(島田正路著 「古事記と言霊」講座 より)
古事記の文章が「黄泉国」の章に入ります。
ここにその妹伊耶那美の命を相見まくおもほして、黄泉国(よもつくに)に追ひ往(い)でましき。ここに殿の縢戸(くみど)より出で向へたまふ時に、伊耶那岐の命語らひて詔りたまひしく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、吾と我と作れる国、いまだ作り竟(を)へずあれば、還りまさね」と詔りたまひき。ここに伊耶那美の命の答へたまはく、「悔(くや)しかも、速(と)く来まさず。吾は黄泉戸喫(へぐひ)しつ。然れども愛しき我が汝兄(なせ)の命、入り来ませること恐(かしこ)し。かれ還りなむを。しまらく黄泉神(よもつかみ)と論(あげつら)はむ。我をな視たまひそ」と、かく白(もお)して、その殿内(とのぬち)に還り入りませるほど、いと久しくて待ちかねたまひき。かれ左の御髻(みみづら)に刺させる湯津爪櫛(ゆつつまくし)の男柱一箇(をはしらひとつ)取り闕(か)きて、一(ひと)つ火燭(びとも)して入り見たまふ時に、蛆(うじ)たかれころろぎて、頭(かしら)には大雷(おほいかづち)居り、胸には火(ほ)の雷居り、腹には黒雷居り、陰(ほと)には柝(さく)雷居り、左の手には若(わき)雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴(なる)雷居り、右の足には伏(ふし)雷居り、并せて八くさの雷神成り居りき。
伊耶那岐の命が自身の精神領域である高天原から外へ出て行き、黄泉国(よみのくに)(黄泉国・予母津国(よもつくに)などとも書きます)という他の領域を初体験するという「黄泉国」の章と、これに続く「禊祓」の章にて古事記神話はクライマックスを迎えることとなります。この章を迎えるまでに、「古事記と言霊」講座は十四回開かれた事となります。毎月一回、十四ヶ月にわたる講話でありますので、それを文章でお読み下さる方には、ともすると古事記神話が始めから終りまで筋道が一貫している言霊布斗麻邇の学問の話なのであるという事をお忘れになるのではないか、という心配が御座います。そこで古事記神話のクライマックスに入る前に、今までの十四回の講座を簡単に振返ってみることとします。
古事記は初めに「天地の初発(はじめ)の時、高天原に成りませる神の名は、……」と書き出されます。この「天地の初発の時」とは、私たちが客体として見る天と地、宇宙空間のことではなく、これら対象を見る主体である私達の心のことを言っているのだ、という事を申しました。外観として見る宇宙がただ一つであると同様に、それを見る心の広がり(宇宙)もただ一つなのだ、という事も説明しました。そしてその心の宇宙の中に天之御中主の神を始めとして豊雲野(とよくもの)の神まで、言霊母音・半母音の宇宙、ウアワオエヲヱを示す七神が成り出でます。次に宇比地邇(うひぢに)の神より妹阿夜訶志古泥(いもあやかしこね)の神まで、母音と半母音宇宙を結んで現象子音を生み出す人間智性の根本性能である言霊父韻チイキミシリヒニを示す八神が現われます。次に母音・半母音でありながら、上述の母音七音、父韻八音計十五音を総合・統轄する二神、伊耶那岐の神・伊耶那美の神、言霊親音イ・ヰが現われます。以上合計十七神、十七言霊が「天地の初発の時」と言われる人間の心の先天構造(意識で捉えることの出来ない人間精神の先験部分)を構成する精神要素の事であります。これ等十七神が登場する文章には何らの物語的な叙述はありません。何故なら、十七神は先天構造を構成する言霊の存在を示すもので、この世に生れて来る人間なら誰しもが生まれながらに授かっている精神要素であり、この要素の働きによって天地間の現象のすべてが生れますが、その十七要素自体は人間という種が存する限り、永遠に変わることのない人間の根本の精神構造でありまして、「何故そうなっているか」の思惟が通用し得ない領域の存在と性能であるからです。言い換えますと、人はこれに関して「そうか」と肯定し、覚えるより他には対応の出来ぬものなのだ、という事であります。
次にこれら先天構造の十七神・十七言霊が活動を始め、その代表である伊耶那岐、伊耶那美の命が先天構造から後天現象の世界である淤能碁呂島(おのころじま)(自れの心の島)に下り立って、後天現象の究極要素である言霊子音を示す三十二の神々(大事忍男(おほことおしを)の神・言霊タより大宜都比売の神(おほげつひめ)・言霊コまで)を生みます。
次に伊耶那岐・美の二神は先天十七、後天三十二の合計四十九音の言霊を粘土板上に書き、彫り刻んで神代表音文字・言霊ンを示す火の迦具土(ほのかぐつち)の神を生みます。此処で夫神伊耶那岐の神と協同で三十三の子音言霊を生み終えた伊耶那美の神は子種が無くなり、高天原の仕事を成し遂げましたので、本来の領域である客観世界の文明創造の主宰神となって黄泉国(よもつくに)に去って行きます。
