○ 精神元素 イ ヰ
○ 岐・美の神
○
○
精神元素「イ」、「ヰ」の言霊と古事記。 その 1 。
古事記神代の巻冒頭百神によって与えられた神名・
「伊耶那岐(いざなぎ)の神」 言霊 イ
「伊耶那美(いざなみ)の神」 言霊 ヰ
・神名の解。
先天構造を構成する十七の言霊の中の十五言霊が現われ、最後に伊耶那岐(言霊イ)と伊耶那美(言霊ヰ)の二神・二言霊が「いざ」と立上り、子音創生という創造活動が始まります。
・神名全体の意味。
最後に伊耶那岐(言霊イ)と伊耶那美(言霊ヰ)の二神・二言霊が「いざ」と立上る
現代では使われなくなりましたが、昔「去来」と書いて「こころ」と読み、また「いざ」とも読みました。伊耶那岐は心の名の気の意であり、伊耶那美は心の名の身という意味となります。心の名とは言霊の事です。
・言霊「イ」の意味。
言霊イ(ヰ)は一切の創造活動の元となる言霊であります。
------以下全文引用です。一言メッセージ欄にアドレスがあります-----
「大風が吹くと桶屋が儲かる」という話があります。一つの原因があると結果が現われる。その結果が原因となって次の結果が出て来る。……かくして因果は廻って果てしなく話は続くという事になります。
言霊ウの宇宙から社会の産業経済活動が現われます。言霊オの宇宙から学問という分野の活動が起ります。……では何故ウ言霊から産業経済活動が起るのか。……それは人間の根本智性である八つの父韻が母音言霊ウに働きかける事によって現象を生むからです。……では何故八つの父韻は言霊母音に働きかける事が出来るのか。話は何処まで行っても尽きないように見えます。
この次々に考えられる原因・結果の話に「止(とどめ)」を刺すのが伊耶那岐・伊耶那美二神の言霊イ・ヰであります。言霊イ・ヰは大自然宇宙を含めた人間生命の創造意志と呼ばれる一切の原動力であり、伊耶那岐・美の二神は宗教で創造主神または造物主と呼ばれているものに当ります。
そこで生命創造意志である言霊イ、ヰの意義・内容を次の三ヶ条にまとめて書いてみましょう。詳しい説明は次号に譲ります。
一、四言霊アエオウの縁の下の力持ちとなって、これ等言霊を支え統轄します。
二、人間の根本智性であるチイキミシリヒニの八父韻に展開して、四母音に働きかけ、人間の精神現象の一切を創造します。
三、生み出された現象に言霊原理に則った相応しい名前を付ける根本原理となります。
言霊イ・ヰは母音・半母音であり、同時に父韻となるものでありますので、特に親音と呼びます。
一、言霊イは他の四母音言霊エアオウの縁の下の力持ちの如くこれ等言霊を支え、統轄します。
母音エアオウの精神宇宙からはそれぞれに特有の精神現象が生れます。次元ウの宇宙からは五官感覚に基づく欲望性能が、次元オからは経験知識という所謂学問性能が、次元アの宇宙からは感情性能が、そして次元エの宇宙からは実践智という人間性能が生まれます。これら現われ出た人間性能の現象は言霊ウの欲望現象より社会的に産業・経済活動、言霊オより一般に学問・物質科学が、言霊アより感情、引いては宗教・芸術活動が、言霊エより実践智、またこれより政治・道徳活動が現われます。しかし言霊イの創造意志の宇宙からは現実世界に現われる何らの現象もありません。
けれど今、此処で活動する人間の心をよくよく観察しますと、言霊ウオアエよりの現象の底に、それらの現象を縁の下の力持ちという言葉の如く下支えしている生命創造意志言霊イの力があることに気付きます。言霊ウの五官感覚に基づく欲望性能が現われるのも、その底に言霊イの生命創造意志が働くからです。言霊オの記憶を想起してその現象の法則探究即ち好奇心が起るのも、その底に生命の創造意志が動くからであり、言霊アの感情性能が現われるのも創造意志あっての事であり、更に言霊エの実践智性能も創造意志が動いて初めて発現して来ます。このように言霊ウオアエから起る諸現象はすべてそれぞれの母音宇宙の底に言霊イの生命創造意志の力が働く事によって発現して来る事が分ります。言霊イは右に示しますように言霊ウオアエを縁の下の力持ちの如く下支えし、統轄します。
第二ヶ条の説明に入ります。それは「言霊イは人間の根本智性であるチイキミシリヒニの八父韻に展開して、四母音宇宙ウオアエに働きかけ、これ等四次元からそれぞれ八つの現象の単位を、即ち全部で計三十二の実相の単位を創生する」ということです。この第二ヶ条は第一条の「言霊イが他の四母音ウオアエを下支えし、統轄する」という事を更に詳細に説明し、その上で母音と半母音であるウとウ、オとヲ、アとワ、エとヱの宇宙の間に入ってその両者を結び、それぞれの次元の現象の単位を誕生させる(言霊イの働きである)八つの父韻チイキミシリヒニなる人間天与の根本の智恵をクローズ・アップさせる説明となります。言葉がやゝ難しくなりましたが、平たく述べますと、「人間はどの様にして外界の出来事を、それが現象として認識することが出来るのか」という人類の認識論という学問が始まって以来数千年間、いまだかって完全な解明がなされていない大問題に最終的な解答を与える素晴らしい事柄を提示したものなのです。こう申上げても何の事だかお分かり頂けないかも知れません。順次説明して参ります。
向うのお寺の鐘の音が「ゴーン」と鳴りました。何故人の耳に「ゴーン」と聞こえたのでしょうか。「そんな当り前の事を言って何になる。お寺の鐘を坊さんが撞いて音が出た。その音を人が耳の聴力で聞いたのだ」と言って納得してしまう事でしょう。けれどそう簡単に片付けてしまえない事があるのです。棒で撞かれた鐘は果たして初めから「ゴーン」という音を鳴らしているのでしょうか。撞かれた鐘は振動して、その振動による音波を出します。鐘はただ無音の音波を出しているだけなのです。そしてその音波が人の耳元に達したとき、人は「ゴーン」という音を聞く事となります。この経緯を合理的に説明するにはどうしたらよいのでしょうか。そこに言霊学独特の八父韻が登場します。
人がいます。
向うに鐘があります。
鐘が鳴ったとしても、人がいなければ鐘がなったかどうか分りません。
逆に人がいたとします。
けれど鐘が鳴らなかったら、人はその音を聞く事はありません。
どちらの場合も主体と客体の関係となることはない訳です。
