道俣(ちまた)の神。「身禊」8。
次に投げ棄つる御褌(みはかま)に成りませる神の名は、道俣(ちまた)の神。
褌(はかま)とは腰より下にはいて、股(また)より下が二つに分かれている衣類のことです。
道俣(ちまた)も道の一点で、二方向に分かれる場所のことです。
物事の内容を明らかにするには、上下・表裏・陰陽・主客・前後・左右・遅速等の分離・分岐等の事実を明らかにする必要があります。
道俣の神とは言霊図に照合して物事の分岐点を明らかに確認する働きのことであります。
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袴を脱いでもまだ帽子と腕輪が残っています。袴を脱ぐというのはパンツを脱ぐみたいなもので後は素っ裸です。陰部が露出するわけですがそこに何かあるかどうか。始めに衝き立つ船戸(つきたつふなど)で男根のイメージがありました。ここでは道俣(ちまた)の神さんが産まれるということで、いよいよ行為に及ぶところでしょうか。
どんな行為でしょうか。解説は道が分かれていてどちらか一方を取るというのが多い。しかしそれでは片足をとることになって男性の行為に一致しません。
分岐点は明らかにされて、その上両方の道も明らかにされる必要があるようです。
しかし、道俣(ちまた)のちは千(ち)まで拡がっているかもしれません。そうなると二つどころでなくなります。
袴(はかま)を葉釜(は・かま)、言葉の釜とするとその釜の中には千もの言葉が入っていることになります。
多くの言葉の中から適当なものを選ぶことともとれます。
禊ぎは伊耶那岐が作ってしまった存在の影に支配されることに光りを当てることです。袴を脱ぐのは父韻の働きをはっきりされることにも通じて、八父韻の選択された一つを定立させることともとれます。そこから選ばれた父韻において多くの選択肢の中から両方(陰陽)の股を通ることにもなります。主体の意図を最も際立たせる陽の父韻とそれに見合う陰の父韻を選ぶことかもしれません。
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人類普遍の麻邇(マニ)
先生は亡くなる前に、「わたしが死んだら、わたしの伝えたことはみんな忘れちゃってくれ」と。「それであなたが思うようにしゃべってくれ」と、こう言われたんです。要するに、破門されちゃったんです。「おまえはおまえでやれ」って。「それが継ぐことなんだ」と。
だからわたくしも、ここにいらっしゃる方が、「オレもひとつしゃべくってやろう」って、世界中に飛び回って言霊の学問をしゃべっても、「伝授料をよこせ」とは決して言いません。自由におしゃべりくだすって結構です。「おまえ、そこ間違ってひどいじゃないか」なんてことも言いません。間違っても結構なんです。
なぜならば、この学問は、日本の霊知り(ヒジリ)の天皇(スメラミコト)が世界中の人に残してくれた学問ですから。人類全体のものなんですから。わたくしの専売特許ではないのです。
わたくしの申し上げていることは、解説はいたしますけれどひとつとしてわたくしが発明したものはございません。ただ教えられたことを、自分なりの考えで「こう言えばわかっていただけるかなあ」というつもりでしゃべっているのです。
わたしが発明したことは何もありませんから、「ありがとうございました」って言われる筋合いもないのです。「つまんないことを言って、だめじゃないか」と言われたら、「それじゃあ聞かなきゃいいじゃねえか」というだけの話でして、「ありがとう」は本当はいらないのです。
「ありがとう」というなら、みなさんの中に住んでいる方、霊知りの方に「ありがとう」と言ってくださればよろしいのです。それはこちらも「ありがとう」という一人ですから。
http://imakoko.seesaa.net/article/10288058.html
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