無門関 第一則「趙州狛子」・犬に仏性は有るのか、無いのか
無門関の第二則「百丈野狐」
無門関 第三則 倶胝堅指
無門関 第四則 胡子(こす)鬚無し
無門関 第五則 香厳上樹
無門関 第六則 世尊拈花
無門関 第七則 趙州洗鉢
無門関 第八則 奚仲造車
無門関 第九則 大通智勝
無門関 第十則 清税孤貧清税孤貧
無門関 第十一則 州勘庵主
無門関 第十六 鐘声七条
無門関 十七 国師、三たび喚ぶ
無門関 十八、洞山の三斤
無門関 十九、平常是れ道
無門関 二十、大力量の人
無門関 二十一、雲門の尿(し)けつ
無門関 二十二、迦葉のせっ竿
無門関 二十三、不思善悪・善悪を問わず
無門関 二十四、離却語言
無門関 二十五、三座の説法
無門関 二十六、二僧、簾を巻く
無門関 二十七、不是心仏
無門関 二十八 久しく滝たんをしたう( 悟りとは ) ➀
無門関 二十八 久しく滝たんをしたう( 悟りとは ) ➁
無門関 二十九 風に非ず、幡に非ず
無門関 三十、即心即仏
無門関 三十一、趙州の勘婆、五次元の性能。
無門関 三十二、外道、仏に問う
無門関 三十三、非心非仏
無門関 三十四、智は是れ道にあらず。ワ。
無門関 三十五、倩女離塊
無門関 三十六、路に達道に逢う
無門関 三十七、庭前の柏樹。回答の仕方。
無門関 三十八、牛、窓檻を過ぐ
無門関 三十九、雲門の話堕
無門関 四十、転倒浄瓶
無門関 四十一、達磨の安心
無門関 四十二、女子の出定
無門関 四十三、首山の竹箆
無門関 四十四、芭蕉シュ杖
無門関 四十五、他は是れ阿誰そ
無門関 四十六、竿頭、歩を進む
無門関 四十七、兜卒の三関。今ここ
無門関 四十八、乾峯の一路
・無門関 第一則「趙州狛子」・犬に仏性は有るのか、無いのか。
趙州和尚因みに僧問う、「狛子に還って仏性有りや無しや。州曰く、「無」。
「狛子に仏性は有る」とお釈迦様は説いているのに、和尚さんが「無」と言った、何故だ、それは「有る」と答えたら「そうですね」と仏の教えをそのまま答えているに過ぎない、質問しないことと同じことになる。その質問を有意義に足らしめるには問われた和尚さんの務め、だからわざと「無い」と答えた。
その答えで質問した坊主は頭が混乱します、どうして和尚さんは「無い」と答えたのだろう、突き詰めていったら仏の教えをあれや、これやと考えるようになる、仏に近づくことになる、だから「無い」と答えた。
これが‘オ’の次元で言いますと「無いものは無い」ということになってしまう。大和尚が言うなら間違いないだろう、なんてことになりかねない。
趙州和尚からすれば、「今ここで、お前も私も一つになっていて、一つの問いを提起したのだから、私もその問いの因縁を踏まえれば、お前が少しでも勉強の足しにして仏に近づいてもらいたい、だからお前に対してどのような答えをすれば良いかを考えてみて『無』と言ったのだよ。」
そう説明してしまうと、親切は一番の不親切になる、その深意を説明してしまうと又、「そうですね」で終わってしまう、だから簡潔に「無」と答えた、問答に一瞬にして答えるには今ここで閃くのは和尚が覚者で悟っていたから。三日後に答えても意味がない。
http://imakoko.seesaa.net/article/102917296.html
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仏性はあるとかないとか答えることはどうでもいいことです。二人とも公式の答えは知っています。仏の教えも分かっています。
みんなが食事している食卓でうんこしてもいいか小便してもいいかというのと同じです。
死んだ知識、死んだ教えの記憶を操作するならどんな質問が出てきても答えはすでに分かっているのです。
相手を試そうと意地の悪い質問をしたのかもしれません。小僧が和尚さんを試した格好です。ということは小僧は自分でも答えられる自信があったのです。
そこで和尚はぜんぜん別の仏の教えに反する答えをしました。趙州が「有る」と言ってしまえば、弟子の教育にならない。だから「無」と言った。
赤子はどこでも自由にうんこもおしっこもできます。人は自分が殺される場面に遇えば反抗し相手を殺すこともあります。ここからは殺生は良いことかなどという問答も出てくるでしょう。
禅問答は行為実践を問うことが苦手です。赤ん坊の自由意思も殺されそうな絶体絶命の場面も無視して、いいか悪いか、あるかないか、絶対か相対かなどと問題をすり替えます。もちろん修業僧や解説家たちのいうことで悟った和尚さんたちの言葉ではありません。
それでも悟った和尚さんは教育を知識次元でするしか知りませんから、小僧たちの知識を最大限に動かす様に仕向けます。現実の具体的な場面を隠して行われるので、どうしてもイメージの具体化と言葉の抽象性に乖離をみます。
その乖離をわざと見せつけ知の訓練を与えていくわけです。「犬に仏性は有るのか無いのか」を言葉で区切ると各人に関心のある言葉を巡って概念が働きだします。犬と仏性であったり、有ると無しであったり、それらの関心事を元にし記憶概念が活躍していくわけです。
このシステムの上に乗る限りおしょうは幾らでも小僧をひっぱたけることになります。ひっぱたいても分かりもしないことを知っていてそういうことをしていきます。知的に分かることと感覚で分かることと感情で分かることの違いを教えているです。つまり知的には教えることができないので、ひっぱたくこととそれをかんじることとの知識との相違を教えています。
ひっぱたれて痛いか痛くないかなら皮膚感覚が答えます。打たれた時の感情が起こりますがその感情が有るか無いかは、その感情の持続に関することです。また打たれる指示がきた場合打たす場所を与えることになりますが、その場所を選択している自分がいて投打を得るまで自分にはどのように打たれるのかの選択意思が働いています。
それらの感情、感覚、選択の各次元とは違って知識は有る無しの場所を頭の中にしか持ちません。これをまた無字一枚というように人をひっかける言葉で和尚は教えるのです。
しかし問題は教えることではありません。知的な次元を越えさせることです。記憶、概念、学識による返答を断ち切ってそれ以上の返答があることを知らせることです。
さいしょからその方向を示してあげればいいのにと思ってしまいます。
悟ったからといってもそれだけのもでしかないのに、その上を目指すことを忘れて難しい書物だけを残していくのです。悟った時の様子はいろいろ書かれてありますが、呆気ない何でもない、とんでもないそんなことか、というようなものらしいです。
問題はその悟った時を忘れないように保持持続する為、直ちに知識、頭をフル回転させて勉強することではありません。直ちにお堂に戻って座禅したり、その場に座ったりするのは虚空に輝いた感情を忘れないようにするためでしょう。
犬に仏性が有る無しで悟りを得たとしてその心は、自分に悟ったという心の目的が固定されます。そこからそれは何であったか自分はどうするかの行動の名目が出てきて、再度座禅するとか同じ状況を得ようとかして、心の方向の彼方に実現しうる目標を見ようとしていきます。
一方、知的な場合では犬の仏性が有る無しでそれなりの判断をすると、悟りと同様にその心の判断が固定されます。そこからその判断よりする行動やすることの名目を立て、次の判断項目へ移動していきます。
もし和尚が有る無しの判断を与えると知的にはその心がそれで固定されてしまい、「はい分かりました」となって、次を期待していきます。知識は自分の既得の知識としか対話できないからです。和尚はそうではない新しい世界があるのだとひっぱたくわけです。
和尚のやることは知識概念の世界からでて悟り感情の世界へ行け、バシッ、というだけで未来の目標を与えて後は時の経過に任します。もし宗教とか悟りとかの教えが悟りへ導く道を知っているならそれが示されているはずです。ところがそれは秘密のアッ子ちゃっんとして、持っていないのにある様に見せかけています。
真面目に求める人達の不幸がここに始まります。無いのにあるという概念が与えられるのです。いろいろな言葉となっています。
しかし一面未来を目指す指針が与えられるのですから、意気消沈への保証、希望がえられるわけです。
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-趙州和尚、因(ちな)みに僧問う、
「狗子に還って仏性有りや無しや」
趙州云く「無(む)」
-無門曰く「参禅は須(すべか)らく祖師の関を透るべし、妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す。祖関透らず、心路絶せずんば、尽(ことごと)く是れ依草附木の精霊ならん。且らく道え、如何が是れ祖師の関。只だ者(こ)の一箇(いっこ)の無の字、乃(すなわ)ち宗門の一関なり。
・・祖の関を通るというのは和尚さんたちを通り越して、祖師達の前にあった心路に参じることです。祖師たちの言葉を生んでくれたものへにで、祖師の言葉そのものではありません。それは無で示されました。
-遂に之を目(なず)けて禅宗無門関と曰(い)う。
透得過(とうとくか)する者は、但だ親しく趙州に見(まみ)ゆるのみならず、便ち歴代の祖師と手を把って共に行き、眉毛(びもう)厮(あ)い結んで同一眼に見、同一耳に聞くべし。
世に慶快ならざらんや。透関を要する底(てい)有ること莫しや。
・・祖師たちと手と手を取って喜び合うことができるでしょう。
・・とはいっても無を得たことに関してだけです。仏教では無を知ることが最高ですから自動的に最高となりますが。
-三百六十の骨節、八万四千の毫竅(ごうきょう)を将(も)って、通身に箇の疑団を起こして、箇の無の字に参じ、昼夜に提撕(ていぜい)せよ。
虚無(きょむ)の会(え)を作すこと莫れ、有無の会を作すこと莫れ。
箇の熱鉄丸を呑了するが如くに相似(あいに)て、吐けども又た吐き出さず、従前の悪知悪覚を蕩尽し、久久に純熟して自然に内外打成(ないげだじょう)一片す。
唖子(あし)の夢を得るが如く、只だ自知することを許す。
・・おしは夢を見てもそれを話せないということは、もともと、知的な理性的な学識概念の次元の話ではないということです。要するに無の解説など屁ということです。
-驀然(まくねん)として打発(たはつ)せば、天を驚かし地を動じて、関(かん)将軍の大刀を奪い得て手に入るるが如く、仏に逢(あ)うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、生死岸頭(しょうじがんとう)に於て大自在を得、六道四生の中に向かって遊戯三昧(ゆげさんまい)ならん。
且(しば)らく作麼生(そもさん)か提撕せん。
平生(へいぜい)の気力を尽くして箇の無の字を挙せよ。
・・それでも無の字を挙げよと引っ掛けるわけです。
-若し間断せずんば、好(はなはな)だ法燭(ほうしょく)の一点すれば便ち著くるに似(に) ん。」
頌(じゅ)に曰(いわ) く
狗子仏性、全提正令。
纔(わず)かに有無に渉れば、喪身失命せん。
・・影も暗黒も光がさせばそのまま消えます。犬に仏性が有るか無いかとか絶対無だとか相対無だとか理性概念の裏に住み着く幽霊です。
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無門関の第二則「百丈野狐」、
百丈和尚、凡そ參の次で、一老人有り、常に衆に隨って法を聴く。
衆人退けば老人も亦た退く。忽ち一日退かず。師遂に問う
面前に立つ者は復も是れ何人ぞ。老人云く、諾、某甲は非人なり。
過去迦葉佛の時に於いて曾つて此の山に住す。因みに学人問う、
大修行底の人、還って因果に落つるや也た無や。某甲対えて云く、
不落因果と。五百生野狐身に墮す。今請う和尚一転語を代って、
貴ぶらくは野狐を脱せしめよと。遂に問う、大修行底の人還って因果に落つるや也た無也。
師云く、不昧因果と。老人言下に於いて大悟し、作礼して云く、
某甲、已に野狐身を脱して山後に住在せん。敢て和尚に告す、乞う、亡僧の事例に依れと。
師、維那をして白槌して衆に告げしむ、食後に亡僧を送らんと。
大衆言議す、一衆皆な安し、涅槃堂に又た人の病む無し。何が故ぞ是の如くなると。
食後に只師の衆を領して山後の巖下に至って、杖を以って一の死野狐を挑出して、
乃ち火葬に依るを見る。師、晩に至って上堂し、前の因縁を挙す。黄檗便ち問う、
古人錯って一転語を祇対して、五百生野狐身に墮すと。転転錯らずんば、
箇の甚麼にか作るべき。師云く、近前來。伊が与に道わん。黄檗遂に近前して師に一掌を与う。
師、手を拍って笑って云く、將に謂えり胡鬚赤と、更に赤鬚胡有り。
頌に曰く、
不落(ふらく) 不昧(ふまい)
兩采(りやうさい) 一賽(いつさい)
不昧(ふまい) 不落(ふらく)
千錯(せんしやく) 萬錯(ばんしやく)
前半を因果を使って解説したものは多いが、後半を無視するものもおおい。要するに後半の意味が分かっていないからです。なにしろ、小僧がお師匠さんをひっぱたくのですから。
晩に和尚は堂に上がって、老人との一切の経緯を語った。すると一番弟子の黄蘖(おうばく)が「老人が誤った一転後を答えたがために、五百生もの間、野狐の身に転落したのであれば、もし彼が正しい答えを言っていたなら、一体どうなっていたのでしょう」と質問した。
和尚は「もっと近くに来なさい、彼(か)の老人のために言ってやろう。」黄蘖(おうばく)は和尚の前に来ると、いきなり師の横面をぶん殴った。和尚は手を打って笑い、「達磨の鬚は赤いと思っていたが、なるほど、ここにも赤鬚の達磨がおるわい」と言った。
無門は言った、「因果が不落なら野狐に堕ち、不昧なら野狐から抜けられるのか、これをよくよく悟って見破る真理を知っている知識を持った人であれば、百丈和尚は五百生もの長きに亘っての老人の野狐の身の上も風流に生きていたことが分かるだろう。」
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大修行すれば因果に落ちない、ならば落ちないための大修行とは何かということで、老人は野狐(コンプレックス)に憑りつかれ、野狐として長きにわたり、さ迷ってきたと思い込んでいたが、実は老人が野狐の身の上を捨てずにいた。
野狐が自分の実相の姿であることを明らかに見ることが因果不昧、不落と不昧は同じ意味となる。百丈和尚が老人に「渇!」と一言すれば済むことだった。それを見破った黄蘖(おうばく)が百丈和尚の横面をぶん殴ったことで、瞬時に百丈和尚は老人と自分は同じだったと気付いたのである。
黄蘖(おうばく)は百丈和尚の学僧である、下位の僧が師匠の僧を殴るとは、現代では考えにくいが、禅の修行は上も下もなく真剣勝負だった。
俺は野狐だ
禅宗の知識というのは、今の知識ではなくて真実の知識。それを「一隻眼」と言った、この公案は不落なら野狐の身で、不昧なら野狐から脱する、これがテーマですが、あなた自身はどう考えますか?無門関もここのところがはっきりしない。
はっきりしようとするなら因果不落は悟った人は因果に落ちないよ、そんなことはない因果に落ちることもある。それじゃ、因果不昧はどうか、落ちる時に落ちたと、落ちていない時に落ちていないと知ること。そこのところを昧(くらまさ)ない、明るくなる、そうすることで野狐から脱することが出来る。
野狐から脱したい、どうすればいいんだ、自分が野狐だと認めてしまえば、分かっても分からなくても野狐が憑りつくけれども、「俺は野狐だ」と覚れば野狐は憑りつかなくなる。誤った考え、考え方を禅では野狐と称す、自分が野狐と気付いても、その思いから抜け出られずにいたら、それも地獄の苦しみ。
なんかうさんくさいお祓い事で、地縛霊だの背後霊だのって、見える人には見えるらしい、見えなくとも感じる、そのような感覚が人間にはある。それを絵や像にして表現する能力もある。実際に姿形として映る霊能者もおります。恐れを抱いている人に見えないものをその恐怖心を煽って商売する人も野狐だと言えますね。
http://imakoko.seesaa.net/article/103925085.html
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因果不昧不落を巡っての老人と小僧の黄蘖(おうばく)と百丈和尚の三角関係です。
小僧が和尚をひっぱたいて和尚が手を打って満足しているのがみそです。
不落(ふらく)と言っても不昧(ふまい)と言っても同じということを問題にしているのではありません。この二語を導いた言葉を持っていたことが問題なのです。ここでは因果ということを受けいれていたことを指します。
判定判断の正否優劣も両者を成り立たせる言葉が必要です。大修行底の人、還って因果に落つるや也た無や。転転錯らずんば、箇の甚麼にか作るべき。その先在性を共有して教えあっていたことに気付いたのです。
悟れば不動の心持ちが得られる、因果に落ちない、人生の目的を達することができるとするのは、その方向の彼方に未来に獲得し実現するものがあるとすることですが、その心持ちを現在に推し量ると、不満足感コンプレックス飢餓感となっています。
プラスに見ていけば目標達成の為頑張るぞになります。その反面大修行底の人への引け目です。ここは禅の世界ですから自らの心がわけの分からぬ思いに左右されていることを見ていきます。
したところでわけの分からないものですがそれを隠して修行をしていくことが、迷いを脱することと思い込んでいます。悟りは向こうにあるがそのために迷いもあると思っています。迷いは問題を一つ一つ通過していくこと、外部からの質問を解決していくことにあると思えるので、それらが明るみに出れば自分も輝くつもりでいます。
ところが良く見ると因果の先の世界を不昧因果、不落因果と設定していて、因果世界を自分に固執しているのです。設定は良いものとして、こころに合うものとして、予定されていますから、自分が因果を引き込んでいるとは見えません。自然の内に因果の着物を着め込んでいたいことに気付きません。
こうして自らの志向が確保され自ら造り上げた因果に閉じ込められ、抜けたくなくなります。老人も、百丈和尚も同じです。
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無門関 第三則 倶胝堅指
倶胝指を堅てる
これは難しい公案です、この宋の時代は覚者がぞくぞくと立ちましたから。このような表現になっているのでしょう。
倶胝和尚はほとんどの質問に決まって指を一本立てた。倶胝のところにいた小坊主が、外から来た客人に「和尚はどのような説法をされるのか?」と聞かれたので、小坊主は真似して一本指を立てた。
それを聞きつけた倶胝和尚は小坊主の立てた指を刃で切り落とした。小坊主は「痛いよ~!」と泣きながら逃げ去った。倶胝和尚は逃げていく小坊主を呼び止めた。小坊主が振り返ると倶胝和尚が指を一本立てていた。それを見た途端に小坊主は自分の切り落とされた指とは違うことを悟った。