鐘が鳴り、その音を人が聞いた時、聞いた人が主体(言霊ア)、聞かれた鐘が客体(言霊ワ)の関係が成立します。
けれど主体であるアと客体であるワは母音と半母音であり、「身を隠したまひき」であり、その双方共に相手に働きかける事はあり得ません。
双方だけではその間に現象は起らない事になります。
「人が鐘の音を聞いた」という現象が生じるのは、主体アと客体ワの他に、根源的な宇宙生命の創造意志である言霊イ(ヰ)の実際の働きをする人間の根本智性である八つの父韻の為す業なのです。
八つの父韻が主体と客体を結んで現象を起こす事となります。
では八つの父韻はどんな形式で主体と客体を結びつけるのでしょうか。
主体と客体が結び付く時、能動的なのは主体であり、先ず主体側から客体に向かって問いかけをし、客体側は主体の呼びかけにのみ答えます。
この事を父韻の働きではどういう事になるのでしょうか。
八つの父韻チイキミシリヒニは作用・反作用の関係にあるチイ・キミ・シリ・ヒニの四組から成ります。
この四組の中で、濁音が附けられる音チキシヒが主体側の父韻であり、濁点が附けられないイミリニの父韻が主体側よりの呼びかけに答えるものです。
主体と客体だけでは決して現象は起りませんが、その間に八父韻が入り、両者を仲介し結びますと、主体と客体の間に現象が生れます。
その時、主体と客体の間に入る八父韻の中で、主体側の客体側への問いかけの働きとなるのはチキシヒの四父韻であり、その問いかけに答えるのが客体側のイミリニの四父韻という事になります。
主体側の問いかけである父韻チには客体側のイが、父韻キにはミが、父韻シにはリが、そして父韻ヒにはニが答える事となり、その答える時現象が生れます。
このチに対してイ、キに対してミ、シに対してリ、ヒに対してニが反応し、答えること、それを主体と客体のリズムの感応同交というのであります。
先に言霊父韻の説明の所で、八つの父韻が四つの母音に働きかけて計三十二の子音言霊を生むと申しました。また主体と客体のみでは現象は起らないが、主体と客体との間に八つの父韻が入り、主体と客体とを結ぶ時、三十二の現象の単位である子音を生むと申しました。
その子音を生むメカニズムを、八つの父韻の陰陽の二つの働きに分けて更に詳細に正確に説明した事になります。お分かりいただけたでありましょうか。
上の説明を更に整理してみましょう。
人間の心にはそのそれぞれより現象が生れるウオアエの四母音の次元があります。
言霊イの次元は、それ自体からは現象を生むことのない縁の下の力持ちの次元です。
ウオアエの四次元はそれぞれウヲワヱの四つの半母音宇宙と主体と客体の関係にあります。
このウ―ウ、オ―ヲ、ア―ワ、エ―ヱの四対の主客対立の間にチイキミシリヒニの八父韻が、言い換えますと、主体側のウオアエにチキシヒの四父韻が働きかけ、客体側のウヲワヱにイミリニの四父韻が寄って行き、そこにチイ、キミ、シリ、ヒニの陰陽のリズムが作用・反作用の感応同交を起す時、初めて次元ウオアエの四界層に現象が起る事となるのであります。
この事を言霊イ・ヰを観点として簡単にまとめて見ますと、図の如き構造が完成します。
人間の生活一切の営みは、次元ウ―ウ、オ―ヲ、ア―ワ、エ―ヱの主客の感応同交による四次元界層の現象でありますが、同時にそれは創造主神と呼ばれ、造物主と宗教界で崇められる人間生命意志(言霊イ・ヰ)の根本活動である言霊父韻の働きに依るのである、という事であります。
人間の一挙手・一投足の動きはその奥にこの様な大きな内容を秘めているという事を忘れてはなりません。
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精神元素「イ」、「ヰ」の言霊と古事記。 その 2。
------以下全文引用です。一言メッセージ欄にアドレスがあります-----
人が鐘の音を聞く、という現象に加えて、もう一つ例を挙げてみましょう。
人がいます。向うに青い葉の茂った高い木があります。
普通の常識から言えば、木があり、それを人間の眼の視覚が捉えたという事になります。
この簡単な事も心の根本構造である言霊学の見地からすれば、人それ自身は純粋な主体であり、樹それ自体は純粋な客体であり、この両方だけでは両者の間に現象は起り得ません。
そこに人間の精神生命の根本の創造意志(言霊イ・ヰ)が働き、両者間を取り持つ時、初めて現象が起ります。
ここまでは前例の人と鐘との場合と同じです。この現象を更に細かく説明しましょう。
人と木との間に起る現象には四次元、四種類の可能性があります。
先ずウ次元の現象が考えられます。
人間と木との間に考えられる現象としては、この木の高さは、また人と木との間の距離は、幹の直径は、……等々の問題です。即ち人間の五官感覚意識に基づく問題です。
次にオ次元の現象と言えば、この木は学問的には何科に属する植物か、常緑樹か、落葉樹か、木材として利用の可能性の有無等々が考えられます。
アの次元では、この木の写真の芸術的価値を出すのは朝焼け、昼間、夕暮のどれが効果的か、風にそよぐ枝の葉擦れの音の音楽的効果如何……等々でありましょう。
そしてエ次元の問題としては、車の往来が激しくなり渋滞が起っている。この木を切り倒してでも道路を拡張すべきか、どうか、等が考えられます。
以上、人と木との間に起り得る現象は四種類が考えられるのですが、それ等四種類の現象は人間が生来授かっている性能がそれぞれ違っておりますから、人と木との間に入る人間の根本智性である八つの父韻の並びの順序も当然違って来る事が考えられます。
言い換えますと、人間天与の四性能を示す四母音(ウ―ウ、オ―ヲ、ア―ワ、エ―ヱ)に対して、生命意志の働きである八父韻はそれぞれ相違する配列を以って対応、感応することとなります。
これも言霊イ(創造意志)の霊妙な働きであります。
これまで伊耶那岐の神(言霊イ)の内容の第二について長く説明をして参りました。
そろそろ言霊イの働きの第三点の話に入ることにしましょう。この第三点は「第二点の働きによって生み出された現象に、言霊原理に則り相応しい名前をつける」事であります。
この第三点は誰も気付かない事で、しかも言われてみればいとも当然の事とも思われ、それでいて人間の生命の営みひいては人間の文明創造の仕事に大変重要な意義を持つもの、と言う事が出来ます。説明して参りましょう。
