己のこころの領域、(己れの心の締りの全体図)・・淤能碁呂島(おのろご)
とうとう己の意識の発生にまで辿り着けました。
意識に至るまでの全体図を示しましょう。
❶先天。こころの原論の古事記。
第一部 前半五十神
一、先天性。天地初発の時(先天十七言霊)
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1・・・・・ こころの宇宙 『 天地 』
○ 古事記『 天地』
2・・・・・ こころのエネルギー
天譲日天狭霧国禅月国狭霧の尊。 (心の問題の出所)
○ 古事記『初発(はじめ)の時、』
(こころの島。一)、淡路の穂の狭別の島
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○ 古事記『高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。』
3・・・・・ こころの発生
(1)天の御中主の神 言霊ウ (こころの発生、問題の提示)
(こころの島。二)、伊豫の二名島
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○ 古事記『次に高御産巣日(たかみむすび)の神。次に神産巣日(かみむすび)の神。
この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。 』
4・・・・・ こころの自覚 主体と客体。
(2)高御産巣日の神 言霊ア (心の自覚、主体)
(3)神産巣日の神 言霊ワ (心の自覚、客体)
5・・・・・ こころの構造 経験と選択。
(こころの島。三)、隠岐の三子島
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○ 古事記『次に国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に天の常立(とこたち)の神。この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。
次に成りませる神の名は、国の常立(とこたち)の神。次に豊雲野(とよくも)の神。この二柱の神も、独神に成りまして、身を隠したまひき。』
(4)天の常立の神 言霊オ (こころの構造、経験)
(5)宇摩志阿斯訶備比古遅の神 言霊ヲ
(6)国の常立の神 言霊エ (こころの構造、選択)
(7)豊雲野の神 言霊ヱ
(こころの島。四)、竺紫の島
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○ 古事記『 次に成りませる神の名は、宇比地邇(うひぢに)の神。次に妹須比智邇(いもすひぢに)の神。次に角杙(つのぐひ)の神。次に妹活杙(いくぐひ)の神。次に意富斗能地(おほとのぢ)の神。次に妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。次に於母陀流(おもだる)の神。次に妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。
』
6・・・・・ こころの創造原理 (父韻)
○豊の国 豊(トヨ)日別 (タ行とヤ行の暗示) →竺紫(つく・し)・し(イ段)につく→言霊チと言霊イ
(8)宇(ウ)比地邇神(ひぢに)・ 言霊チ (ウ) 全体性の主体側、陽、能動、夫、作用側
(9)妹須(ス)比地邇神(ひぢに) ・言霊イ (ウからオへ) 全体性の客体側、陰、受動、婦、反作用側
○熊(クマ)曽の国 建日別 (カ行とマ行の暗示)→言霊キと言霊ミ
(10)角杙神(つのぐひ)・ 言霊キ (オ) 組み混ぜる主体側、陽、能動、夫、作用側
(11) 妹生杙神(いくぐひ) ・ 言霊ミ (ヲからヱへ) 組み混ぜる客体側、陰、受動、婦、反作用側
○竺紫の国 白(シラ)日別 (サ行とラ行の暗示) →言霊シと言霊リ
(12) 意富斗能地神(おほとのぢ)・ 言霊シ (エ)付き従う主体側、陽、能動、夫、作用側
(13)妹大斗乃弁神(おほとのべ) ・言霊リ (ヱからアへ)付き従う客体側、陰、受動、婦、反作用側
○肥の国 建日向日豊久志比泥(ヒネ)別 (ハ行とナ行の暗示) →言霊ヒと言霊ニ
(14)於母陀流神(おもだる)・ 言霊ヒ (ア)表面に拡がる主体側、陽、能動、夫、作用側
(15) 妹阿夜訶志古泥神(あやかしこね)・言霊ニ (ワからウ、スへ)表面に拡がる客体側、陰、受動、婦、反作用側
(こころの島。五)、伊岐の島
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○ 古事記『次に伊耶那岐(いざなぎ)の神。次に妹伊耶那美(み)の神。』
7・・・・・ こころの御柱、創造意志
(16) 伊耶那岐神 言霊 イ (意志の発動)親韻
(17) 伊耶那美神 言霊 ヰ (意志の帰還)
二、淤能碁呂島[おのごろしま] 己の意識とは。 (己れの心の締りの島)
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8・・・・・ 己のこころの領域、(己れの心の締り)
・・淤能碁呂島(おのろご)
・・おのれの主張の発生・先天からの要求
○ 古事記『 ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき。』
・・おのれのこころ内の準備
○ 古事記『 かれ二柱の神、天の浮橋(うきはし)に立たして、その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、引き上げたまひし時に、その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、これ淤能碁呂島(おのろご)なり。その島に天降(あも)りまして、天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。』
・・ おのれのこころの自覚へ
○ 古事記『ここにその妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」とまをしたまひき。ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。故(かれ)この吾が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、伊耶那美の命答へたまはく、「しか善けむ」とまをしたまひき。』
・・ おのれのこころの創造へ
○ 古事記『ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて、美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ」とのりたまひき。かく期(ちぎ)りて、すなはち詔りたまひしく、「汝は右より廻り逢へ。我は左より廻り逢はむ」とのりたまひて、約(ちぎ)り竟(を)へて廻りたまふ時に、伊耶那美の命まづ「あなにやし、えをとこを」とのりたまひ、後に伊耶那岐の命「あなにやし、え娘子(をとめ)を」とのりたまひき。』
・・. おのれのこころの島(領域)生み
○ 古事記『おのもおのものりたまひ竟(を)へて後に、その妹に告りたまひしく、「女人(おみな)先だち言へるはふさはず」とのりたまひき。』
・・. 蛭子というおのれのこころの失敗領域
○ 古事記『然れども隠処(くみど)に興(おこ)して子水蛭子(みこひるこ)を生みたまひき。この子は葦船(あしぶね)に入れて流し去(や)りつ。』
・・. 淡島というおのれのこころの失敗領域
○ 古事記『次に淡島を生みたまひき。こも子の例(かず)に入らず。』
・・. 改め、こころ創生の基本原理を問う。魂の変態、次元上昇。
○ 古事記『 ここに二柱の神議(はか)りたまひて、「今、吾が生める子ふさわず。なほうべ天つ神の御所(みもと)に白(まを)さな」とのりたまひて、すなはち共に参(ま)ゐ上がりて、天つ神の命を請ひたまひき。ここに天つ神の命以ちて、太卜(ふとまに)に卜(うら)へてのりたまひしく、「女(おみな)の先立ち言ひしに因りてふさはず、また還り降りて改め言へ」とのりたまひき。』
三、島々の生成(宇宙区分、十四島)
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i. おのれのこころを生む条件、愛と締まり
○ 古事記『かれここに降りまして、更にその天の御柱を往き廻りたまふこと、先の如くなりき。ここに伊耶那岐の命、まづ「あなにやし、えをとめを」とのりたまひ、後に妹伊耶那美の命、「あなにやし、えをとこを」とのりたまひき。かくのりたまひ竟へて、御合いまして、子淡路の穂の狭別の島を生みたまひき。』
j. おのれのこころの全領域 (おのれのこころの宇宙)
==1== こころの先天領域、 (天津盤境)
○ 古事記『 子淡路の穂の狭別の島を生みたまひき。次に伊予の二名(ふたな)の島を生みたまひき。この島は身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。かれ伊予の国を愛比売(えひめ)といひ、讃岐の国を飯依比古(いいよりひこ)といひ、粟(あわ)の国を、大宜都比売(おほげつひめ)といひ、土左(とさ)の国を建依別(たけよりわけ)といふ。次に隠岐(おき)の三子(みつご)の島を生みたまひき。またの名は天の忍許呂別(おしころわけ)。次に筑紫(つくし)の島を生みたまひき。この島も身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。かれ筑紫の国を白日別(しらひわけ)といひ、豊(とよ)の国を豊日別(とよひわけ)といひ、肥(ひ)の国を建日向日豊久士比泥別(たけひわけひとわくじひわけ)といひ、熊曽(くまそ)の国を建日別といふ。次にを白日別(しらひわけ)といひ、豊(とよ)の国を豊日別(とよひわけ)といひ、肥(ひ)の国を建日向日豊久士比泥別(たけひわけひとわくじひわけ)といひ、熊曽(くまそ)の国を建日別といふ。次に伊岐伊岐(いき)の島を生みたまひき。またの名は天比登都柱(あめひとつはしら)といふ。』
==2==こころの後天領域 (後天領域)
己のこころの領域、(おのれの主張の発生・先天からの要求)・・淤能碁呂島(おのろご)
今までは心の先天領域での話でした。ここからは心の先天領域が自己意識となる様子が語られます。
どんな形の自己意識でもいいので各自で例として取り上げてみてください。
例えばつぶった眼を開いて目前を見るという、ごく単純なことでも構いません。哲学問題でも構いません。俺はいま考えている最中だ頭脳を絞って努力中だでも構いません。
通常は感覚にしろ思考にしろ、それらを意識している自分と意識してしまった自分、意識の対象相手を自分が意識したと分かるまでの時間は、ごくごく短いものです。感じるなり考えるなりはそのまま即時に自分の納得した対象となっていきます。
こうした普通の経験からすると、有ると無いとの二者択一、自己意識を得るとそれ以前、考えていると考えていないのどちらかの状態、見ると見ていないのどちらか、等々というように、Aと非Aの二者を別々のものとして設定してしまう癖がついていきます。
俺は感じた、だから感じているのだ、俺は考えた、だから考えているのだ。
感じた物は自分の感じたもの、考えたことは自分の考えたこと、こういった直線的な構造がそのまま受け入れられていきます。
昔は筋肉の条件反射とか、感覚神経系の電気的電位の違いとか、最近ではスイッチだとか接点での交換とか、脳内でのイオンの電荷の移動だとか、科学、化学の時代時代の成果によっていろいろ言われています。わたしには全然分かりませんが、それでも抽象化すると分かりそうなところもあります。
意識するには物の存在の接点を通過しなければならないという主張がある。
お湯が熱いのを感じるのは、客体としてのお湯が熱さを与える状態であること、手が触れて神経が熱さを脳に伝達すること、脳内ではシナプスとかいうものの化学的電気的な交換が行なわれること、その反応が熱さを脳に感じさせ、脳から下って皮膚感覚をよんで、手は熱いと感じるらしいこと、など説明されても、結局、熱さを感じる脳内のことは分かっていないようです。
目前の壁を見て壁があることを理解する化学的な手順は説明できるようですが、その壁の状態は意識内では凄まじい勢いというか、瞬時に意識に反映されていくのに、それは結局なにも解説できないようです。
わたしはかんがえる、という一つの言葉が「わ」から始まって「た」になって「し」になって、「る」で終わる、その一連の流れの頭の中は相変わらず不明のようです。
日常生活ではそんなことは知らなくとも全然問題はありませんが、それらを各人が学問の対象にしだすと、戦争状態が出現します。これが自分の考えあなたとはこう違う、あなたはこういう時にはどうなる、あの時正しかったが今は違う、等、みんな自己意識のなせる技です。
それらを個性とか、自我とか、自己主張とか、自分の考えとか言って大切にする人も大変多い。権威とか多数とかを持ち出す方もいます。
頭脳内で意識を得ることが電気信号や化学物質の分泌だということから、意識とは物質だというのもあります。脳内科学の成果らしい。
古事記のオノゴロ島の段落はそういった一切が、淡(アワ)島のような、泡あぶくでできた物でしかないことを示すためにあります。さらにそういった思考も否定し去るのではなく、巷では必要であるし有用であるので流布していくのだとも言っています。
前置きはこのぐらいにして、進みます。
頭脳内の超スピードのゼロコンマの世界の経過を書き下したのが古事記冒頭の百神ですが、始めの十七神は現象以前の先天性の記述となっています。
この先天性があるお陰で、あるいはここが他の人達と共通であるがために、普通に話せたり喧嘩したりする事ができるのです。他人を批判するにしろ同調するにしろ、両者で話されている内容以前の先天性の世界が一致した土壌であるから、善し悪しをいう事ができるのです。
