精神元素「ウ」の言霊と古事記。その1。
●0、古事記神代の巻冒頭百神によって与えられた「ウ」の神名・
天の御中主(みなかぬし)の神。
神名の解。
心の宇宙の(天の)、その宇宙の真中にいて(御中)、全ての意識活動の主人公である(主)、そういう実体としての神
天の・今此処の心の精神宇宙の、み・御・身・実・実体、な・名・相手・対象・、か・掻く・、ぬ・貫く・縫う・、し・止・
神名全体の意味。
・天の御中主の神という神名のそのままの意味は心の宇宙の(天の)真中にいる(御中)主人公である(主)神。
・今此処の心の精神宇宙の実体(み)とその名(な)が掻き集められ(か)貫き縫い合わされ統一されたまま(ぬ)求心的に中心に向かって静止している(し)。
言霊「ウ」の意味。
・我ここに有りの原始的な自覚体。今、此処の一点から始まる活動。その瞬間の一点にある宇宙の中心で、後に「我あり」の自覚に発展していく。何一つ現象の起こっていない心の世界。やがて意識の芽を生む。
心の出来事が起こる以前の主体側の母音の一つ。兆し。目に見えない、現象を起こしていない種々のエネルギーが充満している自然宇宙とそれを見ている人間側の心の宇宙の総体。心の宇宙にも自然宇宙と同然の感知出来ない心のエネルギーが充満している。そこにあるきっかけが加わると働き始め動き出す。
現象としてはそれ自信は姿を露さない心の宇宙。『独神(ひりとがみ)に成りまして、身を隠したまひき。』
先天構造。先天構造とは「認識論上、経験に先立ち、しかも経験の成立・構成の基礎となる領域」のことです。ですから人間の五官感覚(眼耳鼻舌身)では捉えることは出来ません。
言霊ウは全体的な姿を現さないものによって支えられ助けられている、あるいは全体を支え助ける、原因となり結果となるその始まりの瞬間、瞬発力等の意味合い。
例えば言霊ウからできた現象の浮くの場合、浮く浮いている結果を見るのではなく、浮く浮かすその元となる力を指す。産む、生む、動くも同様で、それらの結果を催す潜在力、傷が痛くてうずくのう、美しいものを見てなんと美しいという言葉の出て来る以前の全体の中に隠れているうが情感の中で拡がらんとしているその時のう、等々現象となって手応えを得る以前のうの事。
現象以前のうは天の御中主(みなかぬし)の神と名付けられてる。現象となったものあるいはその働きとして現象になるものは建速須佐の男の命、海原(ウの名の付く原)、現象言霊ウの主催者となっている。
言霊ウの心は心の宇宙の(天の)、その宇宙の真中にいて(御中)、全ての意識活動の主人公である(主)を示していて、その心の結び付き方、現れによって、うの名前がつく対象が出て来る。五十音図ウ段のう・クスツヌフムユル・ウの現象子音が発生する。
うは分解分析出来ない一つの全体の姿で存在している。石が沈んで葉が浮いて、では木片はどうなるのかという時、木片を水面に落としてみると、一端水中に隠れたものがまた顔を出し浮かぶ。この時の最初の浮かぶことを確認する衝動にうがある。それを結果の方に結んでいくと水は木片を助けて浮かび上がらせ支えて浮いている状態を作っているといえる。
また現象として目前の海を見ている場合、猟師がうと名付けたからうという名前が付いたのではなくて、猟師の心の先天構造にうが存在していることがまず前提となり、ついで、うと聞くものの心にも同じ先天の構造があるから同調できることになる。ただ名を付けるだけならへでもほでも構わないわけで、それでは当然日本語としての聞くものが共感感応する海とはならない。そこで、猟師がうとしてしか、あるいはどこの誰でも大和言葉の範囲内でならウと言わざるを得ない必然性を探すことになる。
では海『う』の発生に挑戦してみよう。猟師が始めて海を見たとする。それに名前を付けるまでを追う。
●一、天地初発の時。
猟師は山から海を見下ろし見たのか、突如海岸へ迷い出たのか分からない。始めての青い海原を見た。感動したかどうかも知らない。海を見た経験がないから経験を確かめたわけではない。だが類似はある。青々とした緑の草原、広々として大きな池、雲一つない青一色の空等、大きさと単色から来る印象があるだろう。またそれらから来る有用性、効用等も考えられるかもしれない。いずれにしろ自己の眼前に全面的に対するものの発見である。