主体世界の責任者である伊耶那岐の命は、一人で言霊五十音の整理・活用法の検討に入ります。そして先ず最初の整理(金山毘古(かなやまひこ)の神より和久産巣日(わくむすび)の神までの操作の方法)によって最も初歩的な五十音整理の音図である和久産巣日の神を手に入れます。この音図は人間が生れながらに授かっている心の構成図である天津菅麻(すがそ)音図であります。
更に伊耶那岐の命(神)は右の菅麻音図を土台として整理・活用法の検討を進め、表音文字の五十音表(迦具土の神)の頚(くび)を十拳の剣で斬り、斬った十拳の剣である主体側の心の構造を検討・確認する作業(石柝(いはさく)の神より桶速日の神まで)によって人類文明創造のための最も理想の精神構造図を示す建御雷(たけみかづち)の男(を)の神を手にいたします。人間が自己の主体内に自覚した最高の精神原理の事であります。
伊耶那岐の命は更にこの主体内に自覚された建御雷の男の神という言霊原理を数霊(かずたま)によって運用する二つの方法、闇淤加美(くらおかみ)の神、闇御津羽(くらみつは)の神の手法も確立することが出来ました。建御雷の男の神という言霊原理をこの二つの手法を以って運用するならば、物事の実相の把握と、その把握した法則を掟として、制度として実践・活用し得る事を自覚したのであります。ここに於て、五十音言霊の原理の把握とその実践・活用の方法は、少なくとも人間精神の主体的真理としては確立された事となります。
更に伊耶那岐の命は、迦具土の神という五十音図表の検討に於て、神代表音文字を作成する八種類の方法(八山津見の神)をも発見することが出来ました。この様に五十音言霊図を縦横に分析・総合して、自由に文明を創造して行く判断力(十拳の剣)に天の尾羽張の名を附けたのであります。
以上、過去十四回の「古事記と言霊」講座によって明らかにされました言霊の学問の概要であります。古事記神話に基づく言霊学の話は、此処で大きく転回し、これまでに確立された主体内真理としての言霊原理が、広く世界の人類文明創造の真理として通用するか、否か、の実験・検討という古事記神話のドラマのクライマックスに突入して行く事となります。この大きな実験とその探究によってアイエオウ五十音言霊布斗麻邇の原理が世界人類の文明創造の原器として、またその任に当る天津日嗣スメラミコトの体得すべき大原理として確立し、今に伝わる三種の神器の根本内容の学問として人間精神の自覚に確立される事となります。この自覚に立った伊耶那岐の命は、この主体内の真理が人類文明の中の如何なる文化内容をも摂取して誤りなく歴史創造の糧として生かす事が出来るか、言い換えますと、自己主観内の真理を客観世界に運用しても誤りのない、主観と同時に客観的真理として通用し得るか、の検討の作業に入って行く事となります。以下、古事記の文章の順に従って説明してまいります。
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黄泉国。客観世界。1。
古事記の文章が「黄泉国」の章に入ります。
ここにその妹伊耶那美の命を相見まくおもほして、黄泉国(よもつくに)に追ひ往(い)でましき。
ここに殿の縢戸(くみど)より出で向へたまふ時に、
伊耶那岐の命語らひて詔りたまひしく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、吾と我と作れる国、いまだ作り竟(を)へずあれば、還りまさね」と詔りたまひき。
店先での建御雷の男の神の目前にあるものの判断は間違っていなかった。、それはみかんでした。そこで店の人に「みかんを」というと「五百円です」という返事だった。 建御雷の男の神は主観的にはこれはみかんであると絶対的に正しい判断をしているのに、五百円という。そこで建御雷の男の神はどういうことになっているのか、客観世界に退いているイザナミに聞くことにした。
日常生活では普通のことですが、ここに主体と客体に根本的な違いを建御雷の男の神は見出した。そのために客観世界でも自分のみかんという判断は通じるものかどうかを検討しに黄泉の国(予母津国、四方津国、よもつくに)いって客観世界の主となっているイザナミに問いただした。
予母津国、四方津国、よもつくにはここでは「五百円です」という言葉となっています。「五百円です」は生活上は誰にでも通じます。しかし他の店に行って「五百円」といってもみかんは出てきません。それは金額であり金額の表記表現です。けっしてみかんそのものを意味しません。四方八方に通用する(津)「五百円」であり、またいつでも予め通用する力を持った(予母津)世界の物、物象です。
建御雷の男の神は絶対判断として目前のみかんを差したのに、店のものは客観世界の言葉で、誰にでも通じる建御雷の男の神の判断内容とは関係のない言葉で応じました。そこで彼はイザナミに会って事情をきこうというわけです。
