀楽、感動の情動が出てきます。
それぞれの異なった次元世界に自己が成立していきますが、どの次元相においても「あかい」というとき以前の、先天の意識があります。
チイキミシリヒニ、とは
○ チイキミシリヒニの順列は自然な精神意識の成り立ちによって自我が成立する手順を示したもので、 精神意識の成り立ちによって自我が成立する手順を示したものです。
簡単に言えば、普通は自分とか自我とか赤い花とが映画を見るとかいっていますが、赤い花というときの赤い花という言葉以前の成立を示したものです。
自分は、というときの自分以前の成立でもあります。
普段はそんなことは思わず考えず、自分が赤かい花を見ればそのまま赤いといいます。自分といえば自分を指します。チイキミシリヒニはその時の赤い花、自分という言葉の成り立ちではなく、赤い花、自分という意識の成り立ちを原理で示したものです。
どの人間もいつもどの時点でも不問にし無視し、当たり前に言葉使いを始めてしまう、その言葉を使用してしまう意識があります。このときの意識の成立を述べたものです。
いわば、発せられる言葉を探し受け入れる以前の精神内容ということになります。
自分という言葉を使用する以前に、自分の先天世界があります。それはどんなものか先天というのですから、具体化して述べることはできません。具体化して自分とか赤い花とかいった時は、それは後天の具体的な事象を指したものです。
箸を持つには、橋を渡るには、手指、足がなければならないように、発せられる言葉を使用するには、意識のチイキミシリヒニがなければなりません。
このチイキミシリヒニが現象となったとき、それぞれの次元を構成して、
「ウ」次元での父韻の配列。
○・キシチニヒミイリ・○
あ・かさたなはまやら・わ
「オ」次元での父韻の配列。
○・イキチミヒシミイリ・○
あ・かたまはさなやら・わ
「ア」次元での父韻の配列。
ア・チキリヒシニイミ・○
あ・たからはさなやま・わ
「エ」次元での父韻の配列。
ア・チキミヒリニイシ・ワ
あ・たかまはらなやさ・わ
となります。
そしてその後に現象の創造となりますが、まだまだ先の話です。(ほんの今という一瞬の話なのですが。)
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12。チイキミシリヒニ。たかまはらの使用法。自我の成立=名を付けること。
○ 名前付ける、という天与の性能。チイキミシリヒニという天与の性能。
例題。自我を立てることが、名を付けることになる経過とはどのようなものか。
(一) ・ ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと) 【08 言霊 チ-宇比地邇(うひぢに)の神】 (ウの性質)全体性 いとなみ、働き。精神宇宙全体がそのまま現象発現に向って動き出す端緒の力動韻。 宇は地と比べて近い。天は地と比べて近い。吾の眼の全体感はそのまま相手対象に向ういとなみ・働きをする。
・ ここに先天構造を構成するすべての神々が出揃ったので、 」
これを文章通りに解釈しますと「先天十七神の命令によって、……」となります。これでは古事記神話が言霊学の教科書である、という意味は出て来ません。ではどうすればよいか。「神様が命令する」のではなく、「神様自身が活動する」と変えてみると言霊学の文章が成立します。「さてここで先天で十七神が活動を開始しまして……」となります。
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(二) ・以ちて、 【09 言霊 イ- 妹須比智邇(いもすひぢに)の神。】 (ウの性質) 全体性。 なりさま、実体。 動き出した力動が持続する韻。ヤイユエヨの行のイ。
「父韻イとは「父韻チの瞬間力動がそのまま持続して行く力動韻」という事が出来ましょう。」
すべからく智に比ぶるに近かるべし。智による選択に依らずとも相手対象のなりさまと成る。
・ここで先天で十七神が活動を開始しまして……」となります。
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(三) ・伊耶那岐 【10 言霊 キ- 角杙(つのぐひ)の神。】 (オの性質)掻き進める働き。 いとなみ、働き。 体験内容を自我の方向に掻き寄せようとする力動韻
「言霊キ、ミ。昔、神話や宗教書では人間が生来授かっている天与の判断力の事を剣、杖とか、または柱、杙などの器物で表徴しました。角杙・活杙の杙も同様です。言霊キの韻は掻き繰る動作を示します。何を掻き繰る(かきくる)か、と言うと、自らの精神宇宙の中にあるもの(経験知、記憶等)を自分の手許に引寄せる力動韻のことです。これと作用・反作用の関係にある父韻ミは自らの精神宇宙内にあるものに結び附こうとする力動韻という事が出来ます。」 立てた規範をもってその運用に合うように相手対象を引き寄せるいとなみ、働き。
・「 いざと立ち上がり、」
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(四) ・伊耶那美 【11 言霊 ミ- 妹活杙(いくぐひ)の神。】 (ヲの性質) 掻き集める。なりさま、実体。 精神内容の中に己にある自己の体験内容に思いが結びつこうとする力動韻
「言霊ミ。父韻ミは自らの精神宇宙内にあるものに結び附こうとする力動韻という事が出来ます。」 立てた規範を中心にして相手対象に適合させるようななりさまを探す働き。
・「いざと立ち上がり、」
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(五) ・ この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め 【12 言霊 シ- 意富斗能地(おほとのぢ)の神。 (エの性質) 拡がりの保存収縮。いとなみ、働き。 精神宇宙にある精神内容が螺旋形の中心に静まり収まる力動韻
「言霊シ。意富斗能地は大きな斗(はかり)の働きの地と読めます。物事を判断し、識別する大いなる能力の地という訳です。人はある出来事に出合い、その事を判断・識別する事が出来ず迷う事があります。あゝでもない、こうでもないと迷いながら、次第に考えが心の中でまとめられて行きます。そして最後に迷いながら経験した理が中心に整理された形で静止し、蓄積されます。蓄積される所が心の大地という訳です。この働きから学問の帰納法が生れて来るでありましょう。」
大いなる量りの働きの地。選択決着を目指して納めようとするいとなみの識別の土台となる働き。
・「 先天構造世界の内容はすべて整った。けれど後天現象世界についてはまだ何も手をつけていない。その混沌とした後天の世界に創造の手を加えて、種々のものを創造し、うまくいったか、どうかを調べ、」
「この場合、漂へる国の国とは国家のことではなく、創造して行く一つ一つの物や事のことを指します。 」
この漂へる国とは、先天構造の十七の言霊は出揃ったが、その十七言霊が実際にどんな構造の先天であるのか、またその先天が活動することによって如何なる子音が生れるのか、その子音がどの様な構造を構成するのか、またその子音によって実際にどんな世の中が生れて来るのか、…等々がまだ何も分ってはいない、という様に事態はまだ全く流動的状態であるという事であります。「修理め固め成せ」を漢字だけ取り出しますと、「修理固成」となります。どういう事かと申しますと、「修理」とは不完全なものを整え繕う事、「固成」とは流動的で秩序が定まっていないものに秩序をつけ、流動的なものに確乎とした形を与えることであります。実際にはどういう事をすることになるかと申しますと、宇宙大自然の中にあって、およそ人間の営みに関係するもの一切を創造し、それに名前をつけることによって生活の秩序を整え、人類としての文化を発展させて行く事であります。
前にもお話しましたが、創造というと物を造り、道路や橋やビルを建設したり、芸術作品を創作したりする事と思われています。これ等も創造である事に間違いありませんが、精神内の創造とはそれ等の外に今までの経験を生かし、それに新しいアイデアを加えて物事を創造すると共に、その創り出されたものに言葉の道理に則って新しい名前を附けること、これも大きな創造です。言葉というもの自体から言うなら、この様に新しいものに附けられる名前の発展、これが創造の本質と言うことが出来ます。(この文章のいとなみ、働き側)
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(六) ・ 成せ」と、【13 言霊 リ- 妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。 (ヱの性質)保存収縮の拡がり。 なりさま、実体。 ある精神内容が宇宙の拡がりに向って螺旋状に発展拡大して行く力動韻。
「言霊リ。大斗乃弁とは大いなる計りの弁(わき)まえと読めます。意富斗能地と作用・反作用の関係にある事から、心の中にある理論から外に向かって発展的に飛躍していく働きと考えられます。父韻リはラリルレロの音がすべて渦巻状、螺旋状に発展していく姿を表わしますから、父韻リとは心の中の理論が新しい分野に向かって螺旋状に発展し、広がって行く働きであることが分ります。この様な動きの理論の働きは演繹法と呼ばれます。学問ではなくとも、多くの物事の観察から人の心の中に一つの結論がまとまっていく過程、また反対にひとつの物事の理解から思いが多くの事柄に向かって連想的に発展して行く事、その様な場合にこの父韻シ、リの存在が確かめられます。」
大いなる量りのわきまえ。選択識別されたなりさまが繰り返し述べられるような働き。
「 創造したものに適当な名前を付け、整備しなさい、との意味です。混沌とした世界を一つ一つ区切って、言葉の言うように似せること、創造したものの内容・その存在がよく分かるように適当な名前を付け、他のものとはっきり区別出来るようにすることを言います。 」
