伊耶那美の命のりたまはく、「愛しき我が汝兄の命、かくしたまはば、汝の国の人草、一日に千頭絞(くび)り殺さむ」とのりたまひき。ここに伊耶那岐の命、のりたまはく、「愛しき我が汝妹の命、汝(みまし)然したまはば、吾は一日に千五百(ちいほ)の産屋(うぶや)を立てむ」とのりたまひき。ここを以ちて一日にかならず千人(ちたり)死に、一日にかならず千五百人(ちいほたり)なも生まるる。
「愛しき我が汝兄の命、かくしたまはば、…」とは夫君である伊耶那岐の命が千引の石を挟んで、向い合い、離婚宣言をしたので、の意味であります。「私と離婚するならば、貴方の国、即ち高天原日本の国の人を一日に千人頚を絞めて殺しますよ」と伊耶那美の命が言ったのであります。すると伊耶那岐の命は「貴方がそのような事をするのなら、私は対向上一日に千五百の産屋を立てましょう。即ち一日に千五百人の人を生みましょう」と言ったのであります。この故事(こじ)に基づいて、これ以後一日に千人の人が必ず死に、また一日に千五百人の人が必ず生れることになったのです、と言う事になります。どうも話が物騒な事になりました。角川書店版の古事記では、その注に「人口増殖の起源説話」と説明され、また岩波書店版の古事記には「人の生と死の起源を説明するが本義の神話」と注釈されています。けれど必ずしもこの神話は人間の生死について説かれたものではありません。この事について少々説明してみようと思います。
人を千人絞り殺す事に対して、千五百人の人を生もう、というこの説話は伊耶那美の命の「貴方がこのように私との離婚を宣言なさるなら、…」という高天原と黄泉国との間の往来の禁止、その事によって高天原の主宰者である伊耶那岐の命と、黄泉国(よもつくに)の主宰者である伊耶那美の命との離婚となった訳です。では何故そのような事態になったのか、と言えば、前号に述べられていますように、伊耶那岐の命は伊耶那美の命を追って黄泉国に行き、その無秩序・不整理の文化に接し、驚いて高天原に逃げ帰ります。その帰途、十拳剣を後手(しりへで)に振って、黄泉国の物事を客観的に見て研究する文化の内容を見極め、それ等の諸文化を高天原の物事を主観的に見る建御雷の男の神という鏡に照らすならば、世界人類の文明に統合する事が可能である事の證明をも自覚する事が出来た為に、高天原の精神文明と黄泉国の物質文明は同一の場では論じる事が出来ないと判断し、その結果、高天原と黄泉国との両主宰者の離婚宣言となった訳であります。
右の岐美二神の交渉の経緯から考えまして人を生むとか殺すとかいう話は、感情的に憎む・恨むという行動ではなく、精神文明と物質科学文明との研究内容の問題として考える方が妥当であろうと思われます。そこで次の如き解釈が生れます。
精神文明と物質科学文明とを問わず、その文明の根幹を担うものは言葉と数と文字であります。この三つの要素の中で、今取り上げるべきものは言葉と文字、とりわけ言葉でありましょう。言葉の中で特に高天原日本の言葉は先天・後天現象の究極の要素である言霊を物事の実相に即して組合せて作った言葉でありますから、文字通りその言葉は物事の実相を表わしており、その他に何の説明をも要しないものです。その高天原の言葉に対し、黄泉国の言葉は如何なるものでありましょうか。物質科学の研究は物を分析して、即ち破壊してそれを構成している部分々々に別け、その性質・内容を調べる事から始まります。物を分析・破壊するとは、その物の名を破壊することでもあります。そして分析した部分々々に、言霊ではない言葉、即ち研究者の経験知識より生み出された言葉によって物質科学の世界での言葉を附けることとなります。例えば水(みず)を分析し、そこに分解された水素と酸素との二者を命名し、元の水にH2Oの名を与えます。高天原の言葉である「みず」は殺され、H2Oという黄泉国の名前になりました。この様にして黄泉国の物質文明が発展して行く裏には高天原の美しい名によって表わされた物事の実相は一日に千どころか、その何倍もの言葉が絞り殺されて行きます。「一日に千頭(ちがしら)絞(くび)り殺さむ」と伊耶那美の命は言った筈であります。それに対して伊耶那岐の命は「貴方がそうするなら高天原の美しい実相を表わす言葉を一日に千五百も作りましょう」と言ったのであります。此処に取上げる神話の実意は人口増殖とか、人間の生と死の問題ではなく、高天原の精神文明と黄泉国の物質科学文明との根底部分、即ちそれぞれの領域での言葉の相違を述べたものであることを御理解頂けたものと思います。 (島田正路著 「古事記と言霊」講座 より)
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