底津綿津見(そこつわたつみ)の神。「身禊」21。
次に水底(みなそこ)に滌(すすぎ)ぎたまふ時に成りませる神の名は、底津綿津見(そこつわたつみ)の神。次に底筒(そこつつ)の男(を)の命。中に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、中津綿津見の神。次に中筒の男の命。水の上に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、上津綿津見の神。次に上筒の男の命。
---前もってこの段落全体を見通しておきましょう。-全部引用。-----
以上、底中上の綿津見の神、筒の男の命六神の解説を終ることとなりますが、御理解頂けたでありましょうか。伊耶那岐の大神が客観世界の総覧者である伊耶那美の命を我が身の内のものと見なし、自らの心を心とした御身(おほみま)を禊祓することによって外国の文化を摂取し、これを糧として人類文明を創造して行く禊祓の実践の作業は、これら六神に於ける確認によって大方の完成を見る事となります。そしてこの六神に於ける確認によって五十音言霊布斗麻邇の学問の総結論(天照大神、月読の命、建速須佐之男の命の三貴子[みはしらのうずみこ])の一歩手前まで進んで来た事になります。
ここで一気に総結論に入る前に、底津綿津見の神より上筒の男の命の六神の事について少々説明して置きたい事があります。古事記神話の始まりから結論までに五十音を構成している母音、半母音、父韻、親音については縷々(るる)お話をして来ました。けれど子音についてはそれ程紙面を割(さ)くことはありませんでした。何故なら子音の把握が他の音に比べて最も難しい為であります。子音は他の音と違って現象の単位です。現象でありますから、一瞬に現われ、消えてしまいます。母音、半母音、父韻、親音は理を以て何とか説明することが出来ますが、一瞬に現われては消える現象は説明の仕様がありません。そこに把握の難しさがあると言えます。
今までに子音に関する記述は、古事記の「子音創生」の所で見られます。先天十七言霊が活動を開始して、子音がタトヨツテヤユエ……と三十二個生まれ出る所であります。先天言霊の活動によって子音コ(大宜都比売の神)が生まれるまでに大事忍男の神(言霊タ)から始まり、鳥の石楠船の神(言霊ナ)までの三十一言霊の現象を経ることとなります。現象子音(コ)を生む為に頭脳内を三十一の子音現象を経過すると言うのですから理論上の想像は出来ても、その子音三十一の現象の連続の中から、一つ一つの子音の実相を把握することは殆(ほとん)ど不可能に近いと言わねばなりません。
けれど不可能だなどと呑気に言っている訳には参りません。日本人の祖先はチャンと三十二の子音を把握して、それによって物事の実相がハッキリ表わされるように名前を附け、現在に至るまで通用している日本語を造ったのですから。では子音を把握する手段は何処に発見されるのか。その唯一無二の道が底津綿津見の神より上筒の男の命までの六神が示す禊祓の実践の行程の中に発見されるのであります。
禊祓の実践者が、自らの心を心とし、外国の種々の文化を自らの身体とする伊耶那岐の大神の立場に立ち、自らの心の中に斎き立てた建御雷の男の神の音図を基本原理として、自らの御身を禊祓する時、自らの心の中つ瀬の底(エ)、中(ウ)、上(オ)段の行為は如何なる経過を辿って禊祓を完成させるか、を内観する時、水底の言霊エ段がエ・テケメヘレネエセ・ヱ、水の中の言霊ウ段がウ・ツクムフルヌユス・ウ、次に水の上である言霊オ段がオ・トコモホロノヨソ・ヲという明快な経過を経て、外国の文化を摂取する事が、心中に焼き付くが如くに把握され、自覚する事が出来るのであります。それは自己内面の心の変化の相として、比較的容易に各子音現象を自覚する事が出来る事となります。