倶胝和尚が死に際に弟子たちに、「私は天竜和尚から指を一本立てることを教わった、お前たちも一本の指を立てることで何事も導きなさい、でも一生かかって使い切ることはなかった」と言って亡くなった。
無門は言った、「倶胝和尚も小坊主も指一本立てることで悟ったわけではない、この出来事に真実を見極めることができるならば、天竜和尚も倶胝和尚も小坊主も自己も一串に刺さった団子のようなもの、何人もその悟りの一串から外れることはない。」
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「 頌に曰く
倶胝、鈍置す老天竜、利刃(りじん)単提して小童を勘(かん)す。
巨霊(これい)手を擡(もた)ぐるに多子無し、分破す華山の千万重。
倶胝、一指頭の禅を示して老天龍たちを小馬鹿にしていた倶胝が、今度は童子の指を切り落として試してみた。山を二つに引き裂くなんて簡単な事だよと、千萬重の華山を引き裂いたと云い、一指頭の禅を丸ごと有と無に引き裂いたが、引き裂かれて二つになった有と無にも、それぞれに失ったものなど何一つ無いのである。
歌に---
倶胝、天竜をひとつまね、
しかも小僧の指をはね。
手力男の無ぞうさに、
お山をくだくさながらに。
そして頌(うた)に、その倶胝の指導が無造作でありながら偉大な力を発揮していると讃えています。
巨霊神は山を引き裂いて華山と首陽山を作ったという伝説、多子なしです、
頌に曰く
倶胝鈍置す老天龍、利刃單提して小童を勘す。
巨靈手を擡ぐるに多子無し、分破す華山の千萬里。
「倶胝が切れ味の鈍い男であることを利用した天竜老人、鋭い刀は切り下ろすことで小童にほとけを教えた。巨大な魂がその手を持ち上げる時世界にいる多数の人々は消え去り、崋山の美しい嶺々もともに壊れ去ってしまうだろう。」
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心の御柱を立てる
ここまでなら、説明でしかない、一本立てるということは、人間の心の奥底には如何なることも対処できる判断力というものが立っている、常識や一般知識に振り回されて、生まれながらに具わっているその判断力、叡智を忘れてしまっている。
それはどうしたら自分に心の御柱が立っていることを自覚することが出来るのか、それが出来たときに指を一本立てることで悟らせることが出来る。議論しますとテーマが分散してしまいますでしょ、立てさせることを言外にしない。「そこは悟りなさい」をどう表現するか、それが修行になるわけです。
自分の知っていることを言葉の綾として、何を言っているのかと分からないでいる人に対して、「こうだったのかな」と分からせる。その言葉が欲しい、それは人から教えてもらうのではなく、教えるものでもない。だから、私の先生はお忙しかったせいもありますけど、教えて下さらなかった、自分で悟りなさい。
あ子の夢を見る如くに悟ってしまったら、何を言われても、たとえ命を奪われても「どうぞ」と言える。けっして立っている心の御柱が揺るぐことなく、キリストの踏み絵だって、何度でも踏みつけることができる。
だって、そうでしょ、ただの絵じゃないですか、私の中のキリストはどんなに踏み躙られても、首をちょん切られても死なない、それが信仰にとどまっているとそれは出来ない、信仰の仰ぎを捨てて、信、人の言葉になってしまえば。何でも出来る、自由自在に。
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公案は和尚さんによる小僧への悟らせ方の見本です。小僧の方は、いつも知識で分かろうとする側にいて、和尚は知識ではなく智恵を与える側です。言霊で言えばオ次元の知識をア次元の智恵に引き上げることになります。
第三則はあまりにも象徴的で、指を立てることをこれだということが出来ません。 無門日ク、倶胝並ビニ童子ノ悟処、指頭上ニ在ラズ、これがヒントになるでしょう。
指立てに何かを代弁させると、指が具現している仏性を示しているとかにすると、天竜と倶胝と童子が繋がって自分も一串になってきます。その指に物事を乗せるとこの世ができあがってきます。しかしそれでは数を、数量を増やすだけになってしまいます。感じたこと、思えたこと、気付いた事だけが指でしかありません。
どんな質問にも指立てで答えたという事ですから、相手の質問の心の全て、つまり答える心の全てが指立てにあります。指は心という事になります。
外人が問うて小僧が指立てて答えたところまでは外見上は万全の応答でした。誰もが恐れ入って受領しただろうものです。
ところが倶胝に問われて指を立てた時ちょん切られてしまいました。
泣いて逃げ帰る時呼び止められて振り返ると、普通に立てられている和尚の指をみたのです。そして、ここに小僧は新たに落ちて転がっている自分の指と指の無い手を見たのです。
切り取られ落ちている指は他人から与えられた質問、他人の概念、過去の記憶から出来たものの象徴です。自分のものとせず他人の概念そのまま使用して答えていたものです。
一方指の無い手とその痛みは自分のものです。生き生きとした無い指のことです。
物真似で答えたものには自分の心がありません。他人の心ですから切り取って質問した人に返すのがよろしいのです。そこで和尚に切り取られたのです。
和尚は一生使い切れないほどの心を一つ一つ頂いた、お返ししきれなかったと言っています。他人の質問だったら、その返答は簡単でした。一つ一つが自分の立てた心の質問と受け取っていたので使い切れなかったと言ったのでしょう。
また、立てるという事は精神宇宙全体がそのまま現象となって現れることで、これから何かの印が大いなる現象となるその始めを示しています。和尚の指立てにはその心の始めが示されているのですが、小僧のそれには外見上の形だけが示されます。
このブログも真似事だけで心の内容が無いものです。小僧の様にいつか指を切られるまで待つことになるのかもしれません。
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無門関 第四則 胡子(こす)鬚無し
無門関は同じテーマを説いていますから、そこから外れないように。
惑庵和尚は言った、「達磨(西天の胡子)はどういう訳で鬚がないのか?」
無門は言った、「参禅はかならず頭の中でこねくり回しているではなく、命をかけて真実のものでなくてはならない。悟りもかならず実際の悟りでなくてはならない。この達磨は一度親しく実際に会ってみて初めて分かることだ。達磨は鬚があると思っているが、鬚があっても、なくっても、真実の達磨に違いはなかろう。」
悟っていないものに夢みたいなことを説いてはならない。鬚があると言えば既に一つではなくなり迷ってしまうではないか。
頌に曰く
癡人面前、夢を説く可からず。
胡子無鬚、惺惺に朦を添う。
http://imakoko.seesaa.net/article/104278553.html
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お風呂の中で男の子が問いただします。「パパにはどうしておっぱいがないの」
誰かが答えます。「胡子にヒゲがない」と「ヒゲのない胡子がいる」とは、前者が客観的存在としての達磨大師であり、後者が主観的存在としての達磨大師のあり方を示しています。
大切なのは、胡子にヒゲがないことと、そこにヒゲのない胡子がいるということは一体のことだということです。そこに自由な存在としての一箇の達摩がいて、ヒゲを蓄えるのも剃るのも全くの自由なのです。禅ではこれを大自由といいます。これがこの公案の答えです。」
おっぱいを付けるのも自由と言うわけですか。
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客観的な知識の有る無しではなく、客観的な知識をどうするかの問題です。髭が有るのもおっぱいが無いのも分かっている事です。問いは、それはどうしてなの?というものです。
言い替えますと知識はどのように実践領域に行けるかと言う事です。
無門の解答もその行為について語っています。
赤髭か黒か、太いか細いか、長いか短いか、似合うか似合わない等々知識お得意の知ってるだけの疑問がでてきます。その知識の一つ一つにどういう訳で、どうしてどうしてがくっつきます。
一本髭を蓄えるのは、二本は?、三本は?どうしてどのようにしてどういうわけでと幾らでも続いていきます。その都度全くの自由、自由、自由といい続ける事になります。
無門日ク、参ハ須ラク実参ナルベシ、悟ハ須ラク実悟ナルベシ。
知識の有る無しを直接行為実践選択次元に持ち込むとこういう事になります。
ではどうすればいいのかと言えば、そんなことは出来ないと悟ればいいのです。
髭が有るとか無いとかから始まると、無数の形容が後に控えています。そもそも禅の勉強の公案ですから達磨さんに関してなら、髭の有る無し、髭が似合うか赤いか縮れているかなど関係のないことです。もちろん外見が売り物の人もいますし、トレードマークなどだけの人もいます。
参ハ須ラク実参ナルベシ、悟ハ須ラク実悟ナルベシで確かめればいだけです。
では止めどもなくお気に入りの知識が次々出てくるのにどうすればいいのでしょうか。
知識を止めればいいのです。知識を詳細に最新のものにし豊かにするのも結構なことですが、一旦得られた知識をそこでストップしてそれだけのものとして扱うことです。知識を固定しそれに対して自分の得ている記憶概念での反省検討を放棄することです。自分の過去概念と突き合わせをしてきますと、それとの整合性を追求していくことになってしまう。
達磨はインド人だから赤い髭でなく、すこし縮れて、もう年だから白髪も混じってるなどと、いつまでも終りの無い髭談義になっていきます。
そこから脱出するには知識を止めることですから、あるだけのものでそうだと決め込むことです。
髭が無いなら無いとすることです。これに疑問を挟むことをしないことです。自分の絶対的な生命を張った意見とすることです。
その一点を持って行動領域に飛び込みます。
ここは実行の決意の次元ですから、知識の有る無しに係わらないせかいです。
そこに持ち込んだ知識は自然に実践的に淘汰されていくものです。
無門は言った、「参禅はかならず頭の中でこねくり回しているではなく、命をかけて真実のものでなくてはならない。悟りもかならず実際の悟りでなくてはならない。この達磨は一度親しく実際に会ってみて初めて分かることだ。達磨は鬚があると思っているが、鬚があっても、なくっても、真実の達磨に違いはなかろう。」
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無門関 第五則 香厳上樹
香厳(きょうげん)樹に上ぼる
香厳和尚は言った、「人が木の上に登っている、口に枝を噛んで、手は枝から離している、足は宙にぶらさがっている、木の下の人が木の上のその人に問いかけた、『西からきた達磨は何故東に行ったのか』、もし答えたら生命を落とす。」
そのような時でも問答に答えなさい、たとえ立て板に水のような雄弁さを持っていても、問答に用を成さない、仏教何万巻説くことができたとしても。問題に突き当たって、どうすれば分かれば、五十億何年か後に到来する弥勒様を待って、その弥勒に問うてみれば、答えてくれるだろう。
無門は言った、「香厳はどうやら出鱈目を言ったようだ、際限なく毒を撒き散らしているように思えるのだが、それでいて木の下にいる人を唖然とさせ、本心は鬼の目をほとばしるようなエネルギーを持って、『どうだ、どうだ』と答えているではないか。」
※
口を開いたら自分は死んでしまう、質問に対しての設定が理屈から考えれば答えようがない状況でしょう、にも係わらず、何で答えないのか、この無理な設定の第46の公案に「竿頭進歩」というのがある、百尺の竿の先から一歩進め、これから先に悟りがあるから、ほら、一歩進みなさい、どうしますか?
やってみなければ分からないではないか
進めば死んでしまう、絶体絶命、笑ってごまかせない、言葉が出ない、「こんなくだらない質問に答えられるわけがないだろう」って。禅から見れば人間の心の真実、特に‘空’を悟るとなると、これが真実。
これ以上は行けないと思うときがある。絶体絶命という時が。だけど、よくよく考えてみれば、その絶体絶命と思っている心は自分の経験知、そうならば、気が楽でしょう、命を落とすかどうか、やってみなければ分からないではないかって。答えてみようかという気になるでしょ。
答えたら死んでしまうと思い込んでいるから答えられない、答えてみるのも、自由じゃないかって。世の中の観念に思い込まされている、「足下の赤糸線」という公案もある、細い、細い糸で足を縛ってしまった、お前は一歩もここから出られないのだぞ、そんなことはあるまい、一歩足を踏み出そうとしたら、糸が切れない、動かない、そう思い込んでいるから出来ない。
切ってはいけないよ、って誰も言わないのに切れない、切れないと思い込んでいるから。五母音宇宙の中を自由に立ち回れるのに。観念を捨てると暮らして生けないように思う、暮らして行けないかどうか、やってみないと分からないではないか。
悟りと出鱈目
そういう自由が人間には必ずあるんだということに気が付けば、ただ無理難題の設定をただ無視してしまえばいいというものではない。無視するということは有るから無視する、無いと思わなくては。そこが違う、悟りと出鱈目は。
おっぽり出されても駄目、さぁどうするか、ただ道は一つある、自分の観念にNOと言えばいい。それを暫くすると忘れてしまって、そういうことは無いと思えばいいのかって、自分は何処へでも自由に飛び出すことが出来る。
この木の下の問いに「達磨西来、今、汝とここで会う」とでも洒落た答えが出来る。こういうのがアからエの性能を導き出すための要件、ただ野放図に自由ではなくて、五母音宇宙の中を自在に上がったり下がったりしながら、どんな質問にも答えることが出来る。
ところが、そこまで禅宗では極められない、ただ、理想を説いているだけであって、五十音になぞらえた答えを自由に発揮することができる。一万年続いた人類文明を自分の体に思うというところがそこにある。
以上引用。
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知識は口からでて来る。その口が塞がっているのに、喋らなければならない。
『西からきた達磨は何故東に行ったのか』 『わたしに会いに来た』と普通に話せばよい。
無門曰く、「縦(たと)い縣河(けんが)の弁有るも、惣に用不著(ゆうふじゃく)。一大蔵教を説き得るも、亦た用不著。若し者裏に向かって対得著せば、従前の死路頭を活却し、従前の活路頭を死却せん。其れ或いは未だ然らざれば、直に当来を待って弥勒(みろく)に問え」。
頌に曰く
香厳は真に杜撰、悪毒尽限無し。
納僧の口を唖却(あきゃく)して、通身に鬼眼を迸らしむ。
知識ではち切れんほどのことでも、実行する時、いわんや言葉を発する時でも良いが、その時は何ということも無い、話そうという意思の実行に限られている。話そうという意志にはどれっぽっちの知識もない、話しきれないほどの知識を持とうと、まるでなくても同じことで、話す行為の端緒は単に話そうという意思があるだけである。
達磨が何故東へ行ったかについては幾らでも話す材料はある。一生聞き取れないほどのことを話すことができる。だがそんな長いお話の端緒も、初発の時も、何ということも無い口から始めの一言を出せば良いだけのこと。
わたしは絶体絶命と言われているがわたしのことではない。聞く者のことである。聞くものが返答を聞いてしまったら、後は何もなく、絶命となる。知識を得て終わるからである。ああ、そうですか、分かりました、はい終り、となる。
知識は聞く者を殺されるのである、解答を得てしまったということで過去に沈むのである。知識を得たところでその先にあることは、知識を如何にするかということである。
達磨はわたしに会いに来るのでわたしは枝を喰わえてこうしてお待ちしているが、質問に解答を得たお前は無用な絶命した者として去ることになる。
質問するあなたが知識でなく智恵を求めるならわたしは口を離してあなたに語ろう。だが、知識の解答を得るだけならあなたに語ることはなく、わたしはこうして達磨さんをお待ちしている。
しかし達磨さんが西から来ようと東から来ようとわたしの知ったことではないし、来るわけがない。現代のどこかの高僧が西から来て東へ行くなり、悟りは西から起きて東へ向かうなんていうことになると、多少現実味がありそうでどうしても考え出してしまうかもしれない。
問題は知識に価値を与えてしまったことです。達磨だとか悟りだとかという言葉に何かの宝物があるように思い込んでいるから、考え解を求めようとしてもがくのです。西から東?、屁の河童、達磨?、屁の河童、悟り?屁の河童。
無門日ク、一大蔵教ヲ説キ得ルモ、亦用不著。
答える方だけでなく問うほうも同じです。ネット上での解説を読んでいると、坊さんであっても悟っていないのを隠す為の自己防御用に知識を溜め込んだみたいに見えます。
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無門関 第六則 世尊拈花
世尊、昔、霊山会上に在って花を拈じて衆に示す。
是の時衆皆黙然たり。
唯迦葉尊者のみ破顔微笑す。
世尊日く,
吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相,微妙の法門あり。
不立文字、教外別伝,摩訶迦葉に付嘱す。
釈迦が弟子を集めて説法した時、何も言わずにただ一枝の花を見せられた。皆黙った中で迦葉だけがにこりと微笑んだ。釈迦は「仏法の神髄を言葉や文字によらず迦葉に伝授した」と言った
無門はこういった。<瞿曇 =釈迦は傍若無人に振る舞っている。善良な人々を賤(=奴隷)におとしめて、羊頭を縣げて狗肉を賣るようなものだ。本当に真実を判っているのだろうか。もし全員が微笑んでしまったなら、どうやって伝授するつもりだったのか。また迦葉も微笑まなかったなら、どうするつもりだったのか。(笑っても笑わなくてもどちらでも)正方眼藏が伝授出来るのなら皆を騙したことになる。もし伝授出来ないのなら、どうして迦葉一人にだけ伝授したと言えるのか。
頌に曰く
花を拈起し來って、尾巴已に露る。
迦葉破顔、人天措くこと罔し。
「花をまわして見せた時点で、すでに尻尾を振って媚を売ろうとしているのはあきらか。迦葉が笑って見せたからといって、それでは大衆も天のほとけたちも、その意味するところがわからないではないか。」
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隠された中に真実はある
信仰のない人たちに仏と説いても分からないから、社会的通念として瞿曇(ぐどん)と説いた。私があなたに花を掲げて見せたら、どう思いますか?この行為を禅坊主はよくするんです。師と弟子が相対した時に。花でなくても数珠だったりね、これ事態はどうみても花だろう、花は実相を示す、この花にはこの実相しかない、おまえにはこの実相が分かるか?