言霊イ(ヰ)は人間の生命創造意志の次元であります。創造と言いますと、現代人は普通言霊ウ次元の産業・経済活動に於けるビルや道路、飛行場、船舶などの建設、建造を、または言霊オ次元の学問社会に於ける新学説の発見・発表などを思い出すのではないかと思います。更にまた言霊ア次元に於ける諸種の芸術活動、音楽・絵画・彫刻・小説等々の創造、その他各種スポーツの振興等も同様でありましょう。また言霊エ次元に於ける新しい道徳理念の発表、政治倫理の発見等も創造行為と言う事が出来ます。
上に羅列いたしました各次元の活動・行為がすべて社会の中の創造である事に間違いはありません。この誰も疑いを差し挟むことがない事実であることが、若し「○○がなかったとしたら」という前提を許すとすると、それ等すべての創造行為が一辺に「無」に帰してしまうという、その様な前提がある事にお気づきになる方は極めて少ないのではないでしょうか。
「そんな魔術のようなものがこの世の中にある筈がない」と思われるでしょう。けれど極めて真面目な話、それは厳然と存在するのです。それは何か、「名前」です。貧しい家庭の中でも、今ではエアコン、テレビ、携帯、パソコンなどの科学製品は当り前のように見られる世の中となりました。その内部の機械構造は分らなくても、大方の人は操作が出来ます。けれどこれ等の電化製品が発明された時、若しそれに名前が付かなかったらどうなったでしょうか。「テレビジョン」という名前が付けられなかったら、ただ人は「アー、アー」というだけで、テレビの普及どころか、それは世の中に存在しないのと同じで終ってしまうのではないでしょうか。
「何を言い出すかと思ったら、そんな途方もない事を。名が付かないなんて事はある筈がない」と言われるかも知れません。発明されれば、その物品に名前は付けられるでしょう。でも若し付けられないとしたら。……SF小説のような恐ろしい世界が予想されもするのではないでしょうか。
物品に対してではなく、この世に生を受けた人間に名が付けられなかったら、どうなるでしょうか。その人には戸籍がありません。国籍もありません。小学校にも入れません。就職も出来ません。正式な結婚も絶望です。その人の一生は奇想天外なものになるでしょう。「そんな有りもしない事を何故言うのだ」とお叱りを受けるかも知れません。けれど私はそういう自分の名前を持っていない人を一人知っています。先の大戦に出征し、軍隊の仲間は全部戦死し、自分だけ一人日本に帰って来た時は、自分を知っている人はすべて死んでおり、自分の名前も戦死という事で抹殺されて、法務省へ再三の戸籍復活の請求にも「事実を証明する人なし」という理由で却下され、苦悩の中から余生の五十年間を今も尚生きている人を一人知っています。その人がどのような人生を歩まれて来たか、聞く人がいたら多分開いた口が塞がらない事でしょう。
名前がなかったら、という仮定の事について長々とお話しました。人でも物でも、その名前というものは、私達が普段思っているより遥かに重大な事を含んでいるのです。二十世紀のヨーロッパの有名な哲学者、ハイデッガー、ヤスパース等の人達は「物事の実体とは何か、それは名前だ」と言っています。新約聖書、ヨハネ伝の冒頭には「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。この言は太初に神と共に在り、万のものこれに由りて成り、成りたるものに一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命あり、この生命は人の光なりき。……」と説かれています。
上のように物や人の実体であり、生命であり、光でもある名前を命名する根元的な役割、力、生命は何処から出るのでしょうか。それが言霊イ(ヰ)であり、言霊イの第三番目の重要な働きという事が出来ます。八つの父韻が四つの母音に働きかけて生れて来る種々の現象に、それに相応しい名前を与え、この人間社会の生々発展の基礎的役割を果たす事、それが言霊イの第三の内容であり、役目なのです。
言霊母音ウオアエの四次元から生れて来る種々なる建設、発見、発明、主張、学理、理念、これ等は勿論社会の創造物であります。そしてその様な社会の創造物相互の関連ある進展が文明社会の創造発展と言うべきでありましょう。と同時に、それら生み出された現象上の進歩・発展の創造物に名前をつけること、そしてその名前と名前の関連する精神的発展、これも人類文明の限りない発展の実体ということが出来るのであります。
人類社会に創造される物事につけられる名前自体の限りなき発展、それが人類文明の創造という事が出来ます。
以上で言霊イ(ヰ)の三つの言霊学的内容についての説明を終えることといたします。この三つの内容について復習をしますと、――
●第一に言霊イは母音ウオアエ四宇宙の最終・最奥の次元に位して、これら四つの母音宇宙の縁の下の力持ちとなって統轄します。
●第二に八つの父韻に展開して、母音ウオアエに働きかけ、三十二の現象子音を生みます。
●第三にその生まれ出た三十二の最小の現象の実相単位のそれぞれを一個乃至数個結び合わす事によって生まれ出る現象に名前を付けます。
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精神元素「イ」、「ヰ」の言霊と古事記。 その 3。
------以下全文引用です。一言メッセージ欄にアドレスがあります-----
伊耶那岐(いざなぎ)の命・言霊イ、次に妹伊耶那美(いも・いざなぎ)の命・言霊ヰ。
古事記は精神の先天構造を説明するに当り、先ず意識の初めとなる天の御中主の神・言霊ウから始まり、それが主体と客体である高御産巣日の神・言霊アと神産巣日の神・言霊ワに剖判しました。剖判活動は更に続き、高御産巣日の神・言霊アは天の常立神・言霊オ、更に国の常立神・言霊エと剖判し、客体である神産巣日の神・言霊ワは宇麻志阿斯訶備比古遅の神・言霊ヲ、更に豊雲野の神・言霊ヱと剖判します。更に主体と客体とを結んで現象を発生させる八つの父韻が現われます。
