「天(あめ)の常立(とこたち)の神」
「次に国稚(くにわか)くして、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)える時に、葦牙(あしかび)のごと萌え謄(あが)る物に因りて成りませる神の名(みな)は、宇麻志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に天(あめ)の常立(とこたち)の神。この二柱の神もみな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠(かく)したまひき。」
「国稚(くにわか)くして」
「心の先天構造の内部がどの様な状態になっているか、まだその内部の実状を明らかにする作業がそれ程進展していないので、」の意であります。「国」とは組(く)んで似(に)せるの意。言葉を組んで、実際の状態に似るよう整えることです。その作業が成熟していないということです。
「浮かべる脂(あぶら)の如くして」
水の上に浮かんでいる脂(あぶら)のように形も定まらない、の意。前に述べましたように先天構造の内容がまだはっきりしていないで、浮遊する脂の如く不安定で、ということです。
「水母(くらげ)なす漂(ただよ)える時に」
水母なす、とは暗気の喩えです。一面がまだ暗くて安定せず、漂っている時、の意であります。
「葦牙(あしかび)のごと萌え謄(あが)る物に因りて成りませる神の名(みな)は、宇麻志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。」
「葦牙のごと萌え謄る物に因りて」といいますと、読者の皆様は先ず何を連想なさいますか。人の心の中で、こういう状態になることを経験した方は多いのではないでしょうか。それは間近に処理しなければならない重大な事で、どうしてよいか分からない問題を抱えた前夜のことなど、床に入っても寝付けず、頭の中は過去のいろいろな出来事が走馬灯の如く駆け廻っている時の状態こそピッタリではないでしょうか。葦の芽も茎の四方八方、上下何処からでも新しい芽が出て来て、何処が始めで何処が終わりだか分からない程入り乱れます。その様な状態で現出して来るもの、それは宇麻志阿斯訶備比古遅の神というわけです。宇麻志は霊妙な、の意。阿斯訶備は葦の芽のこと。比古遅は男の子の美称、と辞書にあります。全部で霊妙な葦の芽の様な複雑な関連を持った原理の実態、といった意となります。これは一体何なのでしょうか。一言でいえば人間の心の中にその様に現出して来る経験知識であります。この経験知識が畜させされている心の宇宙、即ち言霊ヲであります。人間の経験知識は他の経験知識と複雑・密接に関連しながら、言霊ヲの宇宙に収納されているのです。この言霊ヲに漢字を当てはめて、その内容を説明すると、緒(を)や尾(を)などが考えられます。生命(いのち)の玉(たま)の緒(を)と言えば、それは記憶のことであり、尾では「尾を引く」の言葉もあります。また言霊ヲを端的に表現する文章が仏教禅宗無門関に見ることが出来ます。
【牛窓前を過ぐ】 五祖(法演和尚)が言った。「譬(たと)えば牛が窓前(そうぜん)を過(よぎ)って行った。頭角や四蹄が皆過ったのに、どうして尻毛は過ぎ去ることが出来ないのか」(無門関第三十八)
「天(あめ)の常立(とこたち)の神」
天の常立の神とは、大自然(天)が恒常に(常=とこ)成立する(立=たち)実体であり、主体であるもの(神)と説明することが出来ます。それは言霊オのことです。宇麻志阿斯訶備比古遅の神(言霊ヲ)が経験知識そのものの宇宙とすると、天の常立の神(言霊オ)はその経験知識を記憶し、それを活用する主体の宇宙ということが出来ます。言霊オに振漢字をすると、男(お)、雄(お)、牡(お)等が考えられます。
「この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。」
この説明は造化三神のところでしてありますので、此処では省きます。古事記の文章を先に進めます。
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精神元素「オ」の言霊と古事記。その1。