これが持っている実相を紛れも無い仏の姿と見えるか?生がある、生そのものが真理だ、仏そのものだ、言霊で言えば「イ」。生命の根本を問いかけている、それが真剣勝負と言われる由縁。
仏教を信仰している人も、していない人も、花をねんじた意味は隠しても隠し切れない、識者には見破られてしまうもの、迦葉だけが見破って微笑したもの、隠された中に真実はある。それを見破るのが賢者であって、そうでなければ真理には届かない。凡夫にはとうていそれを悟ることはできない。
これは言霊の学問を知っていたら何のことはないんです、でも知らない人にこの公案を言霊でない説明することができて、聞いた人が自分の生命だったのかと思えば、又、自分が言霊のイに近づくことはできる。
小笠原先生はのっけから言霊から解釈しましたから、無門関の意義から遠ざかる、イにいたるには言霊の学問だけでは分からない、生きている人間の心、そのものなんですから、だから、宗教を卒業していらっしゃいとおっしゃったのは当たり前のことだった。
何か、この公案に隠されている一点、それを入れていないと何方にも分からない、それは私が言ったことではなくて自分が悟ったこと。「あぁ、そうか」と一点を悟ってしまえば、もう忘れようがない。それを挟んだ解釈をすれば何方にも分かる。
-----以上引用----
わたしも無門と一緒に快心の怒りを爆発させましょう。
なにが煩悩則仏だ、衆生はすでに悟っているだ、この数千年間訳の分からないことをいって大衆を泥沼に投げ込んだのは誰だ、以心伝心でたったの一人に教えを伝授して何が嬉しい、真理はみんなのものだといったのは誰が、それを世々代々一人に伝えることにした。
これはどうしようない。咲いてる花があれば蕾も萎れた花もある。
悟りたいという者もいれば、ぐうたらしていられればいいという者もいる。
以心伝心の教えなどといいますが、この物語をそう取れば間違いです。
確かにお釈迦様は「仏法の神髄を言葉や文字によらず迦葉に伝授した」と言いました。
それはあることの結果を指しただけのことで、よく解説に見られる様な重要なことではありません。
問題はそのお褒めの言葉を導いた前段階です。
お釈迦さんは花を挿しだしたのではありません。高くかかげて花の命を拝んだのでもありません。
花を拈じて衆に示す。一枝の花をひねったのです。
衆に何だあれは、花をひねって見せてどういうことだと言う気持ちを起こさせたのです。
花には命などありません。●
目前に集まった弟子たちも同様です。食べて寝て、感じて思って考えています、生きてはいますが命のない花と同じです。
お釈迦様は生きてはいるが命のない花をねんじたのです。ひねったのです。
弟子たちの頭をつまんでひねったのです。
動かない植物が動きました。右を見て左を見て釈迦を見てお互いに挨拶をしたのです。
弟子たちは呼吸していて話を聞きたいと集まってているだけ、なるほどと納得する感心する有り難い説教が聴きたいだけです。
そこで釈迦は花を動かして無意思の花に意思があるかのごとく扱いました。
弟子たちは希望と願望、欲望を得て満足するだけの期待する知識を得たいだけの世界の者たちです。
そこで花に意思があれば左右を見て釈迦に挨拶もできることを、ねんじて示したのです。
動かない花でも意思があれば挨拶して言葉を交わすことができるのです。
もちろん無門は釈迦に文句を付けているのではありません。
集まった意思のない弟子たちにはっぱをかけているのです。
釈迦の嘘つきめ、幾ら努力しても何にも分からないどうしてくれるのだ、とそのくらいのことは言ってみろというわけです。
不立文字で伝えたというのも不思議なことですがそれもすでにそういった現象のことです。ひねられた花の中にあるもの、創造意思の力動因はもともと目で見えるものではありません。不立文字で当たり前のことです。
花を見て綺麗だなと思う純真な心を保ち、もともと持っていた真人の心を忘れて感心共感できない汚れた童心を返上することでもありません。そこに戻るだけなら花も誰でも生きているというだけです。
生きているだけを他の言葉で置き換えると、貴重な話を聞きたいだけ、勉強したいだけ、知識を得たいだけ知りたいだけ等々その人の現象となった主張となったことが示されるだけのことです。
それらは程度の差はあれ人として当然のことで、それに付随するそれなりの意思があり、花が咲く咲かないと同じことです。釈尊はそういった自然反射行為を越えて花をひねったのです。ひねられた花には超自然なことです。
では人間においてはひねられるとはどういうことでしょうか。
意志を持って行為するという単なる自然過程を越えることに関してです。
これが意外にも言葉でものに名を与え、言葉で示すことが以心伝心ということになります。釈迦が花を手にしてちょこっとひねっている、とこのように言葉で発音しないにしろ頭の中で表現することで、しゃかの行為を了解するのです。
以心伝心した内容は発音されず聞く人がいなくとも必ず言葉の構成をもってそれが頭脳内に明かされます。言葉によらないで以心伝心を起こすことはできません。武術芸術では体得ということがありますが、悟りはは身体運動ではありません。
一番弟子の迦葉は言葉で釈迦の行いを説明できたので、にこりとうなずいたのです。心が伝わったということではなく、言葉で表現できたということです。
学校の先生が言います。分かった人は手を挙げて。はーい。迦葉一人だけが手を挙げました。
こんどは迦葉が言葉でもってひねりを創造することになります。
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ここには次の様な問題もあります。
何故意思の力動因は単数なのかです。無門は答えていませんが、伝授の相手が一人であること、釈迦も一人であること、衆生全員は微笑むことがない、絶対衆生則仏ではない、という明瞭な意識があります。社会政治組織も何故一人が権力を持つようになるのかの問題です。
そして単数ができあがるとその廻りは萎れていきます。釈迦がいるということはその廻りの弟子たちは萎れているということです。弟子の中から一人が出ると弟子たちはさらに萎れます。ここには一人一人が同じ人間という意識がありません。目指しているいるという関係の中でならみな同じというだけです。
これは歴史政治社会の今後の問題となるでしょう。
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無門関 第七則 趙州洗鉢
趙州の洗鉢
趙州和尚に僧が問うた、「私は今、寺に来たところです、和尚、何をすればよろしいでしょうか?」趙州和尚は「お粥は食べたのか?」、「食べ終わりました」と僧は答えた。「粥を食べた鉢を洗ってここから出て行きなさい」と和尚が答えた。僧はとたんに悟った。
無門は言った、「趙州和尚は口を開いて腸をひけらかしてしまった、本当の真実を知ってしまった、渇!とでも言ってやれば、僧は何のことか分からなくて考えるだろう、次の道を教えてしまえば、鐘を甕と間違えてしまったことだろう。」
「頌に曰く
只だ分明なること極まれるが爲に、翻って所得をして遅からしむ。 早く燈は是れ火なることを知らば、飯熟すること已に多時なりしならんに。
「わかりきったことでもとことんまで行ってしまうと、 かえってその理解を遅らせてしまうようです。早い内に お釈迦さまの言う灯明が火であることを知ってれば、飯が すでに炊き上がって長い時間忘れられていることことも なかったことでしょうに。」
※
人間というのはどんなことにも色んな意味を付けたい、今、寺に来たばかりの僧に何々をしなさいといっても分かりませんから、自分の成すべきことは日常茶飯事から、常に今ここで自分はどうすべきかを思うときが悟りの始まり。
とっくにご飯は炊けているのに、何故食べないのか、なにをもそもそして議論なんぞして食べないでいるのか、私が言ったことで真理はごろごろとしてあるじゃないか、その真理を何故拾わないのか、早く悟らせようとして親切に細々と教えたら、かえって悟りが遅れる。悟りを逐一説明したら何のことかわからなくなるだろう。
さぁ、悟るぞ、って言っても悟ることはできない、日常の中に真実はある、ただ大げさに言っているだけのことです。
文中の甕(もたい)は百田井、言霊百音図と同意語。
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二番目の解説。
「こちらに修行に参りました。よろしくご教示ください。」
「朝のお粥を食べたかどうかな?」
「はい、頂きました。」
「それでは、飯道具を洗っておいで。」
人生とは当に為すべきことを次々に為して行く過程にすぎぬ。
今朝初めてこの世に生まれた心になることだ。
毎日が天地の初めであり、刹那刹那が創造の出発である。
生まれたばかりで何をやってよいか判らなかったら
先ず、呼吸をすること。食事すること。
何は出来なくとも部屋の掃除、庭の草とりはやれる。
目先の簡単な仕事を自分の仕事として全霊を打ち込んで行ったら
やがて人生の万事一つ一つ意義が見出される。
それ等のことを退屈し手を拱いている者は主体性、創造性のない死人である。この事を判らず抽象的な理屈に赴こうとすると、せっかくの教えがつまらぬ話に聞こえる。
もし、意義が見出されなかったら皇運の歴史を聞いても、三種の神器、摩尼宝珠の学を教えてもらっても何の足しにもならぬ。
引用ここまで。
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修行僧が始めて寺に来たといっても、この僧は和尚にも成りうる様な知識をはち切れんばかりにもっています。
朝食は済んだかと聞かれ食べ終わったと答えました。
禅の知識、仏の教えは充分に勉強した何でも知っているというつもりです。
そこで和尚は答えました。
今までの知識を全部捨てて、ここから出ていけ。頭のお碗を洗って空っぽにしな。
これを日常作務、日頃の行いで解説するというのもあります。
この問答で問題なのは、鉢を洗うのではなく、つまり知識を磨き洗練するのではなく、捨て去り知識次元から出て智恵の次元へ行けということです。
州曰く,鉢を洗い去れと。この「去れ」の方に重点があります。
日常行為作務のなかにキチンとやることをそのときその時の実行を教えることもあります。その時は行為を一つ一つ片づけることでもキチンとやることでもありません。当たり前のことを当たり前に出来ることが悟りではありません。キチンとやろうと自堕落であろうと、当然の行いの中にあるものに気付かなければゼロということです。
粥は喰った。教えは充分に聞いた。という解ならば、知識による解は知識を呼ぶだけですから、その知識を洗い流して、越え行けということです。
ですので無門はこう言いました。「趙州和尚は口を開いて腸をひけらかしてしまった、本当の真実を知ってしまった、渇!とでも言ってやれば、僧は何のことか分からなくて考えるだろう、次の道を教えてしまえば、鐘を甕と間違えてしまったことだろう。」
悟りの秘密を教えちゃ駄目じゃないか、喝といって放り出しておけばより本人の勉強になるものをというわけですが、修行僧が悟りの秘密を知ったとしてもその実践まではまだ遠いと分かりました。そこで、知った秘密の現象を本質と取り違える心配をしています。秘密を知ったところで実践できる時に至っていないということでしょう。
鐘はカンカンゴーンと現象として分かったもので、鐘の現象を悟とったということは、知識を越えて智恵で分かることという教えなり言葉が了解できているだけのこと。
鐘の実体実相は、甕、もたい、百田井、言霊百音図のことだと教えてしまっては、またまた知識のお鉢を満たすだけになってしまうじゃないか。
無門は言う。「次の道を教えてしまえば、鐘を甕と間違えてしまったことだろう。」
何てケチな禅だろう。悟ったぐらいで、この世の進歩、世界の幸福、政治の満足、など何もできないくせに、個人に向かっては厳しいことを言う。もちろん悟り、宗教はそういった次元までしか行けないことですから、文句をつけるこちらの間違いですね。
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無門関 第八則 奚仲造車
奚仲、車を造る
月庵(げったん)和尚に僧が問うた、「奚仲は百台の車を造ったのに、両車輪も車軸も外してしまったと聞きましたが、それは如何なる真理でしょうか。」
無門は言った、「一見して物事の道理を見極めることが出来たなら、機輪、すなわち車が動くと色んな現象が起こってくる、達人といわれる人もどういう意味なのか迷うかもしれない、にも係わらず、その時に車を外し、軸を外したら、どうなんだね、現象の元を取り去って、NOと言えば、先天の空が出てくるじゃないか、空に立脚すれば全てのことが分かってくる。どんなことが一遍に起ころうとも分かってくる。」
無門曰ク、若シ也タ直下ニ明ラメ得バ、眼(マナコ)流星ニ似、機掣電ノ如クナラン。
頌に曰く
機輪(きりん)転ずるところ、達者も猶(な)お迷う。
四維上下(しいじょうげ)、南北東西。
※
車を乗り回すことを現象に準えた。百台の車を同時にスタートさせれば、あちこちで現象が起こる、達人と言われる人であっても一つの真実を見極めることは難しい、車が動かない目、所謂、空で観るならば、すべての実相は明らかに見ることが出来る。
電車の中から外を見ていたら景色が飛んでいって、何があったのか分からない、でも電車を止めて、周りの人間も消し去ってしまえば、ゆっくり見ることができるでしょう。
たった、それだけのことなんですけど、人間というのは「これは何だ」と考え出すと分からなくなる。「何だ」と思いながらも、俺は何を求めているんだ、あぁ、そうか、俺があぁでもない、こうでもないと思っていることは、車があっち行き、こっち行っていることに変わらないじゃないかって。
車輪と軸を外してしまって動かなくなった車を自分と置き換えれば、空なる自分、天地の初めの時の自分に返るではないか、そのために「渇!」と一喝するんです、眼を覚ませって、考えては駄目だということです。
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完成車をまた分解します。車輪と軸を外すのですから、いまでいえばエンジンや燃料タンクもはずすことになります。
分解の方向には二つあります。どのようにあったのかというのと、さらによいものにするにはどうするかです。
ここは後者で行きましょう。
解体分解していくのは完成車の次元を下げることです。悟りを目指すのにこれでは困ります。
つまり、公案は次元を上げる解体分解法を述べたものです。ではどうやってでしょうか。
車を造ったあげく車でなくなってしまいました。
車を見ていくと、車の制作から車の解体へですが、彼の労働行為は、一貫しています。働き働きいつも働くです。車を造ったのでもなく壊したのでもありません。働きが持続していきます。
しかし現象は車となって現れたのですから、壊しているのも車を壊しているのです。
ではここで持続している働きが手にしているのは何でしょう。百台造り百台壊す車という先天性です。先天構造によって車を造る方向に現れる現象と、現れた現象を解体して車という先天性を保持していく方向の労働をしているわけです。
これを獲得した知識に置き換えてみますと、それを検討分析することにも当てはまるでしょう。
知識の場合にはそこに何があったでしょうか。過去に獲得した概念に知識がくっついて何かしら知識になり、それを検討分析してばらし分類していきます。
さらに車を自分のこととしてみましょう。人生のことを禅のことを言霊のことを勉強していきます。百冊の本を読み、ついで反省が始まります。あれはどうでこれはどうで、書いては消し、考えては行き詰まりまた前進したと思います。
公案では、要素が集まり完成され、そして要素がばらされて、何の知識であったのかが不明となりました。車は車でなくなり知識は知識でなくなりました。考えの糸も部品はばらばらでどれがどれに当てはまるのか混乱しています。
機輪(きりん)転ずるところ、達者も猶(な)お迷う。 四維上下(しいじょうげ)、南北東西。
車という現象、知識という現象を見ていけばバラバラになっていて元の姿をとどめません。そんな中で奚仲はまた車を造りはじめます。わたしも分からないなりに第八則を眺めます。
さてどうしてそのような持続行為が可能なのでしょうか。
考えては疑問を持ち、駄目にし、参考を探し、他に移り、座禅をしていきます。百台車を造っては百台壊します。訂正だったり、改修だったり、内部だったり、外部だったりいろいろです。公案では車軸を外すのですから破壊は徹底的です。
結局、現象としては車に相当するものが無くなってしまっています。自己所有している知識が徹底的に無いことです。
それでも人が持っているもの、人の働きの動因となっているもの、知識を回復し、智恵を産みだすものがあります。そして、さらに新たな良いものを産み出す実践の智恵があります。
百台の現象車造りを見れば百台の現象車の破壊をみます。
「機輪(きりん)転ずるところ」、何故動くのか百台もの車を分解してその仕組みを探しました。動くものを動きから探求して行ったのです。
そこで奚仲は悟りました。動かないものを動く通りに動かせばいいのだと。
残念ながら公案にはバラバラになったがらくたから新車ができることが記述されていません。
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これを公案解釈用のアンチョコに改造できるでしょうか。
こんなことを言えばひっぱたかれるかもしれません。というのも悟りの境地が最上となっているからです。アンチョコができてしまうとそれがナンバーワンとなって悟りの境地の地位が危なくなりそれに係わる人達の地位も言うことも危うくなるからです。
わたしへの宿題ですからくれぐれもひっぱたくなどと思わないでくださいね。
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無門関 第九則 大通智勝
大通智勝
興陽の譲和尚に僧が問うた、「仏様が二千八百年前に出てくる前の仏がいない時代の仏である「大通智勝」、一トンの石を石臼で挽いたものを一年かけて撒いたように長い間、道場に坐っていたが、悟れなかった。その悟れなかった大通智勝仏とは何か。」
譲は言った、「その問いはまことに良い質問だ」、
僧は言った、「長きに座っていながら仏になれなかったのは何故か」、
譲は言った、「悟れなかったからだ。」
無門は言った、「聖人は仏法とはこういうものか、人間とはこういうものかが分かれば、自分は凡夫だと知る、凡夫が悟れば聖人となる。」
もし、現象を考えて心をないがしろにすれば、心身共に分かってしまえば、偉くも何ともないのだから、役職に就くこともなかろう。
※
お前がこの寺に修行に来る前と大通智勝仏と同じことだ、お前が入門する前はどうだったんだ、何故、成仏しないのか、お前も同じことだよ、それはお前自身が答えることで、俺に聞いてどうすんだ。自分と関係ないと思うからそういう質問になるんだよ。
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興陽の譲和尚に、因みに僧が問うた。大通智勝仏、十劫坐道場、仏法不現前、不得成仏道の時如何ん。
譲日く、其の問甚だ諦当なり。
僧日く、既に是れ坐道場、甚麼としてか不得成仏なる。
譲日く、かれが不成仏なるが為なり。
無門日く、只老胡の知を許して、老胡の会を許さず。
凡夫若し知らば、即ち是れ聖人、聖人若し会せば、即ち是れ凡夫。
頌に曰く
身を了ずるは、心を了じて休するに何似ぞや。
心を了得すれば、身は愁えず。
若しまた心身倶に了了ならば、
神仙何ぞ必ずしも更に封ぜん。
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大通智勝はお釈迦さんの師匠ということらしいです。
十億万年前からいて十億万年前から悟りの修行に励んでいました。
われわれ凡人から見ると、十億万歳になっても悟れなかった非常に頭のにぶいかたです。どのような経緯で励みだしたのか知りません。悟りというおいしい黄金の人参を鼻先にぶら下げられたのでしょうか。常にあるぞ、来るぞと言われ続けて信じ込んでいたのでしょうか。
幸い十億万年もいられたので思う存分に研究は出来たでしょうがとうとう悟れなかったようで、その周辺知識を釈迦に教えたようです。
悟りの人参は現代では努力すれば億万長者になれるぞ働け考えろ続けろとか、知識は勉強すればするほど物になるぞ働け考え続けろとかいうようなものです。
お経では有り難い、有効な有用な意義のある為になる方向から見ていきますので、こういった凡夫の普通に白状するようなことは無視されます。
修行僧も自分の行の向こうの未来にものが有ると思い込み、未来の目標を掴もうとしていきます。ここに努力目標という未来の人参讃歌が始まります。
それでも今の状態と比べますと、希望や完成した姿に比べて現在は貧弱と映りますから不安が付きまといます。希望を持つこと努力目標を持つこと自体に不安がつのり、大通智勝を借りて、どうしてなのかという疑問がでてきました。
