建速須佐の男の命。「身禊」。
次に御鼻を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、建速須佐の男の命。
顔の真中の鼻に当るのは言霊ウの性能、五官感覚に基づく欲望です。その働きの社会に於ける活動は産業・経済です。禊祓によって人間の欲望性能に基づく世界各地の産業・経済活動を統轄して世界人類の物質的福祉に寄与させる働きの最高の精神規範の自覚の完成が確認されました。建速須佐の男の命の誕生です。その原理を言霊麻邇を以て表わしますと、中筒の男の命で明らかにされました如く、ウ・ツクムフルヌユス・ウとなります。
両児島(ふたご)またの名は天之両屋(あめのふたや)
以上、八十禍津日の神より建速須佐の男の命までの合計十四神が心の宇宙の中で占める区分(宝座)を両児島または天之両屋(ふたや)といいます。両児または両屋と両の字が附けられますのは、この言霊百神の原理の話の最終段階で、百音図の上段の人間の精神を構成する最終要素である言霊五十個と、下段の五十個の言霊を操作・運用して人間精神の最高の規範を作り出す方法との上下二段(両屋)それぞれの原理が確立され、文字通り言霊百神の道、即ち百道(もち)の学問が完成された事を示しております。先に古事記の神話の中で、言霊子音を生む前に、言霊それぞれが心の宇宙に占める区分として計十四の島を設定しました。今回の両児の島にてその宇宙区分の話も終った事になります。
伊耶那岐の大神の顔に譬えられた左の御目、右の御目、御鼻から生まれました天照らす大御神・月読の命・建速須佐の男の命の三神を三貴子(みはしらのうずみこ)と呼びます。言霊百神、布斗麻邇の学問の総結論であります。幾度か繰返す事ですが、古事記神話の始め天の御中主の神(言霊ウ)より火の夜芸速男(ほのやぎはやを)の神(言霊ン)までの五十神が心の構成要素である五十個の言霊、次に五十一番目の神、金山毘古の神より百番目の建速須佐の男の命までの五十神が言霊の操作法を示す神名であります。前の言霊五十神が鏡餅の上段、後の五十神が鏡餅の下段に当り、二段の鏡餅で言霊百神、即ち百(も)の道(ち)の原理となります。現在の伊勢神宮は五十の言霊を祭る宮であり、その古名は柝釧(裂口代[さくしろ])五十鈴(いすず)宮であります。また言霊の操作法五十神を祭る宮は石上神宮であり、太古より神宮に伝わる「布留の言本(ふるのこともと)」日文四十七文字は、言霊四十七を重複することなく並べて、五十音の操作法を教えております。
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全人類史を見渡す規模での、現代の位置を解きたく思いました。
二つの方向がありそうです。
1) チイキミシリイニ--人類史を自然過程として見る場合。
2)チキミヒリニイシ--人類史を人間による創造意志の実現としてみる場合。
1)は人間の生物としての歴史みたいになりそうなので、2)を取り上げます。
人の歴史はとりもなおさず、創造意志を実現していく歴史となりそうですが、もちろんそれだけではありません。。
ウ)の次元。基礎的なものに欲望があります。欲望の元に肉体精神が行動し、欲しい欲しいが実現し産業経済が成り立ちます。
オ)の次元。同様に、欲望の出発点には既に概念抽象意識、経験意識が控えていて欲望を支えます。また独自に発達していき、学問科学等経験概念を扱う領域を拡大させていきます。
エ)の次元。同様に、経験知識の出発点には、せんたくする実践行動が控えています。それはまた独自に発達していき、政治まつりごと道徳を発展させていきます。
ア)の次元。同様に、人間の基本構造には感情情動の領域があって、それらは喜怒哀楽の表現となっていきます。この領域からは宗教芸術活動が独自に発達していきます。
イ)そして、意志の創造活動の次元があります。
それらは順次に上昇して行くと同時に重層的に同じ地点から動き出します。赤ちゃんは欲望行為をするだけのように見えますが、その中に拙い意志行為、拙い情動、拙い選択行為、拙い経験知識が控えていてそれらの全ての現れが拙い欲望行為となっています。
そこで人類史の始まりです。