この漂へる国とは、先天構造の十七の言霊は出揃ったが、その十七言霊が実際にどんな構造の先天であるのか、またその先天が活動することによって如何なる子音が生れるのか、その子音がどの様な構造を構成するのか、またその子音によって実際にどんな世の中が生れて来るのか、…等々がまだ何も分ってはいない、という様に事態はまだ全く流動的状態であるという事であります。「修理め固め成せ」を漢字だけ取り出しますと、「修理固成」となります。どういう事かと申しますと、「修理」とは不完全なものを整え繕う事、「固成」とは流動的で秩序が定まっていないものに秩序をつけ、流動的なものに確乎とした形を与えることであります。実際にはどういう事をすることになるかと申しますと、宇宙大自然の中にあって、およそ人間の営みに関係するもの一切を創造し、それに名前をつけることによって生活の秩序を整え、人類としての文化を発展させて行く事であります。
(この文章のなりさま、実体側)
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(七) ・ 天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、【14 言霊 ヒ- 於母陀流(おもだる)の神。 (アの性質)火花の先端にて、表面性。 いとなみ、働き。 精神内容表現が精神宇宙球の表面に完成する韻。
「言霊ヒ。於母陀流の神を日本書紀には面足尊(おもたるのみこと)と書いており、その意味・内容は更に明らかとなります。ハヒフヘホの音は主として人の言葉に関する音であります。面足とは心の表面に物事の内容表現が明らかに表わされる力動韻という事が出来ます。
かくの如く心の表面にはっきり表現として現われる時には、心の奥で過去のイメージが実を結んでいる、という事になります。」
意識内容が自己の表層へと上昇し自己の表面結界を超えて、表面で見つかったものと結び付こうとする働き。
「 天(あめ)の沼矛(ぬぼこ)とは先天の働きのある矛(ほこ)の意。矛とは剣(つるぎ)の柄(つか)の所を長くした武器のこと。古事記の神話が言霊学の教科書であることを念頭におくと、天の沼矛とは言葉を発する時の舌のことと考えられます。」
沼矛の矛とは両刃の剱に長い柄をつけたもの、と辞書にあります。しかし矛という武器は言霊学と関係がないものです。では矛という言葉を使うのは何故か。文章の前後を慎重に検討しますと、言葉の学問に対して矛とは何を表徴しているのか、それは人間の発声器官である舌の事でありましょう。人の舌の形は矛に似ています。人は舌を上手に使って言葉を話します。けれど舌だけで言葉を話すわけではありません。それは心が動くからです。心が活動して、更に舌が動く事によって、霊と音声が一緒になり、言霊子音を生みます。この現象子音である言霊によって漂へる国を修理固成し、人類の文明創造が行われる事となって行きます。(この文章のいとなみ、働き側)
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(八) ・言依さしたまひき 【15 言霊 ニ- 妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。 (ワの性質)火花の先端にて、表面性。なりさま、実体。 物事の現象の種が精神宇宙の中核に煮詰まり成る韻
「言霊ニ。この心の奥に一つの事の原因となるものが煮つめられて行く力動韻、これが父韻ニであります。」 心の深部(夜)のなりさまの恐れおおさがもの事の原因となるように煮詰まる働き。
「この舌を操作して言葉を創造し、その言葉によって後天の現象世界を整備、発展させなさいと命令し、委任した、ということです。」
人は舌を上手に使って言葉を話します。けれど舌だけで言葉を話すわけではありません。それは心が動くからです。心が活動して、更に舌が動く事によって、霊と音声が一緒になり、言霊子音を生みます。この現象子音である言霊によって漂へる国を修理固成し、人類の文明創造が行われる事となって行きます。(この文章のなりさま、実体側)
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13-1。(イ--意思の発動)・チイキミシリヒニ。たかまはらの使用法。
(イ--意思の発動)
チ--ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)
イ--以ちて、(や行のイ)
キ--伊耶那岐の命
ミ--伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、
シ--「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め
リ--成せ」と、
ヒ--天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、
ニ--言依さしたまひき。
(ヰ--意思の帰還)
私たちは普通ならば、感じ、考え、思ったことをそのまま自分のこととして話し書いていきます。ブログも同じで、練りに練ったことであろうと閃きであろうと自分のものとして書いていきます。そこで使用している言葉、書いている言葉がどのようにできてどのように自分のものになったものかは誰も問う人はいません。
「問う人はいません」と頭の中に言葉の流れができれば、そのまま自分の造った言葉としているつもりです。「つもりです」と書いたときつ、も、り、で、す、の一つ一つの語、その言葉のつながり、意味、表記のしかた、ここで喋っていいものかの選択、等々がほんの一瞬に全てがきまります。こんな凄い芸当は誰がするのでしょうか。
他でもありません、我々一人一人が何でもなく普通にやってしまうことです。
へのへのもへじで、何と言うことなくやってしまうものですが、この物凄い超能力といってもいいものに気付いたのが古代のスメラミコトたちでした。かれらはここに意思のイの創造力がいざない合いまねぎ合い看取り合うのを発見し、自分の確かな経験内容にイの創造力である伊耶那岐の神と名付けました。
天与の創造力が伊耶那岐の神として与えられ、それが後にウオアエの各次元の縁の下の力となっています。
ですのでチイキミシリヒニの展開には、欲望、知識のウオ次元の自覚が無いとか、アの感情、エの次元の自覚があるとか、言う以前のこととなります。例えば赤ちゃんなどには、どこでうんちするとかおしっこするとかの自覚も何もなく自由自在です。例えばものの決定行為の決意などの前にも、疾風怒濤のように起きてくる意思そのものの発揮というのがあります。犯罪を犯す直前に頭を空白にされながら大いなる決意で決行するとかもあります。
それらの過程は過去の記憶が蘇るととることや、過去との類似が出てきたと取ることもあり、動物的な自然反射行為と解されることもあるでしょう。
また、全く始めての環境始めての場所等で、おや、前に来たことがあると感じることもあります。
これらの手に負えない自由奔放な、意思であるのか強制であるのか、時と場所と次元を選ばさせてもらえない意思の出現を受取る側の立場に私たち人間はいます。
ところが人間の性能は凄いもので、動物のように自由もなく強制を受けるだけのようにみえることを、自覚された意思のもとに成し遂げてしまうことができます。
この手に負えない強制された初体験を経験済みと感じるだけでなく、自覚的に展開できないかとして道を探し、タカマハラナヤサの経過をたどり、自由に行動するなかに取り入れ、自分と他人の世界創造をしていけるのです。
大げさな例をあげなくても、一方では、日常の普通のことの始めの一瞬前の前意識の状態は自分がいるのに自分でない、自分のしていることなのに自分の頭が奪われている、そういったことの後に自我意識が出てきます。「はっと気がつくと、何々だった」なんていう言い方がよくあります。
他方では、赤ちゃんの自由自在勝手気ままなおしっこは、大きくなればタカマハラナヤサの経過の元に納められていくのです。
欲望五感感覚次元などでは、タカマハラナヤサの経過は充分理解されやすいのですが、次の経験概念過去知識の運用段階になるとなかなかそうも行かなくなります。
それでも子供の勉強を見てあげるときとか、一緒にゲームをするときなど思い出してみると、宿題の解答の手順を教えたり、こうすればゲームに勝てるとわざと負ける場合など、子供の出方がみんな分かりますから、子供の満足が行くような運用ができます。
しかし今は同じ「チ」で始まっていますが、「チイキミシリヒニ・タヤカマサラハナ」、と、「チキミヒリニイシ・タカマハラナヤサ」、とでは、「チ」の次元が違います。
赤ちゃんのような自由奔放な勝手きまま自在な「チ」と、自覚された全体が見通された自由奔放な勝手きままなように見える「チ」との違いがあります。
チイキミシリヒニ(たやかまさらはな)がうまく片付いたら、チキミヒリニイシ(たかまはらなやさ)に行けるでしょう。
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13-2。(イ--意思の発動)・チイキミシリヒニ。たかまはらの使用法。
父韻の配列の解説。
このチイキミシリヒニが現象となったとき、それぞれの自我の次元を構成して、
「ウ」次元での父韻の配列。
○・キシチニヒミイリ・○
あ・かさたなはまやら・わ
「オ」次元での父韻の配列。
○・キチミヒシミイリ・○
あ・かたまはさなやら・わ
「ア」次元での父韻の配列。
ア・チキリヒシニイミ・○
あ・たからはさなやま・わ
「エ」次元での父韻の配列。
ア・チキミヒリニイシ・ワ
あ・たかまはらなやさ・わ
となります。
これらの前段にあって、各次元での自我の成立に係わったのが以下です。
自我の成立=名付け次元での父韻の配列。
イ・チイキミシリヒニ・ヰ
あ・たやかまさらはな・わ
これらはあいうえお五十音図のそれぞれの次元のイ段とア段を抜き出したものです。つまり五十音図は心の運用の仕方に応じた様々な種類があります。
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上記各五十音図の「シ」の位置に注目してもらって、「シ」【「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め(12 言霊 シ) 意富斗能地(おほとのぢ)の神】を中心に慨略してみます。
「シ」に配当されている古事記の文章は「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め」です。かんたんに言えば結論を創ることです。
