父韻。エの配列。
1-言霊チ。
宇比地邇神(うひじにのかみ)を、
端緒の意識のはずみを総意主にして、意識宇宙の全体を直接現実の中心に向かい近づける心の動きの力動韻とする。
2-言霊キ。
角杙(つぬぐい)の神を、
相手の誘発を受け入れるために手を尽くして感じ、探し、かき集めくくりたぐり寄せ、自分を組み立てようとする律動とする。
3-言霊ミ。
妹生杙(イモイクグイ)の神を、
生きた実を得ようとする自分の心に跳ね返るものを確認して結び付き、主体側の行為の有用性が生きていることを確認しようと反作用する律動とする。
4-言霊ヒ。
於母陀流(おもたる)の神を、
意識内容が自己の表層へ上昇し自己の表面結界を超えて、表面で見つけたものと結び付こうとする律動とする。
5-言霊り。
妹大斗乃弁(おほとのべ)の神を、
自己を取り巻く大量に提供せられた選択肢の花弁の中から、自分の種の保存と伸張に都合よく述べられているものを選択する律動とする。
6-言霊ニ。
阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神を、、
押し寄せる周囲からの圧力を利用して心の中に自分を煮詰め、それによって自分を抽出する律動とする。
7-言霊イ。
妹須比智邇(いもすいぢに)の神を、
総体のはずみを端緒の主として、総体を意識内容目指して矢を射るように持続伸張発展させていく律動とする。
8-言霊シ。
意富斗能地(おほとのぢ)の神を、
決まった方向へ結論へと収束するように、選択肢がこれしかない状態を産み出し、今現在を静め修めようとする律動とする。
===========================================================--=
日月神示の二三章を読んだ感想です。
この神さんは、端からは見た目には何にも分からない目茶苦茶な記号で暗示を送ってきた割りには、いろいろと要求の多い神です。
「しっかり読め」とか、
「一聞いたら十知る人でないと、この御用つとまらんぞ」とか
「早やう改心して呉れよ。」
「・・と申しておろがな、どこから何んなこと出来るか、臣民には分かるまいがな、」とか、
「神示よんで呉れよ、神示よまないで臣民勝手に智恵絞りても何にもならんと申してあらうがな、」とか、
かなり言いたい放題ですが、その一方、
「この仕組 知らさなならず、知らしてならんし神もなかなかに苦しいぞ、」
とその胸の内を開けたり、
「臣民にはまだ分るまいなれど、今に分りて来るぞ、」と、言ってくれたり、
「世の元からの仕組ざから、」とちょっと白状したり、
「いよいよ岩戸開く時来たぞ。」にあたって「覚悟はよいか、」と気にしたりしています。
日月神示も古事記の神代の巻に対応している一つですが、扱う範囲があまりにも広いように見えるのは翻訳の性でしょうか、?。
「此の 神示八通りに読めるのぢゃ、」ということですが、原文を八通りに読めるということなら、八通りのあれやこれやが入り交じって翻訳されてしまっているので、扱う範囲が広いように映るのかもしれません。
八通りのそれぞれを一つ一つ翻訳していったなら、整然とした分野別の訳文が出来たかもしれません。
ということは一つの原文、記号、を八つに読むことですから、これは大変なことになりそうです。
その八つの読み方の一つに古事記神代の巻を適用できるところが多くみられます。
つまり五十音図から理解することができるところがあります。
「七つの花が八つに咲くぞ、
此の 神示八通りに読めるのぢゃ、
七通りまでは今の人民でも何とか判るなれど八通り目は 中々ぞ。
一厘が、 かくしてあるのぢゃ、」
これなどは古事記の冒頭そのものです。
冒頭の引用を解説付きで示します。
「七つの花が」、というのは、冒頭七神で言霊学でいう人の心の実在宇宙。母音半母音という。
1-天の御中主の神 言霊 ウ (こころの発生、問題の提示)
2-高御産巣日の神 言霊 ア (心の自覚、主体)
3-神産巣日の神 言霊 ワ (心の自覚、客体)
4-宇摩志阿斯訶備比古遅の神 言霊 ヲ (こころの客観実在)