以上の如く言霊エウオの段に属するそれぞれの八つの子音の把握は可能である事が分りました。残る現象の一次元であるア段の子音タカマハラナヤサは如何にしたらよいのでしょうか。それは禊祓を実践する人の心の中に、言霊アの感情性能の移り変わりの変化として自覚することが出来ます。それはア・タカマハラナヤサ・ワの初めから終りまでの経過として把握することが可能となるのであります。
この様にアオウエの現象の四母音次元に属する三十二個の現象子音は、人間精神の最小の要素である五十の言霊を操作して、人間が与えられた最高の性能である人類文明創造の実践の中に、今・此処即ち中今の生きた言霊の活動する相として把握され、自覚される事となります。そしてその子音の相の把握という事は、最近の会報の中で度々随想の形で書いてきた事でありますが、生きて活動している人が、自らの生命の実体、生命の実相を手に取って見るが如く確実に、自らの心の中に内観することなのであります。人が自らの生命の実体を自らの心の中に、正に事実として内観するのです。
人が生まれると新しい生命(いのち)の誕生と言われます。人が死ぬと一人の生命が失われたと言います。生命は人の最も尊いものと言われて来ました。けれど人はその生命とは何か、を知りません。最近生命科学がその生命の中に客観的物質科学のメスを入れ、遺伝子DNAの実像を解明しました。私はその方面の事には全くの門外漢でありますが、人類が客観的科学の研究によって生命そのものの内部の消息を明らかにしつつある時代となったと言う事でありましょう。それは素晴らしい事であります。けれど人類が客観とは反対の方向、即ち自らの生命を主観の方向に探究して、驚くべき事に今から少なくとも八千年以上昔に、既にその生命要素の実相を見極めてしまっていたという事実に、現代人の注意を喚起せねばならないと思います。太古の昔、日本人の祖先によって人間生命を内側に見て、そのすべてが言霊布斗麻邇の学として解明され、更に今現在、生命を外に見て、その究極にDNA等の学問として現代物質科学が解明を続けています。この人間が自分自身の生命の実相を内と外との両面から解明するという事実が、人類の将来にとって如何なる事を示唆しているのか、興味津々たるものがあります。
----参考の為に引用。------------
子音の自覚
自分の苦労がなくなっちゃったら、必然的に「自分ってどうしてこんなに幸せなんだろう」と思ったら、残ってるのは自分の幸せを考えようっていうんじゃなくて、自分の子供、兄弟が後に残っていくこの世界を「どうにかならないかな」って、こう考えるはずなんです。そうすると、子音がわかってくる。その見地に立たないと、子音っていうのはわからんのです。どんなに考えたって、わからないのです。その足場に上れば、「おまえわかるなよ。頼むからわかるなよ」って言っても、わかっちゃうんです。その場で見るから、わかるんです。下から見たんじゃわかんないんです。上って見ればわかる。これが子音というものです。そういうようにして、お勉強くださいませ。
そうすると、「わかろう。わかろう」なんていう心がなくて、自然とわかっちゃう。オギャアと生まれたときのそのままの境地になると、大半はわかっちゃう。ですから、「偉くなろう。賢くなろう。もっとものを知ろう」という心構えでは、これはわからないのです。絶対にわからないということだけは保証します。それで、母音の自覚が行われて、父韻がわかってくると、最後に子音がわかってまいります。子音というものはですね、完成なんです。
こうやって、どうして二拍手するか。神様の前でなんで二拍手するかっていうと、この子音の20個がわかると、言霊の学問の卒業なので、神様というのは十の二回ですから二十ですな。それでフトマニというのです。二十って「フト」と読むでしょ。二十のマニ。マニは言霊ですから。点々のつけられる音が20あるんですよ。勘定してみてください、20個あるはずですから。濁点がつけられる音が20あります。この20の音が何であるかがわかったときは、布斗麻邇の学問が全部わかったことになります。それは、「わかった」っていうにはですね、子音が全部わからなくちゃなりませんから、なんでわかったかっていえば、世界の文明創造に携わってくる人がわかるっていうんですから、そうするとわかってまいります。