そこで、答えをもらいます。
悟りを価値あるものとして見るのが凡夫。
悟ったものは自分が凡夫と知る。
凡夫のわれわれには凡人と悟りまでに時間差があり、目標は実現までには時間がいると信じていますから、悟ったかたからそんなことを言われても、その人参を食べれば不死のごとくなる、眉間が輝き黄金の吐息を吐くという感じから抜けることはできません。
大通智勝が十億万年前から生きていて悟りの勉強をしていたということを自分に当てはめますと、嘘の作り話であることは簡単に分かるのですが、お経として宗教として聞かされると人は馬鹿になります。
要するに馬鹿になって信じ込む人間の性質能力があるということになります。それを利用するしないはまた別のことで、黄金の人参を注視してみましょう。
そうすると俺は信じない嘘つき馬鹿野郎というものでさえ話を聞いて判断しているその内容があることに気付きます。肯定的か否定的かなんでも構いません。十億万年生きていたと言われて馬鹿話めと感じていても、どうしても受けいれているものがあります。
その受けいれているものをみますと、やはり十億万年まえからあり、これからも十億万年以上もありつづけるのです。
それは、命の今此処、というありかたです。
無門日く、 凡夫若し知らば、即ち是れ聖人、聖人若し会せば、即ち是れ凡夫。
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無門関 第十則 清税孤貧清税孤貧
曹山和尚に清税が問うた、「私は貧乏で和尚さん助けて下さい」。「悟った者、清税よ」、
「はい」、
「旨い銘酒を大きな杯で三回も飲み終わっているのに、まだ唇も濡れておらぬ」と。
無門は言った、「清税は悟りの機会を尚更企むのは何のためか、だが、曹山和尚には相手の心中を見抜ける眼はあるぞ、清税が酒を喫した処は何処に行ったのか言ってもらいたいものだ」。
充分悟っているのに、それを見抜いていないとして、説法を問うてきた、「助けてやろう」、なんて答えたものなら、笑われてしまっただろう。
*
悟った僧二人が冗談にしてしかも真剣に「一杯やろうか」と酒を酌み交わすことではなくて、言葉のやりとりで、空即是色、色即是空をお前は知っているな、ということを共に悟る、その機を与えた。
頌に曰く
貧は范丹に似、氣は項羽の如し
活計無しと雖も、敢て與に富を鬪わしむ。
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二人は共にすでに悟った僧であることがみそです。
(曹山和尚いわく、ところで闍梨(ジャリ)の清税様よ。
清税、應諾ス。)
日常生活では知らぬ振りをして相手をひっかけるようなことをすれば嫌われます。禅の世界ではこうしたいやらしい世界がまかり通ります。真剣な命を張った智恵の世界だというのが理由です。
知っていながら嘘をつき利益を上げ巻き上げるのが日常生活ですが、禅での世界は智恵の研磨が利益です。公案の登場人物は片一方は必ず悟った和尚ですがこちらが引っ掛ける役です。
今回は二人とも悟っています。両者の出会いはどうなるのでしょうか。列車、航空機なら正面衝突で粉々になります。
智恵の場合に関しては、どうするのかと無門はいいます。
これは禅佛教の限界、宗教の限界です。何もできず一緒に祈りましょうというだけです。あるいは合体して共に進もう、それぞれが糧と成り合おうとなりますが、どこへ行くかは知らないのです。
頌に曰くのとおり、関心を高め豊かにしようと気勢をあげることになります。
現実のウ次元欲望、オ次元知識の世界では、相手を陥れ成功して気勢をあげることになっていけば悪の勢力の拡大みたいなものです。そしてこれが凡人の主な関心事でもあります。
坊主になって物乞いを選択したのですから胃袋の満足、知識理性の満足などに勝たねばなりません。それらの満足褒賞などものともしないだけの人生の宝を得なくてはなりません。
少なくとも項羽の氣はあっても、内容を得られる保証などないのですが。
こういった態度もある種の人達の尊敬を得ることはできます。わたしなども感嘆します。
その一方吐き気を催されることもあるのです。
さて、2012年に気勢をあげて、その後どうなるのでしょうか。
意地悪な言い方をしました。
「有朋自遠方来 不亦楽 」こういうのもあります。「論語」
しかしこれは単なる知識の喜びを分かち合うだけのことです。
たまたま気性が良かっただけのことです。
ノーベル賞を狙い合う敵同志、論壇の第一人者が権威者になる、特許を取れば金儲けができる、アイデア、意匠は誰にも使わせない、盗み産業スパイの世界等々が実体です。
幼稚園時代から生存競争の為に知識を詰め込まれ、色分けされた集団に入る為に努力する。他人を蹴落とせば進歩が得られる。確かにこれも時代の要請でした。
また意地悪くなった。知識、理性とはそういったものだから致し方ない。幸い悟りはそれらを越えようとするものだけど、社会性もなく共同性もなくしてしまう。
どっちもどっち、なんていわないでください。まだその上があります。
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無門関 第十一則 州勘庵主
州、庵主を勘す
趙州和尚がある一庵主の処に到って問うた、「居るかい?」。一庵主は拳を堅起した、だが、ここは水が浅いので船は泊めれない処なので去った。又た一庵主の処に到って問うた、「居るかい?」。主も又拳を堅起した。趙州は言った、「生かすも殺すも自由自在」。
無門は言った、「双庵主に同じことをして、片方はダメとして、片方は良しとした。まやかしは何処にあるのか、どう違うのかを考えるな、もし、水浅く舟が泊められないとする、悟りの言葉を言ったならば、趙州の弁舌さわやかに大自在になることを得る。その原因を探ったところで趙州の心は推し量れない。考える方が間違っている。この公案を詮索したところで分かるはずがない。それを迷っても仕方がないことだ。まやかしは何処にあるのか。
観る目は流れ星のようにサッと過ぎてしまう、だが、サッと流れたところに実相がある、それの観る目は柱丈の判断力、殺す刀も人を活かすこともできる。
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二庵主の行為に惑わされても仕方がない、何をしているわけではない、問題は趙州がそうしたかったからだけのことだ。
よくあることでしょ、ごちゃごちゃと考え込んで返って問題を分からなくしてしまう。ただ成り行きでそうしたことなのに、人はそう考えないで、二庵主に原因があると考えてしまう。
こうやってその場では分かったつもりでも、暫く経つと忘れてしまう、その時の瞬間の判断をしなさいということです。
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趙州一庵主の処に到って問ふ、有りや有りや。主拳頭を竪起す。州云く、水浅くして是れ船を泊する処にあらず。便ち行く。又た一庵主の処に到って云く、有りや有りや。主も亦た拳頭を竪起す。州云く、能縦能奪、能殺能活。便ち作礼す。
無門日く、一般に拳頭を竪起するに、なんとしてか一箇を肯ひ一箇を肯はざる。且らく道へ、ごう(言に肴)訛いずれの処にか在る。若し者裏に向かって一転語を下し得ば、便ち趙州の舌頭に骨無きを見て、扶起放倒大自在なることを得ん。是くの如くなりと雖もいかんせん、趙州却って二庵主に勘破せらるることを。若し二庵主に優劣ありと道はば、未だ参学の眼を具せず。若し優劣無しと道ふとも、また未だ参学の眼を具せず。
じゅに日く、
眼は流星、機はせい(制に手)電。
殺人刀、活人剣。
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何の連絡もない乞食坊主が二人いました。と言っても悟って隠遁している一庵主の身分です。
趙州が道場破りの積りで尋ねて「おいでかな」と尋ねると、閉じた拳固を見せられました。こりゃたいしたことない、自分の様な大きい船が停泊するまでもない、と立ち去りました。
ついで別の坊主のところへ寄って「おいでかな」と尋ねると、また握った手を見せられた。こりゃ、しまったことをした、活かすも殺すも自在な技だった、と丁寧にお辞儀をして立ち去りました。
と趙州が教えられた立場とするのと、その反対の、趙州が教えたとする両方から見ることができます。
何の連絡もない乞食坊主が二人いました。と言っても悟って隠遁している一庵主の身分です。
趙州が道場破りの積りで尋ねて「おいでかな」と尋ねると、閉じた拳固を見せられました。そこで返事をして、船が停泊するには浅瀬だと言って、立ち去りました。
ついで別の坊主のところへ寄って「おいでかな」と尋ねると、また握った手を見せられた。そこで返事をして、活かすも殺すも自在な技だった、と丁寧にお辞儀をして立ち去りました。
二人の庵主は互いに知らず趙州が他方にしたことを知りません。公案では文章を繋げてわれわれに比較するような仕立てになっているのがみそで、趙州もそれぞれの庵主にそれぞれの挨拶をしただけです。立ち寄った時間が違うのですから。
同じ行為をしたのに反応結果が違うではないかどうするどういうことだという公案です。この記憶による連結を破る様に促すものです。記憶の中にある知識を持ちだすところから来るトリックに落ち込むわけです。
眼は流星とはその場限りその時の趙州が判断ということで、比較する二人の庵主などいないのです。
このひっかける仕掛けは無門の方から仕掛けてあります。趙州が二人から見抜かれていて教えを受けているというのです。二人の優劣をつけるのも、つけないのも駄目だぞ、どうするね諸君というわけです。
つまり比較する相手として二人という意識を持たなければいいので、実際に庵主Aに挨拶し、庵主Bに挨拶しただけです。
そして元に戻れば、
おーい居るかい、拳固、浅いね、船を寄せられん。そして庵主Aに講釈する。
おーい居るかい、拳固、活かすも殺すもうってつけだね。そして庵主Bに講釈。
となります。
この講釈はその場限りの出まかせですが、ぴったりで便ち趙州の舌頭に骨無き口先三寸を見て、行き倒れの人を助け起こし大自在なることを得ん、というものです。
では趙州自身はどうなるのでしょう。
公案に記された流れの通りで、その時その時の流星のような観察判断、落雷のような機知に富んだ返答対応をなしただけです。
同じように手を上げたというのは記憶による連結でその場のできごとではありません。同様に居るかいと声をかけてたのも同じ声ではありません。誰もがその場その時の対応をしているのでどちらがという比較するものはありません。
骨なしの舌先だけの対応としてもいいのですが、われわれ凡人が真似をするといい加減でちゃらんぽらんのその場凌ぎの対応となります。こういったところから、人を見てその人に合った持てなしをしようということになりそうですが、それらは過去の記憶に比較して見劣りがないものにするだけのことです。
趙州がここで行うことは、そういったもてなしではなく今を実現していくもてなしです。
朝起きて歯を磨き朝食をとる。こう書けば毎日同じ行為をしている感じを受けます。同じ朝食を食べているのじゃない。視覚では同じ拳固、言葉では同じ朝食、全てこんな調子です。
おーい、居るかい。
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無門関 第十六 鐘声七条
鐘声七条
雲門は言った、「世界はどうしてこんなに広いのか、なのに何故朝になると鐘が鳴ると袈裟を着て本堂に行くのか」。
無門は言った、「凡そ、禅に参ずる者は、聞いたことや見たことをただただ真似してはならない。物事の色を見て物事の真理を悟ったとしても、これは当たり前のことだ。その次のことが大切である、聞いたことや見たことに乗じて、理屈を言うことが得意であっても、しばらくこういうことを考えてみよ、声が聞こえたとしても、声で聞いた響なのか、声を聞きに行った著(じゃく)なのか、どっちなのか、話の上で明瞭に答えることができるようになるのか。聞いた声ならば未だ悟りにはならない、眼でもって聞いたということであれば、正に初めて物事を理解したことになる」。
分かったのは、聞いたことと見たことが一所になる。分からないのは、物事が千差万別に見えたり、聞こえたりする。では、迷っている時の出来事は、同じように考えられる。宇宙の眼で見るのと、経験知で物事を見ることの違いがそこにある。
*
観世音菩薩っていいますでしょ、観世音ですから、観は見る、音は聞く、でしょ。声に惑わされず、どんなことが起こったかの事のほうにも惑わされず、本当に分かるということは、声を聞いて相手の言っている事を聞いて「あぁ、そうか」と分かるのではなく、相手の表情や顔色を見ることによって、本当に相手が何を言いたいのかを分かることだよ。
この公案は、サラリーマンは朝、顔を洗い、ネクタイを締め、背広を着、靴を履き、会社に出掛けて、仕事をして、夜になると帰ってくる、それはどうしてだって、ただ、そのことを言っているのですが。
今日と言う日は二度と来ない
もし、それを習慣や仕事のための身支度と考えているのなら、それは間違いだ。人間というものは天の御柱で物事を見、判断しながら真実を知った上で、自らが決断して行なっていることなのだ。
音を聞くだけではだめなんだよ、音を見なくては。又は姿を聞かなくてはならないよ、って。何のために自分は働いているんだろうって、物事がうまく運んでいる内は別にそんなことを考えない、うまく行かなくなったときにそういうことを思う。その繰り返しで定年退職を迎える。
今日と言う日は一回しか来ないのだから、今日を生きるために自分は全力を尽くす、自分自身と、世間で起こっている中の自分というものが、完全に一つに成り得る。その時と場所を「今ここ」と言うんだよ。
その消息は言霊の学問を知っていたら「うん」と頷けますけど、学問ではから言うと、やはりオの次元、でも、言霊の学問を知っていても、知らなくても、このことに「うん」と頷くことが出来たなら、それが本物ですね。
アの宗教ですから、頭打ちなんです、表現するにね、難しい漢文で説法したら、あのお坊さんは偉いんだなって思ってしまう。表現はどうであれ、真理が途中なのか、それで完了なのか、こんなことしてどう何になるんだって。
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無門曰く、
「大凡(おおよ)そ参禅学道、切に忌(い)む、声に随い色を逐うことを。
・そもそも参禅に志すものは現象を見てそれを判断することを避ける。
縦使(たと)い聞声悟道(もんしょうごどう)、見色明心なるも也(ま)た是れ尋常なり。
・五感での認識はそのまま普通に得られる。
殊に知らず、納僧家(のうそうけ)、
・ところが坊主も知らないことがある。
声に騎(の)り色を蓋い、頭頭上(ずずじょう)に明らかに、著著上(じゃくじゃくじょう)に妙(みょう)なることを。
・見聞きしたことがはっきり喋れて、
是くの如く然雖(いえど)も、
・現象からする判断はこう言うものだと主張しても、
且く道え、声、耳畔(にはん)に来たるか、耳、声辺に往くか。
・こういうことも思ってみなさい。その五感で確認できていることは、例えば声という響きは音の振動が耳に到達したものか、耳がその振動を聞き分けたものか。
直饒(たと)い響と寂と双(なら)び忘ずるも、
・たとい、響きと静寂を共に得たり、失ったりしたとしたら、
此に到って如何んが話会せん。
・この違いをどうはっきり話して見せることができるか。
若し耳を将(も)って聴かば応(まさ)に会し難かるべし。
・もし聞こえるものを聞いただけなら了解悟りにはまだ遠い。
眼処(げんしょ)に声を聞いて、方に始めて親し」
・眼で声を聞いて、まさに始めて理解する。
頌に曰く
会するときんば、事、同一家(どういっけ)。
・了解したことは、鐘の音を聞くことと袈裟を着ることが同じことになる。
会せざるときは、事、万別千差(ばんべつせんしゃ)。
・了解できない時は、鐘の音をあれこれ聞いておもい考え、袈裟を見てあれこれおもい考える。
会せざるときも、事、同一家。
・了解できないでいる時も、あれかこれかあれもこれも何を取り上げても同じように思える。
会するときんば、事、万別千差
・了解できたと思う時は、自分のものはあれとはこれとは彼とは皆とは違うと思い込む。
経験知概念で自分が一番ということと、まず一番に智恵の了解でわかることとの違い。
もちろん坊主は自分が一番だとは言いませんが、喝ッ、の次あたりにはじぶんの解説があるだろうと思っています。
そうでないものもかなりあり、原文だけとか訳文だけとか続きを書かなくて続くとだけ書いてあるのとか、ギブアップをしているのとか、上記の頌に曰くの二三四番目だらけです。
とここまで何とか書いてきましたが、ここから先へ行くとボロがでるというやつです。
でも行きましょう。
「鐘が鳴ったら袈裟をまとうのだ」が条件反射となって、「我々は、「内外打成一片」の限りなく広い禅的な境涯の中に生きている。そのような中にありながら、何故、客観世界の条件反射のような事象に束縛されているのか。」というのがありました。
眼処(げんしょ)に声を聞いて、方に始めて親し」
・眼で声を聞いて、まさに始めて理解する。頌の始めを除いた二三四の意見です。
他人の意見を「眼処(げんしょ)に声を聞いて、方に始めて親し・眼で声を聞いて、まさに始めて理解する。」で了解することが必要です。そうでないとあれは駄目これはいいと言うだけのことになってしまいます。
条件反射と思っているのは因果を見ているからですが、それでも聞く鐘は音、着る袈裟は見ているものという、バラバラの次元にすればそれなりの禅の世界となるでしょう。
ところが、同様にここでは「どうして鐘が鳴ると本堂へ出ていくのか」というバラバラにしちゃいけない一つの世界があるのです。というとはその次の言葉を繋げて、本堂へ行って本尊を拝むのか、とか何々とかと一塊の問いができるのです。
ですから最初に鐘と袈裟を別々にしますともう最初っから駄目なのです。
鐘と袈裟を因果で仏教らしく結べば解説は楽でしょうが、その後も次々と引っ掛けられることが続いてきます。ですので、まるで関係のない鐘と袈裟は、そしてその後に続く何々も、「同一家」としてしまう方がことは楽です。
そうでないと、鐘と草履だとか、鐘と数珠だとか教本を持ってだとかを言われるようになります。
この公案は比較的短い時間内の接近したできごとをイメージし易いように作られていて、因果で説明しやすくなっていますが、そんなものは尋常なことだ言われ、また、因果の間隙は幾らでもあるのでそこを突つかれます。
さらに始めに世界は広いのに何で狭い因果を持ちだすのかとということも言われています。
こうして、鐘を聞くことと袈裟を着ることが同じであることを説明しなくてはなりません。
問題は鐘と袈裟が同じであることではなく、音を聞くことと袈裟を着ることという人の行為を考えることに関することです。
音が耳に聞こえたのか、耳が音を聞いたのか、袈裟が身体に着られたのか、身体が袈裟を着たのか、足が草履を履いたのか、草履が足に履かれたのか、鐘の音が身体に袈裟を着させたのか、身体が鐘の音で袈裟を着たのか、とうとうとなります。外見現象は同じでも「事、万別千差」になります。
つまり、わたしが何かをしたのか、何かがわたしにしたのか、になります。
これは悟りとか宗教の解釈次元では、自分と世界宇宙の同一を感じ体得することですが、それ以上の説明をする術を持っていません。
悟りとか宗教次元では、自分への現象となるものが宇宙全体感となって現れてきて、自分の中心テーマと結合して保持されていきます。そこでテーマが心に拡大していき、何かの表現と結ばれ、その表現の維持が心の行動の目的となります。そこで客体と自分は合一して客体が主体を受けいれてくれる体験ができますが、表現において客体を掴んだだけなので、行為として自分のものとすることは、自己目的となるだけで、その実現は未来に置かれます。
以上が悟りの内容で、鐘の音を聞いて袈裟を着るという宇宙一体感はその時に得られるものの、持続保持させることは、修行の努力の中にあるということになります。
自分のテーマの保持拡大を問題にして、当初に得られた宇宙との一体感を問題にしない為、自己追求の世界となってしまいます。
衆生からは糞坊主と言われる所以です。
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無門関 十七 国師、三たび喚ぶ
国師が侍者に教えを説こうとして三度呼んだ、三度とも「はい、はい」と答えて何も悟ろうとしない。おまえが私に期待して分からないでいるのは私のせいだと思っていたが、私の期待にお前が答えなかっただけのことだった。
無門は言った、「国師は一度呼べば済むものを三回も呼んで、舌頭が地に堕ちてしまった。国師は年老いてきて心が孤独になってきたので、牛の頭を掴んで草を食べさせようとしたのに、どんなに旨いものの飽食の人にとっては旨いと思わない。国が貧しければ民は志が高く清い、子供も親が金持ちだと働かないではないか」。
