中つ瀬
古事記禊祓の文章を先に進めます。
【ここに詔りたまはく、「上(かみ)つ瀬は瀬速し、下(しも)つ瀬は弱し」と詔りたまひて、
初めて中つ瀬に堕(い)り潜(かづ)きて、滌(すす)ぎたまふ時に、
成りませる神の名は、
八十禍津日(やそまがつひ)の神。次に
大禍津日(おほまがつひ)の神。
この二神(ふたはしら)は、かの穢(きたな)き繁(し)き国に到りたまひし時の汚垢(けがれ)によりて成りませる神なり。】
ここに詔りたまはく、「上(かみ)つ瀬は瀬速し、下(しも)つ瀬は弱し」と詔りたまひて、
「前段の文章で伊耶那岐の大神が黄泉国の文化を摂取した自らの御身(おほみま)の禊祓を実行する際の心理とその過程が明らかとなりました。次にその外国の文化を人類文明に取り入れる禊祓の実施はアオウエイ五次元の中のどの段階に於て行うのが適当なのかが検討されます。説明を続けます。」
「禊祓をする竺紫の日向の橘の小門(つくしのひむかのたちばなのおど)の阿波岐原(あはぎはら)、即ち天津菅麻音図では母音の並びがアオウエイとなります。その瀬と言いますと、菅麻音図の母音アより半母音ワ、オよりヲ、ウよりウ、エよりヱ、イよりヰに流れる川の瀬という事です。」
「その上つ瀬と言えばアよりワ、下つ瀬とはイよりヰに流れる川の瀬の事です。言霊アは感情の次元です。世界人類の文明を創造して行くのに感情を以てしては、物事を取り扱う点で直情的になり、自由奔放ではありますが、人間の五段階の性能によって製産されるそれぞれの文化を総合して世界文明を創造して行くには適当ではありません。宗教観や芸術観で諸文化を総合し、世界文明を創造することは単純すぎてア次元以外の文化を取扱う為の説得力に欠けます。そこで「上つ瀬は瀬速し」となります。」
「下つ瀬の言霊イの段は人間意志の次元、言霊原理の存する次元です。言霊イの次元は他の四次元を縁の下の力持ちの如く支えて、その働きである八つの父韻は他の四母音に働きかけて現象を生む原動力ではありますが、諸文化を摂取・総合するには、この言霊原理に基づき言霊エの実践智が働かなければ総合活動は生まれません。言霊原理だけ、意志だけでは絵に画いた餅の如く、原則論だけで何らの動きも起りません。「下つ瀬は弱し」となる訳であります。」
「禊祓を実践するのに上つ瀬のア段では不適当、下つ瀬のイ段でも適当でない事を確認した伊耶那岐の大神は、菅麻音図の中つ背に下って行ったのであります。」
意識という川幅はこちら側の岸から向こう側の岸まで、五つに分かれます。その内、岸に近い方が言霊母音アともう一方の岸に近い方が言霊母音イです。
岸に近い川の瀬の言霊アの領域では、感情や一般性、全体性を扱うので、個別的な具体性には無頓着です。一般的に分かっていることを、感情的にそのまま流して行き言霊ワへ渡します。感情的な了解を求めますから、検討や検証に必要な知識や概念や記憶などを必要とせず、それらを手に入れる時間の概念にも囚われません。その場の同調共感が求められます。これが上(かみ)つ瀬は瀬速し、です。間髪を入れずに得る共感ですが、求めても得られるものでもなく強制もできず、相手任せに委ねられます。
もう一方の岸である下(しも)つ瀬は弱しとなります。これは言霊母音イの世界で意志の発現を受け持ちます。最後はやる気だ、やる気さえあれば山おも動かすと言われます。内に秘めた火のような闘志といわれ、出来る限りの大声を出しての意志の発現などもあります。しかし、結局、意志自体は見えず触れることもならず説明もして証明もできません。
意志だ意志だといっても浮遊する塵一つ動かすことはできません。超常力を秘めたか弱き者です。
上とか下とかの位置関係は象徴的なもので、川の上流とか下流とかではありません。人の意識の持つ上限を感情に見てそこを越えればオバケや霊の話になり、下限を意志に見てそれを無くせば無意識な物質の動きとなります。人間界から出てしまいますから超能力や霊力を人間界に持ち込むことになってしまいます。
下つ瀬の意志は人間性能の底にあって動きと活動による実践行為の現象を引き出すことになり、上つ瀬の感情は人間性能の頭上を陣取り采配して実践行為の内容を制御しています。ですのでこれら、ア・イの意識の言霊性能は人の基盤と全体を統括していきますが、それだけでは実質内容がありません。どのような判断や禊祓にしろそれだけでは「速し、弱し」となります。
この間の事情が「ここに詔りたまはく、」の「ここに」に現わされています。ここにというのは場面の転換点で言われる言葉です。つまりここに至る以前の全体です。その全体がここに現れました。
身禊の主体規範が客観世界に適応されついで、主観世界に適応されました。客観世界での適応は出来上がったものへで、相手には始めと終りがある動かないものへでした。