通常はこのことは気づかれていません。ないがしろにされ、むしろその方が発展進化に貢献する事が多いくらいです。
しかし、どちら側に立つにしろ、この潜在性が直接に次の自己意識になるのではありません。
潜在性は自己意識になるためには自己意識に引き渡されなくてはなりません。オノゴロシマはこの段階から始まります。
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オノゴロシマの段落の始めはこうなっています。
・・おのれの主張の発生・先天からの要求
○ 古事記 『 ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき。』
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ここは自己意識の発生を述べています。でも何かの意識の動きがあるというだけで、それが自己意識なのかどうかはまだ判定されたわけではなく、始めの胎動があるというだけです。
始めとは、端(は)の占め(しめ)ているもの、端(はし)の芽(め)生え状態であること、端(は)が力動を内包しながら静止(し)していて芽(め)を出そうとする、あるいは端(は)に内包された力動が始動(し)する芽生え(芽)、等です。
ですのでここで自己意識とか自己の感情、感覚、考えといっても、そう規定されたものではなく単に始まりそうだというものです。
こんな事は頭脳内の意識に流れる時間からすればほんのゼロコンマゼロ何秒の瞬時のものです。
あまりの短さのためにたいていの人は、学者、哲学者でさえ、自分が思い考えれば瞬時にそのまま思う考え感じているのだとしてしまい、そこにある数多くの意識の流れの行程を見ていきません。
実際にそんなものは見て分析するだけの対象になるにはあまりにも小さ過ぎる相手です。眼を開いて壁があると納得する、ほんの瞬時のことです。
ところが古代大和はその過程の分析ををなしとげ、全精神原理の基礎に据えたばかりでなく、宗教芸術道徳政治の運営をしていき、古代世界を指導していたのです。
それほどの内容を持った思想はその運用者をスメラミコトとして押し上げ、世界から留学生(モーゼ、釈迦、老子、キリスト、その他)を集めそれぞれを指導して返しました。
ここでもそれがどういったものなのかを探りたいのですが、探るというものですからもともと程度の低いもので知的な関心を満たすだけのものです。
今までで先天の十七神を通過してきましたから、これからはそれを大いに活用したいところです。
自己意識の始まりですが、それが始まる前がある事を話しました。それはちょうど古事記冒頭に相当します。
自己意識に関する天地の初発の時というわけです。
前回の I am that I am. を例にとりますと、同じ I が繰り返されるので混乱していくようですが、古事記は I を十七の先天性として神の名を付けて示しています。
神というのは指し月の指の方ですから無視して構いません。単にそういった働き、あるいは実体としておけばいいでしょう。いままでの三千年前からの理解のようにそういった神がいることではないのです。ましてや拝む対象ではありません。
この十七の I が自己意識を創る先天性の核となって、それが働き自己意識なるものを叩き起こし、ついで、自己意識が形成されこんどはその自己意識が活動を始め、現象を創造する順番となってきます。
現象が創造されただけなら単にそこにできた物があるというだけで、なにも作用しません。
つづいてその現象をどう受け取ってどのように表現するかとなって、その表現に内容を与えて流通する現象として社会性が与えられていきます。この過程は古事記では言語の発生として書かれていますが、そのままこころの言論ともなっていますから、人間精神の行なう活動のどのような場面にも当てはまります。
そこまでが古事記の三貴子までに書かれています。現象を創造するうえで通過しなくてはならない性が淡島の蛭子を生む事ですが、現象をどうするか実践行為にかんして通過しなくてはならない、性が黄泉の国に落ちねばならないということです。
黄泉の国に落ちなければ魂の変態を、得られないことでしょう。
黄泉国は決して死者の国のことではなく、「死」という言葉を使用したければ、死んだ自己意識で死んだことに気づかず思考することになるでしょうか。
ですので、自己意識といっても、それをどのように使用しどう解したものとして表現したものかを得るまでは、古事記に依ればその後十七+八十三神まで解説していかねばなりません。
こうして百神まで解説されて初めて、始めの「は」が意図をもったもの、意味を持ったものとして出現してきます。
それでもこの計百神はゼロコンマ何秒かの始めの時に過ぎないのです。最初の I はこうして古事記の百神を通過して初めて I となります。
ではその後はどうなるのかというと、言霊循環というのが始まります。不思議な事に、どのようなどんな状態にあるにしろ、最初の百神の順序が繰り返されるのです。
この発見を言霊の幸わいといって記念しています。
これから自己意識としてわたしなりの解説となりますが、本来の自己意識は百神を解説し終わるまではその姿は仮のものです。自己意識をテーマとしているなら百神が解説し終わらないまでは、中途半端なものですが、その途中とは、一つのテーマが最終的に意味の有るものとして出現する、各次元上昇、変態段階の通過現象の一形態としてあります。
最後に出現する言霊循環の最初の完成された姿が、三貴子なのです。それぞれに分担領域が指示されますていますが、現象となった言葉には始めから意味内容が三分されている、あるいは包括したものとしてあるということです。
これから自己意識に入っていくわけですが、自己意識の三領域の姿は既に先天性の領域にあるということになります。
例えば、多くの学者はこのことが気が付けないでいますので、吉本隆明という人の言語発生論にはこのことの指摘がまるでなく、海を見て誰かが、「う」なら「う」というと「う」になってしまいますが、ここに別の誰かが海を見てこれは「へ」というと主張を始めると結局は力付くで結果が出てくるでしょう。「う」にしろ「へ」にしろ意識への共通基盤への配慮がありません。
言霊学ではさらに、「へ」ではなく「う」であるのはどうしてかという疑問にまで答えていますが、三貴子までの解説全体がそれらの解説となっていくことでしょう。
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いまここにわたしの意識が始まろうとしています。先天の十七のわたしのこころが一丸となって活動を始めようとしています。わたしの意識は主体側の伊耶那岐として、客体対象である伊耶那美に結び付きたい情動を感じています。しかしわたし伊耶那岐は自己の情動意志を動かす方策を持っていません。伊耶那美も同様で自らを与えたくともどうしたら与えられるかを知りません。何をどう見てどう与えるのか一切が混沌とした中にあります。何を選んで取り出してどのように組み上げ築いて行くのか分かりません。
しかし、わたし伊耶那岐の中にはうごめくエネルギーの塊があり、現象化して顕現させたい意欲があります。
己のこころの領域、(ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて)・・淤能碁呂島(おのろご)
・・・・おのれの主張の発生・先天からの要求
○ 古事記 『 ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき。』
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自己意識を考えているから自己意識から始める、「う」と言ったから「う」から始める「I」としたから「I」から考え始めるとするのは、子供が産まれたという現象を説明するのに、父親も母親も考慮せず、妊婦本人の状態経過も考慮せずに、どのように子供が産まれたか説明するようなものです。
父、母がいても両者を結ぶ行為がなければ子が無いように、精神、こころの活動、言語の発生も同様な事情にあります。言霊学では母音、半母音、父韻、伊耶那岐伊耶那美の言霊イヰの創造意志の要素を見ています。
人間の意識行為はこれがどこの次元でも、場面でも同じように繰り返されます。古事記の始めの場面は、天地の初発の時高天原になりませるですが、これはそっくり同じ構造で、ここの文章にも当てはまり、次に場面が変わり島に降り立った時のにも適応されています。
例えば、
『・ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき。
・かれ二柱の神、天の浮橋(うきはし)に立たして、その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、引き上げたまひし時に、その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、これ淤能碁呂島(おのろご)なり。
・その島に天降(あも)りまして、天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。』
には、(母音)-(父韻、言霊イヰ)-(現象)の繰返しが、三回でてきます。それぞれ場面が変わっています、それぞれの現象が導かれています。
始めに天津神(天)に対する伊耶那岐伊耶那美(地)であったのが、それぞれ伊耶那岐(天)伊耶那美(地)に分かれ、
三番目には両者の行為が天の御柱として天と地になっています。そして国を生み成さむという現象となります。
ここには特別な言葉が出てきて難しいところですが、全てを、母音(主体主観能動)-半母音(客観客体受動)-父韻言霊イヰ(伊耶那岐伊耶那美イザ去来こころの創造意志の現象創造)として適応をしてみれば、同じことの繰返しであることが分かってきます。
ではこの言霊の幸わい構造を自己意識として見ていきましょう。
まず現象が産まれる以前の下準備です。
人は自分の脳髄にアイデアとか光る物が産まれると直ぐさまそのまま自分の考え意見として敷衍して行きたがります。古事記のようにいちいち現象が産まれた下地などを見ていられないし、あまりにも瞬時のことなので構ってもいられません。
それでもこうして現代文明を築けてきたきのですから善しとすべしでしょうが、多くの犠牲もありましたし、その連続でもあります。また今後も無くなりそうも無いし無くなりません。
話題が逸れていきます。歴史に関することは一言メーセージから入って歴史編を捜してください。メルモの「コトタマのマナビ」に日本と世界の歴史というのがありました、とても参考になります。
私たちは自己意識は自分の意識なのだから自分からする意識のように思っています。しかし、古事記はおもしろい文章で始まっています。
・ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき。
そのまま解釈していけば、自己意識は天命に依るとなります。感じるのも考えるのも話すのも天命となってしまいます。さらにそのような準備までしてくれています。
運命論者には力強い援護でしょう。
天命などという言葉を使ってしまいましたが、天津神と命をくっつけただけで古事記に出てくる言葉ではありません。多義的な意味が内包されていますが、天を先天性と捕らえるとだいたいすべてに通用できるでしょう。
運命(宿命)では現象以前を過去の姿から直接出てくるような説明が多そうで、現象を現象から説明できる当然の過程を不問する傾向が強そうです。
一方現象を現象から説明していくと、そのまた現象の根拠を説明しなくてはならず、桶屋を儲からすはめになります。
自己意識となったものは意識で確認されたもので、意識で捕らえられたものは後天現象として、物理的に感知できるものが途中に介在しています。頭の中で考えることだけをしている場合でも言葉による活動です。
運命宿命論にはこの中間の過程が欠如していますが、現象を別の現象で原因という形で説明しても原因の原因が要求されてきますのできりがありません。
ここで、現象の原因が説明でき、その現象の潜在性も説明でき、潜在性が後天現象に橋渡しされる中間の構造まで説明できることが要求されてきます。「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」です。
そこで古事記はいいます。「ここに天つ神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、伊耶那岐(いざなぎ)の命伊耶那美(いざなみ)の命の二柱の神に詔(の)りたまひて、」
イザナギ、ミの「神」が「命ミコト」に変化していますが、ギミの実体を指すよりもその働きを強調したからです。天津神の御言を受け入れそれをまた返すことをしていく構造になるからです。
天津神は古事記では冒頭五神を指しているようですが、その働きを見ていくと十七神全体のことになるでしょう。十七神の中にはギミの神もいますから、ギミの命が自身の働きをも含めた十七神全体の御言を受け取ることになります。
こうしてここに、自らの生命の籠もった言葉を自分に生成し受け取ることとなります。自分の考えることが、出鱈目であろうと適当であろうといい加減であろうと、正しかろうと間違っていようと、当初はそれが自分の考え自分のものという思いを持つことのできる秘密です。
先天十七神に自分が伊耶那岐伊耶那美(言霊イヰ)として含まれていて、それが自分に自分の言葉となって向かう構造になっています。
人の言葉にはこういった構造がある以上、自分で考え自分で吐いた言葉はまず自分で内省反省されなければ、なかなか始末できる物とはなりません。誰でもが自分の主張を固執し、頑固になれる根拠みたいなものです。
宣長の「古事記伝」を現代語訳にしたサイトを見つけました、その該当個所にこうありました。、「あえて言えば、命令する人を「命」と名付けるなら本当らしく聞こえるが、命を受ける方をそう呼ぶのは、事を取り違えている。」(雲の筏、古事記伝現代語訳)
自分が命ミコトとして自分に命令するのなら、命を受ける方も命ミコトとならねばなりません。