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殿の縢戸(くみど)
ではどのように客観世界へはいっていくのでしょうか。ここに殿の縢戸(くみど)より出で向へたまふ時に、とあります。「縢戸」は、「とざしど」「ちぎりど」「くみど(組み戸)」「さしど」 と読まれたりする。
また、「縢」は、「騰」の誤字とみて、「あ がりど」「あげど」「とをあげ」などと読まれたりする。読み方によってそれぞれ違う意味になりそう。「出で向かへまう」は出て向えるのか、出るだけなのか、向えるに重点があるのかはっきりしません。
ここでの重点は戸のこちら側とあちら側への往来に関するものです。みかんと言ったのに五百円と言われて通じてしまうそこの問題点を男の神が主体的な主張を譲らずみかんみかんみかんと言いとおし、相手も五百五百五百とそれしか言わない場合のことになるかと思います。
五百円はみかんの内容も属性も見かけ発音も表記も何も表現していません。男の神からすれば五百と言えば通じてしまう客観世界である黄泉の国ことが理解出来ません。そこで自分の出てきた場所から飛び出さねばならないことになります。それは具体的に表現規定された言葉の枠から出てしまうことです。
男の神にとっては自分の示した言葉は絶対的なものです。それを五百円と言い換えられ何故みかんという返事が帰って来ないのか自分の判断規範を保持しつつ自分の五十音図の枠の戸から出て行こうとしています。彼の枠は縦横で出来ていますが、五百と言えば内容買い手の意図に関係なく通じてしまう客観世界の戸を探さなくてはなりません。
彼が自分の規範内にいる限り黄泉の国には行けません。そこでみかんと五百円との違いは何かを検討した結果、「殿」の戸を見出しました。「殿」は「十の戸」のことで、十とは五+五の母音行五字と半母音行五字を足したものです。
みかんと五百円の違いは簡単に言えば実体とその表記のちがいでもともと次元の違いを超えて表現しているものです。
五百円は、それを欲しいのかそれをもっと増やしたのか、それを財布から選び出す方法か、眺めるだけなのか、みかんの代価なのかバナナのそれか、男の神を超えた表現力を持っている。要するに男の神の属した次元のどこからでも出て行って、相手に呼びかけることができる。
主体側に自分の判断意図が持続しているのに、黄泉の国内では主体本人側の意図内容は無視等閑視されていくが、彼は客観的な一般的な対応をこととする黄泉国内でも自分の規範が通用していくかみるためイザナミとの協働を呼びかける。
みかんと言ったのに相手次第では、いろいろな返事となって返ってくる。時と処場面によってはリンゴという返事が帰って来たり、欲しい食べたい、あげる捨てる、五百円あっちよこっちよ、等とみかんに対応しないこともある。
そこで自分の言語規範に不足部分があるのではないかと思うようになる。あるいは余計なものが付き過ぎているのかと思うようになる。吾と我と作れる国、いまだ作り竟(を)へずあれば、還りまさね」と詔りたまひきとなる。
二人で今まで言語規範を作ってきたのだから、今後も一緒にやろうと申し入れをした。
黄泉国。客観世界。2。
ここに伊耶那美の命の答へたまはく、「悔(くや)しかも、速(と)く来まさず。吾は黄泉戸喫(へぐひ)しつ。然れども愛しき我が汝兄(なせ)の命、入り来ませること恐(かしこ)し。かれ還りなむを。しまらく黄泉神(よもつかみ)と 論(あげつら)はむ。我をな視たまひそ」と、
伊耶那美の命は答えました。「残念な事です。お別れして直ぐに尋ねて来て下さいませんでした。その間に私は自分の責任領域である外国の客観世界の学問や言葉を覚えてしまいました。けれど愛する貴方様がわざわざ来て下さった事は恐れ多い事ではあります。ですから帰ることにしましょう。しかし、その前に外国の学問や文字の神々と将来の事を相談しなければなりません。その間私の姿を見ないで下さいね」と。黄泉国の学問・文化はまだその頃は研究が始まったばかりで、はっきりした成果があがっていない事を伊耶那美の命は恥ずかしく思い、姿を見ないで下さい、と言ったのであります。
黄泉戸喫(へぐひ)とはなんでしょう。黄泉の国の食事をしても還れるかもしれないらしい。そのことは黄泉神とあげつらうことをするまで分からなかったみたいです。
黄泉の国とは現象次元の無差別な国のことです。死後世界のこととして解説されていますが、具体性のない内容と実相を欠いた言葉の国ということです。
死ぬという時、欲望本能経済産業次元で言うのか、記憶と整理科学学問等抽象概念次元でいうのか、感情情緒芸術次元でいうのか、実践選択機能次元でいうのか、創造意志心の力動因次元でいうのか等々、精神活動の次元をないがしろにした世界です。
それらの相違を反省しないで同じ釜にごちゃごちゃ放り込んで一緒くたにし、一般言語表現となって主体を無くした世界です。イザナミはそれらを無分別に無節操に取り入れ喰っていたということになります。