ウの欲望次元では、キで心に掻き寄せた欲望がすぐに結論の「シ」となって、これしかないんだという心を造り、直ちに心が「修理(おさ)め固め」られます。(キ-シ)
オの知識次元では、キの疑問関心事が、過去知識と照合された後に、自分なりの正しさを得て、言葉になれば、心に決めます。(キ-チ-ミ-ヒ-シ)、
欲望次元のように心に出てきたものが直ぐ「修理(おさ)め固め」られるのではなく、過去概念との交渉があります。
アの感情次元では、まず感情が出てきて、その後で心の関心事と結ばれ、それが心の中で拡大され、何らかの表現を得て、その表現が心の行動の目的となって、「修理(おさ)め固め」られます。(チ-キ-リ-ヒ-シ)
アの感情次元ではウ、オのように心に「シ」が決まるのではなく、アの感情は既に自明のことですから、アの表現を行動目標として決めていきます。
そして、エの次元では、タカマハラナヤサ(シ)とあるように、心の一連の経過の最後に結論として納得了解される「シ」として立てられるのです。
以上のことが全部、
自我の成立=名付け次元での父韻の配列。
イ・チイキミシリヒニ・ヰ
あ・たやかまさらはな・わ
の始めの「イ」に含まれています。
(・) 【16 言霊 イ】 伊耶那岐(いざなぎ)の神。
(意志の発動) 親韻、
(吾の眼の創造原理)
・自覚があるなしではなく、天真爛漫、そのまま動く。過去-今-全体-今-未来の何が飛び出すか分からない。
次は「チ」。
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14。(チ)・チイキミシリヒニ。たかまはらの使用法。
(イ--意思の発動)
チ--ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと) 宇比地邇(うひぢに)の神。
イ--以ちて、(や行のイ)
キ--伊耶那岐の命
ミ--伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、
シ--「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め
リ--成せ」と、
ヒ--天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、
ニ--言依さしたまひき。
(ヰ--意思の帰還)
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チ--ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと) 宇比地邇(うひぢに)の神。
「 ここに先天構造を構成するすべての神々が出揃ったので、 」
ここに天津神諸の命以ちて、
これを文章通りに解釈しますと「先天十七神の命令によって、……」となります。これでは古事記神話が言霊学の教科書である、という意味は出て来ません。ではどうすればよいか。「神様が命令する」のではなく、「神様自身が活動する」と変えてみると言霊学の文章が成立します。「さてここで先天で十七神が活動を開始しまして……」となります。(いとなみ、働き側)
-------------------
宇比地邇(うひぢに)の神。 (ウの性質)全体性 いとなみ、働き。今-今。
精神宇宙全体がそのまま現象発現に向って動き出す端緒の力動韻
「言霊チを示す神名、宇比地邇の神は「宇は地に比べて邇(ちか)し」と読めます。宇とは宇宙、いえ等の意味があります。人間の心の家は宇宙です。言霊アの自覚によって見る時、人の心の本体は宇宙であると明らかに分ります。するとこの神名は人の心の本体である宇宙は地と比べて近い、と読めます。即ち心の本体である宇宙と地と同じ、の意となります。宇宙は先天の構造、地とは現象として現われた姿と受取ることが出来ます。そこで宇比地邇の神とは心の宇宙がそのまま現象として姿を現す動き、となります。」
宇は地と比べて近い。天は地と比べて近い。吾の眼の全体感はそのまま相手対象に向ういとなみ・働きをする。
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自我を立てる。自我の成立=名前を付けること。
チ--ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)。
≪言霊チがまず始めに来ます。
宇比地邇(うひぢに)と呼ばれ、宇(宙)が地(私を指す)に比べて近い、ということですから、私が何の何と意識するまでもなく、宇宙世界は私のものだということです。
そして「チ」はいとなみと働きを司る主体側にあり、チイキミシリヒニの全体が意思のイ段のイで始まっていますから、意思の精神宇宙世界がそのまま私のものとして私の精神意識内に出てくるとなります。≫
イの意思はいつどこでどのようにでてくるのか、計画もできず予測も来ませんし、始めに出てくるものを大きくしたり小さくしたもできず、向こう側に言われるままのそこでのあらわれが自分の姿となります。
天津というのは先天の宇宙世界のことで、その働きが私に向かって始まったということになります。向こう側から言ってくるのを受けることから始まりますから、どの先天宇宙のどこのどれがどうなるかは、私たちの知ったことではありません。
もしここの記述を受け入れますと、物凄いことが起こります。
自我とか、わたしとか、自分とか言っていますが、そんなものは無いのです。なにしろ天津神によって私たちは立てられるのですから。
一旦自我が立てられればその後になら、自分の考えだとか、自分の思ったことだとか自分の意思だとか、自分を主語にして御託を並べることができますが、それらの元々の成り立ちには自分は係わっていません。私たちの主張などというものはこのように元を正せば他(人)任せだったのです。
自我を立てるのにまず出てくるのが天津神です。
ところが、自我は相手対象がなければ立てられませんが、当初に自我の無い我々に天津神はどのように向かうのでしょうか。我々には自我がないのですから、受け入れることもできないのです。受け入れる器が無いのに宇宙世界のどれでもなんでもがホイホイと入ってしまうのです。この矛盾を創造しつつ解決しつつ自我を形成しつつするのが人の成すわざです。
自我の相手とは、過去今未来の全宇宙で、五感感覚の相手、知識概念の相手、感情感動の相手、選択按配の相手、要するに意思による創造の働きと実体の全歴史宇宙ですから、その全歴史宇宙世界が天津神としてわれわれに働きかけます。
全宇宙のどの時点においても自我は飛んで行けるしそこで成り立ち、対応し、そこに自分の対応する相手を見つけ自分の働きを見つけます。見つけ思いつく全範囲がその人の自我のあらわれとなり、全人類の到達できる範囲が同時に各個人の自我の範囲内にあります。
竹内文献でいう「天之浮船」の精神的な意味はこのことを指しており、また実際、世界巡業に出かけて世界を指導していますから、その形跡が多く民話神話宗教の中に、古代大和ととのフトマニ言霊学の共通性として残っています。(古代に「天之浮船」を飛行機のように乗り回したというのは漫画の世界で、「ヒヒロイカネ」も霊の仮名の音、言葉のことです。)
イ--以ちて、(や行のイ) 妹須比智邇(いもすひぢに)の神 へ。
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15。(イ)・チイキミシリヒニ。たかまはらの使用法。
(イ--意思の発動)
チ--ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)
イ--以ちて、(や行のイ) 妹須比智邇(いもすひぢに)の神。
キ--伊耶那岐の命
ミ--伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、
シ--「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め
リ--成せ」と、
ヒ--天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、
ニ--言依さしたまひき。
(ヰ--意思の帰還)
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(イ--意思の発動)
チ--ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)
イ--以ちて、(や行のイ) 妹須比智邇(いもすひぢに)の神。
「 それ等の神々の命令を受けて」
ここに天津神諸の命以ちて、
「神様が命令する」のではなく、「神様自身が活動する」と変えてみると言霊学の文章が成立します。「さてここで先天で十七神が活動を開始しまして……」となります。(なりさま、実体側)
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妹須比智邇(いもすひぢに)の神。 (ウの性質) 全体性。 なりさま、実体。今-今。
動き出した力動が持続する韻
「上の言霊イは母音のイではなく、ヤイユエヨの行のイであります。」
「父韻イとは「父韻チの瞬間力動がそのまま持続して行く力動韻」という事が出来ましょう。ここに力動韻と書きましたのは、心の奥の奥、先天構造の中で、現象を生む人間生命の根本智性の火花がピカっと光る閃光の如き動きの意であります。」
すべからく智に比ぶるに近かるべし。智による選択に依らずとも相手対象のなりさまと成る。智慧の選択に比べることなくそのまま持続すべし。
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言霊チによって動きの胎動が与えられ、チが騒ぎ天津神が動き出しました。
しかし動く相手は誰だか分かりません。私に向かって動いてきたのなら私になり、あなたに向かへばあなた、あっちの誰かに向かえば誰かになるというように、天津神の勝手です。そこでもたらすものも、私には屁をもたらすか、あなたには疑問をもたらすのか、あっちの誰かには神感情をもたらすか、まるきりそれぞれの人は知り得ません。
考え事の最中にそのテーマに沿った思い付き閃きがくれば儲け物ですが、それにして自分で見つけたり考えたりしたものではなく頂き物であるのが普通です。