『次に国稚く(くにわかく)、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母なす漂へる時に、葦牙のごと萌え騰る物に因りて成りませる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に天の常立(とこたち)の神。この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。』
天(高天原)そのものを神格化し、天の恒常性を表した神である。ウィキ。
天の恒久性を意味する神goo辞書
『次に天の常立(とこたち)の神』を前に書かれた文章と一緒に読むと「天の恒常性」がどうしてここに出て来るのか疑問が無いというのかおかしく感じる。国とか水母とかの後から「天」があっても「むーかしの人はー」ということにして、自分のことを放り出しているのでしょうか。
-----さて、文句の一言も言い終わりましたので(つまりそのように読ませた安万侶さんの勝ち。詳しくは一言メッセージ欄のアドレスへ飛んで本物を読んでください)。
古事記神代の巻冒頭百神によって与えられた「オ」の神名・ 天の常立(とこたち)の神。言霊オ。
・神名の解。
大自然(天)が恒常に(常)成立する(立)実在主体(神)といった意味
・神名全体の意味。
天の常立の神・言霊オとは記憶し、また種々の記憶の関連を調べる主体となる世界という事が出来ます。
・言霊「オ」の意味。
宇麻志阿斯訶備比古遅の神(言霊ヲ)が経験知識そのものの宇宙とすると、天の常立の神(言霊オ)はその経験知識を記憶し、それを活用する主体の宇宙ということが出来ます。言霊オに振漢字をすると、男(お)、雄(お)、牡(お)等が考えられます。
現象としてはそれ自信は姿を露さない心の宇宙。『独神(ひりとがみ)に成りまして、身を隠したまひき。』
言霊オ「天の常立神」の分析は自然に対する調査であり、言霊エ「国の常立神」の総合は人間の文化活動である。
言霊オ・天の常立の神
従来の「古事記」の註釈書では「天の常立の神」を「天の確立を意味する神名」と解釈しています。言霊学でみるとどうでしょうか。言霊オとは過去の現象を思い出して、その現象同志の因果関係を調べる、いわゆる経験知の出て来る天の宇宙ということでした。天の常立の神という名前は、この経験知をよく表わしているではありませんか。宇宙大自然(天)を恒常に(常)成立させる(立)実体(神)であると「古事記」は説明しているのです。それは学問・科学そのもののことであります。
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天の常立神を天の恒常性とか天の確立とかにする方は千年以上の体系上の保証があるのでそのままいってもらいましょう。しかし千年なんて単位があってもころっと変わることもあります。
なるべく言霊学からの見方を心がけていますが、そもそもが隠蔽されなければならなかったものですから既に真実が明かされているとはいっても、理解されるところまではいきません。いままで神様の名前をいろいろとよみ方を変えて言霊学に近づくように解してきました。ところが今回の天の常立の神には手こずります。天をお空の天では無いという解をみつけづらいからです。
そこで水母の後から天の恒常性など出すのはおかしいと言ったわけですが、千年の体系を足蹴にすることはできません。古事記にはそれしか書いてないのでこの中から真の方向へ導ければいいのですが。
『次に国稚く(くにわかく・国とは組んで似せる、区切って似せる)、浮かべる脂(あぶら・安定したものではない)の如くして水母(暗気、混沌)なす漂へる時に、葦牙のごと萌え騰る物に因りて成りませる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に天の常立(とこたち)の神。この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。
次に成りませる神の名は、国の常立(とこたち)の神。次に豊雲野(とよくも)の神。この二柱の神も独神(ひとりがみ)に成りまして、身を隠したまひき。 』