イザナギはそんな世界でも自分の規範が通じるか乗り込んでいきました。
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かく白(もお)して、その殿内(とのぬち)に還り入りませるほど、いと久しくて待ちかねたまひき。
そう言って伊耶那美の命はその責任領域である客観世界に還って行きましたが中々出て来ません。伊耶那岐の命は待ち草臥(くたび)れてしまいました。客観的物質文明はこの揺籃時代より今日まで、その建設に四・五千年を要した事を考えますと、岐の命が待ち草臥れた、という事も頷かれます。
拠り所となる次元に立っていないため、議論がかみ合わずいつまで経っても結論がでません。日常よくあることです。同じ言葉を使っているのに理解し合えないのです。
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かれ左の御髻(みみづら)に刺させる湯津爪櫛(ゆつつまくし)の男柱一箇(をはしらひとつ)取り闕(か)きて、一(ひと)つ火燭(びとも)して入り見たまふ時に、
髻(みづら)とは古代の男の髪の形の一種で、頭髪を左右に分けて耳の辺りで輪にします。湯津爪櫛とは前出の湯津石村と同じで、湯津とは五百箇(いはつ)の意であります。五数を基調とした百箇の意。爪櫛(つまぐし)とは髪(かみ)(神・五十音言霊)を櫛(くし)けずる道具です。
五十音図は櫛の形をしています。そこで湯津爪櫛の全体で五十音言霊図の意となります。男柱とは櫛を言霊図に喩えた時の向って一番右側の五母音の並び、言霊アオウエイの事であります。その一箇(ひとつ)ですから五つの母音の中の一つの事を指します。
妻神伊耶那美の命恋(こい)し、と思う心なら言霊アであり、黄泉国の様子に好奇心を持ってなら言霊オとなりましょう。その一つの心でもって黄泉国の中に入って行って、その国の客観的世界の有様をのぞき見たのであります。
イザナミは自分が飛び出してきた次元の櫛をもって客観世界の人々の思惟方法判断法を見てみました。
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蛆たかれころろぎて、
伊耶那岐の命が黄泉国の中をのぞいて見ると、伊耶那美の命の身体には蛆(うじ)が沢山たかっていた、という事です。
蛆(うじ)とは言霊ウの字の事を指します。言霊ウの性能である人間の五官感覚に基づく欲望の所産である種々の文化の事を謂います。
この頃の客観世界の物質文化はまだそれ程発達しておらず、高天原の精神文化程整然としたものではなかったのです。その雑多の物質科学の研究の自己主張が伊耶那美の命にたかり附いて、音をたてていた、という事であります。「ころろきて」とは辞書に「喉(のど)がコロコロと鳴る様」とあります。
欲望次元の、言いたいことだけ言い合い、けなしたいことだけけなし合う、自分の経験から抜け出せない観念世界が眼前に広がっていました。
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頭(かしら)には 大雷(おほいかづち)居り、胸には火(ほ)の雷居り、腹には黒雷居り、陰(ほと)には柝(さく)雷居り、左の手には若(わき)雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴(なる)雷居り、右の足には伏(ふし)雷居り、并せて八くさの雷神成り居りき。
雷神(いかづちかみ)とは、五十神である五十音言霊を粘土板に刻んで素焼にしたもの、と前に説明した事がありましたが、ここに出る雷神は八種の神代表音文字である山津見の神のことではなく、黄泉国外国の種々雑多な言葉・文字の事であります。高天原から黄泉国に来て暫く日が経ちましたので、伊耶那美の命の心身には外国の物の考え方、言葉や文字の文化が浸みこんでしまって、そのそれぞれの統制のない自己主張の声が轟(とどろ)き渡っていた、という事であります。ここに出ます黒雷より伏雷までの八雷神は黄泉国の言葉と文字の作成の方法のことで、言霊百神の数には入りません。
みかんの値段の表記方としてみましょう。
頭(かしら)には 大雷(おほいかづち)居り、五百円大書きはっきり分かる
胸には火(ほ)の雷居り、電光掲示板のように着いたり消えたりする
腹には黒雷居り、多くの表記の中から五百を浮き立たせる
陰(ほと)には柝(さく)雷居り、角度や光線の具合によって文字がでてくるような
左の手には若(わき)雷居り、飾り文字のような
右の手には土雷居り、一部を強調、五だけを大きくするような
左の足には鳴(なる)雷居り、他の値段を併記して五百を示すような
右の足には伏(ふし)雷居り、輪切りや縦筋の間隔などを入れた
思いついただけですが記してみました。