さて言霊チの胎動が有ったところで、有るというだけでは何にもなりません。有るという今現在はすぐさま脱落して過去になります。そこで有ることの持続、有り続けることが必要です。とにかく有り続けるなければならないので、何がどうして動野という有り方は問いません。
注意して神名を見てください。ただし、こんな変てこな名前の神様の実体を探したところで無駄です。どれだけ智慧の有る学者を集めても分かるわけありません。こんな神は元々いないのですから。どこかにいる神様とか何かの表徴とか比喩とか実体とかを見るのではありません。心の動きです。
智慧の選択に比べることなくそのまま持続すべし、つまりごちゃごちゃ言わないでやってみろと言われ言う時の、その中に有る心情の持続、有るものは有る、やるものはやる、見るものは見ると言うその時の、飛んで行く矢の持続の心持ちがあります。
今有るものを未来へ運び入れる力動因のことです。
「13-2。(イ--意思の発動)・」であげた、父韻の配列の「イ」の位置を見てください。
全て父韻の配列が終了する直前にあります。(終わりから二番目)つまりこれは終わりの仕方を指示するものです。
意思の発現のチイキミシリヒニにおいてのみ「イ」は二番に来ていて、ここでは終わりの仕方を指示するものではなく、心の始めを指示するものとなっています。
それがために、、始めの「チ」で人間主体にまとわり付いた「チ」の何だかしれないいずれかが、その人自身も知らず知らずの内にその人を形成するということになります。
これ(ウオアエの「イ」)は一瞬という今がその瞬間の中に未来に続く今があるということです。
チイキミシリヒニの「イ」は今成った姿を現すための=名を現すための、今となります。
------------------------------
(今現在論は後に展開する予定です。)
「今」が未来に続くわけ。
「今」という瞬間の様相は、
(お) 過去-今
(う) 今-今
(あ) 過去-今の全体
(え) 今-未来
(い) 上記全部
という諸相があります。これは普段はこのように分断していることはなく、意識もされていません。
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16。(キ)・チイキミシリヒニ。たかまはらの使用法。
(イ--意思の発動)
チ--ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)
イ--以ちて、(や行のイ)
キ--伊耶那岐の命 角杙(つのぐひ)の神
ミ--伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、
シ--「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め
リ--成せ」と、
ヒ--天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、
ニ--言依さしたまひき。
(ヰ--意思の帰還)
キ--伊耶那岐の命 角杙(つのぐひ)の神
「 伊耶那岐(・伊耶那美の二神)がいざと立ち上がり、」
先天十七神即ち先天構造を構成する十七個の言霊が活動を開始しますと、伊耶那岐・伊耶那美の二神、言霊イ・ヰは次の様な事を実行することとなります。(いとなみ、働き側)
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角杙(つのぐひ)の神 (オの性質)掻き進める働き。 いとなみ、働き。過去-今。
体験内容を自我の方向に掻き寄せようとする力動韻
「言霊キ、ミ。昔、神話や宗教書では人間が生来授かっている天与の判断力の事を剣、杖とか、または柱、杙などの器物で表徴しました。角杙・活杙の杙も同様です。言霊キの韻は掻き繰る動作を示します。何を掻き繰る(かきくる)か、と言うと、自らの精神宇宙の中にあるもの(経験知、記憶等)を自分の手許に引寄せる力動韻のことです。これと作用・反作用の関係にある父韻ミは自らの精神宇宙内にあるものに結び附こうとする力動韻という事が出来ます。」
立てた規範をもってその運用に合うように相手対象を引き寄せるいとなみ、働き。
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ここに伊耶那岐の命と角杙(つのぐひ)の神が並んでいるからといって、 伊耶那岐の命を角杙(つのぐひ)の神にあるいはその逆にしようというのではありません。既に前回にこんな古事記の神さんたちはいないと断っていますから間違いはないと思います。これらは全てこころの中の出来事、心の運用を扱ったものです。
古事記は必要最小限だけを書いた完璧な心の原理です。ここでもその最小限が貫かれていて、 なんの説明もなく 伊耶那岐の「神」といわずに、 伊耶那岐の「命」 と言い換えてあります。一字一句も見逃せません。
これは「ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて 」の「ミコト」に対応しているためです。前段で心の原理の実体を十七神として述べていますから、今度はその働きを述べる段なので、十七神の働き、いとなみ、を「ミコト」と言っています。
実体は実体に作用反作用し、働きはそれを受け入れる働きに作用し、実体を介してあらわれます。
そこで今回は 角杙(つのぐひ)の神の働きをしているところをみようというものです。心の父韻は妹背陰陽の作用にありますから、 角杙(つのぐひ)の神の働きを述べることはその反対からみれば妹活杙(いくぐひ)の神を述べていくことにもなります。
先天が活動開始して、その持続の中で「 伊耶那岐の命 、伊耶那美の命の二柱の神」を見つけ、何かを二人に「詔りたまひて、」というところです。
先天が自分の活動を活動としてあらわす相手を見つけました。
先天の宇宙世界がギ・ミのミコトを見つけました。つまりわたしたち各人の中のギのミコト、各人の中のミのミコトということです。
どんなギミのミコトかといえば「イザナキ、イザナミ(誘う)」というミコトで、どんな働きをするのかといえば、「 角杙(つのぐひ) 、 妹活杙(いくぐひ)」の働きをします。
ここではギとミのミコトの二人を見つけたように思えますが、わたしたちは自分を見てみれば自分一人しかいません。ギ・ミの二人がいるのではありません。しかもここでは自我自分の成立以前の話ですから、「自分一人しかいない」というのも正確ではありません。自分という自我ははまだ成立していませんので。
それでは先天十七神は何を見つけたのかといえば、各人の自我、自分という柱の立つ以前の先天の各人((の自我))を見つけました。その先天の主体側をイザナギといい、客体側をイザナミといいます。そこでイザナギは角杙(つのぐひ) の働きをし、イザナミは 妹活杙(いくぐひ)の働きをするということです。
古事記はある種の目くらましをもって書かれていますので、古事記に沿ってその神名を使用した場合には何も分からない場合や、そのぴったり一致した表象に目を見張るようなことが起きます。ほとんど全ての人には理解不能のように書かれていますから、わたしの書くこともそのまま受け取るとさらに混乱していることでしょう。
しかしこれを科学的に証明して正解にするとか、考証して文献上で証明しろとかしたところで、こころの中を覗いたものとは全然違う方向になりますから、科学的、考証学的、文献的な証明を要求されても、そういった方面からの希望には沿えません。そういったものが証明されたところで文献の事実は証明されても、書かれていることの真実真理が理解されたのではありません。
客観的な事実は心の真実真理が無くても成立してしまいます。あるいは心などという面倒なものを持ち込まない方が、知識上の運用が楽です。こころを持ち込むと主観とか客観とかの迷路から抜け出せません。
今は自我など無い、その自我の成立をあつかっています。もし客観が言いたければ客観(主観)など無いというところから出発しなければなりません。
またそれらの心の原理は同じですから、自我を客観と言い換えれば、主観客観論もできあがるはずです。
古事記の冒頭の十七神は人類の心の秘宝であるため、どんな全ての問題にも適用でき、数千年間維持されてきているのですから、これからの世界運用ため早く理解運用者が出て欲しいものです。
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さて、角杙(つのぐひ、言霊キ) の特長です。
≪ 体験内容を自我の方向に掻き寄せようとする力動韻。
立てた規範をもってその運用に合うように相手対象を引き寄せるいとなみ、働き。≫
角杙(つのぐひ) とは角においてクイを立てること。
人は何かしらの角(判断力、規範、自分で決めたこと等)を持たないと前に進めません。目を瞑って広々としたところを何の指標もなく歩く場合でも、足を前に進めている、右足を出している、身体は真っ直ぐである、足は直線上を歩いている右に曲がってる等々、何らかの角・指標の類が自分を裁量しています。
そこで角杙における現象となった角の現れは色々ですが、それらの現象の元となる原理を探すと、全ての場面で共通していることは角の判断力、規範なるものは過去から得られているものを立てて、今現在の指標としていることです。その角、触覚の先端に杙を立てます。
では杙とはなにかといえば、杙のあるところまでが自分の領域ということです。三メートル先に杙を打てばそこまでが、三十光年の星を探しているならそこまでが、三千億兆光年という疑問を持てばそこまでが自分の打ち込んだ杙、自己の領域です。活躍の範囲、思いの限りです。宇宙の果てまでと言いますが、その人の知っている手持ちの宇宙の果てまでということで、他の人とは違うし、時がくれば伸びたり縮んだりしていくものです。イザナギはそういった働きの過去今未来の各人が持つ可能性の総体を代表しています。
ということは天津神達はイザナギの働きを見つけ過去今未来のイザナギという杙を打ち付けたのです。このイザナギという杙は後に、腹減ったとなれば欲望の杙になり、ここが分からないと疑問を出せば知識の杙となっていくものです。しかし今は働きをもったイザナギを得たというだけです。