親切はいけない。親切すぎてその恩を分からなくする。家をしっかりと建てようとするなら、自分の危険を省みず自分の生命の尊さを知ることだ。枷は穴がなければ嵌めることはできない、それを人にはめようとした。
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意味は分かりましたけど、さっぱり意図するところがよく分からない公案。注釈を読むとその解釈に頼る。だから注釈は読まない方がいい。ようするに遊び、一生かかってアに到達すればいいのですから、アが最高の精神である坐禅には限界があるのですね。
以上は http://imakoko.seesaa.net/article/108052568.html
からの引用。
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国師、三たび侍者(じしゃ)を喚ぶ。侍者三たび応ず。国師曰く、「将に謂(おも)えり、吾れ汝に辜負(こぶ)すと。元来却って是れ、汝吾れに辜負す」。
無門曰く、「国師三喚、舌頭(ぜっとう)地に堕つ。侍者三応(さんのう)、光に和して吐出す。国師年老い心孤にして、牛頭(ごず)を按(あん)じて草を喫せしむ。侍者、未だ肯(あえ)て承当(じょうとう)せず。美食も飽人(ほうじん)の餐に中(あた)らず。且らく道え、那裏(なり)か是れ他(かれ)が辜負の処ぞ。国浄うして才子貴く、家富んで小兒嬌(おご)る。
頌に曰く
鉄枷(てっか)無孔(むく)、人の担わんことを要す。累(わざわい)、児孫(じそん)に及んで等閑(とうかん)ならず。門をささえ、并(なら)びに戸をさえんと欲得(ほっ)せば、更に須(すべか)らく赤脚にして刀山に上(のぼ)るべし。
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自分のことに没頭しているものは、ダイヤをあげると言われ、悟りへの境地を教えるといわれても関心を示さない。テレビを見ている子供はご飯を食べようともしない。日常よくあること。
つまり国師は最上の悟りの教えを与えようとしたが、生返事を受けてしまった。確かに相手が関心を示してくれないのだから、わたしのせいじゃないと思える。
ところが、国師自身についてみると、悟りだ悟りだとそれに没頭している自分がいることに気がついた。悟り以上のことを示されても悟りが最高次元とだとして取り合わない、小僧であることに気がついた。
幸いに悟りを得ることが人の最高の次元であると思っていたからか、無の境地以上のことをないがしろにしていた。
不幸にも悟り無の世界空の境地しか知らない為、それらに気付いても社会、共同体、国、への実践行為とすることを知らない。
一生かけて悟りへの個人行をしていればいいと思っている。悟った国師を呼ぶ声は至る処から聞こえてくる。しかし国師は悟りが最高、無が最高、空が最高に憑かれそれしか喰わない。
宗教者たちは悟りが最高としか思えていませんから、自分たちがより上位の期待に応えていないと言わないで、相手であるわれわれのことを言ってしまうしか知らない。
自分の悟り以上の上位と鍵で結ばれる穴が無いのに、相手にだけは親切心まで起こして穴を開けようとします。歩ける足があると思っているのなら、裸足で刃の上を歩いてみるがいい。
三度呼び三度答えることを詮索していくと、堕していくのがばれてしまいますがやってみましょうか。
三つになれば何でもいいので、
一つ目は衣食住五感感覚次元での欲望充足
無門曰く、「国師三喚、舌頭(ぜっとう)地に堕つ。侍者三応(さんのう)、光に和して吐出す。国師年老い心孤にして、牛頭(ごず)を按(あん)じて草を喫せしむ。侍者、未だ肯(あえ)て承当(じょうとう)せず。美食も飽人(ほうじん)の餐に中(あた)らず。且らく道え、那裏(なり)か是れ他(かれ)が辜負の処ぞ。国浄うして才子貴く、家富んで小兒嬌(おご)る。
最初に呼んだときの小僧の「ハアイ」という返事は、自分がここに客観的な存在として居りますという意味を持っています。つまり「ここに居ますよ」という返事です。
次に呼んだ時の「ハアイ」という返事は、主観的な存在として、呼びに呼応して何か行動に移る姿勢にあるという意味を持っています、つまり「何をしましょうか」という返事のはずです。
次の三回目の呼びかけに対する返事は、もう意味がないのです。自分の中には主観的な自分と、客観的な自分の合計二人しかいないからです。
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無門関 十八、洞山の三斤
洞山和尚に僧が問うた、「仏とはどういうものか」、山曰く、「麻三斤」。
無門は言った、「洞山は蛤禅をしてしまった、洞山が悟ったことの全てを答えてしまったが、その全てとは何か、麻三斤でなくてはならなかった」。
*
成仏した仏さまは何処へ到達したのか、生命の法則を知った人とも言える。生命の法則も仏である。山が仏とは「麻三斤」と答えたのは、人間である生命の法則である、法則がなければ「麻三斤」と言えないだろう。
絶対の法則、それが仏である。その答えで僧は分かったのか、「麻三斤」でなく「おまえだよ」と言えば、その人の力量によっては悟るかもしれない。「麻三斤」でなく他の答えでもいいとするなら、理屈に頼って悟りは遠のく。
この公案は「世尊拈花」と同意ですね、これが仏だ、これが仏法だと言っていい、どうしてこれが真理なのか、これは否定しようがないもの、どう考えても赤い花なんだ、それを赤い花と赤い花でないかを認めるか、認めないか。
誰もが頷く仏の姿、これ以上の真実は有り得ない訳です。考えようが考えまいが、それが真実のもの、それが仏だよ、ということも出来る。だから釈尊の弟子の迦葉が一人破顔微笑した。
真実を真実だとする、判断して分かる人がいる、真実にして動かざるもの、絶対にそうではないと言えるもの、それを真実と言える人は、その人は真実そのものである。これを実相といいます、実相を実相とするのは仏そのもの。
それを悟った人を阿羅漢とか、初地の仏と謂ったりします。何故赤い花でなければならないのかとか、麻三斤でなければならないのか、とかの絶対だの、相対だのとグダグダ説明してしまいますと、赤い花がいつのまにか違う色になったり、麻が違うものになってしまう。
そうして坊さんが説法するから、その教えそのままに思い込んでしまう。思い込んだ人に「そうじゃないよ」となかなか言えないものです。頭が混乱して論争が始まるかもしれない。聞くだけ聞いて「あぁ、そうかい」って応えておればいい。
十八 洞山(とうざん)の三斤(さんぎん)
洞山和尚、因みに僧問う、「如何なるか是れ仏」。山曰く、「麻三斤(まさんぎん)」。
無門曰く、「洞山老人、些(さ)の蚌蛤(ぼうごう)の禅に参得して、纔(わず)かに両片を開いて肝腸を露出す。是の如くなりと然雖(いえど)も、且く道え、甚 れの処に向かって洞山を見ん」。
頌に曰く
突出す麻三斤、言(げん)親しくして意更に親し。
来たって是非を説く者は、便ち是れ是非の人。
---以上引用------------
知的理性的理解が気に入っている人には、どんな解答をしてもそれが回答とできます。
「如何なるか是れ仏」。山曰く、「糞です、公案です、ニュースです、」。
どんな答えでも解答です。
では、「如何なるか是れ仏」。山曰く、「麻三斤(まさんぎん)」。
これだけが正解です。
仏は麻だというからにはその共通性をどこかに見いださねばなりません。
人間の五感感覚からは可能ですか。そこでは五感に対応する感覚によります。仏を生身の人間ととる人は、物質なり生物なりが共通となり、そこからいくらでも回答がでてきます。
麻の生産過程を世界全体としてそこに仏を見れば一致を確認できます。
また、これを真理とか悟りの仏にすると、それに対応した麻を探さなくてはなりません。麻に込められてる禅的境地だとか、分別心を超えた世界を表象した麻だとかを示すことになります。
これは仏も空だ麻も空だ無の方向から回答してきたものですが、無といえば何でも答えになりますから面白みがありません。商売的というか経験的というか年期を入れれば意味が掴めなくとも答えられでてくるものです。
そこで、「 突出す麻三斤、言(げん)親しくして意更に親し。」という仏を探すことになります。
五感感覚次元肉体次元、経験知識記憶概念次元もそれぞれに回答がでてきました。
しかしここは悟り、宗教、訳のわからない次元での回答を見つけなければなりません。
人の事を納得する性能には五感と知識だけでなく、はっきりと納得了解できる領域がまだあります。何ということもない日常生活で普通の感情を起こしている世界です。
この感情によって分かる分かったという世界です。形は無いけれど非常に力強い世界です。
悟りというのはここの世界とよく似ています。
背中を叩かれ痛かろうと、知識を溜め込みはち切れんばかりであろうと、そんなことには関係なくあっと分かる感情を元とした世界があります。
さらに人の心にはその上の世界があります。仏は麻三斤と了解しても宗教の様に頭の体操の世界ならそれだけのことです。仏は三斤の世界をどうしようかという時、一人暗い部屋で座禅を組むだけです。
ひとの世界はそれだけではないし、その上の世界があるのはもちろんです。この世の社会政治道徳まつりごとを動かさなくては生活とはいえません。悟りにはそれらが一切なく、せいぜい教団を形成するだたけになっています。
悟り得る為には難しい言葉の世界を通過しなくてはならないようにしたのは、教団内での優劣をつける為の方便だったでしょうが、現代はそのまま受け継がれ、そこに内容があるようにすり替えられています。
もともと感情次元のことですから、事の起こりは単純なものです。言葉による感情表現の難しさを、難しい言葉に横滑りさせただけのもののようです。
さて、仏と三斤の感情領域での了解を示さなければなりません。
解脱したといったところで、個人の感情領域でのことです。他の人にその内容を示すことはできません。確実な実体内容はあるけれど、伝えられずあなた方には未来の獲得目標ですと投げ出します。政治家はそんな無責任なことはできませんが、宗教家は全てそういったことが簡単にできてしまいます。座って次を待つわけです。
洞山和尚、因みに僧問う、「如何なるか是れ仏」。
山曰く、「麻三斤(まさんぎん)」。
ここでは洞山が悟った時を示したのでもなく、修行僧が悟ったのでもありません。洞山が小僧に悟りへの方向を示したのですが、失敗したのです。
洞山は仏は麻三斤だというのは分かりますが、その分かったことをどうする化については、相手に期待を投げただけです。相手が説明を求めればひっぱたいて出ていけと言ったでしょう。禅世界内でのことなら構いませんが、社会的政治的共同体的には駄目な態度です。
悟りの心には社会性の次元がないことは忘れることができません。人は行動して社会性を現し、選択して社会性を分類していきます。悟る心は個人の山頂でのことで、そのまま居座り下山することをしません。下山している場合には大抵、仏とは何か、金三トンなり、です。
悟りは感情領域と同じ構造です。感情は自然の流れの中で突如として沸き起こり出てきます。悟った時の様子がいろいろ描かれていますが、感情を得るのと同じです。芸術的な印象を得ることも似ています。
起こった感情の表現が一般的で虚しいことどうしても気持ちを伝えられないことや、感情を伝えようと呼び覚まし喚起しようとしますが、新たな創造を目指すことではありません。悟りも新たな悟りを創造することに関心があるのではなく、保持確保しておくことに関心があります。
俳優、芸術家たちは感情を呼び覚まし喚起することに心がけますが、宗教家も同様です。指示し喚起するものは明確に体験し自分のものとしてありますが、その表現を知りません。禅などは不立文字をいいことに最初から諦めさせている代りに、難しいことをあてがいすり替えています。
しかし芸術家は一生一度の経験を表現する為、多くの言葉を発明し、多くの色を塗りたくります。宗教家もあの時の神秘体験を忘れまいと何年も何年も神よと祈り続けます。
この感情的な経験の対象の違いでしかありませんが、禅の場合は直接に思惟作用の感情的了解を問題にしています。思惟には正反合渡河演繹帰納とかあっても全ては過去概念記憶知識をいじることです。
禅は思惟作用において過去概念に使用されずに直接に了解することのできる領域があることを示しています。
思惟が人間にとって重要な働きであり、その思惟の領域で新たな了解の方法を発見したとする釈迦の教えに従って、それを得ようとするのが仏教です。思惟の感情領域での了解ごとです。
それはもともと概念領域での了解を越えているものですから、知識理性で幾ら言おうとそれらは全て認められ同時に全て駄目なもので、了解の仕方という次元が違うものなのです。それを仏教では理性知識の次元で説明しますから、幾らやってもきりがないので、その伝統を公案にも持ち込んで思惟による解決をちらつかしているのです。
一応教育教えによればそれ以上のことはできない為致し方ないことですが、個人行でしかその未来を示せないからでもあります。
それであっても、思惟を操るのは関心深いし、人間の意識領域の内で禅は直接に思惟作用を扱いますから、禅をやる人にはここが面白いのでしょう。画家なら何でもない視覚現象に本当の視覚を求めるのが面白いようなものでしょう。
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無門関 十九、平常是れ道
南泉に趙州が問うた、「道とは如何なることか」、
泉が言った、「道とは平常な心だ」。
州は言った、「平常心になろうと精進すべきことなのか」、
泉は言った、「究めようとすると道から逆に逸れてしまう」、
州は言った、「求めずしてそれが道だと分かるのか」、
泉は言った、「道というものは、どんなことであるかにも属さない、それでは知らなくても良いのかにも属していない、真に疑わずに知ろうとすれば、誰として疑うことはない、疑うことがないものをどうのこうのと言うことはなかろう」。
この言葉が終わらぬ内に直ぐ趙州は悟った。
無門は言った、「南泉の答えで趙州は直ぐに悟ることが出来た。瓦がはがれるように、言い訳もせず、趙州がここで悟ったとしても、後三十年の月日が参禅に必要だろう」。
*
平常心というのは当たり前の心、誰もが、物事の是非を問うことなしに知っていること。朝は「おはようございます」、食事は「いただきます」、そのようなことですね。「お茶をどうぞ」って言われて、「云」というだけでは平常心ではない。
このお茶はどこそこの産で、お湯の適温はとか、銘柄はどうのこうのとか、を言い出したら妄覚。この公案によく似たのが「喫茶去・キッサコ」というのがある、趙州の所に来た人が「私はこれからどうしたらよろしいでしょうか」と問うた。
そうしたら趙州が、「お茶は飲んだか?」、「はい」、「そうしたら去りなさい」、「どうしてですか?」と問えば、これも妄覚。
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南泉、因ミニ趙州問フ、如何ナルカ是れ道。泉云ク、平常心是レ道。
州云ク、還ッテ趣向スベキヤ否ヤ。
泉云ク、向ハント擬スレバ即チ乖ク。
州云ク、擬セズンバ、爭カ是レ道ナルコトヲ知ラン。
泉云ク、道ハ知ニモ屬セズ、不知ニモ屬セズ。知ハ是レ妄覺、不知ハ是無記。若シ真ニ不擬ノ道ニ達セバ、猶ホモ太虚ノ廓然トシテ洞豁ナルガ如シ。豈強ヒテ是非スベケンヤ。 州、言下ニ於テ頓悟ス。
無門曰ク、南泉、趙州ニ發問セラレテ、直ニ得タリ瓦解冰消、分疎不下ナルコトヲ。趙州、縱饒(たとい)悟リ去ルモ、更ニ三十年ヲ參ジテ始メテ得ン。
頌ニ曰ク
春ニ百花アリ秋ニ月アリ、
夏ニ涼風アリ冬ニ雪アリ。
若し閑事ノ心頭ニ挂ル無クンバ、
便チ是レ人間ノ好時節
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道とは何かで、道を問わないのが道であると答えました。
悟りにしても何かを了解することですから、問うな、などと言われれば、そんな馬鹿なと言い返したくなります。知でなく不知でもなく、では何があるかと言えば、知を除いた全てですから無数無限のものがあります。
知以下のものと以上に分けていけば、喰いたい、金が欲しい、社長になりたい大臣になりたい等は平常な心そのものです。そこから起きる弱肉強食、殺戮、嫉妬、陰謀等極めて平常と言ってよいでしょう。それらに反対するのは知ですから。
要するに日常生活次元では、こんにちは、さようなら、から始まって道とは何かと問わなくとも道は開けているのです。正負のどちらかに向かうだけです。正負を意識するのも知です。
知以上のもとしては感情とか一休さんの頓智智恵で了解する世界とか芸術宗教界があります。ここも、知であれこれ判断する前に分かってしまう世界ですから、知があれこれ言う世界ではありません。悟りもここの世界のものです。
さらに知を超えた世界に実践実行、つまり生きて動いていく為の選択する世界があります。ここでは知は大いに選択を援助できますが、知は動きそのもの歩きそのものとは別のことです。
最後に意志、創造世界の根源の衝動動因を構成する世界があります。この世界がある御蔭で知の活動が可能となります。知が何をどう言おうと意思が発動することも停止することもできません。同様に、悟りも意思の世界をどうにもできず、逆に情熱を与えられて活動している始末です。
知以外の世界では知ることなく事が進行します。これが道です。問うものではありません。
しかし、現にある知を除いてしまっては片手落ちです。公案は知が知を知ることなく知であることを求めています。
平常心を絶対主体的なものとか真の実践的な禅心と何もしない心とか、それぞれ大げさな解説がありますが、中国禅式の法螺吹き心を真似て自分の持てるものを隠すこともないでしょう。
頌ニ曰ク
春ニ百花アリ秋ニ月アリ、春には咲き乱れ秋には月が照る
夏ニ涼風アリ冬ニ雪アリ。夏の風は涼風、冬は雪
若し閑事ノ心頭ニ挂ル無クンバ、是非好悪を問わないままに
便チ是レ人間ノ好時節。自然に乗せられている。
いつも違って非常に法螺が抑制されています。
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無門関 二十、大力量の人
松源和尚は言った、「優れた力ある人がどうして脚をもたげ社会で活躍しないのか」、又言った、「口先でないのはどうしてか」。
無門は言った、「松源和尚は自分の言いたいことをさらけ出してしまった、しかし、他の人がそれを聞いたところで悟ることはないだろう、今起こっている現象の裏を見よ、脚をもたげた裏を見よ、真の考えを見よ」。
脚をもたげて渡る香水海、頭をもたげて見る四禅天、本当の人間であるならば、脚をもたげるのは一体何処なのか。七字の文章を続けよ。
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大力量の人は日常の生活をしていても、イザというときにはそういう心がけでいろ、ということでしょうか。禅の骨頂はこの世を宇宙と捉えて、その宇宙を闊歩してその才能を生かせ。
今のお坊さんは悟っておりませんから叩かれますと痛いそうですよ。ただ生きているのではない、宇宙を生きているのだ、アの境地で坐禅を組みば、何を言われようと動くことはない。日常というものは悲観しようが楽観しようが変らない。感情で揺り動かされることがなくなれば、晴れ晴れとした心で一日一日を送りなさいということです。
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禅なんてもんは分かろうとしている間は分からないものです、煩悩を無くそうとしたって出来っこない。何か煩悩が起こった時に「有り難い」と思うこと、不安があれば「不安って有り難いな」と思う。
どんなことでも「有り難い」と思えば、煩悩は煩悩でなくなり、不安は不安でなくなり、煩悩が人間の人生に教えてくれる大きなお恵みだと気付く。そこからエの次元への道と続く。
あぁ、また不安にかられる癖が出てきたなと覚えたら、その不安を無くそうとすると父韻が分からない。でも「有り難い」と思ったら不安の要因の父韻はこれだということがすぐ分かる。
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松源和尚云く、「大力量の人、甚(なん)に因りてか脚を擡(もた)げて起きざる。」と。 又、云ふ、「口を開くこと、舌頭上に在らざる。」
無門曰く、「松源、謂(い)ひつべし、腸を傾け、腹を倒す、と。只だ是れ、人の承當(じようたう)するを欠くのみ。縱-饒(たと)ひ直下(ぢきげ)に承當すとも、正に好し、無門が處に來りて痛棒を喫せんに。何が故ぞ。眞金を識らんと要(ほつ)せば、火裏にして、看よ。」
頌して曰く、脚を擡(もた)げて踏翻す 香水海(かうずいかい)
頭を低(た)れて俯視す 四禪天。一箇の渾身 著くるに處無し。 請ふ、一句を續(つ)げ。