表示法は多種多様ですが、頭から足へまでが意識の運用法になっているように思えます。まず頭に浮かんだものから始まって、正面に置かれ、ついでその変化へ、裏からへ、脇に支えるものを考え、足でしっかり立つようなそんな感じです。常に八種というのが曲者です。
あの世って。読むことが目的。黄泉国。八咫鏡の学問。
言霊【 ン 】
それに、その四十九の言霊を神代文字で表わした、神代文字化の作業をしたことを一つとしまして、言霊ン、つまり運ぶという事ですね、これを加えて五十個の言霊が人間の心を構成する要素の全てとして捉えられます。
そして五十の言霊を操作する事によって百の道、鏡餅の餅、百道が出来上がります。その百道の原理の事、言霊の原理の全てを布斗麻邇と申します、今は太占と書く方がほとんどですね。
この字「占」が入るものですから占いととってしまうのです。筮竹(ぜいちく)もそうですし、神道では亀の甲羅を焼きまして、その焼いた裂け目の模様で吉凶禍福を占ったり、又鹿の肩骨、肩甲骨を焼きまして、するとヒビが入りますから、そのヒビの模様の状態で、今年は豊作か凶作かとか、この戦争は勝つかどうかとかを占いました。
その事に今はとらわれてしまっていますが、昔はそうではありません。布斗麻邇というものの原理が崇神天皇の時に隠されまして、人間の心がどういう構造になっているかと言う事を日本ばかりでなく世界中の人が忘れてしまいましたので、そして、それに替わって、筮竹とか、鹿の肩骨を焼くという占いが初まったのです。
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あの世’って何処にあるんでしょうか?
かれここに伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」とのりたまひて、御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらび)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神。かれその神避(かむさ)りたまひし伊耶那美の神は、出雲(いずも)の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき。
古事記の先天17神は母音と父韻を含んでおりますけども、この17神が生まれてその活動によって32の子音が生まれます。33番目の子音として言霊ンも生まれます。
これが火の夜芸速男(ホノヤギハヤヲ)の神という神代文字の神でございます。これで以て伊耶那岐、伊耶那美の生んだ子はここで終わりになります。子種が絶えましたので伊耶那美命は、所謂病気になって遂には亡くなりました。
亡くなった伊耶那美命は、仏教の説から申しますと所謂、‘あの世’へ行ってしまった、‘あの世’って何処にあるんでしょうか?分かっている方手を挙げてみて下さい。分かっているようで分からない。
霊的現象を取り上げましたら半分くらいここにいる方はお分かりになっているかもしれません。しかし、言霊の学問で謂う‘あの世’と申しますのは、遠からず近からず。遠くというよりもとても近い。
どういうことか、これが‘この世’、自分は主体ですから‘この世’、それに対して客観的なあっち、境があるようで、ないような。しかし、この違いは大変なものなんです。
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読むことが目的
ネガティヴな現象でも結果がポジティヴに終わったら、今度個人の話で終わらせずに、それをどのように全世界の人々に働きかけるかを勉強されることをお勧めします。そのためにはコトタマ学集成本をお読みください、読んでどうするのか、読むことが目的です。
それは自分の魂に焼き付けることになります。その時が来れば自分の言葉として出てくる。文字は言葉が眠ったもの、言霊ン、火のかがや毘古(ホノカガヤビコ)といいます。誰もがうろうろする、三千年も長きにわたっての住家を出て新しい住家に引っ越すのですから当たり前のこと。
でも、うろうろしていても学問の十年なんてアッという間ですから。私が先生の所に出入りするようになったのが昭和三十七年頃でしたから。それから四十五年経った、始めの十年くらいは何のことか分からなかった、今でも思い出すことがあります。先生に「何故、血の色は“赤”っていうんですか?」、「夕日は真っ赤に燃えていますが、どうして“赤”と名つけたのでしょうか?」って。
幼稚な質問ですけど、先生は「分からないならお教えしましょう、私の顔を見てください、私もあなたの顔を見て言いますから、“ア” !・・・分かりましたか?」、「いえ、わかりません」。「“カ”!わかりましたか?」、「いえ、わかりません」。「そうですか、私の本をよくお読みになって下さい。そのうちに私が“ア”!とか“カ”!とか言わなくてもご自身でお分かりになる時が来ます。」
