天の御中主(あめのみなかぬし)の神。言霊ウ。
引用から始めます。
言霊 身を隠したまひき
これで五十音の言霊の学問は、すべて解き明かしました。解き明かしても、何にもわかんないと思います。話してるわたしが言うんですから、間違いないです。話しててわかる話じゃないのです、実は。だからわたしは、わかろうとしたら「そりゃ無理だよ」って、「覚えときゃいいんですよ」って、申し上げるんです。
なぜわかんないかっていうと、「天地の初発の時高天原に成りませる神の名は天御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣日神。この三柱の神は独神に成りまして身を隠したまひき」っていうんです。「隠しちゃってんだ」っていうんです。この現世にいる、生きたわたくしたちが見ることができるはずがないでしょ。「身を隠しちゃった」っていうんですから。その「隠しちゃった」っていう神様のことを知ろうとしてるんですから、はじめっからわかるはずがないのです。
「わかれ」って申し上げたらそれは嘘になりますから、「わかんなくていいんですよ」って。「ただ、あとになってくればわかりますから」と申し上げてるわけです。
そのことを先天構造と申しますな。先天構造っていうのは、見ることも触ることも聞くことも匂いを嗅ぐこともできない。だから「先天構造」なんです。じゃあ人間っていうのは永遠に先天構造のものはわかんないかっていうと、そうではないのです。
人間にはそれが理解できるのです。直感力というものが授かっていますから、これがこれから働いてくることになります。いままで「先天構造だから、見えない」とお話し申し上げてきました。今日の話からはですな、「先天構造だから、見える」というお話に変わらせていただくことになります。
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天の御中主の神と五十音のウを結び付けたのは何故か、について説明しましょう。古事記の神話には天の御中主の神に始まり、五十番目の火の夜芸速男(ひのやぎはやを)の神まで、言霊五十音を指し示す神名が登場します。これ等五十神と五十音を如何にして結びつけたか、は一切その理由を述べておりません。言霊学成立上の大先輩である山越明将氏、小笠原孝次氏の著書にもその結び付きの理由は記されておらず、唯「天の御中主の神・言霊ウ……」と五十神と五十音が如何にも当然と言うが如く結ばれています。言霊学の学徒である私・著者もこれを踏襲いたしました。考えても見て下さい。五十神と五十音の結び付きは全部で幾通りあるか、まさに天文学的数字となる事でしょう。この作業を人間一代や二代で始めから終りまで再検討することなど不可能事に属します。多分私達日本人の祖先は遥か遠い昔、大勢の人が長い年月をかけて、物事の空相と実相の単位と五十音との結び付きに関して探究し、討論し、その結論として完成したのに違いありません。その正当性を証明する唯一の方法があります。言霊五十音の一つ一つをお分かり頂けた時の話ですが、その言霊を結び付けた日本語の単語を御覧になり、その言葉がその物事の意味・内容(実相)を見事に表現して誤る事がない、という事実であります。以上の事から古事記編纂以来、日本の皇室の中に、神話の五十神と日本語五十音との結び付きを記した記録が現存しており、言霊学復興を始められた明治天皇以来の諸先輩はその記録をそのまま踏襲したものと推察されます。
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「天の御中主の神」の意味を考えてみましょう。「天の」は「心の宇宙の」の意であることは容易に分かります。次が問題です。「御中主」とは、文字通りにとりますと、「まん中にいる主人公」の意となります。何もない宇宙の中に何かの意識とまでは行かない、かすかな何か分からないものが出現しようとしました。そして宇宙は広い広いものですから、その何処に位置しましても、初めて生れ出た処が宇宙の中心と言って間違いではありません。としますと、「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天の御中主の神」の全部を、意識で捉えることが出来ない先天の心の動きとして表現しますと「何もない広い広い心の宇宙のまん中に、初めて何かが起ころうとする、目には見えない心の芽が生まれる宇宙」ということになります。やがてはこれが人間の自我意識に育つこととなる芽であります。そしてこの「天の御中主の神」という神名に、宮中賢所秘蔵の言霊原理の記録は「言霊ウ」と名付けたのであります。言霊ウに漢字を附しますと「有(う)」、「生(う)」、「産(う)」、疼(うずく)、蠢(うごめく)等となります。
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言霊ウ 人は生れると間もなく教えられなくとも乳を吸います。生長するに従い赤い服が着たい、チョコレートが欲しい、何々のパズルで遊びたい。更に長ずると、あの学校に入りたい、ピアノが習いたい、となり、更に何々会社に入社したい、あの人と結婚したい、……となります。この「たい、たい……」という性能は五官(眼耳鼻舌身)感覚に基づく欲望の性能であります。この人間の欲望性能から社会的に各種の産業・経済の活動が生れて来ます。以上が言霊ウの性能領域から発生して来る現象であります。
言霊ウとオの次元段階にある人は物事を自らの外、即ち客観的に見聞きし、考えます。この客観的思考では日本や世界の歴史の問題は単なる物語として自分自身は関与しないものと受取ります。