(宣長は七代の神は天神とはいわないとして分けています。別天神五神が特別なのは、言霊ウアワオヲとして過去を造りその内容となるからです。五神は過去から今へ、七代の神は今から未来へという違いです。しかし、イマココの時点で十七神は同じ時処位に立っています。)
机の上にみかんがあって、それをみかんだと納得する時、頭脳内の先天性構造内では、物凄い勢いでの働きがあって、机の上のみかんを確認してみかんという言葉を用意し、自己意識に渡します。このスピードがあまりにも速いため人は物を見て自分の意識でそこにみかんがあるというように錯覚をしていきます。
実際にあるのは純粋な客観物体で、色も形も匂いも名前も何だか分かっていない物があるだけです。人の受容器官の感覚性能に応じて、その物体が色付けされていきます。受容器官には能力の大小や可否等があって、ここで協調できず協和するものがなければその物体は認知されません。双方からの感応が共感し合った時にそこに物があることに気づきます。
「ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて」、純粋客体の特性性能はあっても人に対する物ではなく潜在的にあるだけのもの、
「伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて」、ここではギミは人の先天活動という意味です。ギは物を見る行為を起こし、ミは見られたものを受け取り受容することで、先天内では見るそれを受け取るがまだ判別されていな状態にあることです。二神は一心同体として、天津神の相手になるというだけのものです。
机の上にみかんがあっても単にそれに注意が向いただけで何であるかはまだわからない段階です。見れば一瞬で分かるのに分からないというのはおかしいというかもしれません。一瞬というのは相対的に短い時間というだけで、時には誰でも、物忘れといって、これはえーとえーと何だったっけうーんっと、物の指名ができずにいることがあります。そのとき頭の中ではフルスピードで捜し物が行なわれているのです。
己のこころの領域、(この漂へる国を修理(をさ)め固め成せ )・・淤能碁呂島(おのろご)
「この漂へる国を修理(をさ)め固め成せ」と、
普通に読めばどうしても土木工事のイメージになります。(冗談)
国という言葉を見てみましょう。
国は一定の領域、律令の支配、生まれ故郷、地域、住民の総体、等何らかの理由の元に、広域的な領土や他とは違う制度、文化で区切られている地域を指しています。
要するに自分は他の地域、その住人とは違うのだよということです。自分は他とは区切られていて(ク)、その範疇になく、自分達に共通の範疇に似せられたもの(ニ)の集まりというわけです。
上の文章の(ク)と(ニ)を合わせればクニ・国になります。区切られて似せられている、区切って似ている何々が国となります。
国訛り、雪国育ち、国自慢、国柄。
では自己意識の発生に関しての国とはなんでしょう。
自己意識の出所から自己自分であるものを区切って似せるあるものです。
当然自己意識の発生を辿るのに自己に似せるものがあるというのは順序が逆ということでしょう。
そうです。だから、こうなります。 「この漂へる国を修理(をさ)め固め成せ」と。
机の上のみかんを見る場合なら、みかんを見る以前に、ゴミを見たのか帳面を見たのかパソコンを見たのか、はたまた見るのではなくテレビの音が聞こえたのか飛行機の通過音か、明日は何をしようなどとぼやっと思っていたのか、要するにみかんに辿り着く以前の混沌した分けの分からない全体状況があったのです。
この分けの分からない全体状況があるからこそ、そこへ向かう意識の流れが出てくるのです。古事記で、「ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、、、、言依さしたまひき」というところです。意識現象はこの先天性から出てくるを示しています。
何故机上のみかんを最初に見たか、何故帳面でなかったなどは誰にも説明できません。諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、言依さしたまひきです。
実際には意識されないから先天というのですから、何が何だか分からないものです。しかし、そこに在るが、姿は見えない、(独神にして身を隠したまいき)です。
先天性の全体の中から自己意識へ向かってみかん、あるいは何でもいいですが、のイメージが「修理(をさ)め固め成せ」と言われてそうなります。
この間の事情は頭脳内では超スピードで行なわれますから、先天性からの言依から自己承認納得も瞬時で、自分が選んでみかんを見たという感覚が得られます。つまりそのような自己意識になるような、イメージが形成されます。
同様に、みかんではなく帳面だという場合にも、瞬時に帳面を選択して見たとなります。つまり場面の選択への状況がイメージへ渡されます。
通常はそのまま進行しますから、自分が見て自分が意識したという形ができていきます。では「自分が、わたしが、」というのはどういうことでしょうか。
「自分が」という時は自分が認識し選択してそのものに名前が付いた時をいいます。ここでは先天性とかいってごちゃごちゃ書いていますが、先天性内のことには名前が付けられませんので、表現できていず、表現しているものはみんな後天現象となったときのことです。
自分の先天性内では自分とか自我とか自己とかの主張はできないということです。この意味で全人類は平等で、人種の優劣はありません。ここから見れば自我も存在しません。(ここから後のことはまだ話す対象になっていませんのでお間違えなく。)
ここまでは自己意識の発生の前段階です。
自分に自己意識があると分かるのは分かったとされるものに名前が付いたからで、この前段階においてもその用意が必要です。
古事記には「天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき。」とありますがこれが言葉による名付けの前段階です。
片刃の刀は物を斬るだけ、判断するだけの意味です。
もう一つの刀は、矛・ほこでつるぎ(剣、)といい、両刃になっている剣です。つるぎは連気(つるき)のことで、断ち切った後に総合統合して縫い合わす創造的な判断のことを意味します。
そこでホコの形を見ると長い舌の形をしています。古事記にはわざわざ「ぬ(沼)」といっています。ぬというのは縫う縫い合わすのぬです。言葉による判断ばかりでなく、判断を縫い合わせ同時に確立創造していく刀が「天の沼矛(ぬぼこ)」でそれを人は「賜」われたわけです。元々に自分の判断があるのではないのです。
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こうして次の段落に進みます。
8の2・ おのれのこころ内の準備
○ 古事記『 かれ二柱の神、天の浮橋(うきはし)に立たして、その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、引き上げたまひし時に、その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、これ淤能碁呂島(おのろご)なり。その島に天降(あも)りまして、天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。』
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以下引用。
先天構造世界の内容はすべて整った。けれど後天現象世界についてはまだ何も手をつけていない。その混沌とした後天の世界に創造の手を加えて、種々のものを創造し、うまくいったか、どうかを調べ、創造したものに適当な名前を付け、整備しなさい、との意味です。この場合、漂へる国の国とは国家のことではなく、創造して行く一つ一つの物や事のことを指します。混沌とした世界を一つ一つ区切って、言葉の言うように似せること、創造したものの内容・その存在がよく分かるように適当な名前を付け、他のものとはっきり区別出来るようにすることを言います。
「天(あめ)の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依(ことよ)さしたまひき。」
天(あめ)の沼矛(ぬぼこ)とは先天の働きのある矛(ほこ)の意。矛とは剣(つるぎ)の柄(つか)の所を長くした武器のこと。古事記の神話が言霊学の教科書であることを念頭におくと、天の沼矛とは言葉を発する時の舌のことと考えられます。この舌を操作して言葉を創造し、その言葉によって後天の現象世界を整備、発展させなさいと命令し、委任した、ということです。
前号まで七回の講義によって人間の心の先天構造(天津磐境)を構成する十七個の言霊が出揃いました。先天構造を説明いたしますのに七回もの講義を要しました。そのように長い説明が何故必要かと申しますと、次の様な事が言えるでありましょう。
心の先天構造が活動することによって、後天の現象(出来事)が発生します。意識で捉えることが出来る現象が現れるには、意識で捉えることが出来る以前の、意識で捉え得ない心の先天構造の活動を必要とします。先天活動があるから後天活動が発生します。この事を仏教の般若心経では「色(意識で捉えた現象)即是空(意識で捉え得ない先天現象)、空即是色」と言います。またこの時、意識で捉える後天の現象の姿を「諸法実相」と言い、これと即の関係にある意識で捉えることが出来ない先天構造の働きを「諸法空相」と呼びます。
「母親は何故子を叱ったのか」という問に「子が悪戯(いたずら)をしたから」という答えも確かに答えとなります。これは一つの現象をそれに関連するもう一つの現象で答えた事です。これは形而下の答えであります。しかし答となるのはこれだけではありません。叱られた子という事を捨象し、叱った母親の心というものだけに限定して「母親はあの場合何故叱る態度をとったのか」という答えを出すことも出来ます。こうなりますと、叱った母親の心の中、「叱る」という後天現象を生むことになった原因となる母親の心の先天構造を探ることも一つの答えとなります。この探究の仕方は「形而上学」と呼ばれる分野と言えます。
以上一つの例を挙げてお話申上げましたが、一つの現象を他の関連する現象から説明すると同時に、その現象を生じる先天構造の活動からも説明することが出来れば、説明は完璧なものとなります。形而下の説明と形而上の説明がピタリと合致した時、一つの現象の説明は完結されます。この事を逆に考えますと、一つの眼に見える現象を、それに関連ある他の現象だけでする説明は「風が吹くと桶屋が儲かる」式に、その説明は限りなく続かねばならなくなるでしょう。そして限りなく続いて行く内に原点の現象の説明の影は次第に現実から遠ざかって行きます。一切の現象の説明は、その出来事が起る主体と客体の諸法空想と諸法実相の立場から考えられるべきものであります。この為に、現象が起る絶対的な原因となる人間の精神の先天構造を事細かく解説して来た次第なのであります。心の先天と後天の両構造を、心と言葉の最小要素である言霊によって解明する事が出来た言霊学が世界で唯一つ物事の真実の姿を見ることが出来るのだ、という事を御理解頂けたと思います。
○ ここに天津神諸の命以ちて、
これを文章通りに解釈しますと「先天十七神の命令によって、……」となります。これでは古事記神話が言霊学の教科書である、という意味は出て来ません。ではどうすればよいか。「神様が命令する」のではなく、「神様自身が活動する」と変えてみると言霊学の文章が成立します。「さてここで先天で十七神が活動を開始しまして……」となります。
伊耶那岐の命伊耶那美の命に詔りたまひて、
先天十七神即ち先天構造を構成する十七個の言霊が活動を開始しますと、伊耶那岐・伊耶那美の二神、言霊イ・ヰは次の様な事を実行することとなります。
「この漂へる国を修理め固め成せ」と、
この漂へる国とは、先天構造の十七の言霊は出揃ったが、その十七言霊が実際にどんな構造の先天であるのか、またその先天が活動することによって如何なる子音が生れるのか、その子音がどの様な構造を構成するのか、またその子音によって実際にどんな世の中が生れて来るのか、…等々がまだ何も分ってはいない、という様に事態はまだ全く流動的状態であるという事であります。「修理め固め成せ」を漢字だけ取り出しますと、「修理固成」となります。どういう事かと申しますと、「修理」とは不完全なものを整え繕う事、「固成」とは流動的で秩序が定まっていないものに秩序をつけ、流動的なものに確乎とした形を与えることであります。実際にはどういう事をすることになるかと申しますと、宇宙大自然の中にあって、およそ人間の営みに関係するもの一切を創造し、それに名前をつけることによって生活の秩序を整え、人類としての文化を発展させて行く事であります。
前にもお話しましたが、創造というと物を造り、道路や橋やビルを建設したり、芸術作品を創作したりする事と思われています。これ等も創造である事に間違いありませんが、精神内の創造とはそれ等の外に今までの経験を生かし、それに新しいアイデアを加えて物事を創造すると共に、その創り出されたものに言葉の道理に則って新しい名前を附けること、これも大きな創造です。言葉というもの自体から言うなら、この様に新しいものに附けられる名前の発展、これが創造の本質と言うことが出来ます。
おのれのこころ内の準備 (これ淤能碁呂島(おのろご)なり。)
ここにオノゴロ島がでてきます。自分のこころの領域ができるところです。
こころの足場のようなもので、出かける時に立ち上がり靴下を履き靴を用意することで、ここで自己意識による現象が得られたのではなく、自己の領域(島)が創られることです。
先天の構造が頭脳内に形成される場となるものでしょう。普段は思うこと考えることは直接言葉となって表現され何の媒介も無いように見えます。ここはこの間の事情が説明されます。古事記は考えられないほどの精密さを持って一つ一つの過程を説明しています。前もって言っておきますと現象となって出てくる言葉はこの後三十二の神の名を語って初めて出てくるというものです。