ここでは、主観(心)自身への適応です。心には五つの次元層があり、動きの働きがあります。
とはいえ、蛭子、淡島で一般性領域を創造したことが、主観全般となって現れ、その動因として言霊イがあるということです。主観を省みるのにまず主観一般、全体性から始まりそれを手助けするのが言霊イとなります。一般性の定立は事の始めですが、個別的な心の内容は持ちません。閃く全体のままに協調共感するかしないかの速攻で事が運びます。自由奔放にその場を了解するかしないか激しく速い判断が特徴です。
その代わり個別への配慮理解共感は無頓着に扱われていきますから、現実の物事の進行とは大きな齟齬を生むことになります。
このような、意識のア次元とイ次元が既に分かっているということです。そこで次に進みます。
初めて中つ瀬に堕(い)り潜(かづ)きて、滌(すす)ぎたまふ時に、
「上つ瀬のア段も、下つ瀬のイ段も禊祓の実践の次元としては不適当だという事を確かめた伊耶那岐の大神は、初めて中つ瀬の中に入って行って禊祓をしました。中つ瀬とはオウエから流れるオ―ヲ、ウ―ウ、エ―ヱのそれぞれの川の瀬の事であります。次元オは経験知、その社会的な活動は学問であり、次元ウは五官感覚に基づく欲望であり、その社会に於ける活動は産業・経済となります。次元エからは実践智性能が発現し、その社会的活動は政治・道徳となって現われます。共に文明の創造を担うに適した性能という事が出来ます。」
両岸が無ければ川の形を成しません。だからといって岸のどちらか、感情次元の世界と意志次元の世界、に立って事を成そうとしても、実質的な中身は得られないのです。
そこで川の中央がまだ残っているのでそこを訪ねます。中つ瀬です。
何故意識の中つ瀬中央に入ることが後になるのでしょうか。始めから中に飛び込めばいいように思えます。
「初めて」というのは、主観による主観内の立ち入りが初めてということになります。
どこに主観があるのかといえば、言霊要素とその運用にあります。客観世界そのもの(アイウエオ世界)には主観はありません。
言霊要素とその運用で現わされる言葉を発するときには、実は吾の眼が事に付いて智になるという、生きる意志による意識の全体の動きが既にあります。これが、あめつちで、事を見聞きし思うときには既に個別性具体性以前に全体感の言霊アの意識による体得から始まっています。
この段落では既に意識の反省自覚規範が導入されています。反省というのはいちいち事を振り返る見ることだけをいうのではなく、自己意識が付くというだけの時にもそれの依って立つ規範が無ければなりませんから、その規範を循環するということも含まれます。これは自覚されなくても自動的に起きていることで、その場合の事も反省に含みます。
そのために、上つ瀬と下つ瀬の両者は既に意識の活動にあるものとされいて、一般全体性を語りますが、具体的な意識の内実を得るためには、中つ瀬の言霊ウオエに向うことになります。
中つ瀬に入って得るものは、直接中つ瀬を得るのではなく、まず、中つ瀬がア、イの次元と違う世界にいるという意識の働き、在り方がはっきりしてくることを得ます。
中つ瀬にいるという在り方は、中を囲んでいる四方八方から排除されてできたものです。ですので中つ瀬が何かと了解する以前に、中つ瀬を孤立抽出した外周が明らかになってきます。まずは、その外周の在り方とその役割、導き方が明かされます。
その一方、一般性全体性とは違うという意識は、具体的個別性であるという中つ瀬の全体という意識のパラドックスから産まれます。ここに具体性は一般全体性であるという意識が賦与されます。具体的であるためには一般的でなければならなくなります。
こうして、抽象一般性が言霊ア、イ次元として排除されつつ、自らも抽象一般性であることを自覚するのが、初めて中つ瀬に堕(い)り潜(かづ)きて、滌(すす)ぎたまふ時に、ということです。
例えば、他者に禍、災厄、悪、不正、不規則不正確、等を見つけても、それを指して禍と言うだけでは、自ら作った禍を相手に与えるだけになります。
初めて中つ瀬に堕(い)り潜(かづ)きて、滌(すす)ぎたまふ時に、
成りませる神の名は、八十禍津日(やそまがつひ)の神。次に大禍津日(おほまがつひ)の神。
「中つ瀬に入って禊祓をしますと、八十禍津日の神、次に大禍津日の神が生まれました。伊耶那岐の大神は禊祓を五次元性能のどの次元に於てすれば文明創造に適当か、を調べ、先ずア段とイ段で行う事が不適当と知りました。そこで上つ瀬と下つ瀬の間の中つ瀬に入って禊祓を行う事にしました。すると最初に不適当だと思った言霊アとイの次元が禊祓を実行するために如何なる意義・内容を持つ次元なのであるか、がはっきり分かって来たのでした。八十禍津日の神と大禍津日の神とは、それぞれ禊祓実行に於てア次元とイ次元が持つ意義内容を明らかにした神名なのであります。」
