・ 必然のように出てきたのですから。太安万呂は知ってはいただろうけれど古事記には書いておりませんから。それで古事記の役割を真っ当したんだ、ということで、あの時代に古代の高官の役人の墓が出てくることはないです。
それも太安万呂だけで名前が分かるようにね。そんなことを考えますとね、何千年前の歴史が、今、此処であるような、推理小説を読んでいるように面白いです。考えて見れば、何万年前だって今・此処なんですから。
今・此処の材料としてあるわけですから、その繋がりを釈けば、何万年前、何千年前になってしまう。そういう目で見ない限り不思議なことが起るのだな、としか思えないでしょう。私だって、八十禍津日から大禍津日から、この禍津を直さむとしてって、こういう文章が出てくる件には、かならず飛躍がある。
飛躍とは分っていてもその正体が掴めない。その時にハッと思い出した。太安万呂の墓が出てきた時に先生が主張した日本書紀の先天図をですね。日本書紀の先天図を見ますと八咫鏡の八角形の図ときちっと合っている。子音と八父韻と。古事記の先天図ではあれと直ぐには結び付かない。
・ 伊豆能売の目から見ればいかなる不幸も不幸であればあるほどお目出度いことなんです。意識の転換は闇と光というものとしか考えられない。不幸の中にいなければ表裏一体になった時に光にならない。反転さすのが八十禍津日の神なんです。
反転している内はまだ光は出てこない。そこで直毘が出て来る。反転してしまったら闇は消えなくてはいけない。私の先生が私に言ってくれたことがある。「空にならなければ空にはならない。けれど空になろうとしている間も空にはならない。」って。それと同じことなんです。
・ 八十禍津日(やそまがつひ)の神と大禍津日(おほまがつひ)の否定しないところが生きてくる。日によって言霊の世界へ渡す元になるんだという意味があるわけですから。八十禍津日の神で言えば、宗教的修業を積んだとしても、地獄から天国へは渡せないんだと知ることで渡せる。
そういうことを言うと皆さん引いてしまう。「そんなこと私に出来そうもないわ」って。そんなことないんですよ。聞いてくださればいいんです。聞かないで解らないということになると解らなくなってしまう。
それが各々の中にある三千年の業なんです。そこからどうしても抜け出なければなりませんから。三千年って言ったら何も出来ませんが、今・此処といえば一瞬ですから。その中にあるものを突き抜ける。
八十禍津日の神の八十というのは自我というものの確立を説かない。現象でもって自分を反省しようと。自己の確立という、所謂、天之御柱、国之御柱というものを説かない。それで八十教というのです。
西洋人には天之御柱、国之御柱というものをなかなか理解できない。人間の心の中にはズバーッと宇宙を貫いている剣、柱が立っているのだということを。そのあたりが難しいんですね。
・ それで黄泉国へ行って伊耶那美の神の実情を知った上で逃げて帰ってくる時に整理しながら千引の石で離婚します。整理する立場と整理される立場では永遠に一緒にはなれないんだと。永遠になれないものを自分のものとして人類文明というひとつのものを創っていくには、どういう言霊の活用法になるのだろうかと。
その検討が始まるわけです。その時にこうなるであろうという自覚された最後の心の構造、建御雷の男の神というものを自分が禊祓をする時に目標に行くガイドブックとして立てるわけです。それが衝立船戸の神。
大筋は出ても結論が先に分かってしまったら面白くないですから。あくまでもこれは覆面であって八十禍津日ではダメということになって「この禍を直さんとして」と言って、覆面を表面化する。だけでもまだ十分に出し切らない。
出て来る前の底中筒と綿津見、これら六神が出てきて初めてその正体が明らかになるような話方をして三貴子が登場する。「この禍を直さんとして」というのはあくまでも今までの流れの中であるものなんですよということで、直毘として伊豆能目として出してくる。
・ ここまでは心の葛藤として出て来るけれどもこれを完全にするためには衝立つ船戸の神を持ってこなくてはならないのですよということを言葉の裏で示すんです。話法の順序として分かろうとしているところを途中で分からしてしまったら分からなくなる。
建御雷の男の神として構造が分かってしまっているもの。これを伏せてしまって、ただこれを目標として掲げたんですよということだけを言っておいて、その掲げたものが何時、どのように姿を現すかの劇的な瞬間を八十禍津日においた。そこでパッと見せる。
それで今までは主観的のみに完成されていたものを客観的にも完成することが可能ですよという結論を持っていくわけです。ここまでしか出来ない人間が他のやり方ではどうにもならないことを自分の胸に秘めていた「この禍を直さんとして」でオープンする。