驚嘆以外の何ものでもありません。しかも五千年以上前に完成していて世界文明の指導原理となっていたものです。一時隠されましたが、現在は既に古事記の真の解釈の仕方は甦っていますので、後は世界歴史への適応を待つだけです。
以下全文引用。
○ 古事記 『 かれ二柱の神、天の浮橋(うきはし)に立たして、その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、引き上げたまひし時に、その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、
これ淤能碁呂島(おのろご)なり。
その島に天降(あも)りまして、天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。』
○ かれ二柱の神、天の浮橋に立たして、
母音と半母音、私とあなた、主体と客体だけでは現象は起りません。母音と半母音の間に言霊イ・ヰの働きである八つの父韻チイキミシリヒニの天の浮橋が懸かり、私と貴方が結ばれますと、現象子音が生れます。「二柱の神、天の浮橋に立たして」とは言霊イとヰが主体と客体とを結ぶ天の浮橋の両端に立って、の意であります。天の浮橋の「天の」とは「先天」の意。
○ その沼矛を指し下して画きたまひ、塩こをろこをろに画き鳴して、引き上げたまひし時に、
沼矛(ぬぼこ)の沼(ぬ)は貫(ぬ)で縦横の横の意です。チイキミシリヒニの八父韻を表わします。八父韻を発音してみて下さい。舌の巧妙な使い方が必要な事がお分かりになると思います。次に塩が出て来ます。塩と言いますと、二つの意味があります。一つは四穂(しほ)で五母音の中の言霊イを除いた他の四言霊(ほ)の事であり、二つには機(しほ)または潮時(しほどき)の事で、これは時の変化の相を示す八つの父韻の事であります。ここに「塩こをろこをろに画き鳴して」とある塩は四つの母音エアオウの事でありましょう。
ここで図を御覧下さい。対立する私と貴方、母音(イエアオウ)と半母音(ヰヱワヲウ)が両側に縦に並び、双方を結ぶ天の浮橋が横に懸かります。言霊イとヰ、伊耶那岐の神と伊耶那美の神は天の浮橋の両端に立ちます。そして沼矛を指し下して、四つの母音を画(か)き即ち撹き廻してみると、どんな事が起るでありましょうか。舌を使って八つの父韻チイキミシリヒニで四つの母音エアオウを撹いてみると、父韻と母音の結合が起ります。キとエでケ(K+E=KE)、チとアでタ(T+A=TA)……の如く現象の子音が生れ出て来ます。舌で母音を撹き廻して、引き上げますと、現象子音8×4=32の子音の音が鳴ります。
○ その矛の末より垂り落つる塩の累積りて成れる島は、
父韻チイキミシリヒニを操って四つの母音エアオウを撹き廻して引き上げて来ます。すると父韻に付着した母音がしたたり落ちて積もります。そしてそれぞれの島を造ります。島(しま)とは「締(し)まり」の意。若し「カ」という音が島となるという事は、およそ人間の営みに関係する事柄の中で「カ」と名付けるべきすべての物事を統率して、心の宇宙の他の物事から区別します。ばくち打ちの言葉に「島」があります。それぞれの組の勢力範囲といった言葉です。単音の一音一音が、それぞれの音独特の内容を持ち、他の音とは混同出来ない島を占有している事であります。
○ これ淤能碁呂島なり。
己(おの)れの心の締まりの意であります。八父韻でもって四つの母音を撹き廻し、三十二の現象子音を生みました。意識で捉えることの出来る眼前の現象界宇宙をこれ等三十二の子音はそれぞれ特有の内容の島を分け持ち、混同したり、重複したりすることがありません。それ等現象子音の単音はそれぞれ独特の光を輝かし、集まって素晴らしい光の交響楽を奏でています。
古事記は以上の如く、心の先天構造十七言霊を活用して、初めて人間が自分自身の心を言霊を以て表現し得る道理を発見した事、即ち「己れの心の締まり」である現象子音を生む事が出来た時の状況をこの様に述べているのです。人類が歴史上初めて人間の生命法則に則った掛替えのない真実の言葉を発見した喜びを日本書紀では次のように表現しています。「二神(伊耶那岐・伊耶那美)天霧の中に立たして曰はく、吾れ国を得んとのたまひて、乃ち天瓊矛を以て指し垂して探りしかは馭盧島を得たまひき。則ち矛を抜きあげて喜びて曰はく、善きかな国のありけること。」
如何なる国や民族の言語であっても、その言語を以て人間の営みを初めて表現することが出来た時には、同じように喜ぶのではないか。何も日本語だけに限ったものではない、と思われるかも知れません。そう思われるのも尤もな事でありますが、古代日本語の時には特にその意義は大きいと言わなければなりません。何故なら、現代社会を見ても分りますように、この世に存在する一切のものを締めくくり、限定、分類して表現する時、その規準として思考的な論理的な概念を用います。概念による思考は物事の実相を表現する場合、その実相を薄ぼんやりとした月の光の下で見る如く、真実の姿を見ること、表現することが出来ません。この点に於て古代日本語の如く、概念を一切使わず、そのものの実相ズバリの現象子音言霊の単音を以てする方法は他の世界の言語に類例を見ない優秀なものであります。物事の実相がそのまま表現されるからであります。この事は、その言語を使用する日本人の喜びであると同時に、世界人類の宝とも言うべきものなのであります。
○ その島に天降りまして、天之御柱を見立て八尋殿を見立てたまひき。
天之御柱とは人が自らの主体である言霊母音アオウエイの次元を自覚し、確立した姿の事を言います。この主体の柱に対して客体であるワヲウヱヰの半母音の畳わりの姿を国之御柱といいます。この主体と客体との二本の柱で示される宇宙の実在の有り様に二つの場合があります。この事は先にお話した事でありますが、二本の主体・客体の柱が合一した絶対の実在として心の中心に一本となって立っている場合と、相対的に二本の柱が主体・客体の対立として立っている場合とがあります。この二本の柱は一切の現象がここより生れ、またここに帰って行く宇宙の根本実在であります。
八尋殿とは文字通り八つを尋ねる宮殿の意です。宮殿と申しましたのは、心を形成している典型的な法則を図形化したものだからです(図①②参照)。この二つの図形のそれぞれの八つの間に八つの父韻チイキミシリヒニが入ります。この図形は基本数である八の数理を保ちながら何処までも発展します(図③参照)。そこで八尋殿を一名弥広殿とも呼びます。
天之御柱(国之御柱)と八尋殿を以上の如く説明して置いて、この文章の始めにある「その島に天降りまして」の意味について考えてみましょう。「古事記と言霊」の講座が始まってから前号までの話はすべて人間の心の先天構造即ち意識で捉える事が出来ない部分の説明でありました。そして今号より後天子音を生む話に移って来たわけであります。十七個の先天言霊が活動して、現象子音である淤能碁呂島が出来ました。「その島に天降りまして」とは岐美二神が先天の立場から己れの心を形成している三十二の子音の場所である後天の立場に降って来た、という意味であります。その後天の立場から見て、先天と後天を合わせた宇宙の構造を頭の中で図形を画いて見る状態を文章にしているというわけであります。すると、此処の文章は次の様に解釈することが出来ましょう。
「舌を使って八つの父韻チイキミシリヒニを働かせて、四つの母音エアオウの宇宙を撹き廻してみると、現象子音が生れて来ました。その音のそれぞれが自分の心を構成しているそれぞれの部分の内容を表現している事が分かって来ました。そこで今度は自分の心の部分々々の立場(淤能碁呂島)に立って全宇宙を見ると、自らの心の中心に宇宙の実在であるアオウエイ・ワヲウヱヰの柱がスックと立っている事が確認され、またその柱を中心として八つの父韻の原理に則して後天世界の構造が何処までも発展・展開している事が分って来たのでした(図④参照)。
天之御柱と八尋殿について世界の各宗教に於て種々説明されています。天之御柱の事を神道に於ては神道五部書に「一心之霊台、諸神変通の本基」とあり、伊勢神宮では心柱または御量柱(みはかりばしら)、また忌柱と呼んで尊ばれ、内外宮本殿床中央の真下の床下に約五尺の角の白木の柱によって象徴として安置されており、仏教に於ては単的に古い寺院にある五重塔で示されています。ここでは天之御柱と八尋殿について易経との関係をお話することにしましょう。
日本の古文献竹内歴史には「鵜草葺不合王朝五十八代御中主幸玉天皇の御宇(みよ)、伏羲(ふぎ)来る。天皇これに天津金木を教える」と記されています。天津金木とは言霊原理の中の言霊ウ(五官感覚に基づく欲望)を中心に置いた五十音図の法則の事を謂います。天皇は伏羲に天津金木音図そのものを授けず、その法則を中国の言語概念と数の原理に脚色して授けたのでした。伏羲は故国に帰り、この法則を基礎として「易」を興したと伝えられています。中国の書「易経」には「伏羲が始めて八卦を画し、文王が彖辞(てんじ)を作り、周公が爻辞(こうじ)を作り、孔子が十翼(よく)という解説書を作った」と記されています。この様な易学の発展の途上で、日本並びに世界の文明創造上の方針の転換が実施され、天津金木を含む言霊の原理は世の表面から隠没することとなりました。その結果、易の起源が日本の言霊原理であることも秘匿されました。従って易の起源は空想的な事柄に設定されたのです。そこに現れた物語が「伏羲の世、黄河に現れた龍馬の背に生えている旋毛に象取って河図(かと)の法則を考案し、また禹王が洛水から現れた神亀の背中にあったといわれる九つの文様から洪範九畴の洛書を説いた」というおとぎ話となった訳であります。
「中国文化五千年、わが国の文化二千年」という言葉が常識となった今日、日本の言霊学と中国の易経との関係を右の様に書きますと、読む人によっては「何を迷事(よまいごと)を言って」とお笑いになるかも知れません。けれど前にも述べました如く言霊学の天之御柱・八尋殿は共に物事の実相の究極単位である言霊によって組立てられているのに対し、中国の河図・洛書は実相音の指月の指あるいは概念的説明である数理によって表わされています。どちらが先で、どちらが後なのか、は自(おの)ずから明らかであります。この一事を取ってみましても、日本国の紀元が今の歴史書の示す高々二千年なるものではなく、世人の想像も及ばない程太古より始まっている事、またその時代に行われていた国家体制が人類の精神的秘宝である言霊原理に則って行われていた事、また今より二千年前、神倭朝十代崇神天皇の御宇、皇祖皇宗の世界文明創造という遠大な計画の下に、この言霊原理が政治の原器としての役割の座から一時的に故意に隠される事になったという事実に思いを馳せる事が出来るでありましょう。
おのれのこころ内の準備 (かれ二柱の神、天の浮橋に立たして)
○ 古事記
・かれ二柱の神、天の浮橋(うきはし)に立たして、
・その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、引き上げたまひし時に、
・その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、
・これ淤能碁呂島(おのろご)なり。
・その島に天降(あも)りまして、天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。』
○ かれ二柱の神、天の浮橋に立たして、
母音と半母音、私とあなた、主体と客体だけでは現象は起りません。母音と半母音の間に言霊イ・ヰの働きである八つの父韻チイキミシリヒニの天の浮橋が懸かり、私と貴方が結ばれますと、現象子音が生れます。「二柱の神、天の浮橋に立たして」とは言霊イとヰが主体と客体とを結ぶ天の浮橋の両端に立って、の意であります。天の浮橋の「天の」とは「先天」の意。
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わたしがもっと若く速い時期にこのフトマニ言霊学を知っていたら、全世界の哲学問題を正しい方向に導いていこうなどという思いを持ったかもしれません。言霊学のほんの始まりを少しかじっただけでもこうした逆上せた頭を造るほど、その思想内容は超濃いいものです。それもそのはずです、この内容を知って初めて世界運用のまつりごとの長となり、スメラミコトとなれるものでした。
その太古からの運用者の血統が日本に残っていて、天皇家となっています。天皇制というのは言霊学の運用の観点からしか解決は見出せません。しかし現在そこにあるのは、血統と言われるものと言霊学運用のための象徴物の保持と保護者の地位だけで、内容は敗戦時の人間宣言によって放棄されています。非常に残念なことですが歴史的にはそうなってしまいました。その代わりに内容は民間に流出していますので、揉まれることによって案外速く、世間に流布していくかもしれません。そうなれば五千年前に大和の日本が世界を指導したようにまた世界の運営をできることになるでしょう。
このブログを読む方はそういった恐ろしいかしこむ内容(天皇のための学問)を持ったものを読んでいるわけですが、正しい内容は一言メッセージから入って得るようにしてください。ここはわたしのメモ感想だけです。
さて続けます。
主体と客体の哲学問題は既に数千年前の古代大和で解決済みの問題でした。それが何故いつまでも哲学者思想家の頭を眼眩ましているのかというのは、歴史的な恣意的に造られた事情によります。ここでは成果だけをつまみ食いしていきます。(もちろん、出来ればの話で、これまでに仕入れた知識概念でやろうというものですから、もともとできもしないものなのです。おかしな言い方ですけど、これは行ったことのない富士山の火口を山の麓にいてワイワイ論議しているということです。)
言霊学の全体は人間の精神の五段階、イエウオア(伊勢神宮の忌柱)に対応していて、言霊イ、エの段階を得なければ全貌を得ません。通常の人は一生精神のウ段階、五感感覚からする欲望の充足生活をしているだけです。そこで得るものが月給幾らであろうと何十億であろうと、同じ仲間です。