ただ自分と自分の身内に関係する社会的問題だけに反応するに過ぎません。ですから「歴史を創造する」という言葉は何となく分かるようで気分は全く乗って来ないでありましょう。歴史は社会的に造られて行くものであって、自分自身がこれに関わるものではない、というわけです。
それでも、事が自分一人の生涯(の歴史)、または自分の家庭の行き先(の歴史)ということになると、歴史を自分のことと考えるのではないでしょうか。自分は一生をどう生きたいか。
自分の家庭はどんな希望と計画を持って暮らしたいか、となると、歴史の創造という言葉は何となく自分と結び付いて来ます。それは事が自分の主体性と関わるからです。そしてその主体性とは感情、即ち言霊アの段階のものであることを知ります。
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「生きたい」と思うのは‘ウ’ですから、‘ウ’は天の御中主の神でしょ、意識がアとワに分かれる以前の‘ウ’、ということは、どんな状態の時にでも、ムクムクと蠢く心、その心がなくなったとしたら、「死」、「俺はもう食いたくない」と思ったら「死」ですよ。
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意宇(オウ)から意恵(オエ)に宣り直す、という説は、オはあくまで過去の出来事、現在はウでしょ、または物欲ですよ、エは将来ですから未来から観ることになる、何故かっていうとウには主体性がない。
ウは欲しい欲しいばかりでしょ、経団連の会長の会見を聞いてみてごらんなさいよ、主体性が何もない、「こう思う」もない、経済的に見ればこうだというだけ。商売人を見ると分かるでしょう、思う時間もない、食事をしながらでも金のことで頭いっぱい。
八拳剣、そのままの心ですよ、言葉換えればそれだけ熱心といえるでしょうけど。欲望に突き進んでいる人間を止めることは出来ません。世の中適材適所って、よく出来てますよ。
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坐禅しているお坊さんも最期にそこに行き着く、「生きたい」と思うのは‘ウ’ですから、‘ウ’は天の御中主の神でしょ、意識がアとワに分かれる以前の‘ウ’、ということは、どんな状態の時にでも、ムクムクと蠢く心、その心がなくなったとしたら、「死」、「俺はもう食いたくない」と思ったら「死」ですよ。
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天の御中主の神というのは主人公なのです、でも、そのままに受け止めてしまったら獣と同じ。人間を足らしめているのは後の十六の先天言霊と三十二の言霊子音の運用によって三貴子の悟りが出来たときに初めて、‘ウ’という観念が有って然るべきと分かる。
‘ウ’が生を否定する死ではなくて、生きているそのものを認めることが出来る‘ウ’は、三貴子である天照大神、月読命、須佐之男命を自覚した時。それが何の矛盾もなく心に確認されたら、つまり、母音と数(かぞ)それに文字、が文明を創造する。
以上。
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百番目の神として建速須佐の男の命が出てきます。言霊原理の最後の神です。「海原を知らせ」といわれ海原、「う」の原、五感に基づいた欲望と産業経済社会を司ります。古事記による冒頭の言霊原理の次は建速須佐の男の命による言霊原理の応用編となり、「ウ」による運用の解説になっています。もっぱら荒くれ者として登場してきますが「ウ」の欲望と産業経済を司る性質をよく現しています。
2010年一月一日
新年明けましておめでとうございます。
天の御中主(あめのみなかぬし)の神。言霊ウ。
一月一日は天の御中主の日です。
三貴子の段落の建速須佐の男の命に海原を「知」らせと事依さしきが、次段では事依さしし国を「治」らさずてに変化しています。原理の「知」的修得からそれの運用適用に話が進んでいったものです。
わたしはこれから始まろうとする、始まるかどうかも怪しい段階ですが。
どうせなら上の段階に行きたいし、スサノオはどうしたのか見ていますがうまくいきません。
知識も集めず整理することもしないでやってきましがそれの報いでしょうか。
スサノオはウ次元に関してはことごとく知っていますが、ウを超える次元にもそのままの荒くれた性質で押していこうとします。もちろん上位次元からは追放されますが、最後にはウ段の自覚を、八拳(つむはの太刀)にたいしてウ次元の十拳の剣によって言葉を与えること(刃毀け、青銅が鉄製に負けたことではなく、言葉言霊の葉を描け掛けることに成功した、ウ次元に関する命名法を手に入れたこと、と思う)に成功して御心すがすがしさを得ます。
わたしもウ次元だけでもすがすがしさが得られればいいのですが。
スサノオのどこをどう真似たらよいのか。
スサノオ(わたし)は英知の選択や経験知識の悟性による分類もできません。よってできることは泣いて駄々をこねることです。赤ちゃんの前には万の兵士を抱える堅固な砦もかないません。泣き騒げば勝ちです。国際関係も議論も同じことが起きます。他人他国他社のやることなす事を伺いて汚らわしい行為と思うようになります。
それでも同じ次元に立った事柄については、得体の知れない相手(オロチ)であろうと既に手にした十拳剣を抜けば解決出来る事を知ることになる。(オロチが蛇に表記が変化している)
そこで十拳の判断にすがすがしさを覚えるとなる。
ウ次元十拳の判断が上位次元へ進行していく様子がスサノオの神裔として描かれていると思われるが、これを読み解く事で何かヒントが得られそうだが、難しい。