さて此処で考えてみましょう。言霊ウアオエと言霊ワヲヱは母音宇宙、半母音宇宙として厳然と実在するものでありますが、その宇宙の方から仕掛けて現象を現わすことはありません。このことは以前お話しました。とするならば、ウの宇宙からアとワの宇宙に剖判したり、父韻が主体と客体を結び付けて現象を起こすという活動の力は何処から出て来るのでしょうか。そこに先天構造の最後として現われるのが伊耶那岐(いざなぎ)・伊耶那美(いざなみ)の二神(ふたはしら)、言霊イ・ヰであります。先天構造十七神の十五神が出揃い、最後に「伊耶」として登場する神、それは言葉の如く「いざ」と創造する神であります。即ち母音・半母音宇宙を剖判させ、また主体と客体の宇宙を結んで現象を生ぜさせる八父韻の働き、そのすべての力はこの伊耶那岐、伊耶那美の言霊イ・ヰが原動力なのであります。
以上のことを踏まえて人間精神の先天構造図を完成させますと図の様になります。人間は一人の例外もなく図に示されます十七個の言霊の活動によって人間生活の一切の現象を生み出し、創造して行きます。
言霊イ・ヰだけが他の母音ウアオエと半母音ワオヱと異なり、親音と呼ばれることをお話しました。言霊イ・ヰは他の母音・半母音とどのように違うのでしょうか。この事を考える事によって、読者の皆様が多分、夢にも思わなかった真実に気付かれることでしょう。その事を含めて言霊イ・ヰ親音の働きについてお話を進めて行きましょう。
言霊イ・ヰが現われたことで、母音アオウエイ、半母音ワヲウヱヰのすべてが出揃いました。母音と半母音が結ばれて子音である現象が生まれます。
ウ・ウの母音・半母音宇宙からは五官感覚に基づく欲望現象が出て来ます。言霊オ・ヲが結ばれると経験知現象が生まれます。ア・ワの結合からは感情現象が生まれます。エ・ヱが結ばれて実践智現象が生じます。
では言霊イとヰが結ばれると何が生まれるのでしょうか。イ・ヰの次元に於いては目に映る現実の現象は何も生まれません。現実的には何も現われることはありませんが、実はイとヰが結ばれると、チイキミシリヒニの八つの父韻が活動を起こし、それがウオアエの四次元のそれぞれの母音・半母音を結び付け、欲望現象、経験知現象、感情現象、実践智現象を起こすこととなります。
言い換えますと、イ・ヰ次元の活動はそれだけでは後天的な現象は起こりませんが、そのイ・ヰの働きである八つの父韻がイ・ヰ以外の四段階の母音・半母音を結んで、それ等四段階の現象を起こすのです。そこでイ・ヰの言霊を創造意志と呼ぶのであります。
この創造意志の性能は飽くまで先天構造内の活動であって目に映ることがなく、“縁の下の力持ち”となって他のウオアエ(ウヲワヱ)次元の現象を生み、この四次元を統轄しているのであります。言霊イ・ヰは他の四次元の母音宇宙より起こる現象を創造します。そのことから申しますと、次のように言うことが出来ましょう。
ウの宇宙から起こる欲望現象も、実はイ・ヰの創造意志性能が働くからであり、オの経験知現象も創造意志が縁の下の力持ちとして働くからであり、アの感情現象もイの生きようという創造意志あるが為であり、エの実践智が働くのも、イの創造意志活動のお蔭である、ということが出来ます。
言霊五十音図の中から十七の先天言霊だけを書いた図を想像してみて下さい。言霊イ・ヰの親音は縦にアオウエイ、ワヲウエヰの母音、半母音をそれぞれ統轄しています。また横に自らの働きである八つの父韻を以ってアオウエ、ワヲウヱのそれぞれの段を結び、アオウエ四つの段階のそれぞれの特有の現象を創生します。(創生した三十二の子音が森羅万象構成の単位となります)親音イ・ヰはこのように人間精神の全活動の原動力となる創造意志の本体でありますが、それ以外にもう一つ重要な役目を果たしているのです。普段人々が全く意を留めていない創造意志の性能について今より触れることといたします。
それは何か。自ら創生したものに名を付けるということです。どんなものを創造しても、それに名が付かなければ、ただ「あー、あー」と言うだけで、それがないのと同様です。そのものに適当な名前がついて初めてそのものは世の中の時処位が定まります。世の中から認知されます。大きく言えば人類文明の一つとして認められたことになります。この重要な役割を言霊イ・ヰが担っていることに気付く人はそれ程多くはないでしょう。この重要な役割を一手に引き受けているのが言霊イ・ヰの親音なのであります。親音イ・ヰの働きを箇条書きにまとめてみましょう。
一、親音イ・ヰは人間精神の天之御柱(アオウエイ)、国之御柱(ワヲウヱヰ)を音図の縦に統轄し、
二、言霊イ・ヰは親音として自らの働きであるチイキミシリヒニの八父韻を音図の横に展開してアワ、オヲ、ウウ、エヱの四段階の母音・半母音を結合させ、合計三十二の現象子音を創生し、森羅万象一切を生み出します。
三、創生した一切のものに、自らの所有である言霊五十音を駆使して、そのものに最も適した名前をつけ、社会に於ける時処位を定めます。
以上、宗教において最高主神と崇められ、言霊学においても一切の言霊活動の原動力である言霊イ・ヰの性能についてお話いたしました。
精神の先天構造を構成する十七の言霊の最後の伊耶那岐・伊耶那美の二神、言霊イ・ヰが出揃いますと、「いざ」と創造意志が働き、先天構造が活動を開始します。それによって言霊イ・ヰの実際の働き手である八つの父韻が四組の母音・半母音に働きかけ、主体と客体を結んで8×4=32で、合計三十二個の後天現象の単位・要素を生みます。現象子音の創生です。言霊学でこの現象を「子生み」と申します。
先天構造の話が終りますと、次に「子生み」の話に移ることとなりますが、先天構造は言霊学すべてに対して「始め」の役割を担っています。先天構造の内容とその働きがよく分かりませんと、後天構造の内容を理解する事が難しくなることが多々起こって参ります。そこで「子生み」の話に入る前に先天構造の理解を深めるために、もう一度復習をしておくことにしましょう。宇宙剖判の順序に従って十七先天言霊を並べますと、上の図となります。このような先天構造の配列を天津磐境(あまついはさか)と呼びます。天津は先天の意。磐境(いはさか)は五葉坂(いはさか)の意です。図をご覧下さい。先天図は五段階の言葉の層になっています。これを五葉坂(いはさか)と書き、磐境(いはさか)とまとめました。全体で天津磐境(あまついはさか)です。