働きを持つものを見つけてもそれがあらわれる実体が必要ですからその次にイザナミ(ミ)が来ることになります。ミのミコトは伊耶那美の神の実体をあらわす働き側になります。
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17。(ミ)・チイキミシリヒニ。たかまはらの使用法。
(イ--意思の発動)
チ--ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)
イ--以ちて、(や行のイ)
キ--伊耶那岐の命
ミ--伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、 妹活杙(いくぐひ)の神
シ--「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め
リ--成せ」と、
ヒ--天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、
ニ--言依さしたまひき。
(ヰ--意思の帰還)
ミ--伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、 妹活杙(いくぐひ)の神
「 (伊耶那岐・)伊耶那美の二神がいざと立ち上がり、」
先天十七神即ち先天構造を構成する十七個の言霊が活動を開始しますと、伊耶那岐・伊耶那美の二神、言霊イ・ヰは次の様な事を実行することとなります。(なりさま、実体側)
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妹活杙(いくぐひ)の神。 (ヲの性質) 掻き集める。なりさま、実体。過去-今。
精神内容の中に己にある自己の体験内容に思いが結びつこうとする力動韻
「言霊キ、ミ。昔、神話や宗教書では人間が生来授かっている天与の判断力の事を剣、杖とか、または柱、杙などの器物で表徴しました。角杙・活杙の杙も同様です。言霊キの韻は掻き繰る動作を示します。何を掻き繰る(かきくる)か、と言うと、自らの精神宇宙の中にあるもの(経験知、記憶等)を自分の手許に引寄せる力動韻のことです。これと作用・反作用の関係にある父韻ミは自らの精神宇宙内にあるものに結び附こうとする力動韻という事が出来ます。」
釣りあげた生きた魚をてなづけるように立てた規範に相手対象を適合させるようななりさまを探す働き。
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伊耶那岐の命と伊耶那美の命と並んで記述されていますが、何故ギのミコトが先に出てくるのでしょうか。神としてもギが先に出てきます。ところがマグアイ、契りでは「女人先に言へる」です。
大本の天の御中主の神が、いとなみ・働き・主体側・男側、と、なりさま・実体・客体側・女側、と剖判して以来、
高御産巣日(たかみむすび)の神、次に 神産巣日(かみむすび)の神。
伊耶那岐(いざなぎ)の神、次に 妹伊耶那美(み)の神。
伊耶那岐の命、伊耶那美の命
父韻神、「妹」父韻神
というように、いつも主体側が先に来ているように見えます。
しかし注意するとそうではありません。
十七神の構造原理では、まず母音側(ウアオエ)が示され、ついで父韻です。
「お」の母音世界を示す 宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神と 天の常立(とこたち)の神では、客体側「ヲ」の 宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神が解説付きで先に述べられています。
ここにも男が先か女が先かという議論の種があるようです。主観か客観か、瞬間か持続か、働きか実体か、等々は全て同じ問題で、十七神を端から全部解説できたときに、説明が完了するものです。これまでの哲学史ではそれぞれが好きなところを自分勝手に自分なりの「角杙」をつくって主張してきました。
十七神を解説できれば全てが落ち着くものですが、そうはいかず、そうはいきたくなく、そうはいかせない、そんなことは無い、というのが今の時代で、残念ながらいま暫くは続くでしょう。しかし、片や盲滅法手当たり次第、片や権某術策奸智の歴史と見えた物も、どこか歴史の歯車に載っているからではないのか思う人もいます。
宗教では全ては神の手の内にいるからと平気で言います。マルクスの唯物史観では、「物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。」というように下部構造が上部構造を規定すると言っています。ここでもどっちが先かです。
フトマニ言霊学では人のすることやってきたことがあればそこに働く十七神の原理の働きを見ます。目茶苦茶に見えようと数列の完成した美をみようと、十七神からでてこなかったものはないのですから、ここでの問題も突破できるはずです。
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さて、妹活杙(いくぐひ、言霊ミ)の神の特長です。
≪ 精神内容の中に己にある自己の体験内容に思いが結びつこうとする力動韻
釣りあげた生きた魚をてなづけるように立てた規範に相手対象を適合させるようななりさまを探す働き。 ≫
妹活杙(いくぐひ)の神は角杙(つのぐひ)の神の裏表として、客体側の伊耶那美の命の働きを説明しようとするものです。
針に食らいつき釣りあげられた魚は魚籠に入れます。尾を左右にしてビンビン動き跳ねます。
ここでは魚籠に入れなくてはならないという規範が立てられています。この魚籠に入れようという規範に沿ってさまざまな行為が起きます。
自我の成立を語っているのですから自我、自分、と言う以前にはそんなものはまだ実在していないことに注意してください。では自我の成立と言うときの自我とはなにかといえば、先天の自我、いわゆる括弧内のこれから造られる自我のことです。
品物製造物の原料材料とは違って、自我は主体客体、自意識主観を持ち自ら作り自ら破壊することもできるものです。
チ--ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと) ・・・宇比地邇(うひぢに)の神
イ--以ちて、(や行のイ) ・・・妹須比智邇(いもすひぢに)の神
キ--伊耶那岐の命 ・・・角杙(つのぐひ)の神
ミ--伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、・・・ 妹活杙(いくぐひ)の神
(チ)先天の胎動が始まって、(イ)その働きが持続していく内に、(キ、ミ)自ら進めみ行く方向と、相手を適合させる方向へと、分けます。この両者の剖判が保たれないとそれぞれ勝手なことが起きていきます。
ここに天津神から二柱の神に仰せがあり、あるいは命令があり、と言う意味の「詔りたまひて」があります。これでお分かりのように自我は何でも自分だ自分だ自分がするのだということではなく、天津神の仰せがあって起動していくものです。ようするに自我など無いということで、創られたものの上に載っているだけとなります。
しかしそんな事を言っても、誰でもが自分が感じて自分が考えて自分がやったていくこととにしています。こんなブログを書くのもこんなブログを読むのも、みんな各自自分がしていることと思っています。
そんなことが言えるのも各人に【 伊耶那岐(いざなぎ)の神の主体性によってみずからの規範を立てていくことがあり、妹伊耶那美の神の客体性に拠って相手対象を適合させようとしてくことがあるからです。
人間にはこのギミの天与の性能があることを先天が見抜いて、仰せ付けるに充分な相手だと見抜いたのでした。
しかも物を創るように一方的に形を変え移動させる作用力を利用するのではなく、人間側の主体活動を発揮して意思の発現を創造という形で成せるようになっていることまで、見抜きました。
そこで当然次に仰せの内容を明かします。
シ--「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め ・・・意富斗能地(おほとのぢ)の神
(注意。古事記の心の原論の記述は、つまり、心の構造運用論は、前段を常に取り込みつつ上昇循環していくことです。過去は全て引き継がれていきます。)
唯物史観も、神の手の内で創られたというのも、この「シ--「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め ・・・意富斗能地(おほとのぢ)の神」の位置付けの違いに依ります。
マルクスなら「シ」を得られた理論の正当な結果としてしまい、そこから行動の名目を立てたり、宗教では、宇宙神との自覚の内容の表現を「シ」としてそこから行動の名目を立てて、「修理(おさ)め固め」
に向かいます。両者とも結論「シ」へ集約されるものが、理論とか希望とかになってしまっています。
伊耶那岐の命と伊耶那美の命 のそれぞれの性能を全うさせるために仰せ付けるのですから、剖判するからといって、分裂させるだけではうまく行かないし、うまく分裂させなくてはなりません。
両者にはもともと誘い合う伊耶那岐(いざなぎ)の神と妹伊耶那美(み)の神で、「 詔りたまう」ことも波と凪で陰陽の作用反作用を分け持っています。
そこで、シの「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め」も波と凪の両者が内包されるようになります。
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18。(シ)・チイキミシリヒニ。たかまはらの使用法。
(イ--意思の発動)
チ--ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)
イ--以ちて、(や行のイ)
キ--伊耶那岐の命
ミ--伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、
シ--「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め 意富斗能地(おほとのぢ)の神
リ--成せ」と、
ヒ--天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、