御中主の神が建速須佐の男の話になっていますが、これでも突破口を探しているつもりです。
御中主の神は動きの始めの事ですが始めのない動きは存在しないというか、動きそのものはどの時点においても始めを持っているので建速須佐の男の命のどの動きも御中主から始まっています。言い換えれば全ては御中主からということになります。
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古事記を神話と取る人は世界の神話からその類似を探していきます。
創世神話、宇宙起源神話なる分類を設け型や系統に分別していきます。型の種が尽きるまで続き、新しいのが見つかると新規項目が立てられていきます。
それは古代において多種多様な神話が世界の各地で共有されていたという事実を基としているらしい。
同じことは物質文明に当てはめても言えそうで、世界中に散らばる山を築くことや智恵や権力の象徴として刀、杖を持つ事などがあります。
そういったところからすれば、神話とか物とかによる共有された事実を人間精神行為に当てはめてみて、人間の精神原理を直接に扱った方が余程てっとりばやい。世界を造ったのは神だという構造があれば、神は言葉ともわれ魂とも言われているので、言葉が世界を造った事になるだろうし、そこから言葉の創造力が神話という姿ではなく現実の姿として出てくるだろう。
それを古代においては物質範疇を示す言葉の貧弱さから比喩を使用せざるを得なく、外見は神話の形をとった古代の精神科学となっている。
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禅の公案とかゼノンの詭弁とかはウ・オ次元と実践判断智の混同から来ているらしい。実践判断智を記憶の次元にしてしまい主体性をないがしろにしていくことから、問題を突つかれてしまうようだ。
古事記の場合はさらにその上を行っていて公案詭弁の出所を明かし(天の岩屋戸)、さらに大気都比売の項ではワ行のウ次元との混同、オロチの項目ではア行のウ次元の欠陥を正すことに成功しているようだ。
無門関では仏の教えによって犬猫ミミズにも仏性はあると教えられているのに仏性など無いたわけ者がと怒鳴られ矛盾を抱えて凹んでしまう。しかし古事記では自分のなすべき行為を犬の仏性にしている(オロチの出現)、犬を見て犬に仏性があるのかと自分がよだれを垂れている(大気都比売)、そして、オロチという得体の知れないものを犬(蛇)と定義し直す方法まで示されているようだ。
天の御中主(あめのみなかぬし)の神。言霊ウ。
「何もない広い広い心の宇宙のまん中に、初めて何かが起ころうとする、目には見えない心の芽が生まれる宇宙」
説明をもう一つ付け加えておく事にしましょう。人が自らの修行によって自覚した、自らを包み慈しんでくださる大いなる力に対し「神」または「仏」という名で呼ぶとしたら、その大いなるものは宗教信仰の対象となる神・仏として崇敬されることとなります。これに言霊アと名付ける時は、言霊学が成立します。神または仏と命名すれば、人はそれに対して「有難いもの、とてつもなく大きいもの、何とも温かいもの、そして近づき得ないもの」という感じを持ち、これ以上は知的探究は及ばないもの、と思う事となります。これに対して言霊アと命名すれば、その言霊アの内臓する内容である言霊五十音の原理(言霊イ)と、その原理によって創造される人類文明の歴史に於ける日本人の聖の祖先、皇祖皇宗の御経綸という事に触れる機会を与えられる事となります。
朝、パッと目が覚めたら周りに変なものが散らばっていた。パッと見たその瞬間はそれが何であるか分らない。ですが何かあると言う事は分る、それ以外は分らない。という時に天の御中主の神。パッと見た瞬間に何かあるなという意識、それを言霊の学問は言霊ウと名付けた。
言霊 無門関 四十六、竿頭、歩を進む
石霜和尚曰く、「百尺の竿頭からいかに歩を進めるか」、
又、古徳曰く、「百尺の竿頭に座って悟りを開いても未だ真ではない、百尺の竿頭から歩を進めて、十方世界に全身を現せよ」。
無門曰く、「竿頭から歩を進め、身を翻し得たなら、何処であろうと嫌う処はない。尊くない所はない、だが、いかに歩を進めるか」。
頌曰く、「大自在の第三の眼を見開くと、却って百尺の竿頭が禅の定盤星如くに思えるが、身を捨て命を捨て、衆人を指導引率し誤まりなくことを期することが出来る」。
※
どの公案も同じことを言っております。一つの公案が分かればすべての公案が解けますから。
百尺竿頭に胡坐をかいたところで悟ったとしてもまだ本当じゃないよ、東西南北上下の十方世界、ということは全宇宙にその身を現ずるようになりなさい。それには竿頭から歩を進めなければならない。
眼をつぶって覚悟して飛んだとしましょう、即、和尚さんに「渇!」とおっぽり出される。何故なら、飛ぶ勇気があるとかないとかじゃなくて、飛ぶ時に「おっかない」と思うでしょう。
ここで言葉を足さなければならない、何にもしないことと同じですから。竿頭とは何か、「竿頭なんてないじゃないか、それは自分の観念でしかない。だから歩を進めることもない、即ち今ここが竿頭なり」と答えたら。
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御中主の神の話なのにいろいろ出し過ぎで申し訳ない。本人が何も分かっていないとこういうことになる。でも、もともと訳の分からない性質を持っているのがこのウの言霊の神様なのだから仕方ないとしておこう。