5-天の常立の神 言霊 オ (こころの構造、経験、主体側)
6-国の常立の神 言霊 エ (こころの構造、選択 主体側)
7-豊雲野の神 言霊 ヱ (こころの構造、選択 客体側)
「八つに咲くぞ、」というのは、次の八神で、実在宇宙に働きかける心のこと。父韻という。
8-1 宇比地邇神・言霊 チ (ウ)全体性
8-2 妹須比地邇神 ・言霊 イ (ウ) 全体性
8-3 角杙神・言霊 キ (オ)拡がる動き
8-4 妹生杙神 ・言霊 ミ (ヲ) 拡がる動き
8-5 意富斗能地神・言霊 シ (エ) 拡がりの保存収縮
8-6 妹大斗乃弁神 ・言霊 リ (ヱ)拡がりの保存収縮
8-7 於母陀流神・言霊 ヒ (ア)火花の先端にて、表面生
8-8 妹阿夜訶志古泥神 ・言霊 ニ (ワ)火花の先端にて、表面生
「此の 神示八通りに読めるのぢゃ、」
というのは、各実在世界への働きかけが八つあることと同時に、八つとも経過して行くということ。
「七通りまでは今の人民でも何とか判るなれど」
というのは、1~7の神のことで、誰でもが普通に持つ人間性能の実在世界のことだから、誰でもが気付ける、ということ。(伊勢の心の御柱のこと)
「八通り目は中々ぞ。 」
というのは、8-1~8-8までの神のことで、創造意思が発動する意識の形で、目に見えない根本律動のこと。
「一厘が、 かくしてあるのぢゃ、」というのは、ギ-ミの命のことですが、古事記では伊耶那岐の大神となって一神(一厘)になっている。創造意思の宇宙のこと、人間の創造源動因、アルファでありオメガ、のこと。親韻という。
1-0 伊耶那岐神 言霊 イ (意志の発動)
1-1 伊耶那美神 言霊 ヰ (意志の帰還)
またこんなことも書いてありました。
「今は玉がなくなってゐるのぞ、鏡と剣だけぞ、それで世が治まると思うてゐるが、肝腎の真中ないぞ、それでちりちりばらばらぞ。アとヤとワの詞(四)の元要るぞと申してあろがな、この道理分らんか、剣と鏡だけでは戦勝てんぞ、それで早う身魂みがいて呉れと申してあるのぞ。」
「アとヤとワから表に出すと上の人も耳傾けるのざぞ。アとはアイウエオぞ、ヤもワも同様ぞ、カはうらぞ、タはおもてぞ、サとナとハとマとまつはりて呉れよ、ラは別の御役ぞ、御役に上下ないぞ、みなそれぞれ貴い御役ぞ。」
これは五十音図の解説です。三種の神器のうち、勾玉が無いというのは、上の8-1~8-8のことを指しています。
「アとヤとワ」というのは、五十音図ア段をワまで行くということで、アからワまでヤ(ア-カサタナハマヤラ-ワ)のようにいくこと。ヤの部分にはちょうど八っつの父韻(上記)がある。
「剣と鏡だけでは戦勝てんぞ、」というのは、古事記では淡島、蛭子のことに対応していて、原理原則だけ、抽象的なことだけで、八父韻の実際の働きかけが無いこと。
「アとはアイウエオぞ、ヤもワも同様ぞ、カはうらぞ、タはおもてぞ、サとナとハとマとまつはりて呉れよ、ラは別の御役ぞ、御役に上下ないぞ、みなそれぞれ貴い御役ぞ。」
アとはアイウエオぞ、ヤ(カサタナハマヤラのこと)も、ワ(ワヰウヱヲ)も同様ぞ。
カから始まる通常の音図は心と意識の裏側から始まっているので、五十音図はタはおもてぞ、から始めるようにということ。つまり新しい音図はたかまはらなやさの順になる。
「ラは別の御役ぞ、」
通常の五十音図のラと新しい五十音図(天津太祝詞音図)のラでは、前者のラは無自覚な欲望や知識や意識の拡散進展だが、後者のラは自覚された意識の拡大を行動の名分にして、心を結論付ける。
日本の神示、古文献、偽書、御告げ、の多くはほとんど古事記の神代の巻に係わるもののようで、「この仕組 知らさなならず、知らしてならんし神もなかなかに苦しいぞ、」と言っているうちに、多くの意見が乱立してしまい、本物を書き記したのが古事記です。
現代においても神の御告げとして出てくるくらいですから、この五十音図というのは本当にインパクト強烈なものだったのでしょう。
==============================