ここでもし狙っていた獲物が出現したら、心はそちらへ向いてまた追い始めるだろう。その時は後に印象を回帰して記憶をたぐることになろう。今はそのまま海に心が向いたとしておく。従って始めての経験が始動することになる。まだ名の着いていない海を見て何かしらの五感感覚はある。そればかりか、他のものとの類似判別の知性も働かしたであろう。しかし、それをどうするかということは無い。選択行為に赴くには海の経験がないからだ。一応潜在的な状況はこんなところにしておく。
そこで猟師の側を見て海に対して、未だ経験したことがないから経験次元は除くが、類似への記憶はある。感動したかどうかも分からないので、情緒次元も除くが、情緒感覚は当然ある。意志によってどうこうするものではないので、意志の次元は除く。相手の海を選択して二分するわけにも行かず、選択行為の次元も除く。
そこで人間性能のうち残るのは五感による本能欲望次元だけとなる。
これは猟師にとってこうなるだけで、土地の人間はまた別だろうし、肝心なことは土地の漁師達には既に名前が付けられていることで、遅れてやってきた猟師はそれを確認をすることになるだろう。(わざわざこんな状況を設定しなくともよいが)
ここで本能欲望といっても海を食べたいとか飲みたいとかいうのではない。猟師にとって目前のものの名前を付けたい、この名前を知りたいという欲望の方向を取り上げているので、それは前記の次元のいずれにも属さないということです。関連は後から出て来るので今は取り上げないだけ。
ここで目前の海という客観対象とそれを見ている意識との関係をみる。
●父韻と欲望次元の言霊-----
精神元素「ウ」の言霊と古事記。その2。
●父韻と欲望次元の言霊-----
始めて海を見た漁師の精神性能状態によって対になった四つのグループに分ける。瞬間的な意識の記述になります。ここでは精神活動のどの部分がどのように海と結ばれるかを探ることになる。
父韻チ-イと海に名を与えたい欲望次元の言霊
1a・チ・心の宇宙がそのまま現象として姿を現す動き、となります。「人格宇宙全体がそのまま現象として姿を現わす端緒の力動韻。チ+ウでツ。始めて海を見た印象の始めは、わけの分からないものの全体的な動きを受けた印象から始まります。五感のどの部分が強いとか弱いとかはその人によります。同じ色彩を見ても受け取りは違いますが、当初に受け取ったその始めはハッキリしていないというのは普遍的なことです。目前の視界に拡がる全体的なものと結び着いたことでしょう。しかしそれを表現するのにた行タチツテトをもって海と心は結ばれそうもありません。
1b・イ・何の妨げもなく、新たな獲物が出現しないなら受けた印象はそのまま持続します。注意力もなく関心も興味もなければ受けた印象は立ち消えになるでしょう。その持続が続くなら、自らの日頃培った智恵・力量・記憶が自然に発揮されます。父韻チの瞬間力動がそのまま持続して行きます。・ヤ+ウでユ。イメージとしてまとまる途中のものが湯のように出て来るでしょう。目前のものは何時までも変わらずにいることを得るでしょう。しかしそれを表現するのにや行ヤイユエヨをもって海と心は結ばれそうもありません。
父韻キ-ミと海に名を与えたい欲望次元の言霊
2a・キ・何かを知ろうと、何であるか分かろうと、掻き繰る動作を示します。何を掻き繰る(かきくる)か、と言うと、自らの精神宇宙の中にあるもの(経験知、記憶等)を自分の手許に引寄せようとします。キ+ウでク。印象が消えないようエネルギーを供給して全体を支える。以上のこと以下のことも同様ですが、猟師がその場その時に海の名前を付けようと、後からであろうと、四組の構造に変化は無く、関心注意がある以上は自身に内在する隠れた経験に結びつかざるをえません。
だだっぴろい、静かでいて動いている、何の変化も無いようでそれでいて同じ変化を繰返し、香を運び風を生み音をもたらす、単音単色の中から常に何かが出てきそうな、感じです。それを表現するのにか行カキクケコをもって海と心は結ばれそうもありません。