いかに竿の先から歩くのかと言われても進めば落ちるだけ。そんなはずはなく、公案には大変偉いことがことが隠されていると思わされているから、竿とは修行の道だとか、竿の先は悟り、努力の頂上とか更なる努力を続けよ悟りには終わりは無いとか公案以上に出来そうも無いことを理由付けてくる。
御中主さんはどう解くのだろうかと考えている。彼は何も無い心の宇宙に何であるか分からないものがあるのを感じる神さんです。竿頭に居るとか修業の道に居るとか悟りの頭頂に居るとか自分を規定出来るものを持っていません。居るという心の芽生えだけです。
でも状況設定を変えたくないという心は常に起きます。竿頭に居るとしましょう。そしていかに歩を進めるかと問われます。御中主さんは身命を捨てることも竿頭の先に道があることも認識識別出来ません、従って実践出来ません。質問が奇怪しくないかと聞き返します。
何も分からないまま今回は終わることにします。
天の御中主(あめのみなかぬし)の神。言霊ウ。
古事記の始まりは御中主の神(言霊ウ)、日本書紀は国の常立の命言霊エ)で違いがあります。
始まりについて考えると場面によって多くの種類があることに気づきます。
前の場面次の場面との違い、それを助ける記憶と現状の違い、未来への選択意志と今との違い等から始まりの意識が芽生えることでしょう。
古事記の記述は全てを知っている安万侶さんの記述で「天地の初発の時高天原に成りませる神の名は天の御中主の神」で始まります。全てを知っているの全ては時処位の関係の全部ですからわれわれとは比較にならないほど格段の差があります。
ノートに鉛筆で大きな○を描くのは誰でも簡単にできます。ノートの全体の大きさが確認されていて○を描く意志が発動して円弧の角度が規定され最初のポイントにペンが置かれます。最初のポイントには円も無く円弧もありません。初発の時ですが、しかし経験記憶の助けで既に円が描き終わる終点ともなります。始めた時に全てが決定されています。
また意志決定選択の次元では夕飯にワインでも飲んで見ようと思う時、現存しないワインの姿に従って様々な選択肢を選び抜いて自分を行動させていき、イメージを現存化します。
また日の出の感動を残しておきたいと思う時、写真や写生、感動を文章にしたり、その場の状況を録音したりしても、当初の感動は常に幾分欠けていていじけています。多くは感動の余韻を保持するのに必死になるでしょう。
欲望は直接的です。いつも現在の扉を叩きます。自覚も無く一歩踏み出します。行き着く先も決めてありません。五感感覚をそのまま受け入れそのまま吐き出します。
竿頭にいてそのまま飛び出します。落ちてお終いです。修業も悟りもありません。
理性のある場合には現状分析から危険を察知します。修業の放棄です。
和尚さんからはこれは公案だと言われ考えますが百年経ってもうまく行く筈がありません。
竿頭という危ない場所に居られるとすれば、そこから感情が芽生えます。崖っぷちに居て前景は全てが眼下に小さく見えます。自己の尊厳に気づき生存していることへの感動が自覚されていきますが、どこへ導かれるのか知りません。感動するがままに一歩あるくと墜落です。
ここで竿頭から歩き出せるという回答を持った方が登場します。「喝」と一言いって欠伸をして終わりです。
この数日始まりとは何だと考えてこんなところを行ったり来たりしています。
御中主の神は即ち言霊ウはどこから来たか、つまり始めはどこから始まるかとぐるぐる廻っています。
天の御中主(あめのみなかぬし)の神。言霊ウ。
天の御中主の神を一刀両断にかたを付けたいがうまくいっていない。
始めを示す彼はどうやって始まったのか。つまり始めはどうして始まったか。
天の御中主はどこから来たか。等々。
全ては同じ構文の問いの中にある。
何故この問いから抜け出せないかは、主語と述語の間に記憶による理性が介在してきて、誰でもが理性にくみしてしまうからだ。
テーブルの上にあるものを見て「これは、みかんです」、という時と、子供が学校から帰って来てテーブルの上に見つけたものに「わぁ、みかん」という時とは次元の差異がある。
「これは、みかんです」という時には現物を見て状況判断の今次元の「これは」に対して、過去に獲得した経験悟性判断でもって「みかんです」と答えている。
和尚さんが「百尺の竿頭に座って悟りを開いても未だ真ではない、百尺の竿頭から歩を進めて、十方世界に全身を現せよ」竹竿の先からさらに前進するにはどうするかと問われと、終わりの無い悟りの道がまだあると思えてくる。過去に捉えた経験知識によればここからまた修業が始まると納得したいが、竿竹の先端に居るとされているのでどうするのか戸惑うことになる。竹竿の先端に載せたみかんを落とさず皮を剥けみたいな質問になっている。
一方、子供は「わぁ、みかん」と見つけるや否や皮を剥き始める。ここでの「みかん」は言葉と実体実相が同一のものとなっていて正しく心と対象が結ばれている。
ところが「これはみかんです」は竹竿の先端に居るという言葉の分析解析の中に閉じ込められていて、心を悟りに導く自分の外に関心を導いている。それぞれ別次元にあるものを同じ頭の中で捉え直そうとしている。そこで未だ終わりは無いとか十方世界に全身を現せよとか、一見してまともに見える答えを考えつくことになる。
無門は「だが、いかに歩を進めるか」と「だが、」しかし、と畳みかけてくる。
さあ、わたしの天の御中主の神さんが出てくるか。
天の御中主の神、何だそれは、
天の・心の宇宙の
み(御)・自らに結び着く
なかぬ(泣かぬ、鳴かぬ)・活動発生する以前
なか(中)・心の中心にある意識活動の元
ぬし(主)・主人公
し・意富斗能地、まとまり落ち着く先
かみ(神)・そういう実体