伊耶那岐の大神、つまり、私の意識は、今は穢れ(気枯れ)を削ぐということで、あわぎはらに来ています。
客体世界で主観の客体化と完全に手切れをして、事戸を渡して、主体内の真理を確立しようとした後、確立した真理を再び客体世界に投げ返しても、主体による真理が通用し有用であるかを見ようとするところです。
そこで自らの意識作用を適用しますと、イ次元の言霊による意志の発現の上に載り、まずア次元の全体性の言霊が発出してきて、その範囲内でウオエの各次元が表出されていきます。ところがその表現がアイ言霊の次元に載ったもので、アイの言霊として発現されてしまいます。
主体の中ではかくかくしかじかの私自身の意識を表明しているつもりなのに、どうしてもアイの言霊表現に縛られ囚われてしまいます。
そのことを主体の活動自身に見出しました。
自らによって自らへ「禍」を創造していき、それを他者への表現として先天的な「禍」として無意識で通用させようとします。
ここまでが「禍」です。
古事記の神名は「禍津日」で、禍を日に渡す(津)です。
津は渡し場で、集合集積場、水の潤うところ、等で、その心は、集まったものの全体がつーっと他の場所へ移動する元。唾・つば。
「禍の神」でない理由。
では、何故「禍」が独立した「禍の神」となっていないのでしょうか。
それは既に黄泉国に事戸を渡したことで、今ここでは客観世界内での禍ではなく、主観内に必然的に「禍」の生成を見出しているからです。
ですので他者に禍を見出し訂正の言葉正しい言葉をかけても、それらは必然的に黄泉国でしてきたことと同じことをし、自身に「禍」を創造してしまうのです。
つまり「禍」は日々刻々時々刻々、成すことすること全ての現象として現れます。
そして「禍」は、必ず作られ客体化されるもので客観世界の出来事となるものです。客観世界での対応は黄泉国での話で既に終わっています。三つの桃の子を投げ返すことで、禍を被らないことが示されています。
そこで、ここでは主観内での、三つの桃の子を見つけることになります。
五つの主体側の意識運用の内、ア次元の言霊運用の意識とイ次元の言霊運用の意識はそれぞれ、「上(かみ)つ瀬は瀬速し、下(しも)つ瀬は弱し」 で、黄泉国を出るときに判りました。ですので、一見唐突のようですが、この言葉があります。
「禍」の創造される根拠は、オノコロ島の段落で蛭子淡島を必然的に作るところからきています。ですので禍は必ず作られるものですから、禍を打ち消すことで禍を無くすことはできません。つまり禍を打ち消そうとする行為が禍の創造行為となるからです。
黄泉の国は必然的に禍を作る経過であると同時に禍を身禊する経過でもあります。ですので、既出の神々はそれ自身禍の神でもあったのです。
それに気付いたのは泣沢女の神で、伊耶那美の神をヒバの山に葬(をさ)め、意識主体のみの活動があることを見出しました。
そこで初歩的な主観規範を創造して、客観世界での運用を手がけようとしました。ところがそこで、愛着と所有欲から抜け出せず、自己分裂をきたし客体世界の汚さと主体側の初期規範の無力さを得て、自覚反省が起きます。
そして客体世界への対応は十分にできるのですが、対応している自ら自身が主体的な対処ができず桃の子のお世話になります。
主体側の意識作用が、客体に対する客体の反応という性(さが、いふやさか)から逃れきっていないのを見て身禊に向います。
主観内での「津日」、日に渡す、の欠如を補います。
禍(まが)
禍(まが)津日の神は「禍の神」ではなく、通常理解されている災厄の神ではなく、災厄の元となる神でもありません。禍を津日、日に渡す(津)働きです。
禍は、「ま」「か」に点々で「が」で、「間のか」が「間のが」になったことを指します。五十音言霊とその運用の間の生き生きした「か」、輝く火のような「か」の過去概念の固定化によっておきます。生きた「か」が濁音「が」の黄泉国への転落により、枯渇固定した記憶概念となって、意識の間を塞ぎます。塞がれた「間」が「まが」(禍)です。
その枯渇固定した間を運用しますと、歯車の廻りが悪く逸脱していきますが、これは意識が過去に付く自然な成り行きです。そしてその現象が停滞逸脱等となり、災厄とうつるようになります。
ですので、災厄の現象を指したり災厄を創造したりすると見えるのは、意識の後の段階で、当初はどの意識の瀬においても詰まりを起こし流れを阻害したものは全て「まが」となります。
特に五つの意識の瀬において言霊アの意識と言霊イの意識はその生きた姿そのままでも、抽象一般的な表現を事とし、他との疎通を阻害しますので「まが」と呼ばれます。