これが、底津綿津見(ソコツワタツミ)の神、中津綿津見(ナカツワタツミ)の神、上津綿津見(ウワツワタツミ)の神というですな、古事記言霊百神の中の最後の最後に出てくる神様の名前。底津綿津見の神、中津綿津見の神、上津綿津見という。そこのところで、わかってくる。…ということになります。そういう順序でわかってまいります。
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水底(みなそこ)に滌(すすぎ)ぎたまふ時に成りませる神の名は、底津綿津見(そこつわたつみ)の神。
伊耶那岐の命の天津菅麻(すがそ)音図の母音アオウエイのアを上つ瀬、イを下つ瀬としましたので、オウエが中つ瀬となります。
そこで今度はオウエを区別するために中つ瀬の水底、水の中、水上の三つに分けたのであります。
即ち水の底は言霊エ段、中は言霊ウ段、水の上は言霊オ段となります。そこで水底である言霊エ段に於いて禊祓を致しますと、底津綿津見の神が生まれました。
底津とは底の港の意。言霊エの性能に於て禊祓をすると、外国の文化はエ段の初めの港、即ちエから始まり、最後に半母音ヱに於て世界文明に摂取されます。そうしますと、摂取されるべき外国文化の内容は底の津(港)から終りの津(港)に渡される事となります。
綿(わた)とは渡(わた)す事です。すると底津綿津見の神とは、言霊エから始まり、言霊ヱに終る働きによって外国の文化は世界文明に摂取されるのだ、という事が明らかにされた(見)という意だと分ります。
伊耶那岐の大神が心中に斎き立てた建御雷の男の神という音図の原理によれば、禊祓によって外国の文化を完全に摂取して所を得しめる事が可能だと分ったのです。
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『日本書紀』では底津少童命(そこつわたつみのみこと)と記されている。
海(わた)の底に沈んで禊して生んだ神は、底津少童命(そこつわたつみの
みこと)である。次に生んだ神は底筒男命(そこつつのをのみこと)である。
潮(しお)の中に潜って禊して生んだ神は、中津少童命(なかつわたつみの
みこと)である。次に生んだ神は中筒男命(なかつつのをのみこと)である。
潮(しお)の上に浮いて禊して生んだ神は、表津少童命(うわつわたつみの
みこと)である。次に生んだ神は表筒男命(うわつつのをのみこと)である。
---三つの瀬----------
あ・感情・・上つ瀬・→わ・八十禍津日の神・手で掴めない世界・(速し)
お・経験知・中つ瀬・→を・神直毘の神・・・オ・悟性・水の上・上津綿津見の神。次に上筒の男の命
う・欲望・・中つ瀬・→う・大直毘の神・・・ウ・現識・水の中・中津綿津見の神。次に中筒の男の命
え・実践智・中つ瀬・→江・伊豆能売・・・・エ・理性・水底・・底津綿津見の神。次に底筒の男の命
い・意志・・下つ瀬・→井・大禍津日の神・手で掴めない世界・(弱し)
---建御雷の男の神の音図--------------
あ
い
えてけめへれねえせ江
おとこもほろのよそを
うつくむふるぬゆすう
底津綿津見の神。「身禊」22。
---三つの瀬----------
あ・感情・・上つ瀬・→わ・八十禍津日の神・手で掴めない世界・(速し)
お・経験知・中つ瀬・→を・神直毘の神・・・オ・悟性・水の上・上津綿津見の神。次に上筒の男の命
う・欲望・・中つ瀬・→う・大直毘の神・・・ウ・現識・水の中・中津綿津見の神。次に中筒の男の命
