中筒の男の命。「身禊」25。
次に中筒の男の命。
では言霊ウ段に於ける禊祓がどういう経過を踏んで達成されるか、の言霊子音での表現が明らかとなった事であります。即ちウよりウに渡る間の現象を言霊子音で示しますと、ウ・ツクムフルヌユス・ウの八子音で表わすことが出来、この実相が心に焼きつく如く明らかに禊祓を実行する人の心中に内観されることとなります。
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挑戦しよう。無門関 四十八、乾峯の一路
僧が和尚に問うた。「あらゆる世界の仏たちが涅槃に到達する道(悟り)はただ一つであると言いいますが、一体何処にその道はあるのでしょうか」 和尚は杖を挙げて目の前の一点を指し、「ここにある」と言った。
後にある僧が別の和尚にこの質問をした。すると和尚は扇子を取り上げて言った。「この扇子が飛び上がって三十三天に上がり帝釈天の鼻の穴に当たった。また東の海に住む鯉を一撃するとどしゃ降りの雨になる」
無門和尚の解説:一人の男は深海の底を歩いて高々たる山頂の道を示し、一人の男は高い山の頂にあって白波を天に届かせている。要点を押さえ、一切を解き放って、それぞれに片手を出し合って禅の教えを扶けている。二匹の駱駝が正面からぶつかりあったようなもので、この世に真実を知る人はいないであろう。正しい眼で見れば、この二人の和尚もまだ本当の路を知らないのだ。
頌曰く、「未だ足を揚げないうちに到っており、未だ舌を動かさないのに既に説き終わっている。だが、たとえ着々と人に対して先手々々と制していっても、この涅槃の一路に透入するには更に向上の要関があることを知らなければならない」。
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訳文がはっきりしませんが、禅のお話だからそうなるのでしょう。涅槃に至る道を聞いて、「ここだ、どしゃぶりだ」と答えがあり、無門はよく出来た答えだが、本当はまだ知らないのだ、と言っているとしておきます。座禅をしなくても何とかなるかやってみましょう。
『涅槃に至る道はどこにあるか』。『ここだ、どしゃぶりになるようなものだ。』
前回の「身禊」まとめを利用します。
●自分の立場を
・伊耶那岐の大神<主客を包含した唯一の立場>とします。
「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき<気田無き>国に到りてありけり。
質問した僧と答えた和尚と無門の全員の答えを穢(きた)なき<気田無き>国に到りてありけりとします。(が、三者とも次元が違うので後でどうなるか分かりません。)
わたしは御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」とのりたまひます。何も知らないくせに、でも、できるところまで挑戦です。先の見通しは立っていない。
阿波岐原(あはぎはら)<アワイヰに囲まれた場である五十音言霊音図>鏡となる判断基準がまだ頭に入っていないのに始めている。
●タカマハラナヤサの『タ』の内容
かれ投げ棄(う)つる御杖<判断を投入>に成りませる神の名は、
・衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神。<建御雷の男の神の精神構造図を鏡として>、ともかくまずは手元に置きました。
御帯(みおび)<関連連続性のオからヲ>に成りませる神の名は、
・道の長乳歯(みちのながちは)の神。<道理が長く連続している、母、半>
僧の質問は涅槃に至る道です。涅槃という言葉は仏教修業しているもの関心のあるものには既知の言葉です。僧も和尚も日々励んでいることでしょうが、体験したものではなく手に入れたものでもありません。
次に投げ棄つる御嚢裳(みも)<百の衣を投入>に成りませる神の名は、
・時量師(ときおかし)の神。<時間変化のリズム、処、位、父>
ウ次元キシチニヒミイリ天津金木音図、悟りたいという思いは三者三様で、
オ次元キチミヒシニイリ赤珠音図、修業の経験も違います。
ア次元チキリヒシニイミ宝音図、和尚は返答出来る方ですので悟りについての関心事にはある程度の自覚があります。僧は、涅槃という言葉に縛られてます。
次に投げ棄つる御衣(みけし)<心の衣、五十音図>に成りませる神の名は、
・煩累の大人(わずらひのうし)の神。<不明瞭曖昧さの整理>僧は質問の概念が明らかになることが目的となります。和尚にとっては自覚の内容が未来の目標となっています。
次に投げ棄つる御褌(みはかま)<分岐点>に成りませる神の名は、
・道俣(ちまた)の神。<表裏、陰陽、主客、前後、左右、上下等の分岐点を明かす>僧にとっては質問の言葉のの選択が問題となり、和尚は答えの言葉の選択に頭をひねるところです。
次に投げ棄つる御冠(みかかぶり)<五十音図の一番上のア段>に成りませる神の名は、
・飽咋の大人(あきぐひのうし)の神。<明らかに組むその当人となる働き>僧は自分の使用する言葉の内容を知りませんから涅槃という言葉は自分の心に質問になっているかどうかという意味でしか響きません。和尚は涅槃という言葉の内容から見ていこうとします。
●『カ・マ』の内容
次に投げ棄つる左<アオウエイ>の御手の手纏(たまき)<判断にまといつくもの>に成りませる神の名は、