しかし、他のウオエの次元も同様で、無意識的無自覚な表現表出行為では他者との整合性がとれずに、独りよがりとなっていきます。
津日(日に渡す)
津・つは古事記では非常に重要な位置を持たされています。古事記の真意を語るほぼ半分を占めるかのようです。冒頭にはあめつちの「つ」があります。主体意識を付(つ)けて事が始まり、客観世界である黄泉(よもつ)国の囚われの「つ」から帰還し、日に向おうと心の全てを生命の光に尽(つ)くす決心をあわぎ原で行い、禍をいまここで日に向かわせ(津日)ようとしているわけです。
「つ」は大戸日別(おほとひわけ)の神で父韻の働きを一言でいったものです。つの意識は心のさがとしてどの場面にも見られるものです。心が相手に向う働きを指します。
ここではアワギ原に立った後の「つ」、つまり自覚された規範を持っての「つ」の運用になります。意識がつーっと自動的に無意識に向ってしまう日常の状態を超えたものです。
意識の働きは正邪善悪を問わず「禍」の形を創造してしまいます。意識の形は五つの次元として表出されますので、それぞれの性質の在り方が次元の特徴となってしめされます。一般全体を示すア次元では「速すぎる」ように、意志の動因を示すイ次元では「弱すぎる」ように現れます。
しかし、アワギ原の全体意識の中では主体意識が保持されていますから、自己の自己による確信を得るに足る意識を得る探究が進行しています。
そこでその進行の流れに入り波に載りますと、アの次元イの次元のそれぞれもそれぞれなりの働きの意味内容が現われ出てくることになります。ア・イ次元はそのままでは禍であるけれど、ア次元の本来の在り方、イ次元の本来の在り方が渡され現れてきます。
禍であることを発見すると同時にそれぞれの間の火(あかり)を見出せることとなります。
間の火(まか)をそのまま生きた光として活用するには、まず一般性を排除した間の火を見出すことになります。それが八十禍津日です。身禊の内容、その実相を見出そうとするものです。
ついで、その内容、実相を打ち立てるのに、意志という根底の動因を必要としましたが、その法則や原理を前面に押し出しても、実体内容には届きません。大いなる身禊の基本事項となる大禍津日は見出せました。
そしてアイ次元を除く、実体内容に沿ったウオエの次元の身禊に取りかかります。
八十禍津日の神
「人は言霊アの次元に視点を置きますと、物事の実相が最もよく見えるものです。そこで信仰的愛の感情や芸術的美的感情が迸出して来ます。その感情は個人的な豊かな生活には欠かせないものです。けれどこの感情を以て諸文化を統合して人類全体の文明創造をするには自由奔放すぎて役に立ちません。危険ですらあります。禊祓の実践には不適当(禍[まが])という事となります。けれどこの性能により物事の実相を明らかにすることは禊祓の下準備としては欠く事は出来ません。八十禍津日の神の禍津日とはこの間の事情を明らかにした言葉なのです。禍ではあるが、それによって黄泉国の文化を聖なる世界文明(日)に渡して行く(津)働きがあるという意味であります。以上の意味によって禊祓に於ける上つ瀬言霊アの役割が決定されたのです。」
「では八十禍津日の八十(やそ)は何を示すのでしょうか。図をご覧下さい(略)。菅麻(すがそ)音図を上下にとった百音図です。上の五十音図は言霊五十音によって人間の精神構造を表わしました。言霊によって自覚された心の構造を表わす高天原人間の構造です。下の五十音図は何を示すのでしょう。これは現代の人間の心の構造を示しています。元来人間はこの世に生まれて来た時から既に救われている神の子、仏の子である人間です。けれどその自覚がありません。旧約聖書創世記の「アダムとイヴが禁断の実を食べた事によりエデンの園から追い出された」とある如く、人本来の天与の判断力の智恵を忘れ、自らの経験知によって物事を考えるようになりました。経験知は人ごとに違います。その為、物事を見る眼も人ごとに違います。実相とは違う虚相が生じます。黄泉国の文化を摂取し、人類文明を創造する為には実相と同時に虚相をも知らなければなりません。そこで上下二段の五十音図が出来上がるのです。」
「合計百音図が出来ますが、その音図に向かい最右の母音十音と最左の半母音の十音は現象とはならない音でありますので、これを除きますと、残り八十音を得ます。この八十音が現象である実相、虚相を示す八十音であります。これが八十禍津日の八十の意味です。言霊母音アの視点からはこの八十音の実相と虚相をはっきりと見極める事が出来ます。」
「この八十相を見極めることは禊祓にとって必要欠く可からざる準備活動です。けれどそれを見極めたからと言って、禊祓が叶う訳ではありません。そこで八十禍と禍の字が神名に附される事になります。」