え・実践智・中つ瀬・→江・伊豆能売・・・・エ・理性・水底・・底津綿津見の神。次に底筒の男の命
い・意志・・下つ瀬・→井・大禍津日の神・手で掴めない世界・(弱し)
----前回の抜粋です。-----------
子音は他の音と違って現象の単位です。現象でありますから、一瞬に現われ、消えてしまいます。
現象子音(コ)を生む為に頭脳内を三十一の子音現象を経過すると言うのですから理論上の想像は出来ても、その子音三十一の現象の連続の中から、一つ一つの子音の実相を把握することは殆(ほとん)ど不可能に近いと言わねばなりません。
子音を把握する手段は何処に発見されるのか。その唯一無二の道が底津綿津見の神より上筒の男の命までの六神が示す禊祓の実践の行程の中に発見されるのであります。
自分の幸せを考えようっていうんじゃなくて、自分の子供、兄弟が後に残っていくこの世界を「どうにかならないかな」って、こう考えるはずなんです。そうすると、子音がわかってくる。
底津とは底の港の意。言霊エの性能に於て禊祓をすると、外国の文化はエ段の初めの港、即ちエから始まり、最後に半母音ヱに於て世界文明に摂取されます。そうしますと、摂取されるべき外国文化の内容は底の津(港)から終りの津(港)に渡される事となります。
綿(わた)とは渡(わた)す事です。すると
底津綿津見の神とは、言霊エから始まり、言霊ヱに終る働きによって外国の文化は世界文明に摂取されるのだ、という事が明らかにされた(見)という意だと分ります。
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何を言っているのか誰にも分かりません。太の安万侶以来たった一人の方を除いて。一言メッセージ欄はそのかたのホームページアドレスです。
わたしの書いてきたことはその剽窃改悪です。ここまで結構頭だけでやってきましたけど、底津綿津見の神までやってきて、頭の回転が止まるようになりました。不思議な思いさえしています。
取り敢えず底津綿津見の神で考えたことを述べてみます。
底津はエからヱです。
綿は綿の木、弾けた実から咲いている綿の花。
津見は摘むから、綿の花を摘み取ること。
底津綿津見の神全体で、エからヱへ渡るのに、弾けた綿の実から咲いている綿の繊維を摘んでつまみあげる(津見)と、互いに絡み合って連綿と引き出されていく(津-津)ようにする性能を持った神ということです。
エウオの中つ瀬は「速し」でもなく「弱し」でもなく、現象として手に掴み確認出来る世界です。連綿と繋がり出て来る元の世界は国の常立ちの神言霊エ-豊雲野の神言霊ヱの世界です。
実際にはどういうことでょしょうか。伊耶那美が千人殺すというのは伊耶那岐が与えた選択肢でも有るわけです。ここを問題にしてみましょう。
チ、ここでの始まりは、伊耶那美が千人殺すこと、伊耶那岐が千五百人産むことを衝き立てました。殺す話は物騒なので適当に産屋(ものを産むことに関する全て)に該当するもの、金を設けるとか体力を創るとか産業を起こす、言葉の語彙を増やす等々、ものを生むための正当な支出に適当に変化させてください。
キ、両者の意図、主体側客体側の目標等に則ってまず、主体側の実相を明らかにして、伊耶那岐の方から見るなら千五百人、
ミ、ついで客体側の主張の実相を明らかにし、伊耶那美の言う千人、
ヒ、双方を満足させる言葉を探し、両者の統合を目指す。
リ、双方の主張が折り合いそれぞれの主張が目一杯繰り広げられ、
ニ、それぞれの行動の眼目が成立し
イ、実行が行われ、
シ、それぞれの目指す目標が達成される。
という一般的な進行に則って中つ瀬の水底のエの実践選択を以下の五神によって検討していく。
チ、千と千五百の目標が立っている。伊耶那美の千人に関してなら、以下五神を検討し、ついで千五百の検討に入ります。意図、目標、原則等の検討。綿つみの綿をつまんだところです。後から絡まった綿が連続して引き出されることでしょう。最初は意図を立てる段階での綿つみです。