ニ--言依さしたまひき。
(ヰ--意思の帰還)
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シ--「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め 意富斗能地(おほとのぢ)の神
「 先天構造世界の内容はすべて整った。けれど後天現象世界についてはまだ何も手をつけていない。その混沌とした後天の世界に創造の手を加えて、種々のものを創造し、うまくいったか、どうかを調べ、」
「この場合、漂へる国の国とは国家のことではなく、創造して行く一つ一つの物や事のことを指します。 」
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意富斗能地(おほとのぢ)の神。 (エの性質) 拡がりの保存収縮。いとなみ、働き。今-未来。
精神宇宙にある精神内容が螺旋形の中心に静まり収まる力動韻
「言霊シ。意富斗能地は大きな斗(はかり)の働きの地と読めます。物事を判断し、識別する大いなる能力の地という訳です。人はある出来事に出合い、その事を判断・識別する事が出来ず迷う事があります。あゝでもない、こうでもないと迷いながら、次第に考えが心の中でまとめられて行きます。そして最後に迷いながら経験した理が中心に整理された形で静止し、蓄積されます。蓄積される所が心の大地という訳です。この働きから学問の帰納法が生れて来るでありましょう。」
大いなる量りの働きの地。選択決着を目指して納めようとするいとなみの識別の土台となる働き。
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○ あまりにも細々とし切れ切れの解説では脈絡を忘れますので、前もって自我の成立を一般的に述べておきます。
注意点として以下があります。
○ 「シ」への経過で肝要なことは、「チ」の胎動が持続して「イ」、そこで「キ・ミ」に剖判していることです。
そして「シ」で結果となる実在世界を目指して、「リ」の父韻で、言葉を用いて「ヒ」、花開かせる名目「ニ」にします。
この並びは古事記冒頭の並び(1-2-4-8-2)と同じになっています。
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自我の成立。
チ) 宇比地邇(うひぢに)の神。【ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)】
(ウの性質)全体性 今-今。 いとなみ、働き。
精神宇宙全体がそのまま現象発現に向って動き出す端緒の力動韻
宇は地と比べて近い。天は地と比べて近い。吾の眼の全体感はそのまま相手対象に向ういとなみ・働きをする。
チ) 自我の成立を目指す胎動が始まり、
イ) 妹須比智邇(いもすひぢに)の神。【以ちて、】(や行のイ)
(ウの性質) 全体性。 今-今。なりさま、実体
動き出した力動が持続する韻
すべからく智に比ぶるに近かるべし。智による選択に依らずとも相手対象のなりさまと成る。智慧の選択に比べることなくそのまま持続すべし。
イ) その働きが持続していき、
キ) 角杙(つのぐひ)の神。【伊耶那岐の命・】
(オの性質)掻き進める働き。過去-今。 いとなみ、働き。体験内容を自我の方向に掻き寄せようとする力動韻
立てた規範をもって、角を出して角の先で、その運用に合うように相手対象を引き寄せるいとなみ、働き。
キ) 自我の働きいとなみ、主体側と
ミ) 妹活杙(いくぐひ)の神。【 伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、】
(ヲの性質) 掻き集める。過去-今。なりさま、実体。
精神内容の中に己にある自己の体験内容に思いが結びつこうとする力動韻
釣りあげた生きた魚をてなづけるように立てた規範に相手対象を適合させるようななりさまを探す働き。
ミ) 自我の実体、客体側なりさまに剖判して、
シ) 意富斗能地(おほとのぢ)の神。 【「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め 】
(エの性質) 拡がりの保存収縮。今-未来。いとなみ、働き。
精神宇宙にある精神内容が螺旋形の中心に静まり収まる力動韻
大いなる量りの働きの地。選択決着を目指して納めようとするいとなみの識別の土台となる働き。
シ) 剖判されたギミ(自己)がそのまま目的結果となり、実在世界の働き・実体と成る事を目指して、
リ) 妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。 【成せ」と、】
(ヱの性質)保存収縮の拡がり。 今-未来。なりさま、実体。
ある精神内容が宇宙の拡がりに向って螺旋状に発展拡大して行く力動韻
大いなる量りのわきまえ。選択識別されたなりさまが繰り返し述べられるような働き。
リ) それぞれが事実として確認されるように、(八父韻の働きで)
ヒ) 於母陀流(おもだる)の神。 【天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、】
(アの性質)火花の先端にて、表面性。過去-今-全体。 いとなみ、働き。
精神内容表現が精神宇宙球の表面に完成する韻
意識内容が自己の表層へと上昇し自己の表面結界を超えて、表面で見つかったものと結び付こうとする働き
ヒ) ギ・ミの表面に指示される言葉を受け、
ニ) 妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。 【言依さしたまひき。】
(ワの性質)火花の先端にて、表面性。過去-今-全体。なりさま、実体。
物事の現象の種が精神宇宙の中核に煮詰まり成る韻
心の深部(夜)のなりさまの恐れおおさがもの事の原因となるように煮詰まる働き。
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要点だけ抜き出せば以下の通りですが、世界の至宝として応用できるかどうか。
チ) 自我の成立を目指す胎動が始まり、
イ) その働きが持続していき、
キ) 自我の働きいとなみ、主体側と
ミ) 自我の実体、客体側なりさまに剖判して、
シ) 剖判されたギミ(自己)がそのまま目的結果となり、実在世界の働き・実体と成る事を目指して、
リ) それぞれが事実として確認されるように、(八父韻の働きで)
ヒ) ギ・ミの表面に指示される言葉を受け、
ニ) その表現されたものを花開かせる行動の名目とします。
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19。(リ)・チイキミシリヒニ。たかまはらの使用法。
(イ--意思の発動)
チ--ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)
イ--以ちて、(や行のイ)
キ--伊耶那岐の命
ミ--伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、
シ--「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め
リ--成せ」と、 妹大斗乃弁(おほとのべ)の神
ヒ--天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、
ニ--言依さしたまひき。
(ヰ--意思の帰還)
リ--「成せ」と、 妹大斗乃弁(おほとのべ)の神
「 創造したものに適当な名前を付け、整備しなさい、との意味です。混沌とした世界を一つ一つ区切って、言葉の言うように似せること、創造したものの内容・その存在がよく分かるように適当な名前を付け、他のものとはっきり区別出来るようにすることを言います。 」
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妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。 (ヱの性質)保存収縮の拡がり。 なりさま、実体。今-未来。
ある精神内容が宇宙の拡がりに向って螺旋状に発展拡大して行く力動韻
「言霊リ。大斗乃弁とは大いなる計りの弁(わき)まえと読めます。意富斗能地と作用・反作用の関係にある事から、心の中にある理論から外に向かって発展的に飛躍していく働きと考えられます。父韻リはラリルレロの音がすべて渦巻状、螺旋状に発展していく姿を表わしますから、父韻リとは心の中の理論が新しい分野に向かって螺旋状に発展し、広がって行く働きであることが分ります。この様な動きの理論の働きは演繹法と呼ばれます。学問ではなくとも、多くの物事の観察から人の心の中に一つの結論がまとまっていく過程、また反対にひとつの物事の理解から思いが多くの事柄に向かって連想的に発展して行く事、その様な場合にこの父韻シ、リの存在が確かめられます。」
大いなる量りのわきまえ。選択識別されたなりさまが繰り返し述べられるような働き。
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「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め・成せ」 の原文を便宜上二つに分け、「言霊シ、意富斗能地、の、この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め・」と、
「言霊リ、大斗乃弁、・成せ」 にしてあります。
心は一度通過したものは、思い出す出さない、現象としてあらわれるあらわれない、とかに関係なく全て記憶にして行きます。ここまでの段階では、ギ・ミを働きと実体の剖判で示すと同時に、オ・ヲの性質を持った角杙(つのぐひ)の神・妹活杙(いくぐひ)の神としても示してあります。つまりギ・ミ神は、記憶過去概念の知識全体をその働き・実体で示しました。
ですのでギミの神がどのうよにいつどこで出てくるというようなことは、全く自覚無くおきます。自分もこんな経験をしていたんだ、こんなことを思ったことがある、等、人は誰でも自分である以前に、気がついたら私という自分になっていたわけです。