チ・普通人類史の始まりは動物同様の欲望行為として描かれることが多い。そして知識と理性が発達して文明を作ったことになっている。しかし現在においても動物的な欲望行為が無くなっていないのは明白です。金が欲しい欲しいで人を殺し、株式金融市場を発明し戦争を起こし、人を動物労働力としてできる限り賃金を与えないようにしています。経済産業活動は欲望から始まることなので、人類史の始めと現在に本質的な違いはありません。古代人であろうと現代人であろうと、自分の肉体知識の持てる総体を投入して対象に立ち向かいます。
では古代人の持てる総体とはどんなものであったでしょうか。古代の遺産から想像すれば、巨大な墓づくり、遠大な旅行、創造を絶する神話、人類のその後を決める科学経験空想知識等、また豊でおおらかな情動の発露等、驚かされるものばかりです。
人とは何か人生とは何か何故生きるのか、これらは数千年数百年に渡って考えられたものでしょう。欲望に支配されその日その日を送っていたわけではありません。現代では青年期の一時期だけ、人生のこと生きること考えること言葉を話すとは何か等を思い、後は立ち消えになることが多い。しかし当時は人類全体として考えられていたこととおもわれます。それらの中で多くの古代思想家が個人として名を残しています。
その時期に、あるいはもっとそれ以前に、もう一つの重要なことが起きています。個人で考えられたことでなく、社会全体で考えられたこと、社会全体が参加することについてです。どのように社会を維持していくかについてです。現代においては社会の維持は道徳宗教政治等が直線間接にその役目を引き受けています。しかし、それらの元となっているのは共通の言葉です。共通の言葉がなければ、社会にたいしても、自分に対しても生きていくことができません。
言葉は言葉が存在する有ると言うだけでなく、言葉の伝達行為以前に、言葉が共通であることが必要です。基盤がなければ、伝達はできません。そこで古代人は言葉とは何かばかりか、共通の言葉を作ることを主題にした研究が始まりました。
物に名前が付かなければ、あワワワワうーぅ、、、です。また各人が勝手に名前をつけたのでは、海を見て漁師はウと言って、猟師はへと言って、また百姓はふと、旅人はきと言ったのでは社会がまとまりません。もしそれらで統一したければ、権力とか財力とか命令とかが必要となるでしょう。
古代人はそのようにものを指示して名前を付ける方法をとりませんでした。ちょうど現代において物質とは何を求めて、物質の元となる元素を見出していったように、古代において、言葉と意識の関係から意識を表現する元素を探求していきました。
そして古代人はとうとうそれを発見し、それよって物の名前を表現し、自分を主張して相手の意見も聞くことができるようになったのです。物を見て勝手に付けられた名前ではなく、誰の心にもその意識にも響く名が共通の元素意識の中から付けられていきました。それがフトマニと呼ばれ言霊と呼ばれるものです。
意識元素ですからもうそれ以上分ける事はできません。意識元素はそれ自身で一つの意識を表現しています。それは一つの言葉として表現されていまので、一つの言葉はそのまま一つの意識を表します。現在通用している言霊は言葉の意味内容が働きなり力なりを持っているとするものです。しかし、本来の言霊はそれらとは違って、言葉そのものが霊であり意味内容です。前者では言葉の意味、言葉の魂を言霊と言うのに対して、本来は、言葉が霊であることをいいます。言葉の魂と、言葉が魂との違いです。
古代人が発見した意識元素、言霊の元素は五十個です。おそらく数百年、千年単位の努力の末に見出されたものでしょう。その成果は全人類の宝となるもので、現在においても世界人類のために保持されています。何しろ人間の意識の問題が数千年の昔に解決されてしまっているのですからなんとも驚くべきことです。
こうして人間の創造意志による歴史は出発地点に立とうとしています。
五十の意識元素、その表現である言霊五十個は、確立された後にそれを利用した幸せな社会を作るために実際行動に移されました。八千年前のことと言われています。
わたしの今回のシリーズはここまでとしておきます。
この後、チ・キ・ミ・ヒ・リ・ニ・イ・シ・とするつもりでしたが、わたしがやると力不足で改悪となりそうです。