ここに伊耶那岐の命、見畏(みかしこ)みて逃げ還りたまふ時に、その妹伊耶那美の命、「吾に辱(はじ)見せつ」と言ひて、すなはち黄泉醜女(よもつしこめ)を遺(つかわ)して追はしめき。ここに伊耶那岐の命、黒御縵(くろみかづら)を投げ棄(う)てたまひしかば、すなはち蒲子生(えびかづらな)りき。こを摭(ひり)ひ食(は)む間に逃げ行でますを、なほ追ひしかば、またその右の御髻(みみづら)に刺させる湯津爪櫛を引き闕きて投げ棄(う)てたまへば、すなはち笋(たかむな)生りき。こを抜き食(は)む間に、逃げ行でましき。また後にはかの八くさの雷神に、千五百(ちいほ)の黄泉軍(よもついくさ)を副(たぐ)へて追はしめき。ここに御佩(みはかし)の十拳の剣を抜きて、後手(しりで)に振(ふ)きつつ逃げませるを、なほ追ひて黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に到る時に、その坂本なる桃の子(み)三つをとりて持ち撃ちたまひしかば、悉に引き返りき。ここに伊耶那岐の命、桃の子に告(の)りたまはく、「汝(いまし)、吾を助けしがごと、葦原の中つ国にあらゆる現しき青人草の、苦(う)き瀬に落ちて、患惚(たしな)まむ時に助けてよ」とのりたまひて、意富加牟豆美(おほかむづみ)の命といふ名を賜ひき。最後(いやはて)にその妹伊耶那美の命、身みづから追ひ来ましき。ここに千引(ちびき)の石(いは)をその黄泉比良坂に引き塞(さ)へて、その石を中に置きて、その石を中に置きて、おのもおのも対(む)き立たして、事戸(ことど)を度(わた)す時に、伊耶那美の命のりたまはく、「愛(うつく)しき我が汝兄(なせ)の命、かくしたまはば、汝の国の人草、一日(ひとひ)に千頭絞(ちかしらくび)り殺さむ」とのりたまひき。ここに伊耶那岐の命、詔りたまはく、「愛しき我が汝妹の命、汝(みまし)然したまはば、吾(あ)は一日に千五百の産屋を立てむ」とのりたまひき。ここを以(も)ちて一日にかならず千人(ちたり)死に、一日にかならず千五百人(ちいほたり)なも生まるる。
かれその伊耶那美の命に号(なづ)けて黄泉津(よもつ)大神といふ。またその追ひ及(し)きしをもちて、道敷(ちしき)の大神といへり。またその黄泉の坂に塞れる石は、道反(ちかへし)の大神ともいひ、塞へます黄泉戸(よみど)の大神ともいふ。かれそのいはゆる黄泉比良坂(よもつひらさか)は、今、出雲の国の伊織夜(いふや)坂といふ。
先月号にて解説しました古事記の文章「ここにその妹伊耶那美の命を相見ましくおもほして、黄泉国に追ひ往でましき。……」より、今取り上げました「出雲の国の伊織夜坂といふ」までが、伊耶那岐の命が自らの主体内真理の自覚である建御雷の男の神という精神構造を、主体であると同時に客体的にも真理である事を證明するために、高天原から黄泉国に出て行き、其処で伊耶那美の命の主宰する黄泉国の整理されていない諸文化を体験し、その騒々しさに驚いて高天原に逃げ帰るまでの話であります。
以上の高天原の精神文明と黄泉国の物質文明との関係、伊耶那岐の命と伊耶那美の命との交渉という経緯を、古事記は物語的に「黄泉国」と題して叙述し、次にその経緯を純粋に言霊学による検討として「禊祓」と題して原理的に解明し、それによってアイエオウの言霊五十音布斗麻邇の学問の総結論を導き出して行くのであります。この作業によって人間の心の全構造とその運用法の全体が残る処なく解明され、三種の神器の学問体系が確立されます。以上順を追って解説して参ります。
ここに伊耶那岐の命、見畏(みかしこ)みて逃げ還りたまふ時に、
伊耶那美の命の身体に「蛆たかれころろぎて」という、黄泉国の国中に物質文化の発明の主張が我先に自己主張している乱雑さに驚いて、伊耶那岐の命は高天原に逃げ帰ろうとしました。ただ単に逃げ帰るのではなく、黄泉国での体験を基にして、如何にしたらその文化を高天原の建御雷の男の神という精神内原理で吸収し、世界人類の文明として生かして行く事が出来るか、を思考しながら帰って行ったのであります。主体内原理を適用して、それが客体的にも通用する絶対の真理となる為の検討をしながら帰還の道を急いだのです。
その妹伊耶那美の命、「吾に辱(はじ)見せつ」と言ひて、すなはち黄泉醜女(よもつしこめ)を遺(つかわ)して追はしめき。
「我をな視たまひそ」と言って伊耶那美の命は黄泉国の殿内に入りました。けれど伊耶那岐の命は待ち草臥(くたび)れて中を覗(のぞ)いて見てしまいましたので、伊耶那美の命は怒って「私に辱(はじ)をかかせましたね」と言って、黄泉醜女(しこめ)に後を追わせたのであります。醜女とは醜(みにく)い女、また女とは男の言葉に対して女は文字を表わします。黄泉醜女で黄泉国の合理的とは言えない文字の原理を意味します。美の命は黄泉国の文字の文化で岐の命を誘惑しようとした訳であります。 (島田正路著 「古事記と言霊」講座 より)
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