その内容は底・中・筒男の神、綿津見の神、ですよというこです。それが子音の並びで示すことになる。誰もぐーの音も出ない。従うより他なしということです。それが天津太祝詞の子音の並び方の同じ。あーでもこーでも、といっていたことが実にうまく最後にビシッと決まる。
・ 極楽のアというのと地獄のアというのは、行動ではまったく同じなんです。だけど、人生の意味はまったく違うんです。
戦うことを修羅と言います。でも野球なんかで、棒を持って相手の投げてくる球を打って戦う分には、これは極楽の業ですな。それを人がみんなおもしろがって見てる。だけど本当に棒でひっぱたき合いしちゃったら、これは地獄になります。行為は同じでも、そういうように違ってきます。
そのときに、人間の反省によって「自分はこういうようにひっぱたき合いしたんだなあ」といって、「にもかかわらず自分がいまこうやって生きてるじゃないか」と。そうすると、自分そのものは本当に地獄に堕ちちゃっているようでいて、実はその自分というものを温かい目で見てくださってそして生かしてくださっている、そういう存在の生命の尊さ。信仰で言えば神の尊さ、仏の尊さというものを知る。
それで、「あっ」と気がついたとき極楽に行くけれど、また元の木阿弥で地獄に下がる。また「ああ、生かしてくださってるんだな」って、感謝・報恩の気持ちが続くうちは極楽に行く。ふっとそれを忘れちゃうと、また地獄に落っこっちゃう。
で、これを八十禍津日(やそまがつひ)っていうんですが、古事記というのは言霊の学問であると同時に、言霊をどうして学べばいいかも、その裏でちゃんと教えてくださってるんです。「上に行ったり下に行ったりするのでは、禊祓はできませんよ」って。なぜならば、それは黄泉国に到る時の「汚垢(ケガレ)によりて成りませる神なり」と書いてあります。
だけど「その禍を直さんとして」っていって、神直毘、大直毘、伊豆能売という神様の名前が出てまいります。「神直毘(かむなほひ)、大直毘、伊豆能売(いづのめ)という神様として表されている境地に、人間はどうしたら行けるんだろうか」となると、皆目書いてないように見えます。だけど、ちゃんと書いてあるんです。
・ ここに「津日」という字があります。禊祓をするというときにはこれじゃあだめなんだけれど、個人の修行としては行ったり来たり行ったり来たりしてるうちに、八つの父韻の自覚が生まれてくる。津という字は渡すという意味ですから、「神直毘、大直毘の『ヒ』に渡してくれますよ」って、ちゃんと書いてある。
喜んだり嘆いたりした経験の中から、たゆまずそのことを続けていくうちに、あるときそれを、大直毘といいまして、究極において言霊の一音一音が「どういうように考えても合理的に構造を持ってるなあ」とわかる。
または、悩んだり喜んだり悩んだり喜んだりしてるうちに、しばし極楽に留まることができると、「ああ、ここの次元から見ると、実は地獄なんていうものはないのであって、あるとするならば、極楽というものを知らせるためにのみ存在するものなんだ」というようにわかったときに、ここに行きっぱなしになる。地獄は消えてしまう。
だから八十禍津日、大禍津日というのです。「個人的な修行としては、これを続ければいいんですよ」ということを教えてくださってるんです。その結果として得るものは、極楽の目でもって地獄を見る。
「嫌な次元だな」として見るんじゃなくて、「これも自分の体だな」として見るようになってくると、ここにもう禊祓は完成してくるんだよ、ということになってまいります。
極楽に留まっていて、地獄が全然自分に対して意識できなくなったとき、それが禊祓の完成の時です。意識できなくなっちゃうです。「昔みたいに地獄を見たいなあ」っと思っても見えない。なくなっちゃうんです。
だからコロコロコロコロ笑ってりゃあいいんです。「地獄にいるんだって?たいしたもんだね。いっぺん卒業するとなかなか行けないから、しばしそこにいたまえ」なんていうことになる。
・ そういう意味でインターネットはすばらしいです。もうここまで来たら隠す必要はない。第三のキーワード「言霊の会」の話をすると全部話しをすることになります。「言霊の会」が成長する従っていろいろなことが分かって来る。総結論は「光」だということになります。
地獄から光を見ている内は分からない。何故かって言うと地獄はないものです。コトタマの学問そのものをジーッと見ることによって、人間の存在を言霊の学問から見ていけば、当然光というものに行き着く。その光に精神のフォーカスを合わせば三千年の闇が一瞬にして消えます。
暗いところがあるからそれを生かしている光があるんだと…いう目で見るとそれは禍であると古事記に書いてあるんですから。八十禍津日(やそまがつひ)の神は駄目だよって。光は光として見なければって。
建御雷(たけみがづち)の男の神を掲げるでしょ。修業的には八十禍津日の神からではいけないんだって古事記は否定しますから、建御雷の男の神をジーッと見ることのみ光を見ることが出来る。真理は真理じゃないところから見るのではなくて真理は真理そのままに見るのだということを一月まえから教えられた。