----以上引用-------------------
誰かが誰かを大力量の人だと見ています。
どの世界でもそういった期待を無責任に拡大している人はいます。
何かやってもらえれば後は用無しとなるひとたちのことです。賢者でも政治家でも聖人でも同じようなものです。
和尚は「俺もそうなのかい、やれやれ」と思っています。
立ち上がれ、は打倒、傀儡政権でも、おべっか使いでも、似非坊主でもいいのですが、この社会性を開示しますとたちまちに相対化され、誤解され、乖離した理解に至ります。
この公案とは何かをブログに書いたり他を読んだりすれば一目瞭然です。そこで本物かどうか火に投げ込んだり、痛棒を与えたりしても同じことです。
この公案を行為することに関連付ければ禅のまるで駄目なところが明かされてしまったということになりそうです。そこでどうしてもまた個人の次元に戻るしかない。
立ち上がる前に一応こういうことを言っておいたけど、誰もどうせ分かりゃしない、足を挙げて動き廻っている者たちは事の動きの中で攪拌され忙殺され物事を見ることができない。
禅坊主よ事を治め事を導く力量があるのに何故動かないのか、いつもの法話の威力を見せてほしいといわれても、事の中で騒いでいる連中は何が分かるというのだ。自分たちの分け前を嗅ぎ廻り探し回っているだけじゃないか。痛棒食らって火中の金の延べ棒を拾おうともしないじゃないか。
政治家なんかはわざわざ期待させることを言い、自分を大力量の人と見せようとする商売としている様なものですが、政治家にそういったことをさせるのが大衆というわけです。ここでは同じ日常行為を折半しています。
もしそういった社会に足を突っ込むと、一方では坊主が行動しない自己弁護にもなりそうです。
ここでは坊主が行動しない理由の一半をわれわれがもってあげました。ではもう一半はどこにあるのかといえば、俺は痛棒を持つ方だからなと山頂の陰気なお堂の中で真金ヲ識ラント要セバ、火裏ニ看ヨです。
請ふ、一句を續(つ)げ、後は頼むよとしか言えません。宗教人たちの限界です。
もともとそういった世界での人たちです。期待する方が間違っているのです。それでも一言何か指示する言葉を吐けないのでしょうか。いつまでも禅だとか仏、神だとかの世界に留まっている時代ではないのです。
不幸と悲嘆、不安と暗黒の日々が続く世の中です。心の持ちよう取り方を教えて数千年が経ちました。
すこしは反省してかと思えば、いつまでたっても座っているだけ、アーメンだけです。使用する言葉が難しければ難しいほど考えの内容が濃いと宣伝しています。
今日は興奮しているようだ。ドウドウ。
宗教人悟った者たちが動かない理由。
自分の本性と世界宇宙が同じであるとの自覚が前提となっている。
・宗教感情の世界がそのまま現象していくことが大事なことと思っている。
・得られたのは全体的な感情なので、自分の関心のある事柄探すことに精一杯。
・自分のテーマが見つかり取り敢えずそれを自分のものとするのに心が占められている。そこに集中したいと思っている。
・自分が悟りに導かれた事柄の表現化に苦労している。
・まずは自分の体験だけは固定し納めておきたい。
・その為他の材料事柄には手が出ず、自分を煮詰めるだけ。
・体得経験と自分を煮詰めることとその表現を追求する以外に自分を保証できない。
・悟り経験が一部であることを知ったが、全体性は未来への基本要求としている。
ということで忙しいらしいのです。
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無門関 二十一、雲門の尿(し)けつ
雲門に僧が問うた、「仏とは何ぞや」、門は即座に言った、「乾いた尿糞をかき回す棒のようなものだ」。
無門は言った、「家が貧しいと、毎日の生活が忙しく、記憶に残すことができない、何でもない糞掻き棒をして理屈を捏ね一派の主張をする。宗門の一派はどういえば興り、どういえば滅びるかは、そこを見れば分かるだろう」。
その一つ一つの行いの中にパッと走る光、火打ちで放った火花、これがどういうことかを知れば良いが、瞬きをしてそれを射ることを逃してしまったならば、気が付かないうちに終わってしまう。
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所謂、仏とは何ぞや、と問われて、理屈を捏ねて即答できなければ、後から言い足したところでそれは無駄なことだ。
常に真理を究明しながら、心の覚悟を決めていない限り、物事は気がつくところを気がつかないで過ぎ去ってしまう、ということです。
雲門、因ミニ僧問フ、如何ナルカ是レ仏。門云ク、乾屎蕨(棒、くさび)。
無門云ク、雲門謂ツベシ、家貧ニシテ素食ヲ弁じ難シ、事忙ウシテ草書スルニ及バズ、動(ヤヤ)モスレバ便チ屎[蕨]ヲ将チ来ッテ、門ヲササエ戸ヲ柱フ。仏法ノ興衰見ツ可シ。
頌ニ云ク、 閃電光、 撃石火。 眼(マナコ)ヲ貶得スレバ、 已ニ蹉過ス。
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無門関 十八、洞山の三斤
洞山和尚に僧が問うた、「如何なるか是れ仏」「仏とはどういうものか」、山曰く、「麻三斤」。
無門は言った、「洞山は蛤禅をしてしまった、洞山が悟ったことの全てを答えてしまったが、その全てとは何か、麻三斤でなくてはならなかった」。
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「大事なことは言葉ではなく、心で判るかどうかが問題なのでしょう。」という意見があります。
ここではその反対から解きましょう。
「大事なことは心ではなく、言葉で判るかどうかが問題なのでしょう。」とします。
質問には答えるわけですが、その対応は二つの方面からできます。
質問の出てきた先天性から、と、
質問の出てきた後天性からです。
通常は質問を後天現象として受け取ってしまいますから、仏といわれればそれに関する過去からの全ての知っている知りうる概念記憶判断がくっついてきます。答えも同様です。
答えは糞ベラでへらに関する全知識が沸き起こります。そして両者の対応関係を勘案してこうだと答え、本に書くことになり、それを読みます。そうしてなったのが仏は糞べらです。
解説は現象と現象をくっつき合わせその整合性を得る為に解釈を持ち込みます。そうするとそこから出てくるのは俺は知っているお前は知らない俺は一番の知識王だ賞金王だとなっていきます。坊主も他を区別する為無理難字を探し抽象用語で判った振りを繕います。
昔の事ですから一門の興亡にまでなるというものです。まあ、一族郎党がかかっているのですからはったりでも知ったか振りでも勝てばいいわけです。こういった伝統はいまでも続いていて素直に知らないと口が裂けても言いたくないわけです。その内年期がカバーするだろうです。
わたしなどは最初から知らない悟っていないと言ってありますから気楽なもんです。
さて後天現象として言葉を受け取ることは示しました。
そこからは賞金王が出てくるのですが、言葉ではなく心で、以心伝心で判ることが問題だなどともらえる賞金を無視するようなことをいいます。もちろんその解説が素敵ならいいのですが、言葉は大事でないと言ってあるので、言葉は心ではないからそれで許してもらおうという魂胆です。
修行僧が仏とは何ぞやと問いますが、問いに使用した仏という言葉は何でしょう。答えを聞く以前に知っている仏という言葉は何でしょう。内容を知らないのにどうして仏だとか何々だとか言えるのでしょうか。
仏とか何々とかの内容は知らないが、そういった言葉は知っていてその内容を知りたいというわけの判らない関係です。内容は知らないが言葉は知っている、だから言葉は心じゃないよ、心で判るとは別のことだ、大事なことは言葉ではないというのが、始めに引用してある人の意見です。、
呑気というか根っから以心伝心を信じていて、テレビもラジオも必要無いような言い方です。
僧が質問した時の仏という言葉と、答え聞いた時の糞べらという言葉を、僧の頭に置き直すとこうなります。仏の内容を知らないで仏という言葉を使用しているので、糞べらを具体的に知ってはいても、内容を知らないで糞べらという言葉を使用した僧の頭を想定します。こうしないと僧の言う仏と門の言う糞べらが対応しません。
ところが僧は、あるいはわれわれ読者は、具体的な糞べらを言葉だけの仏に対応させます。そうするともちろんここに混乱がおきます。
時代の古い話しですから糞べらもわれわれはもう知りません。そこで糞とへらを掛け合わしたイメージをつくります。具体的な内容から頭脳内に引っ込むわけです。そうするとここに内容のないイメージだけの仏もいることが判ります。イメージだけで話しているたわけ者がいるとわかります。
更にこのイメージの奥に引っ込むと、仏という言葉、糞という言葉、へらという言葉が用意されていてそこを出入りしていた、自分と相手、主と客、僧と和尚がいたことに気付きます。ここでは二人は、われわれは共通の言語規範の上に立っていることを確認します。
その言語規範は両者に共通ということを確認、話して聞いて分析総合して了解納得している両者がいることも知ります。
更に奥へ行けば、言語規範の一つ一つが同じことを知り、仏、糞へらで二人が結ばれていることも知ります。そしてわたしは仏でありわたしは糞べらであるとなっていきますが、後はご自由に。
この辺まで来れば綺麗とか汚いとかの分別を捨てよとか、人の役にたち邪魔にもならない仏のようなものだとか、自分もウンチだから仏と同じだ頑張れとかも、全部正解となるでしょう。現象次元で考えてはどうしても匂いが残っていますので、正解は遠慮したいところです。
頌ニ云ク、 閃電光、 撃石火。 現象以前の答えですから、匂いもなく当然全部正解でしょう。
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無門関 二十二、迦葉のせっ竿
ある時阿難が迦葉に尋ねた、「釈迦如来は、あなたに金襴の袈裟の他に何かを伝えましたか?」葉は答えて「阿難」、難は「ハイ」と答えた、葉は言った、「仏の説法所があると書いてある旗を立てている竿を倒しなさい」。
無門は言った、「霊山において迦葉に金襴の袈裟を授けると言って渡した、その本意は未だに廃れていないということをこの問答は示しているだろう、迦葉という一個人の愛弟子にだけでなく、人が人に語りかけることが仏の道がある。或いは仏の前の仏である毘婆子仏が説いた教えもこれ以外にない」。
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仏が阿難と呼びかけて「ハイ」と答えるのは、無限の教えを説いている。ただ名を呼んだだけだが、一人一人への呼びかけは宇宙に呼びかけているに等しい、人はそれを自覚していないだけのことだ。
「ハイ」と答えられるのは仏の本性だ、言霊の学問で説明したら直ぐ分かる。アとワ、主体と客体ですから。
迦葉、因みに阿難(あなん)問うて云く、「世尊、金襴(きんらん)の袈裟を伝うるの外、別に何物をか伝う」。
葉、喚んで云く、「阿難」。
難、応諾す。
葉云く、「門前の刹竿(せつかん)を倒却著(とうきゃくじゃく)せよ」。
無門曰く、「若し者裏(しゃり)に向かって一転語を下し得て親切ならば、便ち 霊山(りょうぜん)の一会、儼然(げんぜん)として未だ散ぜざることを見ん。其れ或いは未だ然らずんば、毘婆尸仏(びばしぶつ)、早くより心を留むるも、直に而今(いま)に至るまで妙を得ず」。
頌に曰く
問処は答処(たっしょ)の親しきに何如(いかん)、幾人か此に於いて眼(まなこ)に筋を生ず。兄呼べば弟応じて家醜(かしゅう)を揚ぐ、陰陽に属せず別に是れ春。
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何億万年前から同じことが伝えられてきたという。
途中でワンクッション入るので立場が変わったのかと思った。年配の方の「それはなー何々さんよ」という感じで受けていた。ではこのワンクッションも電光石火ツーカーの連続とするとどうなるのか。
毘婆尸仏というやたらと古い仏がでてきますが、インド式のはったりを中国は真似たのでしょうか。みんなが幸せ豊かになれるのなら物質的にも精神的にもさっさとあげ与えてしまえばいいものをと思うけれどそうはいかない。何億年もお預けを喰らう。そんなに長い年月が経つと今ここに真実がでてきても無感覚になってしまう。それにもかかわらずツーカーを要求するなんていい気なもんだ。
問いは袈裟の他に伝授されたものはあるか、で、その先にある答えは竿を倒せです。閉店店仕舞いの事ですが、阿難の問いから閉店までには全世界、全衆生が含まれ、これを代表して中途に立っている阿難に、ナアー阿難さんよ、といっています。
その途中に阿難もいるのですから、袈裟以外の伝授されたものも阿難にもあるよということになります。
つまり、迦葉は答えを呼びかけで答えて、阿難の返事を引き出しています。伝えるものは伝え、伝えられたものは答えとして返ってきました。
それに気が付けばいつまでも竿を立てて置く事もなかろうというものです。
というように中間物にかこつけて、中間も終りも同じ事だと示しました。
いわば不立文字、以心伝心は直接ではない事を示したものです。六則の世尊拈花もわざわざ花をひねっています。その中間の行為、中間を介在媒介する言葉が無ければ伝わらないのです。それなのに不立文字以心伝心というわけですが、これは中間を説明する言葉を持っていないからです。
誰でも少し考えれば不立文字は必ず何かの物象的なものの介在がある事に気付きます。その物象に係わる事によって心が伝心していきます。そこでまた再度また言葉に現さないというだけで、頭に伝えられたものは物凄い超スピードで一塊の言葉が駆けめぐる形で了解しています。
え、うぬ、なに、分かった、と手を打つ時、うぬ、の中にはその後言葉になる全体が一塊の形で瞬時に形成されてるのです。ですのでそれを忘れない様に追っていくので、後から言葉を作っているのではありません。
これは音楽でのモーツァルトの例でも同じで、彼の場合は瞬時に全曲を聴いてしまうので、後は訂正のない譜面がそのまま出来上がってしまうのです。
つまり禅をやっている人にはまだモーツァルトに匹敵する様な言葉の塊をまず喋り聴き納得了解するという一瞬の経験をしていても、それを書き示す者がまだいないということです。
実際はいるかもしれずわたしの知らないだけのことかもしれません。しかし、もしいるとすれば大和言葉、日本語を喋る人にしかそれは可能ではありません。
精神と言葉は一致しなければならず、中国語やインド語にはそれだけの精神と言語規範の一致した体系がないからです。日本でも大和日本語を扱う禅者が言葉は重要でない以心伝心だなどといっている状態です。
インド中国語では現せない言語体系でしかないものをそのまま信じて大和に当てはめているのです。have,haven,avoir、ある、 英独仏日等「ある」という感じを受けることを現すのに「ア」が使用されています。「あ」は国際語です。
これは人の意識において共通なことです。「ある」という感じが偉大なものに達する時には、アーメン、阿弥陀、アッラー、等やはり「ア」が用いられています。大和言葉はこの意識と表現が全言語体系において徹底して作られた人造語なのです。その原理が言霊フトマニでその原理の創造継承者が今で言う天皇というだけのことです。
この公案は珍しく問いと答えの間に中間を設定しています。「阿難よ。」「はい」
大和日本語の宣伝は置いといて、禅、公案にはこの中間にある事に対する考察はなく、以心伝心で連結されていて、それ以上の説明はなくそれが禅だという形になっています。
問題は体得することですから、言霊では説明できるといおうと以心伝心だといおうと、いいあうことではないので、関心のある方は言霊学の父韻の項目を見てください。
中間に「、阿難よ、はい」、が入ることは、そこに何でも入ること、世界がはいることになりますが、例外はあります。出来上がった物とその知識概念です。呼びかける行為をしている、返事をしてる聞いている確かめている納得している生きている働きがないものは、意味がありません。釈迦は花を示したのではなく、ひねってひねる行為を示したのです。
ここに問いの応答、返事の応答が持続していればそこにはまた世界も持続しています。庭先に旗が立っているだけというならば意味がないのです。
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無門関 二十三、不思善悪・善悪を問わず
六祖が逃げている時に兄弟子の明に追いつかれる。六祖は師匠の衣を投げ捨てて、「この衣は信仰の正しさを表わす。これをどうしても欲しいとおっしゃるなら、争うことは出来ません。あなたが欲しいのならどうぞ持って行ってください」。
明が持ち去ろうとすると、問答で負けた事実があるから、衣を持ち去ったところで事実はいがめないので山の如くに重く持てない。そこで明は躊躇してしまった。明は祖に「私は寺に仏法を求めに来た、衣欲しさに来た訳ではない」。「願はくは、その消息を説いてみよ」。
六祖は言った、「善悪で判断しようとするなら、あなたの本来の面目とは何なのでしょうか?」その途端に明は大悟して、汗をタラタラ流し、ひれ伏して涙し、「今の教えの裏に深い意味はあるのでしょうか?」と問い返した。祖は答えて、「私が貴方に説いたことは真理ではない、よくよく自分の面目を反省するならば、けっして表には出ない真理は、貴方の心の中にちゃんと表れているのではないでしょうか」。
明は言った、「私は黄梅和尚の所に来て、大勢の皆さんと共にお寺の風習に従い、勉強をしておりましたが、自分の面目を観れずにおりました。今、あなたに指差すように教えていただいたお陰で、水は冷たく、火は暖かい、そのごく当たり前の真理を知ることが出来ました。師は六祖、あなたです」。
祖は言った、「もし、そのように思われるのでしたら、貴方と私は黄梅和尚の弟子として修行していこうではありませんか、和尚をよくよく敬いましょう」。
無門は言った、「この話は旧家より出で、分かりきったことをこと細かく説明したようなものだ。喩えばレイシの核を取り去って、わざわざ口に放り込んでやって、後は飲み下すことだけのこと、これでは問答をなさないではないか」。
頌曰く、「分かろうとすることを止めよ、捜したってない、その一瞬一瞬に顕れていることなのだから、世界が壊死ても宇宙は死なず」。
*
この話は前があって、黄梅の寺を誰が継ぐか、明上座は上位、六祖は下位の僧だった。黄梅は六祖に継がせようとして、身の危険があるから逃げろと言った、そういう話がある、私の記憶違いかもしれませんけど。
ただ空なるもの、真理を色んな言葉で説明する、逃げた経緯を知らない人にとって何の話か分かりませんよ、この公案は。お坊さんにとっては常識なんですけど。
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無門日く、六祖謂つべし、是の事は急家より出でて老婆心切なりと、譬えば新れいしの、殻を剥ぎ了り、核を去り了って汝が口裏に送在して、只だ汝が嚥一嚥せんことを要するが如し。
じゅに日く、描けども成らず描けども就らず、賛するも及ばず生受することを休めよ。本来の面目蔵するに処没し、世界壊する時もかれは朽ちず。
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最初の印象はなんてケチな連中を集めて禅集団を構えていることか、ということでした。
袈裟の取り合いです。
命まで狙われるというのですから。
袈裟が重いとかもっと教えろとか仏教修行のイメージからすれば漫画映画です。
そんな集団からもらった衣鉢から本来の面目の話しに持っていくのもどうかと思ってしまう。
事実あった話なのだろう。集団、共同体、社会にはよくある事だが、宗教社会では個人の面目で終わってしまう。現実の動きではあくまで衣鉢を得て維持しなくてはならない。
数千年間三種の神器を守り通している方もいるのに、さっさと持って行ってもいいよでは、個人の面目もその程度のものだろう。また失われた三種の神宝を探し続けている民族もある。
不立文字も以心伝心も必ず何らかの物象、物質的媒介を伴うのを隠して個人次元から出ようとしないのが悟り、宗教ですが教団を構えてまでもなお隠そうとしています。
何故かといえばことは簡単で、知識概念記憶による精神機能を超えたと思っているからです。確かにその通りでそれを目指しているのですが、人間性能を理性知識が最高とする間違いにしがみついていたいがためです。
知性理性を超えて得たものですからそれはそう簡単ではなく、滅多なことでは得られない貴重な経験ですが、お釈迦さんが悟りの境地以上を話さないことをいいことに、悟りを人間最高の境地にしてしまったことから起きたことです。悟ってもいない者に悟り以上の境地を話す話し相手となるわけがない、教団の連中は自分のことを棚に上げて当然のことを無視したからです。