宇摩志阿斯訶備比古遅の神と天の常立の神。国の常立の神と豊雲野の神は対になっています。天の常立の神と国の常立の神が対になっていのるではありません。
天の常立の神の常立(とこたち)は変化の無い(常)田(た)の地(ち、知)で、
国の常立の神の常立(とこたち)は常に変化する(常)判断力(太刀たち)です。
天の方は過去に向かって判断を固定化する方向を目指し、
国の方は将来に向かって最良の選択を目指していきます。
天の方は対になっているのが宇摩志阿斯訶備比古遅で芽の延長で同じ芽が伸びるだけのもので、
国の方は対になっているのが豊雲野で雲のわくわく出て来る動き流れる変化に対応している。
こうして、宇摩志阿斯訶備比古遅の神と天の常立の神は、経験知、記憶の固定した下地から判断が出て来るのに対して、
国の常立の神と豊雲野の神は、選択する実践智、将来へ動く為の判断がでてきます。
葦の芽も竹の子も地下茎での繋がりはありますが、出た芽は単なる延長で、
野火の煙や雲は自由奔放に形を変えていきます。
牛の尾尻と窓格子を記憶の地下茎で捉えてもどうにもなりませんが、
牛の尾尻と窓格子を将来への実践智で捉えなおせば通れます。
精神元素「オ」の言霊と古事記。その2。
そもそもこのブログを始めた切っ掛けは、易占いでとんでもない卦を自分で出してしまったことからです。占いなどに関心は無かったものが一転しました。易占いに没頭しその後、言霊学を学ぶようになり現在にいたっています。当時の記録を転載します。
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『 未来は決まっているか----その卦
2005年12月6日 亥月・甲子日 空亡・戌亥。
『 水火既成 ⇒ 地天泰 に変わる 』
私はこの卦を得たとき判断を保留したというより、驚愕のため一週間放置したままにしておきした。
このブログを始めるのもその余韻が変形したものといえるでしょう。
今でもこれに判断を持ち込むのは怖いところがあり、臆病風をふかせるところがあります。
ひとまずは周易の本から引用だけにしておきましょう。
水火既成・・・既成はすでになる。事の完成を意味する。この卦の形を見ると、陽こうはすべて奇数位に、陰こうはすべて偶数位にある。全こう「正」で最も完成した形をしている。それで既になる・済る・と名づける。
地天泰・・・天地が交わり陰陽の気が通ずる。
2006/1/4(水) 午後 11:57のブログ 』
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当初、言霊オの経験知識に関して、上記の得卦について書こうと思っていましたが、ふと思えば今度は、いったい『過去は決まっているか』という疑問がでてきました。
『未来は決まっているか』に関しては多くの考え意見がありますが、『過去は決まっているか』については、起きてしまったことは決まってしまったことだから、馬鹿な質問をするなというのでしょうか、ほとんど意見を眼にしません。
しかしセンセーショナルに言えば『過去は決まっていない』です。
人を殺した殺さない、やったやってない、大量殺人兵器を持っている持っていない、戦争を仕掛けたのそっちが先だ、いや嘘だ、宇宙の年齢は127億年だ、いや今年からは138億だ、古代日本には文字があった、いや中国の記録には無いとある、スメラミコトの秘密は言霊にある、いや血統にある、等々、日常の些細なことから始まって科学研究に至るまで、裁判所ばかりか、会社、家庭で、日常生活上過去が固定できず決められないことは多いはずです。
過去は決まっていると言い切れない事柄はいくらでもあります。ある時に確定されても破棄更新されることもよくあることです。
判断の内容、記憶の内容、科学概念の内容等々『過去は決まっていますか?』
そこでもう少し観察してみましょう。
欲望などは過去がありません。昨日ラーメンを食べたかった。過去に欲望と呼ばれるものはあったが、それは記憶想い出です。食べたい欲望は今現在にしかありません。リンゴが食べたい。映画を見たい。小説を読みたい。金持ちになりたい。そういった過去の欲望は決まっていましたか?。記憶は実体ではありません。