2b・ミ・自らの精神宇宙内にあるものに結び附こうとします。人は何かを見た時、それが何であるかを確かめようとして過去に経験した同じように見える物に瞬間的に思いを馳せます。この動きの力動韻。ミ+ウでム。イメージを実体化する段階でどの相手にするかどこかに向かっていき結ばれようとするか、自分の方向を探ります。
相手は大き過ぎ、変化が無さ過ぎ、同じ事の繰返し過ぎ、こんな感じでしょう。それを表現するのにま行マミムメモをもって海と心は結ばれそうもありません。
父韻シ-リと海に名を与えたい欲望次元の言霊
3a・シ・方向が見つかれば人の心の動きが心の中心に向かって静まり納まる働きが始まります。シ+ウでス。そして決まった主張見解ができます。そこに静止した全体の姿を作る。
心の何に結ばれようとするのか、何が心と結ばれようとするのか、固定した特定された特色だけを見つけることができず、全体がそのまま押し寄せている、こんな感じです。それを表現するのにさ行サシスセソをもって海と心は結ばれそうもありません。
3b・リ・それは自他との共有に向けて人間の識別の力が心の宇宙の広がりに向かってどこまでも活用されるよう発展伸張していきます。リ+ウでル。ウが父韻リと結ばれると、風船が膨らむように、坩堝の中味が膨らむように拡がり出て来る。
特色個性ある規定ができず、単純な変化繰返しを受け入れることになる。それを表現するのにら行ラリルレロをもって海と心は結ばれそうもありません。
父韻ヒ-ニと海に名を与えたい欲望次元の言霊
4a・ヒ・共有を目指す為の接触面の創設です。文字言葉その他表現精神内容表現が精神宇宙球の表面に完成していきます。ヒ+ウでフ。具体化の為、潜在性、先天性から抜け出そうと意志を吹き出しイメージを創造しようとします。
海から受けた印象の特定化個性化を猟師は主張したいが心に感じているものは、動きはあるが小さいもので、繰返し同じことが産まれて来ることであり、それでいて海は海で自身で独立しているような、こんな感じ。それを表現するのには行ハヒフヘホをもって海と心は結ばれそうもありません。
4b・ニ・その実行の為心の奥に一つの事の原因となるものが煮つめられて行きます。ニ+ウでヌ。外にあったものがまた中に入っていく。
こうして海を目前にして(または記憶から甦らせて)得たものから心に煮詰められ現象の種ができていく。言葉の成立には聞くものにもこれと同じ過程が経過されて反復されることがひつようです。しかし煮詰める種を創造出来ませんでした。それを表現するのにな行をもって海と心は結ばれそうもありません。
こうして何らかのアイデアの芽が出ますが、この段階で他人と共有していない意識構造である場合には誰が何を言おうと通じるわけではありません。聞いた人が反復了解出来る意識構造が共有されている必要があります。このように自然に通じ合うことを無視するならば、言葉を強制強要したり売りつけたり買ったりして共有することもありますが、それはまた別の話になります。
ここでは猟師はうまく心に同調する言葉を見つけられませんでした。
・・・
そこで、指示をすれば勝手に名前が付くという考えを止めて、言葉としての成立を許す共通の先天的な場(高天原)は確認しようとします。こんどはまず、自分の中に自分の主張の場(淤能碁呂島[おのごろしま]己の心の領域)をきずくことになります。
●二、精神元素「ウ」の言霊と淤能碁呂島[おのごろしま](己れの心の締りの島)
1)先天の要求。
・自分が感じ考えたから言葉を発するのではありません。その前に意識の先天部分から言伝えのような命令のようなものがあります。意識されない頭脳内の先天十七(生命の先天部分)の言霊の原理的な初発の時です。言葉の発生以前の言語のプラットホームとなっていくものです。