・ 金毛九尾は言霊学でいう所の「八十禍津日の神」。八十禍津日の神の一番上を除いた九段が九尾。今までの世の中の一切ということです。天津日嗣天皇が出ない世の中。凡てのものにくっついている。俺という観念。自我意識にくっついている。自分が持っている自我そのもの。自我というのは他とは違う城みたいなものだと思うとそこにひっついてしまう。
本当の自我というのは「大我」となります。そうではなくプライバシーを重んじるのを「小我」といいます。天の御柱が立ってしまいますとそれは大我ではなくて神です。いろんな切れ目がありますから。次元によって違って来ますから。真理ということから観れば我はありません。「本当はそうだけど」と言って自分を主張する。そこに我が出て来る。
宇宙に主語はありませんから人間として主語を使おうとしますと我が出て来る。言霊以外の言葉というのはここではこうだが、あちらではこうだという意味が違って来る言葉ですから。
アの言葉の並びといいますのは、自分というものが無くなって宇宙と一つになった時に出て来る言葉。それを相手にドンとぶつけてみて相手が感動するのもよし、感動しないのもよし、それが相手のためになるかどうかは当てにならない。九拳剣になる。十拳剣になるのはイとエがないと出て来ない。
我というものを考えると何のことか分からなくなってしまうのですよ。「我」って何だって。もともとないものなのですから、ないけれど良い場合もある。我がないと野放図になりますでしょ。あった方がいいとなると大我とか小我とか区別が出てきてさもあるように思われる。言葉に囚われてしまう。そうなると何のことか分からなくなってしまう。
・ それでもね、集まってくる方はどんどん増えてまいりまして。集まってくる方の前で、困った顔しちゃいられませんから、のんきののんべでもってこうやって話してますけれども、心の底はね…。わからないことがあると、家に帰ったら毎晩ベッドの上にあぐらかいて、座禅と同じようにして、自分の心の中に神様をみつける。
八十禍津日の神なんてのはね、古神道布斗麻邇の学問の中にどうして「禍津日の神」なんていうのが出てくるんだろうと思って、いくら探してもわからない。でも、とうとうわかりました。二年ぐらい前に「禍津日の神」はよくわかりました。
それで、今年のはじめになりまして、三つの関門に行き当たった。どうしてもわからない。それはですな、神直日の神、大直日の神、伊豆能売という三つの神様の名前でございます。この神様が、わからない。
心の中にあることは確かなんです。絶対に確かなんです。なぜならば、それまでの90神っていうものは、心の中にあることをちゃんとみつけちゃったんですから。どこにあるかっていうことをちゃんとみつけちゃったんですから。90番目以後のものだけが外にある、なんていうことはありえませんから。この心のどこかにあることは間違いないんですけれども、皆目わからない。
・ 八十禍津日と申しますのはね、「嫌だなー」っていう自分の罪穢れが心に見つかりますでしょ。そうするとこれをですね、これを心の中から取り除こうとして一生懸命になるんですよ。まあ言いますとね、「あの野郎やな野郎だな」と思うと、そのやな野郎がなかなか取れない。「そんなこと、自分のことじゃない、他のことに、どうしてそんなに神経を使うんだ」って。
結局同じ因縁を持ってるからなんですな。だから「やだな」と思うなら、自分のその「やだな」と思うのを、「おまえはなぜそういうように『やだな』『やだな』と思うんだ」って問いかけて、「NO!」って言うんです。座禅でいうと「無」って言うんです。「NO!」って言おうがなんて言おうが、「へへん」ともしない。依然として心の中にどっかと腰を下ろして、「ざまあみろ」って。
それをですな、ずーっと続けていって。「これは絶対にこれ直らないや」って。「直らないんだな」って思うとですね、「その直らない自分がどうしてこうやって生かされているんだろう」って思います。
せっかくの人間としての御用を授かってるのに、そんないやらしいことが心の中にわだかまってて、自分のことを言うこと聞かせることもできない、こんな弱い人間が、どうしてこうやって生きてるんだろう。と思うと、生きてるということがですね、「なんとありがたいことか」ということになってきて、「ありがたいなぁ」と思うと、その嫌な癖がその瞬間だけスーッと消えるんです。
・ そういうことを続けながら生きてくると、「あ、そういうようにして消えていくことを八十禍津日というんだな」と、「そういう神様の働きがあるんだな」とわかってくる。
大禍津日っていうのはですな、八十禍津日と違いまして、議論なんです。わたくしはよく昔ですね、理科の勉強をしてたはずなのに、いつの間にか哲学をやり出しちゃいまして、それで、哲学をやってる最中に「弁証法哲学」というのにのめり込みましてね。