衣鉢など最初から持って出なければいいのですが、教団としての象徴となっていますから社会的な確執が起きます。二十三則はそれを個人の次元で解決していますが、やはり教団の象徴として引きずっていきます。
袈裟は私有物にもなりそうもないボロ雑巾を縫いつくろったものからきているといいますが、その象徴には内容が無いので金ぴかぴかの袈裟もあるようです。
ところが数千年間護り、あるいは探し続けられている象徴は意識の原理を現したものですから変化、改造改作のしようがありません。
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無門関 二十四、離却語言
風穴和尚に僧が問うた、「語と黙とは気の出入りである。語(出)は微妙繊細にるべく、入(黙)は離脱懸脱したものでなければならない。出ずる霊気に穢れなく、入る霊気に犯されず、出入の主観、客観に矛盾齟齬なからんがために如何にしたらよいか」。
*
語黙は禅定と説法、どこかの詩を引用しているので、普通の人にはさっぱり分かりません。離と微の意味不明です。禅坊主なら知っている前提の公案、分かっても意味がない。禅が途中の修行だからこういうことになる。
眼を閉じた心象世界と眼を開けた現象世界とがぴったりと矛盾なく一致して、表裏一体不二となるのかを公案とした。仏教に限らず宗教では、仏や神の教えを説いているのであって、真理を説いているのではない、これは永久の公案であって、宗教観では容易に釈(と)けない。
----次も引用です。----------
風穴和尚、因ミニ僧問フ、
語黙ハ離微ニ渉ル、如何ガ不犯ヲ通ゼン。穴云ク、長(トコシナ)ヘニ憶フ江南三月ノ裏、鷓鴣啼ク処百花香シ。
風穴延沼(ふううけつえんしょう)和尚が、ある時、機縁の中で、ある衒学的な僧に、
「僧肇(そうじょう)はその著『宝蔵論』の離微体浄品第二で『其れ入れるときは離、其れ出づるときは微』『謂ひつべし、本浄の体(てい)、離微なりと。入るに拠るが故に離と名づけ、用(ゆう)に約するが故に微と名づく。混じて一と為す』とありますが、これは、全一なる絶対的実存の本質であるところのものが『離』であり、その『離』が無限に働くところの多様な現象の様態なるものが『微』である、ということを述べております。さて、本来の清浄な真実(まこと)というものの存在は、この『離』と『微』とが渾然と一体になったものであるわけですが、しかし乍ら、ここに於いて、本来の清浄な真実について、『語ること』を以ってすれば、それは『微』に陥ることとなり、また、逆に、それを避けるために『沈黙すること』を以ってすれば、今度は『離』に陥ってしまうこととなります。では一体、どのようにしたら、そのような過ちを犯すことなくいられるのでしょうか?」
と問われた。
風穴和尚に、ある時一人の僧が問いました、
「語も黙も離・微(り・び)の相対、実在の半面しか示すことができません。
語っても黙しても、実在そのものに通じるにはどうすればよいのでしょうか」
離・微とは仏教的世界観を説く言葉で、
「離」は、一切の言葉による区分を離れて平等の一なる地平に帰すること。
「微」は、その一なる地平から無限にはたらく現象の多様性を言います。
この僧は、
言葉を使っても沈黙するがごとく、沈黙しても言葉を使うがごとく、
平等の一なる地平にありながら、区別の言葉を生かすところの境地を質問したわけです。
私たちは、うかうかすると言葉を使っているつもりで言葉に使われてしまいます。
言葉で名辞された世界を実在のリアルな生と取り違えてとらわれ、
あれこれの思いに思いをかさねて迷うのです。
文明人とは、言葉により構築された幻想の価値体系の世界にとりこまれて迷っている
「さまよえる子羊」かもしれません。
「迷う」というのは「思いの世界で迷う」のであって、前後際断して思いを断ち切れば
迷いは吹っ切れ大地に帰し、自然児の原初の生命力がよみがえります。
このように、言葉による思いの迷いの世界に取りこまれず、原初の一なる地平から離れないで、
しかも自由に言葉を使うところの境地をこの僧は問うたわけです。
ところで、禅で「いまここが人生の本番」といっても、
時間・空間に限定された「いまここ」の一点だけに生きよというのではありません。
「いまここ」の生に成りきり徹底することで、「いまここ」の底を破り、時空を越えた
永遠の生に踊りでよというのです。
ですから、過去を憶い未来を想い、また想像の世界に飛翔することは、
「いまここ」を基点としながら時空を越えた命の広がりを感得することです。
風穴和尚が吟じた
「長えに憶う」の「憶う」には、原初の一なる世界の騰々たるエネルギーが感じられます。
原初の一なる世界から言葉が出され、その言葉がまた一なる世界に溶けこんでゆく、
素晴らしい境地です。
風穴和尚は、あるとき僧に、「ことばも沈黙も、所詮は実在の反面しか示すことが できないのですが、語っても黙しても実在そのものに通じるにはどうすればよいので しょうか」と尋ねられ、「いつも懐しく憶い出すのだが、江南は春三月ともなると、 鷓鴣が鳴き、百花が咲き乱れるのだ」 という杜甫の詩をもって答えられた。)
< 語れば“語るに落ち”、黙すれば“思いに沈む”>
さてどうすれば、語黙に通じつつ (つまりこれらを否定しないで)、
不犯なる処 (偏見に陥らない処・実在に抵触しない処)、
に通じることが出来るだろうか。
無門云ク、風穴、機、掣電ノ如ク、路ヲ得テ便チ行ク。争奈(イカン)セン前人ノ舌頭ニ坐シテ断ゼザルコトヲ。若シ這裏ニ向ッテ見得シテ親切ナラバ、自ラ出身ノ路アラン。且ク語言三味ヲ離却シテ、一句ヲ道ヒ将チ来レ。
頌に云く、
風骨ノ句ヲ露ハサズ、
未ダ語ラザルニ先ズ分付ス。
歩ヲ進メテ口喃喃、
知ンヌ君ガ大イニ措クコト罔キヲ。
----以上引用-----------
こんなに難しく、殆ど省略した形でしか示せないのは、何か寂しい気がします。それでもガツンと分かる時には分かるのが禅だと言うらしいですが、坊さんたちの解を見ていると照れているのか恥ずかしがっているのか教育上の配慮か尻切れとんぼです。もちろん人のせいにしないで黙れという声も聞こえています。
今回感じることは、言葉に対する不信感です。不立文字をそのまま神さんのように崇めていることです。
悟っても言葉による表現ができないじれったさでなく、言葉にしないで隠しおおせる安心感を持っている感じです。
悟っていない理解していない者はこんなことまで言ってしまいます。すみませんね。
さて、いつも通り今回も分かりません。
坊さんは語っても黙っても通じる都合のよい方法を求めているようです。
そこで、歌うのはどうか、こころ浮き浮きじゃないかね、というようなことらしいです。ハミングでは駄目ですよ、必ず言葉で歌わなくては。
それにしても言葉にして説明すると本質を失うと心底信じているように思える解説には寒けを感じます。
不立文字という言い伝えが絶対神になっています。不立文字は単に知識理性の次元では文字で現せないというだけです。自分を現し人に伝えるには文字の世界だけではありませんが、不立文字を絶対者にするまでもないことです。
今回の公案は頓智の一休さんによる解としておきます。
このハシ渡るな。ラーララーラーラ。
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無門関 二十五、三座の説法
仰山が夢で弥勒の所へ行って、第三座に就かされた。「尊者があって槌を打って云った。本日は第三座の説法に当たる」。そこで仰山は白槌を打って云った。「大乗の法は、一、異(多)、有、無の四句を離れ、またその変化展開である九十六(百)の非を絶やしたものである、心して聞け、聞け」。
無門は云った、「説法したとか、説法しなかったとか言えば、道理は消えてしまう、かといって、黙っておれば、道から反れる。口を開いても閉じても、百非どころではない。自覚の上で観れば白日青天、夢物語として飛んでもないことを語った、聴衆をごまかしてズルイぞ、ズルイぞ」。
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訳が分からないことを論って、弄んでいる、兜卒天というのはお釈迦様の甥に当たる、ある時、釈迦を斬り、寄せ付けないようにしていたが、釈迦の予言で、五十六億七千万年後に生まれ変わって、この世に下生して衆生を済度すると云われた。
弥勒菩薩は物質科学文明の神様の名前、須佐の男命の仏教名。567を足すと18、369を足すと18、それは666、言霊の原理からすると数霊で6の二乗となった6の時にこの世の中が変る。
6を数として捉えたら、何のことか分かりないでしょうけど、百音図の中の6に当てはまる、6の二乗+8の二乗は10の二乗で100となって、新しい世の中に変る。三貴子が力を発揮する。
言霊の原理で現象を数で表わす時、それが数霊、キリスト教では神の数と云われている。考えるという概念的数字、言霊と数霊の関係が分かってきますと式が成り立つ。論争すると6×6にならない。
外の考え方が6×6、この思考は今ここでないと発想出来ない、考え込んでしまうと出来ない。自分の今ここは6か8か10で判断しているのかが分かる、自分が分かることは相手のことも分かる、どちらかが独立していて働いているわけではない。
各次元で動くことは父韻ですが、動き方、時処位を決める、それを選べる人になれば自由自在に次元を行き来できる。音図は鑑ですから、あくまでも。音図だけを見たところで何も出てこない。
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ここに云う摩訶衍の法とは、どうやら中国禅宗布教の僧大乗和尚に由来する法のようであるが、注釈に拠ると「一異有無の四句にそれぞれ四句を含んで十六句、これが過去現在未来の三時に亘るので四十八句、更に未起と已起に分けて九十六句、元の四句を加えて百句。百非はその否定」とある。更に注釈では「一切の思考表現の否定」と付け加えているが、実には斯かる百句に相応する種種の思考活動を更に上方に出過した観察眼にも相応する仏眼から認識された知が百非と云われるものの正体である。従って「百非を絶す」を知る者は、所謂「摩訶止観」の根本智を開いたことになるのである。
----以上引用---------
分けの分からない公案です。分けの分からないままにしておきましょう。
分けの分からないというのは修行者側にいるからですが、分けの分かってしまった例をあげておきます。日常の普通のことです。
始めての訪問地へは到達までに非常に長い時間を感じます。しかし、二回目三回目には途中でお土産を買ったり気に入った店を覗いたり時間調整ができます。
子供と一緒にゲームなどをやると先がすでに読めて子供の負けがはっきり分かり、子供を勝たす為に分からない様にインチキができます。
この例はなれ、習慣、繰り返しからくるものですが、悟りも似た様なところがあり、知性知識次元の慣れを変換するところにあります。
その教えは到達までのことですから、どうしてあげるというようなことがなく次元の低いもので、日常生活では人との繋がりの中で必ずどうしてあげられるかが考慮されますが、個人行の禅の世界にはそういった社会性、道徳性、政治性はありません。
そこで猫を切ったり指を落としたりひっぱたいたりすることが平気でできるわけです。
そういった意識構造に文句を言っても始まらないので、禅そのものを越え、宗教そのものを越えて行けばいいのです。
禅の悟りが日常いくらでも転がっているということは、それを越えることも幾らでもころがっていることで、上に少し例を示したものです。
禅はいい大人が理性知性を相手にその意識習慣を修行によって越えようとするものですが、日常知らず知らずのうちにやっていることでも、いざ、始めてみると一生の仕事となります。気付かなければなりませんが気付いて始めると一生悟れないこともありますが、気が付かないでいるとすべてが悟りのなかにあるという分けの分からない関係の中にあります。
宗教、禅はこの一生かかる方面を大げさに取り上げているだけで、日常茶飯時の悟りは隠されています。
繰り返しや慣れを悟りにしてしまうのはおかしいという方もいるでしょう。しかし箸の持ち方茶碗の取り上げ方も訓練されるという宗派もあるそうですよ。慣れにしても理性知識の枠を越えて修得されるものですから悟りを得ることと同じ構造にあります。
公案は一つ一つの事例を扱うようになっていて、同じ質問でもことが別々のように感じ迷うところですが、わざとそういう造りにしてあるのです。
そこで全体から見ると、頓智の一休さんのように解けることがあり、また、禅の次元には無い、それでは質問者にどうしてあげるのかと社会的連帯性を築く様にすると解けることもあり、道徳心から行為するようにすれば解けることもあります。一番難しい知的にしか考えられない様に仕向けられているものは知性的な解を放棄してポカンとすれば解けることもあります。
ポカンとするのが格好悪いのなら自分のする行為を勝手にこうだと決めてしまえばそれが解になります。
知的な葛藤選択に困っているなら、次元を落として肉体欲望単なるしたい欲しい次元に行ってしまえば解答になることもあります。
和尚の同意を得られないだろう法螺吹き話しにしても解となり、実際に体験したことから得られた感情をかたってもいいでしょう。
無門らはプロとして手持ちの駒が少々多いというだけで同じである必要はありません。
中国インド式でわざわざ難しいことを言っていますが、自業自得で知識の後継者が無くなってしまいそうです。もちろん知識など役立たずと千年以上も言ってきたのですからそうなるでしょう。
三座の説法でした。
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無門関 二十六、二僧、簾を巻く
清涼の大法眼の所に二僧が来た、簾を指すと二僧が簾を巻いた、「一人は禅を心得ている、一人はしからず」。
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簾を象徴しているもの、巻き上げれば空相、幕下ろせば実相、ということも出来ますが、何が言いたいのかを考えれば一生かかってしまう。
「くだらない」ということですな、和尚がそう云ったのならそうなんだろうって。みんなひっかかる、大法眼が何をして言ったのだから、何かが違うのだろう、というだけの話。
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清涼ノ大法眼、因ミニ僧、齋前ニ上參ス。眼手ヲ以テ簾ヲ指ス。時ニ二僧有リ、同ジク去ッテ簾ヲ巻ク。眼曰ク、「一得一失」。
無門曰く、且く道え、是れ誰か得、誰か失。若し者裏に向かって一隻眼(いっせきげん)を著(つ)け得ば、便ち清涼国師敗闕(はいけつ)の処を知らん。かくの如くなりと雖然も、切に忌む得失裏に向かって商量することを」。
無門いわく 「いますぐなにか言ってみなさい、これは誰が得て誰が失ったのか。もしこのことに対して仏の一隻眼を使ってその真意を見ることができれば、清涼國師のどこが至らなかったのかもすぐにわかることでしょう (敗闕の處を知らん)。こんなことではあるけれど、目の前の出来事に得失があるかと計算するのは切に忌ましめるべきことなのです (得失裏に向って商量する)。」
頌に曰く
巻起(けんき)すれば明明として太空(たいくう)に徹す、太空すら猶お末だ吾宗に合(かな)わず。争(いか)でか似(し)かん空(くう)より都(すべ)て放下して、綿綿密密、風を通ぜざらんには。
-----ここまで引用--------------
清涼和尚は、自分の心を推し量って、指示に至った心に同調して簾を巻き上げた弟子に同意し、単に指し示されたことをやっただけの弟子にはまだ心構えが出来ていないと言った。
そこで無門は言った、おい清涼さん、二人の弟子に違った心持ちを与えたのはあなた自身ではないのかね、それを棚に上げて褒めたりけなしたりはないだろう。明るい空に何の文句があるのかね。
実は清涼和尚の本当の意図は屁をたれたので簾をあげてもらうことだったのですが、一人は光を得る為とし、一人は指先にあった簾に眼が行っただけでした。
和尚は自分の意図したことと指示と簾の関係を弟子がいた手前捏造したのです。一方をよし、他方は駄目としました。
または簾の向こうは庭で空がありますから、和尚は庭に来た鳥を指したのかもしれず、簾を上げれば空となる空相を示したのかもしれません。一人は空を見上げながら、他方は巻かれていく簾の大きくなっていく姿を見て実相を感じていたかもしれません。
要するに「 何が言いたいのかを考えれば一生かかってしまう。」ものです。
言い替えれば、「 くだらないということですな、」
誰でもが知っている限りの解説を加え、知力を尽くして分かろうとします。
そういった馬鹿らしさを言ったものでしょうか。
和尚の指示から始まった因縁因果縁起に得失を思うことの非をついたものですか。
こうしてわたしも無い知識から概念を並べていくことになります。
指示した指先に延びた爪を見たり、暖簾を見たり、空を見たりします。脇下がかゆくて腕を上げただけのことを下っぱ僧侶、官僚が勝手な解釈をするということでもあります。
無門関には多くの登場人物がいて、それぞれ悟りの内容を語りますが、それぞれの和尚の教えを聞くもので真理を聞いているわけではありません。釈迦も出てきて語りますが釈迦の教えであって真理を語ったものではありません。仏教としてまとめられてはいても仏教の教えで真理を語ったものではなく、これは他の宗教でも同様です。
無門関は教えの集成ではあっても真理の集成ではなく、ねこを切り指を落とすというのは滑稽です。
教えた和尚たちは自分の教えを真理とは言ったことはなく、教えを真理と思い込むのは下っ端の勝手です。
教えが真理と思い込み思い込ませるにはそれなりの理由と過程があるでしょう。
別に仏教だ宗教だと言わなくとも、自分の思い考えが真理だとしてしまうのは普通のことです。言葉の使用や表現することはそのまま自分の真実性を語ることでもあり、何だかんだこね回して作っているブログも本人にすれば真理の砂の一粒を手にしたつもりでいます。
自分の思うことを正しいとする過程を作ってみましょう。これは嘘をつくことも嘘には小さな真実を核にしているということと同時に、嘘をつくことが正しいことだと思いつている心の構造があるからで、それを取り上げてみます。清涼、無門、釈迦もそれなりの教えを語っていて、それが真理であるかどうかに関係なく、自分には納得されているつまり自分には正しいと思えている心の構造です。
それは他人から客観性から誰でもが間違いと思えることであるのに、当の本人には極真面目に通用していて、他からの批判判断には耳も貸さない、構造でもあります。
自分で思うことを語り書くなどということは普通のことですが、これがひと度社会に出ると、喧嘩の種、国際間の戦争の種にまでなるのです。社会の中で自分のものを自分のものとするのはまことにやっかいなものです。禅などにはそういった次元は無いのでいつまでも座っていられますが、その替わり手も足も引っ込んでしまいます。
自分の思うことが自分のものとなる当たり前のことですが、ここでは社会性を見ないで、単体の要素としてだけ見ていきます。そうしないと論議の中にはまってしまうからです。
禅では社会の中、社会の意見の中に入ることはなく、唯我独尊を固執していく教えですから、社会にとってのわれわれ人間集団にとっての真理なんて関心のないことなのです。
一対一で教えが伝わればいいことで、教えを社会的な真理として政治化道徳化することはできないのです。
意識の成長を得るとは。
この意識には人間の性能全部をひっくるめちゃいますからよろしく。
まず人間には意識の働きがありその性能を発揮できるという前提がいります。この前提がないと動きがとれません。
さてと、というところですが、実はこれでお終いです。
前提があるとした段階でもう全てが決まってしまいました。
詐欺みたいな話ですが、清涼和尚の前提、二弟子の前提、無門の前提、釈迦の前提、それぞれがありますから、別にもう言うことは無いのです。
手ヲ以テ簾ヲ指ス時の和尚の心の前提を和尚自身が語れないのですから、何をいっても無駄です。こういうことだろうという個人の見解に堕ちていくだけです。
それでもまだ無門関の最後まで行くにはおおくが残されていますから、ここの処の解説にうまくいきそうな例が出てきたら敷衍してみましょう。
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無門関 二十七、不是心仏
南泉和尚に僧が問うた、「あえて人のために説かない法はあるか」、泉が云った、「有る」。「人の為に説かない法とは如何なるものか」。泉は言った、「心でも、仏でもない、物でもない」。
無門は言った、「南泉は財産を使い果たしてしまった、本当のことを言ってしまうと、親切はいけない。言ったところで分かろうとするのはいいけれど、悟らしたらいけない」。