心に焼きつくような子音
「日本語というものは、頭の良い人が二三千年掛けて考え出した言葉です。ここで私が貴方に三分くらい説明したところで分かるはずがない。」、「理屈で分かったとしても、あなた自身は分かったと納得できないでしょう。それなら、自分が、そうか、そういうことか、と頷くまで努力して分かったら、その喜びは教えてもらったことよりも比較にならないほど理解も大きいはずです。」と小笠原先生は説明された。
それから十年位して、“ア”というのはこういうことか、“カ”はこういうことか、というのが理解できた。それはどうして分かったかと申しますと、石上神宮の布留之言本ヒフミ四十七文字(ヒフミヨイムナヤコトモチ ロラネシキルユヰツワヌ ソヲタハクメ カ ウオエニサリヘテ ノマスアセヱホレケ)、このなかの“カ”を普通ならソヲタハクメカと続けてしまう。
その時に“カ”の意味が「カァーッと心に焼き付いて一度見たら忘れられない、焼き火箸を真っ赤に焼いたのをまちがって触れてしまったら、「アチーッ!」って、もう二度と忘れない、“カ”はどういう子音なのかを感じることが出来た。その感じ方で物事を見ますと夕日は真っ赤で自分が吸い込まれそうになる。
あれを“ヘ”とか“ス”とかでは表現できません。なるほど、“カ”でなくてはならない、こうだから“カ”にしたというような生易しいものじゃない。赤色は目に焼きつくような色、他の色は赤色のように焼きつくような色ではありません。
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黄泉国
黄泉国の章に入ります。朗読します。
「かれここに伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」とのりたまひて、御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらび)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神。」
愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、というのは伊耶那美の命のこと、一木(ひとつき)というのはタトヨツテヤユエケメクムスルソセホヘラサロレノネカマナコの順で子を生んで言霊ンの神代文字とした、それが「易(か)えつるかも」。客観の世界へ行ってしまったのだ、今までは伊耶那岐命の命が主体としますと伊耶那美の命は客体として活動していたわけです。
伊耶那美の命は客体世界へ行ったので自分が研究整理すべき自分の心の中にある32の子音、ということになります。ここで区別をつけておきませんとさきほど申しましたように伊耶那岐の命がする仕事ですから、自分を中心にしてここを説きませんと筋が通らなくなります。私が見落としていたところもここにあります、ここを改めて強調させていただきます。
今日で終らせていただきたい個所はあくまでも自分の心の中に伊耶那美の命が客体として存在していたけれど、伊耶那美の命も自分の心の中にある、ということ、それを研究して自証して行く段階に入るわけです。
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古事記の十七先天神の母音と半母音と父韻の活動によって32の子音が生れる、33番目の子音として言霊ンも生れます。火之夜芸速男の神といって神代文字のことです。ここで伊耶那岐と伊耶那美の子供は生み終わりました。子種が絶えて伊耶那美の神は黄泉国へ行って亡くなったとあります。
今の国文学は仏教の説を取り入れて「あの世」というものを想定して黄泉国としております。ですが、あの世って何処にあるのでしょう、霊的現象から分るかもしれません。言霊の学問のあの世は近からず遠からず、というよりも遠くなくとてつも近い、あの、って言う前より近い。主体的なのはこの世です。客観的なのがあの世です。
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八咫鏡の学問
この学問というものがですね、五十音の言霊と、その動き方五十。これから成り立ってるんです。鏡餅ってありましょう。あれは上が五十音の言霊をかたどってる。下の少し大きいやつがその整理法・活用法・運用法を表す五十の仕方を表してるんです。それで、五十プラス五十、百集まって鏡ができるんです。それが八咫鏡と申します。そのことから、言霊の学問のことを「八咫鏡の学問」ともいうのです。
鏡餅の上のほうは伊勢神宮にお祀りしてある。それで、伊勢五十鈴宮と申します。五十の宮。人間も口を開けてこうしゃべりますから、これを鈴に譬えた。五十音の言霊は、伊勢神宮にお祀りしてある。