「古事記が八十禍津日の神に於て人間の境遇をアオウエイ五段階を上下にとった十段階で説く所を、仏教では六道輪廻の教えとして説明しています。それを敷衍して図の如く書く事が出来ます。」
八十の意味。
中つ瀬に降り下って身禊をして成った神が、「禍」ではなく「禍津日」の神というのが眼目です。「禍」は既に黄泉国で産まれており、ここでまた「禍」を産もうとするのではなく、「禍」の身禊をしようとするものです。
つまり、既にある「禍」を「津日」、日に向かわせようとするものです。
そこでは意志を除く四十の要素があり、それに対応したその現象化を促す四十の働きがあり、そこで出てくる四十の現象があります。
このうち四十の働きそのものは見えませんから、元ある要素と出来た現象のそれぞれの四十づつが現れていることになります。
注意することはこのあるものと出来たものとが、固定して使用され作用していくと「禍」となって現象してくるということです。そしてその必然の経過を黄泉国で見てきました。
そしてここで「禍」の汚さを身禊しようと自覚した意識を持つことになります。
何によって自覚の運用を行なうのかと言えばあわぎ原の五十音図規範です。
それは先天の天津菅麻音図であり、各人がああ汚いと感じる元を作る言語規範です。後者の場合は勝手なものですが、それを音図としてみますと、母音行半母音行は、あるものの世界として共通なのです。
そこでいずれにしろ、要素と現象の四十づつが穢れを受けるものとなっています。
こうして、あったものとあるものの八十の穢れがあること分かりました。
つまりこの八十の要素の穢れこそが、日(霊)に渡す(津)ものとなっていることを知るのです。
主観の客観化が起こるのはそもそも主観の表現が一般化されて(蛭子、淡島を参照)おきることからです。現われ出たものは一般的ですが、そこには心の十七神が常駐しています。それが働き動くときには、言霊要素とその運用の両者の掛け合わせとなって現象になります。つまりこの世にあるものは、働きと働きの宣(の)る現象要素です。
一方ここにあるとされる宇宙世界(母音行言霊アワの次元)は、それ自身であるものであり、主体の活動によって産まれたものではありません。主体の活動を被らない、あるものはあるというものに禍はありません。
そこではあるとされてきた宇宙世界の次元要素であるア行とワ行の母音行は、働きの宣(の)る母音行としてではなく、永劫久遠の世界実在としてあるだけのものです。言霊要素となり働きの要素が載るのは、五十音図から両側母音行を除いた四十の要素群ということになり、現象結果として現れてくる場合の四十の要素いうことになります。
こうして母音行半母音行を除いた八十が残ります。主体が持つ要素とその働きの合計の数ですが、母音世界と働き世界は「禍」の無い先天に属しています。
と同時に各音図は「禍」の無い先天を内包していますから、それらを利用して、自らが自らの内に身禊を行なうことが出来るようになります。
その自身の利用法において、上つ瀬と下つ瀬は適当でないことが分かりました。
そこで中つ瀬に行ったときに、四十の要素が生き返る姿を確認したのでした。
一般全体現象として扱わず、意志や気力現象にしてしまわないことが見て取れたのです。
百音図について。
上記の説明に百音図が出てきました。
オノコロ島の段落で出てくる、両児(ふたご)の島または天之両屋(あめのふたや)のことです。
通常の五十音図は言霊要素の五十の音図ですが、その運用活用に五十があると同時に、あった世界とそこから出てくる世界の五十でもあります。それぞれに五十あるので計百です。
例えば、「あ」という言葉を発しようとして「あ」と言うとき、五十の要素から「あ」に辿り着くだけでなくそれと同時に、五十の言霊要素を経過循環して「あ」に辿り着き「あ」と言います。五十の要素から「あ」という一つを選び他を捨てることではありません。
それは五十の意識の働きを通過していくことで、つまり、瞬間的な出来事ですが、五十の言霊要素と五十の意識の運用次元段階を通過していくことで、意識による創造現象を得ることになります。
「あ」という単音の発音を納得して了解するまでに百の意識段階を通過し現象を創造し、続く単音を百の段階を通過して「あ」と繋がり、「あい」が全体となって続く「し・て・い・る・よ」と繋がります。このように書いていくと、一音一音の単音を繋げて「あいしているよ」が出来るように見えますが、実は先天意識の領域では「あいしているよ」という意識の流れの全体が用意されています。単音が積み重なって全体が出来ると同時に、出来上がっている靄でかすんだピラミッドの全体が徐々に現れてきます。