敬虔気持ちになった、あの人を愛して愛して愛している、何かあるものに感動した、これらなどは過去にもなり記憶にもなるけれど、工夫をすると再生産、最出現にまで持っていくことができます。同じ情緒の再生が可能です。プラスマイナスはあるものの、過去であるのに現在にすることができるということです。欲望や経験は概念で語るしかなく、喋るたびに変化がこびりついて変形太ります。
人間性能の各次元で過去のとらえ方がこのように違っています。過去の捕らえ方がこんな調子なのに、『未来は決まっているか』などとよくも平気でできたものですね。当時は出た卦に仰天したものでした。
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ところで、もっと凄いものがあります。過去は決まっているどころかそれがそのまま未来においても決まっているものがあります。言霊の原理に則った大和言葉でできた日本語です。そろそろ一万年になるのではないでしょうか。
そして言霊の原理に則って解され、行為されたものは全て過去現在未来において決まっているものです。
この最後の文章はわたしへの宿題です。
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命の玉の緒の始まり。暗気=水母。
1-意訳
■≪ついで、まだ判断を下す以前に、
相手客体があるのは分かりましたがはっきりと判断ができず、特定できず、不安定な状況であるとき、
思いもかけず記憶の中から次々と意識に昇ってくるのは、 ≫
2-古事記
●『次に国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、
葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、。』
3-テーマ
命の玉の緒。
4-言葉解説・指し月の指
・次に国稚く(くにわかく)、-----国などまだ創っていないのに国が出てきます。つまり国土のことではありません。
ク・ニ(国)の暗示です。組(ク)んで似(ニ)せる、区切って似せる。
言霊ウ<ア・ワ (天の御中主の神<高御産巣日の神・神産巣日の神)で、当初事の始めのときには主客は分からず自分と相手とは同じものであるような曖昧な状態でした。ついで主体側と客体側の働きかけている方とそれを受け取る方とが分かれている感じを得ています。
しかし意識の芽生えの時でこうこうだと規定し説明できるような相手とはなっていません。
まず主体側の働きかけがありましたが、ここではそれを受けて顔を出したものの誰のどのような顔であるかはまだ分かってこない時で、分け出てきた客体側のことを話しています。
主体側の働きによって主客の分離が出てきたのに、その主体側の働き を担当する神(次に出てくる天の常立(とこたち)の神のこと。)を出さないのか。なぜ客体側から説明が始まるのかが問題です。
言霊学の勉強を始めたときには意識主体の働きを言うのに、次に出てくる四神 (宇摩志阿斯訶備比古遅の神。次に天の常立の神。次に国の常立の神。次に豊雲野の神。)が客体-主体、主体-客体で、どうして、主体-客体、主体-客体の順になっていないのか分かりませんでした。
もし客体というのを木偶のように意識の対象として自分の外側にあるものとすると、常にわたしの方が働きかける主体となります。主→客の順になります。
ところが、古事記で扱われているのは主体側の意識内での出来事であることを思い出すと、いくら主体意識であっても何も無い所からは始められません。幸い頭脳には記憶があり、数十億年の数千億光年の記憶世界の蓄積があります。主体がどんな突飛なこと、天照が宇宙から来たとか、卑弥呼だとか、いう主張が創られにしても、必ず自分の中にある数千億光年の記憶世界の一部を利用しないことには、自分の意見は成り立たないのです。
意識が働きかける相手が既に自分の頭脳内に存在しているのです。これが客体側がまず主体側の働き以前にある理由です。そこで宇摩志阿斯訶備比古遅の神という客体神が先に記されているのです。