同じ言葉が話されるという事は各人の先天が変わらず、言葉を創造する要素が変わらないからです。また、黙っていても通じ合うのは体験を共有しているから、その体験を心に描くだけで既に結んでいるわけです。全人類共通の心、全人類共通の体験のプラットホームとなっている十七の先天言霊の一つ。異なった言語を話すもの同士が後で通じ合うのも、そこに人間としての共通の十七の先天構造を共有しているからで、そのために人類の言葉は一つになることができる。
2)準備・
自分の主張の場を形成する準備がはじまります。ここに自分と海との存在がありますが、ここでは海を名付けようとする自分とその対象となっている海です。海の印象は猟師が受けとり、猟師はその印象にこれから向かうところです。ですので、対象は広々とした海ですが、頭脳内にあるのは受けた印象とそれを名付けようと問題としている狭い範囲内のことです。
3)自覚へ・
ここで印象といいますが、個人の印象のことではありません。もし個人の印象を問題にしたのならそこから産まれる言葉は百人百色となって通じることは無くなってしまいます。また、そこから来るように、海は広くみえるのでもなく、青いのでもなく、波がくり返し寄せて音を出しているのでもなく、海の香がするのでもありません。海は広くも狭くもなくそのもので、青くも白くもなくただ光の波長を出しているだけで、ザーという波動をだしているのでなく音の波動をだしているだけで、塩の香をだしてているのでなく香素をだしているだけです。それが生物の人間種において、その五感とシンクロしたときに現象となります。
ですのでここで言う印象とは人間猟師にシンクロをもたらす海の何かあるものということです。
相手は海ですが主体側において(猟師側)シンクロを催し媒介する何ものかが必要です。物質側でいえば光子とか空気、においの粒子とかになるでしょう。一方人間側においては、物質の受容器官になります。そして受容器官は脳内にて意識に転換されないとシンクロを受けることができません。さらに、物理的信号は意識の範囲内にて活動をしないと送受信が成り立ちません。その仲介役が先の八つの父韻です。
八千年もまえに既に古代人間はこれらのことを発見していました。古事記の冒頭はそのことを示しています。恐ろしき古代人です。その秘密は今も皇室内で眠っているといわれます。(本来の天皇の秘密はここにあります。--脱線)
4)実行・
そこで己の心の領域(島)では自分の内でシンクロするものを打ち立てることになります。意識が自他の分別を自覚する以前の何も分からず何も無い状態の中でムクムクとうごめく心がある状態です。言葉の発生を扱っていますから、ここで音声を母音・半母音、子音、父韻・親韻と分けて海に何と名付けるかを探すことになります。
●●●精神元素「ウ」の言霊と古事記。その3。
欲望の領域とそこから出て来るもの-----
精神元素「ウ」の言霊と古事記。その3。
欲望の領域とそこから出て来るもの-----
捜し物はいつも見つかるとは限らないし成功するとも限らない。
古事記に則して海を見て名付けに失敗することを見てみましょう。
5)失敗1、子水蛭子。
この場合は女が先に「いい男だね」と言ったから蛭子を生んだということになっています。言葉の発声に関して言えば、母音を先に発声したからという意味です。母音を先に発声して言葉になるのは母音だけです。子音はまずKSTNHMYRのイニシャルが頭に付かないと発声不能です。KSTNHMYRの八つは心の活動の動力となってその様態を表現していきます。失敗の1は母音に限ってなら発声出来るが、その母音には心の内容が付随していない、ふにゃふにゃの蛭というわけです。
それでも母音の世界はありますから産んでいくということです。
6)失敗2、淡島。
二つ目の失敗は既に出来てしまった領域(島)からまた領域を産み出すということです。これは普通に言えばわれわれ凡人の考え、学者の考えです。この世のほとんどの考え(良いも悪いも)のことです。海を見たときおならをしたからあれをへと名付けよう、海と空の二つしか見えないからふと名付けようというようなものです。これらはそれぞれ経験、記憶に助けられて勝手な展開をしていきます。(わたしのブログの全体も今のところはこのへの段階ですので、お手柔らかに)
7)改め、