意識の表出においてどちらか片方だけを取り上げても不十分なものとなります。
さらに驚いたことに意識は、光の部分と影の部分を同時に進行させていきます。というよりか、光から影、善から悪、仏から地獄、等への系列が同時にしてあります。
光の中で光を照らしても光は見えず、闇の中で闇を作っても闇はありません。この両端でなく中つ瀬にあるからこそ光と影の双方が成り立ちます。中つ瀬が八十、両端が光と影、仏と地獄、等となります。
発音しようとする「あ」は先天的に与えられています。「あ」に関する世界意識も与えられています。これらの大本が水母(暗気)なすように漂っているわけです。この延長上に客体世界(黄泉国)が作られていきます。作られ出来上がってしまえば影の世界です。
一方、常に立ち上がる今ここの世界がその裏にあります。光の世界が裏にあるということです。中つ瀬では光は影の世界の采配者です。常に影を取り入れて光に渡そうとしていきます。
ここでは意識的な運用をするために百音図を出してきましたが、既に五十の言霊要素は出来上がっているのでその運用に伴い無自覚的な百音図が、運用されています。ただし、禍津日の神以前までの段階ですので、その運用は恣意的な勝手な思い込みによるものとなっています。
そこでいつもどのような場合にも表現をすることには言霊要素とその運用が含まれていて、その初発の時は吾(ア)の意識で始まるので、ここでのあわぎ原での反省の始まりにも、その反省の仕方は一般化からはじまってしまいます。
この一般化は人の意識(吾の眼・アメ・天)の関わりのの始めですから、常に客体世界と別れて一般化を排除したのに、自分自身の心の世界に戻ると主観の働きでは排除しきれない事が起きたままになっていました。人の振り見て我が振り直せ、です。
ア--------ワ
オ--------ヲ
ウ--------ウ
エ---八----ヱ
イ---十----ヰ
----の--------
イ---現----ヰ
エ---象----ヱ
ウ--------ウ
オ--------ヲ
ア--------ワ
客観世界の「蛆」のたかった、「汚き」世界と手を切った積もりが、自身の心の世界に入ったとたんに、蛆と汚い世界を一般性として創造していたのです。
しかしこれは意識の進行の流れの上にあるもので通常の形にあるもので、人はまさか自分が蛆を作り汚いものを作っているとは気付かないで通用させているものです。
ですのでそれを一応、「禍」とは呼びますが、わざわいの禍(まが)である前に、マガ・間我・我を出した間となります。
間我はさらに詳しく見ますと、「間か」が「間が」となり、「か」の「間」が固定した「が」と組み合わされて、「まが」となったものです。これは言語の成長変遷の歴史ということではなく、意識の動きから見たものです。「間・ま」を「か」とするのに、心に黄泉国を生み出してしまう必然を指したものです。「か」が固定してしまうと過去事象の濁音の「が」になります。
「か」の位置づけは、石上神宮の「ひふみ」に示されていて、概略は以下のようです。
石上神宮の日文(ひふみ)
『ひふみよいむなやこと もち ろらねしきる ゆいつわぬ そを たはくめ か うおえに さりえてのます あせヱほれけ』
ひふみよいむなやこともち 、、、赤子の持つ天然自然の判断規範(十音)を用いて (下0)
ひ・先天の「ひ」--先天の心(霊・ひ)の活動が起こり (一)
ふ--霊(ひ)がふっと踏み出して意識は意識と意識の対象の二つに分かれ、付帯付加して (二)
み--そこに自分の意識の付着した実を見ると、 (三)
よ--四つの実在世界となる実の、見られた側のよ(世)と見る側のよ(世)の主客が現れ (四)
い--その相互の間を創造意思(い)のイマココ(い)がイザと立ち上がり (五)
む--イの霊(ひ)と実(み)である世の主客を結(む)すび合わせ (六)
な--意識の内実(み)である主客の世(よ)を結(む)すび後天現象を得て、その現れが名(な)となって、 (七)
や--その名の自他の世間に流布される(や)弥栄の姿が (八)
こ--子現象(こ)となる。このように、 (九)
と--意識の進展の各次元の十の戸(と)を通過して事が成り了解して事の帳(とばり)が降りて事の実相が出来る。(⇒そして再び「ひ」に戻って) (十)
ひ・後天の「ひ」--現象の中の霊(ひ)が先天の「ひ」に帰る。(0上)
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(以上が言霊要素循環の原理、そして、以下が通常の運用法に和をもたらす運用法に変え禊祓する方法。)
ろらねしきる 、、、世間一般で流布流通通用(ろ・ら)している上記十の言霊の意識運用の言葉(ね)に仕切られている(しきる)にもかかわらず、