ではその次には何故、主体神側の国の常立の神、次に豊雲野の神というように、主-客の順になっているのでしょうか。これは主体のもっぱらの働きである選択の実践智恵があるためです。
こうして、わたしは、安万侶さんが数千年以前からの成果を受け継いだ、古代大和の超知性的な偉大さを感じることができました。
「国稚(わか)く」とは、先天構造を構成する言霊ウ、アワの検討は終えたけれど、まだその区分は始まったばかりで、しっかりと確定されたものでない、即ち、稚い、幼稚なものであるの意。
・浮かべる脂(あぶら)の如くして-----水の上に浮かんだ油のようにゆらゆら漂っていて安定したものではない、という事。対象相手を指定し規定し、あれがわたしの相手だと言い切る以前の不安定な精神状態です。どんな強い凝り固まった相手など目にもかけない主張であっても、その始めには必ず秘められています。
・水母なす漂へる時に、-----「水母(くらげ)なす」の水母とは暗気のこと。混沌としてまだ明白な構成の形体をなしていない、の意。水母=暗気、これは古事記を読み解いた方の解です。また、安万侶さんが仕組んだ謎です。
前途が見えず暗い気持ちでいるとき、あるいはことを始めるのに先が見えない時、この時は夢も希望も欲も無い、その変わりいろいろと余計なこと関係ないこと思ってもみないことなどが出てきます。こんな大事なときになんでこんな関係ないことを思うのかなどということが起こります。それはいわば心が無我であるときともいえるでしょう。
・葦牙のごと萌え騰る物に因りて成りませる神の名は、-----濕地に生える葦が春が来ると共に芽を出し、またその枝芽から次々と芽を出し、何処が元で何処が末だか分らない程分かれた枝芽を出しますが、その姿のように、の意であります。
実際これらの意識の過程は自分内に見られるでしょうか。1+1はいくつかの答えは簡単ですぐでてくるし、ブログの文を読むのもただ読むだけなら簡単なことです。そこには暗気くらげを感じることはありません。だが算数を始めたばかりの子にはこの足し算も既に難しいこともあり、言霊学など聞いたことないかたには全然意味は通じていないでしょう。わたしにしても関心のないニュースを聞いているときになんのことか分かりませんし、五桁×五桁の暗算問題を出されたら、夕飯はカレーにしようか寿司しようかなどと、とんでもないことを考えることもあります。
葦芽は写真で見ましたが、次々にでてくると言うことはその元の根があるからで、元の根は人の意識では、経験意識、過去意識、記憶、概念などと呼びます。これらの蓄積があるからこそ人はそれに働きかけて何であるかの判断ができます。
そこである人は問うことでしょう。頭脳の始めは赤ちゃんを見ても分かる通りまずは空っぽではないのか、一つ一つ学習して獲得していくのではないかと。lポタポタと水滴が落ちて知識が溜まるように思われています。これは獲得された概念知識をあるものと見ているからす。どのような知識もそれを受け取れる頭の構造を持っていないことにはものにはならないのです。
「A」を教えられれば頭に入ります。しかし、それがなんのAなのか、血液型、ラテン文字、電流、面積、等々それらのどのようなものにも対応できる頭の先天構造が既に無ければ、(一を知って全てを知る構造が頭脳内に無ければ)、Aを何々のAとする、ということは言えません。頭脳はこの固有のAであるというときに既に他のAでは無いと言える構造を持っています。これが冒頭の十七神の暗示です。
もし頭の性能に対象相手と自分とを分別する働き(たかみむすびとかみむすびの働き)が無ければ、いくら経っても蓄積されるものは得られません。
そこで確かに、判断する以前に立ち止まってしまいはてなと思うときなど、たしかに全然関係ないことなどもでてくることができるのです。
5- 省略部
暗気があるとかないとか、比喩の言葉のイメージもありますが、ここでは、次の神の働きに行く以前に滞り立ち止まってときのことで、判断してしまったとき以前のことです。
6- 解説△○□
天の御中主の神を五感感覚に基づくウ次元の欲望としました。では葦牙のごと萌え騰る物に因りて成りませる神の名は天の御中主でないのはなぜでしょうか。欲望もいつでもきり無く勝手にでてくるものです。