道の長乳歯(みちのながちは)の神では一日に千人死ぬ(千五百人産まれる、以下同様)とはどういうことなのか、その過去経験、記憶、概念を繰り出し、判断を据えてそれと他の物事との関連性、及び他の事物の連続性のどこの時点にいるかを調べる。と同時に、
時量師(ときおかし)の神によって、千人という設定した目標の時処位の位置づけを検討し、その変移と選択のリズムを見て、判断を据えてそれが他の物事の実相の変化のリズムのどの時点にいるかを見極める。さらに、
煩累の大人(わずらひのうし)の神によって、千人というのは自らの心に響く実体である判断となっていることを納得し、その判断を据えて、それが他の事物に不明瞭さをもたらすことなく自身の不明瞭さも排して主張した言葉の意味をはっきり確認する。ついで、
道俣(ちまた)の神によって、主体側と客体側、こちらから起こす行為と相手側のその結果となるア-ワの分岐を混同せず、判断を据えてそれが出てきた自分と他の分岐点を明らかにする。そして、
飽咋の大人(あきぐひのうし)の神により、明らかに自分の千の主張が結ばれていく方向を導き、判断を据えてそれが他の者から実相を明らかに見て取れるようにそれを言葉に組んでいく。
キ、続いて主体側の綿をつまみます。五神の検討を千に沿って行い相手にその実体を提示する。
ミ、同様に五神の検討を千五百に沿って行い相手に提示する。
ヒ、収入支出、出入り、出生死亡、排気吸気、消費蓄積、等々プラスマイナスの両方を立てるような方向を探す。無闇矢鱈と千人を殺すというのは過去に照らし自分の能力に照らし、外部の条件に照らし可能かは既に前段で明かされています。ここでは各主張が満足いくように検討されるでしょう。
リ、後腐れ後悔の無いように各主張はそれぞれ目一杯に展開されることでしょう。
ニ、両者に満足のいくような主張が検討され展開されたなら、実行の為の眼目名目がなりたちます。自他ともに明らかなものとなっている必要があります。
イ、実行が行われることになるでしょう。どの段においても同様にここでも実行に関する五神は検討されなければなりません。
道の長乳歯(みちのながちは)の神では一日に千人死ぬ(千五百人産まれる、以下同様)名目が立ちましたので、実行に関して、その過去経験、記憶、概念を繰り出し、判断を据えてそれと他の物事との関連性、及び他の事物の連続性のどこの時点での実行をしつつあるのか、と同時に、
時量師(ときおかし)の神によって、千人という設定した目標の実行においてその時処位の位置づけを実行し、その変移と選択のリズムを見て、判断を据えてそれが他の物事の実相の変化のリズムのどの時点で実行しつつあるかを見極める。さらに、
煩累の大人(わずらひのうし)の神によって、千人に関する実行中にその行為が自らの心に響く実体である判断となっていることを納得でき、その判断を据えて、それが他の事物に不明瞭さをもたらすことなく自身の不明瞭さも排して実行しつつあることをはっきり確認する。ついで、
道俣(ちまた)の神によって、実行する主体側と客体側、こちらから起こす行為と相手側のその結果となるア-ワの分岐を混同せず、実行のけじめを据えてそれが出てきた自分と他の分岐点(表裏、陰陽、主客、前後、左右、上下等)を明らかにする。そして、
飽咋の大人(あきぐひのうし)の神により、こうして実行によって明らかに自分の千の主張が結ばれていく方向を導き、判断を据えてそれが他の者から見ても実相を明らかに見て取れるように実行していく。
シ、こうしてそれぞれの目指す行為に結果をもたらすことになる。
注。はじめて綿津見のことをやりましたのでいろいろ混じり合っているようです。エ段の選択に関することだけを思っていましたが、目茶苦茶になっています。また後で挑戦してみます。