ゆゐつわぬ 、、、湯水(ゆ)のように勝手に(ゐ・意思の客体側)出てきて(つ)通用させている方法(わ・和を装う)を止めて(ぬ・禁止停止)
そをたはくめ 、、、それを(そを)、タの葉(たは)、タで始まる言霊音図に組み換え(くめ)て(たかまはらなやさ、にすること)
か 、、、、、、、、、そうするとそこに現れる火(か)のようにはっきりした明瞭な意識の(アがカとなった)
うおえに 、、、、、ウオエの各意識次元のたかまらなやさ配列が元になるように
さりえてのます 、、、探し(さ)理解(り)し得(え)て(さ、り、え)、それの解体改築改良を了解宣命(宣(の)る)ましまして(ます)
あせヱほれけ 、、、意識の始めである「あ」の瀬(せ)で和の選択表現を得る(ヱ・)ような、立派で誉れある(誉霊・ほれ)心の系列(け)を作りなさい
というわけで、『ほれけ』は、次の段落では「筒」という表象で示されます。
筒にまで渡せずにここまでなら、単なる「禍の神」で、普通に解されている災厄の神で終わります。
しかし、タカマハラナヤサに導く意識を伝授しようというのが「禍津日の神」で、わざわざ「津日」となっています。日に渡す、タカマハラナヤサという意識霊に持っていく、主客の真理に導くことになります。
大禍津日の神
「八十禍津日の神が、伊耶那岐の大神の禊祓の行法に於ける菅麻音図のア段(感情性能)の意義・内容の確認でありましたが、大禍津日の神は禊祓におけるイ段(意志性能)の意義・内容の確認であります。言霊イから人間の意志が発生しますが、意志は現象とはなりません。意志だけで禊祓はできません。また言霊イの次元には言霊原理が存在します。この原理は禊祓実践の基礎原理でありますが、禊祓を実行するに当り「基礎原理はこういうものだよ」といくら詳しく説明したとて、それで禊祓が遂行されるものではありません。言霊原理は偉大な法則です。けれどそれだけでは禊祓をするのに適当ではありません。そこで大禍(おほまが)となります。
しかしその原理があるからこそ、伊耶那岐の大神は阿波岐原の中つ瀬に入って禊祓が実行可能となるのです。中つ瀬に於て光の言葉(日)に渡され、禊祓は完成される事になります。大禍に続く「津日」が行われます。言霊イの次元の意志の法則である言霊原理は、それだけでは禊祓の実践には不適当であるが、その原理を中つ瀬のオウエの三次元に於て活用する事で立派な役を果すこととなる、という確認が行われました。この確認の働きを大禍津日の神と呼びます。」
普通に意識活動をすることが禍を生むことになってしまうように、意志を表明することも禍となってしまいます。意志活動をすることが意識の動きと働きを支えるのに、これでは生きること活動することが禍を生むことになってしまいます。
それというのも、私たちは今ここでは中つ瀬にいて、現実味の豊かなウオエの次元にかしづいているからです。岸に近い足の立つ浅瀬で「泳ぐぞ」と大声を出しも水深が足りません。
行為の初動と持続を担う大いなる意志の発現も立つ瀬を違えるとやっかいものとなります。しかしだからといって、消し去ることはできず、意志をあるべきところへと置き直さなければなりません。
禍と禍津日
八十禍津日のア次元と大禍津日のイ次元二神がその居場所を間違えると禍となるように、ウオエ次元もア次元又はイ次元に入り込んでしまうと禍となります。
ウ次元の欲望世界は物質の直接実現世界を目指すものなのに、それ自体は現象としてなることのない意志の世界に持ち込んでしまうと、自分の食べたいカレーライスは誰でもが食べたいものであると押し付けが発生します。また学問知識の世界ではア次元の一般化を目指すように取り扱わられ、知的といわれる論争の種となります。エ次元では実践行為の選択と結びつくので、一般化は直ちに不同意の渦に巻き込まれ戦争にさえなります。
つまりどの次元世界にいても居場所を間違えて主張をしていけば正常な活動が出きず禍が発生します。実際は、ウ次元では所有屁の愛着によって、オ次元では記憶概念の執着によって、エ次元では選択の他者の切り捨てによって、ア次元では一般化することで個性の無視によって、イ次元の創造意志の有無によって、通常的に禍を生じています。
無自覚無意識な精神行為ではそれがそのまま主張されていきます。せっかく黄泉国の「いな醜め醜めき汚き国」と縁を斬ったつもりででしたが、いざ自分の中の世界になると自ら禍を創造してしまっているのでした。自分の五つの精神活動はそのままの活用では、主体内の主観意識の中で黄泉国を創造していたのです。
自分の精神活動はそのままの活用では主体内の主観意識の中で黄泉国を創造していくのですが、禍や悪、不正や影等を創ろうとしてそうなっていくのではなく、今ここの時点で自動的に禍を作っていきます。