・奥疎(おきさかる)の神。<何かを他の何かから始まりの処に遠ざける働き>
・奥津那芸佐毘古(なぎさびこ)の神。<始めにある何かを或る処に渡すすべての芸を助ける働きの力>
・奥津甲斐弁羅(かいべら)の神。<始めにあるものを渡して或るものとの間の距離を減らす働き>
僧は自分の立てた質問の正当さを問題にし、記憶概念に頼って言葉を探し、的確さを表現したいとなります。和尚は涅槃という概念宇宙から出ようと、例えを利用し、それによって的確さを保証したいと思います。
次に投げ棄つる右<ワヲウ江ヰ>の御手の手纏に成りませる神の名は、
・辺疎(へさかる)の神。<何かを他の何かから終結する処に遠ざける働き>
・辺津那芸佐毘古(へつなぎさびこ)の神。<終結点に向って何ものかを渡すすべての芸を助ける働きの力>
・辺津甲斐弁羅(へつかいべら)の神。<終結点にあるものを渡して、あるものとの間の距離を減らす働き>
しかし、両者とも実体的な経験はなく、涅槃の内容には入れません。両者とも涅槃の内容は確認はできないが、涅槃に至る道は提示できる、あるいは聞くことができる状態です。
●『ハラ』の内容
上(かみ)つ瀬は瀬速し、<ア-ワ>そこで両者は情感の領域である愛、仏の慈悲に頼るとある時にふっと何かがよぎることは感じられますが、それだけでは涅槃の解明はできず瀬速しとなります。
下(しも)つ瀬は弱し、<イ-ヰ>それでは経文教義に頼れば叡智をまともに見ることはできますが、涅槃の体得には弱しです。
中つ瀬<エ、ウ、オ>に堕(い)り潜(かづ)きて、滌(すす)ぎたまふ時に、成りませる神の名は
、
・八十禍津日(やそまがつひ)の神。言霊ア。<百音図の母音十音との半母音の十音は現象とはならない音でありますので、これを除きますと、残り八十音を得ます。この八十音が現象である実相、虚相を示す八十音、麻音図のア段(感情性能)の意義・内容の確認>
しかし、情感の閃きは速く力ないものですが、それを経験の視点に納めておく物以上のことがあることが分かります。
・大禍津日(おほまがつひ)の神。言霊イ。<イ段(意志性能)の意義・内容の確認、基礎原理>
この二神(ふたはしら)は、かの穢(きたな)き<気田無き>繁(し)き<>国に到りたまひし時の汚垢(けがれ)<気枯れ>によりて成りませる神なり。
叡智の原理原則も実際に立ち向かうには弱々しく頼りない弱々しいものですが、修業の意志を鼓舞するものであることが分かります。
●『ナ』の内容
次にその禍を直さむとして成りませる神の名は、
そこでもっと身近に手に掴めるものから入り直そうとします。
神直毘(かむなほひ)の神。<言霊オの宇宙>今までの経験知、概念知を噛み直してみます。
大直毘(おほなほひ)の神。<言霊ウの宇宙>そして検討し直し、
伊豆能売(いずのめ)。<言霊エの宇宙>概念に落ち込まない叡智を造り直します。
●『ヤ』の内容
次に水底(みなそこ)<言霊エ段、>に滌(すすぎ)ぎたまふ時に成りませる神の名は、
底津綿津見(そこつわたつみ)の神。<言霊エから始まり、言霊ヱに終る働きによって外国の文化は世界文明に摂取される>
涅槃に至る道はどこにあるかに対しては、ここと答えても飛び跳ねた魚の水が顔に当たったその時と答えてもいいわけですが、こことかその時とかを概念化すると綿をつまみ上げ引き出す連続性が切れてしまいます。
底筒(そこつつ)の男(を)の命。<言霊エから始まり、言霊ヱまでにどんな現象が実際に起るのか、が検討され、明らかに現象子音の八つの言霊によって示される事が分ります、エ・テケメヘレネエセ・ヱの八つの子音の連続>
そこで答えの選択と同時に連続も保証されなければなりません。
中<言霊ウ段、>に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、
中津綿津見の神。<言霊ウの欲望性能で禊祓をすると、外国の産業経済活動が世界の経済機構に吸収され、その結果世界経済の中で所を得しめる働きがある>
涅槃に至る道は探すなり行きたい入りたい欲求が持続していなければなりません。
中筒の男の命。<言霊ウ段に於ける禊祓がどういう経過を踏んで達成されるか、の言霊子音での表現が明らかとなった、ウ・ツクムフルヌユス・ウの八子音で表わす>
そこで和尚が「ここだ」と言って、僧が安心して終わったらくそ坊主になってしまいます。
水の上<言霊オ段>に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、
上津綿津見の神。<言霊オから言霊ヲまでの働きによって外国で生れて来る各種の学問や思想等が人類の知的財産として摂取され、人類全体の知的財産の向上のためにその所を得しめることが可能であると確認された>
和尚と僧には実践経験されるものとして、答えが必要です。
上筒の男の命。<外国の学問・思想等知的産物が世界人類の知的財産として所を得しめられるまでに、八つの現象を経過して行なわれる事が分りました。その経路はオ・トコモホロノヨソ・ヲの八つの子音であります>
『涅槃に至る道はどこにあるか』
『ない』
これがわたしの答えとなりました。
解説するとボロが出ますが取り敢えず。
その道は釈迦が示し多くの過去現在の宗教家が教えています。しかし釈迦は涅槃とは何かを説いた事は無いといいます。もしそうなら涅槃へ至る道を教える方が多過ぎます。