どういうように運用するかっていうことは、奈良の天理市というところにある石上神宮にお祀りしてある。伊勢神宮が上、下が石上神宮で、ひとつの言霊の学問が成り立ちます。これを布斗麻邇と申します。ですから、これだけで構造は五十の言霊としてもう講義上は「わかってしまった」ということになります。
それで、五十の言霊が今日いまここで全部決まりましたから、火の夜芸速男の神が出てきて、五十番目の言霊は言霊ンとしてもう出てきましたから、ですから、ここでもって言霊学の学問は前半が終了したということになります。
終了したと申しましても、さっき申しましたように、聞いてる方は何のことだかあまりよくわからないのが実情だと思います。「わかった」って人がいたら、天才というか、仏様というか、神様というか、すばらしい方ですけれども。「わかってない」というのがあたり前。わかるのはこれからなんです。これからのやり方で、わかってくるかわかってこないかが決まるわけです。
黄泉国、、、引用。
黄泉国の章に入ります。朗読します。
「かれここに伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」とのりたまひて、御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらび)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神。」
愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、というのは伊耶那美の命のこと、一木(ひとつき)というのはタトヨツテヤユエケメクムスルソセホヘラサロレノネカマナコの順で子を生んで言霊ンの神代文字とした、それが「易(か)えつるかも」。客観の世界へ行ってしまったのだ、今までは伊耶那岐命の命が主体としますと伊耶那美の命は客体として活動していたわけです。
伊耶那美の命は客体世界へ行ったので自分が研究整理すべき自分の心の中にある32の子音、ということになります。ここで区別をつけておきませんとさきほど申しましたように伊耶那岐の命がする仕事ですから、自分を中心にしてここを説きませんと筋が通らなくなります。私が見落としていたところもここにあります、ここを改めて強調させていただきます。
今日で終らせていただきたい個所はあくまでも自分の心の中に伊耶那美の命が客体として存在していたけれど、伊耶那美の命も自分の心の中にある、ということ、それを研究して自証して行く段階に入るわけです。
父韻の並び
「御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらび)御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、」、
和久産巣日(わくむすび)の神である天津菅麻音図のまだ何も三十二子音が配置されていない心の状態を仮定して、人が横になった構図を五十音に譬えて御枕方(みまくらへ)は音図に向って一番右(頭の方)はアオウエイの五母音、一番左(足の方)は御足方(みあとへ)のワヲウヱヰの五半母音、その間を行ったり来たりする葡匐(はらび)て、哭(な)きたまふ時、つまり発声してみるの意です。
「御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神」、
悲しくて泣いたは、鳴いた、行ったり来たりして主体と客体の間にはどういう関係があるのか、私と貴方の関係はああいうことがあってこういう結果になったな、と始まりはどうだったのだろう、結末はどうだったのだろう、一つの事件は主体に始まって客体で終るのですから、例えば起こった事象を自分の心で観るのに相談してみたがなるようになった、相手の言ったことや態度を自分の心の中で反芻してみると、どういう言葉を交わして結論が出たのか、それはどういう父韻の並びだったのか、それがだんだん分かって来る。
鳴き騒ぐと分かって来る、友達と諍いをしたけれども、「彼は何故あの時あんなに怒ったのだろう、何か言い過ぎたのかな」というようにだんだん後になって良くなったから、言い過ぎたのではなくて、アからワに亘る過程でそのような結末になる心の運びがあったからだということで父韻の並びが分ったということになります。
ただし、父韻のひとつひとつがどのように鳴くのか分らなければ分りません。それはどうやって分るか、その父韻は昔から言えば言霊のエの次元でなければ父韻は分らないと申上げてきました。けれども言霊の学問というものを宗教とか哲学とかの視点で見ればエの次元でなければ父韻が分らないでしょうが、言霊の学問を観点ぬきで見ますとそれは真実ではない、ということが分ってまいりました。
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‘あの世’って何処にあるんでしょうか?