次に疑問を持ち開示を求めて知識抽象概念を扱うようになりますが、それはそれで感覚の欲望充足とは違う独立した次元です。これが発達していけば学者思想家評論家科学者等となって、記憶や知的な概念を扱う楽しみを得るようになりますが、全ての考える人達には自覚の欠如が付随していますから、論争喧嘩の種まき人となっていきます。
(ここでいう次元は神界、霊界とかの霊位次元をいうのでなく、私自身あなた自身の現実の生活上の実在についてです。)
ブログを書き読むような人達は全て同様です。もちろん言葉使いの上での謙遜謙譲、相手の尊重は在りますが、自分の知識への固執偏執というのは隠せません。こんなことを言いながらもこのブログも結構つづいています。そういった精神上の現れも、言霊学をやっているとときたまチラッとその原因が見えるような時もあります。とにかく今のところは続けましょう。世界最高の宝物が手にできるのですから。
今日は話が飛びやすい。
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物を見ればわたしは見た、聞けば聞いた、考えれば考えたと、対象客体を意識すればそのまま主観となって現れるのは頭脳内の瞬時の活動によるわけで、あまりの速さを分割分離できないために、見て直ちに分かるということが起きています。脳内科学はこの間のミクロの関係を分析しています。机の上にみかんがあれば見た瞬間にみかんがあると分かります。この間の事情を五十の神の名を語って述べているのが古事記の神代の巻きで、その始めの十七神は先天構造内のことでした。脳内科学ではこの先天構造は一切扱えません。
また先天性から一挙に後天現象にしてしまうのが通常の考え(哲学、科学、評論、論議、等)となっています。古事記はここにまず自分の足場を築かなければ、先天性は自分の意識まで移動できないといいます。そこで、
『 ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき。』
と、なりました。
はい、それではと、『かれ二柱の神、天の浮橋に立たして、』の場面です。
前段では命でしたがまた神になっています。これは意志の先天内での実体(的なもの)を指したものです。この先天内での実体的なものが、それ自身の働き(ミコト)によって次の経過へと運ばれていくのです。これはギミの神、命の二重の性格によります。
二柱の神の伊耶那岐イは言霊イで母音側主体的な働きかける側にいます。伊耶那美ヰは言霊ヰで半母音受動的な立場にいます。机上にみかんらしき物があり、それに気付くだろう主体性があるだろうというところです。しかし、みかんらしき物と主体性らしき者があっても両者の間に何の関係もなく関連づけが無ければ、両者は出会いをすることはありません。物はあるけど何にも気が付かないままです。
また両者は同じ土俵の上にいなければお互いにやはり気付くことはありません。そのためのお膳立てが天の浮き橋と言うわけです。未だに先天構造内での出来事なので天といいます。この同じ橋の両端にそれぞれの足場、領域が出来てくるということになります。
何故両端でなければならないのか。イメージ図としてあいうえお五十音図を見てください。両端は伊耶那岐のいる母音行と伊耶那美の半母音行です。中間にあるのが八つの言霊達です。(神道で言う八の付くものは全てこの中間の八つに関するものです。八拳の剣、八またのオロチ、八尋殿、山・八間、易で言う八卦も古代大和によって与えられたものです。等)
見る物があって、見る主体がいれば、見たと言う現象が起きるわけではないのです。主体と客体とその仲介が必要です。この仲介と言うのは主体でも無いし客体でもないしかし両者を仲介するやっかいなものです。真っ暗な部屋で電気がなければみかんがあっても認知できません。光と言う仲介物が光波の中からオレンジ色受信できる視覚によって受け取られます。
光は主体でも無いし客体でも無いけど両者を含むものとして仲介役をしていきます。しかし、単なる光がそんなことを出来るわけがありません。ここに出てくるのが命ミコトの働きなのです。古事記では伊耶那岐の命となっています。よしイザっと腰を上げ主体を誘い客体へ向かわせることです。一方相手は、お待ちしています、と誘うわけです。
この両者間の誘う行為の同じ土俵を橋に立つと言います。頭脳内の橋のことで、ここでは浮き橋という名前です。
「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」を受けてのことです。つまり同じ土俵に立ったからと言って相手同士が直ちに了解し合えるというわけではないからです。
そのためには了解を促すことが必要です。ここでの主体的な行為がなければやはり見合いは成立しません。
この橋を渡る中間の行為様式が八つあります。四つは能動的な、他は受動的な様式です。ここは既に父韻として声明してあります。つまり橋の渡りかたも先天の八つの父韻の様式があるからその形を頭脳内にイメージに移しかえることができ、イメージの根本様式が同じだから現象となれ、同じ現象に人々は則っているから互いにプラスマイナスの交流ができるというわけです。
では同じ橋に立ってどうするのでしょうか。次の文章です。
「その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、引き上げたまひし時に、」
両者を誘ぎ合うのが、ホコです。主体でも客体でも無いけれどその両者に共通するものを仲介します。
ホコは舌の形をしています。舌は言葉を語ります。ころころと語ります。
おのれのこころ内の準備 (塩こをろこをろに画き鳴(なら)して)
○ 古事記
・かれ二柱の神、天の浮橋(うきはし)に立たして、
・・・その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、引き上げたまひし時に、
・その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、
・これ淤能碁呂島(おのろご)なり。
・その島に天降(あも)りまして、天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。』
○ その沼矛を指し下して画きたまひ、塩こをろこをろに画き鳴して、引き上げたまひし時に、
沼矛(ぬぼこ)の沼(ぬ)は貫(ぬ)で縦横の横の意です。チイキミシリヒニの八父韻を表わします。八父韻を発音してみて下さい。舌の巧妙な使い方が必要な事がお分かりになると思います。次に塩が出て来ます。塩と言いますと、二つの意味があります。一つは四穂(しほ)で五母音の中の言霊イを除いた他の四言霊(ほ)の事であり、二つには機(しほ)または潮時(しほどき)の事で、これは時の変化の相を示す八つの父韻の事であります。ここに「塩こをろこをろに画き鳴して」とある塩は四つの母音エアオウの事でありましょう。
対立する私と貴方、母音(イエアオウ)と半母音(ヰヱワヲウ)が両側に縦に並び、双方を結ぶ天の浮橋が横に懸かります。言霊イとヰ、伊耶那岐の神と伊耶那美の神は天の浮橋の両端に立ちます。そして沼矛を指し下して、四つの母音を画(か)き即ち撹き廻してみると、どんな事が起るでありましょうか。舌を使って八つの父韻チイキミシリヒニで四つの母音エアオウを撹いてみると、父韻と母音の結合が起ります。キとエでケ(K+E=KE)、チとアでタ(T+A=TA)……の如く現象の子音が生れ出て来ます。舌で母音を撹き廻して、引き上げますと、現象子音8×4=32の子音の音が鳴ります。
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この段落の8×4=32は論理的には分かるけど実際にはまだ分かりません。後まわしにします。
こおろこおろと特徴的な書き方がでてきます。宣長ではこうなっています。サイト「雲の筏」より引用。
「例の矛でかくに従って、潮が次第に凝り固まって行くのである。「こおろ」と「凝る」と音も通う。それはこれを物にたとえて言えば、脂などを煮固めるのに、初めのうちは水のようなのを、さじでかき回すと、だんだんと凝固して行くような感じである。
脂を煮るのはそうであっても、海水をいくらかき回しても凝固することはあるまい、と疑う人もあるだろうが、これは産巣日の神によって国土が創成される最初のこと
であるから、現在の見慣れた世の中の、小さな理屈ではどうにも測り知れるものではない。ここではただその様子が似ているものによって、たとえたまでである。」
その後の解釈はほとんどが凝り固まるの方向になっています。
宣長の古事記の解を始める時の言葉です。
「その意味はまだ分からない。そもそもいろいろな言葉の起こりを突きとめることは極めて困難であり、それを強いて解釈しようとすると、必ずおかしな解釈が出てくるものである。【昔も
今も、語源の解釈は、十のうち八、九は外れている。一般に皇国の古言は、ただその物や事をあるがままに、安易に呼んだだけで、特別な理屈があるわけではないので、そうした心映えをもって古い書を解釈するべきであるが、世の「物識り」たちは、そういう上代の言語を話していた人々の心をよく考えず、ひたすら漢意によって解釈しようとするので、どれも的外れだ。その漢国でも、上代の言葉はさほどうるさい詮索もなかったのだが、かれらの風俗として、何事も理屈を先立てて、言葉の意を解釈するにも、とにかく理屈を通そうとするため、みなこじつけである。ところが最近、古学が始まって以来は、漢意(からごころ)で解釈することの悪い点を悟る人もあ
って、何とかいにしえの心をもって説こうとするようだが、それをなし得る人は、まだまれである。】しかしながら、全く解釈しないで済ませるわけにも行かない。考えつく限りのことは、試みに言ってみてもいい。その中には、たまに当たっていることもあるはずだ。私にも、こうだろうかと思っていることはあり、それを述べてみる。」
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「こおろこおろ」
「こおろ」というのは、子を降ろす、個を降ろす、言の葉(こ)を降ろす、子を産むことで、天の先天性に対して後天現象となる個別の子(言の葉)を地上現象として産むことです。
この段に沿って言えば、天津神の諸々のみことが人の頭の中に降りてくる譬えです。
簡単に言えば子音現象を産むということになります。
ここまでは分かったのですが、八(父韻)×4(エアオウの母音)で32ということの実際が分かりません。
この世には母音子音とも多くの種類があります。それを組み合わせて造る単音は分類するのが大変です。日本語も濁音その他を含めて七十幾つかにしたり時代考証もまだ続くでしょう。
古事記は一貫して増減なく五十音ちょうどです。その内訳は、
母音五、その対にある半母音五、その内イヰは親音となって父韻であると同時に母音、
両者間を介在する父韻八、
イヰ列を除くアエウオ列の子音三十二、計五十。
言霊としては母音言霊ウと半母音言霊ウは主客の内容は同一ですので一つに勘定して、計四十九に、文字言葉を運ぶ言霊ンを入れて、計五十。
これらのうちカサタハ行全体で計二十、これは主体側のはたらきによって過去意識を造ることができる。フト(二十)といってフトマニの語源。マニは玉、言葉。
子音は何らかの形で母音の発声を邪魔することでできます。あるいは、母音は一度発声されると終りがありませんから、前もって区切って、母音を制限制約する形になっています。
ここの母音をつっつく形が四種の引用で八父韻としてあり、人類と日本語はこの上で動いています。
ひとの意識にとって子音とは何でしょう。(子音の連続する単語もある)母音は連続した意識を形成できますが、子音は瞬時だけです。
ここで思い出したことがあります。
老子の 「谷神は死なず、これを玄牝という。玄牝の門,これを天地の根という。綿々として存するごとく、これを用いて勤(つ)きず」(道徳経六章)。
普通の解は次のようです。
万物を生み出す谷間の神は、とめどなく生み出して死ぬ事は無い。これを私は「玄牝(げんぴん) - 神秘なる母性」と呼ぶ。この玄牝は天地万物を生み出す門である。その存在はぼんやりとはっきりとしないようでありながら、その働きは尽きる事は無い。
「谷神」は原始宗教の信仰対象。谷は地の割れ目で,古代の人はこれを女性の性器にたとえました。「玄牝」は女性のこと、「玄牝の門」は女性の生殖器をさします。
非常に概念的抽象的な文章で、古事記のように谷神の内容(母音)と働きが観念として語られているだけで、明らかに、元となる内容(フトマニ言霊学)に教えられたものなのが分かります。
それというのも、老子は古代に大和に留学して時のスメラミコトからフトマニ言霊学の障りを授けられています。古事記のオノゴロ島の段ギミのまぐわいの段等を見ていきますと、どうやら老子は子音の発生は語ることはできない(教えてもらえなかったか、理解できなかったか、)が、言霊母音の性格は語れたようです。
言霊学ではこう説明れます。
山には高い処の屋根と低い処の谷があります。山に譬えられる言葉にも尾根と谷があります。尾根は父韻、谷は母音です。中国の老子に「谷神(こくしん)は死なず」とあります。母音の事であり、母音は宇宙の音、永遠に変わることなき音です。
ではわたしはどうなのかというと、最初に言った通り分からないのですが、気付いたことだけ言っておきましょう。
人の場合お腹が空いた食べたーいというとき、何と何をどういう味の料理をどういうふうに何を使って誰と一緒に食べたいとなります。物が口に入ればいいという場合でさえも、自分の先天構造の中ではあれは駄目これがいいというような選択の芽が既に内在しています。
ここで口に物が入らなければ際限なく欲望は続いていきます。これは言霊ウの欲望次元での現れでしょう。谷神です。
満たされない限り谷神は持続していきます。その持続の様子が牝牛(女性)のようだというのです。牛のように動き回らず静かにじっとしているのに、相手を引きつけている。
玄牝は女や牛だけとは限りませんから、そのような性質が発する場所、相手を魅了し続けることなどを、玄牝の門,として、それに応答する両者を天地とし、玄牝の門,を天地の根と呼びました。これが綿々と続くのだというのです。