そしてここから正式に名付け行為が始まります。
KSTNHMYRを頭に付けないと子音は産まれず、母音には魂が入っていないということが分かりました。では母音だけでもって意味のある言葉はどうなるのでしょうか。猟師はへという替わりにうと言ったかもしれません。そこで猟師は考えます。母音だけで勝手に名指ししたのでは駄目なので、生きた母音による名指しは出来るか検討します。
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ここでは多くを省略して、子音による名付け、うによる直接的な名付けに失敗したものとします。
そこで、猟師は再度先の父韻を取り上げます。今度は心の動きに合わせ名付けようとします。
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心(ア)と対象(ワ)との結びつき。
淡島(ア-ワ島)でなく淡(ア-ワ)路の穂の狭別の島に降りました。
猟師が海を名付けるには、自分の心にあるものと対象から得たものとが合致している自覚が必要です。
こういった経験は滅多にあるものではなく、ここから書くものも単なる例えの範囲を出ないでしょう。
父韻チと欲望次元の言霊
下0・
海を見ていると、何も始まらないのに何か始まる感じ、だだッ広くて大き過ぎて動きが無いのに何か動きうごめいている感じ、単調な繰返しで変化を期待出来ないのに何か産まれる感じ、表面の寄せる波の繰返しだけなのに波の中から何かが生れる感じ等々がある。
目に見えないけど、現象を起こしていないようでありながら、常に揺れ動くものがあって、何か生れそれから何かを得ることがあるように感じる。動きに乗れば次に何かが来るように思える。しかし、待てど暮らせど変化は無い。この変化を抑えられている感じ。
海の安っぽい絵画や写真を見ても、海の感じは得られない。水平線ははるか彼方にあり広さはわかる。しかしそれは不動のスナップで、単純微細な繰り返される動きを感じない。
1a・チ・
そのような心の宇宙がそのまま現象として姿を現す動きとなります。「人格宇宙全体がそのまま現象として姿を現わす端緒の力動韻のチの力を感じます。それはそのまま現象を目指して動き出します。
2a・キ・
何かを知ろうと、何であるか分かろうと、掻き繰る動作を示します。何を掻き繰る(かきくる)か、と言うと、自らの精神宇宙の中にあるもの(経験知、記憶等)を自分の手許に引寄せようとします。チの全体感が保持されていきます。
2b・ミ・
海を見ている体験の中で得られたものを、自分の精神内にあるものに結ぼうとします。
4a・ヒ・
共有を目指す為の接触面の創設です。主客の共感感応を言葉にしようとします。子音での表現はうまくいきませんでした。適当な母音での表現も失敗でした。ここでは猟師はうを選択しました。
3b・リ・
それは自他との共有に向けて人間の識別の力が心の宇宙の広がりに向かってどこまでも活用されるよう発展伸張していきます。うを選択して心のうを拡張していきます。自分の経験に合致しているかをみます。対象である海に投げかけ不都合な反撥が無いかをみます。
4b・ニ・
こうして選ばれた言葉が心の中に煮詰まります。まだ煮詰まる過程ですので特定はできていません。
1b・イ・
煮詰められる言葉の出現のために持続していきます。
3a・シ・
こうして自分の心と対象である海から得た心が一致し、うに集約していきます。
上0・
結論として海はうであり、うは海であることが相互の一致から確認されます。
己の心に海を見てうと名付けるアイデアが浮かびました。これは自分の頭脳内だけのことです。
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●三、精神元素「ウ」の言霊と島々の生成(宇宙区分、)
今度はそれを相手に伝え共有化しなければ言葉となりません。名付け指示しただけでは独り善がりの言葉です。古事記では言葉が相手に届いて了解されまでに三つの領域が設定されています。
津島(つしま)タトヨツテヤユエケメ。まず頭の中で自己確認です。先天のものがまとまっていく段階。