誰がこんな自分にしたのだというのは、チイキミ・シの「修理(おさ)め固め」の「シ」の前に、経験過去知識としてのギ・ミの神がいたからで、それでもやはり自分に責任があるというのも、チイキミ・シの「修理(おさ)め固め」の「シ」の前に意思創造としてのギ・ミの神が来ているからです。
そのギ・ミに「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め・成せ」といっています。
注意してもらわなくてはならないのはこの時点では、ギ・ミにいわば前提と成る実在世界の条件と自分の力能を発揮する性能が揃いました。しかし、「シ」の順位が後にあるということは、それをどうするかについては言われなくてはを知らないのです。
チイキミシ・・・・の「イ」に持続の働きがあるじゃないかと思うでしょうが、残念ながら「イ」の前にギ・ミの実在も働きも来ていません。つまり「イ」はギ・ミを知らないのです。
このように順位というのは一つ位置が変わると意味内容がまるで変わります。というのも人の心は八種になっている一塊であって、どれか一つを使うと残りは七つ、どれか二つを使うと残りは六つというように、絶対的に「八」という一塊から逃れることはできないからです。
八つの間の戸(やまとの語源)の出入りは、一つの戸を開けると他の残りを全部開けて通過しない(矢のイメージ)とその戸に戻れないという、八つの矢が八つの間の戸をそれぞれ開ける、精神意識の構造になっています。
ですので、これは正しいことも間違ったことも、良いことも悪いことも無く、全てに当てはまる原理で、そういった価値判断みたいなものの根源をなしています。
さて、その言霊シの神名は意富斗能地です。 大いなる量りの働きを述べ納得の行くように鎮める地固めをする力動韻です。ギ・ミの実在世界の選択決着を目指して納めようとするいとなみの識別の土台となる働きで、ギ・ミの内容と成るものついて、 「理(おさ)め固めよ」と、言われました。つまりどうするのか、どうしてけりをつけるのかと言われました。
あるにはある、用意は整っているのに、使えない使用法を知らないみたいな状況です。
しかも残りの手持ちは、「(チイキミシリ・)ヒニ」の「ヒ」と「ニ」の二父韻だけです。上にも述べた通り一度使ったものは一巡するまで使えないのです。複数人数でする家族ゲームで全員が一回づつしか賽子を振れないようなものです。
この「八」の理解が大和(八・矢・間戸)の鉄則です。
(とはいうものの、そう簡単には分かりません。ヤマタノオロチの段では「八」の扱いについて神話を用いた比喩で述べています。原理の応用問題です。この段では八つの尾(オ-ヲ)を処理して得た「くさなぎの太刀(九つのサをなぐ判断力)」を持って「すがすがしい」という、ちょっと理解に苦しむところですが、要点は「八」からくさなぎの「九」へ意思の次元をあげることにありそうです。いつか別項目でやりたいと思います。)
そこで次に、言霊リが、「成せ」と、妹大斗乃弁(おほとのべ)の神 が言ってくるわけです。「成せ」というのは今進行中のブログのテーマである父韻そのものの働きを指巣ことでもあります。
妹大斗乃弁(おほとのべ)の神が結果「シ」を目指して「成せ」といいます。もちろんなんでもいいから「成せ」ではなく、のこった手の内にある「ヒ・ニ」を使用するしかない「成せ」です。
「おおとのべ」は大いにその識別の度量と成ったものを述べるで、その述べ方は「ヒ・ニ」を使う方向でしか述べることができません。幸いにチイキミシ・・・実在内容とその先天の働きは用意されましたから、実際に「ヒ・ニ」を使って「成せ・述べ世」というわけです。
そこで、先程も述べたように心の述べ方は八種しかありませんから、ここでの言霊リは、八種の述べ方を成せになります。つまりチイキミシを受けて、次の「ヒ」に継がれるように言霊リが八父韻として働くことになります。
人はこれが私の考えだと一つ提示したり、こういう場合とこういう場合があるといったりしますが、本来はどの人も八種の在り方の一つ二つを、これだといっているに過ぎません。各人には八種を提示する性能がもともと備わっていますが、個人でおこなえるかどうかとは別の問題です。三人寄れば文殊の智慧というのも八人寄れば完璧でしょう。
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20。(ヒ)・チイキミシリヒニ。たかまはらの使用法。
(イ--意思の発動)
チ--ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)
イ--以ちて、(や行のイ)
キ--伊耶那岐の命
ミ--伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、
シ--「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め
リ--成せ」と、
ヒ--天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、 於母陀流(おもだる)の神
ニ--言依さしたまひき。
(ヰ--意思の帰還)
ヒ--天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、 於母陀流(おもだる)の神
「 天(あめ)の沼矛(ぬぼこ)とは先天の働きのある矛(ほこ)の意。矛とは剣(つるぎ)の柄(つか)の所を長くした武器のこと。古事記の神話が言霊学の教科書であることを念頭におくと、天の沼矛とは言葉を発する時の舌のことと考えられます。」
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於母陀流(おもだる)の神。 (アの性質)火花の先端にて、表面性。 いとなみ、働き。過去-今-全体。
精神内容表現が精神宇宙球の表面に完成する韻
「言霊ヒ。於母陀流の神を日本書紀には面足尊(おもたるのみこと)と書いており、その意味・内容は更に明らかとなります。ハヒフヘホの音は主として人の言葉に関する音であります。面足とは心の表面に物事の内容表現が明らかに表わされる力動韻という事が出来ます。
かくの如く心の表面にはっきり表現として現われる時には、心の奥で過去のイメージが実を結んでいる、という事になります。」
意識内容が自己の表層へと上昇し自己の表面結界を超えて、表面で見つかったものと結び付こうとする働き。
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ヒ--天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、 於母陀流(おもだる)の神
「ヒ」と「ニ」の二つを残して、チイキミシリ・・・を経過してきました。実体と働きはキ・ミにおいて実在となり、おさめ固め成せと言われ、「 言霊ヒ・天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、」となったところです。
成人に成った今は普通に言葉を喋っていますが、赤ちゃん時代には全く「 ヒ・天の沼矛(ぬぼこ・舌・言葉)を賜ひて、」という状況でした。
チ) 自我の成立を目指す胎動が始まり、
イ) その働きが持続していき、
キ) 自我の働きいとなみ、主体側と
ミ) 自我の実体、客体側なりさまに剖判して、
シ) 剖判されたギミ(自己)がそのまま目的結果となり、実在世界の働き・実体と成る事を目指して、
リ) それぞれが事実として確認されるように、(八父韻の働きで)
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ヒ) ギ・ミの表面に指示される言葉を受け、
ニ) その表現されたものを花開かせる行動の名目とします。
言霊ヒは於母陀流の神で、表面で見つかったものと結びつき頬がゆるむというおもしろい比喩ですが、心の動きと比べると全く天才的な比喩に感服します。
ここでは表面にあらわれたものは何かといえば、おさめ固め成せといわれた八種の表現です。顔つきで表現されたものや、歓喜とか恐怖とかニヤニヤの現象を指すのではなく、それを表出していく心の動きをいいます。
今まで読んでいて分からなかったものがある時「分かった」と納得する時などは、詳細は不明不問でも全体を納得していることがあります。あるいは同様に詳細は不明不問ですが、こうして継続持続していくこと自体に納得していることがあります。
さらに、形、恰好だけはよく分かるとか、機能働きは今までの知識と比較して良く分かるとか、基礎も比較もしなくてもその機能や選択は直ぐ飲み込めるとか、そういった心の働きの中で心の表面に見つかるものが、ヒのオモダルです。シメタ、引っ掛かった、と心の緩みと緊張を両方得ることでしょう。
自我の成立を語る当初に、イの意思の発動で、チの自我の成立を目指す胎動が始まっていますから、ここでの「ヒ」は自分の心の表面に見つかったキ・ミの内容と働きをあらわすものです。
例えば、他人を批評しようというとき相手の言っていることが分かるようで分からない、コジツケのようで最初に決めた事をまた繰り返すに過ぎないと思うときに、出てくるのは言葉とか文字です。しかし良く見るとその前に、頭脳内では物凄い勢いで観念が回転していて、思い思われたこと考え考えられたこと感じ感じられたことが言葉の流れとして生成されようとしています。
この観念の流れはものすごく早すぎて頭脳内ではスイスイと自分でも分からない内にいきますが、物質世界に表出されるには物質界の作用反作用以上に出ることはできない抵抗に合います。幾ら早口で喋ろうと心の中で回転しているアイデアのスピードにはかないません。
オモダルは面に足らしめるで、緩和とか緊張とか言いましたが、沼矛である舌の現実的な動き(文字なら書く動き)に心の表層が従わされ足らしめられることでもあります。これによって観念の流れが現実と同様な規制を受けます。夢などは現実界に出てこないのでその規制を受けません。
心の中では八種の律動がありましたが、実在世界と働き世界が結ばれるときには、実在世界の物質条件に従いますから、八種の実在世界の表徴の仕方となって、八種の表現となります。