天の御中主さんが出てくるのは、天照大御神が岩戸から出てくるのと同じ構図だろうか。天の宇受売の命は感動を誘う仕種をした。ひっくり返し桶を叩きまたその上に乗って裸踊りをした。桶はイザナギの大神のことですから、イザナギの創造意志を大いに鼓舞して自ら奮い立ったことになる。
が、わたしはどうすればよいのか。意志を奮い立たせるのは自分の頬を叩いて大声を出せばいいというものじゃない。天の宇受売の命(ウ次元)は五感欲望を露にして笑いを誘った。宗教などでも悟りを得るため見神のためとか言って欲望次元を操作することがある。
天の御中主の神はいま岩戸の中に居る。わたしはどうすればよいのか。
御中主さんにあっと言わせて心を動かすものは何か。
記憶、結果、成果を見せつければ直ぐにむくむくと心を動かせるか。天地と高天原を提供すればよいのか。
天の御中主(あめのみなかぬし)の神。言霊ウ。
天の御中主の神とか言霊ウとかを使用しないで初発の時を考えてみよう。
古事記の序文には伝承の不備間違いを正すために書いたとあり、誰の為かと言えばもちろん天皇の為で、わざわざおとぎ話になるだろう神代記を付け加えることはありえない。安万侶が知っていたことは天皇も知っていただろう。冒頭は「邦家の経緯、王化の鴻基」、治世の原理統治法を述べているが、その内容は天皇と高級官僚にだけ判ればいいことなので、現代では神話といわれる全て比喩として記載された。
誤りを正す為というのだから当然間違いの無いように完全な形で書かれているだろう。後生の人からおとぎ話神話だと言われることも既に知っていたことだろう。現代の我々はそのように見る眼しか持っていない。科学的に実証されないと満足しない。古代のスメラミコトは冒頭の言霊原理を知って世を治めていた。またそれを知らなければスメラミコトとは言われなかっただろう。
冒頭の内容はスメラミコトの仕事に関することなので一般人に分からすこととは違う。一般人は神話の内容を楽しんでいればよいので統治の秘密など知る必要はない。ところが第二次大戦の敗戦によって昭和天皇は古事記と天皇の関係を断ち切ってしまった。現在は古事記の冒頭を基とする系統は無くなっている。
それにも係わらず古事記冒頭を言霊フトマニ原理による治世統治法と気づいたのは明治天皇だった。それは民間に流出して研究され現在にいたっている。いまこうして誰でも勉強出来る。
言霊フトマニ原理は五千年前の日本人の先祖たちの手によって完成していて、当時の世界に影響を与えていた。中国などは日本の枝葉の国支那と呼ばれ、近世まで多くのものが逆輸入された。フトマニ原理の最大の成果は古代から現在にまで通じる日本語の創造となって今現在私たちが使用している。
古代の人達はどのようにして言霊の原理を見出したのだろうか。疑問を持つのは簡単だがその答えを得るには更に数千年を逆上らねばならないだろう。とうてい無理なこととして諦めたほうがよさそうだ。既に教科書として古事記があるのだからその謎を解いたほうがよい。
天の御中主の神は言霊ウとヒントが与えられているし、淡路の穂の狭別の島というヒントもある。実は既にこれらは解明されてしまっているから、わたしのような初心者は追体験をすればいいことになる。始めに天の御中主の神とか言霊ウとかを使用しないなんて書いてしまったが、取り消そう。到底無理なことだ。
始めを語るのにどうしてもウの着く言葉が必要になる。産まれる、動く、打つ、浮く、受ける等、日本語のウのなかには始まりの感覚が実感されている。不動のものがあっうごいた、何も無いところからあっうまれた、数千年間日本独特のものとして我々のものとなっている。
以下引用です。
天の御中主(あめのみなかぬし)の神
言霊ウ。天の御中主の神という神名のそのままの意味は心の宇宙の(天の)真中にいる(御中)主人公である(主)神という事になります。そしてその神名が指し示す言霊はウと言霊学で記されます。「あゝ、そうか」と簡単に受け取ってしまえば、それで事は終りとなります。けれど私がこうお話しますと、聞いて下さった人の中には「宇宙の中心にいる主人公の神」とはどんな神なのか、またそれが言霊ウである理由、言霊ウでなければならない理由は何なのか、という疑問を持つ方が必ずいらっしゃいます。そして質問される方も多いのです。そこで今回の講座では、今まで簡単にお話して来たこの二つの事柄について詳細に説明させて頂く事といたします。と申しますのも、この聞き流してしまえばそれで何事もないように思える事柄が、実は言霊布斗麻邇の学を勉強する上で最も重要な事を示唆しているからであります。それは何か。
言霊学といいますのは、人の心を内にかえり見て、心の構造とその動きを研究し、学ぶ学問であります。眼前に展開する宇宙を研究する天文学や宇宙物理学等に於いては、そこに起る種々の現象を観察し、それ等多数の現象間の関連性を求め、そこに働いている法則を発見して行きます。更にその法則によってはまとめる事の出来ない他の現象を発見した時には、今まで正当と思われていた研究の基礎法則を御破算にして、今までの法則と新しい発見とが共に成立することが出来る新しい見地とその法則を発見しようと努力する事となります。そういう努力を弛(たゆ)まず積み上げて行く事によってその学問は一歩々々完成に近づいて行く事となります。
それ等の学問の初心者は先ずその学問の教科書を読み、先輩から指導を受け、種々の観察や実験によってその時までに発見された学問の成果が真実である事を学び、その上で自らもその学問の研究者として心新たにして新しい発見を目指して観察を続けます。その目的とは、今までの法則・学理では捕捉し、統合することが出来ない新現象の発見です。研究の対象を自らの外に見る学問研究は以上のようにして行われます。