ここには父韻が無いので、用いてつきずになっていますが、実際は用いてつくようになっていきます。
そこで、その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、になります。
つきない母音にストップをかける、美しいものを見てその情感が続くのはいいですが、どのような物か表現されていないのなら、あーーーーーの単なる連続です。左右のどちらかを選択するときよしこっちだという決め文句が出てこなければ、えーーーーーだけで締まりがなくなります。お腹が空いて何を食べるか多くの気に入りのメニューを思い出すのに、思い出そうとしておもいだせなければ、おーーーーーで、理解できません。
ですのでこれら、母音の連続性を断ち切るのが子音です。言霊母音は実在として常に鳴り響いていますから、この鳴りつづける母音を上から下へ引きずりおろし、地に接触させなければ現象として、ここでは頭脳内イメージとして生じてきません。
おそらく、天地・あめつち・というのはこのことを指しているように感じます。こういう思いつきで喋る癖は現状では人の性ですので、すみません。
あめつち、というのは、アの目が着いて地となる、ことでしょう。仏教で言えば悟りを得ることで、そうして初めて上に登れるということでしょう。別に分からなくても構わないことです。わたしも分かりませんから。
もしそうなら、古事記の冒頭の出だしは人々を人として最低限の悟りぐらい得るようにと、その秘密の真言を述べているのかもしれません。
宣長の古事記伝は『なぜ「あめ」というのか、その意味はまだ分からない。』という書き出しですが、アの目(芽)を着けて(付けて)地となす、と提案しておきましょう。
アの目が着いた状態がオの言霊、経験概念による現象表現で、天が始めに大地に着くところ、子を降ろすところが青い空というわけですね。
ア(天)が初めて地に接触するのが、オ(頭脳内イメージ)でそれが現象として地に降ろされます。それが、落ちる(オが地に着く)ですね。
そこで現象となったものを人が選んで手にすればことが終える(オ・エ・る)となる。地に着いたオ(前のとは次元が違うことに注意)が、得られるとなり終える。
ここに一つの流れが、あ-お-え、が出来て、それを産み出すウを始めに付ければう-あ-お-えとなるでしょう。
こうして天から地まで一つに繋がることができるでしょう。
天の御中主の神 ウ
高御産巣日の神 ア ・神産巣日の神 ワ
天の常立の神 オ ・宇摩志阿斯訶備比古遅の神 ヲ
国の常立の神 エ ・豊雲野の神 ヱ
と、冒頭の記述と一致します。
天と地がつながった。
おのれのこころ内の準備 (その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、)
オノゴロ島の段落での問題は人類の全哲学問題の基礎である、主体主観、客体客観の関係の問題が既に解決されてしまっていたことに気付くことです。五千年以上前の古代大和において。
・かれ二柱の神、天の浮橋(うきはし)に立たして、
・その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、引き上げたまひし時に、
・・・その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、
・これ淤能碁呂島(おのろご)なり。
・その島に天降(あも)りまして、天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。』
○ その矛の末より垂り落つる塩の累積りて成れる島は、
「 父韻チイキミシリヒニを操って四つの母音エアオウを撹き廻して引き上げて来ます。すると父韻に付着した母音がしたたり落ちて積もります。そしてそれぞれの島を造ります。島(しま)とは「締(し)まり」の意。若し「カ」という音が島となるという事は、およそ人間の営みに関係する事柄の中で「カ」と名付けるべきすべての物事を統率して、心の宇宙の他の物事から区別します。ばくち打ちの言葉に「島」があります。それぞれの組の勢力範囲といった言葉です。単音の一音一音が、それぞれの音独特の内容を持ち、他の音とは混同出来ない島を占有している事であります。」
「 攪き廻した矛の先からしたたり落ちる塩が積もって出来た島は、己(おの)れの心の島である、の意。攪き廻して引き上げた矛の先には四つの母音アオウエにはチイキミシリヒニの八つの父韻が附着して、チ+ア=タ、キ+オ=コ、……と三十二個の子音が附いて来ます。人の心の現象は三十の子音で表されますから、己(おの)れの心の島であります。島(しま)とは「締(し)めてまとめる」の意。心である海の部分々々を締めてまとめたものは一音一音の現象子音ということが出来ます。これが自分というものの内容であり、表現であるということであります。 」
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対象を認識識別する時の自分のこころの内容が語られます。目前に蜜柑があって、それを認識する以前の、自分のこころに蜜柑を認識できる準備が整うまでの瞬時の動きです。
その前に蜜柑がなければなりませんが、蜜柑である、と規定されるのはまだ後のことで、これまでに解説された十七神は蜜柑であるであろうと規定される内容の主客の全構造をしめしています。即ち、御中主(みなかぬし)、実、身の中味の主、主客の全体です。
「その沼矛を指し下して画きたまひ、塩こをろこをろに画き鳴して、引き上げたまひし時に、」
注意してください。わざわざ二回も同じ「画き」を使用しています。
純粋客体が、頭脳内客体へと次元移動をしていきますが、ここでは御中主という全体であったものが、三十二の個別現象となって移動してきます。全体的な連続母音が三十二の現象子音のどれかとなって保存されていきます。
その純粋客体の頭脳内への移動の手順の一つが、「その沼矛を指し下して画きたまひ、」で最初の「画き」、続いて二番目の「塩こをろこをろに画き鳴して」の「画き」です。
始めは主体側、父韻での働きで、ついで、母音(半母音)側での働きです。
そにあった物体だったものに蜜柑という識別が与えられ、五感感覚の対象がその物となり、考えられたことが考えることになる、対象相手が自分の中に識別されるのにまず、沼矛を指し下ろして画くこと、といいます。
ここでは物が有ろうと無かろうと、沼矛で画くことが、設定されます。つまり、父韻の働きがまず設定されます。純粋客体が無限の連続として実在しているのにたいして、主体側の純粋主体としての対応です。同様に無限の連続として主体がありますが、この場合は言霊イ次元として個人の次元を超えています。
人の意識は宇宙の果てまで届くとか、人は死なず数十億後年を旅しているとか、過去未来と繋がっているとかの言いかたなどになっているでしょう。
純粋主体側の対応は主体主(ぬし)の各個人を通して行なわれます。ここまでが「沼矛を指し下ろして画き」で、父韻の相手客体の全体に対する態度です。
ついで父韻は自分の働きを現象化するのに、主体側の自己内容である自分の次元場面を捜します。人の次元内容はウオエアの四次元ですから、自らを探し求めて結合しようと掻き鳴らすという比喩になっています。
こうして二つ目の「画く」が成立すると、自己主体の足場となります。ウオエアは主体側の行為となって自らの同じ土俵内の相手対象を求め結ばれようとします。
ここまでで言う相手対象は純粋客体ですから、ここで結ばれるのは頭脳内での働きのあらわれとしてです。机の上の多くの物体の中から蜜柑がイメージとして選択されたところで、一般的には純粋客体を選択可能な足場を得たことになります。
それが、オノゴロ島です。
そしてこんどは純粋客体を客体として確定する準備をして(純粋客体→客体へ)客体に名を与え規定することになります。
まずその準備として、
「 その島に天降りまして、天之御柱を見立て八尋殿を見立てたまひき。」となります。
●目前の物体が何故観念となるのか、この問いに答えるにはまだ速過ぎるのですが、途中経過として書いてみましょう。
言葉使いは違いますが、ウィキの解説です。
「主体と客体(しゅたいときゃくたい、英: subject and object)は、この世界の様態を捉えるために広く用いられる、基本的な枠組みのひとつである。世界を構成するものとして、「見るもの、知るもの(主体)」と「見られるもの、知られるもの(客体)」の2種類の存在を認める。
客体とは感覚を通して知ることができるものであり、いわゆる物である。
主体とは感覚を受け取るものであり、意識である」
生理的な五感感覚を利用して説明しても、現象を現象で説明するだけで、行き着くところが見出せません。「知るもの(主体)、知られるもの(客体)」も脳内科学での物理現象の経過の一つになってしまう解説になるだけのものでしょう。
ここに蜜柑があります。現象としてこれを受け取るとここに既にその人なりの意識の判断が繋がってきています。それらは全部放棄してもらわなければなりません。なぜならここまでの古事記は、未だに現象を語るところまで行っていないからです。
要するにわたしの出だしの文章、ここに蜜柑があるという言いかたがわるいのです。というのも現象以前を語りたいからです。しかし、語ることは言葉をもってします。言葉は現象ですから、ここに飛躍乖離があります。この溝は埋められません。
蜜柑を単純な物理的実在と言ったり、単純な事実といったり、客体見られるものとかいっても皆同じことです。潜在領域のことは潜在領域の中で語らなければ理解されません。禅の言葉が禅意識の中で解されなければならないようなもの、絵画を見るのは絵画を見る眼の中で示されなければならないようなものです。
それにも関わらず人には言葉が与えられていますから、その抽象性の部分を使って何とかしようと皆頑張っているわけです。古事記は正直にそんなものは「独神にして隠れたまひき」なんだから余計な詮索はするなと言っています。
それでもやりたければ勝手にやれ、ただし古事記とは関係ないぞなんて言われているかもしれない。知的な好奇心を持ってしまったのだから、落ちるとこまで落ちろということでしょうか。
蜜柑があると言っても、蜜柑を見ている人がいなければ蜜柑はあると言う事実が成立しないし、蜜柑が無ければみたいと言う人がいても蜜柑はあるという事実は成立しない。
ここからどちらかの現象を抜き出すと水掛け論が始まる。有るのに無いといい、無いのに有るという論議が始まっていく。
両方共に関係したから事実関係を形成していくのだけど、それが分かっても、現象の言葉でしか語れないからどちらから語るにしてももどかしさか出てくる。
ウィキのように見るものと見られる物だけを設定するのでは現象は生じません。
既に説明したごとく現象として規定されたものが両者、主体側客体側、に共通の地盤上にあることが確認これていなくてはなりません。
蜜柑の色という現象を取れば蜜柑側から蜜柑色の光の波長が出ていて、その色を受け取る受容器官を持っていることの両者がひつようです。ただその両者が揃ったとしても、その両者間を結ぶ働きが無ければ何も起こりません。
働きがあっても、それ自体は現象ではないので働きを媒介する媒体が必要です。働けるのは何かの上にのっかかっているからでそれが実在である母音です。
働きは母音を介在として働きますが、その働きが主客の両者に共通であるときにそこに現象が生じますが、その前に、両者に共通の地盤が選択されています。共感感応となって両者がいざなぎ合わされるものの選択です。
人の精神世界で言えば、五感感覚のウの言霊次元か、経験知識記憶概念のオの言霊次元か、感情宗教芸術情感のアの言霊次元か、実践選択智恵野分別のエの言霊次元か、が選択されていきます。
蜜柑を食べたい食欲としてみるか、セザンヌのような絵にしたいという情感で見るか見るか、蜜柑のカロリーの比較としてみているか、蜜柑の酸性度が健康によいものか黄疸に影響があるのか食べられるのかと見ているのか、それぞれ別々の次元が成立していきます。
わたしはこうだがあなたはこうですね、というような次元の通じ合わないような話のでどころです。
また、同じ次元で話し合っていても通じない場合もあります。そのときはそれぞれが同じ次元でも父韻のでどころを異にして強調しているからです。
父韻は各次元に八つづつあり、TKMHRNYSによる母音に切り込み結合によってその出てくる味が違います。蜜柑を食べることでも、お菓子用、お茶用にその皮だけが欲しいかったり、果樹園用に種を手に入れたがっていたり、普通に食べたりで、それぞれ食べ方のこころの精神の関わり方が違ってきます。
こうして、それぞれの場面に応じて言葉が出てきますが、まだまだ先の話で、次の段階は「まぐあい」となりますが、その前に、
・これ淤能碁呂島(おのろご)なり。
・その島に天降(あも)りまして、天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき
を経ていなければなりません。
おのれのこころ内の準備 (塩こをろこをろに画き鳴(なら)して)
○「 画きたまひ、塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、」の「画く」(掻く)を「欠く」(壊す)の意とすることについて。
子音の発生に関して滞っています。分からないまま次へいくつもりですが、掻き鳴らすの掻くを欠くの意味で用いるとある程度分かるところがありました。
欠くは皿を欠くの壊すことです。母音の流れを粉々にするイメージです。
母音の実在は宇宙と共に連続した流れです。私たちはこれを取り入れなければ途方に暮れて立ち止まるだけですが、父韻で「掻き鳴らして」現象子音を得るのももっともな解説と思います。しかし、何故かわたしの頭脳の中に入っていかなかった。
この数日の迷いの後「欠く」を使ったらどうなるかというアイデアが浮かんだ。
古事記
・かれ二柱の神、天の浮橋(うきはし)に立たして、
・その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、引き上げたまひし時に、