欲望は欲望されたそのものを欲します。ですので、知的に何故欲しいのかに答えられず、これでなくあれにしたらどうかという選択には同意できず、きれいな音、美しい出来ばえというような感情を受け付けません。一見、「萌え騰る」という比喩には欲望も含まれそうですが、到底葦芽のように勝手にどこからでも次々にでてくるものではなく、事の始めに欲せられたものを欲するだけです。従って欲望の相手対象が変わると前のものはころっと捨て置かれます。
一方記憶の葦芽はいつまでも残り、勝手に、脈絡も無く、出てきたり消えたりしていきます。
また思い返す事ができたり一時的に忘れたり記憶したりできます。出てきたものをつなぎ合わせたりもでき、主に過去に足場を持っていますから、過去に関することはお手の物です。
過去を振り返ることなど到底欲望のできる芸当ではありません。三日前の欲望など再構築できません。
7- 凡例
大伴家持(おおとものやかもち)
初春(はつはる)の、初子(はつね)の今日(けふ)の、玉箒(たまばはき)、手に取るからに、揺らく玉の緒(を)
初春(はつはる)の、・事の始まりにあたって
初子(はつね)の今日、・いま現在を取り上げるには
玉箒(たまばはき)を手に取ると、・言霊の母の気(言霊母音行、心の各次元)を考えに入れるて
玉が揺れて音をたてます。・選ばれた言霊次元の生命から事を始めます。
8-注・・
玉は言霊母音行(次元の違いを示す)で人間性能の既に備わっている五つの心の命のことです。
緒は五つを貫き通すことであり、同時にその働きとなっている八つの父韻の貫く働きのことです。
五十音図の縦横の交渉から言葉の音が生れでてくる、つまりその人となることです。
首輪は、く・び・わ・で組んで(く)霊(ひ)の輪(わ)を創ることで、五つの母音行を頸椎に見立て、繋がり立ち上がっている御柱の比喩、現象を創造していく働きに、首輪の意味をかけたものです。(みとのまぐわい、三貴子の段)
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命の玉の緒の始まり。〇チョン。
「すなはちその御頸珠(みくびたま)の玉の緒ももゆらに取りゆらかして、天照らす大御神に賜ひて詔りたまはく、「汝が命は高天の原を知らせ」と、言依さして賜ひき。かれその御頸珠の名を、御倉板挙(みくらたな)の神といふ。」
「 御頸玉(みくびたま)とは頸に巻いた玉の事、その玉を糸で繋いだロザリーであります。また頸(くび)とは組(く)む霊(ひ)の意でもあります。言霊の事を霊と呼びます。言霊を組む事によって大和言葉が生まれます。御頸玉とは三種の神器の一つ、八坂(やさか)の勾珠(まがたま)と同様のものであります。「もゆら」とは辞書に「玉がゆれ動き、触れ合って鳴る音」とあります。そのロザリーを天照らす大御神に与えました。という事は言霊の原理を天照らす大御神に与えた事になります。そして伊耶那岐の命は天照らす大御神に「汝が命は高天原を治めなさい」と命令し、委任したのでした。高天原とは前にもお話いたしました如く、五十音言霊麻邇によって結界された清浄無垢な精神の領域の事を謂います。」
「 御倉板挙とは御厨(みくりや)の棚(たな)の意です。天照らす大御神の知しめす食物といえば言霊のことです。それを並べておく棚という事で五十音言霊図の事であります。天照らす大御神が父神、伊耶那岐の命から授かった御頸珠とは五十音言霊図、またはその原理だ、という事となります。」
⑦天照大御神の音図(+御倉板挙(みくらたな))
最高の精神原理は天照大御神に与えられました。この最高の五十音言霊図はどのように創られたのでしょう。それは、衝立つ船戸の神から上筒之男の神をとおしてで、その原型は、衝立つ船戸の神という禊ぎを始める前になった神です。
⑥衝立つ船戸の音図
衝立つ船戸の神という音図は客観世界を振り払って主観世界を成り立たせようとしたときにできたものです。従って客観世界の塵芥がこびりついているときの音図がありまます。
⑤健御雷之男の音図。
それは、健御雷之男の神で主観と客観の分離整理が十分にまだ行われていない音図です。冒頭にある「水母なす漂える」状態での音図です。ではこの音図はどこから来たのか。
④和久産巣日の音図。(+豊宇気びめ)