上に述べました客観世界の研究方法に対して、主観世界である精神界の構造とその動きの究極の学問である言霊学の勉学方法は如何にあるべきでありましょうか。詳しく説明させて頂きます。
初めて言霊学に接する初心者の方は、当会発行の言霊学の書籍と会報を読んで頂き、また御理解し難い箇所については先輩の方に質問して言霊学の理論について大体の御理解を得て頂き度いと思います。ここまでは客観世界の学問の勉学と異なることはありません。客観世界の学問はこの理論の上での理解でその十中八九までは学問をマスターした事になると考えられます。けれど百パーセント内なる心の学問である言霊学では、これからが本番なのです。客観世界の学問では、従来の学問の成果をマスターすれば、次は自分なりにその学問の新しい分野への挑戦・探究が始まるでしょう。しかし言霊学のこれより本番となる勉強は全くそれと相違します。言霊学の勉学の対象は人間の心の内でありますから、勉学者にとって勉学の対象とは勉学者本人の心の内だけという事になります。他人の心の内を探っても、その真相を完全に把握することは出来ません。頼りに出来るのは自分自身の心だけです。
更に言霊学の勉学には客観世界研究の学問の手法を適用することが出来ない大きな理由があります。客体についての学問は眼前の現象の観察から始まります。ところが言霊学の始まりは、古事記の文章に見られますように「天地の初発の時……」と書き出しが人間の五官感覚では全然捉えることが出来ない、人間の心の先天構造の記述から始まっている事です。これは丁度物理学・化学の初心者にいきなり原子物理学という物質の先験構造の問題を出すようなもので、勉学者にとっては「とりつく島もない」問題だ、という事が出来ます。勉学者が初めに戸惑うのも無理はありません。
この様な事を理解しようとして、初心者がそれまでの学問のように「古事記にこう書いてあるが、何故だ」という疑問を起こして、今まで自分が勉強して来た経験知識を総動員して理解しようとする事は殆ど無意味に近い事なのです。何故なら、現代の原子物理学は人類が「物とは何か」の疑問を起こし、数千年という歳月をかけ、数えることも出来ない大勢の科学研究者の血のにじむような研究努力の結果もたらされた成果であるように、古事記の神話に呪示される言霊学の記述も、科学研究と同様の多数の人が長い年月をかけ試行錯誤の結果、約八千年乃至一万年前に完成した人間の心の一切を解明した学問であるからです。若し現代人がこの言霊学の命題に「何故」の疑問を起こし、自分なりの結論を出そうとしたら、その人の一生はおろか、数千年の歳月を要することとなりましょう。
科学研究の「何故」の疑問が通用しないとしたら、どんな勉強方法があるのでしょうか。さいわい心とは何時も自分の中にあるものです。自分から離れません。ですから人がそれを意識するとしないとに関らず、生れた時から現在まで心の現象の数限りない経験を持っています。そしてそれ等経験を記憶として所有しています。それ等の経験は、科学の観察の機械や材料とは違い、何時も何処でもついて廻っています。言霊学の本を読むに当り、その記述の幾分かは理解できる筈です。また理解には学問の先輩に聞くことも出来ます。そして言霊学というのが人間の心の先天と後天の構造とその働きを解明した学問であるという事が分かったら、また分からない部分はそのままにして置いて、次に申上げる事を始める事であります。
言霊学の勉学者が自分の習い覚えた経験知識を土台として言霊学の書物の内容を解釈・理解することが出来ないとしたら、残る方法は唯一つしかありません。それは古事記の神話が呪示している言霊学の書の内容を心の鏡として、その鏡に自らの心の構造を映して行く事です。勿論初心者は言霊学の内容が真理であるか、否か、を確かめた訳ではありません。けれどそれが真か偽かかは別に、假に真実だとした上で、それを鏡として自らの心を顧みる事とするのです。ではどのように自分の心を見るのか、と申しますと、譬えば次のようにするのです。
古事記の神話は先にお話しましたように「天地の初発の時……」と始まります。としたら勉学者は自らの心に問うのです。「自分は天地の初発の時、と古事記が言っている心の宇宙(天地)を知っているか。またその何も存在しない心の宇宙に今、此処で何かが始まろうとする瞬間の時を『これだ』と把むことが出来るか」と。自分自身それは分かっている、と思う時はそれでよし、はっきり自覚出来ないと思われた時は、その事について如何にしたらよいか考えることとなります。
この様にして古事記の神話とその言霊学の解説書を鏡として自らの心を見つめ、分かった所、分からない所を区別しながら古事記神話の文章を先に進めて行き、分からぬ所は質問し、分かった所についても話し合いすることによって、自分自身の心が神話が呪示する構造の如き構造と動きをしている事が確認されて行きます。古事記神話に示される言霊学が確かに人間精神の全構造とその動きを解明しているのだ、という事を、生きた人である自分自身の心の実相を以て証明することとなります。
そんな廻りくどい方法で古事記神話の内容を理解するとしたら、どんな長い年月が必要となるのか、と戸惑う方もあろうかと思います。確かにこの方法で即座に言霊学全体をマスターするという訳には行きません。早い人で二・三年、遅い人では更に数年を要する事でしょう。けれど自らの心の全貌を隈なく知るという大事業の達成としてはそんなに長い年月とは言えないのではないでしょうか。先に示しました自分の従来積み重ねて来た経験知識で言霊学を理解しようとするならば、一生かかっても理解達成不可能である事と比べるなら、尚更の事であります。