次に先天構造の母音、半母音、八父韻をそれぞれを主体、客体、底辺とした五十音図の枠を作ります(図参照)。向って右の縦の母音の並びを天之御柱(あめのみはしら)と呼びます。アオウエイの縦の並びは主体を表わします。向かって左の縦の半母音の並びを国之御柱(くにのみはしら)と呼びます。客体を表わします。次に天之御柱と国之御柱とを結ぶ横線のチイキミシリヒニの八父韻を天之浮橋と呼びます。
アオウエイの五母音が縦にスックと立った姿、五重、これが人間の心の住み家です。家(五重)の語源となります。五母音がかく並んだ人間の自覚態を、五尺の柱として伊勢神宮には本殿床上中央の床下に祀られています。心柱、忌柱(いみはしら)、天之御量柱(あめのみはかりばしら)などと呼ばれます。神道ではこれを「一心之霊台、諸神変通之本基」と呼んで尊んでいます。「一切の現象はこれより発し、終わればまたここに収まる」と謂われます。
広い広い心の宇宙の中に何かが始まろうとする兆し、言霊ウから次第に宇宙が剖判し、更に宇宙生命の創造意志という言霊イの実際の働きである八つの父韻が他の四母音宇宙に対する働きかけの話となり、心の先天構造を構成する十五の言霊が揃い、最後に母音であり、同時に父韻ともなる親音と呼ばれる言霊イ(ヰ)が「いざ」と立ち上がる事によって先天十七言霊が活動を開始することとなる人間精神の先天構造の説明が此処に完了した事になります。この十七言霊で構成される人間精神の先天構造を図示しますと次のようになります。この先天構造を古神道言霊学は天津磐境と呼びます。
この名前を説明しましょう。天津は「心の先天宇宙の」意です。磐境とは五葉坂の意、図を御覧になると分りますように先天図は一段目に言霊ウ、二段目にア・ワ、三段目にオエ・ヲヱ、四段目にチキシヒイミリニ、五段目にイ・ヰが並び、合計五段階になります。五葉坂とは五段階の言葉の界層の構造という意であります。
人はこの心の先天構造十七言霊の働きによって欲望を起こし、学問をし、感情を表わし、物事に対処して生活を営みます。人間何人といえども天与のこの先天構造に変わりはありません。国籍、民族、住居地、気候の如何に関らず、世界人類のこの心の先天構造に変わりはありません。この意味で世界人類一人々々の自由平等性に何らの差別はつけられません。人間は一人の例外もなく平等なのです。またこの意味に於いて人類を構成する国家・民族の間に基本的優劣は有り得ません。また人類がその「種」を保つ限り、この先天構造は永久に変わることはありません。この先天構造に基本的変化が起ることとなったら、その時は人間という「種」が人間とは違った異種に変わってしまう事となります。
ここまでの説明で心の先天構造を構成する十七言霊の中の十五の言霊が登場しました。言霊母音と半母音ウアワオヲエヱ七音、言霊父韻チイキミシリヒニ八音、合計十五音となります。そこで最後に残りました言霊イ・ヰ即ち伊耶那岐・伊耶那美二神の登場となります。その説明に入ることとしましょう。
この天津磐境と呼ばれる心の先天構造は人間の心の一切の現象を百パーセント合理的に説明する事が出来る唯一の原理であります。人類社会の後にも先にもこの原理に匹敵する、もしくはこれを凌駕する原理は出現し得ない究極の原理であります。古来伝わる宗教・哲学の書物の中にはこの天津磐境の原理を象徴・呪示するものがいくつか認められます。その一つ、二つについてお話をすることにします。
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精神元素「イ」、「ヰ」の言霊と古事記。 その 4。
言霊で検索すると実に多くの結果に合う。
言霊といっても多様で、古文献を持ち出すのから、音声波動だとか、降霊だとかまである。
それぞれ工夫を凝らして、商売にしている者や、教祖みたいな者や、感心し納得し素晴らしいと言うだけの者や、癒しを与える言霊、力の籠もった言霊だとかを胸の内に隠している人もいる。
要するにそれぞれが相対的に見られていて、このブログもその中の一つなのだろう。寄って立つ立場をはっきりさせたくとも、貧弱な意志と理解しかない。わたしの理解と書き方がそんな調子だから何をか言わんである。情けないことだ。
このブログは引用が多く、またそれを明示していないので、引用された方が迷惑しているかもしれない。だからといって自分の意見とか主張だとか言って見解を綴るのは言霊学にならない。自己主張だ、個性だ、自分の考えだと言って言霊と称するのは、言霊ではなく事魂(ごとだま)でしかない。
ここでもまた、一言メッセージ欄より本物を尋ねるように言うしかない。
わたしが勝手に引用して、勝手にやっている言霊学を紹介しておこう。
近年での事の始まりは次のようになっています。
http://wiki.livedoor.jp/niwaka368/d/%CC%C0%BC%A3?%B9?%A2%B8%C0%CE %B5%E6%A4%CE%C0%E8%CA%DC
『 明治天皇、言霊研究の先鞭
第十代崇神天皇により言霊の原理の政治への適用が廃止され、世の人々から言霊の原理の存在は次第に忘れ去られていったのですが、その後の歴史の中で、その行跡や遺された文章などによって言霊の原理を明らかに、またはある程度知っていたと思われる人々の名前を挙げることが出来ます。「古事記」を撰上した太安万呂、日本書紀撰上の舎人親王、その他役小角、柿本人麻呂、菅原道真、空海、日蓮等々です。
これらの人たちが遺された行跡や文章から、言霊のことをどのように表現していたかを考察するのは興味溢れる問題ではありますが、紙数の関係上、今回は省略することに致します。
近代になって初めて言霊の原理の存在を知り、言霊研究の先鞭をつけられたのは明治天皇であります。天皇のお歌の中には「敷島の道」とか「言の葉の誠の道」という言葉が数多く見られますが、これらの言葉は、現在世の中でいわれているような単なる三十一文字の和歌の道のことではなく、言霊の原理を指したものなのです。
明治天皇の御製に次のような歌があります。
聞き知るはいつの世ならむ敷島の大和言葉の高き調べを
しるべする人をうれしく見出でけり我が言の葉の道の行手に
天地を動かすばかり言の葉の誠の道をきはめてしかな