佐渡(さど)の島。クムスルソセホヘ。考えが言葉に組み結ばれる段階。
大倭豊秋津(おほやまととよあきつ)島。フモハヌ・ラサロレノネカマナコ。発音されて、聞かれて、了解される段階。
言葉が発声され聞かれました。現象となりました。しかしまだ社会的な共有性を得るまでの保証はありません。
間違いの無い言葉かどうかを検討していく過程が次に続きます(古事記では。でも、わたしのブログは一応ここまで)。
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「天の御中主の神 ウ」の全貌、4。
天の御中主の神 ウが伊耶那岐の大神となって禊ぎをする姿。
ここでは雪中に梅が咲くことを例にしたいと思います。
梅の木とそれを見る目、梅花を見ている意識とがこんがらがる予感があります。メモですから気にしないでください。
古事記によれば、全部で二十六の工程があります。まだ始める前ですが自分でも信じられない。本当にそんなことがあるのか。
雪を破って花が咲く、たったそれだけのことに二十六の工程を古代日本人は見ていたのでしょうか。
出来るところまで真似してみよう。
始まりは例によって0次元に初発時を設定することです。
ここを以ちて伊耶那岐の大神の詔りたまひしく、「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国に到りてありけり。かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」とのりたまひて、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。
1--かれ投げ棄(う)つる御杖に成りませる神の名は、衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神。
最初から躓きそうです。
古事記は常に上0次元の設定からはじまる。ここは伊耶那岐の神が伊耶那岐の大神となって、前段とは一線を画している。
伊耶那岐の神でいたときには伊耶那美を必要としていたのが、ここでは一体と、主客の統一した姿となっている。
さらに我々にとって問題なのは、伊耶那岐や天照が知っていることを何も知らないでいることだ。そんな中でこの問題を解こうとしている。
即ち、解こうとする意識が、「穢(きた)なき国」にお前たちは在住しているといわれている。
穢なきとは生田無(きたな)いの意。
生々した整理された五十音図表の如き整然さを欠いている文化の国といった意味であります。
そういう汚ない国へ行って来たので自分の身体の禊祓(みそぎはらひ)をしよう、と言った訳であります。
但し、禊祓とは現在の神社神道が言う様な滝や川の水を浴びたりして、個人の罪穢れを払拭するという個人救済の業ではありません。
そのために「身体」と言わず「御身」(おほみま)という言葉が使われています。
======上記は引用文ですが、今後そのまま断わり無くこのメモ(ブログ)に挿入されます。======。
汚いが、生田無いとは知らなかった。
とすれば、ここはわれわれの生田無い水準に照らしていくことになる。
大神のように原則原理を承知していなのだから、あはぎはら=言霊五十音図に行きようがない。
できることはまず真似てみることか。
1、番には、かれ投げ棄(う)つる御杖に成りませる神の名は、衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神。とあって、投入し頼りにして考えを支える御杖は五十音言霊図のことで、まずこれを設定し物事の判断の基準として斎き立てよという。
衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神。
衝き立つ、とは斎き立てるの謎です。判断に当って、その基準となる鏡を掲げることであります。
その鏡とは何なのかと言いますと、先に伊耶那岐の命が五十音言霊を整理・検討して、その結論として自らの主観内に確認した人間精神の最高構造である建御雷の男の神という五十音言霊図であります。