天の御中主(あめのみなかぬし)の神。言霊ウ。
以下全文引用です。
ここで「自分自身の心を見る」という事について、もう一つ説明を加えさせて頂きましょう。この事は古事記の始まりの文章「天地の初発の時」にも関係する事なのでありますが、現代人は自らの心を見るという時、自らの心中に起って来た事を自らの経験知識を通して見、またそれを解釈することに馴れて、その現象をそのまま、即ち実相を見ることが出来なくなっています。例えば、他人の前で自分の事を飾って話す癖のある人が、反省して「自分を飾らず正直にしなければ」と心中に強く思ったとします。しかし或る時また嘘を言ってしまいました。「また癖が出てしまった。あんなに正直になろうと努力して来たのに」と後悔します。こうしてこの人は後悔の連続となります。癖を直そうとする自分が本当の自分で、自分を飾り嘘をつくのは「たまたま」癖が出てしまったのだ、と思います。「私という人間は嘘つきなのだ」とは決して思わず、思おうともしません。他人から「貴方は嘘つきだ」と言われたら、きっとその人を恨み憎む事でしょう。「自分は嘘つきだ」または「嘘をつく事がある」と率直に認めない限り、嘘つきは治りません。この「嘘つきだ」と率直に自分で認めること、これを「実相を見る」と言います。
前号でお話しましたように、現代人は実相である太陽を直接見ないで、月である経験知識やその概念に太陽の光を当て、その反射光によって物事を見ます。ですから物事を見る人の表現が十人十色とならざるを得ません。どうしたら物事の実相を常に見ることが出来るようになれるのでしょうか。それは古事記の「天地」または「天地の初発の時」を頭の中の理論的想像でなく、実際にそれを心中に内観し、直観し、実感する事に関係しています。
先に「天地の初発の時」即ち心の宇宙の中に何かが起ろうとする時とは「今」であり、場所としては「此処」である、とお話しました。今、と思う瞬間、今は次の今に移り変り、果しがありません。「今」は頭に画く事は出来ても、実際にこれを捕捉し、自覚することは仲々困難です。「今」を捉え得ないのですから、その今から見る物事の実相も仲々捉え得ない事となります。昔からその「今」を「これ」と捉えることが正当な宗教の目的であったと言えます。この「今」を古神道では中今と呼び、禅では「一念普(あま)ねく観ず無量劫、無量劫の事即ち今の如し」と言って、通常私達が言う「今」とは違うのだ、と区別しています。
そこで従来の宗教信仰の修行の手法を例にとって、「天地」また「天地の初発の時」即ち中今を自覚する方法を明らかにすることにします。
人はこの世に生れ、長ずるに従って種々の経験を積み、知識を身につけます(図参照)。更にその集められた経験知識の有機的構造を自我と意識します。するとその自我意識は自らの内容である経験知識でもって人や物事を判断し、批判し、それが真実だと思い込むようになります。このように物事に対する自我主張が強くなればなる程、見ている<真実>は真の姿からかけ離れたものになって行く事となるのです。実は人間は生れた時から物事の真実を見る「眼(まなこ)」を授かっているのであり、自我意識の経験知識は、その真実を見る<眼>にかける色眼鏡となるので、経験知識を増せば増す毎に、真実の<眼>にかける色眼鏡の数が増すことになります。物事の真相、実相の把握は困難となります。
この事に気付いた時、人はどうしたら真相を有りの侭に見る事が出来るようになるのでしょうか。それは簡単な事です。色眼鏡を外せばよいのです。習い覚えた経験知識を捨てればよい事です。しかし人間は一度覚えたものを捨て去ることは出来ません。出来なく造られています。ではどうすればよいか。今まで頼って来た経験知識の影響を少なくすることです。その影響を少なくする方法を宗教信仰が教えてくれます。
宗教が教える本来の自分に帰る道に二通り有ります。自力と他力です。先ず自力の方法から説明しましょう。
自力信仰の代表的なものに仏教禅宗があります。「父母未生以前の本来の面目」を求めること、即ち自分が生れた時から父母より受け継いだ性格、生れた後に身につけた経験知識を反省によって識別し、そのそれぞれの知識・性格を本来の自分ではないもの、と心の中で「ノー」と否定して行く修行です。身に付いた知識や性癖等は仲々離れて行くものではありません。それを毎日坐禅により、また日常の座臥に根気よく自己問答を繰返しながら否定して行きます。一度覚えた知識は忘れ去られるものではありません。しかし「今まで私はお前を頼みに生きて来た。しかしこれからは私自身が私の主人公でなければならないと知った。今までお世話になった。これからは私が必要とする時は声をかけるから、呼ばないのに私の頭を占領して私の口を無断で使うことはしないでくれ」と知識や性癖に語りかける事によって、それ等が勝手に出しゃばる事が少なくなって来ます。
この様な努力、反省を弛まなく続けて行き、ついにどんな知識や性癖も本人自身がそれを欲しない限り、勝手に頭脳を占領し、我物顔には動く事がなくなります。知識がなくなったのではありません。知識・癖が自己本体(これを禅では天真仏と呼びます)の従者、または道具としての位置に収まる時、それ等知識や癖によって構成されていた自我意識が自然に消えている事に気付きます。すると、本来生れた時から心の住家であった心の宇宙と自身との間の障壁が消え、自己の心の本体が宇宙そのものである事が自覚されます。この宇宙が即我であるその宇宙を禅は「空」と呼びます。自分が持っていたもの、見聞きしたもの、すべてが空であったと知ります。これを「色即是空」といいます。人は自分の本来である宇宙の目で物を見、宇宙の耳で物を聞く事となります。