それは客観材料を整理しているときにできた音図からです。和久産巣日の神で示されています。材料の組み合わせは個々の原料があるからでその個々のげんりょうはどこからきたのか。
③音図以前。
大事忍男の神以下大げつひめの神までの個々の言霊神とその総体である火のかぐ土の神からきました。この段階では音図になる以前の個々の言霊の創世です。
②主客の舞台
では個々の言霊はどこから来たのか。
言霊の置かれる舞台場所となる客観領域と言霊を創る意思をもつ主観領域の両者の「島」とよばれる所を創造することによってです。(オノゴロ島と島生み)
①先天の働き。
では主客の舞台はどこか来たのか。
それは、冒頭十七神の先天的な働きによってできました。
◎
先天の働きはどこから来たのか。
伊耶那岐の大神からです。
0
伊耶那岐の大神以前はというと、先天以前を問うことで、それ以前はおとぎ話の世界です。
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○チョンと水母、暗気、クラゲ。
日月神示。
「チョンの中にまた〇があり、その〇に〇チョンがあり、々、々、々・・・」
〇チョンというのはなんでもありません。単に事の始めをいいます。事の始めにはその始めの事があり、その始めの事にはそのまた始めがあり、、、、ということです。
〇の取り方が各人各様、次元世界の違いからきた〇の意味が違ってくるだけです。
丸にチョンが入ったと言うのは一歩入った事を意味し、一歩の内容が人によって事によって違ってきます。
古事記で言えば、天の御中主が成った事です。夕食にカレーを食べたいと言うときでもあり、明日花見に行こう、三千世界は誰々が創造されたという考えが閃いた、現代は終末紀にはいったと考えると決め込んだとき、でもなんでもいいのです。年の始めなら十二月三十一日にチョンが入ったことで新年になり、「始めに〇ゝ(マルチョン・ス)がなくてはならん、〇ゝ(マルチョン・ス)は神ぞ。」となります。
至高神でも、宇宙神でもなんでもありません。丸チョンは至高神だというような人がいれば、その人がそう言うに至ったその事の始めをいうだけです。『国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、』なんだかんだと言うだけです。
何だかんだと言う人のことは放り出しておきましょう。
人の天与の性能としてそう言わざるを得ないという精神原理が存在する事が指摘されているのが重要なことです。
古事記も古文書も神示その他も、ひとの精神原理は解明されている、人類史上最高の精神原理が成立しているということを暗示しています。
まるチョンの暗示も同様です。精神活動の始めをいいます。古事記はそれを、〇からはじめてチョンが入ってまるチョンになって、それがまた、、、、、ということを説明しています。
日月神示やその他も、神武、崇神の経綸に沿って準備されてでてきたものでしょう。全て言っていることは同じで言霊原理の再構築をする時が来たと告げています。予言のような部分もありますが、言霊原理の習得に仕向けるもので各人にまず心の準備を促すものです。
言霊など関心がない者にはそれなりの心の準備を促し、言霊に関心のある者には問題になるだろう凶事を解決するための習得へ赴かすものです。決して高級霊になるだろうとか高次元の意識体になるだろうとかいうものではありません。
現代はちょうどピンチ、終末を感じる時代にあります。これが前段階の〇チョン・スです。
ここに人類の最高の秘宝である言霊フトマニが蘇りました。丸にチョンが入った所です。いまはただそこまでです。胎動が始まろうとしています。チョンが入ってすぐに事が起こることではありません。〇チョンの原理が隠されてから二千年経っているのですから。
これからのことは、人間側の主体の意思によります。ここでくじけて水母、暗気、を受け入れたなら、人類の未来はありません。水母の話しの次に来るのはウマシアシカビヒコヂの神です。この神は全人類の過去歴史を担当しています。つまりここで全過去と今後を見通せるだけの知識の確立がなければなりません。が、そのための歴史観がまだできていません。言霊学がいまだに為政者政治関係者に行き渡っていません。天皇からして何の動きもありません。