・その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、
・これ淤能碁呂島(おのろご)なり。
・その島に天降(あも)りまして、天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。
客体を認識して関係を持つには客体と同じ土俵に、同じ橋の上に立たねばならない。「かれ二柱の神、天の浮橋(うきはし)に立たして、」です。
しかし、同じ場所に立っただけでは何も起きない。主体側からの働きかけがいる。「その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して」となります。
同様に、働きがあっても、それ自体は現象ではないので働きを媒介する媒体が必要です。機能、働き等はそれが現される媒体が必要です。(沼矛、矛は主体そのものではないが主体の働きを媒介する)
働けるのは、あるいは働きが見えるようになるのは、何かの上に乗っかかっているからでそれが実在である母音です。働きかける相手は「塩(四穂、四つの母音のこと)」です。
そこで、そこで父韻で掻き回すことになります。「塩こをろこをろに画き鳴(なら)して」です。「こおろ、(子を降ろす、現象子音を降ろす、創造する、地に近づける)
ここに、欠く、破壊するのイメージを追加します。
言霊母音は一連の流れとして、各人の産まれたときから、そして産まれる以前から何千年、何億年と持続してきているものです。その流れに係わり参加するには、その流れに飛び込まなければなりません。
その参加の仕方が父韻の八様態です。つまりその八様態によって母音の流れを自由自在に扱うことになります。現象となった言葉で言えば、好き勝手に母音の流れを切り取り、気に入ったものだけを選択し、ある期間ある場所ある次元だけに係わり、あるいはそれらを混同し取り違えたりしていくことになります。
母音はこうして切断され各人の勝手な好みで抽出されていきます。母音の歴史の流れに乗ってそれぞれが関心興味に応じて、あるいは宿命、縁に応じて切り取られた母音、破壊された母音の流れの断片が「その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる」です。
この母音にはTKMHRNYSの子音頭がくっついていて、それぞれの単位となっています。アの母音をKで欠いて引き上げるとK+アのKあ=か、が連続した母音あの中からでてきます。他の「沼矛」+「塩」=「したたり落つる塩」も同様です。
沼矛の持ち主は自分で、当面はわけの分からぬまま母音連続を父韻で欠いていきましたが、おもしろいことにそこに細々した独立した砕片が発見されました。欠き掻き廻すことを続けていきますと、いまココの現状から産まれたときの環境へ、そして過去の状況へも逆上っていくことができるようになりました。
そんなことを続けていると、無数無限の砕片がでてきそうですが、ここで古代大和の聖人は物凄いことを発見したのです。
無数の子音の砕片ができそうですが、それらをこころの内容に沿って分類していくと、母音五個、半母音五個、父韻八個、子音三十二個、の計五十個の単音が、独立したこころの内容と一致していることです。
五十以外にも多くの母音子音はありますが、こころの内容と比べると五十個を基本とする多少の変化に過ぎないことが分かってきました。
そして、ここにこころとは単音五十個であることが決定されました。一万年ぐらい前のことでしょう。
そこで古代の聖人達はこころの構造に沿った社会を造ることにしていったのです。
そこでまず、自然の変化の多い場所を探して、なるべく多くの事柄に対応できる場所で、そこでの事象を示す言葉を創造していきました。こうして大和言葉が創造されましたが、他のどんな自然発生的な言語とも違って完全な人工的な創造言語です。日本語を他の言語と比較しても意味がありません。
(古代の聖人達は古代の大和において理想社会の建設を始めましたが、聖人達は古代大和人であるとは限りません。)
同様に、自然の変化の多さに対応していく社会、人間事象にも名を付けると同時にその社会の運用を始めていったのです。ここに古代朝廷ができました。日本(大和)はフトマニの原理に沿った立国ですので他の国と比較しても意味ありません。
つまり一万年(?)前から五十音図を人のこころの鏡として、社会、まつりごとを始めたのです。(やたの鏡は五十音図を八父韻に沿って丸く現したものです。)
さて、当初は恣意的な掻き鳴らすでしたが、材料が増えてきますと分類が可能になってきます。「塩の累積(つも)りて成れる島は、これ淤能碁呂島(おのろご)なり。」です。ここにおのれのこころの足場(島)ができてきます。
同時に客観対象が自分の頭の中に入ってきました。ここに自己意識の足場が固まってきます。
この足場はまだ不定で未定です。切り刻まれた母音の勝手なものが、ポタリポタリと集まっているだけで、何の規則も統一もありません。蜜柑を食べたいという次元か、蜜柑の絵を描きたい、蜜柑の学術分類をしたいとかの、時処位(次元)がまだ分別されていません。
父韻TKMHRNYSで四つの母音を掻き回し切り刻み、父韻にそれぞれ母音がくっついて、TKMHRNYS+母音、T+あ、T+お、T+お、T+う、T+え、K+母音、MHRNYS+等々となって、三十二の子音の個別化が現れています。
言霊母音の連続が母音を保ったまま、頭に子音をくっつけて個別化されて出て来ます。
母音は一旦出てくると止まることを知りません(谷神は死なず)ので、手に負えません。例えば腹減った蜜柑が食べたいとなると、食べるまで、蜜柑の柑橘類上分類がしたいとなると、その分析総合分類の成果を得られるまで、蜜柑を芸術的に絵画にしたければそれを描き始めるまで、それぞれウオアの母音が泣き(鳴き)騒ぎます。
その鳴き騒ぎを静め自分のものとして「引き上げ」るのは父韻の役目です。
『 ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき。』
対象である母音の実在の連続を頭の中の働きである父韻で掻き回し、区切って欠き粉砕し、「引き上げる時に」客体客観物体の主体内への移動が行なわれます。この段階では前にも言ったように不定形で未定形名なままです。こんどはそれをどの時処位(次元)を持ったものとしてあるかを定めていきます。
まず、「その島に天降(あも)りまして、天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき」となります。
その後、頭脳内に「引き上げ」られたものの次元宇宙を決めていくこと、これが「みとのまぐはい」といわれるものです。男女間の行為のことではありません。「ミ(見)ト(十)ルツナマグハヒ」(アからワへ行くこと、淡路)(8ー3へ)
ここまで書いてきてもまだすっきりしないことがあります。母音の連続の中に飛び込んで切り刻む父韻の働きの八つの様態についてです。ローマ字を使ってT+ア、その他、と三十二を造るのは簡単ですが、その意識内容が伴わないのです。どのような意識でTなのか、Kなのか、Mなのかが自証できていないからです。
父韻に関しては既に長々と書いてきましたけど、結局なんにもなっていないことを証明しているようなものです。
五千年以上前からの伝統をありがたく受け取ってそのまま覚えてしまえばいいのですが、やはり角杙の神、妹活杙の神が暴れるのでしょうか。
以下は遊び。
角杙の神、父韻言霊キ(K)。K+あ=か、K+う=く、K+え=け、K+お=こ。か、く、け、こ。
知識過去経験を角を出すように掻き繰って自分の方に引き寄せてくる働きの力。
母音の連続、あああ、ううう、おおお、えええ、をK、K、K、と斬っていく。
皆活きている、犬も猫も人も活きている。どうやって活きていくのだろう。活きたい欲求があるからだろうか。活きたい欲求を自分の方に引き寄せてみよう。ウウーーーーウーーーーがあって、K、K、K、でウウーーーを壊して切り刻んで、自分に引き寄せる。ウウウKウーーーKKうーうーKう、ク、、、。
くる、来る、くう、喰う、食う、ク、ウ。
おのれのこころ内の準備 (天之御柱を見立て八尋殿を見立てたまひき、)
全部引用。
○ その島に天降りまして、天之御柱を見立て八尋殿を見立てたまひき。
天之御柱とは人が自らの主体である言霊母音アオウエイの次元を自覚し、確立した姿の事を言います。この主体の柱に対して客体であるワヲウヱヰの半母音の畳わりの姿を国之御柱といいます。この主体と客体との二本の柱で示される宇宙の実在の有り様に二つの場合があります。この事は先にお話した事でありますが、二本の主体・客体の柱が合一した絶対の実在として心の中心に一本となって立っている場合と、相対的に二本の柱が主体・客体の対立として立っている場合とがあります。この二本の柱は一切の現象がここより生れ、またここに帰って行く宇宙の根本実在であります。
八尋殿とは文字通り八つを尋ねる宮殿の意です。宮殿と申しましたのは、心を形成している典型的な法則を図形化したものだからです(図①②参照)。この二つの図形のそれぞれの八つの間に八つの父韻チイキミシリヒニが入ります。この図形は基本数である八の数理を保ちながら何処までも発展します(図③参照)。そこで八尋殿を一名弥広殿とも呼びます。
天之御柱(国之御柱)と八尋殿を以上の如く説明して置いて、この文章の始めにある「その島に天降りまして」の意味について考えてみましょう。「古事記と言霊」の講座が始まってから前号までの話はすべて人間の心の先天構造即ち意識で捉える事が出来ない部分の説明でありました。そして今号より後天子音を生む話に移って来たわけであります。十七個の先天言霊が活動して、現象子音である淤能碁呂島が出来ました。「その島に天降りまして」とは岐美二神が先天の立場から己れの心を形成している三十二の子音の場所である後天の立場に降って来た、という意味であります。その後天の立場から見て、先天と後天を合わせた宇宙の構造を頭の中で図形を画いて見る状態を文章にしているというわけであります。すると、此処の文章は次の様に解釈することが出来ましょう。
「舌を使って八つの父韻チイキミシリヒニを働かせて、四つの母音エアオウの宇宙を撹き廻してみると、現象子音が生れて来ました。その音のそれぞれが自分の心を構成しているそれぞれの部分の内容を表現している事が分かって来ました。そこで今度は自分の心の部分々々の立場(淤能碁呂島)に立って全宇宙を見ると、自らの心の中心に宇宙の実在であるアオウエイ・ワヲウヱヰの柱がスックと立っている事が確認され、またその柱を中心として八つの父韻の原理に則して後天世界の構造が何処までも発展・展開している事が分って来たのでした(図④参照)。
天之御柱と八尋殿について世界の各宗教に於て種々説明されています。天之御柱の事を神道に於ては神道五部書に「一心之霊台、諸神変通の本基」とあり、伊勢神宮では心柱または御量柱(みはかりばしら)、また忌柱と呼んで尊ばれ、内外宮本殿床中央の真下の床下に約五尺の角の白木の柱によって象徴として安置されており、仏教に於ては単的に古い寺院にある五重塔で示されています。ここでは天之御柱と八尋殿について易経との関係をお話することにしましょう。
中国の易経という本の中に河図・洛書という言葉が出て来ます。その文章を引用すると「河、図を出し、洛、書を出して、聖人之に則る」とあります。この文章だけでは何の事かお分かりにならないでしょうから、説明を加えます。「河図」とは辞書に次の様にあります。「伏羲の世、黄河に現れた龍馬(りゅうめ)の背に生えている旋毛(つむじ)に象取(かたど)ったという文様のこと。」また「洛書」とは「太古、中国で禹王が洪水を治めた時、洛水から現れた神亀の背中にあったといわれる九つの文様。書経中の洪範(こうはん)九畴(ちゅう)はこれに基づいて禹が説いたものという」とあります。
この様に辞書の文章を引用しても尚お分りにならない事と思います。そこで河図と洛書を易経は如何に表わすかを図で示して見ます。ズバリ申上げますが、河図は天之御柱を数の図形で、洛書は八尋殿を数学の魔方陣の形で示したものなのです。
日本の古文献竹内歴史には「鵜草葺不合王朝五十八代御中主幸玉天皇の御宇(みよ)、伏羲(ふぎ)来る。天皇これに天津金木を教える」と記されています。天津金木とは言霊原理の中の言霊ウ(五官感覚に基づく欲望)を中心に置いた五十音図の法則の事を謂います。天皇は伏羲に天津金木音図そのものを授けず、その法則を中国の言語概念と数の原理に脚色して授けたのでした。伏羲は故国に帰り、この法則を基礎として「易」を興したと伝えられています。中国の書「易経」には「伏羲が始めて八卦を画し、文王が彖辞(てんじ)を作り、周公が爻辞(こうじ)を作り、孔子が十翼(よく)という解説書を作った」と記されています。この様な易学の発展の途上で、日本並びに世界の文明創造上の方針の転換が実施され、天津金木を含む言霊の原理は世の表面から隠没することとなりました。その結果、易の起源が日本の言霊原理であることも秘匿されました。従って易の起源は空想的な事柄に設定されたのです。そこに現れた物語が「伏羲の世、黄河に現れた龍馬の背に生えている旋毛に象取って河図(かと)の法則を考案し、また禹王が洛水から現れた神亀の背中にあったといわれる九つの文様から洪範九畴の洛書を説いた」というおとぎ話となった訳であります。
「中国文化五千年、わが国の文化二千年」という言葉が常識となった今日、日本の言霊学と中国の易経との関係を右の様に書きますと、読む人によっては「何を迷事(よまいごと)を言って」とお笑いになるかも知れません。けれど前にも述べました如く言霊学の天之御柱・八尋殿は共に物事の実相の究極単位である言霊によって組立てられているのに対し、中国の河図・洛書は実相音の指月の指あるいは概念的説明である数理によって表わされています。どちらが先で、どちらが後なのか、は自(おの)ずから明らかであります。この一事を取ってみましても、日本国の紀元が今の歴史書の示す高々二千年なるものではなく、世人の想像も及ばない程太古より始まっている事、またその時代に行われていた国家体制が人類の精神的秘宝である言霊原理に則って行われていた事、また今より二千年前、神倭朝十代崇神天皇の御宇、皇祖皇宗の世界文明創造という遠大な計画の下に、この言霊原理が政治の原器としての役割の座から一時的に故意に隠される事になったという事実に思いを馳せる事が出来るでありましょう。