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だから、人の為に説かない法はあるか?と聞かれたら、「無い」と答えれば、いくら説いたところで、何が心で、何が仏で、何が物で、なんて答えられない。当たり前だけど真実を言ってしまった。
これ以上は聞けなくなる、聞けば「馬鹿」と言われてしまう。丁寧に教えると徳になるが、無言であれば修行になる。
空なんてものはいくら話しても、説けば説くほど分からなくなる。でも、本当のこと。これを言霊で謂えば、一番やさしいこと。中途半端な初めもなく終わりもない宗教ですから、気の毒なんです。結論がない学問をどうやって教えるのか。
二十七 心仏にあらず
南泉和尚、因みに僧問うて云く、「還って人の与(た)めに説かざる底(てい)の法ありや」。
泉云く、「有」。
僧云く、「如何なるか是れ人の与めに説かざる底の法」。
泉云く、「不是心(ふぜしん)、不是仏(ふぜぶつ)、不是物(ふぜもつ)」。
無門曰く、「南泉、者(こ)の一問を被(こうむ)って、直に得たり家私を揣尽(しじん)、郎当少なからざることを」。
頌に曰く
叮嚀(ていねい)は君徳を損す、無言真(まこと)に功有り。
任從(たと)い滄海は変ずるも、終(つい)に君が為に通ぜじ。
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こういうことです。
世界には日本一といわれるラーメン以上にもっとおいしいラーメンがあるか?。
無いといえばそんなものを探すことは止める。
有るといわれれば、麺か汁か具かそれとも何か、と果てしが無い。
言葉で示されないもの、心、仏、物でないもの、場、時間空間とか、いろいろ。
悟らす様に考えさせるのは、考えても悟れないことを知らせる為。知次元を出ろ、と。
まだあるよ、と本当のことをいってしまうのは手の内を見せてしまって終わらせること、これじゃ教育にならない。無いよといって分けの分からないこと付け加えておけば考えるだろうって。
黙って座れば競馬で儲けられる、これをすれば美人になれる、この薬を飲んでこれをすれば頭が良くなる、こういった類の欲望希望があったから歴史は進歩した。
座禅をすれば悟りが得られると乗せられた人も後を絶たずそれで講習会は儲かったわけです。これは欲望五感次元でのこと。
釈尊は自分の教えを教えていたのに、弟子たちは勝手に真理を教えられていると思い込んだ。教えが真理になって、真理が釈迦になって、釈迦は真理だからといまでも言い張る伝統が続いている。真理とされた教えを説明するため聖人と書き物が動員されていく。宇宙を全体を説明できる教えもあったのじゃないか、あるはずだろうとせっせと勉強しだす。これは知識記憶概念次元でのこと。
聖人の教えは役立つ有り難い心が救われる。こういうことがありますこうしなさい、こうすればこういういいこと、悟りの世界があります、わたしもありましたと聞かされる。そうあったものなら各時代のそれぞれの人にも現代の我々にもあるはず。悟りといいことはここにある。それを探し見つけ獲得保持し続けようとなる。これは感情で納得している次元でのこと。
修行者相手に各次元で有るといい無いということもできます。こうして歴史は動いていきます。
しかし宗教の真理が動かしたものではありません。
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無門関 二十八 久しく滝たんをしたう( 悟りとは ) ➀
徳山和尚が夜になって簾を巻いて出ようとしたら、外が真っ暗なので引き返って滝たんに言った、そうしましたら、滝たんが蝋を浸した紙燭に火を灯したのを持ってきて、これを「お持ちなさい」と渡した。
徳山が近寄ってきて、その紙燭をとろうとしたら、滝たんがその火に息を吹きかけて消してしまった。ここに来て悟るところがあったので深々と頭を下げた。滝たんは徳山に「何を悟ったのかね」と問うた。
徳山和尚曰く、「今日から貴方の言う言葉を決して疑いません」。翌日、滝たんは壇上で弟子達に、「人の心を牙で刺すような影響力を持ち、口は盆に血が滴り落ちようとも、逃げなく堂々としておれば、何時の日か徳山はその道の頂上にいて説法の道を究めるだろう」。
れい州の路上で点心を売っている婆さんに「貴方の車の中に入っている本は何が書かれているのかい?」と聞かれ、「金剛教の本だよ」と答えると、その婆さんが「このお経の本の中に、未来心不可得、見在心不可得、過去心不可得とあるが、どの境地で点心を買おうとしているのかい?」と聞かれた。
聞かれた徳山は口をへの字にして返答に困ってしまった。それでも負けてはいなかった。その質問は婆さんの考えではなかろうと、近所にどんな和尚がいるのかを問うた。
婆さんが言うには近くに滝たん和尚なる僧がいるらしい。そこで尋ねて行き、持論を得々と述べる徳山を哀れんで、「こいつは意気がって威張っている可哀想なやつだ」。
火を智恵に喩え、その炎が消えても授かった清々とした智恵ならば道に暗くとも迷うことはない。徳山はもともと理屈ぽかった。その理論は禅の真理ではないことに気がついた。理論の経本は必要ないと法堂の前で火を放ち焼いてしまった。
今までの理論は大きな宇宙摂理の中にあっては芥子粒にも当らないことを知って、自分が自慢していた全ての理論的概念の書かれている積んだ本を焼いた。
その前の徳山は心が沸きかえっているように盛んで言葉に力があった。仏教は教えの他に真理があると聞くと猛烈な決意と熱心さで以って、自分が説得して喋っている理論が正しいということを説いて歩いていた。
徳山が悟る火種を持っていると見抜いた滝たんはわざと紙燭の火を消してしまった、そうすると徳山のカッカッとした頭が鎮まった。その後、徳山は禅宗の一派を興した。
後の説明は分からなくて当たり前で、禅の文化の中に入らなければ分からないことだらけです。
名ヲ聞カンヨリハ面(オモテ)ヲ見ンニハ如ジ、
--名のついたものを聞いて認識するより、そのものを見て知るがましだ。
面ヲ見ンヨリハ名ヲ聞カンニ如カジ。
--そのものを見て知るより、名のついたものを聞いて(しっかり)認識する方がましだ。
鼻孔ヲ救イ得タリト雖モ、
--鼻だけが感覚として残ったとしても、
争奈(イカン)セン、眼晴ヲ瞎却スルコトヲ。
--目がよく見えなくなったら、どういう風な世の中ということになるのだろう。
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提灯の灯を消されて悟ったのではなく反省し気が付いた程度のことかもしれない。
わざわざ難しい文字の表現を好む仏教や禅の世界にいるのに本を焼くこともないだろう。
教本を焼いて文字を消し去っても、言葉による表現から逃れることなどできはしないのに。
よほど金剛経の言葉の解釈の世界とは違ったものを得たのでしょう。
お経には言葉を超えた教えや無、空の教えがあったでしょうに。理性とか知性とかがよほど気に入っていたようです。
文字表現が百害合って一利無しといっても、言葉を発しなくても、脳内の頭の中はことばの組み合わせでことが進行していくのです。体験体得禅の実践経験とかも、肉体感覚のようだとか、言葉を離れた了解というのは形だけのことで、その内実は一塊の一言では表現できない全体的な言葉を含んだ言葉なのです。
徳山は熱血漢なので、行き過ぎた行動をしてしまうのです。金剛経の知識をもって、そのために道場破りの旅に出たのでした。そこで、前夜にカッカとする自分の性格を指摘され灯を消されたのに、今日はすぐさままた燃え上がって本を焼いてしまうのです。無門は茶番だといっています。反省する癖を得たのはいいですが、短絡行為に突っ走ることを平気でするようになってしまいました。
知識を一本の髪の毛にし、一滴の滴にしていますが、確かにアッパーカットを喰らった衝撃の表現に止めておけばいいものをお経を燃やしてしまいます。子供が次々と新しいおもちゃに飛びつき、前のおもちゃで身についたものを無視していくようです。徳山はその後、ひっぱたきの徳山になったようで、言葉による表現を放棄したようです。
そういった態度は『 言葉にできない』を信仰している様な態度に映ります。そのくせ表現しなくてはならないし、とうとうその道を見いだせなかったのでしょう。
どのような芸術家も自分の表現を求めます。禅の世界は分かる分からないという世界を表現するすべを知らないのか、あまりにも単純な日常茶飯事なので、秘密にしておくために難しい表現を選んで自己撞着になっていったのでしょうか。
悟ったといわれるもの、気付かされたものの落とし所を自分では見いだせないようです。
結局、いつまでも棒をもって禅集団の中でしか生きられなかったのでしょう。
これも徳山の教えとなるものですが、真理とは言えません。
ところで、悟ったものを公案として、芸術感情を作品として、神との対話を祈りとして、等々として現しているともみられます。では得られたものは明白に自覚されているのに何故言葉による表現にならないのでしょうか。悟りにしろ宗教感情にしろ自覚的な目覚めは宇宙と自己を結びつけています。
ここを説明できれば悟りなどの山堂に閉じこもることもなくなるでしょう。
さあ誰かやってください。
悟りの解説よりも更に上の次元に立たなくては何も見えませんよ。ということでわたしが立候補すればいいのですが、そうもいきません。知ったかぶりしていい加減な処を提供してみましょう。
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無門関 二十八 久しく滝たんをしたう( 悟りとは ) ➁
提灯の灯を消されてそれを何故言葉にできないか。
潭便チ吹滅ス。山、此ニ於テ忽然トシテ省アリ。便チ作礼ス。
潭云く、子(ナンジ)箇ノ甚麼(ナニ)の道理ヲカ見ル。
山云ク、某甲(ソレガシ)今日ヨリ去ッテ天下ノ老和尚ノ舌頭ヲ疑ワズ。
日常生活では感情として分かり普通に了解する何でもないことですが、理性知識に凝り固まった徳山と知的に解そうとする頭には別次元のことと感じられています。
沈み込む夕陽を見てアーといっている分にはいいですが、その後一言口にすると状況はすっ飛んでいきます。
「今日ヨリ去ッテ」は金剛経の知解を放棄してでしょうが、その時に得られた自覚的な了解を説明する言葉を持てませんでした。
この場面は知識な理解という了解が、全体的に一気に与えられた感情的な了解になったところです。公案はこの二つのことを修行僧と和尚の関係、概念記憶知識と感情了解の関係として一つの話の中で語るもので、元々別のものをすり替えるというものです。
修行僧の観念知識次元を感情了解の次元に引き上げようとするものですが、次元を引き下げても同じ構造が成り立ちます。
算数の割り算の勉強の時間です。ここにどら焼が一個あります。二人で食べるにはという問題がでました。そこで生徒の一人が答えました。僕大好きなので全部食べますのでもう一つもってきてください。他の生徒は大きい方は僕が食べます。
これは公案と同じ構造で、逆の下の次元で、五感の欲望と概念知識を結んだものです。
欲望次元からの解には割り算の概念知識は下から見る限り不要になり、また欲を満たすことは抽象的な数字を理解できません。しかし割り算の概念知識から見れば生徒は正解を与えていません。
同様に、勉強した理性知性概念からでは、悟りの感情了解はできず、知識での了解は感情での了解に届きません。感情了解の次元からはどのような知的な解答説明も正解とはなりません。
これは徳山のように、あるいは他の例のように自覚的な感情了解の次元を獲得している時のことで、修行僧が悟りとは何かと考える次元のことではありません。その場合には幾らたっても理性的な理解を求めるというだけです。
さて徳山には悟りへのか理性的理解へのか徳山が動かされている仏教修行の意思があります。
ここでは全ての話が自分の関心事の方向に寄せ集められていきます。
瀧たんによる新しい話も自分の関心事の中にはいるようになりました。
関心事の方向が自分の中で煮詰まり選択する方向もでてきました。
徳山の精神内容が解脱に向かいそのようなものに自分を結びつけようとします。
毎日話を聴き自分の精神内容が動く方向があるようになりました。
ここで聞く話、得ることが自分の精神内容の向こうにある感じを得ています。
何も無いところに何かある感じを得てはいますが、未だ不明で得られるかどうかなど何も分かっていません。そんなことは意識もされていません。ただ自分の行為の持続感だけはあるでしょう。
これがあるとき本人が受けいれる受動的な持続感に変わります。悟りとか解脱とか神を見るとか光を見るとかいうものです。
ここでの受動的な持続感が、あるとき自覚されます。他所からやってきたものが自分を通過していくるです。この受動的な持続感が受けいれた全体が仏教では悟りといわれるものです。あるいは日常生活では単に感情を得ると言うだけのものから、感激感謝まであるでしょう。
こうして修行の意思の次元が目覚めます。意志は自分のものですが、他所からやってきて目覚めさせられたにもかかわらず、自分の意志となりましたから、他所からやってきたものも自分のものとなります。
そこで他所からやってきたものは自分であり、他所というのは自分以外の宇宙で、自分を取り巻く世界でということになり、自分は宇宙世界を自覚しているとなります。
ここでは目覚めされたにもかかわらず自覚的な自分のものとなる構造です。悟り、感情、宗教心はここから出発します。
自分に意思があって自分のものとなっても向こうから来たものですから、当初は分けの分からぬままそのままの形で受けいれていきます。
この時点では神の思し召しとなります。禅では空だ無だということから始まっていますから、空無の思し召しでしょう。
このまま先へ進めなければ空だ無だと繰り返すだけのさとりです。
しかし人それぞれ関心事興味環境がちがい各自のテーマが違いますから、それぞれ自分にぴったりと合うようなものに沿うことを始めます。
この時点では過去の知識と結ばれますから、教典を焼いちゃだめですよ。
このまま先へ進めなければよくあるワンテーマの繰り返しになります。
それは当然自分の生命をかけていけるように保持保存拡大発展させられます。
この時点では自分で自分を守る人格的なものが出てきて好きな方向へいくでしょう。
このまま先へ進めなければ、人格とか道徳的なものでカバーしていく人もいます。
自分の方向が拡大発展していけばそれに沿った表現が探されます。
この時点では言葉になるかパントマイムになるか、相手側に転化してしまうか、ひっぱたくか自己表現の選択が行われます。
このまま先へ進めなければ自己表現を諦めて、禅文化の様式に従うことになるでしょう。
(かっこ内で。禅の悟りはここ止まりです。その後は禅文化の様式、作法もありますからそれに従うでしょう。)
幸いに悟りの内容に表現が見つかれば、その表現を示していきます。
この時点ではその表現はどんな形になるかはその人によります。
このまま先へ進めなければ、悟りを得ても表現が見つからないことになります。
表現を示す禅の伝統に従うか座禅を続けるか沈思黙考にするか悟った内容をどうするかの選択領域に入ります。
この時点では多くの禅はその教えに従って不立文字や以心伝心に縛られていきます。
このまま先へ進めなければ、不立文字による禅らしい表現になるでしょう。
悟りの体験内容はあるけれどその表現が見つからず伝統に従うという表現になります。
あるいは元に戻り向こうから来たものを追い求めることもあるでしょう。
この時点では悟り内容の把握保持に全力がそそがれるでしょう。
このまま先へ進めなければ、忘却、萎え、萎縮に身を委ねることになります。
当初の体験を保持しその表現を自己内に確立できればいいのですが、とうめんは目標に留まります。
この時点では自分を鼓舞叱咤する基本要求として自分に突きつけられます。
しかしこのまま先へは進めません。
というのも感情、悟り、宗教心は他からやってきたものに自覚させられたものを、乗っ取って自分のものとしたからです。
主体的な自覚行動による見通されたものではありません。
この、悟り、宗教心の次元では努力目標を与えることはできても、結果は時の経過に委ねていくだけです。
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無門関 二十九 風に非ず、幡に非ず
六祖はある時、風が旗をたなびかせていた光景を二僧が見て、一人は「風が動いているから」と言い、一人は「旗が動いている」と言った。どちらの言い分も道理にかなわなかった。
「風が動いているのではない、旗が動いているのでもない、心が動いているのみ」と六祖は言った。動いている心から見れば何事も休んでいない、動かない境地から見れば何事も休んでいる。
お前たちが風だの旗だのと分けてしまっているから本質が見えない、動かない心、分けない心で物事を見れば、風でもない、旗でもない、同じ現象に過ぎない。動いている内は見えないぞ。
風が吹いたから旗めいた、旗が翻っているのは風が吹いているから、そのように現象を分けてしまっても何の意味もない。分けて分からないところを分けてしまった人間の心が間違っていた。
一つにすれば、何が動いているかは一目瞭然だろう。と同時に論争も起こらないだろう。
六祖、因ミニ風、刹幡ヲ揚グ。二僧有リ対論ス。一(ヒト)リハ云ク幡動くクト、一(ヒト)リハ云ク風動クト、往復シテ未ダ曾テ理ニ契ハズ、祖云ク、是レ風ノ動クニ非ズ、是レ幡ノ動クニアラズ、任者ガ心動クナリト。
二僧慄然タリ。
無門云ク、是レ風ノ動クニアラズ、是レ幡ノ動クニアラズ、是レ心ノ動クニアラズンバ、甚レノ処ニカ祖師ヲ見ン。若シ這裏ニ向ッテ見得シテ親切ナラバ、方ニ知ラン二僧ハ鉄ヲ買ッテ金ヲ得。祖師ハ忍俊不禁、一場ノ漏逗ナルコトヲ。
頌ニ曰ク 風幡心動、 一状ニ領過ス。 只口ヲ開クコトヲ知ッテ、 話墮(ワダ)スルコトヲ覺エズ。
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自然、物理現象に口出す僧達と六祖は共に間違っています。
しかし、意識の働きについてなら三人ともうんちくを傾けることができます。
自然現象に口出すのは五感感覚です。皮膚の圧感、温度差の差異感、視覚などが持ちだされて僧たちは議論したことでしょう。それは現に風を感じ旗を見ることが根拠となってるでしょう。
それに概念知識が加わり風とは旗とは動きとはが自説に都合よく整理分析されます。過去概念を現在に滑り込ませるのが知識による整理です。
そこへ六祖がきて、心が動くといって、その後無門の評が加わって五感知識の評と知識概念に終りを告げ、感情悟りの心の話になります。
旗と風に心が加わると違った次元層のことが混ぜ合わされることになってきます。話し合いの中では次元層のすり替えは自由です。
たなびく旗の向こうの山も動いているといったり、流れる河は止まっていると言ったりできます。心が動いたからといったり心が動いたのでもないといったりという具合になってしまいました。
心が動かしている、というのは、観念が物質世界を作ったという手前まで行きますが、動いている心から見れば、動かない境地から見ればということなら、観念論にはなりません。
いじょうの無門の評まではいずれも二僧の言い合いを知識として引き上げる方向での評ですが、実相を二僧が勝手に分割理解していることを旗を見る様に示すこともできます。糸くずを口で吹いてその動く様子を見せればいいのです。
強中弱の扇風機替わりのことをして糸の動きを見れば切っても切れない関係がわかるでしょう。
風の向き強さに心が捕らわれていれば旗の動きが気になり、晴れ上がった空に感心しているのなら風は気になりません。
風幡心動、一状に領過す。只だ口を開くことを知って、話墮することを覺えず。
と話し合いの輪に入ると話が堕すると相変わらず閉鎖社会の維持がうちだされています。
風の強弱風向で利害関係のあるのが現実社会ですから、話に加わってもらいたいところですが、現実は現実で悟りなど相手にしていません。がっちりとした自然科学の法則を打ち立てていきます。自然現象の認識には禅などかなうわけがありません。
そこに心を持ち込む六祖が悪いのです。物質界次元の話はそのものとして説明して上げればいいのですが、そうもいってられないと、生徒に教え込む分けですが、現実の学校でやれば馬鹿にされるものです。幸いに禅の学校だったので口出しが出来ただけです。
では禅の学校ではどう教えるかと言えば教えません。
二僧ハ鉄ヲ買ッテ金ヲ得で、鉄を売りつけてこれが金だというだけです。
しかしわたしのブログには砂金も金めっきもなく買えるような鉄さえないぞといわれるそうですね。もう少しがんばってみましょう。
今回を始める前に、主体的自覚行為から見れば どうなるかとおもって何か書けるかとおもっていましたが駄目でした。
その替わりとんでもない考えが思いつきました。これも一応人間性能のひとつですので書いておきましょうか。
どこかで読んだことですが、絵に描いた旗が風になびいていました。
どこかの少年は念力を使ってこの絵の旗の向きを変えたそうです。
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