船は人を運ぶ乗物です。言葉は心を運びます。
その事から言葉を船に譬えます。神社の御神体としての鏡は船形の台に乗せられています。
でありますから、船戸の神とは、船という心の乗物である言葉を構成する五十音言霊図の戸、即ち鏡という事になります。
衝き立つ船戸の神とは、物事の判断の基準として斎き立てられた五十音言霊図の鏡の働き(神)という事になります。
此処では建御雷の男の神という五十音図の事です。
生田無いわれわれは古事記にいわれたようにする地がない。
無地のわれわれに古事記による教えという梅花が一輪、ちょうどそんなところか。
1--かれ投げ棄(う)つる御杖に成りませる神の名は、衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神。
真冬に花をつけるなんて、春を知らない気のくるった樹木か。
2--次に投げ棄つる御帯(みおび)に成りませる神の名は、道の長乳歯(みちのながちは)の神。
どんな道理があって、どんな関連のせいで花が咲いたのか。
3--次に投げ棄つる御嚢(みふくろ)に成りませる神の名は、時量師(ときおかし)の神。
現に現象として花が一輪あるのだからそこにはそれに見合ったものがあるのではないか。梅花に相応した時処位の現実があるのではないか。
4--次に投げ棄つる御衣(みけし)に成りませる神の名は、煩累の大人(わずらひのうし)の神。
その様々な疑問煩いはそのままにせず、明瞭化しなくてはならない。
5--次に投げ棄つる御褌(みはかま)に成りませる神の名は、道俣(ちまた)の神。
まずは袴が左右の足を別々にはくように、梅の様子を見ることか。
6--次に投げ棄つる御冠(みかかぶり)に成りませる神の名は、飽咋の大人(あきぐひのうし)の神。
ここで科学という経験知識の蓄積や既得の理性判断をもってすると、それは各人の経験判断の範囲内での意見になって、他の経験をする者から飽きられてしまう。明らかに判断を組み上げるには、頭の上に立って見渡す全体的な目を必要とする。
7--次に投げ棄つる左の御手の手纏(たまき)に成りませる神の名は、奥疎(おきさかる)の神。
そのためにはまず主体側の母音を立ち上げ起こし、当初の出発地点として設定しつつ、目標地点する必要がある。(母音行)
8--次に奥津那芸佐毘古(なぎさびこ)の神。
出発点は奥にある到達点に繋がって始めて自分を成就するが、その内容はもれなく運ばれていくことを要し、それなりの力なり芸が必要となる。(イザナギ-イザナミ)
9--次に奥津甲斐弁羅(かいべら)の神。
甲斐は山また山を越えていき、弁羅は減らすで、距離を一つ一つ減らしていくこと、つまり途中の山谷を了解して目標に到達する前8、番の現れ方を指す。(陽の父韻)
10-次に投げ棄つる右の御手の手纏に成りませる神の名は、辺疎(へさかる)の神。
7、8、9、番が出発地点から見ていくに対して、10、11、12、到達地点から見ていく。
到達地点にいる姿。(半母音行)
11-次に辺津那芸佐毘古(へつなぎさびこ)の神。
結論に達するのにすべての客体側にある有用なものを提供していく姿。(陰の父韻)
12-次に辺津甲斐弁羅(へつかいべら)の神。
到達地点が出発地点と同一になった姿。両者間の差異が減らされ出発点に現れる到達点。(母音行)
こうして出発点は到達点だという下0=上0の関係ができました。
ついで、その0=0の内容をけんとうしていくようです。
(梅の花がまだ出てきませんが、わたしもどうなるかいまのところ知りません。)
「天の御中主の神 ウ」の全貌、5。
1-12まででは汚き、生田無き、態度の実態と解明がなされたようです。
通常のわれわれの生活環境での思考態度、経験知識による意志決定は生田無いこととされました。
しかし、それは当然通過していく行為内にあるものとされています。
では、われわれの不十分さを補い乗り越えるにはどうするのでしょうか。
13、にはここに詔りたまはくと繰り返しの言葉がでてきます。前段では対象と主体との距離が縮められ主客の一体化が目指されました。ではそれはどういう工程を経ていくのか。