おのれのこころの自覚へ (成り合わぬ、成り余れる)
○ 古事記『ここにその妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、
「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」とまをしたまひき。ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、
「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。
故(かれ)この吾が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、伊耶那美の命答へたまはく、「しか善けむ」とまをしたまひき。』
古事記神話が先天十七言霊全部の出現で人間精神の先天の構造がすべて明らかとなり、言霊学を解説する視点が先天構造から後天構造へ下りて来ました。ここで後天現象の単位である現象子音言霊の誕生の話に移ることとなります。先にお話しましたようにアオウエ四母音とチイキミシリヒニ八父韻の結びで計三十二の子音誕生となる訳でありますが、古事記はここで直ぐに子音創生の話に入らず、創生の失敗談や、創生した子音が占める宇宙の場所(位置)等の話が挿入されます。古事記の神話が言霊学の原理の教科書だという事からすると、何ともまどろこしいように思えますが、実はその創生の失敗談や言霊の位置の話が言霊の立場から見た人類の歴史や、社会に現出して来る人間の種々の考え方、また言霊学原理の理解の上などで大層役立つ事になるのであります。その内容は話が進むにつれて明らかとなって行きます。
「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処あり」
子音創生の話を、古事記は人間の男女間の生殖作用の形という謎で示して行きます。男女の交合とか、言葉の成り立ちとかは人間生命の営みの根元とも言える事柄に属しますので、その内容が共に似ている事を利用して、子音創生を男女交合の謎で上手に指し示そうとする訳です。
伊耶那岐の命が伊耶那美の命に「汝が身はいかに成れる」と問うたのに対し、美の命が「吾が身は成り成りて、成り合わぬところ一処あり」と答えました。
「成る」は「鳴る」と謎を解くと言霊学の意味が解ります。アオウエ四母音はそれを発音してみると、息の続く限り声を出してもアはアーーであり、オはオーーと同じ音が続き、母音・半母音以外の音の如く成り合うことがありません。その事を生殖作用に於ける女陰の形「成り合はぬ」に譬えたのであります。
「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。」
「我が身」とは伊耶那岐の命の身体という事で言霊イを意味するように思われますが、実際にはその言霊イの働きである父韻チイキミシリヒニのことを指すのであります。
この八つの父韻を発音しますと、チの言葉の余韻としてイの音が残ります。即ちチーイイイと続きます。これが鳴り余れる音という訳です。この事を人間の男根が身体から成り余っていることに譬えたのであります。
「 この吾が身の成り余れる処を、汝が身の成り合わぬ処に刺し塞ぎて、国土生み成さむ。」
この一節も男女の交合(身体の結合)に譬えて言葉の発声について述べたものです。父韻を母音の中に刺し塞ぐようにして声を出しますと、父韻キと母音アの結合でキア=カとなり、父韻シと母音エでシエ=セとなります。このようにして子音の三十二言霊が生れます。
「国土生み成さむ」の国土とは「組んで似せる」または「区切って似せる」の意です。組んで似せるとは父韻と母音とを組み合わせて一つの子音言霊を生むことを言います。その子音、例えばカの一音を生むことによってカという内容の実相に近づける事です。区切って似せると言えば、カという音で表わされるべきものを他の音で表わされるべきものから区切って実相を表わす、の意となります。
人間智性の根本リズムである言霊父韻と、精神宇宙の実在である母音言霊との結合で生れた、現象の実相を表わす単位である子音言霊を組み合わせて作られた日本語は、その言葉そのものが物事のまぎれもない真実の姿を表わす事となるという、世界で唯一つの言葉なのであるという事を、その言語を今も尚話すことによって生活を営んでいる現代の日本人が一日も早く自覚して頂き度いと希望するものであります。
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現象を現すメカニズムを解こうとしているわけですが、非常に手間取っています。ほとんどうまく行っていません。日常での実際は何ということはない、考えることなく自然にことは進行していますが、いざ書き表すというのは大変なことです。
何故大変なことなのか。
要するに自分の頭を使って考えるからです。これが駄目な元凶です。
考えたと称して、思いつき関心興味偶然発見よければ追求研究発明等々で構成したアイデアを、努力の代償として買い被るからです。お気に入りにブックマークする感じです。
経験知識の総合では何も産まれないのです。知識上概念を豊富にするだけのもので、どのようにするのかという一線は超えられていません。
何とかしようとしていますが、知的に学問的に対応していく限りだめでしょう。確かにある程度の問題は解決して、納得しますが、その後に何も続かずなるほど分かったというだけのものです。
自分のすることをこんなふうに言うのも何ですが、まるで駄目ですね。やはり最低でも悟りぐらい開いていないと、という感じがします。
物の創造、考えの創造には自覚した立場からと、自覚がなく適当適宜と思われるものを掻き集めて始める立場とがあります。欲望、五感感覚次元、学術、知識収集次元などは全て自覚のない立場から始まっています。
適宜な面白さが人の気を引くだけのものですが、それでも、知的な収穫があるので生き長らえることができるのです。段々と自分のやること人のやることの根本的に駄目な原因が分かりかけてきていますが、その対応に関してはまるっきりです。
続けるしかないからやってみます。
ものを自覚して産み出す段をみとのまぐはひに見てみよう。科学学術の研究者もよく言うことがあります。寝ているときに、便所で、歩きながら等々のときアイデアがやって来た。それが大発明となり、大発見となっていくといいます。大なり小なりこの世はそんなところから動いています。それをうまく取り繕えば勝者となっていきます。
伊耶那岐は美の命にといます。両者共に自覚の内容を確認し合います。その相互の了解の後で国を産もうと提言していきます。国は、クニ、組んで似せることの意味で、伊耶那岐の提言の内容をくみ取りそれに似せるようにするということです。
さらにそこでは、伊耶那美の命の同意が必要です。いくら伊耶那岐が頑張ったところで美の命の同意がなければ一人相撲となります。「然善けむ・しかよけむ」(しかりよからん)と答えました。
よけむ、よからんの「よ」は四のことで四つの次元が全部揃っていることをいいます。一つの次元だけを取り上げて学術科学だ、欲望充足のためだ、美的芸術だとある片面だけを取り上げることではありません。しかり、全部を網羅した子を産みましょう。
ですのでこのブログその他も四つの次元から見られても動じないものでなければならないのですが、残念賞です。
天の御柱と八尋殿を用意して立派な赤ちゃんを産む予定でしたがうまく行きません。
「成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、」
伊耶那岐の命側では、八父韻+母音ですから、T+あ、K+あ、M+あ、でた、か、ま、を鳴り続けますと、アーーー、が成り鳴り余ります。伊耶那美の受動側では、ワ行母音(半母音)が鳴き続き合わさるところがありません。
そこで伊耶那岐は同じ次元に立って、相手を泣き止ますのです。机の上の蜜柑を上手に描くにはどうするか考えている伊耶那岐は、食べ物としてではなく、その同じ次元上での芸術感情のための蜜柑を探すのです。
おのれのこころの創造へ (みとのまぐはひ)
○ 古事記 『ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、
「然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて、美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ」とのりたまひき。
かく期(ちぎ)りて、
すなはち詔りたまひしく、「汝は右より廻り逢へ。我は左より廻り逢はむ」とのりたまひて、
約(ちぎ)り竟(を)へて廻りたまふ時に、
伊耶那美の命まづ「あなにやし、えをとこを」とのりたまひ、後に伊耶那岐の命「あなにやし、え娘子(をとめ)を」とのりたまひき。』
伊耶那岐の命詔りたまひしく、「然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて、美斗の麻具波比せむ」とのりたまひき。
天の御柱とは主体を表わす五母音アオウエイ(伊耶那岐の命)の事であり、それに対する客体の半母音ワヲウヱヰ(伊耶那美の命)の柱は国の御柱と呼ばれます。この天の御柱と国の御柱は先にお話しましたように相対的に双方が離れて対立する場合と、絶対的に主体(岐)と客体(美)とが一つとなって働く場合があります。今、この文章で伊耶那岐と伊耶那美が天の御柱を左と右から「行き廻り合う」という時には図の如く絶対的な立場と考えられます。その場合の天の御柱とは、実は天の御柱と国の御柱とが一体となっている絶対的立場を言っているのだとご承知下さい。
八つの父韻は陰陽、作用・反作用の二つ一組の四組より成っています。即ちチイ・キミ・シリ・ヒニの四組です。伊耶那岐と伊耶那美が天の御柱を左と右の反対方向に廻り合うという事になりますと、
左は霊足(ひた)りで陽、
右は身切(みき)りで陰という事になり、
伊耶那岐は左廻りで八父韻の陽であるチキシヒを分担し、
伊耶那美は右廻りで八父韻の陰であるイミリニを分担していると言うことが出来ます。
「美斗の麻具波比せむ」の「美斗」とは辞書に御門・御床の意。寝床をいう、とあります。麻具波比とは「目合い」または「招(ま)ぎ合い」の意。美斗の麻具波比で男女の交接すること、の意となります。即ち「結婚しよう」という事です。竹内文献には
「ミトルツナマグハヒ」
と書かれています。陰陽の綱を招(ま)ぎ合い、縒(よ)り合って七五三縄(しめなわ)を作ることを謂います。即ち夫婦の婚(とつ)ぎ(十作)(とつぎ)の法則に通じます。この事については子音創生の所で詳しく解説いたします。
汝は右より廻り逢へ、我は左より廻り逢わむ。
伊耶那美の命は女性で「身切り」より廻り、伊耶那岐の命は男性で「霊足り」より廻り、その女陰と男根、成り合はぬ所と成り余れる所を交合することによって現象子音言霊が生れます。その際、岐の命は八父韻の中のチキシヒの四韻を、美の命はイミリニの四韻を分担する事となります。
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対象である母音の実在の連続を頭の中の働きである父韻で掻き回し、区切って欠き粉砕し、「引き上げる時に」客体客観物体の主体内への移動が行なわれます。この段階では前にも言ったように不定形で未定形名なままです。こんどはそれをどの時処位(次元)を持ったものとしてあるかを定めていきます。
・美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ」とのりたまひき。
机の上の蜜柑は、食べたい対象なのか、柑橘類のどの部類に属するものかを知りたいのか、どのように絵画に描きたいものなのか等が主体の次元に合わせて、対象が感応でき応答出来るかが見られます。主体側のアーーは対象側のア(ワ)ーーを求め、オーーはヲーーを求めます。
・かく期(ちぎ)りて、
両者はこのように約束をしました。ア-ワ、オーヲ、ウーウ、エーヱ、イーヰがそれぞれ会うという約束です。
・すなはち詔りたまひしく、「汝は右より廻り逢へ。我は左より廻り逢はむ」とのりたまひて、
右左は両者が顔を突き合わすのに必要な、感応応答し合える方向で、主体側がTYKMSRHN+アオウエイで鳴き騒ぐ時にアオウエイが「余り」となります。
この母音を客体側の半母音に差し入れるわけですが、そのこころは、主体側の「余り」の様子に応じて客体側はそれを受け入れることです。大きく長く鳴けば大きく長く、小さく優しく鳴けば小さく優しくといった具合です。
ここにその量に応じて、その質に応じて、その時処位に応じてという原則が成立します。
・約(ちぎ)り竟(を)へて廻りたまふ時に、
成り余れるところと、成り合わぬところがこうして、大きすぎもせず小さすぎもせずちょうどかっきりに一致します。人々のこころが満足するところです。
実際、自分の感じること、考えることはまるで自分が物を造ったようにぴったりとした感じを作り出します。
・伊耶那美の命まづ「あなにやし、えをとこを」とのりたまひ、後に伊耶那岐の命「あなにやし、え娘子(をとめ)を」とのりたまひき。
余りの満足感に両者はそれぞれを讃えますが、客体受動側がまず口を開いてしまいました。
ここで一つ疑問があります。いつ「まぐあい」があったのかです。ちぎりは二回でてきています。
一つは伊耶那岐が自分を創造意志として意識したが、意志には形現象が無いので意志を示す媒体を主体側母音に求めたとき、
一つは形現象を持った伊耶那美+母音を主体の実体として、相手側半母音を求めたとき、です。
当初、伊耶那岐の意図に沿って「国土(くに)生みなさむ」と同意を求め、方法を提示してきましたが、「国土(くに)生みなさむ」最初の段取り(クニ、伊耶那岐の意図に沿って、組んで似せる)で失敗します。