「弁証法哲学」っていうのはですな、わたくしがあることを正しいと思っても、他人が「それは違うよ。こうだよ」と言います。そうすると、自分の心が「正しい」と思っているとすると、そちらの人は反対ですね。だから、正、反とくるんです。正、反が相対立してたんじゃ、いいか悪いかがわかりませんから、そうすると、「これも成立させ、相手のこれも成立させる立場っていうものがないものか」というと、正、反、合となります。その立場をみつけると、「ああ、わたしとあなたと握手できるな」って。
このことを、大禍津日といいます。これも「ダメ」って書いてあるんですから。これでもダメだって。「これはもうやめとこう」と。「やめるよりほかないんだ」と。
・ そうするとその次に出てくるのがですな、「次にその禍を直さむとして成りませる神の名は、神直毘の神。次に大直毘の神。次に伊豆能売」ということになるんです。
「八十禍津日も大禍津日もダメなんだ」っていったら、「その二つの神様の名前は通用しない域に入ってきちゃったんだ」ってことがわかります。さあ、どうしたらいいんだろう。いままで、宗教的ないわゆる恩赦をいただくことによって解決したり、または、もう一段高い理論によっていままでの議論を抜け出してきたという、その方法も、「ダメだ」となった。
そうしたら今度はね、自分の持っているこの身体髪膚(シンタイハップ)をどうするか。「この心と体の汚れがひとつもない人間にならないかぎり、おまえの心の中から、神直日の神、大直日の神、伊豆能売は見つからないよ」って、通行止めの立て札を貼られちゃったんですから。
立て札を貼られてから三月になりますか。わたくしのところにちょくちょくいらっしゃる方は、わたくしがどんなにヘンテコに迷っちゃったか、おわかりだろうと思うんですけれども。自分でもおかしいほど、頭がヘンテコになっちゃった。
・ 全部が「有難い」の一言に尽きる。そう思いますと晴れ晴れとして、そういう経綸は二千年間の暗黒というけれど、暗黒そのものを見るのでなくて、暗黒によって支えられる光明を知っていてエとイを隠した。これが完全な経綸、「有難いな」に裏付けられて初めて皇祖皇宗の深謀遠慮が分る、自分のウとオの迷いが「有難い」と思われたときに天之御柱が立った時。
ということはイとエの次元からウ・オを観れば、感謝する高山の段にある、そうすると禊祓の八十禍津日、大禍津日、の禍(まが)を直さんとして、神直毘、大直毘、伊豆能売のウオエは短山(ひきやま)の段ではなくて高山の段にある天之御柱についての記述なんです。ここで暗黒と光明という対立がなくなって唯一光明の世界に入ったということになります。ウとオを「有難い」と思えるイの言葉、霊葉のこと、ようするに大和言葉なんだということ、世の中の万象に大和言葉で話すということは、それ自体が光である、霊葉である、その他に光があるわけではない。言霊で創られた大和言葉で物事を表現するということは、高天原の原理が立ったというわけです。
すべてはウオアエイの次元で物事を判断していきます、反省ばかりでは宗教ですから、宗教を通り越しての学問ですからそんなに難しくは無い。宗教的に考えるから迷うし難しくなる。ウオアエイと進んでいく道として言霊の学問を精進しますと易しい。自分と皇祖皇宗、自分と伊耶那岐、伊耶那美、他のものは視野に入れなくていいということ、この一ヶ月間で導かれた内容です。
今までの事をご破算にして組立てなおしたから分ったことです、この「有難い」の心境を二面で捉えないと分らない、一面は言霊の学問のウオアエイと進化する、もう一つは言霊の学問に則って経綸している皇祖皇宗の歴史が、何の狂いも無く人類の歴史を創造していっているということです。
・ それがエからイ、八十禍津日の神、大禍津日の神の「禍を直さんとして」の過程、「暗いところがあるから救われるんだよ」というのを残しながら、次に良い意味での尾と鰭がついてくれば、何か書けそうじゃないですか。
それを主体側と客体側からの消息としてウからオ、そしてアにシフトする心の過程で何が違ってくるのかを詳細に書けば、何か分ったような気がして来るでしょう。「あぁ、成る程そうなのか」って、勉強し易くなりますでしょ。それに託けて病気のこと、一人になりたいと思ったこと、みんな書くことになります。
今までの会報でそこの件だけを書かなかった、だから増刷号でもなんでもいい、添付すれば完成します。これが書ければ天下に対しての大号令、書けない間は機運でないということです。何かで表現しなければ自証にならない、そのように思っておりますから「そんなに遠からず」と言える。
私の心の中に火がポッと点ればそれは私の光じゃない、人類全体の光、人類全体の心の底に光が点った事になる。一番近いのはユダヤの心、彼等の心に火が点ることになる、そうでないとユダヤは苦しみ出します。
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