この空なる目で物を見る時、物事は真実の姿を現前させます。万人が万人に同じように見える物事の実相を顕現します。これを「諸法実相」と仏教は呼んでいます。人々は真正面から物事を見、聞く事が出来ます。人の心はどんなに動いても、宇宙は動きません。動かない宇宙の目で見れば、自分が今動こうとする瞬間を目の当り知ることが出来ます。何故なら従来の私とは現象の私でした。動いている者が一瞬の今・此処を把握することは難しい事です。それが動かない宇宙である私からは動き出す瞬間を知る事は容易な事となります。「現在心不可得」ではなくなります。
次に他力の行を説明しましょう。自分自身が集め身につけた沢山の経験知識を心の中で識別し、これと問答することなど難しくて到底出来ないと思う方には、親鸞上人が「易行」と呼ぶ他力信仰の方がよいかも知れません。他力信仰といえば、浄土真宗の念仏か、またはキリスト教マタイ伝に説かれる信仰が代表的なものです。家の人や他人に対する自分の行いの矛盾を感じ、絶望を感じた時、自分自身が自己を反省し、自身を変えようと努力するのは自力信仰です。反対に、自分を変えることなど到底出来る業ではないと思い、この悪性の自分を助けてくれと仏にすがり、念仏するのは他力信仰です。念仏はしないでも、「この悪性の、自分でさえどうにもならないこの身を、生れてから今日までよくぞ大過なく生かさせて頂きました。有難う御座いました」と自分を包み育んで下さっている大きな力を感じて、それに掌を合わせ感謝の心を捧げる事、これも他力です。どんなに苦しい事、つらい事があっても「今・此処」に生きている事がどんなに有り難い事かを思い、自分のクヨクヨと心配する心を抑え、何事も自分を包み育てて下さる御力におまかせして心配しないで、感謝の心で暮らそうとする事、これが他力です。
「有難い」とは英語の「サンキュー」とは違います。「サンキュー」は自分に何かの利益を与えてくれた人に言う言葉です。「有難い」とは本来「今・此処に生きる事自体が有り得ない程の奇跡だ」の意味です。ですからつらくても苦しくても「有難い」という事です。「有難い」という言葉は人間の言葉ではなく、人を包み慈(いつく)しんで下さる大きな力に属す言葉なのです。ですから「有難い」と思う心は生命の光で満たされ、その気持ちで物事に向かえば、その物事は実相を顕現してくれます。「有難い」と思う時、人は時間・空間を超えた「今」にいる事となります。「有難い」と思う時、人は人の目から宇宙の目に移って見ている事となります。
以上、人が常なる今を自覚し、物事の実相そのままに見る事が出来る立場に立つための宗教信仰の自力と他力とについて簡単に説明しました。自力と他力とはこの様に修行の方法は違っても、行き着く観点は全く同じです。共に従来の「我」とは違う観点に立ち、広い広い心の宇宙を心とし、自らの生きる「今」を自覚し、その観点から物事の実相を見ることが出来るようになります。
説明をもう一つ付け加えておく事にしましょう。人が自らの修行によって自覚した、自らを包み慈しんでくださる大いなる力に対し「神」または「仏」という名で呼ぶとしたら、その大いなるものは宗教信仰の対象となる神・仏として崇敬されることとなります。これに言霊アと名付ける時は、言霊学が成立します。神または仏と命名すれば、人はそれに対して「有難いもの、とてつもなく大きいもの、何とも温かいもの、そして近づき得ないもの」という感じを持ち、これ以上は知的探究は及ばないもの、と思う事となります。これに対して言霊アと命名すれば、その言霊アの内臓する内容である言霊五十音の原理(言霊イ)と、その原理によって創造される人類文明の歴史に於ける日本人の聖の祖先、皇祖皇宗の御経綸という事に触れる機会を与えられる事となります。
これまで言霊学勉学についての二つの命題の中の、如何にして今・此処の中今を把握するか、物事の実相を見る方法を説明して来ました。もう一つの命題、天の御中主の神と五十音のウを結び付けたのは何故か、について説明しましょう。古事記の神話には天の御中主の神に始まり、五十番目の火の夜芸速男(ひのやぎはやを)の神まで、言霊五十音を指し示す神名が登場します。これ等五十神と五十音を如何にして結びつけたか、は一切その理由を述べておりません。言霊学成立上の大先輩である山越明将氏、小笠原孝次氏の著書にもその結び付きの理由は記されておらず、唯「天の御中主の神・言霊ウ……」と五十神と五十音が如何にも当然と言うが如く結ばれています。言霊学の学徒である私・著者もこれを踏襲いたしました。考えても見て下さい。五十神と五十音の結び付きは全部で幾通りあるか、まさに天文学的数字となる事でしょう。この作業を人間一代や二代で始めから終りまで再検討することなど不可能事に属します。多分私達日本人の祖先は遥か遠い昔、大勢の人が長い年月をかけて、物事の空相と実相の単位と五十音との結び付きに関して探究し、討論し、その結論として完成したのに違いありません。その正当性を証明する唯一の方法があります。言霊五十音の一つ一つをお分かり頂けた時の話ですが、その言霊を結び付けた日本語の単語を御覧になり、その言葉がその物事の意味・内容(実相)を見事に表現して誤る事がない、という事実であります。以上の事から古事記編纂以来、日本の皇室の中に、神話の五十神と日本語五十音との結び付きを記した記録が現存しており、言霊学復興を始められた明治天皇以来の諸先輩はその記録をそのまま踏襲したものと推察されます。
http://homepage2.nifty.com/studio-hearty/kototama_ver.1/lecture/no163/no163.htm
からの引用です。