人の精神活動は禍を作ることといえます。それらを保障しているのが各人が持っている愛着、所有心、主張等です。禍を作ることは各人の通常の行為となりますが、それを底辺から保障するのが、禍を支えている光です。禍は心がこびりついた結果現象で、必然的な成果ですがそれを持ち出していざなった創造意志の光の上に乗ったものでした。
黄泉国の特徴である、一般化と客体化はそのままア・イ次元と被りますから、早々に「速し、弱し」と主観活動の使い方を見据えました。
と同時に主観活動のウオエ次元もすくい上げることに気付きました。というのも光によっていざなわれているにもかかわらず、現れ渡った向こう側では影、禍となって現れていたのです。これは主観内の活動で主観が光の創造意志にいざなわれているにも係わらず結果が禍、影を創造してしまうことは、その創造過程に主観の活用法に問題があるからです。
この二神は、かの穢(きたな)き繁(し)き国に到りたまひし時の汚垢(けがれ)によりて成りませる神なり。
「八十禍津日の神と大禍津日の神とは、伊耶那岐の大神がかの黄泉国という穢い限りの国に行ったときの汚垢(けがれ)から生まれた神である、と文庫本「古事記」の訳注に見えます。この解釈では禊祓の意味が見えて来ません。そこで少々見方を変えて検討することとしましょう。」
「伊耶那岐の命が妻神のいる黄泉国へ出て行き、そこで体験した黄泉国の文化はどんなものだったでしょうか。その文化は物事を自分の外に見て、そこに起る現象を観察し、現象相互の関係を調べて行く研究・学問の文化でありました。その学問では、今までに世間で真理だと思われて来た一つの学問の論理を取り上げ、それに新たに発見した新事実を披露し、今までの学問では新事実を包含した説明は成立しない事を指摘して、次に今までの学問の主張と新しい事実との双方を同時に成立させる事が出来る論理を発表して新しい真理だと主張します。この様に正反合の三角形型△の思考の積み重ねによって学問の発達を計るやり方であります。」
「客観的現象世界探究のこの学問では、他人の説の不足を指摘し、その上に自説を打ち立てる競争原理が成立ち、自我主張、弱肉強食そのものの生存競争世界が現出します。伊耶那岐の命は黄泉国のこの様相を見て、伊耶那美の命の身体に「蛆(うじ)たかれころろきて」居る様に驚いて高天原に逃げ帰って来ました。この事によって伊耶那岐の命は、黄泉国で発見・主張されている文化は不調和で穢いものではあるが、世界人類文明を創造する為には、これらの黄泉国の諸文化を摂取し、言霊原理の光に照らして、新しい生命を与える手段を完成しなければならないと考え、禊祓を始めたのであります。」
「その結果として種々雑多な黄泉国の文化を摂取して行くのにアオウエイ五次元の性能の中で、アとイの次元の性能は禊祓の基礎とし(イ・言霊原理)、また下準備とする(ア・実相を明らかにする)のが適当である事が分かり、八十禍津日、大禍津日の二神の働きを確認する事が出来たのであります。「この二神は、かの穢き繁き国に到りたまひし時の、汚垢によりて成りませる神なり」の意味は以上の様なことであります。」
身禊を始めたときの「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国に到りてありけり」と、ここの原文にある、「この二神は、かの穢(きたな)き繁(し)き国に到りたまひし時の汚垢(けがれ)によりて成りませる神なり」と、は非常に似た文章です。
黄泉の汚い(生田無い)国のことを言っているようですが、黄泉国自体の汚さを言ったものではありません。
事戸を渡した後の客体世界の構成要素の精神運用の実体側と精神運用の働きそのものを、分けて述べています。
客体世界の構成要素は既に明かされましたからそれを構成創造していった意識の実体側を長乳歯の神から辺津甲斐弁羅までで扱いました。
そして、客体世界を構成創造していった意識の働きそのものを八十禍津日の神から後の神々で扱っています。
それぞれに禍、影が宣(の)っているので、それを確認しつつ直そうというわけです。
意識活動は必然的に黄泉国を作っていきます。それは文化生産社会創造の止む事の無い常に世界の萌(きざ、・黄)す源泉(いずみ・泉)です。人類の繁栄(繁・しき)を現わすものです。世界文明、人類の生命の糧となる創造物です。
ところがそこに、愛着所有主張分配等が入り込み、それぞれの仕方によって整理運用が始まると、秩序が乱れ混乱が起きてきます。
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以下は、直毘・ひ(霊)を直す、の項目です。