かれここに伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」とのりたまひて、御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらび)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神。かれその神避(かむさ)りたまひし伊耶那美の神は、出雲(いずも)の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき。
古事記の先天17神は母音と父韻を含んでおりますけども、この17神が生まれてその活動によって32の子音が生まれます。33番目の子音として言霊ンも生まれます。
これが火の夜芸速男(ホノヤギハヤヲ)の神という神代文字の神でございます。これで以て伊耶那岐、伊耶那美の生んだ子はここで終わりになります。子種が絶えましたので伊耶那美命は、所謂病気になって遂には亡くなりました。
亡くなった伊耶那美命は、仏教の説から申しますと所謂、‘あの世’へ行ってしまった、‘あの世’って何処にあるんでしょうか?分かっている方手を挙げてみて下さい。分かっているようで分からない。
霊的現象を取り上げましたら半分くらいここにいる方はお分かりになっているかもしれません。しかし、言霊の学問で謂う‘あの世’と申しますのは、遠からず近からず。遠くというよりもとても近い。
どういうことか、これが‘この世’、自分は主体ですから‘この世’、それに対して客観的なあっち、境があるようで、ないような。しかし、この違いは大変なものなんです。
‘この世’とは主体の世の中
伊耶那岐、伊耶那美がですね、離婚して、後でもって宣言をするわけですが、もう一生、あんな冷たい夫婦はいないというくらい、「お前とは一緒になりません!」と厳然と断る。
両方共に、もし変なことを言ったら捻り潰すくらいの喧嘩をしてしまう。要するに‘この世’とは主体の世の中、私が三時間講演して、咳が出たら飲もうと思って買ったカルピス・ソーダ、「カルピス・ソーダ飲みたいな」と思うのは主観です。
でも、「このカルピス・ソーダ旨いかな」と思ったら客観です。その間どれ位ありますか?一瞬にして移ってしまう。「あぁ、何だ、カルピスが入っているのか」、主体と客体とは人間の心の切り替えで、年中やっていること。
魚屋さんに行って、「その鯛、今日はどうなの?」って、「おくさん、これ旨いよ!、生きがいいから買っていきな、高いよその代わり、その分」、「いくらなの?」、財布の中身見て、間に合うかな・・・ここまでは主観。
死んだら何処へ行ってしまうのか
「どうかな」と財布を開けたら、それはもう客観。それ位近い、それ位の差しかない。ということをよくお考え下さいませ。‘あの世’なんていうのは、この三千年間の、お釈迦様が生まれて二千八百年経ちましたが、「皇祖皇宗、‘あの世’はどうやって説明しましょうか?」
「お前が好きなようにしなよ」、「それじゃ、‘あの世’はあるようで、ないようなことでいいでしょうか?」、「お前がそう思うならそれでいいよ」、「それじゃ、そうさせていただきます」と言って説明したに過ぎない。
世界中の人がそう思っている、他のことを考えられない。それじゃ、ここは違うよ、と言っても、「死んだら何処へ行ってしまうのか」、答えられない、それで皆、反対しない。
分からない所へ行った、それを拝んで、お墓に刻んで、それで‘あの世’へ行った人はどうなんでしょ、考えてみると不思議なことなんです。ですが、世界中の人達がその不思議を何の疑いもなく、やっていらっしゃる。
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あの世
自分の生い立ちというもの、生い立ちの以前の叡智、どういう場面に現れて出てくるのか、それによって過去の歴史において、自分がどのような関係があったか、なかったか、その場にじーっと坐っておりますとよーく分ります。成る程なぁーって、生まれた時からあんなこともあった、こんなこともあったことが、こういう原因で起こったならば納得できるなぁとわからせてもらいました。
すべてのものから解放されて、いままでこうやってお話していることからも解放されて、大きな息をついている所、太安万侶さんのお話は初めからやらしていただきます。取り合えずは四月号会報の末尾に記しました古事記の文章の解説をいたします。
かれここに伊耶那岐の命の詔りたまはく、「愛(うつく)しき我(あ)が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易へつるかも」とのりたまひて、御枕方(みまくらへ)に匍匐(はらば)ひ御足方(みあとへ)に匍匐ひて哭(な)きたまふ時に、御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神。かれその神避(かむさ)りたまひし伊耶那美の神は、出雲の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき。ここに伊耶那岐の命、御佩(みは)せる十拳(とつか)の剣を抜きて、その子迦具土の神の頸(くび)を斬りたまひき。
ここにその御刀(みはかし)の前に着ける血、湯津石村(ゆついはむら)に走りつきて成りませる神の名は、石柝(いはさく)の神。次に根柝(ねさく)の神。次に石筒(いはつつ)の男(を)の神。次に御刀の本(もと)に着ける血も、湯津石村に走(たばし)りつきて成りませる神の名は甕速日(みかはやひ)の神。次に樋(ひ)速日の神。次に建御雷(たけみかづち)の男(を)の神。またの名は建布都(たけふつ)の神、またの名は豊(とよ)布都の神。次に御刀の手上(たがみ)に集まる血、手俣(たなまた)より漏(く)き出(いで)て成りませる神の名は、闇淤加美(くらおかみ)の神。次に闇御津羽(くらみつは)の神。
古事記の十七先天神の母音と半母音と父韻の活動によって32の子音が生れる、33番目の子音として言霊ンも生れます。火之夜芸速男の神といって神代文字のことです。ここで伊耶那岐と伊耶那美の子供は生み終わりました。子種が絶えて伊耶那美の神は黄泉国へ行って亡くなったとあります。
今の国文学は仏教の説を取り入れて「あの世」というものを想定して黄泉国としております。ですが、あの世って何処にあるのでしょう、霊的現象から分るかもしれません。言霊の学問のあの世は近からず遠からず、というよりも遠くなくとてつも近い、あの、って言う前より近い。主体的なのはこの世です。客観的なのがあの世です。