全世界的にいろいろな兆候はありますが、自然発生的にできたり無くなったりしているだけで、全世界を見通す思想がありません。ユダヤ、金融資本の欲望だけが全世界を相手に頑張っています。これは続いて知識学識界を巻き込み、,ついで宗教、芸術の自由世界を捕らえ、やっと政治行政関係の眼が覚める段階になるでしょう。
日月や一二三や古神道その他からも一切世界を統治することに関する見解が現れません。古代には大和が世界統治の中心でした。古代大和はそれができたのです。
古代においてそれができたのはひとえに、フトマニ言霊の学によって世界を手の平の中に置けたからです。現代なら交通通信が発達しているのですからより簡単になっています。神示を日本国内次元で扱っていては何の意味もありません。
人間世界の精神上のことはひとつですから日本人だけが特別ということはありません。日本が特別なのは人間精神を動かす思想、世界を動かす思想体系が日常使用している日本語となっていることです。
世界のどの言語も「穢き」(きたなき)、(禊ぎ前の言葉、)言葉で、きたなきとは、使用する言葉の内容、言霊の気(き)が、人間精神に則った整然とした五十音図の田(た)のようで無い(なき)ということです。精神の動きに則った言葉でないということです。
全世界の人間精神に通じる言葉は日本語しかありません。もちろんこれは日本語を世界語とすることではなく、精神の原理と日本語の原理が同一であることをいっています。(なかには日本語には主語が無く曖昧という方がいるはずですが、必ず主語が必要な言語の方が少なく、文法的に強制されていることが多い。主語の成立は己の心の島のオノゴロ島でまた。)
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尾っぽのオ
欲しいのは何故かと聞かれても答えようがない。本来具わっている性能なので魂の一番始めの次元ですが、この欲望を失いますと生きていかれません。この次元を言霊ウと申します。
次の段階が‘オ’の次元です。これに振り漢字いたしますと鼻緒の緒、または尾っぽの尾、知識と申しますのはかならず過ぎ去った物事を必ず思い返して、あれはどうしてだったのかというところから始まります。何か起きてしまったことを振り返る、原因と結果の繋がりを考えていく。命の玉の緒とも申します。
昔は生命のことを命の玉の緒と申しました。昨日はこうだった、今日はこうだった、記憶を辿って繋げていく、玉の緒が繋がっている内は生命がございます。昨日食べたものを忘れるくらいはいいですが、今食べたことも忘れてしまう、ボケ症状はその玉の緒が薄れてきてしまう。記憶の関連が途切れてしまう、そう説明いたしますといくらかお分かりになれるでしょうか。
尾っぽの尾と申しますのは、昔の家は窓格子がはまっておりました、窓外に水牛が横切っていった、部屋の中から見ると始めに頭が、次に胴体が、最後になかなか尾っぽは過ぎ去らなかった。それはどうしてか、という禅宗に無門関という問答の一つにございます。
格子戸から尾っぽが過ぎ去らない
この尾っぽを言霊オの知識としてとして良いほうに働けば科学という素晴らしい学問体系を築き上げますが、しかし、その科学は尾っぽであることに変わりはない。過ぎ去った経験を再構築してそこに理論化する。
三角はぶつかり合う
ですから学問というものは必ずぶつかるもの。言霊学で知識を表わしますと三角形、ぶつかるから三角なのではなくて、学問の構造を表わすと三角形になります。今の状態を正とします、それに違った状態を反、正と反を合わせようとして学問が起こりました。所謂、正反合の弁証法でない学問は何一つございません。
専門用語で申しますと上向きの三角は形而上、下向きの三角は形而下の科学、ダビデの星のマークになります。これを国旗にした国がイスラエルですね。カゴメですが、「篭目、篭目、篭の中の鳥は何時何時出やる♪」、あのカゴメです。その意味は知識を主にした社会の中から何時何時鳥が出やるということです。
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