古代においては三十一文字の和歌は、ただ単に事物や感情を歌うだけでなく、その中に言霊の原理を巧みに織り込むことによって言霊の原理(布斗麻邇)の修行を積む方法であったのです。万葉集から古今集までの和歌にはそのような歌が幾多発見されます。
明治天皇の皇后となられた昭憲皇太后が一条家よりお輿入れの折、そのお道具の中に言の葉の誠の道に関する書物が入っていて、天皇は皇后と共に言霊の存在に気付かれた、と伝えられています。明治天皇が日本民族の伝統である言の葉の誠の道(言霊布斗麻邇)の真理に精通しようといかに希望されていらっしゃったか、前記のお歌がよくそれを物語っているように思われます。
明治天皇・皇后お二方の「古事記」上つ巻に基づく言霊学研究のお相手を務めたのが、山腰弘道氏(旧尾張藩士、皇后付きの書道家)でありました。氏は筆者に言霊学を教えてくれました小笠原孝次氏の、そのまた先生であった山腰明将氏の父親であります。
太平洋戦争後に亡くなられた山腰明将氏の遺された文章の中に、「古事記」の神代の巻に出て来る神様の名前がそれぞれアイウエオ五十音の一つ一つと結び合わされていました。前に説明したことですが、「古事記」の神様の名前と五十音の一つ一つを結び付ける作業は一人や二人の人の研究だけでは到底出来ない言霊学の奥義でありますので、この奥義は、多分長い間宮中に秘蔵されていたものであろうことが推測されます。
山腰氏の学問を受継いだ小笠原孝次氏の生涯をかけた研究によって、その時までは全く信仰的・哲学的でありました言霊の学問が、現在に生きている人間の心の学問として、考える人間の心の構造を明らかにした精神の科学としてまとめ上げられたのでした。
日本語を話す人ならば誰しも、自分の心を反省してその心の仕組みを考えていけば、必ず到達することが出来る精密な学問体系として完成されたのでした。
希望する人ならば誰でも、古代の日本人の祖先がそうであったそのままの姿で、人類の第一の文明の真髄であった精神の原理をマスターすることが出来るようになりました。アイウエオ五十音言霊の原理は、二千年の暗黒の歴史の中から不死鳥のように蘇った、ということが出来るでありましょう。』
ついで、
古事記の神々との関係はどうなるのかというと次に引用します。皇室、神道、神社と古事記の間柄を言うのでなく言霊学ととの関係ですので余計なことは考えることはありません、前もって。
●『 神様の名前
古事記はチという父韻に対して、宇比地邇神(ウヒヂニノカミ)という名前を当てております。少なくともチということに対して宇比地邇という神様の名前を、太安万呂さんは指月の指として当てたのです。宇比地邇の神様なんて神様いないんですからね。どこにもいないんです。それをよくご承知になっていただきたいと思います。
宇比地邇というのはですね、日本の古代の邇々芸(ニニギ)王朝の天皇の名前なんです。その名前をこうやって引っぱってきちゃった。「チに対しての説明に、この名前が誠に都合がいいから」っていって引っぱってきちゃった。縦横無尽に引っぱってくるんですから。島田正路って名前を太安万呂さんがもしこの世にいたら、「あ、この野郎トンマだから、使ってやろう」って、当て字にして使ってくれたかもしれない(笑)。
伊耶那岐の神様・伊耶那美の神様も、実際にいるわけではございません。実際に生きていた古代天皇の名前なのでございます。ほとんどの名前は、古代の天皇ないし皇后から引っぱった。
一切の神社神道でお祭りしてある神様は、そういう神様がいるわけではないのです。世が明けるまで、人間の心の拠り所として、そういう神社信仰としての神様をお祭りしたのであって、人間の命の本体としては、そういう神様はいらっしゃらないのだということをよくご承知になっていただきたいと思います。』
そこで、、
言霊学での古事記のとり扱いです。引用します。
●『 古事記を鑑とする
意識できないところを意識しないと分からないですから。なんであそこで甘いって言ったのか、酸っぱいと言っても良かったのにって、省みることだけならば、南無阿弥陀仏なんです。
もっと大きな視野から言えば、言霊の学問の顧みるということは、古事記の神話の通りのことを自分の心に問うてみる。コトタマ学そのものを鑑とするならば入門したことになる。
どういうことかと申しますと、古事記の初頭にある「天地の初めのとき…」それは自分の心のどれか、ウから三貴子まで自分は知っているか、知っていないかを確かめる、これが鑑にして自覚する方法。
五十音を全て自分の中で掌握してそれをどう活用するかを自覚しているのが建御雷の男の神(タケミカヅチノヲノカミ)です、でもまだ他の文明をどのように活用する時でない、じゃあ今何をすべきかというと、その建御雷の男の神まで。』
この学問はこうなります。
引用です。
●『 磯城島の大和の国
磯城島の大和の国。磯城島の「磯城」っていう字はですな、磯(イソ=五十)城と書くんです。五十の言霊で結界された国。
ですからこの学問と申しますのはね、自分の心に問うてみると、完全に答えてくれる学問なんです。「オレはこう言うように思ったんだけど、本当か」っていうように問うてみますとね、それでずーっと問うていくうちに、ほかのことまで全部わかってくる学問なんです。なぜかといえば、自分の命の学問なんですから。命に質問するんですから、必ず答えてくれる。ふざけちゃだめですけれども。ちゃんとした質問すれば、必ず答えが返ってくる学問なのです。
ですから、自分の心でもってちゃんと答えてくれたその答えは、決して間違いがない。万民に通じて正しい真理なんですから。それをもって堂々と、日本のこの伝統を発揮していく国にすればよろしいのです。
そういう機運がずーっと高まってきまして、高まると反対に世情はもっとやかましくなってきます。朝日が昇る前は一番暗いといいます。それと同じように、この学問がもうちょっとしっかりした芽を生やすときは、世の中が一番暗くなるときですから。その点に巻き込まれないように、自分の心をしっかり目を覚ましていれば、そばにどんなことが起こっても、その人は決して巻き込まれないんであろうと、わたくしは念じておるんですけれども、どうだかはわかりません。