では何が心の表面で回転しているのかといえば、観念概念としてまとめられているけれど、これから一つ一つ発語されようとしている形成前の言葉です。イメージを語ってしまうと言葉現象になってしまいますから、語られる前のことです。そこで心の表面に物凄い勢いで浮きでて来ては漂いすくい上げられるのを待っているのは前言葉で、その実体、働きを「おさめ固め成せ」と言われているわけです。
自我の成立で言えば、このチイキハシリ・ヒまでの段階では、自分を指して「自我」だとか「自分」だとかはまだ発せられていないのです。心の表層にキ・ミの働き・内容として浮き上がっていましたが、言葉として出てきたものではありません。
まだ固められていない実在世界を八父韻の働きで、心の内で頭脳内で形を与え、心の表面に浮き立たせる処まで来ました。しかし心の表面などといっても、どこにあるのか一寸先は闇状態です。
そこで次に、
ニ--言依さしたまひき、妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神、になります。
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21。(ニ)・チイキミシリヒニ。たかまはらの使用法。
(イ--意思の発動)
チ--ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)
イ--以ちて、(や行のイ)
キ--伊耶那岐の命
ミ--伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、
シ--「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め
リ--成せ」と、
ヒ--天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、
ニ--言依さしたまひき。 妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神
(ヰ--意思の帰還)
ニ--言依さしたまひき。 妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神
「この舌を操作して言葉を創造し、その言葉によって後天の現象世界を整備、発展させなさいと命令し、委任した、ということです。」
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妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。 (ワの性質)火花の先端にて、表面性。なりさま、実体。過去-今-全体。
物事の現象の種が精神宇宙の中核に煮詰まり成る韻
「言霊ニ。この心の奥に一つの事の原因となるものが煮つめられて行く力動韻、これが父韻ニであります。」
心の深部(夜)のなりさまの恐れおおさがもの事の原因となるように煮詰まる働き。
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ニ・言依さしたまひき 、 妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。
チイキミシリヒニの循環の最後に来ました。心の動きの中ではチイキミシリヒニは一回だけしか賽子を振ることができないゲームメンバーのようで、全員が一巡した後で新たに次回の順位を俟ちます。待つといっても数分の一秒にも満たない時間で、それを古代大和は発見したために世界歴史を創造する立場に立たされたようなものです。
世界には多くの国がありますが、未だに世界体という自覚した世界はありません。世界体からみれば各国は要素に過ぎませんが、世界を自覚した運用主体が無いために独立国という名目を与えられて勝手なことをしているわけです。
もちろんこの世界体の運用は世界朝廷を司るスメラミコトであって、国会議員だとか民主主義だとかは必要とされません。フトマニ言霊学の運用に長けたものが三名いればいいだけのことでしょう。
話が逸れているようですが、自我の成立と世界体の成立とを重ね合わせることもできます。というよりもこれからは日本の自主憲法だなんて言う狭い心では、世界の運用は出来ません。多くの分野で、普通の生活上でも既に一般の人たちは世界を感じているですから。
これは「ワ・和・輪」の大和しか考えつかない自然な構造(言語構造)の中にいるからです。大和の日本語だけが世界体を考えることの出来る構造を持っているということは、全世界がもともと日本の相手対象となっているということです。
大和の日本語を良くみれば、大和の日本だけが自我を主張しない構造に造られています。他国語と他国人は自我を主語として主張しないと自分を現せませんが、大和語の日本では主語など無くとも自他ともに「わ」が結べる構造になっています。
これを他国人に納得させることは出来ません。主語が無いと理解が出来ないから、自分が理解できないことは世界も理解ないことになり、我を通すことになります。自我を成立させようと進めてきましたが、これは主語を持たないと何も指し示せないということではないのです。
他国語他国人においては、まず主語を立てないと自分が立たないのですが、ではその主語はどこから来たものかというと、「神」の「カ」に相当する勝手気ままに掻き集め、仮に立て、借りた思い付き閃きを得て、他人に貸していくものです。このように自分でない「カ」で始てしまいます。
神の「カ」で始める他国人に対して大和では「イ」で始まります。チイキミシリヒニのイはや行のイで、ここでいう「イ」はチイキミシリヒニ含まれていないのではなく、それの元となる「イ・ヰ」のことです。
せっかくチイキミシリヒニをやってきたのに、「イ・ヰ」を持ち出され、大和の日本は「カ」出なく、「イ」から始まるなんて言われてもピンと来ません。後に説明したいと思います。
古代大和においては神を拝んだ(おろがむ)ことはありません。古代においては古事記の神などというものは存在したことは無く、「いつく(斎く)」ものでした。
斎くといいますと、現在では心身を清めて神に仕えることになっていますが、本来は「神」を使用することなのです。
あちこちの啓示神示なるものでいわれる、次元の上昇とかどんでん返しとかは、人々が神を拝むことを止めていつく・斎く・五作る・自覚を持つことをいいます。
日本においても「神」という言葉に囚われている限り他国と同様に、世界体のことは理解できずスメラミコトは国連の民主的に選ばれた長ぐらいにしか思えません。
ニ・言依さしたまひき 、 妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神は「あやにかしこき音」で、なんとも不思議なことに賢明な畏怖の念に耐えない優れたね(音)という神さんです。
「言依さしたまひき。」は、天の沼矛で言葉を授け、言依賜也(ことよさしたまいき)で、「よさす」とは、「任」の字を書くこともあり、何か事をその人に委任して執行させることである。(古事記伝)
言葉において「依(世、四)さしたまひき」でウアオエの四つの世界を指し示し提示する事です。
ものの成り立ちを感じるときにはどの場面でも感じとることが出来るでしょう。あるっていうことは不思議だね、自分がここに居るって「あやかしこ」だねという神さんです。こころの奥底に何かが見つかったときの想いです。
もしここで、感じられた「あやかしこね」をこういうものだ、これを感じている自分がいるとなれば、ここに「あやかしこね」を含んだ自我が成立しますが、成立してしまったことを指すのではなくその直前です。沼矛(舌・言葉)を授けられ、心の奥底(阿夜・アのよる)に「何か」を得る処までです。
この「何か」を、ヰに渡してあらわすと自我になります。ではチイキミシリヒニではまだ自我が出来ていないのかと疑問を持つことと思います。結果現象としては、イ・チイキミシリヒニ・ヰ、の全部を通過しないと一巡していませんので現象しません。
チイキミシリヒニの「ニ」は、意思の発動の「イ」に似たものが煮詰まり、心に継ぐ二番目のものとして出てくるものです。(これが「二二(不似)は晴れたり」を不似は解消できたという所以です。富士山とは関係ありません。)
ギミの命は「-「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め、成せ」と、いわれています。ここでいう「国」はく・にで組んで似せることで、イの意思の発動に組んで似せて、その内容を表現する言葉を作り、実在現象にしていくことです。
ニニギの命といいますが、二のその次ということで三次的になります。フトマニ言霊学原理がその一、次が原理内容を表明する言葉、その次が言葉の内容を実行すること、つまり我々人間のことです。
では、イ・チイキミシリヒニ・ヰでことが運んでるのなら全ては円満なはずではないのかとなります。どこにも逸脱が無く間違えは無いことになるはずです。
本来はその通りです。間違え逸脱は人間が勝手に造ったもので、人間はそれが出来るのです。
電車が鉄路を外れれば逸脱だし、陸上競技で隣のトラックに入ったら逸脱だし、キーの打ち違いも逸脱です。物質現象界では逸脱は目に見えますが、思考概念世界では自分の思考は全て正しいというところから始めていきます。
自分が思い付き閃けば既に正しいとか少なくとも自分の考えだとかになっていきます。自分の主張は自分から出てきたものと思っていますから、聞き手も無く比較も無く反省もなければ唯一の考えになってしまいます。
人間は二の二から始まって三次的な主張しか出来ないのにいるのに、自分から始まっていると勘違いしています。これも神の「カ」で始めたせいです。
天照す大御神は、 「これのカガミは、もはらア(我)がミタマとして、ア(吾)がみまえにイツクがごとイツキまつりたまえ。」と言いました。
「イ」で始めなさい、と。
原理が分かっているような事を書いていますが、では、いじめはどうする竹島はどうするという現実には手が出ません。こんな力の無い原論では意味がありません。情け無い限りです。
ここにおそらくいつかテーマになるであるだろう 「逸脱論」 が来るかもしれません。
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