13-ここに詔りたまはく、「上(かみ)つ瀬は瀬速し、下(しも)つ瀬は弱し」と詔りたまひて、初めて中つ瀬に堕(い)り潜(かづ)きて、滌(すす)ぎたまふ時に、成りませる神の名は、八十禍津日(やそまがつひ)の神。
河の流れが例にだされています。流れは思考の流れ、主体が目標に向かう様子をいったものです。
いま私たちは阿波岐原(あはぎはら)にいて、その河を見ています。
実態はというと以下に引用します。
竺紫(つくし)の日向(ひむか)の 橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。
竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原は地図上に見られる地名を言っているのではありません。
たとえそういう地名が存在していたとしても、其処と古事記の文章とは関係ありません。
古事記の編者太安万侶が禊祓を行う精神上の場に対して附ける名前に、それにふさわしい地名を何処からか捜して持って来たに過ぎないからです。
岩波・角川両版の古事記共「所在不明」と注釈があります。
竺紫(つくし)とは尽(つ)くしの意です。
日向(ひむか)とは日に向うという意で、日(ひ)は霊(ひ)で言霊、日向で言霊原理に基づく、の意となります。
橘(たちばな)は性(たち)の名(な)の葉(は)で言霊の意。
小門(おど)は音。
阿波岐原(あはぎはら)とは図に示されますように、天津菅麻音図の四隅はアワイヰの四音が入ります。その中でイヰは音が詰まってギと発音され、結局アワギとなります。
そこで竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原の全部で言霊の原理に基づいてすべてが言霊の音によって埋められた天津菅麻音図という事になります。
原とは五十音図上の場(ば)の意味であります。
http://homepage2.nifty.com/studio-hearty/kototama_ver.1/lecture/no178/no178.htm
上中下とあってもあはぎ原に上流中流とかがあるわけではない。音図上の場所です。
7--次に投げ棄つる左の御手の手纏(たまき)に成りませる神の名は、奥疎(おきさかる)の神では、
そのためにはまず主体側の母音を立ち上げ起こし、当初の出発地点として設定しつつ、それを目標地点する必要があるとして、母音行を立ち上げることに触れましたが、どの母音に当るのかはまだです。
アオウエイの母音列の上のアと下のイを除いてオウエの中瀬が選択されました。
この中瀬全体から八十禍津日(やそまがつひ)の神、大禍津日(おほまがつひ)の神、神直毘(かむなほひ)の神、大直毘(おほなほひ)の神、伊豆能売(いずのめ)が産まれます。
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難しいので、中断します。
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14-次に大禍津日(おほまがつひ)の神。
この二神(ふたはしら)は、かの穢(きたな)き繁(し)き国に到りたまひし時の汚垢(けがれ)によりて成りませる神なり。
15-次にその禍を直さむとして成りませる神の名は、神直毘(かむなほひ)の神。
16-次に大直毘(おほなほひ)の神。
17-次に伊豆能売(いずのめ)。
18-次に水底(みなそこ)に滌(すすぎ)ぎたまふ時に成りませる神の名は、底津綿津見(そこつわたつみ)の神。
19-次に底筒(そこつつ)の男(を)の命。
20-中に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、中津綿津見の神。
21-次に中筒の男の命。
22-水の上に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、上津綿津見の神。
23-次に上筒の男の命。