人間は三千年の因縁っていうものがありますから。わたくしの先生の先生は、残念なことに進駐軍のバイクにはね飛ばされて、肝臓破裂で亡くなりました。山腰明将先生っていう方はね。気の強い方でした。そういうこともございますから、すべてがハッピーエンドになるとは限りませんけれど。しかし、人間はそんなことがあっても死なないんですから。ハッピーエンドなんですな、それが。
それよりも、何万年と続いている日本の国の完全な宝。崇神天皇以後の二千年間は宮中の賢所にしかない、世界人類の宝っていうものを、こうやって勉強させていただいているっていう、すばらしい幸福感がございますので、そのことを心の中心に置いて、ひとつ今後ご勉強くださいますように、一年の年頭に当たってお願い申し上げます。』
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余計な感想。
我慢しましたから何もありません。
読んでくださってどうもありがとう。
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精神元素「イ」、「ヰ」の言霊と古事記。 その5。
『自分の心に問うてみると、完全に答えてくれる学問なんです。』
例えば前にコメント欄に「いくお」さんが「神話の全てに通じている訳ではありませんが、少し知ってることをお知らせします。」として、天の岩戸のお話を残してくれています。
コメントを頂きありがたいことですが、わたしはどこの地名のどこに実際の場所や物があるということは、まるきし関心がありません。一切そういったことを抜きにして、古事記を読まなければならないという立場です。現物探し、現場探しは必要でありません。古事記に登場する神名や事物名は、古事記の書かれた時代にあった名前を、「指月の指」として利用されただけです。
次の記事が参考になります。
『 古事記神話の冒頭の文章をもう一度書いてみます。「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天の御中主の神」です。これが直ちに「広い、何もない宇宙の真中に、初めて何かが起ころうとする、そしてそれはやがて自我という意識に育って行く、その元の宇宙」となる、とどうして言うことが出来るのか。まるでこじつけではないか、と思われる方もいらっしゃるかも知れません。そのことについて少々申上げることにしましょう。
仏教の禅に「指月の指」という言葉があります。「あれがお月様だよ」と指差す指のことです。いくら指を凝視しても何も分かりません。指の指し示す方向をずっと見て、その方角の彼方にある真理に気が付くことです。
その指し示している方向にある自らの心の真相を見つけることが肝要なのです。
古事記の神名はその案内役なのです。
昔、呑み屋の客が酒を呑んで、「マダム、今日のはつけにしておいてくれ」と言います。貸しておいてくれ、という事です。マダムは帳面に酒代と名前と日付を書き込みました。月末までには精算するのが普通でした。そしてその帳面の表に「記」と書いてありました。記で「つけ」と読んだのです。
古事記という字を改めて読んでみて下さい。「こじつけ」となるではありませんか。但し、ただの「こじつけ」ではありません。古事記の編者太安万侶が、言霊学の真理を遥か後世の日本人に伝えるために仕組んだ、一世一代の後世の子孫に仕掛けた真剣勝負の賭(かけ)であったのです。
人類の生命を賭けて、子孫に向って切った大見得であったのです。その意味で、古事記神話の神名はすべて指月の指であり、更に古事記神話全体が指月の指である、と申すことが出来ます。』
(「コトタマ学とは」第二百十六号 平成十八年六月号)
現場探しの面白さももちろんあります。言われてみればなるほどそういうことも言えるのかと、地図を見てみようという気も起こるときがあります。しかしその大半は言霊学の用語が何故地名、その他として残されねばならないかに関心が移っていきます。アマテラスというのも人あるいは宇宙人として実在を探求する興味はありません。何故言霊の用語として使用されているかに関心があります。
アマテラスがどこかからやってきたのなら、その前提からして時代や場所を特定したくなるのは当然のことです。疑問が疑問を生み、関連が関連を産んで、自己主張の拠り所をいつき立てたくなるものです。知的な精神は自分を主張しだすと、みさかいなく、あるいは科学的と称して、あるいは証拠を発見したとして、あるいは論理的帰結として、自分の見解の関連性、持続性、時間空間次元、曖昧性、方向性などを整理形成していき、持論として提出されるようになっていきます。
上の文章は古事記の75、76、77、78、79、80番目にでてくる神を順に噛み砕いただけです。
『(自己主張の拠り所)衝き立つ船戸の神 ・(関連性と連続性)道の長乳歯の神 ・(時処位の検討)時量師の神 ・(曖昧性の排除)煩累の大人の神 ・(分枝点方向の明瞭化)道俣の神 ・(実相を明らかに組む)飽昨の大人の神 』
また時には、記録としては残っているかもしれませんが、大昔のお話ですから、記録通りの追体験はできません。でも、宇宙から来たとしても、またいつかあの時に地球に送った者たちはどうなったのかと、様子見に来る者たちと会えるかもしれませんが、まだ誰にも分かりません。その時が来るまでは自由自在に知的な冒険をしてもよいともいえるでしょう。しかし、将来、明日かもしれないが、その時がきて事実が明らかになる時、いままで流布してきた見解はどういう意味を持つのでしょうか。
一方、わたしの方の話は今現在、ここでの話です。題材が古く、あやふやな類似の文献も多く、コジツケの相手が古いというだけのことで、今此処の現在に生きることを主題としています。あった事やあった者を相手にしているのではありません。アマテラスという時には今此処に、誰の目前にもいる、誰でも今手で掴め触れる阿波の島を問題にしているので、旅行の費用も知識も必要ではありません。
「言霊ウアオエは厳然と実在する」とどこかで引用文を記入してありますが、これは、「ア」を発音出来る全世界の人に通用し、また発音出来るようになった人類の歴史の始まりと同様に古いもので、常に誰に対しても証明可能であり、日常普通に使用されているものです。
アワというのも、アを発声して聴いて了解して記憶したワの言霊循環での主体と客体の動きを指してたものとすれば、何万年も前から今此処に至るまでいつでも誰にでも簡単にどの人種民族においても、証明出来るものです。
昔は現在のように哲学用語や概念表現言葉がなかったので、古文献にあるような神、神、神、という表現となっていますが、もし適当な言葉があっても、安万侶さんは直ちに真意が伝わらないように表現を変えていたでしょう。何故真意を伝えないかというのは、わたしの出る幕ではないので、引用先に飛んでみてください。
一方、わたしの方の話は今現在の話です。題材が古く、コジツケの相手が古いというだけのことで、今此処の現在に生きることを主題としています。「言霊ウアオエは厳然と実在する」とどこかで引用文を記入してありますが、これは、「ア」を発音出来る全世界の人に通用し、また発音出来るようになった人類の歴史の始まりと同様に古いもので、常に誰に対しても証明可能であり、日常普通に使用されているものです。
アワというのも、アを発声して聴いて了解して記憶したワの言霊循環での主体と客体の動きを指してたものとすれば、何万年も前から今此処に至るまでいつでも誰にでも簡単に証明出来るものです。
昔は現在のように哲学用語や概念表現言葉がなかったので、古文献にあるような神、神、神、という表現となっていますが、もし適当な言葉があっても、安万侶さんは直ちに真意が伝わらないように表現を変えていたでしょう。ちょうど「いくお」さんのコメントにあるように多くの言葉を駆使して「古事記」を現したことでしょう。
コメントの文章は貴重な知識の集積です。興味関心と持続する意志を駆使して、時間と金を掛けて記憶された宝です。獲得された知識とそれに伴う斬新な視点が蓄積膨らんでいく時には大いなる楽しみさえあります。そのような時には、揉め事も争いごとも無く自分の視点の中で、安らかさを得ていることでしょう。自分にとっては集める知識に矛盾は無く、関心のある対象の知識が集まっていると思い、財貨を溜め込むような密かな歓びまであることでしょう。
ところが興味関心をちょっとでも外れ離れると、他の知識対象と衝突が起きます。自分の知識を正しいと思い真理と思うと、それが真実であると信じるようになります。自分の意見とか自分の考えたことを、これは真実だという所有感に首まで浸ることになります。
これはどのような知識領域ででもおこることで、人のさがとなっているものです。これをそそぎ清めるのが身禊と呼ばれる内容で、古事記に記載されています。人のさがを清めるのですから、滝にうたれようと水をかぶろうとそう簡単にいくものではありません。無駄なエネルギーを使い身体を消耗して行き着く先に見えるものが出現しても、その人の個人的な経験で終わるだけのものです。(修行されている方にも申し訳ない言い方となっています。あしからず。)
知識を集めれば、水行をすれば個性豊かな人間になれるというのでなく、智恵ができるというのでもありません。経験を掻き集め組み立てても、自我の自覚の一つも創られたわけでもありません。お母さんはよくいいます。「お前は何にも変わってないね」、と。形成されて強固になって大きくなったのは経験記憶領域の借り物ばかりです。また、目指すものも、概念知識となって記憶の領域に納まるだけのものばかりです。
もちろんそれらも大事なもので、概念知識の記憶が無ければ生きていけません。しかし、もともとがこの二千年来、そうするように仕向けられてきたものです。
起草者は神武天皇で実行者は崇神天皇です。そんなものはおとぎ話上のことだと言ってられるのも後暫くの間でしょう。
言霊学としての古事記の勉強は行使する歓びの獲得があります。
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余計な感想。
知識として読み、読まれますと、そうだいいや違う、イエス・ノー、ウィ・ノン等々とそれぞれの関心に沿って取捨されていきます。
当たり前だ、と言われていますが、フトマニ、原日本精神、大和言葉の伝統の中にはそれらを昇華止揚する言霊があります。言霊は言葉には力があるというような、そんなちゃちなものではありません。
『 この時伊耶那岐の命大(いた)く歓喜(よろこ)ばして詔りたまひしく、「吾は子を生み生みて、生みの終(はて)に、三はしらの貴子(うずみこ)を得たり」と詔りたまひて 』
ここでの伊耶那岐を自分のことと取れば、自分は自分の書いたもの(吾は子)に『大(いた)く歓喜(よろこ)』び、それらを『貴子(うずみこ)を得たり』とすることができているか、ということになります。
したことやったことできたことに対して、苦労して完成した歓びもそれを貴いとする気持ちもあります。
ところが現実は、心の空白を埋めません、次の不安がすぐ見つかります、結論が出発点になります、目標の実現はまだその彼方にあり未来の目標に留まり、完結しておらず確認されていない不安をぬぐえず、結果の評価を知りません。
従って、出来上がった原則、作品、主張に、
『天照らす大御神に賜ひて詔りたまはく、「汝(な)が命(みこと)は高天の原を知らせ」と、言依(ことよ)さして賜ひき。次に月読の命に詔りたまはく、「汝が命は夜(よ)の食国(おすくに)を知らせ」と、言依さしたまひき。次に建速須佐の男の命に詔りたまはく、「汝が命は海原(よなばら)を知らせ」と、言依さしたまひき。』
というにように、この世の統治を依頼することに躊躇があります。つまり、あなたの主張通りにこの世を造り納めてみんなの意見を導いてくださいといわれると、とうていそんなことはできないと縮こまります。原則である天照らす大御神、未来を造り上げていく月読の命、主張し目標とする建速須佐の男の命の今後の世界はあなたの手の内に委ねられていると、依頼されても辞退したくなるでしょう。
個人的な知識の応酬ぐらいならでき、隣とか地域とかの関係なら武力なり財力なり知名度なりを背負えばできると思うことでしょう。がしかし、あなたの意見でこの世を統一してくださいなどといわれると、とんづらしたくなるでしょう。
これは独裁者でも政治家でも同じでしょう。とても寂しく不安で、とても『大(いた)く歓喜(よろこ)ばし』などと言っていられる状態ではないでしょう。
スメラミコトを例外として。
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